阿久津は法定速度を守らず、車を走らせていた。一分一秒も無駄にすることが出来ない今。法など守っている場合ではないのだ。
「もっとスピード出せないのか」
「無茶言いうな。俺らが死ぬ」
目的地が山奥なせいか、道路を走ってる車の姿はなく、警察らしい車も一切見当たらなかった。
真夜中である事が功を奏したようだった。
暖房が効き始めた車内は暖かく、倉庫で冷えた体を癒した。
「それより、あれでよかったのか」
赤信号で車が止まった同時に阿久津が訊いてきた。
あれとは、きっとさっきの回し蹴りの事を言っているのだろう。
「あいつはプライドが高く、顔に自信がある男らしい。自分の長所としているところを侮辱されれば、誰だって傷つくし、心が痛むだろ。だからあれでいいんだ」
あいつにどれだけの批判的な言葉を浴びせようとも、無駄だ。ああいう人間は、心がない。
「おっかねー女」
「ふんっ。お前にだけは言われたくないな。なんだあのさっきの下手な芝居。天使にでもなったつもりか」
「客、相手にはいつもああなんだよ。やりたくなくとも、商売なんだから」
生き抜くために、やらなければならない事。
「仕方がない事も、あるんだものな……」
「……そうだな」
青信号に切り替わり、阿久津はアクセルを踏んだ。
神崎の別荘の位置は、阿久津の店のある個人データから場所を割り出した。違法クラブを経営するのは、当たり前にリスクのある事。特に一般客ではなく、神崎のように警察の官僚などを相手にする場合は、店側の情報が漏洩されないように、最善の注意を払わなければならない。阿久津は店の客には、名前や電話番号、自宅などだけではなく、普段、足を運ぶホテル、バー、レストランなど、くまなく把握するようにしている。別荘もその中の一つだ。
自分の地位を利用し、歯向かったり、脅してきた奴がいてもいいように、集めた個人データでもある。阿久津は用心深い男なのだ。
ナビはあと五分ほどで目的地に到着だと言っている。やっとの思いで辿り着いた、青星への道。梢子は下唇を噛みしめた。
梢子が願うのは、ただ青星が無事でいる事、ただ一つ――。
百メートルほど走った先で、阿久津は車を止めた。山の中に佇む別荘は、真夜中のせいか、異様な雰囲気を漂わせていた。
度ゲス野郎の別荘だ、キモくて当然だが、趣味の悪い所だな。
車を降りようとする梢子を阿久津が止めた。
「なんだ」
「神崎同様、憎いのは分かるが、殺すなよ」
「それ、私に言うか?」
梢子は阿久津の胸元あたりを見てそう言った。
「そいつを持っているお前が、勢いで一浪を殺さないことを願うよ」
阿久津は苦笑すると、「そうだったな」と言った。
履いていたフラットシューズを脱ぎ、足の指でドアを開けようとする梢子に対し、阿久津は紳士的な態度をとった。
「私にそういう扱いをしていいのは、青星だけだ」
「そう言わず、降りろ」
梢子は少し間、阿久津を見たが、すぐに靴を履き、車を降りた。
車のフロントガラスの前を通り、梢子の隣に並んだ阿久津。梢子は真っ直ぐに建物を見つめると、一度、阿久津を見た。その視線に気づき、阿久津も梢子を見た。
――絶対に救い出す。
二人は互いにそう言い合うと、別荘の敷地に足を踏み入れた。
神崎は監禁場所としてそこを貸してほしいと一浪に言われた言っていた。青星がいる場所は地下。その一択以外あり得なかった。
広い庭を歩くと、表玄関が見えてきた。阿久津がドアノブを回すと、鍵がかかっていた。阿久津は身に着けていた時計から細い針金のようなものを取り出すと、ドアノブの前に立ち膝になった。
「おいおい、ドラマじゃあるまいし、そんなんで開いたら警察の警備が廃るだろ」
梢子は開くわけがないと踏んでいたが、阿久津はいとも簡単に鍵を開けて見せたのだ。
――カチャッ。
小さくその音がすると、阿久津はどうだと言いたげな顔を梢子に向けてきた。
「マジかよ……」
ドアノブを回し中を覗くと、家の中は暗く静まり切っていた。中に入り長い廊下を進む。カーテンも閉まっておらず、月明かりが家の中を照らしていた。
壁に飾られる家族写真に映る神崎は、立派な夫、優しい父親だった。だがそれも偽りに過ぎない。
リビングと思われる広い空間を通り過ぎると、二階に続く階段と、下の続いている階段があった。
間違いないここだ。分かりやすい監禁部屋で助かった。おかげで探す手間が省けた。
阿久津は上着から拳銃を取り出すと、梢子を見て頷いた。梢子も頷き返し、梢子を前に、二人は地下へ続く階段を下りた。
扉の前に着き、中の様子を窺おうと、梢子はドアの奥に耳を澄ませた。
ダメだ。防音になっているんだ。中の様子は分からない……。
梢子は後ろに振り向き、数段階段を上がった先にいる阿久津に向け、首を横に振った。
阿久津は階段を降り終え、梢子の横に来ると、ドアを思いっきりガンッと叩いた。
「おい……!」
梢子が小声でそう言うと、阿久津は自分の口に人差し指を当てた。
反応を待ったが、特に何も起きない。
「間違いないな。お前の思っている通り、防音だ」
「それもかなりのな」
「こうやって、普通に話しても、俺たちの声は一切中には聞こえていない。青星にとっては、これが不幸な事だっただろうが、俺たちからしたらメリットでしかない。それに、どうやら一浪もこの中にいるらしい」
「ああ」
家の中でこんな大きな物音があっても、ここに誰かが来る様子はない。つまり、阿久津の言う通り、一浪もこの部屋の中にいるという事だ。
ここは地下。中がどういう状況なのか、分かるすべはない。青星を助けるには、正面突破しかないようだ。
阿久津はゆっくりと取っ手に触れた。少しだけ下に下げると、取っ手が動くのが分かった。ここに一浪もいる。二人はそう確信した。
「間宮」
「ああ、覚悟はとうに出来ている」
「死ぬなよ」
「お前もな」
梢子は笑みを浮かべ阿久津にそう言った。
阿久津は取っ手を下げ、扉を開いた――。
梢子と阿久津が部屋の中に入ると、そこには首を締め上げられている青星がいた。
一浪は二人に気づくと素早くポケットからナイフを取り出し、こちらに向けていた背を後ろにすると、青星の体を腕で固定するような態勢をとり、刃を青星の首筋に向けた。
「一浪……! 今すぐその手を離せっ……!!」
「そこから動くな。動いたらこいつの首を切り裂く……!」
青星の首に食い込む、ギリギリのところまでナイフを近づける一浪。
しかしこちらも、そんな事になるのは予想済みだ。
「お前がそのナイフで青星の首を切り裂くのと、俺がお前の心臓を打ち抜くの、どっちが速いと思う?」
阿久津は一浪に冷静に問いかけた。ぶれることなく拳銃を構え、鋭い眼光で一浪を見て。
「どうしてここが。絶対に分からないはずだ」
一浪は困惑しているようだった。
「うちのクラブにも警察の官僚がいるもんでな。店に来ていた事ばらすぞと脅したら、ここを教えてくれたってわけだ」
「まさか……」
「そう、そのまさかだ。お前が頼りにしてたあの官僚は、うちのお得意さんだ」
「そんな事、一言も……」
血の気が引いていく一浪の顔を見て、阿久津は失笑した。
「何がおかしい」
「タダで青星をものに出来ると思って、神崎のやろうは興奮しちまったみたいだな。警察のくせに詰めが甘いんだよ。あんたも簡単にあいつを信用しちゃいけねぇな。あいつらは、自分の保身を守るのが一番なんだ」
一浪の顔は、沸騰したやかんのように赤くなっていた。
「まあ俺は、そんな事はあんたが一番よく分かっていると思っていたがな?」
「っ……阿久津……」
一浪は悔しそうに唇を噛みしめていた。
阿久津が梢子側についたという事が、今回の一浪にとっての誤算となったわけだ。
「ゲス野郎目……お前は青星をドゲス野郎に売る事を条件に、協力を仰いだ。目撃証言がなかったのも車を手配させここまで移動したからだ。おまけにこんな場所まで用意させて……」
地下にあるそこは、窓も何もない、まさに監禁部屋と呼ぶのにふさわしかった。
無表情な顔を一ミリも変えることなく、一浪へ迫る梢子。その姿は、怒り狂った鬼のようだった。
「く、くるなぁぁぁぁあ……!!」
一浪は、恐怖からナイフを振り上げた。
だがその瞬間、阿久津がナイフを持っている方の一浪の手を撃ち抜いた。
――バンッ……!
「ぐあぁぁぁぁあ……!!」
悲痛なうめき声をあげなら、その場に崩れ落ちていった一浪。梢子は顔から倒れ落ちる青星の元へ駆けた。その駆けた勢いのまま、正座の姿勢をとり、コンクリートの上に滑り込んだ。
「っ……!」
間一髪のところで、梢子は青星を受け止めた。履いていたスカートは、ぼろぼろに破れ、コンクリートの床と皮膚が擦れ、膝からは血が出ていた。
「青星……!!」
すぐに青星に呼び掛けたが、青星の返事はない。
「青星しっかりしろ……!!」
うつぶせになっている青星の背中に梢子は耳を近づけ、鼓動に耳を澄ませた。
――……ドクンッドクンドクンッ。
確かに青星は生きている。だが梢子は安心出来なかった。
三日間。日にちにしてみれば短いその時間も、私にとっては一生に思えた。こいつの無事を確かめきれないこの三日、私は魂を削られたかのような思いだった。
ずっと夜だった私の世界。そこにお前と言う名の朝が来た。そして気づいた。私は、お前なしでは生きられないと。だってお前は私の、私の、
夜明けなのだから――。
「青星、目を開けてくれ……お前のいない人生なんて、考えられないんだ……」
青星の首筋に、梢子の涙が流れ落ちた。温かくて、優しい。でもどこか寂しいその涙は、ずっと人知れず流れていた。でも光と出逢い、それは日向の道を行くものとなった。この涙は青星の心に届くのか。いや、もうとっくに届いている。
「……しょう……こ……っ……」
「青星……!?」
青星はうっすらと目を開けると、体を仰向けにしようと、体を横に捻った。
もうろうした意識の中、青星は梢子の頬に手を伸ばした。梢子はその手に、自分の頬を摺り寄せた。
「なく、な……」
「青星……青星……」
「もう……どこにも……いかない、から……おまえを……ひとりになんて、しないから……だから、なくな……」
ああ、良かった。私の全てがここにある……。
「……泣いてなんて、いないさ。これは、汗だよ。お前を探すのに必死で、走ったから汗が出てきたんだ。知ってるだろ? 両腕がないやつが走ると、還暦を迎えたかのように疲れるんだって」
頬を緩ませ、冗談を言う梢子。その姿は、本来ある姿だった。
「安心して眠れ……次に目が覚める時、お前は温かなベッドの上、私のぬくもりを感じるんだ」
それを聞くと、青星は嬉しそうに頷いた。そしてそれを最後に、青星は目を閉じた。今度は、安心したように、とても穏やかな表情で。
「――おやすみ。私のシリウス……」
梢子は青星の額に唇を落とした。
眩しい光を感じ目を開けると、そこは真っ白な空間だった。冷たくも、寒くもない。暖かで、安心するぬくもりがある。右腕に重たいものを感じ、首を動かすと、そこには見覚えのある頭があった。
「梢子……」
酸素マスクをつけられた状態で、その名を呼ぶと、梢子はピクッと体を動かし、顔を上げた。
「……青星……??」
梢子は大きく目を見開き、青星の顔を覗き込んだ。
「青星……!!」
そして、目が覚めていると分かった青星に、梢子は抱きついた。
い、いたい……。
勢いよく抱きしめられたせいか、体が痛い。
梢子はしきりに、よかった。よかった。と繰り返していた。
「ここは……?」
「安心しろ、病院だ」
病院……そうか、俺はあの時、梢子の顔を見て安心して眠ってしまったんだ。
「お前、酷い脱水症状と栄養失調だったんだ」
左腕を見ると、点滴がされてあった。
三日間。食事はおろか、水も飲めていなかった青星の体は、限界を超えていたのだ。
運ばれていた際に行った検査に異常は見られず、二、三日様子を見て大丈夫そうだったら、退院して問題ないとの事だった。だが、筋力と免疫力が下がっているから、感染症などには十分に気をつけ、よく食べて、よく寝る事だと言われた。
梢子は「私の腕の見せ所が増えたな」と笑っていた。
あれは、夢だったんじゃないか。そう思えもしたが、俺は確かに父さんに監禁されていた。この状況が、それを表している。
食事が出来そうだったので、ちょうど昼食の時間帯を迎えていた病院食を食べる事に。首を絞められていたせいか、飲み込む時に少し喉が痛んだが、頑張って飲み込んだ。
その後、病室を訪れた警察の事情聴取を受けた。事細かに説明要する警察に、梢子は心配そうに俺の様子を窺ってきたが、事件を重く受け止めてもらうには必要な事。それに、梢子が傍にいてくれたせいか怖くはなかった。
逮捕された一浪は、今まで青星に行ってきた虐待を含む、暴行・監禁・強要罪など、過去から現在に至るまでの一浪の行いを見て、重い判決が下されるだろうとの事。また、出所した際は、青星に接近禁止命令が出る。
そして、一浪の自白で分かった警察官の関与。警察は世間からバッシングを受け、その信頼は欠落。
いつかまた一浪はこの地を歩く。だがもう怖くない。捨てたくなるような過去も、抱いていた憎しみも恨みも、俺は自分の全てを愛すると決めたんだ。
夕日を眺めながら、梢子はうわごとのように言った。
「もっと、子供や仕事に対する社会制度があれば、こうはならなかったのかもしれない。まあ、ただの独り言だが」と。
病室を訪れた警察官の二人は、その言葉を真摯に胸に受け止めているように見えた。
聴取を終え一息つくと、梢子は売店に行ってくると、一度席を外した。戻ってくる間、スマホでも眺めていようとしたが、貴重品と共に警察に押収されていたのを思い出した。
三日間監禁され、そこから一日半過ぎている。俺は四日間も学校にも行けていない。きっと春一は、どうして来ていないのだと大宮にでも訊いているだろうな。携帯さえ押収されていなかったら、すぐに連絡を入れられたのに。早ければ今日、返してくれると言っていたな。帰ってきたらすぐに連絡をいれよう。
進藤は、あれからどうしているのだろうか。あの後、無事に家に帰れただろうか。俺のせいで、あいつを巻き込んでしまうところだった。あの時、言う事を聞いてくれて本当に良かった。
空を眺めているとガラガラと部屋の扉が開いた。立っていたのは梢子、その隣にはスーツを着た男が立っていた。
「阿久津さん……」
阿久津は青星の顔を見ると、「元気そうだな」と弱く笑み浮かべていた。
そうだ、あの時、確か阿久津さんもあの場にいた。もうろうとしていた意識の中だから、うっすらとしか覚えていないけど、あれは阿久津さんだった。
梢子がベッド横に置いてあった椅子を阿久津に差し出すと、阿久津は礼を言い、そこに腰を下ろした。
なんか阿久津さん、雰囲気変わったような気がする。前よりも柔らかくなったっていうかなんて言うか。
「青星。実は今回の件に関しては、この阿久津が力を貸してくれたんだ」
「え、阿久津さんが……?」
どうして、梢子に阿久津さんが手を貸すんだ? 二人の間柄は良くないし、俺とだってそうだ。第一、この人にとって俺は金になり得る道具でしかなかったはずで、俺はあの夜、店を騒がせ逃げ出した。恨んでいるはず。それなのに、一体どうして。
険しい表情をする青星に、梢子は言った――。
「お前にとっちゃ憎い相手だというのは分かっている。私だってそうだ。しかし、阿久津が居なければ、私はお前を救う事が出来なかった」
梢子は理解を求めるような目で俺を見てきた。その目を見ていれば、阿久津さんが自分を助けたという事実が分かる。
それから阿久津と梢子は、青星がいなくなってから、救出に辿り着くまでの経緯を話した。
クラブの客であり、警察の官僚である神崎が関わり、一浪とぐるになっていたこと全て。
時より、顔を歪ませ、苦しそうな表情をしていた青星。神崎がなぜ協力を了承し、一浪と手を組んだかは省いて説明をしたが、青星はその理由を分かっていたからだ。
「真理愛ちゃんが居なかったら、すぐには動けなかった」
進藤、俺の様子がおかしいって分かってたんだ。だから梢子の所に行って、あった事を話してくれたんだ。俺は進藤に救われた。
あの事を、ちゃんと梢子に話さないと。
「梢子。俺、進藤に酷い事しようとしたんだ」
「酷い事?」
青星は俯いながら小さく頷いた。
「ちょっと、頭にくる事を言われて、それで、ついカッとなって、あいつを……あいつを殴っちまいそうになったんだ」
青星は拳を握りしめていた。
「俺は自分が怖い……。俺の中にも、あの父親と同じ血が流れているかと思うと、俺もいつか誰かに同じ事をしてしまうのではないかと……」
「青星」
「でも、もっと怖いのは、あいつがお前に何かするんじゃないかって事だ」
俺がこの世で最も恐れている事。それは自分が死ぬことでも、力でねじ伏せられる事でもない。梢子を失う事だ。
たまに夢に見る。こいつが俺のように苦しめられる姿を。それはとても恐ろしいものだ。そんな事が現実に起こってしまうのではにかと俺は怖いんだ。
梢子はベッドに腰掛けると、弓を放つ的を見るかのような瞳で青星を見つめた。
「青星。お前はこれまで、数え切れないほどの痛みを感じているはずだ。でもだからか、お前は自分の痛みや苦しみに、少々疎いとこがある。お前の心は悲鳴を上げている。ずっとだ。そんなお前だ。他人を傷つける事など絶対にしない。それに、お前が想像しているような事は起こらない」
梢子の強い眼差しが、俺を大丈夫だと思わせてくれた。
こいつのくれる言葉や行動が、俺の中にすとんと入り込んでくるんだ。それはきっと俺がこいつを誰よりも信頼し、心を許しているから。そして、こいつの事を想っているから。
ふと阿久津さんの方を見ると、時計をじっと見ていた。何やら時間を気にしているようだった。
仕事でもあるのだろうか。
阿久津は咳ばらいをすると、真剣な顔で青星を見た。
「青星。お前が昔、住んでいた家を覚えているか」
「え?」
俺が住んでいたのは、古いアパートで、俺は阿久津さんにもとに行くまで生まれてからずっとそこで過ごしていた。
「その家の事なんだが」
「おい。その話は今じゃダメなのか?」
梢子はタイミングを考えろと言った。
一浪の話がたった今、済んだばかりだというのに、掘り出してくるような内容を阿久津がしてきたからだろう。
しかし阿久津は真剣な表情を崩さなかった。
こんな阿久津も、また初めて見たと、青星は思った。
「それが、何か……?」
「……そこにこれが」
青星が訊くと、阿久津は一枚の紙を見渡してきた。青星はその紙を受け取った。
これって……
紙の正体。それは手紙だった。しかもそれなりに年季が入っているのは薄汚れていた。
「お前宛てだ。そして、差出人は……裏のところを見てみろ」
阿久津に言われた通り、青星は手紙を裏返した。
――えっ……どうして……
青星は驚きのあまり、言葉を失った。
差出人は、七瀬明日香。
青星の実の母親だ。
どうして母さんが俺に手紙を……? 俺を捨てたんじゃなかかったのか……なんで……
「どうして、こんなものが……」
「あのアパートの大家が言うには、その手紙は、あの荒れ狂った部屋に落ちていたらしい」
落ちていたなんて、じゃあ、もしかして俺がいた頃からあの家にずっとあったって事か?
「どういう事だ? 分かるように説明しろ」
梢子は食って掛かるように言った。
「青星が俺の元に来て、一浪が逮捕された後、あの家はもぬけの殻になったらしい。だから大家は他の人間に部屋を貸すために、あの部屋を片付けていたんだ。そしてその手紙を見つけた」
阿久津が言うには、大家は差出人に書かれた明日香の名前を見て、捨てずに保管してくれていたらしい。いつかまた青星に会う事が出来たら、その時は、ちゃんとこの手紙を渡そうと。
「この手紙をお前に渡すまでは、死ねないと思っていたと言っていたな」
「大家が?」
「ああ。今はもうあのアパートの大家はやめ、この近くで小さな喫茶店を営んでいるらしい」
なんの因果関係だったのか、青星の事件の後、阿久津はアパートの大家と再会した。赤髪にスーツを着た、サングラス越しでも分かる人相の悪い男は、そう簡単にいるわけではない。大家は、青星を連れて行った阿久津を覚えていたのだ。そして手紙を阿久津に託した。
大家さんである花田さんとの記憶は、僅かなものだ。でもとても気さくで、しわくちゃな笑顔が素敵なおじいさんという印象があった。父さんに虐待されている俺を知って、児童相談所の人が家に来た事だってあったし、何度も一緒に警察に行こうと言ってくれたが、俺は花田さんにまで迷惑をかけたくなかったから、その善意を受け取らなかった。
花田さん。俺の事を覚えていてくれたんだな。
「お前が元気な事を伝えたら、目に涙を浮かべてとても喜んでいたよ」
青星は手紙をぎゅっと握った。
「その手紙の中身は誰も知らない。いつ届いたのかも、なぜあの部屋に落ちていたのかも。どうするかは、宛名に記されている名前のお前が決める事だ」
この手紙には、一体何がかかれているのだろうか。これを読めば、何か母さんの事を知れるのだろうか。でも、真実を知ってしまう気がして、怖い気もする。
そこでずっと黙っていた梢子が口を開いた。
「読んでみろ」
「え?」
「私は親ではないから、よくは分からんが、そこには、何か大事なものがある気がする。大丈夫。私が傍にいる」
青星は頷くと、封筒を開け、中の便箋を取り出した。
便箋は一枚のみ。
小さな字が、紙いっぱいに書かれていた。
「え――」
便箋を開いた青星は目を見開いた。
これ、日付が……
便箋の左上に書かれていた日付は、四年前。青星が十二歳の頃のものだった。
「青星へ――」
青星は手紙の内容を二人にも分かるように読み上げ始めた。二人は何も言わず、静かにその声を耳を傾けた。途中、青星が声を震わせ、母親の言葉を噛みしめるように涙を流すと、梢子は優しくその背中を摩ってくれた。後半に続くにつれ、今までの母親に対する気持ちが溢れ出して、声が途切れて、上手く言葉を発せなくなるような場面もあったが、青星は手紙を全部読むことが出来た。
読み終わってからしばらく、青星は下を向いたままだった。悲しそうに、悔しそうに、でも嬉しそうに、歯を食いしばって、涙を流していた。梢子はその間も、青星の背中を摩り続けた。
そして、何度も鼻をすすり、涙を振り払った青星は、顔を上げ幸せそうに微笑んで言った。
「母さん、俺を愛してるって――」と――。
自分を捨てたと思っていた母親の手紙には、自分への愛が詰まっていた。
俺はその手紙を読んで、涙を我慢せずにはいられなかった。背中を摩る梢子の手は、やはり義手とは思えないほどに温かった。
母は、俺との生活のために、辛い過去を乗り越えようとしていた。手紙には、自分を置いて家を出た事への謝罪が何度も書かれていた。悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないと。
家を出た後、身寄りのない母は、大学生時代の友人の家に住まわせてもらい、生活費を稼ぐために、パートを始めたらしい。もともと束縛の強かった父のせいで、あまり外に出る事のなかった母は、その生活に心を開放していた事だと思う。でも、いつも自分を想っていたと。
そんな生活を続けていたある日、仕事先で出会った一人の男と母は恋仲になり、しばらくして母は結婚を申し込まれたが母は断った。自分だけが幸せにはなれないと。理由を聞かれた母は、自分は家に息子を残し、夫の暴力から逃げるために一人飛び出してきてしまったのだと。
話を聞いた男は、今までよく頑張ったねと、母を抱きしめてくれたらしい。そして、自分がその子供と君を幸せにさせてはくれないだろうかと言った。母は男の寛容さと包容力にに救われたそうだ。この人だったら自分と俺の事を大切にしてくれると。
そして俺が十二歳になった時、母は男と共に、あのアパートを訪れた。
俺を迎えに来てくれたのだ。
だが、タイミングが悪い事に、母が来てくれたのは、俺が阿久津さんの元へ行った後だった。
しかし、母はそんな事とは思わず、ただ留守だと判断し、家の住所と、もし自分の元に来てくれるのなら、ここに連絡してほしいというメッセージつきで、自分の電話番号を書いたメモをポストに投函したらしい。母は俺からの連絡を待ったが、いつになっても連絡は来ず、自分を捨てた母親なんかには、会いたくないと思われているのだと思ってしまったのだ。
それから母は、これが最後だと、俺当てに手紙を書いた。まだ、あの家に俺がいると思っていた母は、あのアパート宛てに。
ここからは俺の憶測だが、手紙を受け取った父、または父の恋人で会った女は、その手紙を俺に読ませようとする気もなく、送られてきた手紙を無視したのだろう。そうして四年という歳月を経て、この手紙は俺の元へ届いた。
もしあの時、メモを見ていたら、もしあの時、手紙を受け取っていたら、おれの未来は違っていただろうか。
「青星」
声がして降り向くと、病室を出ていた梢子が扉のところに立っていた。梢子は脇にある椅子に腰かけると、俺の顔色を窺ってきた。
「大丈夫か」
病院に来て、幾度なく言われたその言葉。申し訳ないとも思うが。梢子の前で気丈に振舞う自分はいない。
弱さも、恥ずかしさも、こいつの前では必要がないのだ。
「少し、疲れた」
青星は素直にそう答えた。
「そうだな。まだ寝ていた方がいい」
梢子はそう言い、青星が掛けている布団を上に引っ張った。
「梢子、お前、もう痛くないのか?」
「ん? ああ……もう大丈夫だ。この通り」
梢子は腕を曲げたり伸ばしたりして、義手を動かして見せた。
幻肢痛は日常生活に支障がきたすほどに厄介なものだ。息をしているだけで辛い。これは大袈裟な事ではない。
あの夜の後、調べた事だが、幻肢痛に関する具体的な治療法は、今の医学には存在せず、鎮痛剤などの薬を投与してもらう事は出来るものの、効果は人それぞれらしい。梢子の場合は薬で痛みを和らげる事は出来なかったのだろう。
幻肢痛が起こる一番の原因は、脳が失った両腕がまだあると感じてしまう事だと梢子は言っていた。では、脳に両腕がもうない事を分からせればいいのではないだろうか? 逆に、失った両腕が戻ったかのように錯覚させてはどうだろうか? いいや、そのどちらも残酷な事だと俺は思う。それで痛みが和らいだり、前を向くことが出来るなら話は変わってくるが、梢子の場合は、そのどちらも違うと思った。
「俺の前では、弱音を吐いていいんだ」
こいつが俺の痛みを理解できないように、俺もこいつの痛みを理解できない。だけど、そのいたみを分け合い、寄り添い、共に背負うことは出来る。俺にとって梢子はそういうやつだ。梢子にとっても、きっとそうであるように。
「ありがとう」
その言葉を聞くと、少しだけ安心できる自分がいる。だけど、このありがとうで満足しては、こいつは救われない。俺はそれを分かっている。だから。今日も俺は、こいつを抱きしめる。いや、ただ俺がこいつを感じて痛いのかもしれない。
両手を広げ、手を伸ばし、梢子を包み込む青星。お日様の香りがした。
俺の好きな匂いだ。本当に帰って来たんだこいつの元に……。
誰かに抱きしめられる本当の幸せを知ったのは、こいつに出会ってからだ。人の肌に触れる事が嫌だった、怖かった。でもこいつに触れられると、今まで感じていた虚ろさや、嫌悪感がすべて消えていって、俺は綺麗な人間なんだって、思えた。
体を離し、互いを見つめる二人。
こいつの細い髪も、薄紅色に色づく頬も、俺を求めている鼓動も、全部全部、愛おしい――。
「お前に出逢えて、良かった……」
青星は梢子の頬を両手で包み込んでそう言った。
「私もだ……」
梢子はその手を包み込むように自分の手を重ねた。
透明なカーテンから日の光が差し込み、梢子を照らした。
その姿は、あの時と同じように儚く、美しいと思った。だが、俺の心の中にはそれだけではない感情がいた――。
でもそれは、伝えるべきではない。それが今の俺の判断だったんだ。
青星が梢子の頬から手を離そうとすると、梢子もそれに並列するように青星の手から自分の手を離した。
やっと訪れた、平穏な日々。本当の自由。この先も、この人生を生きていきたい。お前と――。
少し眠りたいという青星のため、梢子は病室を出て、夕飯を取る為、食堂に来ていた。
豪快に大盛カツカレーを頬張っていると、頭上から声がした。
「よく食う女だな」と。
顔を上げると、そこには、相変わらず人相の悪い阿久津がいた。
「何だお前、帰ったんじゃなかったのか」
阿久津は梢子の目の前の席に腰を下ろすと、煙草を取り出した。
「バカッ。ここは病院だぞ」
梢子は阿久津の手をパッチンと叩き、止めた。義手だから思いのほか、痛かったようで、阿久津は「痛って」と声を漏らしていた。
「そうだったな。つい忘れる」
目の前に阿久津が座ている事に、まだ少し違和感は残るが、梢子は構わず食事を続けた。
「青星の様子は?」
「母親の手紙を読んで、頭の中で整理とつけようとしているようだ。少し時間はかかるかもしれないが、あいつなら大丈夫だ」
「ずいぶん簡単に考えているんだな。お前だったら、もっと騒ぎ立てると思っていた」
確かにそうかもしれない。自分は青星の事となると、歯止めが利かないし、なりふり構わない行動を起こす。それは今回の事で身に沁みた。阿久津だって、それを一番近くで見ていたから思うのも当然の事。しかし今は違う。そう思えるのは、青星自信がこの一年で、大きく成長した事を知ったからだ。
梢子はカツカレーを平らげると、水を飲み干し、置いてあったナプキンで口を拭いた。そして一息つくと語り出した。
「出会ったばかりのあいつは、とてもひ弱で、いつも何かに怯えていた。私が守ってやらなければいけないと、思っていたが、どうやらそれは違ったようだ」
「というと?」
「あいつは自分ばかりが守られて、もらってばかりだと思っているかもしれないが、守られていたのは、もらっていたのは、本当は私の方なんだ」
強く私の体を抱きしめるあいつ。あいつの腕の中にいると酷く安心する。十個以上も年下だというのに、守ってもらえているような気がするんだ。体ではない、心を――。
「あいつは、自分がなんの価値もない、つまらない人間だと思ってる。でも、それは違う。<青星>その名の通り、あいつは私に光をもたらしてくれた。あいつの存在は、私を救ってくれたんだ」
そう、これは散々、私に辛い宿命を背負わせてきた天から送られた光。
八年だ。八年、私はあの日を待っていたんだ。そして、ようやくあいつに巡り合った。これは運命でもなんでもない。必然的だったんだ。私たちは、出逢うべくして出逢った。
「あいつは強い。とても」
今の青星は己と向き合い、過去を受け入れ、前に進もうとしている。だから、きっと大丈夫だと梢子は思っていた。
「お前らは、魂の奥深くで結ばれている。決して誰にも離せやしない。それは、友情や愛よりも深いものだ」
「……そうかもしれないな」
阿久津は席から腰を上げ、背を向けて歩き出そうとした。
「阿久津」
梢子は阿久津を呼び止めた。
どういうやり方で今こいつがここにいられるのかは知らんが、こいつの事だ。何かうまい言い訳を考えて、ここにいるのだろう。たとえば、七瀬青星に大切な話があるとか。
しかし、もうこいつは今まで通りの生活は出来ない。それをこの窓から、アリのように小さく見える、警察とパトカーが教えている。
梢子は横目で下を見ていた。
「お前、これからどうするんだ」
神崎の悪事が明らかになった今、阿久津が経営していたクラブにも、当然、警察の捜査が入っている。こいつも売春をやっていた罪で警察に逮捕される。神崎が絡んでいた時点で、それが分かっていたはずなのに、こいつは青星を救出する事を止めなかった。それにあの夜、あの別荘に警察を呼んだのは阿久津だった。
最後まで、訊けなかったな。こいつの本心を。
「何も変わらない。俺は俺で生きる」
そう言い残すと阿久津は食堂を出て行った。行先はあのパトカーの中。
またな――。
梢子はその言葉を阿久津に言う事は出来なかった。
――この日を境に、阿久津が梢子と青星の前に現れることはなかった。警察に逮捕されるはずだった阿久津は、忽然と姿を消したのだ。店で所有していた莫大な額になる株は、全て持ち去られ、噂では、クラブで働いていた身寄りのない子供と行動を共にしていると言う。
梢子は独り言のように言った。
「――ありがとう。阿久津」
歳をとると、素直になれないものだ。
数日後、青星は無事に退院し、以前のような日常に戻っていた。
病院を出て、久しぶりに外の空気を体、全体で感じた時は、しばらくその場から動けなかったものだ。
空は澄み渡るように青々と広がっていて、とてもすがすがしかった。その時の俺の表情はまさに大病を克服した少年と言えただろう。
病院からの帰り道、梢子は言った。
「お母さんに会いにいかないのか?」と。
母さんがくれた手紙には、住んでいるのであろう家の住所が書かれていた。会いに行こうと思えば、そこは会いに行ける距離だった。
梢子は、俺が人目でも母親に会うことが出来れば、また一つ、気持ちに区切りをつけられるのではないかと思っていたのだ。
会いたいと思わない事はない。しかし、もういい事と言えばいい事だった。
俺はずっと、心のどこかで、母さんを憎んでいた。なんであの時、俺を置いて行ったんだと。一緒に連れて行ってくれれば、俺はあいつに暴力を振られる事もなく、自分を売ることもしなかったのにって
でも、今はこう思う――。
生きててくれて、ありがとう。
と。
そう思えるのは、きっと俺が梢子から、愛情をもらったからだ。
母は、生きている。母を大切にしてくれる誰かと、結婚して、幸せに生きている。それだけで充分だった。
警察から押収されていた携帯や貴重品は全て手元に戻り、春一らとも連絡を取ることが出来た。
電話をかけると、春一は飛びつくようにコールボタンにを押し、電話に出たようだった。最初はお説教から始まったが、最後はお前が無事で何よりだと言ってくれた。その時、春一は泣いていたと思う。
進藤は、家を直接訪ねて話をした。俺の顔を見るなり、あいつは泣き崩れた。子供のようにわんわんなく叫び、ごめんねとよかったと繰り返していた。相変わらず、騒がしいやつ。でも、あいつのは俺の中で、ちゃんと大事な存在だと思う。
大宮は、梢子が連絡を入れてくれた。話の終り、俺の声を聞かせてほしいと言う大宮に梢子は受話器を渡してきた。「先生」と受話器越しに言うと、大宮は少しの沈黙の後、「学校で待ってるからな」と言った。その言葉だけで、大宮の想いが伝わったし、俺もその言葉に「うん」と返すだけだったけど、それだけで大宮にも、俺の気持ちは伝わっていると思った。
そして、牧野はというと――
「この二週間、一体何をしていたのかちゃんと話してもらうからね梢子ちゃん!」
ただいま、絶賛、梢子をお咎め中。
梢子は床に正座をさせられ、背筋を伸ばしていたが、目は牧野ではなく、別の方向に向けていた。
きっと別の事を考えているのだろう。例えば、今日の晩御飯とか。なんなら、あの空に浮かぶ、あの雲、美味しそうなんて。俺はそう思った。
この二週間、梢子は俺の事で付きっきりで、ろくに仕事をしていない。幻肢痛の事はもちろん牧野も分かっている。しかし独断で原稿を書かせてもらっている以上、責任は全て梢子に問わられるが、事情が事情だったため、牧野のお咎めも、今回はほどほどで終わった。
でも、あいつはどうして手書きで原稿を書いているのだろうか。そうまでして、あいつは何の物語を書いているのだろうか。俺にはそれがさっぱり分からなかった。
「青星くん」
牧野は青星を抱きしめた。
こちらも相変わらずだ。
こいつの子供も、安心する鼓動だ。
青星は無言でその胸に包まれた。
大人は嫌いだ。男は特に。でも牧野は違う。梢子だって違う。
流れてこんでくるんだ。こいつらの優しさが――。
生まれて、親に捨てられ、虐待され、己の魂を削る仕事をし、幾千にも感じる嫌悪と孤独の時を生きた。そしてやっと出逢えた。これは必然的な事。俺たちは出逢うべくして出逢った。
「梢子」
青星は牧野の胸の中から離れると、床に座る梢子の前に膝をついた。
「俺は幸福だ。お前はどうだ――?」
梢子は一度、俯き、息を吐き、鼻で「フッ」と笑った。そして、俺の顔を真っ直ぐと見て、
「当たり前に、幸福だ――」
星屑のように金色の煌めく細い髪。少し吊り上がった狐のような瞳。何よりも、その欠けた、儚くも美しい姿。
――間宮梢子は、俺の人生を変えた。
通知音がして、青星はポケットから携帯を取り出すと、相手は真理愛だった。
【雪が溶けて、春が来たら、今度、春一と三人で旅行でもしよう!】
俺は自然と顔を緩ませていた。
「どうした? 女からのメールだったか?」
からかうようににやにやとした顔をして青星を見る梢子。
「バカ。ただの進藤だよ」
「いや、真理愛ちゃんは女の子だろ!」
そう言い、笑う梢子。
この笑顔をいつも一番、近くで見ていたい。この先も、自分がこの笑顔の理由になっていたい。俺はそう思った。
「いいじゃないか旅行。行って来い」
「うん」
――そして、幾度となく季節は流れ、あいつと出逢い、三度目の春がやってきた。
桜の花びらが、踊り子のように舞う春。暖かい、洗いたてのような、お日様の光が大地を照らし、心地よい風が吹く。
青星は鏡の前、制服に袖を通していた。
あの日よりは、顔つきもキリっとしていて、制服も似合っている。初めてこの制服の袖を通した日の事を、ついこないだの事のように思える。
あの日の朝は、自分が知らない、未知の世界に足を踏み入れようとしていて、一歩ずつ、近づいてく校舎に、人知れず不安を覚えていた。でも扉が開かれ、その場所に踏み出すと、意外にも、どうって事はなかった。
思えば、少しひねくれていたのだと思う。自分はこんな事をするためにあいつの傍にいるのではないと。見下していたのだと思う。まともに生きて来られなかった自分が、あんな平和ボケしている連中と共同生活を送るなんてと。でも、喧嘩して、自分の過去を打ち明けて、少しずつ知っていった、〈友人〉という存在の意味。
この日まで、何度も青星の眠りを守ってくれたベッドにお礼を言うように、青星は布団を整えていた。
後ろから足音がして振り向くと、梢子が部屋の中に入って来ていた。
今日の梢子は、いつもと違う。普段、身に纏っている、ただのワンピースを着ているのではなく、この日のために店まで行って買った、サテン素材である、膝丈の紺色のワンピースを着ていた。深海のような色のワンピースが、より一層、その美しさを輝かせていた。耳元には、母からもらったと言う、ダイヤのピアスを身に着けていた。
「ネクタイ、結ばせてくれ」
梢子は机の上にあった紅色のネクタイを手に取ると、青星の着ているワイシャツの襟元へ。
「今日はお前の晴れ舞台だ。しっかり、送り出したい」
指先に力を入れるようにして、懸命に手を動かす梢子。大変なはずなのに、その表情は終始にこやかだった。
その指先すらも、何度見ても美しい。青星は、そう思って結ばれていくネクタイに触れる梢子の手を見ていた。
「よしっ」
そう言うと、青星の胸元を軽くポンと叩く梢子。これも送り出しに必要な、気合入れの一つだ。
「ありがとう」
青星は結ばれたネクタイを見てそう言った。
その言葉に、梢子は満足そうに頷いた。
梢子が青星の両肩を掴み、二人で並んで鏡の前に立ち、その姿を見ていると、梢子は驚いたように口を開いた。
「青星、お前……」
「ん……?」
「背が、伸びたんじゃないのか? ほら……」
「ほんとだ……」
青星は、とうに梢子の身長を抜かしていた。
「全然気づかなかったな」
「最近は互いを見て話す時間もなかったからな」
青星が退院してからというもの、梢子は仕事に打ち込んでいた。毎日家にこもり、最低限の睡眠と食事をと休息以外は全ての時間を費やしていた。幻肢痛は未だにたびたび起こるが、以前よりも頻度が減ったり、痛みも弱くなった。病院の医者からは、心に優しいお薬でも出来ましたかなんて事を言われたそうだが、梢子はそうなんですと、答えたらしい。
出会ったばかりの頃は、梢子よりも小さく、細い、華奢な体つきをしていたのに、今では青星も、少年から青年に変わりつつあった。
子供の成長は早いのだと、梢子は青星を見てしみじみと感じていた。
「……」
梢子は青星の頬に触れた。
その表情からは、何を思っているのか、感じ取る事が出来なかった。
成長した俺を見て、ただ喜んでいるのか。嬉しくもあるが悲しくもあるのか。分からないけど、俺はこの手をいつもより、大切に包むべきだと思った。
しかし梢子はするりと青星の頬から手を離した。
梢子……
俺は思った事がある。最近の梢子はやけ素直だ。それにとても穏やか。それが始まったのは、俺が春一たちとの旅行から帰って来た時からだ。
卒業後、地方の大学に進学が決まっている春一と真理愛。忙しくなる二人のため、旅行を卒業前にしていた。
もちろん、何かあったのかと聞いたが、食べ過ぎて、少し太った。仕事で疲れたなどという事しか言わなかった。仕事で疲れているのは本当の事だと思う。しかし梢子の体はどちらかというと、細い。それもなんとなく、以前よりも細くなった気がした。
やっと訪れた本当の自由と平和。当たり前の日々がここにあるのに、それなのに、どうして俺の胸は、こんなにも騒がしいのだろうか。
「遅刻するぞ」
そう言い、部屋から出て行こうとする梢子。その耳に着けられた、ダイヤのピアスは、悲し気に揺れているようだった。
卒業式を終え、三年間過ごした校舎に別れを告げる時間がやって来た。
なんやかんやで、三年間、一度もクラス替えをする事がなく、春一と真理愛ともずっと一緒で、担任も大宮のままだった。
優しい友人に理解ある教師。偽りで始まり、終わると思っていた関係も、いつしか本物になっていた。俺は、この子の日を迎える事が出来た自分を誇りに思ているし、感謝している。自分をここまで導いてくれた大人たちに。
クラスの友人や、いつの間にか出来ていたファンクラブの後輩と写真を撮り、何気なくあたりを見渡している時だった、ある人物が視界に入ったのは。
生徒の保護者なのか、学校関係者なのか。その女性は離れた位置から一人佇んで、こちらを見ていた。
肩くらいのセミロングの髪の長さに、平均的な身長。そして自分と同じ、夜の闇に潜むような、日本人特有の漆黒な色の髪。
一瞬、女性と目が合ったが、女性はハッとしたような顔をすると、すぐに青星から目逸らし、背を向け、校舎裏へと足早に消え去って行こうとした。
青星は、その女性を追わずにはいられなかった。
違うかもしれない。でもそうかもしれない。もう終わった事。あの人が幸せでいるならそれでいい。でも、もし、今の自分を見に来てくれたのなら、俺はあの人に、伝えなくてはならない。
俺も今、幸せだと――。
必死に走る女性。しかし青星も負けじと走った。
青星は女性の背中に、大声で呼びかけた。
「――母さん……!!」
その声に、女性はピタリと足を止めた。しかし、こちらに振り向く事はない。
青星は、ゆっくりと距離を詰めた。
一歩前に出る度に、踏んでいる砂が、じりじりと音を立てる。いつもは気にもしないその音が今はやけに大きく聞こえる。
女性と数メートルほど距離をとった位置で青星は足を止めた。
音楽室の窓からは、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。卒業する三年生を交えて。最後の演奏をしているのだろう。大きな太鼓やシンバルンの音が胸に響き、自分の鼓動がさらに速まるのを感じた。
伝えるべきことは分かっている。でも、まず、何を言えば。
「母さん、だよね……?」
女性は何も言わない。持っていたバックを両手で抱きしめるように抱えている。
「俺、七瀬青星です。あんたの息子です」
俺はもう、あの時のように、あんたの笑顔を見たり、笑い声を聞いたり、抱きしめたりもしてもらえない。もうあんたとの日々は戻ってこないけど、あんたは俺を産んでくれた、世界でたった一人の俺の母親だ。どんな事があっても、忘れられるわけがない。悲しくても、辛くっても、嫌いになんてなれない。ただ、ずっとあんたを想っているから。どうか元気でいてほしい。
「母さん、俺は元気だから心配しないで。ご飯もたくさん食べてるし、たくさん寝てる。 これから大学にだって行くんだ。……色々あったけど、なんとか生きて来られたし、ここで友達も出来た。大切な人もいるんだ。だから……だからっ……」
青星は涙を堪えた。
「だから安心して! ……母さん。生きていてくれてありがとう。……俺を産んでくれてありがとう……愛してくれてありがとう……俺は今、とっても幸せだからっ……!!」
精一杯の言葉を伝える。
女性は俯き、肩を震わせていた。
やっぱり母さんだな……
結局、女性が振り向く事は一度もなかった。撫でるように頬に触れる春風を、青星は母からの贈り物だと、解釈したのだ。
さよなら、母さん――。
教室には、一人、青星を待つ梢子の姿があった。窓辺に立ち、手すりに両腕を置いて空を眺めていた。
通知音がした携帯を見ると、春一からクラス会の場所と時間が送られてきていた。返信は後にするとして、携帯をしまう。
「お前だろ。母さんに連絡したのは」
手すりに背中を寄りかからせながら、青星は言った。
「息子の晴れ舞台だ。見たくないわけがないだろ」
「そんな事だろうと思った」
梢子は明日香の事を気にかけているのを青星は分かっていた。そして梢子もまた、本当は青星が心のどこかで明日香に会いたがっていると思っていたのだ。
「で、お母さんはなんて?」
「別になんも……振り向きもしなかったよ。……でも、それでいい。あそこで振り向かれちゃ、俺だってどんな顔していいか分かんねーもん」
「……そうか。でも、伝えるべきことは伝えられたんだな」
「ああ……」
梢子は「ㇷッ」と笑った。いつもよくする顔で。でも……
「それでいい。生きている間に、想いはちゃんと伝えるべきだ」
ほんと、どうして気づかなかったんだ。
いつから、ちゃんとあいつの心に寄り添えなくなっていた? いつからあいつの心を見られなくなっていた? 俺は心底、自分が嫌になった。どうして、何も気づいてあげられなかったのか。俺はいつも、あいつの一番近くにいて、誰よりもあいつを理解していたんだ。でも、それは、つもりでいただけだった。俺は自分の存在を過信し過ぎていたんだ。自分さえいれば、あいつは大丈夫だと。だからあいつは俺の目の前から消えた。
――間宮梢子は死んだ。もうこの世界に希望などない。
静まり返った部屋の中、牧野は一人、原稿を握りしめていた。
この気持ちは、言葉一つで説明できるものじゃない。
春の訪れを感じるようになった、ある日の事だった。母が亡くなったと、梢子ちゃんから連絡が入ったのは。
それは急な事ではなかったみたいで、梢子ちゃんのお母さんは、長い間、癌を患っていた。
梢子ちゃんには、その事を告げることなく、お母さんは黄泉の国へと旅立ってしまった。
『優しい母の事だ。私の重みを背負わせたくなかったのだろう』
そう、梢子ちゃんは言っていた。
梢子ちゃん曰く、お母さんが亡くなった日、その日は何もかもが上手くいっていたそうだ。上手く、いきすぎていたくらいに。
空に広がる雲はゆるやかに流れ、天からは温かな光が降り注いでいた。まるで、お母さんがその一日を作ってくれているかのように。
二度と手を通したくないと思ていた喪服に手を通し、お母さんに、ありのままの自分を見てもらいたいと義手を着けず、梢子ちゃんは葬儀に向かった。
春の訪れを待つ木々たちが立ち並ぶ、並木道を歩くき、見慣れた、だけど、どこか遠く感じるこの道を梢子ちゃんは歩いた。そして、数十年ぶりに訪れた家の奥からは、風に乗せられてやってきた、お線香の香りがしたそうだ。
布団の上で、綺麗にお化粧をされた姿で眠るお母さんは、呼びかければ今にでも目を開け、答えてくれそうな顔をしていたらしい。
人は生まれたからには死ぬ。頭では理解していても、心は追いつかない。人間は強くも弱い。
梢子ちゃんのお父さんは、目を真っ赤に腫らし、衰弱しきっている様子だったらしい。梢子ちゃんに両腕がない事を知ると、その場に崩れ落ちるように、座り込んだという。梢子ちゃんが知っている、威厳のあるお父さんは、もういなかったのだ。
そんなお父さんの横を通り過ぎ、梢子ちゃんは、最後に、お母さんいた寝室へ向かった。中は、綺麗に整理整頓されており、机の上には三年前ほど前に出版した、梢子ちゃんの小説が置かれてあったそうだ。
梢子ちゃんのお母さんは、かなりこの作品を読み込んでいたのか、紙質が、何度もページをめくったかのように、薄く変化していたらしい。それだけでなく、手に汗を握るシーンでは、思わず指に力が込められてしまったのか、指の跡らしきものが残されていた。そして驚いたことに、そのような状態だった本は、それだけではなかった。部屋の本棚に並んでいるのは、梢子ちゃんが書いた小説のみ。梢子ちゃんはその本、全てに目を通したが、そのどれもに、同じような状態が見られた。
『デビュー作もお母さんは読んでいた。きっと、自分たちが物語の中に登場している事に母は気づいているだろう。私が父に対して感じていた事や、思っていた事。母に知ってほしかった事。あの本には、その全てがある』そう、梢子ちゃんは言っていた。
本棚に本を戻そうとした時、本を床に落としてしまったらしい。両腕が無い梢子ちゃんにとって、足は手の代わりをしてくれる大切な身体の一部。何かを開いたり、閉じたり、掴んだり話したりするのは足を使う。しかし、慣れてはいても、その動作は困難を極める。
足で本を持ち上げようとした梢子ちゃんだったけど、本の最後のページに、何かが挟まっている事に気づいた。
それは、お母さんが梢子ちゃんに宛てた、最初で最後の手紙だった。
梢子ちゃんはその手紙を読んで、
ーーずるい。
ただその一言を呟いたと。
そして考えた。母は、この手紙を私に渡そうとしていたのだろうか。それとも、余命僅かなである自分の死期を悟り、この手紙を私が見つけてくれる事を願って、ここに隠したのだろうか。と。
その後、梢子ちゃんは行先を決める事なく、ただただ一人、夜の街を彷徨った。
そして気が付くと、あの場所に来ていたそうだ。
青星くんと出会った。阿久津さんが経営していた、クラブの裏口の前に。
阿久津さんの事は、梢子ちゃんから話を聞いていた。一度も会った事はなかったが、青星くんを助けてくれて事に関しては、僕も感謝している。
三年前のあの事件の後、クラブは無くなり、警察により店内の物は全て押収され、もぬけの殻状態。そんな場所に、梢子ちゃんの心は、一体、何を求めてそこを訪れていたのか。
あの後、青星くんの卒業式を終えた梢子ちゃんは、突然、僕の元を訪ねて来た。そして言ったんだ。
『あいつの事を頼む』と。
青星くんとのために貯めていた生活資金と、大学へ通う為の費用が入ったカードと通帳を僕に預け、梢子ちゃんは、僕の前からも消えた。
僕は止めなかった。止められなかった。もしかしたら、もう二度と梢子ちゃんが戻ってこないかもしれない。そう分かっていても、自分の「行かないで」その一言が、梢子ちゃんを苦しませる事になってしまうかもしれないからだ。そうなるくらいならと僕は止められなかった。
彼女の命を僕に縛る権利はない。
『なんだよこれ』
それが横たわる梢子ちゃんの前、彼が最初に言った言葉だった。
彼はこの世の光を失ったかのような暗く、虚な瞳で、冷たくなった頬を撫でていた。その間も、彼が涙を流すことはなかった。
彼は自分の中で生き続けている彼女だけを見ている。そして、今もあの家で一人、抜け殻のようにいる。
今、牧野の手にはあの原稿があった。梢子が最期の時まで必死に書いた物語。梢子は長い小説家生活で、多くの作品を世に送り出してきた。しかし、これは、小説家、間宮梢子としての作品ではなく、ただの、一人の人間としての、間宮梢子としての、全身全霊をかけ書いた物語だ。それを、牧野は託された。
彼はこの物語を読んで、どう思うのだろうか。ちゃんと梢子ちゃんの想いは伝わるのだろうか。僕はこの物語を読んだ時、どうして途中で読ませてもらえなかったのか、分かったよ。だってこれは、彼と梢子ちゃんの物語だ。だから、他の誰の意見も、同情も、嫉妬も何もいらない。読者なんて、必要ないんだ。この物語は、二人が確かに生きていたという証。
お互い、口には出さなかったけど、多分、二人の間には、特別な感情があったのだと思う。僕らは立ち入る事の出来ない特別な感情が。
僕に出来る事。それは彼に、この小説を届ける事だ。
牧野は覚悟を決め、椅子から立ち上がると、鞄に原稿を入れ、玄関へ走った。
外は、雪が降り始めていた――。
耳を澄まさなくとも聞こえる、水滴が落ちる音。うるさいほどに鳴り響く秒針。あの日から、俺の時間は止まったままだというのに、時間は知らぬ顔をして、今も動き続けている。
カーテン越しに見える、光の中を彷徨う雪。
雪は嫌いだ。あいつと出逢った季節であり、あいつとの思い出が溢れている季節だから、あいつを酷く思い出す。
俺の卒業式を最後に、あいつは俺の前から姿を消した。
[すまない。旅に出る]
そう書かれた小さなメモを残して。
俺はあいつを必死に探した。だか、まるで神隠しにでもあったかのように、どこを探しても、あいつはいなかった。
俺を一人にしないと言ったあいつが、俺の前から消えた。嘘つきだ。でも、そうしなけらばあいつは自分を保っていられなかった。それほどまでに、あいつの心は押しつぶされていたのだ。
何が全てをあいつに捧げるだ。覚悟をしたような顔をして、俺は何も覚悟を出来ていなかった。自分の言動にたちまち嫌気がさす。
もっと俺が早く気づけば、もっと俺がちゃんとあいつを見ていれば、今もあいつは生きて笑っていただろうか。
自分で、自分の命を奪うような真似なんてしなかったのだろうか。
梢子は半年前、あの公園で自殺した。犬の散歩に訪れた近隣住民が、ベンチに横たわり息をしていないあいつを見つけた。
俺は牧野から連絡を受け、運ばれた病院へと向かった。司法解剖の結果、死因は、市販の風邪薬を大量に摂取した事だったと言う。
市販薬を買うには自殺を防止するために制限がある。梢子は二カ月という期間をかけ、薬を集めていたのだろう。
あいつの遺体を目の前にしたと時、俺は涙も流さなかった。実感が湧かなかったんだ。あいつがもういないという、実感が。そして受け入れなかった。あいつの死を。これはあいつじゃない。そう思ったのだと思う。
葬儀は、牧野を含めた、編集部のわずかな人間と、あいつ親しくしていた友人のみで行われた。俺は葬儀にも出ることはなく、今日まで、あいつの墓にも行っていない。それも、あいつの死を受け入れられてない証拠となっている。
でも月日が経って、周りからあいつの話が出なくなって、あいつの本の貴重価値が上がって、あいつの存在が薄れていく事を感じた。
時々、あいつとの未来を想像するんだ。もしも、あいつが生きていたらという世界を。でも我に返った時、苦しくて、苦しすぎて上手く息が出来なくなる。心が張り裂けそうになる。そして体中にある水分を全て出し切るかのように、頭痛がするほどに涙を流す。
夢だって見るんだ。でも目覚めたら、あいつが居ない世界だけがここにある。だから目を覚ますのが嫌だった。現実を突きつけられたようで、お前の大切な存在はもこの世にはいないのだと、お前は孤独なのだと、言われているようだった。耐えきれなかった。あいつが居ない世界を生きる事が。
今まで、どれだけ体の痛みを感じても、心は上手く機能していたのに、俺はあいつを失って初めて心の痛みというものを知った。時には、胸に尖ったナイフのようなものが突き刺さっているようにズキズキと痛んだ。また時には、胸を強く圧迫されているかのような圧に押しつぶされそうになった。でも、そんな痛みを知ってもなお、俺は梢子に逢いたくて、逢いたくて仕方がなかった。信神にまで、本気で願った。あいつに逢わせてくれと、あいつを返してくれと。
あいつの頬には、涙が渇いた跡があった。あいつは泣いていたんだ。悲しかったんだ。辛かったんだ。苦しかったんだ。
でも、一つだけ不可解な事があった。あいつの顔は微笑んでいた――。
泣いていたのに、なぜ笑う? あいつは死ぬ間際、一体何を考えていたのだろうか。何を見ていたのだろうか。俺はそれが知りたかった。
うるさい……。
さっきから家の中にインターフォンが鳴り響いている。梢子が死んだ今、この家に来るのは、ただ一人だけ。
青星は重い腰を上げ、ソファーから立ち上がると、玄関へ。扉を開けると、そこには牧野の姿があった。
「入ってもいい……?」
そう尋ねる牧野に、青星は何も言わずに、部屋の中へ通した。
牧野はあれ以来、仕事の合間、俺の様子を見に来る。変わった事なんてあいつが死んだ以外、何もないのに、毎日のようにだ。遺言だが何だか知らないが、人の重りになるような事はごめんだ。
それに一番は、牧野に会うと梢子を思い出してしまうという事もある。
「何もないから、帰ってくれ」
「分かってる。でも、今日はどうしても、君に渡さなくてはならないものがあるんだ」
「俺に? 一体何をだ。俺は何もほしくない……俺のほしいものは、もう手の届かないところにあるんだ……」
そうそれは、決してどれだけ手を伸ばそうとも、手に入れられないもの。
「青星くん……」
牧野は悲し気に俯いた。
「本当に帰ってくれ、あんたのそういう顔、見たくなんだよ……」
「青星くん、僕はただ」
「なんでだ……」
「え?」
青星は牧野の言葉を遮るようにそう言った。
「なんであいつを一人にしたんだよ……!!」
突然、怒鳴り声を上げた青星に、牧野の体は固まった。
自分が心底嫌だった、憎かった。嫌いだった。そして、悔しさが溢れた。
分かってる。こんなの、ただの八つ当たりだ。牧野は何も悪くない。こいつは梢子の意志を尊重した。俺と違って、自分のための選択をしたんじゃない。梢子のための選択をしたんだ。
「俺は……何も出来ていなかった……。ただ穴の開いた己の心を埋めるために、あいつの傍にいた。自分のためだ……!」
「それは違うよ……!」
牧野は必死な顔でそう言った。
「だったらなんであいつはここにいない……!? 俺が救えなかったからだ……! そうだろ……?? 」
「違う……」
歯を食いしばり拳を握る牧野。
「梢子ちゃんは、梢子ちゃんは、君に救われていたんだ……!」
「……は……?」
呆然とした顔をする青星。
牧野は鞄から原稿用紙を取り出し、青星に差し出した。
「梢子ちゃんが、僕らの前から姿を消してからの二か月間で完成させた物語だ。梢子ちゃんが、君に残した。最後の贈り物だ。読んでほしい」
「……梢子が?……」
牧野はゆっくりと頷いた。
これが、あいつが何年もかけて、寝る間も惜しみ、幻肢痛に苦しまされながらも、それでもなお、手書きで作り続けた、あの物語なのか?
「……」
青星はその原稿の手を伸ばした。
タイトルは、――夜明けのシリアス――
間違いない。これは、あいつの字だ……
線が細く、川に水が流れるように緩やかで、繊細な、あいつの字。
青星は、手でゆっくりと、タイトルの文字を上から下へとなぞった。
梢子。感じさせてくれ、お前の存在を。教えてくれ、お前が最後に何を思っていたのか。何を見ていたのかを。
速まる鼓動を落ち着かせながら、青星は最初のページをめくった――。