自分を捨てたと思っていた母親の手紙には、自分への愛が詰まっていた。
俺はその手紙を読んで、涙を我慢せずにはいられなかった。背中を摩る梢子の手は、やはり義手とは思えないほどに温かった。
母は、俺との生活のために、辛い過去を乗り越えようとしていた。手紙には、自分を置いて家を出た事への謝罪が何度も書かれていた。悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないと。
家を出た後、身寄りのない母は、大学生時代の友人の家に住まわせてもらい、生活費を稼ぐために、パートを始めたらしい。もともと束縛の強かった父のせいで、あまり外に出る事のなかった母は、その生活に心を開放していた事だと思う。でも、いつも自分を想っていたと。
そんな生活を続けていたある日、仕事先で出会った一人の男と母は恋仲になり、しばらくして母は結婚を申し込まれたが母は断った。自分だけが幸せにはなれないと。理由を聞かれた母は、自分は家に息子を残し、夫の暴力から逃げるために一人飛び出してきてしまったのだと。
話を聞いた男は、今までよく頑張ったねと、母を抱きしめてくれたらしい。そして、自分がその子供と君を幸せにさせてはくれないだろうかと言った。母は男の寛容さと包容力にに救われたそうだ。この人だったら自分と俺の事を大切にしてくれると。
そして俺が十二歳になった時、母は男と共に、あのアパートを訪れた。
俺を迎えに来てくれたのだ。
だが、タイミングが悪い事に、母が来てくれたのは、俺が阿久津さんの元へ行った後だった。
しかし、母はそんな事とは思わず、ただ留守だと判断し、家の住所と、もし自分の元に来てくれるのなら、ここに連絡してほしいというメッセージつきで、自分の電話番号を書いたメモをポストに投函したらしい。母は俺からの連絡を待ったが、いつになっても連絡は来ず、自分を捨てた母親なんかには、会いたくないと思われているのだと思ってしまったのだ。
それから母は、これが最後だと、俺当てに手紙を書いた。まだ、あの家に俺がいると思っていた母は、あのアパート宛てに。
ここからは俺の憶測だが、手紙を受け取った父、または父の恋人で会った女は、その手紙を俺に読ませようとする気もなく、送られてきた手紙を無視したのだろう。そうして四年という歳月を経て、この手紙は俺の元へ届いた。
もしあの時、メモを見ていたら、もしあの時、手紙を受け取っていたら、おれの未来は違っていただろうか。
「青星」
声がして降り向くと、病室を出ていた梢子が扉のところに立っていた。梢子は脇にある椅子に腰かけると、俺の顔色を窺ってきた。
「大丈夫か」
病院に来て、幾度なく言われたその言葉。申し訳ないとも思うが。梢子の前で気丈に振舞う自分はいない。
弱さも、恥ずかしさも、こいつの前では必要がないのだ。
「少し、疲れた」
青星は素直にそう答えた。
「そうだな。まだ寝ていた方がいい」
梢子はそう言い、青星が掛けている布団を上に引っ張った。
「梢子、お前、もう痛くないのか?」
「ん? ああ……もう大丈夫だ。この通り」
梢子は腕を曲げたり伸ばしたりして、義手を動かして見せた。
幻肢痛は日常生活に支障がきたすほどに厄介なものだ。息をしているだけで辛い。これは大袈裟な事ではない。
あの夜の後、調べた事だが、幻肢痛に関する具体的な治療法は、今の医学には存在せず、鎮痛剤などの薬を投与してもらう事は出来るものの、効果は人それぞれらしい。梢子の場合は薬で痛みを和らげる事は出来なかったのだろう。
幻肢痛が起こる一番の原因は、脳が失った両腕がまだあると感じてしまう事だと梢子は言っていた。では、脳に両腕がもうない事を分からせればいいのではないだろうか? 逆に、失った両腕が戻ったかのように錯覚させてはどうだろうか? いいや、そのどちらも残酷な事だと俺は思う。それで痛みが和らいだり、前を向くことが出来るなら話は変わってくるが、梢子の場合は、そのどちらも違うと思った。
「俺の前では、弱音を吐いていいんだ」
こいつが俺の痛みを理解できないように、俺もこいつの痛みを理解できない。だけど、そのいたみを分け合い、寄り添い、共に背負うことは出来る。俺にとって梢子はそういうやつだ。梢子にとっても、きっとそうであるように。
「ありがとう」
その言葉を聞くと、少しだけ安心できる自分がいる。だけど、このありがとうで満足しては、こいつは救われない。俺はそれを分かっている。だから。今日も俺は、こいつを抱きしめる。いや、ただ俺がこいつを感じて痛いのかもしれない。
両手を広げ、手を伸ばし、梢子を包み込む青星。お日様の香りがした。
俺の好きな匂いだ。本当に帰って来たんだこいつの元に……。
誰かに抱きしめられる本当の幸せを知ったのは、こいつに出会ってからだ。人の肌に触れる事が嫌だった、怖かった。でもこいつに触れられると、今まで感じていた虚ろさや、嫌悪感がすべて消えていって、俺は綺麗な人間なんだって、思えた。
体を離し、互いを見つめる二人。
こいつの細い髪も、薄紅色に色づく頬も、俺を求めている鼓動も、全部全部、愛おしい――。
「お前に出逢えて、良かった……」
青星は梢子の頬を両手で包み込んでそう言った。
「私もだ……」
梢子はその手を包み込むように自分の手を重ねた。
透明なカーテンから日の光が差し込み、梢子を照らした。
その姿は、あの時と同じように儚く、美しいと思った。だが、俺の心の中にはそれだけではない感情がいた――。
でもそれは、伝えるべきではない。それが今の俺の判断だったんだ。
青星が梢子の頬から手を離そうとすると、梢子もそれに並列するように青星の手から自分の手を離した。
やっと訪れた、平穏な日々。本当の自由。この先も、この人生を生きていきたい。お前と――。
俺はその手紙を読んで、涙を我慢せずにはいられなかった。背中を摩る梢子の手は、やはり義手とは思えないほどに温かった。
母は、俺との生活のために、辛い過去を乗り越えようとしていた。手紙には、自分を置いて家を出た事への謝罪が何度も書かれていた。悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないと。
家を出た後、身寄りのない母は、大学生時代の友人の家に住まわせてもらい、生活費を稼ぐために、パートを始めたらしい。もともと束縛の強かった父のせいで、あまり外に出る事のなかった母は、その生活に心を開放していた事だと思う。でも、いつも自分を想っていたと。
そんな生活を続けていたある日、仕事先で出会った一人の男と母は恋仲になり、しばらくして母は結婚を申し込まれたが母は断った。自分だけが幸せにはなれないと。理由を聞かれた母は、自分は家に息子を残し、夫の暴力から逃げるために一人飛び出してきてしまったのだと。
話を聞いた男は、今までよく頑張ったねと、母を抱きしめてくれたらしい。そして、自分がその子供と君を幸せにさせてはくれないだろうかと言った。母は男の寛容さと包容力にに救われたそうだ。この人だったら自分と俺の事を大切にしてくれると。
そして俺が十二歳になった時、母は男と共に、あのアパートを訪れた。
俺を迎えに来てくれたのだ。
だが、タイミングが悪い事に、母が来てくれたのは、俺が阿久津さんの元へ行った後だった。
しかし、母はそんな事とは思わず、ただ留守だと判断し、家の住所と、もし自分の元に来てくれるのなら、ここに連絡してほしいというメッセージつきで、自分の電話番号を書いたメモをポストに投函したらしい。母は俺からの連絡を待ったが、いつになっても連絡は来ず、自分を捨てた母親なんかには、会いたくないと思われているのだと思ってしまったのだ。
それから母は、これが最後だと、俺当てに手紙を書いた。まだ、あの家に俺がいると思っていた母は、あのアパート宛てに。
ここからは俺の憶測だが、手紙を受け取った父、または父の恋人で会った女は、その手紙を俺に読ませようとする気もなく、送られてきた手紙を無視したのだろう。そうして四年という歳月を経て、この手紙は俺の元へ届いた。
もしあの時、メモを見ていたら、もしあの時、手紙を受け取っていたら、おれの未来は違っていただろうか。
「青星」
声がして降り向くと、病室を出ていた梢子が扉のところに立っていた。梢子は脇にある椅子に腰かけると、俺の顔色を窺ってきた。
「大丈夫か」
病院に来て、幾度なく言われたその言葉。申し訳ないとも思うが。梢子の前で気丈に振舞う自分はいない。
弱さも、恥ずかしさも、こいつの前では必要がないのだ。
「少し、疲れた」
青星は素直にそう答えた。
「そうだな。まだ寝ていた方がいい」
梢子はそう言い、青星が掛けている布団を上に引っ張った。
「梢子、お前、もう痛くないのか?」
「ん? ああ……もう大丈夫だ。この通り」
梢子は腕を曲げたり伸ばしたりして、義手を動かして見せた。
幻肢痛は日常生活に支障がきたすほどに厄介なものだ。息をしているだけで辛い。これは大袈裟な事ではない。
あの夜の後、調べた事だが、幻肢痛に関する具体的な治療法は、今の医学には存在せず、鎮痛剤などの薬を投与してもらう事は出来るものの、効果は人それぞれらしい。梢子の場合は薬で痛みを和らげる事は出来なかったのだろう。
幻肢痛が起こる一番の原因は、脳が失った両腕がまだあると感じてしまう事だと梢子は言っていた。では、脳に両腕がもうない事を分からせればいいのではないだろうか? 逆に、失った両腕が戻ったかのように錯覚させてはどうだろうか? いいや、そのどちらも残酷な事だと俺は思う。それで痛みが和らいだり、前を向くことが出来るなら話は変わってくるが、梢子の場合は、そのどちらも違うと思った。
「俺の前では、弱音を吐いていいんだ」
こいつが俺の痛みを理解できないように、俺もこいつの痛みを理解できない。だけど、そのいたみを分け合い、寄り添い、共に背負うことは出来る。俺にとって梢子はそういうやつだ。梢子にとっても、きっとそうであるように。
「ありがとう」
その言葉を聞くと、少しだけ安心できる自分がいる。だけど、このありがとうで満足しては、こいつは救われない。俺はそれを分かっている。だから。今日も俺は、こいつを抱きしめる。いや、ただ俺がこいつを感じて痛いのかもしれない。
両手を広げ、手を伸ばし、梢子を包み込む青星。お日様の香りがした。
俺の好きな匂いだ。本当に帰って来たんだこいつの元に……。
誰かに抱きしめられる本当の幸せを知ったのは、こいつに出会ってからだ。人の肌に触れる事が嫌だった、怖かった。でもこいつに触れられると、今まで感じていた虚ろさや、嫌悪感がすべて消えていって、俺は綺麗な人間なんだって、思えた。
体を離し、互いを見つめる二人。
こいつの細い髪も、薄紅色に色づく頬も、俺を求めている鼓動も、全部全部、愛おしい――。
「お前に出逢えて、良かった……」
青星は梢子の頬を両手で包み込んでそう言った。
「私もだ……」
梢子はその手を包み込むように自分の手を重ねた。
透明なカーテンから日の光が差し込み、梢子を照らした。
その姿は、あの時と同じように儚く、美しいと思った。だが、俺の心の中にはそれだけではない感情がいた――。
でもそれは、伝えるべきではない。それが今の俺の判断だったんだ。
青星が梢子の頬から手を離そうとすると、梢子もそれに並列するように青星の手から自分の手を離した。
やっと訪れた、平穏な日々。本当の自由。この先も、この人生を生きていきたい。お前と――。