目が覚めた時、そこにはいつもの天井があった。カーテンを通し、窓から入る夕暮の光をぼやける視界で見ていた。
昨日は幻肢痛が酷く、まともな睡眠がとれなかったせいか、体は海に沈んでいるかのように重かった。
あいつが居なかったら、きっと一睡もできなかっただろうに。
優しく、私の髪に指を通すあいつの手から、熱が伝わって、とても安心した。永遠に続いてしまうかのような長い夜に耐え続けてきたが、今、初めて私の目の前に、夜明けが現れた気がした。
しかし痺れる感覚は、昨日ほどではないが、今も続いていた。
まったく、嫌になるな……
頭を枕にこすりつけ、むしゃくしゃする気持ちをどうにかしようとした。
私だって、いつまでも過去を引きずってはだめだと分かっている。分かっているが、私には無理な事だ。
時間が経てば、痛みを忘れられると人は言う。私も、かつてはそう思っていた。しかし、この痛みを知って、分かった。それは、本当の痛みを知らない無責任な人間の言う事だと。強く想えば、想うほどに、想っていたほどに、失って感じる痛みは強く、重く。そういう痛みは、時間が経つほどに、濃くなっていく。
もう日が暮れている。青星は帰ってきているのか。
梢子はベッドから起き上がると、リビングに向かったが、そこは静まり返っていた。
まだか……。
「――アレクサ、青星、メール」
携帯のメールをチェックしたが、青星からの連絡はなかった。
友達とでも遊んでいるのかもしれんな。春一くんと言っただろうか、彼とサッカーをしているか、真理愛ちゃんに連れ回されているかのどっちかだな。どちらにせよ、喜ばしい事だ。
梢子はいつものようにベランダに出て、その帰りを待っていた。いつ帰って来るとも分からないのに、いつもこうして青星を待つ。
あいつがそこから手を振り、笑う姿が好きだ。その日によって、あいつの表情は変わるが、私に気づくと、必ず手を振り笑う。そのたった一瞬のためだけに、私は今日もここにいる。
早く帰って来てくれ、青星……。
――ピンポーン。
するとインターホンが鳴った。
青星……??
家の鍵を持っているはずの青星が、インターホンを鳴らす必要はない。梢子は不思議に思いながらも、玄関に駆けた。
上品とは言えないが、足を上げ、鍵を開けてドアノブを回した。
「青星――?」
しかし扉の先にいたのは、青星ではなかった。
「間宮さん……」
「真理愛ちゃん……?」
そこには、浮かない顔をする真理愛がいた。
「あ、青星なら、まだ帰ってないんだ」
「違うの……」
真理愛は小さく首を振った。
青星じゃないのか……?
梢子は膝を少し膝を折り曲げ、自分より背の低い真理愛と目線を合わせた。
「どうした?」
「……どうしよ……私……私……」
真理愛は酷く動揺していた。瞳が不規則に揺れ、冷や汗もかいているようだった。梢子はただ事ではないと察知した。
「落ちついて、ゆっくり息をするんだ」
真理愛の目には涙が溜まっていた。
手を添えてあげたいが、今の私には義手すらもない。
両腕がある感覚が残っているというのに義手をつけるのは、ない事を受け入れてしまった気がして、いたたまれない気持ちになるのだ。それが嫌で、幻肢痛が起こっている時は、義手をしない。
こうやって感情までもが、過去と現在を行ったり来たりする。誰かが泣いていても、ハンカチを差し出す事すら出来ない。
「大丈夫だ。大丈夫」
泣いている真理愛に言っているのか、自分に言っているのか。
――大丈夫だ。俺が傍にいる――
青星………。
真理愛は息を整えると、張りつめた表情で言った。
「青星くんが、男の人と……」
「男……?」
牧野……? じゃなきゃ阿久津……?
「お父さんって言うから、私……大丈夫だと思って、それで――」
心臓が大きく飛び撥ねた。
「……今、なんて……?」
その言葉に、梢子は阿久津の言葉を思い出した。
『――七瀬一浪が出所した』
まさか……そんなわけないよな……
「どんなやつだった」
「え?……えっと、体が大きくて……背も高かった」
間違いない。七瀬一浪だ。
「間宮さん……青星くん、大丈夫だよね……?」
「……」
「間宮さん……間宮さんってば……!!」
真理愛の声に梢子はハッとした。
「二人がどこに行ったのか、分かるか?」
「ううん……青星くんが、帰れって行ったから……」
青星は相手が一浪で、真理愛ちゃんの身が危険だと踏んだのだろう。迷わず、まず真理愛ちゃんを逃がしたんだ……自分を、おとりに使って。私が、こんな事になっているから……
「間宮さん……」
真理愛は不安げな顔をしていた。きっと自分のせいだと思っているのあろう。
「大丈夫。真理愛ちゃんは何も悪くないよ。家に帰って。お家の方が心配する」
梢子は苛立つ気持ちと焦りを必死に押さえながら、真理愛に笑いかけた。
「……分かった」
――バンッ。
閉じた扉の前、梢子は寄りかかるように崩れ落ちた。
酷い……心に、岩を置かれている気分だ。その岩を上から押されて、立ち上がる事の出来ないような気分にさせる……。
「……」
梢子は体を丸め、俯いた。
恐れていた事が起こった。
……考えろ……青星を救うんだ。両腕がない事がなんだ。足をもがれても、首だけにされても、私はあいつを助ける。あの日、あいつに出会った時に決めたんだ。
――この子を守ろうと。
絶対に、絶対に、あいつを死なせない……!
梢子は顔を上げ立ち上がると、再びドアノブを回した――。
昨日は幻肢痛が酷く、まともな睡眠がとれなかったせいか、体は海に沈んでいるかのように重かった。
あいつが居なかったら、きっと一睡もできなかっただろうに。
優しく、私の髪に指を通すあいつの手から、熱が伝わって、とても安心した。永遠に続いてしまうかのような長い夜に耐え続けてきたが、今、初めて私の目の前に、夜明けが現れた気がした。
しかし痺れる感覚は、昨日ほどではないが、今も続いていた。
まったく、嫌になるな……
頭を枕にこすりつけ、むしゃくしゃする気持ちをどうにかしようとした。
私だって、いつまでも過去を引きずってはだめだと分かっている。分かっているが、私には無理な事だ。
時間が経てば、痛みを忘れられると人は言う。私も、かつてはそう思っていた。しかし、この痛みを知って、分かった。それは、本当の痛みを知らない無責任な人間の言う事だと。強く想えば、想うほどに、想っていたほどに、失って感じる痛みは強く、重く。そういう痛みは、時間が経つほどに、濃くなっていく。
もう日が暮れている。青星は帰ってきているのか。
梢子はベッドから起き上がると、リビングに向かったが、そこは静まり返っていた。
まだか……。
「――アレクサ、青星、メール」
携帯のメールをチェックしたが、青星からの連絡はなかった。
友達とでも遊んでいるのかもしれんな。春一くんと言っただろうか、彼とサッカーをしているか、真理愛ちゃんに連れ回されているかのどっちかだな。どちらにせよ、喜ばしい事だ。
梢子はいつものようにベランダに出て、その帰りを待っていた。いつ帰って来るとも分からないのに、いつもこうして青星を待つ。
あいつがそこから手を振り、笑う姿が好きだ。その日によって、あいつの表情は変わるが、私に気づくと、必ず手を振り笑う。そのたった一瞬のためだけに、私は今日もここにいる。
早く帰って来てくれ、青星……。
――ピンポーン。
するとインターホンが鳴った。
青星……??
家の鍵を持っているはずの青星が、インターホンを鳴らす必要はない。梢子は不思議に思いながらも、玄関に駆けた。
上品とは言えないが、足を上げ、鍵を開けてドアノブを回した。
「青星――?」
しかし扉の先にいたのは、青星ではなかった。
「間宮さん……」
「真理愛ちゃん……?」
そこには、浮かない顔をする真理愛がいた。
「あ、青星なら、まだ帰ってないんだ」
「違うの……」
真理愛は小さく首を振った。
青星じゃないのか……?
梢子は膝を少し膝を折り曲げ、自分より背の低い真理愛と目線を合わせた。
「どうした?」
「……どうしよ……私……私……」
真理愛は酷く動揺していた。瞳が不規則に揺れ、冷や汗もかいているようだった。梢子はただ事ではないと察知した。
「落ちついて、ゆっくり息をするんだ」
真理愛の目には涙が溜まっていた。
手を添えてあげたいが、今の私には義手すらもない。
両腕がある感覚が残っているというのに義手をつけるのは、ない事を受け入れてしまった気がして、いたたまれない気持ちになるのだ。それが嫌で、幻肢痛が起こっている時は、義手をしない。
こうやって感情までもが、過去と現在を行ったり来たりする。誰かが泣いていても、ハンカチを差し出す事すら出来ない。
「大丈夫だ。大丈夫」
泣いている真理愛に言っているのか、自分に言っているのか。
――大丈夫だ。俺が傍にいる――
青星………。
真理愛は息を整えると、張りつめた表情で言った。
「青星くんが、男の人と……」
「男……?」
牧野……? じゃなきゃ阿久津……?
「お父さんって言うから、私……大丈夫だと思って、それで――」
心臓が大きく飛び撥ねた。
「……今、なんて……?」
その言葉に、梢子は阿久津の言葉を思い出した。
『――七瀬一浪が出所した』
まさか……そんなわけないよな……
「どんなやつだった」
「え?……えっと、体が大きくて……背も高かった」
間違いない。七瀬一浪だ。
「間宮さん……青星くん、大丈夫だよね……?」
「……」
「間宮さん……間宮さんってば……!!」
真理愛の声に梢子はハッとした。
「二人がどこに行ったのか、分かるか?」
「ううん……青星くんが、帰れって行ったから……」
青星は相手が一浪で、真理愛ちゃんの身が危険だと踏んだのだろう。迷わず、まず真理愛ちゃんを逃がしたんだ……自分を、おとりに使って。私が、こんな事になっているから……
「間宮さん……」
真理愛は不安げな顔をしていた。きっと自分のせいだと思っているのあろう。
「大丈夫。真理愛ちゃんは何も悪くないよ。家に帰って。お家の方が心配する」
梢子は苛立つ気持ちと焦りを必死に押さえながら、真理愛に笑いかけた。
「……分かった」
――バンッ。
閉じた扉の前、梢子は寄りかかるように崩れ落ちた。
酷い……心に、岩を置かれている気分だ。その岩を上から押されて、立ち上がる事の出来ないような気分にさせる……。
「……」
梢子は体を丸め、俯いた。
恐れていた事が起こった。
……考えろ……青星を救うんだ。両腕がない事がなんだ。足をもがれても、首だけにされても、私はあいつを助ける。あの日、あいつに出会った時に決めたんだ。
――この子を守ろうと。
絶対に、絶対に、あいつを死なせない……!
梢子は顔を上げ立ち上がると、再びドアノブを回した――。