真夜中、青星は部屋のドアの隙間から入る、僅かな光で目が覚めた。
リビングに行くと、ソファーの上に膝を抱えうずくまる、梢子が居た。ってきり仕事でもしているのかと思っていたが、それは違った。
「梢子……? どうした……?」
青星が声をかけると、梢子は顔を上げた。その表情は、引きつっていて、何か痛みにでも耐えているようだった。
「悪い、起こしてしまったな」
眉を下げ、申し訳なさそうに謝る梢子。
「いや、そんな事はいいんだよ」
青星は梢子の隣に腰を下ろした。
「どうしたんだ?」
あえて明るく、でも優しくそう言い、青星は梢子の背中に手を添えた。
「……幻肢痛だ。よくある事なんだ、私のように、体の一部を失った者にはよくある事……」
幻肢痛とは、事故などで手や足を失った人がまだ手や足があると錯覚して起きるもの。幻肢痛の痛みは例えるなら、正座をして痺れた感覚がずっとあるような痛み。人によって痛みの強さや頻度は異なるが、これは慣れていけばいくほどに辛くなるもので、梢子の場合、事故の事を受け入れられていないせいか、たまにとてつもなく痛むらしい。
「不思議な事だが、切断されてぞれなりに時間が経った今でも、両腕があるような感覚に陥る事があるんだ。可笑しいだろ。無いのに、痛むだなんて……」
梢子は苦笑していた。
「そんな事ない。お前は苦しんでいる」
正座ごときの痛みかと思う者がいるかもしれない。でも、そう思う者が居てもおかしくはない。これは、失った者にしか分からない、苦悩と痛み。これが一生続いていくのかと思うと、相当な忍耐力と精神力がないとやっていけない。
「……今、結構痛むか?」
梢子はこくりと頷いた。
「……そうか。じゃあ……」
青星は梢子の体を自分の膝の上に倒した。
「青星……?」
「膝枕だ。光栄に思え、お前が初めてだ」
「……そうか……それは幸せな事だな。私はあのシリウスに膝枕をされているのだから」
「ああ、そうさ」
梢子は薄暗い天井を見上げながら、痛みに耐えていた。
今まで、一人ここでその痛みと苦しんでいたのかと思うと、もっと早くに梢子に寄り添ってあげたかったと青星は思った。
対処法も何もないその痛みに、耐えて耐えて、ただ耐え抜く事しか出来ない。そんな滑稽な現実――。
「大丈夫だ、俺が傍にいる」
梢子は青星の体に身を寄せた。
「うんっ……」
星屑のように輝く、梢子の細い髪。青星はその美しい髪を撫でるように指を通した。
それから三十分ほど経ったころだっただろうか。梢子から規則正しい寝息が聞こえてきたのは。その寝息を聞き、安堵した青星は、目を閉じた――。
翌朝、青星は学校に行くため、いつものように早起きをしていた。歯を磨いて顔を洗って、制服を着て、っと。そこまではいつもと変わらない。次にするのは梢子の作ってくれた朝食を食べる事だ。しかし、今日は梢子の作る朝食はない。梢子はまだ眠っている。
あれから梢子は何度か目を覚ました。その度に、俺に縋るように身を寄せた。そして、俺は迷うことなく、その体を抱き寄せた。
時より震えながら俺にしがみつこうとする梢子を、俺は守りたくて仕方がなかった。
適当に朝食を済ませ、梢子の分の食事をテーブルに置くと、鞄を持って、玄関に向かった。
靴紐を固く結び、腰を上げると、ドアノブに手をかけ、一度振り向いた。
「……」
見送りがないのは、初めての事だった。
梢子に、いってこいと言われることが、俺の学校に行く活力になっていたんだ。その事の大切さが、今なら分かる。
「いってきます」
青星は、誰もいない後ろに声をかけ、ドアノブを回した。
エレベーターに乗り込み、エントランスを出ると、真理愛が居た。真理愛は青星に気づくと、真理愛の表情は一気に明るくなった。
「おはようっ!」
今日も甘ったるさ全開で言われるおはようはある意味破壊力抜群だ。
あれ以降、真理愛はこうやって、朝、学校に行く青星を待ち伏せしては、学校までの道のりを一緒に歩く。毎日一生に登校するものだから、春一には付き合っているのかと誤解までされたが、青星は全力で否定した。
永遠にそれはあり得ないと。
鬱陶しいこいつの好意は迷惑でしかないのは事実だが、あまり邪険にすると、梢子が周りの大人に良い印象を持たれない。それが嫌なだけだった。だから特に追い払うことなく、ただその存在に無視をしているだけ。
今日も誰がああどか、どこに行ったとか、何を買ったとか、どうでもいい事を話す真理愛。
そして話題は青星の事に。
「青星くんはさ、どうして間宮さんの家にいるわけ?」
「……」
答えるわけがない。
青星が無視を続けていると、真理愛は機嫌を損ねたように頬を膨らました。
そうやって拗ねて、諦めて、他の男の所でも行ってくれればいい。その方が俺にとっても良い。
すると、真理愛はいきなり、梢子の事について話し始めた。
「間宮さんって。綺麗だけど、何考えてるか分かんない感じだよね」
青星が何を言っても反応してくれないから、梢子の話をし出したのだろうか。
「小説家だがなんだが知らないけど、周りの事見下している感じするんだよねー」
明らかに敵意のある言い方で言う真理愛に青星が苛立たないわけがなく。
青星の表情は分かりやすく曇った。
「間宮先生の腕ってさ――」
青星はその言葉に足を止めた。周りには同じ学校の生徒や職員が居た。
今日、あの授業がめんどくさいだの、スカートが短いだのと、いつもある光景が広がっていた。
色づいた紅葉が校舎を鮮やかにし、冷たい風が吹き抜ける。
「間宮さんの腕って、義手でしょ? なんでなの?」
言葉を続けて見ろ、俺はお前を……お前を生かさないかもしれない……
「ねえ、なんで?」
真理愛は悪気があってそう言ったわけではない事は、考えれば分かった。だが、青星は冷静でいられなかった。
気づいた時には、青星の手は、真理愛の胸ぐらを掴んでいた。地面には、投げ飛ばした鞄が落ちていた。
周りは驚きの声を上げ、青星を見ていた。
「お前が、お前があいつを語るんじゃねーよ……あいつが今まで、どれだけの想いを抱えて生きてきたきたか、お前ごときに分かるはずもないくせに……」
「だって、青星くんが間宮さんの事ばかりだからっ……!」
そして嫉妬から、真理愛は絶対に口にはしてはいけない事を口にする。
「あんな障害者のどこがいいのよっ……!!」
……っ! こいつっ……!!
頭に血が上りきった青星は片手を上げた。その目は、悪魔のように凶悪だった――。
殴られると思った真理愛は目を瞑った。
しかし……
青星の手は止まっていた。誰かに、手首を掴まれていた。
横を見ると、そこには血相を抱えて走って来たのであろう、額に汗をかき、血の気の引いた春一の姿があった。
「離せ、春一。俺は今、機嫌が悪い」
「ダメだ」
青星は殺気のある目で、春一を睨んでいた。
「離せって言ってんだ。俺の言っている事が分からないのか?」
「嫌だ」
体格も、身長もほぼ互角な春一と青星。青星がどんなに力を入れようとも、春一もまた力を入れてくる。
周りは騒然としていた。近くいた教員までもが駆けつける騒ぎになり、青星は仕方がなく真理愛から手を離した。
真理愛は力なくその場に崩れ落ちると、震える自分の体を両手で抱きしめていた。
その姿を見て、青星は我に返った。
――今、俺は、こいつに何をしようとしていた――?
俺は、俺はあの恐怖を、自分が感じていた憎悪を、他の奴に与えようとしていた。
「俺は、なんて事を……」
青星は後悔の念に襲われた。真理愛は教員らによって、学校の中へ連れられて行った。立ちつくす青星を、春一は心配そうな顔で見ていた。
「俺は……おれ、は……」
視界が眩んで、前が、上手く見えない……
「青星……!!」
目の前が真っ暗になる前に、弾丸のようにそう叫ぶ、春一の声がした。
青星は、その場に倒れ込んだ――。
リビングに行くと、ソファーの上に膝を抱えうずくまる、梢子が居た。ってきり仕事でもしているのかと思っていたが、それは違った。
「梢子……? どうした……?」
青星が声をかけると、梢子は顔を上げた。その表情は、引きつっていて、何か痛みにでも耐えているようだった。
「悪い、起こしてしまったな」
眉を下げ、申し訳なさそうに謝る梢子。
「いや、そんな事はいいんだよ」
青星は梢子の隣に腰を下ろした。
「どうしたんだ?」
あえて明るく、でも優しくそう言い、青星は梢子の背中に手を添えた。
「……幻肢痛だ。よくある事なんだ、私のように、体の一部を失った者にはよくある事……」
幻肢痛とは、事故などで手や足を失った人がまだ手や足があると錯覚して起きるもの。幻肢痛の痛みは例えるなら、正座をして痺れた感覚がずっとあるような痛み。人によって痛みの強さや頻度は異なるが、これは慣れていけばいくほどに辛くなるもので、梢子の場合、事故の事を受け入れられていないせいか、たまにとてつもなく痛むらしい。
「不思議な事だが、切断されてぞれなりに時間が経った今でも、両腕があるような感覚に陥る事があるんだ。可笑しいだろ。無いのに、痛むだなんて……」
梢子は苦笑していた。
「そんな事ない。お前は苦しんでいる」
正座ごときの痛みかと思う者がいるかもしれない。でも、そう思う者が居てもおかしくはない。これは、失った者にしか分からない、苦悩と痛み。これが一生続いていくのかと思うと、相当な忍耐力と精神力がないとやっていけない。
「……今、結構痛むか?」
梢子はこくりと頷いた。
「……そうか。じゃあ……」
青星は梢子の体を自分の膝の上に倒した。
「青星……?」
「膝枕だ。光栄に思え、お前が初めてだ」
「……そうか……それは幸せな事だな。私はあのシリウスに膝枕をされているのだから」
「ああ、そうさ」
梢子は薄暗い天井を見上げながら、痛みに耐えていた。
今まで、一人ここでその痛みと苦しんでいたのかと思うと、もっと早くに梢子に寄り添ってあげたかったと青星は思った。
対処法も何もないその痛みに、耐えて耐えて、ただ耐え抜く事しか出来ない。そんな滑稽な現実――。
「大丈夫だ、俺が傍にいる」
梢子は青星の体に身を寄せた。
「うんっ……」
星屑のように輝く、梢子の細い髪。青星はその美しい髪を撫でるように指を通した。
それから三十分ほど経ったころだっただろうか。梢子から規則正しい寝息が聞こえてきたのは。その寝息を聞き、安堵した青星は、目を閉じた――。
翌朝、青星は学校に行くため、いつものように早起きをしていた。歯を磨いて顔を洗って、制服を着て、っと。そこまではいつもと変わらない。次にするのは梢子の作ってくれた朝食を食べる事だ。しかし、今日は梢子の作る朝食はない。梢子はまだ眠っている。
あれから梢子は何度か目を覚ました。その度に、俺に縋るように身を寄せた。そして、俺は迷うことなく、その体を抱き寄せた。
時より震えながら俺にしがみつこうとする梢子を、俺は守りたくて仕方がなかった。
適当に朝食を済ませ、梢子の分の食事をテーブルに置くと、鞄を持って、玄関に向かった。
靴紐を固く結び、腰を上げると、ドアノブに手をかけ、一度振り向いた。
「……」
見送りがないのは、初めての事だった。
梢子に、いってこいと言われることが、俺の学校に行く活力になっていたんだ。その事の大切さが、今なら分かる。
「いってきます」
青星は、誰もいない後ろに声をかけ、ドアノブを回した。
エレベーターに乗り込み、エントランスを出ると、真理愛が居た。真理愛は青星に気づくと、真理愛の表情は一気に明るくなった。
「おはようっ!」
今日も甘ったるさ全開で言われるおはようはある意味破壊力抜群だ。
あれ以降、真理愛はこうやって、朝、学校に行く青星を待ち伏せしては、学校までの道のりを一緒に歩く。毎日一生に登校するものだから、春一には付き合っているのかと誤解までされたが、青星は全力で否定した。
永遠にそれはあり得ないと。
鬱陶しいこいつの好意は迷惑でしかないのは事実だが、あまり邪険にすると、梢子が周りの大人に良い印象を持たれない。それが嫌なだけだった。だから特に追い払うことなく、ただその存在に無視をしているだけ。
今日も誰がああどか、どこに行ったとか、何を買ったとか、どうでもいい事を話す真理愛。
そして話題は青星の事に。
「青星くんはさ、どうして間宮さんの家にいるわけ?」
「……」
答えるわけがない。
青星が無視を続けていると、真理愛は機嫌を損ねたように頬を膨らました。
そうやって拗ねて、諦めて、他の男の所でも行ってくれればいい。その方が俺にとっても良い。
すると、真理愛はいきなり、梢子の事について話し始めた。
「間宮さんって。綺麗だけど、何考えてるか分かんない感じだよね」
青星が何を言っても反応してくれないから、梢子の話をし出したのだろうか。
「小説家だがなんだが知らないけど、周りの事見下している感じするんだよねー」
明らかに敵意のある言い方で言う真理愛に青星が苛立たないわけがなく。
青星の表情は分かりやすく曇った。
「間宮先生の腕ってさ――」
青星はその言葉に足を止めた。周りには同じ学校の生徒や職員が居た。
今日、あの授業がめんどくさいだの、スカートが短いだのと、いつもある光景が広がっていた。
色づいた紅葉が校舎を鮮やかにし、冷たい風が吹き抜ける。
「間宮さんの腕って、義手でしょ? なんでなの?」
言葉を続けて見ろ、俺はお前を……お前を生かさないかもしれない……
「ねえ、なんで?」
真理愛は悪気があってそう言ったわけではない事は、考えれば分かった。だが、青星は冷静でいられなかった。
気づいた時には、青星の手は、真理愛の胸ぐらを掴んでいた。地面には、投げ飛ばした鞄が落ちていた。
周りは驚きの声を上げ、青星を見ていた。
「お前が、お前があいつを語るんじゃねーよ……あいつが今まで、どれだけの想いを抱えて生きてきたきたか、お前ごときに分かるはずもないくせに……」
「だって、青星くんが間宮さんの事ばかりだからっ……!」
そして嫉妬から、真理愛は絶対に口にはしてはいけない事を口にする。
「あんな障害者のどこがいいのよっ……!!」
……っ! こいつっ……!!
頭に血が上りきった青星は片手を上げた。その目は、悪魔のように凶悪だった――。
殴られると思った真理愛は目を瞑った。
しかし……
青星の手は止まっていた。誰かに、手首を掴まれていた。
横を見ると、そこには血相を抱えて走って来たのであろう、額に汗をかき、血の気の引いた春一の姿があった。
「離せ、春一。俺は今、機嫌が悪い」
「ダメだ」
青星は殺気のある目で、春一を睨んでいた。
「離せって言ってんだ。俺の言っている事が分からないのか?」
「嫌だ」
体格も、身長もほぼ互角な春一と青星。青星がどんなに力を入れようとも、春一もまた力を入れてくる。
周りは騒然としていた。近くいた教員までもが駆けつける騒ぎになり、青星は仕方がなく真理愛から手を離した。
真理愛は力なくその場に崩れ落ちると、震える自分の体を両手で抱きしめていた。
その姿を見て、青星は我に返った。
――今、俺は、こいつに何をしようとしていた――?
俺は、俺はあの恐怖を、自分が感じていた憎悪を、他の奴に与えようとしていた。
「俺は、なんて事を……」
青星は後悔の念に襲われた。真理愛は教員らによって、学校の中へ連れられて行った。立ちつくす青星を、春一は心配そうな顔で見ていた。
「俺は……おれ、は……」
視界が眩んで、前が、上手く見えない……
「青星……!!」
目の前が真っ暗になる前に、弾丸のようにそう叫ぶ、春一の声がした。
青星は、その場に倒れ込んだ――。