牧野は仕事をしているふりをしていた。椅子に腰かけ、手はパソコンのキーボードの上に置かれ、視線は画面に向いているが、頭の中は別の事を考えていた。
 梢子ちゃん、原稿、進んでいるだろうか。あれから、メールではやり取りはしているけど、特に会ったりはしていないし。でも、梢子ちゃんには青星くんが付いているだろうし、でも、やっぱり心配だ……。後で様子を見に行こう。
「おい、牧野」
「……岩田」
 そこには、同じ編集部で働く、岩田(いわた)の姿があった。
 岩田は着ていたコートと脱ぐと、牧野の隣のデスクに腰を下ろした
「聞いたぞ、お前、間宮先生に独断で原稿書かせているらしいな?」
「まあ、うん」
 打ち合わせ終わりだったのか、岩田はカバンから茶封筒を取り出し、大切そうにデスクの上に置いた。
 同期の岩田は自分とは違い気前のいい男だ。今担当している小説家は気難しい相手だと聞いていたが、岩田ならどうってことないだろう。
「それにしても、よく編集長の許しを得たよなー」
「今回はそうするべきだと、判断してくれたんじゃないかな」
「お前だからってのもあるんじゃないか?」
「……僕が?」
「編集長、お前の事、結構気に入っていると思うぞ」
 牧野は少し離れたところにデスクを構える編集長の事を横目で見た。
 吊り上がったきつい目で、今日も原稿を凝視している。見た目は強面な感じだが、面倒見のいい人だ。
 牧野の編集者としての姿勢は、今の編集長から教わったようなものだ。牧野が梢子の担当になった時、当時、副編集長をしていた今の編集長が、右も左も分からない牧野を支え、気遣っていてくれた。
『お前は昔の俺によく似ている』昔、そんなことを言われたたっけな。
 あの見た目で見ているとは、どこがと牧野は思ったが、編集長は自分のどこかに、牧野を重ねたのだろう。
 自分と同じ仕事の仕方をしているから、邪険に思っていないだけではないのだろうか。何にせよ職場の責任者に好かれて悪い事は無い。
「でも、一番驚いたのはお前だよ。独断で書かせるのは、こっちも責任を問うことある。真面目なお前なら、それくらい分かっていたことだろ?」
 梢子ちゃんにあの原稿を見せられた時、自筆で書いていることに驚かされた。ネットが普及している今、手書きをしている小説家などいないに等しいが、梢子ちゃんの場合は、両腕がなく義手で生活している。そんな梢子ちゃんが自筆で書いている事が何よりも、この作品に対する思いが本気である事を示していた。
「僕はただ、先生に小説を書く楽しさをもう一度、思い出してほしいだけだ」
 僕はこの三年間、ただそれを願ってきた。
「あれからだよな、間宮先生が書けなくなったのは」
「うん……」
 梢子ちゃんが小説を書けなくなったのは、あの日からだ――。
 連絡を受け駆け付けた僕は、看護師に梢子ちゃんのいる病室に案内された。梢子ちゃんの病室に行く途中、廊下で泣き崩れる母親の姿を見た。その時は、全く知らない赤の他とばかり思っていた。
 梢子ちゃんは集中治療室で、体に色んな器具を着けられていた。医者が言うには、スリップしたトラックが二人に突っ込んだと。梢子ちゃんは重傷を負い、命を救うためにやむを得ず、両腕を切断したと。
「――二人……?」
 聞き間違いだろうか。今、そう言った気が……
「正直、女性が死ななかったのは奇跡のようなものです。あんなに大きなトラックに至近距離で突っ込まれれば、助かることはまずない。助かったのは、彼が咄嗟に、自分の身を挺して彼女を守ったからでしょう」
 亡くなったのは一ノ瀬幸太郎という男で、梢子ちゃんの恋人だった人物だ。
 じゃあ、さっき廊下で泣きくずれていたのは……彼の母親……?
「一緒にいた男性のコートのポケットからこれが」
 見た瞬間、それが何かすぐに分かった。
 こんなのあんまりじゃないか……。
 目を覚ました梢子ちゃんは、この世界に絶望していた。一ノ瀬幸太郎が死んだこと、自分だけが、生き残ったこと。
 不思議な事に、失った両腕の感覚があるみたいで、必死に両腕を動かそうとしていた。そのうち幻肢痛(げんしつう)が起こり始め、嫌でも両腕を失った事を思い知らされ、寝られない日々を送っていた。
 幻肢痛のための薬が処方されても、梢子ちゃんには効果は見られなかった。
 梢子ちゃんの時間は止まった。
 そんな梢子ちゃんに、僕はこの箱を渡そうか悩んだ。今の梢子ちゃんは負の感情に支配されている。下手の事をすれば、梢子ちゃんは……
 僕は、この箱をしまって置くことにした。
 一ノ瀬さんの葬儀は親族だけで行われ、梢子ちゃんが行くことはなかった。体の面を考慮しての事もあったが、理由はそれだけではないと僕は思っていた。
 しばらくして、梢子ちゃんは一般病棟の個室に移された。いつもカーテンは閉め切っており、僕が見舞いに行き、カーテンを開き、窓を開けなければ、ずっと淀んだ空気のまま、一人、闇の中を彷徨っている状態だった。
「お前、何か私に隠しているだろう」
 梢子ちゃんは、一点を見つめたままそう言った。
「えっ……何も隠していませんよ……」
「嘘はいい。お前が持っているんだろ」
 持っている。梢子ちゃんはそう言った。
梢子ちゃんは気付いていた。一ノ瀬さんが、自分にプロポーズをしようとしていることを。
 僕はカバンから箱を取り出し、梢子ちゃんの前に置いた。梢子ちゃんはしばらく無言でその箱を見つめると僕に開けるように言ってきた。
 箱を開けると、中にはサーモンピンク色をした宝石が埋め込まれた指輪が入っていた。
「これは……」
「パパラチアサファイアだ」
 パパラチアと言うのは、蓮の花のことで、石言葉は、<一途な愛> 蓮の花には、〈離れゆく愛〉という花言葉がある。梢子ちゃんはそれを知っていた。
 そんな意味のある花の石をあえて使ったということはまるで……

――僕が君の傍から離れることはない。

 そう言っているようだった。
 一ノ瀬さんは深く、深く、梢子ちゃんを愛していた。梢子ちゃんには、その愛を受け取る権利があったはず。二人はただ、幸せになろうとしているだけだった。それがこんな結末を迎えた。
――なんて残酷な運命が、二人を襲ったのだろうか。
「私には、これをはめる指もない……」
 梢子ちゃんの心は空っぽだ。もう何もない。このままでは本当にダメになってしまう。他にどこかに思考を持っていかせなければならないと思った。だから僕は、梢子ちゃんに小説を書くように言った。
「負の感情に呑み込まれてはダメです。あなたは書き続けるしかないのです」
 半ば強引とも言えるこの言葉。梢子ちゃんが小説の奴隷になりたくない事は分かって。だけど、この時は、梢子ちゃんを奴隷にするしかなかった。
「書き続けるしか、ない……か……」
 それから、梢子ちゃんは小説を書くために、何年も義手の訓練を積み重ね、そして、やっとの思いで義手を使いこなせるようになった。
 だが、空いた心の隙間は埋まらない。
「朝、目覚めた時に絶望するんだ。また一日が始まってしまったと」
 一ノ瀬さんの死を受け入れることは、この先一生ないだろうと梢子ちゃんは言った。自分には、梢子ちゃんを仕事の面でサポートする事しか出来ない。心の隙間は埋められない。だからどこかで願っていた。誰かが、梢子ちゃんを暗闇の中から救い出してくれる事を――。
「――きの……まきの!」
「えっ?」
「えっ? じゃねーよ。今の話、聞いてたか?」
「あ、ごめん…」
「たくっ……」
 時計を見ると午後五時を過ぎていた。
 やば、そろそろ行かないと、遅くなってからは迷惑になる。
 牧野は慌てて立ち上がり、鞄に荷物を詰め込み出した。
「どこ行くんだ?」
「間宮先生のとこ……!」
 急げ急げ~……
 上着を手に取り、「行ってくる」と、岩田に言う。
「あ、おい……!」
 走らせた足を止め、後ろを向く。
「間宮先生の新作、楽しみにしてるからな!」
「……ああ!」
 牧野は足早に編集部を後にした。
 もうすぐ、紅葉が色づく季節がやってくる――。