夏本番を迎えていた今日この頃、俺は二者面談のため、放課後、学校に残っていた。夕暮れ時の校舎に人は少なく、居るのは同じく二者面談を待っている生徒と、部活に励む生徒のみだった。
 空は茜色に輝き、眩しかった。廊下の手すりに寄りかかりながら、外の景色を眺める。
 あの時の空も、こんな風に綺麗だったな。
 結局、あれからあいつが親の話をしてくる事はなかった。次の日にはけろっとして、何事もなかったように振舞っていた。あいつらしいっちゃあいつらしい。あいつなりに俺に気を遣ったのかもしれないが、俺はそんな事をしてほしくなかった。自分の中だけで痛みをとどめるのではなく、俺はあいつの痛みを共に背負いたかった。でも、それは俺が一方的に思っているだけであって、あいつは違う。考えてみろ、親しい相手でも、遠慮なしにずかずかと心の中に入ってこられるのは、誰だって嫌なはずだ。心を許して、信頼している相手だからこそ、言えない事もある。だから、あいつが話してくれるまで、俺は待つことにした。
 教室の扉が開く音がして振り向くと、そこいは春一の姿があった。隣には髪がショートの春一と同じ、大きな瞳を持つ女性も。青星は春一の母親に軽く会釈をすると、駆け寄って来る春一に向かって、あいさつ代わりに片手を挙げた。
「次、お前の番だろ?」
「ああ」
「親は、まだ来てないのか?」 
 春一はあたりを見回しながら言った。
 俺は春一の事が好きだし、信頼もしている。だが、過去の事や家の事は一切、話してはいない。知られるのが怖いわけではない。仲間思いで優しい春一の事だ、自分の事のよう捉えて辛くなるだけだ。そんな思いしてほしくない。
「そのうち来る」
「そうか。じゃあ俺は行くよ。また明日な!」
「ああ」
 手を振り去って行く春一に応えるように、青星も手を振って見送った。
 梢子のやつ、忘れてるわけじゃないよな。あんな事があったが、最後に牧野と自宅で打ち合わせしたをしたあたりからか、仕事の調子が良いみたいだった。前までは、唸ってばかりいながら執筆をしていたが、最近はそれがなくなった。執筆に没頭して日付と時間の感覚が狂ってなきゃいいが。
 大宮には、中で座っているように言われたが、青星は教室の前で梢子を待ち続けた。そして予定していた時間から遅れる事、十分。梢子はやって来た。
「悪い……! 道に迷ったんんだ……!」
 ここまで来るのに走ったのだろう。息を荒げ、額には汗が流れていた。
「大丈夫かよ……水とか持ってきてんのか?」
 こんな暑い中、走るなんて脱水症状でも起こした大変だ。
「いつものようにここにある」
 そう言い、肩に掛けていたバッグをポンポンと叩く梢子。今日も義手を着けている。
 大宮と挨拶を済ませ、水分補給をしてから二者面談は始まった。十分遅れでのスタートだが、今日の面談は青星で最後だったため、問題はないと言われた。
 大宮はすぐに梢子の腕が義手であることに気づいたようだった。珍しい物を見るような目で見ていたが、梢子の両腕は展示品などではない。
「んで、先生。進路の事ですよね」
 高校一年でも、進路の事について考えなくてはならない。高校生活の三年間は、俺たちが思っている以上に短く、あっという間に終わるらしい。
「七瀬は、何かやりたい事はあるのか?」
「特には」
「即答だなお前」
 大宮の問いに間を開けずに答えた青星に、隣に座っている梢子の鋭いツッコミが入る。
 この歳で、自分の将来を決める方が難しいと思う。
 春一はサッカー推薦で、既にいくつかの学校から声がかかっているらしい。一年生でレギュラーに抜擢される才能の持ち主。それに加えて、あのセンス。春一のすごさは、以前、一緒にサッカーをした時に嫌というほど知っている。
 梢子のように、若くして自分で事業を行う人間もまれだ。何がやりたいか明確に決まっている人間を羨ましく思う。
 大宮は持っていたファイルを開くと、いくつかの大学のパンフレットを見せてきた。
「何か一つの道を究めるのだったら、専門を進めるが、やりたい事が何か分からないから大学に行くというのも、一つの手だ」
 大学か。興味がないわけじゃない。今よりも多くの事を学べるし、関わる人間も国境を越える。  
 高校に入って気づいたが、知識と言うものは、紙だけで学べるものではないという事だ。誰かの話に耳を傾ける事で、得られる知識もある。例えば、その人物の今までの経験の談とかで。
「好きな事とかでもいいんだぞ、何か七瀬がやっていて楽しいと思える事はないのか?」
「楽しい……」
 楽しと思える事。そう訊かれ、青星の頭の中で、すぐに一つの事が浮かんだ。
「ある。一つだけある」
「おおなんだ?」
 大宮は食い気味に訊いていた。
「――小説を読む事だ」
 もちろん春一とサッカーをするのも、梢子と過ごす日常も楽しい。でも、俺が無我夢中になって、楽しいと思えるものは、小説を読む事だ。
「お前の小説が教えてくれたんだ」
 梢子、俺はお前の書く物語が好きだ。お前には言っていなかったが、俺はお前の今まで創り上げた物語を全て読んだ。雑誌で連載されていたのも、短編集も含め全部だ。最初はお前の事が知りたくて、あの本を手に取ったが、いつしか、ただお前の物語を読みたて、手に取るようになった。
ネット上に上がるお前の作品へのコメント読んで、作品を読んで分かったことがある。お前の小説は、人の痛みや苦しみの寄り添ってくれている。お前そのものなんだ。
――悲しいけど、温かくなった。
――辛いけど、生きたいと思った。
――孤独だけど、微かな光を集めたいと思った。
 全部、お前の小説を読んで人が思った事だ。どこの誰とも顔も知らない人の言葉だが、すごいと思わないか? どこも誰とも、顔も知らない人が、お前の作品を読んで、生きたいと思ってくれているんだ。お前は人に、生きる希望を与えてくれている。
「梢子。俺に、楽しいを教えてくれてありがとう」
 本当は、もっともっとたくさんのありがとうを伝えたい。でも、今ここで言うのは違うよな。
 梢子は「ふっ」と口元を緩ますと、
「お前には、適わないな」
 ――その言葉の本当の意味を、俺はのちに知る事となる。
「先生」
 梢子が真面目な顔で大宮に向き直った。その様子に、大宮も真剣な顔で梢子を見る。
「私は、この子の母親ではありませんし、血縁関係もない。先生からしても、私は得体のしれない存在でしょう」
 大宮は偏見がある男ではない。しかし、進藤のように、俺と梢子の関係を不思議に思っているのは確かだ。梢子は、色んな覚悟の元、俺と居てくれる事を選んでくれた。
「私は、この子の幸せを切に願っている。ですが、私一人の力では、この子を守り抜く事は難しいのかもしれない。だから、どうかこの子が道を誤らないよう、しっかり見ていて上げてほしい」
 「お願いします」と、深々と頭を下げる梢子。そんな梢子に、大宮は少し驚いたようだったが、決意の固そうな瞳で「はい」と頷いた。
 そして、梢子は俺に向き直った。
「私は、将来を選択する際、一番邪魔になるものは、周りの視線だと思っている。何を言いたいかは分かるな?」
 青星は静かに頷いた。
「誰かに自分の人生を委ねるような事はするな。世間に許されたいと思うな。何があっても、自分の心に従うんだ」
 梢子は、年齢や立場で相手を判断しない。相手が子供であっても、自分と同じ対等な存在として、いつも同じ目線に立って接する。今だってそうだ。俺の目を真っ直ぐに見つめ、俺と真摯に向き合っている。だから俺も、いつもこいつに、正直でありたいと思うんだ。
「――で、大学には行くか?」
 その問いに、俺がなんて答えたかは、安易に予想がつくだろう。



 二者面談を終えて家に帰宅すると、話があると、梢子は青星をリビングに呼んだ。その表情は、少し硬い気もしたが、あの時のような嫌悪さはない。
 これから話してくれる事は、きっと梢子の中でも覚悟がいる事だ。自分で自分に、プレッシャーをかけているのかもしれない。だから少しでもリラックスしてもらいたい。
「話って?」
 なるべく柔和に、青星は問いかけた。
「私の両親について……父について、話しておきたいんだ」
 青星は梢子の座る、目の前の椅子に腰を下ろした。
 そして、梢子は深く、短く息を吐いた。
「父は厳しい人だった――」
 梢子の父親は、いわゆる完璧主義者だった。学生時代には、生徒会長も務める文武両道の優等生。国立大学をしてからは、日本有数の大手企業に勤めた。その経験を生かし、今では自身で会社を経営しているという。そんな父親の一人娘であった梢子は、親の期待を一身に背負った。
「父に褒められるのは嬉しかった」そう梢子は言った。
 学校でも、塾でも、成績優秀で何をやっても常に一番だった梢子。周りからも優秀な娘さんがいて羨ましいと言われ、近所でも梢子の評判の女の子。そんな梢子を父親も自慢に思っていただろう。あの時までは――。
「だが、私は父の思うような娘にはなれなかったのだ」
 父親が梢子を罵倒し始めたのは、梢子が中学受験に落ちた時だった。同じく受験をした知人の子供は全員受かったが、梢子だけが、落ちてしまったのだ。
「その時に知ったよ。努力は、どれだけしても足りない。した全てが、報われるわけではないと」
 父親は酷く梢子を嫌った。お前のせいで、恥ずかしくて近所の人にも顔向け出来ないと、お前は私たちの恥だと。
 話せば話すほどに、梢子の表情は沈み、下を向いた。そんな梢子を見るのは青星にとっても辛い事だった。
 あの男に会った時、頭ではなんでもないと思っていながら、気が付いたら体が勝手に反応していた。こいつを梢子に近づけてならないと、梢子を守らなければと、体が言っていた。それは多分、いつの日かまで、自分が感じていたものと、似ていたものを男から感じたからだと思う。
 青星が身体的な暴力を受けていたなら、梢子は言葉の暴力を受けていた。体は何ともなくとも、心はずっと悲鳴を上げていた。助けて。助けて。と。
「お前のデビュー作、読んだ。あれは……お前自身だったんだな」
 梢子のデビュー作、〈緋色の悲鳴〉物語の主人公は、厳格な父を持つがゆえに、人生に生きずらさを感じる。最初は自分のためだと感じていた事も、成長するにつれ、それが歪んだ愛である事を知る。
「ああ、そうだ。それが今の出版社の目に留まり、私は小説家という職を手に入れた」
 父親には、そんな現実を見ない生き方なんて、絶対に上手くいかないと批難されたが、梢子は構わず家を出た。出来損ないだと蔑まれ続けた梢子は、文章を書く事でしか精神を保っていられなかったのだ。
「私は、小説を書く事でしか、自分の存在価値を見出す事が出来ない人間なのだから」
 自分はまるで、存在価値のないような人間。あいつに出会う前の自分が思っていた事。俺は母に捨てられ、父に虐待され、自分の身体を売りながら生きてきた。こんなにも無様で、可笑しい話は他にないと思っていた。でも、こいつも俺と同じだったんだ。俺はいつだって、自分の不幸ばかりを見ていた。何も知らなかっただけで、こいつはずっと苦しんでいたんだ。それに何も気づいてやれなかった自分に腹が立った。
 握った拳に自然と力が入った。
「梢子。俺に、何が出来る……?」
 俺がそう言うと、梢子はゆっくりとその場から立ち上がった。そして、俺の目の前に来ると、自分の胸の中に、俺を優しく引き寄せた。
「……何もいらない。お前は何もしなくていいから、ただ明日も私の傍にいてくれ」
 脆くて、儚いその存在を、俺は強く抱きしめ返した。
「ああ、分かった……」
 約束する。俺はお前から離れないと。たとえ、どんな未来が訪れようとも、俺の心も身も全て、お前のものだ。
 長い、長期休みが終わり、学生たちが現実に戻った九月上旬、梢子は程よく冷房の効いた、喫茶店を訪れていた。いつもの席に、いつものコーヒー。必要なとき以外、冒険をしないスタイルは、昔から変わらない。
 九月と言っても、まだまだ暑い日は続く。窓越しに見える景色には、スーツを着たサラリーマンが、ハンカチで額の汗を拭い歩いていた。
 世の男性たちはこうして仕事をしているのに、加齢臭だのなんだの言われると、侵害だろう。自分は涼しい店内で仕事だものな、ありがたい。
「おかわりはいかがですか」
 横から和む声がして見ると、コーヒーサーバーを持った花田がいた。今日も白いシャツに、黒いエプロン姿だ。額を出した白髪の髪は、綺麗にまとめられていて、背筋を伸ばし佇むその姿は、気品が漂う。初めて花田を見た時、素敵な人だと梢子は思った。
「いただきます」
 にっこりと微笑みながらそう答え、おかわりを注いでもらう梢子。湯気と共に、ふわりとコーヒーの香ばしい香りがして思わず鼻で香りを吸い込む。
 ああいい香りだ……
「どうぞ」
「どうも」
 会釈をすると、梢子はコーヒーを一口飲んだ。
 ……最高。
 梢子は花田を見ると、またにっこりと微笑んだ。そんな梢子に返すように、花田も微笑んだ。笑った時にできる目尻の皺が、また和む。
「最近、何かいい事ありましたか?」
「え?」
 急にそんな質問をされ、梢子は首を傾げた。
「いや、こないだ来てくれた時よりも、表情が晴れやかなので、何かいい事でもあったのかと思いまして」
 自分では気づかないが、そんな顔をしているだろうか。……でも、そうなのだろうな。
「そうですね、ありましたね、良い事」
 梢子がそう答えると、花田は微笑み、「良い一日を」と、カウンターの中へ戻って行った。
 青星に父の事を話して、私の心は安らいだ。でも、出来ればあいつに、あんな自分の姿は見せたくなかったし、父のような人間をあいつの世界には入れたくなかった。あいつには、もう少しの苦しみも与えたくない。
 人間って、絶対に下手くそな生き方しか出来ないようにつくられている。進んで、転んで、立ち上がって、また進んで、また転んで、後ろを見るけど誰もいなくて、絶望を感じてもう無理だってなるけど、ふと隣をみたら誰かが居てくれて。そして一緒に手を取り合って、前に進む。でも、時々、傷つけたり、傷つくのが怖くて、その手を掴めない時もあるけど、それでも多くの人に救われ、懸命に生きていく。それなのに、どうして私の父は、一人で完璧に生きようとするのだろうか。完璧な人間などいないのに。弱さを見せる事が、父にとって、一番の恥なのだろう。でもそれでは、失う事の多い人生となってしまう。そんな人生で、あの人は本当に幸せなのだろうか。
 切っても、切れない関係。血のつながった関係というもの。嫌いになりたいのに、本気で捨てる事は出来ない。だから、こんなにも頭を悩ませる。
 ……もうやめよう。私があの人の事をどうこう考える必要はない。
 父親の頭の隅に追いやるように、梢子はコーヒーを飲み干した。
 牧野が来ると、世間話もほどほどに、すぐに打ち合わせを始めた。
 注文したアイスコーヒーを飲むと、牧野は鞄から茶封筒を取り出した。だが牧野がテーブルの上に置く前に、梢子が一つの原稿を取り出し、テーブの上に置いた。
「……これは?」
 突然出された原稿に、牧野は目を丸くして、何度か瞬きをしたのち、そう問いかけてきた。
「実はな、別に他の原稿を書いていたんだ」
 タイトルは無題だった。牧野はその原稿を手に取り、最初のページをめくった。
「梢子ちゃん……これって……」
 それは梢子の自筆の原稿だった。両腕がなく、義手で生活している梢子が、自筆で書いている事に、牧野はとても驚いただろう。
「これは、一体どういう事?」
 牧野は必死に考えを巡らせていた。梢子が、わざわざ辛いやり方を選ぶその理由が、分からないのだろう。
「それだけはどうしても、手書きで書かなければならないんだ」
「読んでもいい?」
「もちろんと言いたいところだが、今はダメだ。時が来たら、必ず見せると約束する。それまでは、何も言わずに待っていてくれないか?」
「……何か、理由があるんだね?」
 梢子は頷いた。
 牧野は原稿を閉じ、梢子の元へ返した。
「すまないな、牧野」
 梢子はその原稿をカバンにしまった。
「こっちの方は、白紙に戻すよ」
 そう言うと、牧野は持ってきた原稿を梢子に返した。
「いいのか……?」
「うん」
「あいだあいだのストーリは絶賛していたから、てっきり直されるのかと」
「そのつもりだったけど、今の話を聞いて、気が変わった」
 梢子は書く事でしか自分の存在価値を生み出せない人間。だがそこには、小説を好きだと言う、物語を書く事が好きだという前提がある。本当に書きたいものを楽しいんで書けなければ、梢子にとって意味がない。そんなところも、牧野は理解してくれている。
「編集長には、僕から上手く言っておくから。書いて梢子ちゃん。梢子ちゃんの本当に書きたいものを」
 牧野は、眼鏡の奥の糸目を下げ、少しばかり頬を緩めた。梢子は知っている。これは牧野が誰かを思いやる時にする表情だ。
「……うん。ありがとう」
 なんとしても、この物語だけは、自分の手で、完成させなければならないんだ。
【私は花と散った――】
「今日はここまでにしよう」
 その言葉に従い、青星はペンを置いた。
 ここ数日、義手の調子が悪いと言う梢子のために青星は代筆をしていた。
 作品作りを手伝っていて、分かった事がある。梢子は、おおよそのストーリー構成を決めたらすぐに書き出す。キャラクターの人柄などは書いているうちに勝手にそうなったという感じで、話の展開や結末も、最初の設定ではなく、大幅に変更になる事もある。何にも縛られない、自由な制作の仕方だ。
 もちろん、自分の事を主題としたデビュー作は、モデルとなる存在が居ての作品作りだったと思うが。
「私も死ぬのなら、花と散りたいものだ」
 花と散る――。それは花のように散り、潔く死ぬこと意味する言葉だ。
 梢子は鏡の前に立つと、義手を着けていない、自分の体を見つめた。
「私がお前くらいの時は、天才と謳われたものだ。でも、今はどうだ。落ちた小説家。落ちたって、どっちのことを言っているのだろうな」
 人間は皆、交わる事の出来ない生き物。ベストセラーを生み出した梢子にも、一部の人間から誹謗中傷の声はある。俺は知っている。五体満足で生まれてきて、何不自由なく生きているやつらが梢子に向けている視線の数々を。
 こいつを見た時の人の反応はそれぞれだ。不思議がる者。初めて見たと興味を持つも者。偽物だとバカにする者。変だと気持ち悪がる者。はたから見れば、若くしてプロの小説家になり、数々のヒット作を生み出した間宮梢子の人生は順風満帆。しかしそう見えるのは、誰も本当の彼女を知らないからだ。
「お前は訊かないんだな。私に両腕がない理由を」
 鏡越しに会った梢子の目は、とても切ないものだった。
 俺が知っている梢子は、強く、でも弱く、儚い。
「話したいのなら訊く。でもそうじゃないんだったらいい」
 知りたい。だけど、こいつの気持ちを一番に考えたい。話して、辛くさせるような事はさせたくない。それに、なんとなく分かる気がするんだ。どうしてお前に両腕が無いのか。そして、それと同時に、誰を失ったのか。
「いや……訊いてほしいんだ。お前には、私の全てを知っていてもらいたい」
 梢子は力なく、椅子に腰を下ろした。
「……人生でたった一人、愛した奴がいた。でも、そいつは私のせいで死んだ」
 
 ――やっぱりまたここにいた。
 
 鬱陶しいと思っていた、その言葉を待つようになったのは、一体いつからだっただろうか。
 奴は決まって私の前に現われては、私を叱りつけた。そこは本を読んでいい場所じゃない。と。
 (うるさい奴め)
 私は、毎度心の中で悪態をついていた。

 ――三年前――

 夏の日差しが差す、暑い日のなか、私たちは出逢った。
 執筆に息が詰まった時は、家の近くにある図書館に来て、物語の世界に足を踏み入れる。
 私のお気に入りは、図書館の端にある、本棚の間と間のスペース。夏は日を避け、そこで本を読んでいた。歴史書しか置いていない、そのスペースに立ち入る人は、ほとんどいなかった。
 奴、以外は――。
「すいません。そこ、邪魔です」
 奴の第一印象は、そう。嫌な奴。
 声の先に視線を向けると、そこには古風そうな男が立っていた。
 邪魔って、もっと他の言い方があるだろ……
 梢子は男を無視して、視線を本に戻した。
「あの、聞いてます?」
 めんどくさい奴……
 梢子は寄りかかっていた本棚から背中を離し、腰を上げ、別の場所に移動した。
 少し日は当たるが、我慢するとしよう。
 そう思い、梢子は窓辺から一番離れた席に座った。
 それから三十分ほど経った頃だっただろうか。あの男がもう一度、私の元に来たのは。
「あの……」
 図書館では静かにしましょう。子供から大人が知るルールがあるの中、小声で話しかけてきた奴の声は、弱弱しかった。
 またお前か。
 梢子は鬱陶しそうな顔を男に向けた。
「僕、もう行くんで」
「はあ……?」
 そう言い、男は図書館を出て行った。梢子が元の場所に戻ると、寄りかかっていた本棚に、メモ用紙くらいの小さな紙が貼られていた。

――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――
読書中、ごめんなさい。
――――――――――――――――――――
僕は、一ノ瀬幸太郎と言います。
――――――――――――――――――――
またあなたにお会いしたいです。
――――――――――――――――――――
           
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古風そうな男より
――――――――――――――――――――

 そいつは一ノ瀬(いちのせ)幸太郎(こうたろう)と言い、その見た目通りの達筆な字で私に手紙を書いてきた。
 古風そうな男より。か…… 私の心を読んだのか。
 ――またあなたに、お会いしたいです。
 その言葉通り、奴はまた私の前に現れた。
「こんにちは」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、あいつがいた。
「……どうも」
 梢子は愛想なくそう言い、立ち上がろうとした。
「あ、いいんです……!」
「は?」
「ここにいてもらって、いいんです……」
 そう言うやつの目は、少しばかりか緊張しているようにも思えた。
 なんなんだ……こいつ……
 梢子は不審に思いながらも、その場にいる事に。
 奴は何を言ってくるわけでもなく、ただ私の傍にいた。歴史が好きなのか、誰も読まなさそうな古い分厚い書物を読んでは、顎に手を当て、何かを考えていた。時々私を一瞥しながら。私はその視線に気づかない振りをして、本を読んでいた。
 日が暮れ、図書館も閉まる時間になり、私は本を閉じ、その場を去ろうとした。
「あっ……」
 奴は立ち去る私を見て、焦ったような声を出したが、追ってはこなかった。
 私は本棚に読んでいた本を戻すと、図書館を出た。
 ……結局、何もなかった。あんな手紙を残して、どういうつもりだったのか。
「……」
 梢子は立ち止まった。
 なんだ……この残念がる気持ちは……
 梢子は胸に片手を置いた。
 やめよう…… こんなの、私らしくない。
 再び歩き出した時だった。
「―――ません――――すいません……!!」
 振り返ると、奴が私の元へ走って来ていた。
 え……
 奴は私の前で止まり、
「あの……その……ゲホゲホッ……」
 息を切らせながらも、何かを話そうとしてきた。
 ……たくっ
「え、あ……」
 梢子は幸太郎の手を引くと、近くにあったベンチに座らせ、隣にあった自販機で水を買って渡し、隣に腰を下ろした。
「すいません……」
 幸太郎は貰った水をゴクゴクと飲みは始めた。
 そんなに必死になるほど、一体私になんの用なんだよ……
 幸太郎が落ち着いてきたのを見計らい、梢子は幸太郎を咎めた。
「おい、お前」
「はい……!」
 返事はするものの、幸太郎は梢子を見ようとしない。
「一体何なんだ? 何が目的で私に付きまとう」
「や、その……僕は付きまとっているつもりはなくて……」
 幸太郎は慌てた様子で、誤解だと両手の手の平を前につきだしてきた。
「これが??」
「いや……その……」
「ああもう! 女々しい奴だな! はっきり言え!!」
 梢子は強気な口調で言った。
 すると幸太郎は、
「……君のことが気になって」
 夏の夕暮れ。それはオレンジ色の太陽が、キラキラと輝く日だった。
「何だよ、それ……」
 それから私たちは、毎日のように図書館で顔を合わせるようになった。奴は決まって本棚と本棚の間に座る私を注意した。
 まるでそれが自分の役割であるかのように。
 私がここに座る理由を話した時は、奴は何度か瞬きをした後、そんな事かと腹を抱えて笑った。
 そんなこととはなんだ。失礼な奴だ。
 ――だが、奴はすんなりと私の心に入り込んできた。
 幸太郎は歴史学を専攻する大学院生だった。研究に没頭する日々は忙しいが、とても充実していると言っていた。あの古くて分厚い書物を読んでいる理由も理解出来た。
「僕は将来、博士号を取って、今以上に多くの研究をするんだ」
 奴の話す、夢の話が好きだった。
 頬を染め、鼻高らかに話す、あの表情が好きだった。
 幸太郎は幼い頃に父親を亡くし、母親と二人暮らしだと言っていた。
「いい会社に就職して、母さんに楽をさせてあげたいんだ」
「いい息子を持って、お母様も幸せだろうに」
「そうだといいなー」
 奴の隣は、とても居心地が良かった。
「梢子は好きな人いないの?」
 深々と降り積もる雪の中、奴は聞いてきた。
「……いないな」
 そう答える私に、奴は「ほんとに?」と聞き返してきた。
「ほんとだよ」
 幸太郎は眉を上げ、「ふーん?」と言ってきた。
「僕はね、いるんだ、好きな子」
 好きな子。いい年して、随分と可愛い表現をするな。
 聞いてもいないのに、奴はそいつの事をべらべらと話し出した。
「不愛想な奴だな」
 幸太郎が私を想っていることは知っていた。だが、私は奴の気持ちに気づかないふりをしていた。大切なものを失う辛さは、痛いほど知っていたからだ。
「でしょ?? でもそんなとこもろもまた良くて。僕も最初はあんな言い方するつもりなかったんだけど、彼女を見ると、緊張して……ついああ言ってしまって……僕を初めて見た時の彼女を顔、今も忘れないよ。こんな風に眉間に皺をよせてさ」
 幸太郎は両手で眉を寄せ、モノマネをしてきた。
 それが面白くて、梢子は笑った。
「ははっ! 私はそんな顔はしていないぞ!……あっ……」
 しまった……
 そう思った時はもう遅かった。
 幸太郎は梢子を見つめた。
「……お前、絶対わざとだろ」
「だって、梢子が素直じゃないから……」
 寒さで悴んだ手で、あいつは優しく私の頬を包み込んだ。
「僕を受け入れてくれる?」
「……もう、とっくにお前は私の心に入っている」
 幸太郎は「ふっ」と小さく笑った。
 重ねられた唇に、安心したのを覚えている。
 次の日の朝、目覚めた私の隣に奴がいたことで、私は初めて幸福をというものを知った。
 ――あいつと過ごす度に、私の心には、幸福が積み重なっていった。
「今度、梢子の事を母さんに紹介したいんだけどいい?」
「私を?」
「うんっ」
 私なんかで、いいのだろうか……
 私は、お前のような奴と、肩を並べて歩けるような人間じゃない。
「いてっ」
 下を向く梢子の頬を幸太郎が引っ張った。
「なにするんだよ……!」
「だって梢子が浮かない顔するから。どうせ自分でいいのかとか、思ってたんでしょ」
「え?……なんでそんな事まで分かるんだよ」
「梢子は分かりやすいんだよー」
「私が……??」
 今までの人生、自分の感情など押し殺し、人のために生きてきた。
 私は人の考えていることが分かった。もっと深く言えば、相手が自分に何を求めているかがだ。だがそれは超能力とかの類ではない。これは私が育ってきた環境や今までの経験からのことで、私は相手が望む自分を演じられる。昔からそうだ。相手が今、どんな自分を求めていて、どんな言葉を欲しがっているのかが分かる。だから人付き合いで揉めたことはないし、いじめに遭ったこともない。だがいつしか自分を見失っていた。
 ……疲れたんだ。だから私は自分の殻に閉じこもり、人と深く関わることを避けた。でもその先に待っていたのは孤独だった。
 私は、透明人間だった――。
 だがそれを奴が変えた。
「初めて会った時、僕を古風そうな男だなって思ったでしょ??」
「まあ……」
「フフッ……ハハハハッ!」
「なんだよっ……」
「いや、梢子はさ、言動は素直じゃないけど、表情豊かで、なんか、いいなって……」
「……お前はよく分らん奴だがな」
「ハハハッ! そんな事ないよ! 僕は梢子の前では、いつも自分らしいよ!」
 そんな奴との何気ない日々が好きだった。
「僕はね、梢子。君が出かける時は、いってらっしゃいと言う。君が帰ってくる時は、おかえりとなさいと言う。そして君に温かいご飯を作って、おやすみと言う。そんな当たり前を君と共にしたいんだ」
「当たり前……」
 ずっと、奴の傍にいたい……この幸福で満ちた心を抱えて、奴と生きて、もっと幸せになりたい。それは誰もが願ったことのある願いだった。
 ――だが、それは私には許されない事だった。
 二人で、実家を訪れる日のことだった。その日は、奴の母親の誕生日で、あいつは朝から頬を緩ませていた。
「母さん、喜ぶだろうな~ まさか彼女を連れてくるなんて、思ってもみないだろうにっ!」
 子供のような無邪気な笑顔を浮かべ、私の手を引き歩く。
「やっぱり、ちゃんと連絡をした方がいいんじゃないか……?」
 私は不安だった。せっかくの誕生日に、見知らぬ女がやって来るなんて、いい気がしないのではないかと。
 幸太郎は立ち止まり、振り返った。
「何言ってんの! これはサプライズなんだよ?」
「サプライズ……」
「そう。梢子と僕から、母さんへのサプライズ」
 そう言い、幸太郎は梢子の両手を握った。
 ――奴からの愛が、私の心から溢れた。
 真冬の一月。テレビでは連日、自動車交通事故の様子が報道されていた。雪が氷となり、道路はブラックアイスバン状態。自動車がスリップし、人が巻き込まれて死人が出ている事故もあった。私はそれを他人事のようにニュースで見ていた。まさか、自分たちが被害者になるなんて、思いもしなかった。
「行こう、梢子」
 強く握られた手は、とても温かかった。私は、奴に身を寄せながら、再び歩き始めていた。
――プゥゥゥゥゥ……!!!!
 そのクラクッションが聞えた時には、もう既に遅かった。
 目が眩むくらいの眩しい光で、前が見えなかった。
「梢子……――!!」
 気が付いたとき、私は両腕の感覚がなかった。私の上には、血まみれになっている奴が覆いかぶさっていた。
「こう、たろう……こうた、ろう……」
 私が呼びかけても、奴はぴくりとも動かなかった。
 頼む……返事をしてくれっ……私を置いていくなっ……
「っ……くっ……うぅぅぅ……」
 私達を轢いた運転手は、すぐに救急車に連絡をしてくれたが、奴は帰らぬ人となった。私は両腕の切断を余技なくされた。私が助かったのは、奴が私を守ってくれたから。事故が起きる瞬間、奴は私を庇うように覆いかぶさった。だから私は生きられた。
「あなたのせいで息子は死んだのよ……!! あなたとなんて……出逢わなければよかった……」
 奴の母は、私は私を責めた。当然の事だと思う。私は頭を上げることが出来なかった。
「息子は死んだ。……あなたは……その程度で、よかったんじゃない……??」
 大切な息子を奪われたのだ。そんな事を言われても、私が奴の母親に、憎しみや怒りの感情を持つことなんてなかった。
 もう、何もない……。
 私は心を持たない、人のカタチをで息をするだけ、何者でもない、ただの物となった。そんな空っぽな私に、牧野は言ったんだ。
「先生、書きましょう。書き続けるしかないんです。ここで終わってはダメです。負の感情に呑み込まれてはダメです」
 私は前よりも物語にのめり込むようになった。そうしなければ、やっていけなかったのだ。
 ――梢子。
 奴が最後に見たものも、最後に口に出した言葉も、私だった。
 血に染まる、白い雪――
 一度失ったものは、もう二度と戻らない。もう、お前の声を聞く事も、お前の笑顔を見る事も、お前に触れる事も、何も叶わない。タイムリープやパラレルワールドなんて、あんなものは物語の中での事にしか過ぎない。
 私の時は完全に止まった――。
「……彼は夢を持ち、希望に満ち溢れた人生を送っていた。それなのに死んだ。……私のせいで」
 梢子は淡々と語っていたが、その表情からは、喩えようのないほどの哀しみと苦しみがあった。
「私が……死ねばよかったんだ」
 梢子の目は虚ろだった。 
 青星は怖くなった。梢子が消えてしまうのでないかと。
「やめろ……そんなこと言うな……お前は、お前は生きるべきだった……!」
 だが青星がそう言っても、梢子は口を閉ざさなかった。
「いや、死ぬべきは、私だった……」
「っだから……やめろって言ってんだろ……!!」
 青星は声を荒げた。
 梢子は驚いた顔をして、青星を見ていた。
「頼むから……やめてくれ……」
 青星の声は震えていた。
「これは罰なんだ……私の罰……」
 両親の話を聞いたとき、もうこれ以上の不幸は、こいつには降りかからないだろうと思っていた。だが違った。こいはずっと暗闇の中にいた。永遠に出口のない、深い、暗闇の中に。
 自分を抱きしめるように、体を丸め座る梢子を青星は抱き寄せた。何も言わずに、ただ心は傍にいるということだけ、伝わるように。
 たとえ、この世界の誰もがお前を責めようとも、俺だけはお前の味方でいる。
 なあ、梢子。俺をお前の心のより所にしてくれ……。
 そして神様頼む、もうこれ以上、こいつを傷つけないでくれ――。

〈――我のみやよをうぐひすとなきわびむ人の心の花と散り花――〉
 
 牧野は仕事をしているふりをしていた。椅子に腰かけ、手はパソコンのキーボードの上に置かれ、視線は画面に向いているが、頭の中は別の事を考えていた。
 梢子ちゃん、原稿、進んでいるだろうか。あれから、メールではやり取りはしているけど、特に会ったりはしていないし。でも、梢子ちゃんには青星くんが付いているだろうし、でも、やっぱり心配だ……。後で様子を見に行こう。
「おい、牧野」
「……岩田」
 そこには、同じ編集部で働く、岩田(いわた)の姿があった。
 岩田は着ていたコートと脱ぐと、牧野の隣のデスクに腰を下ろした
「聞いたぞ、お前、間宮先生に独断で原稿書かせているらしいな?」
「まあ、うん」
 打ち合わせ終わりだったのか、岩田はカバンから茶封筒を取り出し、大切そうにデスクの上に置いた。
 同期の岩田は自分とは違い気前のいい男だ。今担当している小説家は気難しい相手だと聞いていたが、岩田ならどうってことないだろう。
「それにしても、よく編集長の許しを得たよなー」
「今回はそうするべきだと、判断してくれたんじゃないかな」
「お前だからってのもあるんじゃないか?」
「……僕が?」
「編集長、お前の事、結構気に入っていると思うぞ」
 牧野は少し離れたところにデスクを構える編集長の事を横目で見た。
 吊り上がったきつい目で、今日も原稿を凝視している。見た目は強面な感じだが、面倒見のいい人だ。
 牧野の編集者としての姿勢は、今の編集長から教わったようなものだ。牧野が梢子の担当になった時、当時、副編集長をしていた今の編集長が、右も左も分からない牧野を支え、気遣っていてくれた。
『お前は昔の俺によく似ている』昔、そんなことを言われたたっけな。
 あの見た目で見ているとは、どこがと牧野は思ったが、編集長は自分のどこかに、牧野を重ねたのだろう。
 自分と同じ仕事の仕方をしているから、邪険に思っていないだけではないのだろうか。何にせよ職場の責任者に好かれて悪い事は無い。
「でも、一番驚いたのはお前だよ。独断で書かせるのは、こっちも責任を問うことある。真面目なお前なら、それくらい分かっていたことだろ?」
 梢子ちゃんにあの原稿を見せられた時、自筆で書いていることに驚かされた。ネットが普及している今、手書きをしている小説家などいないに等しいが、梢子ちゃんの場合は、両腕がなく義手で生活している。そんな梢子ちゃんが自筆で書いている事が何よりも、この作品に対する思いが本気である事を示していた。
「僕はただ、先生に小説を書く楽しさをもう一度、思い出してほしいだけだ」
 僕はこの三年間、ただそれを願ってきた。
「あれからだよな、間宮先生が書けなくなったのは」
「うん……」
 梢子ちゃんが小説を書けなくなったのは、あの日からだ――。
 連絡を受け駆け付けた僕は、看護師に梢子ちゃんのいる病室に案内された。梢子ちゃんの病室に行く途中、廊下で泣き崩れる母親の姿を見た。その時は、全く知らない赤の他とばかり思っていた。
 梢子ちゃんは集中治療室で、体に色んな器具を着けられていた。医者が言うには、スリップしたトラックが二人に突っ込んだと。梢子ちゃんは重傷を負い、命を救うためにやむを得ず、両腕を切断したと。
「――二人……?」
 聞き間違いだろうか。今、そう言った気が……
「正直、女性が死ななかったのは奇跡のようなものです。あんなに大きなトラックに至近距離で突っ込まれれば、助かることはまずない。助かったのは、彼が咄嗟に、自分の身を挺して彼女を守ったからでしょう」
 亡くなったのは一ノ瀬幸太郎という男で、梢子ちゃんの恋人だった人物だ。
 じゃあ、さっき廊下で泣きくずれていたのは……彼の母親……?
「一緒にいた男性のコートのポケットからこれが」
 見た瞬間、それが何かすぐに分かった。
 こんなのあんまりじゃないか……。
 目を覚ました梢子ちゃんは、この世界に絶望していた。一ノ瀬幸太郎が死んだこと、自分だけが、生き残ったこと。
 不思議な事に、失った両腕の感覚があるみたいで、必死に両腕を動かそうとしていた。そのうち幻肢痛(げんしつう)が起こり始め、嫌でも両腕を失った事を思い知らされ、寝られない日々を送っていた。
 幻肢痛のための薬が処方されても、梢子ちゃんには効果は見られなかった。
 梢子ちゃんの時間は止まった。
 そんな梢子ちゃんに、僕はこの箱を渡そうか悩んだ。今の梢子ちゃんは負の感情に支配されている。下手の事をすれば、梢子ちゃんは……
 僕は、この箱をしまって置くことにした。
 一ノ瀬さんの葬儀は親族だけで行われ、梢子ちゃんが行くことはなかった。体の面を考慮しての事もあったが、理由はそれだけではないと僕は思っていた。
 しばらくして、梢子ちゃんは一般病棟の個室に移された。いつもカーテンは閉め切っており、僕が見舞いに行き、カーテンを開き、窓を開けなければ、ずっと淀んだ空気のまま、一人、闇の中を彷徨っている状態だった。
「お前、何か私に隠しているだろう」
 梢子ちゃんは、一点を見つめたままそう言った。
「えっ……何も隠していませんよ……」
「嘘はいい。お前が持っているんだろ」
 持っている。梢子ちゃんはそう言った。
梢子ちゃんは気付いていた。一ノ瀬さんが、自分にプロポーズをしようとしていることを。
 僕はカバンから箱を取り出し、梢子ちゃんの前に置いた。梢子ちゃんはしばらく無言でその箱を見つめると僕に開けるように言ってきた。
 箱を開けると、中にはサーモンピンク色をした宝石が埋め込まれた指輪が入っていた。
「これは……」
「パパラチアサファイアだ」
 パパラチアと言うのは、蓮の花のことで、石言葉は、<一途な愛> 蓮の花には、〈離れゆく愛〉という花言葉がある。梢子ちゃんはそれを知っていた。
 そんな意味のある花の石をあえて使ったということはまるで……

――僕が君の傍から離れることはない。

 そう言っているようだった。
 一ノ瀬さんは深く、深く、梢子ちゃんを愛していた。梢子ちゃんには、その愛を受け取る権利があったはず。二人はただ、幸せになろうとしているだけだった。それがこんな結末を迎えた。
――なんて残酷な運命が、二人を襲ったのだろうか。
「私には、これをはめる指もない……」
 梢子ちゃんの心は空っぽだ。もう何もない。このままでは本当にダメになってしまう。他にどこかに思考を持っていかせなければならないと思った。だから僕は、梢子ちゃんに小説を書くように言った。
「負の感情に呑み込まれてはダメです。あなたは書き続けるしかないのです」
 半ば強引とも言えるこの言葉。梢子ちゃんが小説の奴隷になりたくない事は分かって。だけど、この時は、梢子ちゃんを奴隷にするしかなかった。
「書き続けるしか、ない……か……」
 それから、梢子ちゃんは小説を書くために、何年も義手の訓練を積み重ね、そして、やっとの思いで義手を使いこなせるようになった。
 だが、空いた心の隙間は埋まらない。
「朝、目覚めた時に絶望するんだ。また一日が始まってしまったと」
 一ノ瀬さんの死を受け入れることは、この先一生ないだろうと梢子ちゃんは言った。自分には、梢子ちゃんを仕事の面でサポートする事しか出来ない。心の隙間は埋められない。だからどこかで願っていた。誰かが、梢子ちゃんを暗闇の中から救い出してくれる事を――。
「――きの……まきの!」
「えっ?」
「えっ? じゃねーよ。今の話、聞いてたか?」
「あ、ごめん…」
「たくっ……」
 時計を見ると午後五時を過ぎていた。
 やば、そろそろ行かないと、遅くなってからは迷惑になる。
 牧野は慌てて立ち上がり、鞄に荷物を詰め込み出した。
「どこ行くんだ?」
「間宮先生のとこ……!」
 急げ急げ~……
 上着を手に取り、「行ってくる」と、岩田に言う。
「あ、おい……!」
 走らせた足を止め、後ろを向く。
「間宮先生の新作、楽しみにしてるからな!」
「……ああ!」
 牧野は足早に編集部を後にした。
 もうすぐ、紅葉が色づく季節がやってくる――。
 真夜中、青星は部屋のドアの隙間から入る、僅かな光で目が覚めた。
 リビングに行くと、ソファーの上に膝を抱えうずくまる、梢子が居た。ってきり仕事でもしているのかと思っていたが、それは違った。
「梢子……? どうした……?」
 青星が声をかけると、梢子は顔を上げた。その表情は、引きつっていて、何か痛みにでも耐えているようだった。
「悪い、起こしてしまったな」
 眉を下げ、申し訳なさそうに謝る梢子。
「いや、そんな事はいいんだよ」
 青星は梢子の隣に腰を下ろした。
「どうしたんだ?」
 あえて明るく、でも優しくそう言い、青星は梢子の背中に手を添えた。
「……幻肢痛だ。よくある事なんだ、私のように、体の一部を失った者にはよくある事……」
 幻肢痛とは、事故などで手や足を失った人がまだ手や足があると錯覚して起きるもの。幻肢痛の痛みは例えるなら、正座をして痺れた感覚がずっとあるような痛み。人によって痛みの強さや頻度は異なるが、これは慣れていけばいくほどに辛くなるもので、梢子の場合、事故の事を受け入れられていないせいか、たまにとてつもなく痛むらしい。
「不思議な事だが、切断されてぞれなりに時間が経った今でも、両腕があるような感覚に陥る事があるんだ。可笑しいだろ。無いのに、痛むだなんて……」
 梢子は苦笑していた。
「そんな事ない。お前は苦しんでいる」
 正座ごときの痛みかと思う者がいるかもしれない。でも、そう思う者が居てもおかしくはない。これは、失った者にしか分からない、苦悩と痛み。これが一生続いていくのかと思うと、相当な忍耐力と精神力がないとやっていけない。
「……今、結構痛むか?」
 梢子はこくりと頷いた。
「……そうか。じゃあ……」 
 青星は梢子の体を自分の膝の上に倒した。
「青星……?」
「膝枕だ。光栄に思え、お前が初めてだ」
「……そうか……それは幸せな事だな。私はあのシリウスに膝枕をされているのだから」 
「ああ、そうさ」
 梢子は薄暗い天井を見上げながら、痛みに耐えていた。
 今まで、一人ここでその痛みと苦しんでいたのかと思うと、もっと早くに梢子に寄り添ってあげたかったと青星は思った。
 対処法も何もないその痛みに、耐えて耐えて、ただ耐え抜く事しか出来ない。そんな滑稽な現実――。
「大丈夫だ、俺が傍にいる」
 梢子は青星の体に身を寄せた。
「うんっ……」
 星屑のように輝く、梢子の細い髪。青星はその美しい髪を撫でるように指を通した。
 それから三十分ほど経ったころだっただろうか。梢子から規則正しい寝息が聞こえてきたのは。その寝息を聞き、安堵した青星は、目を閉じた――。 



 翌朝、青星は学校に行くため、いつものように早起きをしていた。歯を磨いて顔を洗って、制服を着て、っと。そこまではいつもと変わらない。次にするのは梢子の作ってくれた朝食を食べる事だ。しかし、今日は梢子の作る朝食はない。梢子はまだ眠っている。
 あれから梢子は何度か目を覚ました。その度に、俺に縋るように身を寄せた。そして、俺は迷うことなく、その体を抱き寄せた。
 時より震えながら俺にしがみつこうとする梢子を、俺は守りたくて仕方がなかった。
 適当に朝食を済ませ、梢子の分の食事をテーブルに置くと、鞄を持って、玄関に向かった。
 靴紐を固く結び、腰を上げると、ドアノブに手をかけ、一度振り向いた。
「……」
 見送りがないのは、初めての事だった。
 梢子に、いってこいと言われることが、俺の学校に行く活力になっていたんだ。その事の大切さが、今なら分かる。
「いってきます」
 青星は、誰もいない後ろに声をかけ、ドアノブを回した。
 エレベーターに乗り込み、エントランスを出ると、真理愛が居た。真理愛は青星に気づくと、真理愛の表情は一気に明るくなった。
「おはようっ!」
 今日も甘ったるさ全開で言われるおはようはある意味破壊力抜群だ。
 あれ以降、真理愛はこうやって、朝、学校に行く青星を待ち伏せしては、学校までの道のりを一緒に歩く。毎日一生に登校するものだから、春一には付き合っているのかと誤解までされたが、青星は全力で否定した。
 永遠にそれはあり得ないと。
 鬱陶しいこいつの好意は迷惑でしかないのは事実だが、あまり邪険にすると、梢子が周りの大人に良い印象を持たれない。それが嫌なだけだった。だから特に追い払うことなく、ただその存在に無視をしているだけ。
 今日も誰がああどか、どこに行ったとか、何を買ったとか、どうでもいい事を話す真理愛。
 そして話題は青星の事に。
「青星くんはさ、どうして間宮さんの家にいるわけ?」
「……」
 答えるわけがない。
 青星が無視を続けていると、真理愛は機嫌を損ねたように頬を膨らました。
 そうやって拗ねて、諦めて、他の男の所でも行ってくれればいい。その方が俺にとっても良い。
 すると、真理愛はいきなり、梢子の事について話し始めた。
「間宮さんって。綺麗だけど、何考えてるか分かんない感じだよね」
 青星が何を言っても反応してくれないから、梢子の話をし出したのだろうか。
「小説家だがなんだが知らないけど、周りの事見下している感じするんだよねー」
 明らかに敵意のある言い方で言う真理愛に青星が苛立たないわけがなく。
 青星の表情は分かりやすく曇った。
「間宮先生の腕ってさ――」
 青星はその言葉に足を止めた。周りには同じ学校の生徒や職員が居た。
 今日、あの授業がめんどくさいだの、スカートが短いだのと、いつもある光景が広がっていた。
 色づいた紅葉が校舎を鮮やかにし、冷たい風が吹き抜ける。
「間宮さんの腕って、義手でしょ? なんでなの?」
 言葉を続けて見ろ、俺はお前を……お前を生かさないかもしれない……
「ねえ、なんで?」
 真理愛は悪気があってそう言ったわけではない事は、考えれば分かった。だが、青星は冷静でいられなかった。
 気づいた時には、青星の手は、真理愛の胸ぐらを掴んでいた。地面には、投げ飛ばした鞄が落ちていた。
 周りは驚きの声を上げ、青星を見ていた。
「お前が、お前があいつを語るんじゃねーよ……あいつが今まで、どれだけの想いを抱えて生きてきたきたか、お前ごときに分かるはずもないくせに……」
「だって、青星くんが間宮さんの事ばかりだからっ……!」
 そして嫉妬から、真理愛は絶対に口にはしてはいけない事を口にする。
「あんな障害者のどこがいいのよっ……!!」
 ……っ! こいつっ……!!
 頭に血が上りきった青星は片手を上げた。その目は、悪魔のように凶悪だった――。
 殴られると思った真理愛は目を瞑った。
 しかし……
 青星の手は止まっていた。誰かに、手首を掴まれていた。
 横を見ると、そこには血相を抱えて走って来たのであろう、額に汗をかき、血の気の引いた春一の姿があった。
「離せ、春一。俺は今、機嫌が悪い」
「ダメだ」
 青星は殺気のある目で、春一を睨んでいた。
「離せって言ってんだ。俺の言っている事が分からないのか?」
「嫌だ」
 体格も、身長もほぼ互角な春一と青星。青星がどんなに力を入れようとも、春一もまた力を入れてくる。
 周りは騒然としていた。近くいた教員までもが駆けつける騒ぎになり、青星は仕方がなく真理愛から手を離した。
 真理愛は力なくその場に崩れ落ちると、震える自分の体を両手で抱きしめていた。
 その姿を見て、青星は我に返った。
 ――今、俺は、こいつに何をしようとしていた――? 
 俺は、俺はあの恐怖を、自分が感じていた憎悪を、他の奴に与えようとしていた。
「俺は、なんて事を……」
 青星は後悔の念に襲われた。真理愛は教員らによって、学校の中へ連れられて行った。立ちつくす青星を、春一は心配そうな顔で見ていた。
「俺は……おれ、は……」
 視界が眩んで、前が、上手く見えない……
「青星……!!」
 目の前が真っ暗になる前に、弾丸のようにそう叫ぶ、春一の声がした。
 青星は、その場に倒れ込んだ――。
 震える体。寒い部屋。凍りついた心――。
 父さん、もうやめてよ。もう俺を許して、俺を、殴らないで……。
 やめて。俺が人生で三番目に話した言葉。
 ごめんなさい。俺が、人生で二番目に話した言葉。
 生きたい。俺が人生で最も望んだ事。
 目を開けると、真っ白な天井が視界に入った。
 あれ……俺は……。
「やっと気づいたか」
 ぼやける視界の中、力を入れ上体を起こすと、そこには大宮が居た。
 どうやら俺は倒れて、学校の一室であるここに運ばれたらしい。
 大宮は青星の額に片手を置いた。
「熱はないな。酷くうなされていたようだけど、大丈夫か?」
 体から冷や汗が出ていた。見なくても分かる。顔もこわばっている。
 青星はゆっくりと息をした。
 父親の夢を見るのは、今回が初めての事ではない。ただ、最近はずっと見ていなかったから、上手く体が対所出来なかっただけだ。 
「問題ない」
 自分の言い聞かせるようにそう言った青星だったが、体と声は震えていた。
 大宮は、ベッドの脇にあった椅子に腰かけた。
「話は聞いた。……大丈夫か」
 そうだ。俺は、あいつの事を……
「俺は別に。あいつは?」
「進藤は、さっき仕事終わりの親御さん来て、帰宅したところだ」
「……そうか」
 梢子の事を言われて、ついかっとなった。もしも春一が止めてくれなければ、俺は完全にあいつを殴っていた。
 俺は……あの男と同じ事を、あいつにしようとしていた。俺と同じ痛みを苦しみをあいつに与えようとしてしまった……。俺は……取り返しのつかない事をするところだったんだ……。
「春一を呼んでほしい」
「……分かった」
 大宮はそう言い立ち上がると扉へ。
「先生――」
 青星は大宮を呼び止めた。
「どうした……?」
「この事、梢子には……」
 あいつには、心配はかけたくない。今、学校で俺が騒ぎを起こしたとすれば、あいつは飛んでやってくるだろう。自分の痛みと苦しみを追い込んでまで。
「言ってない」
 梢子に連絡がいかなかったのは、青星の家庭の事情を理解している大宮の判断だろう。
「……ありがとう、ございます」
「でも、帰ったらきちんと、自分の口から話すんだ。間宮さんは、知りたいはずだ」
「……はい」
 外は日が暮れていた。開いた窓からは、別れの挨拶を告げる生徒の声が聞こえ、カラスが鳴きながら群れを作り、山へ帰っていた。
 クラスメイトを傷つけて、倒れて、寝て、呆れる人間だ。俺は今日一日、一体何をしていたんだろうな。
 梢子、ちゃんと寝られているだろうか。朝作って来た食事は、食べてくれただろうか。無理を、していないだろうか。
 憎悪、嫌悪、後悔、悲しみ、苦しみ、痛み。こんな感情をどれだけ持とうとも、俺の頭の中は、お前が全てだった。
 梢子、お前に、逢いたい……。
 ベッドの上、膝を抱え、青星は残っている梢子のぬくもりを欲した。
 放課後のチャイムが鳴り少しして、部屋の扉が開いた。
「……よお」
 春一はそう言うと、扉を閉め、先ほど大宮座っていた椅子に腰を下ろした。
 互いに気まずいのか、すぐには話さなかった。
 そして数分経った後、
「「あのさ」」
 二人同士に口を開いた。
「先に言ってくれ」
 青星がそう言うと、春一は「分かったと」と頷き、話し始めた。
「俺さ、お前は訳アリっていうか、他のやつとは違うってなって事は、初めから感じていて。一緒にいるうちに、うすうすそうなのかなって思ってたんだけど……」
 春一は青星を気遣い、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「その……」
「いいよ」
「え?……」
 春一はここに来て、初めて出来た友達だ。今の言葉通り、春一は初めから俺に違和感を感じていた。でも、言わなかった。きっと、それは春一にとって、どうでもいい事だったからだ。
 ――こいつも、俺自身を見てくれていた。
 だから、俺の事をどういわれても、仮にお前が、俺を傷つける言葉を言おうとも、どうだっていいんだ。
「お前は……お前は一人、孤独に生きてきた。そうだろう……?」
「……お前は優しいな……」
 結局、直接の言葉を避けるんだな。
「春一、俺はな――」
 青星は、春一に自分の今までの事を全て打ち明けた。母親に捨てられた事。父親から虐待をされていた事。借金を背負わされ、クラブで男娼をしていた事。全部、包み隠さず打ち明けた。
 言葉にすれば、もっと辛いかと思っていたが、案外、心は痛まなかった。春一に、自分を知ってほしいと言う気持ちが、俺の心の中にあったからだろう。
 春一の表情はころころと変わった。眉を下げ、瞳を揺らし悲しんだり、目を吊り上げて、苛立ったり、制服のシャツを握りしめ、苦しんだり。
「でも……あいつと出会って、俺の人生は三百六十度変わったんだ。……あいつは、俺の光なんだ」
「青星……」
「春一、お前には感謝している。こんなどうしよもない俺と友達になってくれて。さっきの事も、お前が居なかったら、俺は進藤を傷つけた」
 あの男を否定しようとも、俺の中にはあいつの血が流れている。俺もいつか同じように、誰かを力でねじ伏せ、支配してしまうのではないだろうか。そう思うと、俺は自分が恐ろしくて仕方がない……。
「だからこんな俺と居たくないと思っても、仕方がない。お前が俺から離れても、俺は……」
 青星の両手は震えていた。
 記憶の中のあの光景が、音が、頭に、耳に残って離れない……。
 すると自分の両手に、春一の両手が重なった。
「お前は、汚れてなんかいない。恐ろしくなんてない。お前は優しい。だってそうだろ? お前は進藤を傷つけてしまったと後悔している。それがなによりの証拠だ」
「春一……」
「青星。俺はお前が大好きだ。これからも、俺たちは友達だ」
 友がこんなにも優しく、心強い存在である事。俺はそれが嬉しかったし、安心した。
「また明日」その一言が、今日はやけに胸に響いた。



 春一と別れ、青星は一人、廊下を歩いていた。途中、職員室に寄り、大宮に帰る事を伝えると、「気をつけて」とその一言だけだった。
 大宮は、青星がどうしてあんな事をしたのかは聞いてこなかった。真理愛や春一からある程度の事情は聞いているだろうし、事の理由が理由だからと、変に蒸し返さないようにししてくれているのかもしれないと青星は思った。
 先生の良い所は、余計な事は聞いてこない事だと思う。こんな奴が、何を偉そうに、上から目線で物を言うのかと感じだが。
 梢子になんて説明しよう。この問題に直接的ではないが、関わってるし、そんな事を言ったら、あいつは自分を責めるかもしれない。だけど、先生の言う通り、黙っているのも秘密にしているみたいでよくないし。
 玄関で靴を履き替えていると、人の気配がした。中腰になっていた体を元に戻すと、そこに立っていたのは、帰ったと思っていた真理愛だった。
「進藤……お前、帰ったんじゃ……」
「そのつもりだったけど、青星くんに謝りたくて」
 真理愛はそう言うと、同じように靴を履き替えた。
「ここでいいから、私の話を聞いてもらえるかな」
 こんな進藤は初めて見た。
 真理愛はいつになく、冷静な顔をしていた。
「……私さ、気づいていると思うけど、青星くんに、好意があるんだよね。あ、恋愛での好意だからね? まあ、疎くないと思うから、分かっていると思うけど」
「うん」
「正直、一目ぼれで。何もかも理想で、絶対に手に入れたい。そう思ったの。引っ越しは偶然だった。青星くんと同じマンションって、知った時は嬉しかったなー。あれ、これって、恋が進展する予感じゃない? って思ったもん」
 話の内容に沿って、身振り手振りをつけ、時々笑ったりする真理愛。しかし、目はずっと真剣そのものだった。
「でも……間宮さんを初めて見た時、これは適わないなって思った。美人でスタイルも良くて、自立していて、それに優しくて、性格まで良いし。子供の私なんかじゃ、到底敵いっこないって。分かってたけど、でも諦めきれなくて……」
 真理愛は腕を後ろで組み俯き、心の中で準備してきた言葉を必死に吐き出そうとしていた。
「悔しくて、あんな事、言っちゃたの……本当は、思ってなんかいないのに……」
 いつしか春一が言っていた。真理愛は強引なところもあるが、根は真面目でいいやつだと。
 あの信頼における、春一が言ったくらいだ。進藤が本当の悪ではない事くらいは分かっていた。分かっていたのに、俺は……。
 真理愛のワイシャツは、青星が掴んだ事によって皺ができていた。
 それなりに時間が経っているのに、少しも消えていない皺。それほどまでに、あの時の青星は怒りの感情に心を支配されていたのだ。
「青星くん。本当にごめんなさい……」
 真理愛は姿勢を正し、深々と頭を下げそう言った。その姿勢から、真理愛が心から詫びている事が伝わった。普段の真理愛からは、本当に想像もつかない姿だ。
 きっと、進藤の本当の姿はこうなんだ。
 愛は時に、人を歪ませてしまう。青星への純粋な好意が、いつしか嫉妬と敵意へと変わり、青星も梢子を思うが故にそうであったように、真理愛はあの時、本来の自分を失った。
「……進藤。謝るのは俺の方だ。怖い思いをさせて、本当に悪かった……」
 青星もまた、深く真理愛に頭を下げた。同情ではない。心からの謝罪だ。
「どこか、痛むところはないか?」
「うん……大丈夫」
「そうか……ならいい」
 小さく微笑む真理愛。その表情は、自然なものに思えた。
「もう行くね」そう言う進藤の背中を俺は見送った。帰り道は一緒だが、今日はもう、別々に帰った方がいいと言うのが、進藤がした判断だ。でも、そうしてくれて助かった。俺は家まで道のりの間に、梢子への説明の仕方を考えなければならなかったからだ。
 少し遠回りをしたかったが、それだと梢子が心配する。体調が良ければ、今日もあのベランダで、俺の事を待っていてくれているはずだ。
 嘘をつく事も、少しも偽る事をしない方がいいのは分かっている。でも、どうやって伝えれば、あいつを傷つけずに、心配させずに済むだろうか。
 校門を出ていつものように道を曲がると、そこには先を歩いていたはずの真理愛がいた。
 あいつ、あんなところで何してんだ……?
 青星の位置からは、ちょうど電柱と重なって、相手の顔が上手く見えなかったが、真理愛は誰かと話しているようだった。
 誰だ……??
 青星は何の疑いもなしに、その場に近づいた。
 しかし、すぐのその歩みを止めた。
 身の毛もよだつこの感覚を、俺は知っている。
「――青星くーん!」
 大きく手こちらに手を振る真理愛。
 ――嘘だ……
 一気に血の気が引いた。
 電柱の横から見えた相手のその姿に、青星は驚愕した。
 大きな体を抱え、邪悪な笑みを浮かべてこちらに近づいてくる一人の男。
 目には見えない縄に、体を縛り付けられているかのように、青星は一歩もその場から動く事が出来なかった。
 その男は、青星の目の前までやって来て、見下ろした。
「――久しぶりだなー 青星」
 男の正体。それは、青星が恐れ、嫌い、今もなお青星を苦しめ続けている存在。
「何だよ。父親の顔も忘れちまったのか?」
 七瀬一浪だった――
「青星くん、大丈夫?」
 隣には真理愛の姿もあった。
「この子が親切にお前の事を教えてくれたんだよ」
 微笑む真理愛。
 駄目だ。逃げろ進藤。その男は危険だ。そう言いたいのに声帯を失ったかのように何も話せない。
「仕方がない。お前がそんなんなら、この子に遊んでもらうとするか」
 真理愛を上から下まで舐め回すように見て、不気味な笑みを浮かべる一浪。
「っ……やめ……ろ……」
「何? 声が聞こえない。もっと大きく話せ。お前、それでも男かー?」
 けたけたと笑う一浪。完全にこの状況を楽しんでいる。
「やめろ……! あんたの言う通りにするから……だから……だからこいつには、手を出さないでくれっ……!」
 必死な思いで叫ぶ青星。
「青星くん……?」
 真理愛はさっぱり意味が分からないというような顔をしていた。
 縋るような青星のその姿に、一浪は満足したようで、また不気味な笑みを浮かべた。
「……俺は大丈夫だから、お前は、もう帰れ……」
 そう言った青星の表情は酷く怯えていた。いつも真理愛が見ている、気高さなど、どこにもなかった。まるでライオンが、兎にでもなったかのようだった。
「でも……」
「いいからいけってっ……!!」
 青星がそう言い放つと、真理愛はその場から走り去って行った。
「賢明な判断だな」
 一浪は不適な笑みを浮かべながら言った。
 良かった……これで進藤は無事だ。俺が、ここから逃げさえしなければ。
 青星は一浪を見上げた。
 あの時と同じ、俺をゴミ駄目のような目で見ている。
 梢子、すまない。俺はもう、お前の元には……
「来い」
 一浪はそう言い、青星の腕を力強く引くと、引きづるように歩き出した。
 お前の元には、もう、帰れそうにない――。

 音がした、幸せを壊す、音が――。
 目が覚めた時、そこにはいつもの天井があった。カーテンを通し、窓から入る夕暮の光をぼやける視界で見ていた。
 昨日は幻肢痛が酷く、まともな睡眠がとれなかったせいか、体は海に沈んでいるかのように重かった。
 あいつが居なかったら、きっと一睡もできなかっただろうに。
 優しく、私の髪に指を通すあいつの手から、熱が伝わって、とても安心した。永遠に続いてしまうかのような長い夜に耐え続けてきたが、今、初めて私の目の前に、夜明けが現れた気がした。
 しかし痺れる感覚は、昨日ほどではないが、今も続いていた。
 まったく、嫌になるな……
 頭を枕にこすりつけ、むしゃくしゃする気持ちをどうにかしようとした。
 私だって、いつまでも過去を引きずってはだめだと分かっている。分かっているが、私には無理な事だ。
 時間が経てば、痛みを忘れられると人は言う。私も、かつてはそう思っていた。しかし、この痛みを知って、分かった。それは、本当の痛みを知らない無責任な人間の言う事だと。強く想えば、想うほどに、想っていたほどに、失って感じる痛みは強く、重く。そういう痛みは、時間が経つほどに、濃くなっていく。
 もう日が暮れている。青星は帰ってきているのか。
 梢子はベッドから起き上がると、リビングに向かったが、そこは静まり返っていた。
 まだか……。
「――アレクサ、青星、メール」
 携帯のメールをチェックしたが、青星からの連絡はなかった。
 友達とでも遊んでいるのかもしれんな。春一くんと言っただろうか、彼とサッカーをしているか、真理愛ちゃんに連れ回されているかのどっちかだな。どちらにせよ、喜ばしい事だ。
 梢子はいつものようにベランダに出て、その帰りを待っていた。いつ帰って来るとも分からないのに、いつもこうして青星を待つ。
 あいつがそこから手を振り、笑う姿が好きだ。その日によって、あいつの表情は変わるが、私に気づくと、必ず手を振り笑う。そのたった一瞬のためだけに、私は今日もここにいる。
 早く帰って来てくれ、青星……。
――ピンポーン。
 するとインターホンが鳴った。
 青星……??
 家の鍵を持っているはずの青星が、インターホンを鳴らす必要はない。梢子は不思議に思いながらも、玄関に駆けた。
 上品とは言えないが、足を上げ、鍵を開けてドアノブを回した。
「青星――?」
 しかし扉の先にいたのは、青星ではなかった。
「間宮さん……」
「真理愛ちゃん……?」
 そこには、浮かない顔をする真理愛がいた。 
「あ、青星なら、まだ帰ってないんだ」
「違うの……」 
 真理愛は小さく首を振った。
 青星じゃないのか……?
 梢子は膝を少し膝を折り曲げ、自分より背の低い真理愛と目線を合わせた。
「どうした?」
「……どうしよ……私……私……」
 真理愛は酷く動揺していた。瞳が不規則に揺れ、冷や汗もかいているようだった。梢子はただ事ではないと察知した。
「落ちついて、ゆっくり息をするんだ」
 真理愛の目には涙が溜まっていた。
 手を添えてあげたいが、今の私には義手すらもない。
 両腕がある感覚が残っているというのに義手をつけるのは、ない事を受け入れてしまった気がして、いたたまれない気持ちになるのだ。それが嫌で、幻肢痛が起こっている時は、義手をしない。
 こうやって感情までもが、過去と現在を行ったり来たりする。誰かが泣いていても、ハンカチを差し出す事すら出来ない。
「大丈夫だ。大丈夫」
 泣いている真理愛に言っているのか、自分に言っているのか。
 ――大丈夫だ。俺が傍にいる――
 青星………。
 真理愛は息を整えると、張りつめた表情で言った。
「青星くんが、男の人と……」
「男……?」
 牧野……? じゃなきゃ阿久津……?
「お父さんって言うから、私……大丈夫だと思って、それで――」
 心臓が大きく飛び撥ねた。
「……今、なんて……?」
 その言葉に、梢子は阿久津の言葉を思い出した。
『――七瀬一浪が出所した』
 まさか……そんなわけないよな……
「どんなやつだった」
「え?……えっと、体が大きくて……背も高かった」
 間違いない。七瀬一浪だ。
「間宮さん……青星くん、大丈夫だよね……?」
「……」
「間宮さん……間宮さんってば……!!」
 真理愛の声に梢子はハッとした。
「二人がどこに行ったのか、分かるか?」
「ううん……青星くんが、帰れって行ったから……」
 青星は相手が一浪で、真理愛ちゃんの身が危険だと踏んだのだろう。迷わず、まず真理愛ちゃんを逃がしたんだ……自分を、おとりに使って。私が、こんな事になっているから……
「間宮さん……」
 真理愛は不安げな顔をしていた。きっと自分のせいだと思っているのあろう。
「大丈夫。真理愛ちゃんは何も悪くないよ。家に帰って。お家の方が心配する」
 梢子は苛立つ気持ちと焦りを必死に押さえながら、真理愛に笑いかけた。
「……分かった」
――バンッ。
 閉じた扉の前、梢子は寄りかかるように崩れ落ちた。
 酷い……心に、岩を置かれている気分だ。その岩を上から押されて、立ち上がる事の出来ないような気分にさせる……。
「……」
 梢子は体を丸め、俯いた。
 恐れていた事が起こった。
 ……考えろ……青星を救うんだ。両腕がない事がなんだ。足をもがれても、首だけにされても、私はあいつを助ける。あの日、あいつに出会った時に決めたんだ。
――この子を守ろうと。
 絶対に、絶対に、あいつを死なせない……!
 梢子は顔を上げ立ち上がると、再びドアノブを回した――。 
 初めて会ったのは、あいつがまだ十二の時だった。同じ人間とは思えないほどに、恐ろしく整った美しい顔立ち。それに透き通るほどに白い肌。その子供離れした容姿は、とても十二の少年には見えなかった。だが、同時に可哀そうなやつだと思った。その美しさが、呪いのように自身の首を絞めている。生まれた環境が、親が、まともだったら、もっと上手く生きられたのかもしれないのに。
 あの日の天気予報ははずれ、午後から土砂降りの雨が降った。せっかく仕事を早めに終えたというのに、外は雨。仕方なく近くのコンビニでビニール傘を買い、帰ろうとした時だった。通りかかったスクラップ置き場の前に、傷だらけの少年が倒れていたのは。
 こんなところに子供……?
 阿久津は倒れている少年の目の前にしゃがんだ。
「おい、小僧……」
 阿久津が声を掛けても、少年からの返答はなかった。
 まさか、死んでるんじゃねーよな……
 少年の首に手を置くと、脈は正常に動いていた。
 気を失っているだけか。にしても、なんでこんなところに……。
 衣服が乱れてないところを見ると、そういうわけではなさそうだな。チンピラにでも目をつけられてボコられたのか。
 ここで野垂れられても困るしな。とりあえず救急車でも呼んどくか。
 阿久津が上着のポケットから携帯を取り出そうとすると、それを阻むように、少年の手が阿久津の手に触れた。
「……いい……」
 少年はうっすらと片目を開け、弱々しくそう言った。
「すごい怪我だが?」
「いいって言ってんだろ……!」
 強気な物言いとは反対に、少年の目は怯えていた。
 触れられた手も、小刻みに震えていた。少し離れたの方から聞こえてくる下品な男たちの笑い声を聞くと、少年は体をびくつかせていた。
 こいつまさか……
「おい、お前」
 阿久津がそう言いながら、少年の顎に手を添えると、少年は錯乱していた。
 やっぱり……こいつ、男が怖いんだ。特に、大人の男が。
「っ……俺に触るな……!」
 少年は阿久津の手を振り払うと、ふらふらと立ち上がり、雨の中、一人走り去ってしまった。
「……」
 ――この時は思いもしなかった。またあの少年に、会う事になるとは。
 金を貸している一人の男が、借金を滞納しているという連絡が俺の元に入った。その男は元軍人らしく毎度、ありもしない言い訳を並べ、期日を先延ばしするらしい。
 男が住んでいると言うアパートを訪れると、家の中からは、普通ではない音がした。
 ガラスのような物が何度も割れる音。
 子供の悲痛な叫び声。
 男の尋常ではない怒鳴り声。
「やめときなさい」
 阿久津がドアノブに手をかけると、たまたま通りかかった、同じアパートの住人と思われる男が俺を止めた。
「もう何度も警察にも言ったんです……でも、まったく取り合ってもらえなかった」
 男の握られた拳は震えていた。
――ガシャーン……!!!
 叫び声は、悲鳴へと変わっていた。
「だから……見殺しにしろと……?」
「あなたが殺されしまう……!!」
「……お前は後悔する事になる。あいつを助けなかった事を……」
 阿久津はドアノブを強く回し、中に踏み込んだ。
 そして俺は知る事となる。十二歳の少年が置かれている残酷な現実を。
 玄関を入ってすぐ横にある部屋で、少年は父親から暴力を振るわれていた。近くにいた母親は、見て見ぬふり、子供の事など、どうでもいいと言った顔だ。
 少年の身ぐるみはボロボロで、顔は赤黒く腫れ上がっていた。体格のいい父親は、少年など簡単に殺してしまいそうだった。阿久津の侵入に気づいた母親は声を上げ、父親に抱き着いていた。
「なんだ……? お前は」
 父親は掴んでいた少年の胸ぐらを放り投げるように離した。
 少年はもうろうとした意識の中、阿久津を見ていた。
「七瀬一浪だな。俺は阿久津」
 その名前を聞いた瞬間。一浪の顔から血の気が引いた。一浪はすぐに阿久津が金を借りていると闇企業の親玉だと分かったらしい。
 阿久津はゆっくりと一浪に詰め寄った。
「滞納している金の回収に来た。さっさとよこせ。払えないなら、保険金をかけて死ね。名義は俺だ。忘れるな」
 阿久津の迫力に負けた一浪が取った行動。
 そう、子供を阿久津に売った。
「あんた、違法クラブ経営しているんだろ? だったら、こいつをそこで働かせて、金を返させる……それでどうだ」
 俺は何度、こいつらガキを闇へと引き込めば、救ってやられるんだろうな……。いや、分かっているはずだ。俺には、本当の意味でこいつらを救うことは出来ないと。
 経営するクラブの中に同じ年の子供はいた。みな親が居なかったり、家出をして居場所がない者ばかりだ。やつらをどうにかしてやりたいと思っても、俺のような人間には、ただ命を守る事しか出来ない。
「……小僧、どうする」
 俺は無理強いはしない。生きるも死ぬも、こいつらの自由だ。生きたいと思った奴だけ、俺は仕事を与える。だから自分は悪くない。なんて……言えたら楽だったのにな。 
「卑怯だな」
 少年は掠れた声でそう言った。
「……その通りだ。俺は卑怯だ。だから選べ。このクソ野郎から殴られる日々か、クソ野郎どもの世話か」
 殴られて充血している瞳で、少年は力強い眼差しを阿久津に向けてきた。
「……やってやるよ……クソどもの世話、やってやるよ……!!」
「……交渉成立だ」
 少年の父親は幹部クラスの元軍人で、警察組織とも深いつながりを持っていたため、警察は自分たちの保身のため、少年への虐待の事実を無視したのだ。
 つくづく思う、日本の警察は、何をしているのだと――。
 あの時、家に居た母親は、少年の実の母親ではなく、父親の恋人で、あの家に入り浸っているだけだった。
 少年の名前は七瀬青星と言い、母親は幼い頃に青星を置いて、家を出て行ったらしい。
 もしもその時に、青星を一緒に連れて行ってくれれば、今はもっと違う未来がこいつにあったのかもしれないと思わずにはいられなかった。
 青星の虐待は身体的な虐待で、その原因は経済的なものからだろう。仕事が上手く行かなくなった父親は、酒や賭け事に溺れ、現実を見なかった。ストレスは溜まり、そのはけ口になってしまったのが青星だった。子供の青星にとって直接的には何も関係のない事。虐待というものは、そうして起こっている。
 外は雨が降り始めていた。阿久津はバーカウンターに腰を掛け、雨の音に耳を傾けていた。
 あの時も、こんな風に雨が降っていたっけな。
 もうあれから一年が経とうとしている。青星は、元気にしているだろうか。あの女の元で、楽しく過ごせているだろうか。戻ってこないあたり、きっと上手くやれているのだろう。 
 ……仮に上手くいっていなかったとしても、ここには戻りたくないよな……。
 どこで何をしていてもいい、犯罪に手を染めるような事になっていたとしても、いい……いつも自分を一番に考えて、生きていてほしい。光を浴びられなくとも、せめて、カケラをあいつの傍に――。
「なんなんですかあなた……!」
 後ろを振りむと、そこには梢子の姿があった。
 間宮梢子……なぜここに……というか、なんだその姿は。
 髪も服もずぶ濡れで、ゾンビのような姿だった。梢子のその異様な光景に、阿久津は直感的に青星の身に何かがあったのだと思った。
「青星か。何があった」
「……確認する。お前は何もしていないんだな……」
「何?……」
 俺が何もしていないだと……? 
 梢子はズカズカと阿久津に詰め寄ると、殺気のある瞳で阿久津を睨んだ。
「お前はあいつに何もしていないんだろうな……!!」
 正気とは思えない、梢子のその姿に、阿久津は思わず言葉を失い、後ろに後ずさった。
 こいつ、頭に血が上って我を失っている。今なら人を殺してもおかしくはない。
「……間宮、落ち着け。俺は何もしていない……」
 間違いない。こいつのこの苛立ちようと焦りよう、青星に何かあったんだ。ここに来たということは……七瀬一浪、あいつだ……。
「おい、今日は休業だ」
 阿久津は店の従業員に向かって、そう言った。
「え、休業って……そんな急に無理ですよ……!」
「いいから休業だ。間宮、こっちに来い。俺も力を貸す」
 疑り深いこいつが、俺を信用してくれるかどうかが問題だが……。
 阿久津は奥に続く部屋のカーテンを持ち上げ、梢子を誘導しようとした。
 梢子は阿久津をじっと見ていた。阿久津その言葉がほんとかどうか見極めているのだろう。
 阿久津も梢子から目を離さずじっと見た。
 十秒ほど経つと、梢子は阿久津からを目を逸らし歩き出すと、何も言わずに部屋の中へと入った。
 奥の部屋は、普段、ここにある仕事部屋とは別に、阿久津が休憩室として使っている場だ。従業員や部下は立ち入らせない。
 部屋の中には、寝る為だけに置かれたソファーが、真ん中にぽつんとあった。梢子はそこに腰を下ろすと、阿久津を見ていた。
 阿久津は梢子の目の前を通り過ぎると、端にある金庫の前に跪き、パスワードを解除しあるものを取り出した。阿久津はそれを胸元にしまった。
 二人を顔を見合わせた。
「……チャンスは一度きりだ」
 阿久津のその言葉に梢子は頷いた。
 梢子と車に乗り込むと、阿久津はもう一度、胸元からそれを取り出した。
 相手は元幹部の軍人。戦いに慣れている。失敗は許されない。
 玉が入っている事を確認し、阿久津は車にエンジンをかけ、ハンドルを握った。
「行くぞ――」
 真っ暗な空間の中、冷たいコンクリートが頬にあたり、体から徐々に熱を奪っていた。
 あれから、どのくらいの時間が経っただろうか。自分はこれから、どうなるのだろうか。
 ……どうにかしてここから出ないと。でも、一体どうやって……。今、ここがどこなのかも分からない。
 真理愛と別れた後、青星は一浪に気を失わせら、ここまで連れて来られた。目覚めた時には、この暗闇の中で、一人だった。
 幸いにも、手と足は拘束されていない。隙をつければここから脱出、出来るかもしれない。せめて、この暗闇さえどうにかなれば……。
 闇が、覆いつくそうとして、不安と孤独を感じさせた。
 ……本当に、出来るだろうか。ここから出る事なんて、あいつから、逃れる事なんて。
 ――青星。
 優しく俺の名を呼ぶ、あいつの声が血液を通して、体全体に駆け巡る。
 梢子……。
 帰るんだ。帰らないといけないんだ。あいつの居る家に。俺は生きないといけない。
 立ち上がり、手から分かる感覚を頼りに、壁伝いに歩く。手で触れた感じ、どうやら壁もコンクリート出来ているようだった。
 カーテンはついていない……やっぱり、窓がないんだ。
 拳を作り、壁を二回ほど叩いた。
 ――コンッコンッ。
 すると、低く詰まったような音がした。
 今度は、空振りしないように意識を集中させ、手に平を合わせ叩く。
 ――パンッパンッ。
 すると音が壁に跳ね返った。
 次に壁伝いにゆっくりと歩く。出来るだけ正確な広さを知る為、自分の両足を定規代わりにした。すると何十歩か歩くと、壁に手が触れた。部屋が続く方向に体を九十度回転させ、再び自分の両足を定規代わりにする。そしてまた何十歩か歩くと壁に手が触れた。
 次はドアだ。ドアがどこにあるのか分からないと隙があったとしても逃げ出せない。
 壁を伝いドアを探すと、壁と床と同じ、コンクリート製であろう、ドアが見つかった。試しにドアに耳を当て、耳を澄ませてみたが、何も聞こえなかった。
 なるほど……。
 一度、これまでの事を整理してみよう。
 青星はドアの前から数歩下がり、あぐらをかいた。
 まず、この部屋は防音に優れている。叫んだところで、俺の声は聞こえにくい。窓がないあたり地下だと考えるのが妥当だ。まさに誘拐犯が誘拐の際に選びそうな場所。
 部屋の中が、どれだけの広さがあるのかを確かめるため、縦横、壁から壁までの距離を歩いた時、どちらも同じ数の分だけ進んだ。つまり、正方形型の部屋だと推測する。
 あいつがセキュリティーの整った家を得られるだけの金と権力がない事は、分かっている。だから、高級住宅地区は除外する。
 再会した一浪の姿は、衣服は汚れ、靴もかかとがすり減っていて、身なりが良いとは言えなかった。一浪のように強欲な男は、金を手に入れたら、派手に使うはず。身なりに豪快さがない事で、青星は、一浪が以前と同じ堕落した生活を今も続けているのだとすぐに分かった。何よりも青星を連れ去ったのが何よりもの証拠だ。
 ものすごく山の中に来ているのか、それとも自宅からそう遠く離れていない場所なのか……。
 なんにせよ、こんなところを偶然、見つけたということは考えにくい。あいつは元から俺をここに連れてくる手筈だった。 
 さて、この部屋の事は大体分かった。問題はここからどうするかだ。当たり前だが、俺のスマホや荷物はあいつに取られている。試しにを床を這ってみるも、使えそうなものは何もなかった。
 あいつの方から何かアクションを起こさない限り、今はどうもならない。俺に暴力を振るう事を生きがいとしていたやつだ。必ず俺を殴りに来る。だからその時まで、ただ今は、耐えるんだ。この逃げたくなるような状況から、一人強く耐えるしかない。
 青星は天を見上げた、だがそこには、あの時のような星なんていうたいそれたものは、欠片もなかった。
 ……梢子。俺はここだ――。