長い、長期休みが終わり、学生たちが現実に戻った九月上旬、梢子は程よく冷房の効いた、喫茶店を訪れていた。いつもの席に、いつものコーヒー。必要なとき以外、冒険をしないスタイルは、昔から変わらない。
 九月と言っても、まだまだ暑い日は続く。窓越しに見える景色には、スーツを着たサラリーマンが、ハンカチで額の汗を拭い歩いていた。
 世の男性たちはこうして仕事をしているのに、加齢臭だのなんだの言われると、侵害だろう。自分は涼しい店内で仕事だものな、ありがたい。
「おかわりはいかがですか」
 横から和む声がして見ると、コーヒーサーバーを持った花田がいた。今日も白いシャツに、黒いエプロン姿だ。額を出した白髪の髪は、綺麗にまとめられていて、背筋を伸ばし佇むその姿は、気品が漂う。初めて花田を見た時、素敵な人だと梢子は思った。
「いただきます」
 にっこりと微笑みながらそう答え、おかわりを注いでもらう梢子。湯気と共に、ふわりとコーヒーの香ばしい香りがして思わず鼻で香りを吸い込む。
 ああいい香りだ……
「どうぞ」
「どうも」
 会釈をすると、梢子はコーヒーを一口飲んだ。
 ……最高。
 梢子は花田を見ると、またにっこりと微笑んだ。そんな梢子に返すように、花田も微笑んだ。笑った時にできる目尻の皺が、また和む。
「最近、何かいい事ありましたか?」
「え?」
 急にそんな質問をされ、梢子は首を傾げた。
「いや、こないだ来てくれた時よりも、表情が晴れやかなので、何かいい事でもあったのかと思いまして」
 自分では気づかないが、そんな顔をしているだろうか。……でも、そうなのだろうな。
「そうですね、ありましたね、良い事」
 梢子がそう答えると、花田は微笑み、「良い一日を」と、カウンターの中へ戻って行った。
 青星に父の事を話して、私の心は安らいだ。でも、出来ればあいつに、あんな自分の姿は見せたくなかったし、父のような人間をあいつの世界には入れたくなかった。あいつには、もう少しの苦しみも与えたくない。
 人間って、絶対に下手くそな生き方しか出来ないようにつくられている。進んで、転んで、立ち上がって、また進んで、また転んで、後ろを見るけど誰もいなくて、絶望を感じてもう無理だってなるけど、ふと隣をみたら誰かが居てくれて。そして一緒に手を取り合って、前に進む。でも、時々、傷つけたり、傷つくのが怖くて、その手を掴めない時もあるけど、それでも多くの人に救われ、懸命に生きていく。それなのに、どうして私の父は、一人で完璧に生きようとするのだろうか。完璧な人間などいないのに。弱さを見せる事が、父にとって、一番の恥なのだろう。でもそれでは、失う事の多い人生となってしまう。そんな人生で、あの人は本当に幸せなのだろうか。
 切っても、切れない関係。血のつながった関係というもの。嫌いになりたいのに、本気で捨てる事は出来ない。だから、こんなにも頭を悩ませる。
 ……もうやめよう。私があの人の事をどうこう考える必要はない。
 父親の頭の隅に追いやるように、梢子はコーヒーを飲み干した。
 牧野が来ると、世間話もほどほどに、すぐに打ち合わせを始めた。
 注文したアイスコーヒーを飲むと、牧野は鞄から茶封筒を取り出した。だが牧野がテーブルの上に置く前に、梢子が一つの原稿を取り出し、テーブの上に置いた。
「……これは?」
 突然出された原稿に、牧野は目を丸くして、何度か瞬きをしたのち、そう問いかけてきた。
「実はな、別に他の原稿を書いていたんだ」
 タイトルは無題だった。牧野はその原稿を手に取り、最初のページをめくった。
「梢子ちゃん……これって……」
 それは梢子の自筆の原稿だった。両腕がなく、義手で生活している梢子が、自筆で書いている事に、牧野はとても驚いただろう。
「これは、一体どういう事?」
 牧野は必死に考えを巡らせていた。梢子が、わざわざ辛いやり方を選ぶその理由が、分からないのだろう。
「それだけはどうしても、手書きで書かなければならないんだ」
「読んでもいい?」
「もちろんと言いたいところだが、今はダメだ。時が来たら、必ず見せると約束する。それまでは、何も言わずに待っていてくれないか?」
「……何か、理由があるんだね?」
 梢子は頷いた。
 牧野は原稿を閉じ、梢子の元へ返した。
「すまないな、牧野」
 梢子はその原稿をカバンにしまった。
「こっちの方は、白紙に戻すよ」
 そう言うと、牧野は持ってきた原稿を梢子に返した。
「いいのか……?」
「うん」
「あいだあいだのストーリは絶賛していたから、てっきり直されるのかと」
「そのつもりだったけど、今の話を聞いて、気が変わった」
 梢子は書く事でしか自分の存在価値を生み出せない人間。だがそこには、小説を好きだと言う、物語を書く事が好きだという前提がある。本当に書きたいものを楽しいんで書けなければ、梢子にとって意味がない。そんなところも、牧野は理解してくれている。
「編集長には、僕から上手く言っておくから。書いて梢子ちゃん。梢子ちゃんの本当に書きたいものを」
 牧野は、眼鏡の奥の糸目を下げ、少しばかり頬を緩めた。梢子は知っている。これは牧野が誰かを思いやる時にする表情だ。
「……うん。ありがとう」
 なんとしても、この物語だけは、自分の手で、完成させなければならないんだ。