「青星くん」
授業を終え、学校を帰宅しようとすると、女子生徒に話しかけられた。 甘ったるい声に、不快な香水――。振り向くと、そこには想像していた通りのやつが居た。
「帰るんでしょ? 私も一緒にいい?」
「……なんで俺がお前と」
「いいじゃん。クラスメイトなんだから」
そう言って、俺の腕を掴み、自分の体にぐいっと引き寄せた。
胸に押し当てて、俺を誘惑しているつもりか?
「離せ。お前みたいな人間は嫌いなんだよ」
掴まれた腕を力づくで振りほどき、歩きだした青星。
たくっ……こんな事なら、共学の学校を選ぶべきじゃなかったな。あの家で眠りたいばかりに、選択をミスったかもれない。
後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえる。青星は足を止めた。
するとガツっと後ろから肩を掴まれた。
しつこい……
青星は掴まれた肩の手を振り払うように、勢いよく、後ろに振り向いた。
「俺に近寄るなよっ……――!」
だが、そこにいたのはあの女子生徒ではなかった。
「どうした……いきなり……」
春一は大きな瞳を見開き、青星を見ていた。
「あっ……いや、悪い……」
驚く春一に、青星は申し訳なさから顔を背けた。
鬱陶しさからつい、きつい言い方をしてしまった。
「どうした? そんなカリカリして」
「あの女かと思ったんだよ……」
「あー……もしかして、真理愛(まりあ)の事?」
「真理愛……?」
「そう、進藤(しんどう)真理愛 。同じクラスのやつだよ」
春一以外のやつの名前なんて、俺は知らないからな。名前を言われても、いまいちピントこないが、多分その真理愛とかいうやつだと思った。
春一と真理愛は同中で家が近所の幼馴染らしい。進藤は真理愛の事を少々強引なところもあるが、根は真面目でいいやつだと言っていた。
「あいつ、イケメン好きだからな~ でも、青星は、恋愛とか女には興味なさそうだもんな」
あるわけがない。少なくとも、俺がここにいるやつらに、そういう類の感情を持つことなんてない。
今日は部活が休みだという春一と共に学校を出る。
さすがに、牧野の姿はないか……。
「はあ……」
自然と出た溜息。牧野が居ないことに安堵しているのか、その逆か。
夕暮前の公園には、子供が多くいた。砂場で城を築いたり、ブランコでどこまでこげるか競争したり、追っかけっこをしたり。
青星は立ち止まり、その光景を眺めていた。
公園なんて来たのは、数えられる程度だ。平日は母親の仕事が終わるまでの間、よく公園で一人、暇をつぶしていた。人見知りだったせいか、友人と呼べる友人も、幼少期の俺にはいなかった。
寂しい幼少期。それでも、母親の帰りを迎えられた事が、あの頃の俺にとって、最高の喜びだったのは間違いない。
「すいませーん」
サッカーをしていた少年たちのボールが青星の足元に転がって来た。こっちに蹴ってほしいと言う少年たちの言葉をよそに、青星はそのボールを上から見下ろしていた。
「おい、青星。蹴ってやれよ」
隣でそう言う春一。
だが、これをどうしていいものか、青星には分からない。
「俺、サッカーとかやったことないから」
「は?……マジかよお前」
春一はあんぐりと口を開け、青星をまじまじとみた。
サッカーどころか、スポーツなんてやった事もない。
「とりあえず、それ貸せ。俺が蹴ってやる」
春一は青星からボールを受け取ると、「いくぞー!」と大きな声で少年たちに声をかけ、ボールを空高く蹴り上げた。
ボールは宙高く舞い、空に浮かんでいた太陽まで届きそうだった。
少年の一人はそのボールを体で受け取っていた。
「おお、トラップうめえじゃん!」
春一は、ボールを受け取った少年を見てそう叫んだ。青星にとっては、なんてことない動作に見えてもサッカー好きの春一にとっては興奮するようなものらしい。お礼を言う少年らに、春一は笑顔で手を振った。
「……で、お前、サッカーやったことないってマジ?」
「マジ」
「そっかー マジかー……」
変わり者だと思われただろう。でも、それは間違ってはいない。俺がどんなところで生まれ育って、今まで何をしてきたのか話したら、こいつは俺の前から消えるだろうか。俺とは違い、日向の道だけを歩いてきたであろうこいつに、俺の闇を見せて、苦しんでしまわないだろうか。俺は、自分のせいで、周りの人間の光が一瞬でも消えるのが嫌なんだ。
「やる? やらない?」
「……え?」
「だから、サッカー。やる? やらない??」
選択肢を与えられる事の喜び。人と関わり合う事は、怖い事。でも、こんな俺でも、わがままを言ってもいいのなら。
「やりたい。サッカー、したい……!」
青星がそう言うと、春一は前歯を見せて、ニヒっと笑った。
「そうこなくっちゃ!」
春一は公園に居た少年たちを集め、自分たちをサッカーに混ぜてほしいとお願いした。少年たちは快く承諾してくれ、青星は初めてサッカーを経験する事に。
自分の足元に渡されたボール。その上に足を置き、靴を通しボールの感覚を知る。前方にあるゴールをめがけ、ボールを前に押し出すようにして走る。だんだんと息は荒くなっていき、額には汗が流れる。
「青星――!」
自分の名を呼ぶ友の声に反応し、俺は友へパスを送る――。そして何度かパスを繰り返し、ゴールは俺のすぐ目の前に現れた。ゴールキーパーの動きを見て、俺は正確なシュートを決める。
――パッシュ……!!
「よっしゃあ……!」
決まったゴールを見て、春一は青星の元に駆け寄った。
「ハイタッチしようぜ!」
顔の前で、手の平を見せてくる春一。青星は自分の手を春一の手に合わせた。
――パッチン!
また一つ。俺の中に不思議な感覚と感情が生まれた。今日は、人と何か成し遂げた時に湧く感情と、そこに辿り着くまでの経緯で感じた感覚だ。
「また一緒にやろう」帰り際、春一はそう言ってくれた。
春一は、本当に俺とは正反対な人間だ。キラキラしていて、いつも人に囲まれていて、太陽みたいに明るい。その光できっと、多くの人を照らしてきたのだろう。今日、俺を照らしてくれたように。でも、春一の光は、もっと別のやつに渡してほしいと思う。春一を想い、好いてくれるようなやつに。俺の光は、あいつだけで十分だ。あいつ以外の光を望むなんて、それこそ本当に強欲だ。
……いや、違うな。俺はきっと、あいつだけがいいんだ――。
家までの残りの道のりを一人歩く。少し坂になっているこの道を登れば、ほら、見えてきた。
俺を見て微笑む。あいつの顔が――。
午後は気温がどんどん上昇すると、朝のニュース番組で気象予報士が言っていた。こんなに暑いと、外にも出たくなくなるが、今日は出なくてはならない。
梢子はノースリーブのワンピースを手に取った。普段は長袖を着ていることが多い梢子。義手を着けていることで感じる、人からの視線を気にしているわけではない。だからと言って、日焼けを気にしているわけではない。単に長袖が好きなだけだ。肌触りの良い素材の洋服を着ているとなんとも心地よく安心するのだ。
夏にと思って買った、大きめのマクラメバッグをクローゼットの奥から取り出し、荷物を詰め込む。梢子は荷物を多く持ち歩くタイプの人間だ。特に夏が多く、財布や家の鍵などの貴重品以外に、水筒や日傘も持ち運ぶ。外を歩く時は日傘を差さないと、頭皮が焼けて頭痛がするのだ。
玄関に鍵をかけ、エレベーターに乗り込む。途中、ベビーカーを押した子供連れの母親が乗って来た。
子供は、まんまるとした大きな黒い瞳で、梢子をじっと見つめていた。
赤ちゃんはこの世に、ただ一つだけ存在する純真無垢な生命だ。この目で、これから多くのものを見て、知っていくのだろう。どうかその先にある未来が、明るいものであるようにと、梢子は赤ちゃん笑いかけた。きっとその笑顔は世界一ぎこちなかっただろう。
ウイーンと音を立てて開いたドアの奥から、強い日差しの暑さを感じ、梢子は愕然とした。
暑い……暑すぎる……まだ夏前だろ。
梢子は持っていた日傘を差し、再度カバンの中に水筒が入っていることを確認して、エントランスを出た。道中、ワイヤレスイヤホンを耳に着け、音楽を再生した。外の音が拾えるように、音量は小さめに。梢子が使っているイヤホンは、昔の友人からプレゼントで貰ったものだ。その友人は機械に詳しく、一緒に電気屋に行き店員におすすめを聞きいて、梢子の耳に合うものを選んで買ってくれた。
最近のワイヤレスイヤホンは、性能がよく驚いたものだ。前に一度、バスターミナルでバスを待っていた時、横から気配を感じ向くと、七十代くらいのおばあさんがいた。そのおばあさんは、トイレに行くのに荷物を見ていてもらいたかったほしく、何度か私に声を掛けていたみたいだったが、私は全く気づかなかったのだ。自分は耳がいい方だと思っていたが、自分の感覚で丁度良い音くらいの音量にすると、周りの音が全く聞こえなくなってしまうのだ。音楽を聴くことに特化したイヤホンなのだろうが、何かあった時に対処出来ないとその時に実感した。しかしそうは言ってもプレゼントで貰ったもの。結局気に入って、出かける時や、仕事中気分がのらない時などと、毎日のように使っている。ただし、注意をして。
時計を見ると、午後三時を回っていた。そろそろ学校を終えた青星が、こちらに向かってきている頃だ。今日は、青星と買い物に行く約束をしていて、学校終わりの青星と駅で待ち合わせをすることになっている。しかし、待ち合わせ時刻を過ぎても、青星は現れない。
何かあったのだろうか。学校の都合で遅れているとかならいいのだが。
待ち合わせ時刻から遅れる事、数十分。青星の姿が見えた。
「おーい、って……は? なんだあれ……」
見ると、青星の後ろには、同じ制服を着た少女が居た。青星は不機嫌な顔をしながら、ズカズカとこちらに歩いて来たが、少女の顔はいたって普通だった。
なんなんだ……。
「ついてくんじゃねーよ……!」
青星は怒鳴るように少女にそう言った。
「おいおい、一体どうしたんだよ」
梢子がなだめるようにそう言うと青星は、溜息をつき、少女を睨みつけた。
「こいつが勝手に俺の後、つけてきやがったんだよ」
「酷いよ青星くん! 私は話がしたいって言ったのに、全然聞いてくれないからじゃない!」
「俺はお前なんかと話す事はないんだよ! さっさと俺の前から消えろ、目障りなんだよ」
「そんな……酷い……」
少女は顔を手で覆い、泣き始めた。
ああ……泣き始めた……
「勝手に泣いてろ。行こうぜ梢子」
「あ、おい……!」
そう言って梢子の腕を引っ張る青星。
「いや待て、このまま一人にも出来ないだろ」
「は?……こんなやつ、どうだっていいだろ。俺は被害者なんだよ。こないだっからずっと、嫌というほど追っかけ回されてんだよ!」
「しかしなあ……」
周りの人たちは何事かと梢子たちを見ていた。
完全にカオスだな。
えっと……こういうのはどうすればいいんだ。
「あの……君。あのさ、なんか、青星に話があるんだろ? 私はここで待っているから、そこの喫茶店でも入って、話してくれば?」
「は、おま、待てよ! 俺は話す気なんてねーよ……!」
「お前はなくとも、この子は話したがっているじゃないか。とりあえず、話だけでもいいから聞いてやれよ」
青星の言い分も分かるが、どっちにしろ、この子は話を聞いてもらうまで、引き下がるようには思えんしな。今ここでどうにかしとかないと、面倒なのは青星だ。
「君。それでいいか?」
梢子がそう言うと、少女はこくりと頷いた。
「でも……」
「でもなんだよめんどくせ……」
「あなたも、一緒にお願いします」
そう言い、少女が見ていたの、梢子だった。
「え……私??」
なぜこうなったのか。それは梢子には分からないが、今、梢子は青星のクラスメイトの少女と、三人で喫茶店に来ていた。綺麗なネイルがされた手で、オレンジジュースの入ったグラスを持つ少女。先ほどまでの泣き顔はどこにいったのかと思うぐらいに、にこにことしていた。
まあ、こういう感じの子だと言うのは分かっていたが、それを目のあたりにすると、なんか怖いな。それに今どきの子ってのは、みんなこういう感じなのか。メイクして、ネイルして、髪も染めて。私の時代はあんなことしたら、許されなかったぞ。
「要件を早く言え」
隣に座る青星は先ほどと表情を変えず、いやむろ、先ほどよりも表情がきつくなっている。まあ、無理もないだろう。学校で追いかけ回され、放課後も追いかけ回されたかと思ったら、公共の場で泣かれる。最悪すぎる。
「ケーキも食べようかなー」
メニュー開き、愛らしい声で話す少女。
少女は俗にいう、あざとかわいい女子なのだろう。男という生き物を知り尽くしたような甘い話し言葉に態度。男慣れしているのは見ていれば分かる。
「ふざけるな。お前のせいで俺たちは時間を無駄にしているんだ。これ以上、俺をイラつかせたくなかったら、さっさと話せ」
青星の尖った声と鋭い目を見て観念したのか、少女はメニュー閉じた。そして、梢子に向き直った。
「私、青星くんと同じクラスの進藤真理愛って言います」
意外にも、律儀に頭を下げる真理愛。礼儀はそれなりにあるようだ。
「間宮さん、ですよね?」
「え、あ、はい……」
なんで私の名前を。
「私の事、ご存知ありませんか??」
「えっと……」
うーん……誰だ?
人好き合いが多くない梢子。知り合いだったら、すぐに分かるはずだが、真理愛の事はこれっぽっちも思い当たらなかった。
「すまない。私は君を知らない」
「そうですか……まあ、無理もないです。引っ越してきたばかりですし。マンションだと、あまり他の人にも会いませんしね」
「マンション??」
「はい、私、間宮さんと青星くんと同じマンションに住んでいるんですよ」
「……えっ! そうだったのか!?」
「はい、何度か二人を見たことがあって」
なるほど、それで私の名前も知っていて青星にも。……まあ、青星に近づいたのはそれだけではないような気がするが。
「……最悪だよ……お前なんかと同じマンションとか……」
青星は頬杖をついて、外を眺めていた。機嫌は悪くなる一方だ。
「まあ、まあ、そう言わず」
そんな青星を梢子はさらになだめる。
話から察するに、この子は私と青星が一緒に住んでいるのを知っている。私をここに居させたのも、私たち二人の関係を知りたがっているからだろう。最初は青星に訊こうとしたが、相手にしてもらえず、たまたま居合わせた私を見て、こっちに訊いた方が早いと思ったのだろう。青星も限界のようだし、ここはさっと話をまとめて、退散してもらうとするか。
「真理愛ちゃん。と呼んでもいいかな?」
「はい」
「君が想像しているような事は、私たちの間にはないよ」
そこは誤解があってはならないと、きっぱり言い切る梢子。
「ただ……」
だが、そこで言葉に詰まった。
この気持ちをどう言語化すればいいのか。どんな風に言うのが正しいのか。いざ言葉にすると、その続きを上手く言えない。
ずっと考えていた、私たち関係を。青星にとって、私はでも兄弟でも、親戚でもなんでもない、全くの赤の他人。周りの人間から見れば私たちの関係が一体どういうものなのかと、頭をひねるのも当然の事。でもこれだけは確かだ。
「私は青星を大切に想っている」
真理愛は、それでは納得がいっていないと言うような顔をしていた。血のつながりのない男女が、一つ屋根の下に暮らしている事は変わりない。何かあると思うのが普通だ。しかも相手は未成年。世間一般的に、私がしている事は、犯罪にも繋がりかねない。しかし、私は全て覚悟の元で、今、こいつの隣にいる。たとえ、こいつがこの先、私以外の誰かと生活を共にするようになって、いつか私の元を離れて行ってしまうような事があっても、私はこいつを想うだろう。とても大きく言ってしまえば、死んでもだ。
「俺は……」
隣で黙って話を聞いていた青星が、ゆっくりと口を開いた。
お前が、私をどう思っているのかを、訊くのはこれが初めてだな。
「俺は、こいつを想っている。こいつと同じようにだ」
じんわりと、じんわりと、心に広がっていく互いの言葉。その言葉が離れないように、二人は己の心に、鎖をつけたのだった――。
改札を通り、風に吹かれながら電車を待つ。
電車に乗るのは、久々だ。どこに行くのも近場で済ませる青星は、バスや地下鉄などの交通機関は使わないのだ。若干、閉所(へいしょ)恐怖症(きょうふしょう)のところがあり、閉じ込められた感のあるバスや地下鉄は、嫌で避けているという点もあるが、単に移動がめんどくさいという事もある。
「悪かったな」
遠くの景色を眺めながら、青星は言った。
「気にするな。お前の学校での姿が見えた気がして、楽しかったよ」
「……みんなにああなわけじゃねーよ」
「分かっているさ」
少し口を尖らせて言う青星を、梢子は可愛いと思った。
ドア付近に立ち、町並みを見ながら電車に乗る。ドアが開く度に流れてくる風が体を涼しくさせた。
ここ最近、続いていた雨が嘘のように、今日の空は穏やかだった。
電車を降り、歩くこと数分。二人が立ち止まったのは、二文字のローマ字とオレンジ色が目印のお店。
梢子は青星に、店前で待つように言い、一人、店の中へ。ガラス張りの店内越しに見ると、梢子は店の店員と何かを話していた。
すぐに梢子が店の中から出てきた。手には紙袋があった。梢子はその紙袋を青星の胸の前に突き出した。
「え、なに」
「開けてみろ」
そう言われ紙袋の開封すると、中には頑丈な箱に入ったスマホがあった。
「今日は七月の二日。お前が生まれた日だ」
そうだ……今日は、俺の誕生日。
「覚えててくれたのか……」
「当たり前だ」
俺は、込み上げてくる涙を止めようと、必死だった。自分が生まれてきた事を人から祝福されるのは、まるで、自分がこの世に生きていていい存在だと、認めてもらえたかのようだった。
「まだまだ子供のお前だから、私が支えるとしよう」
梢子、俺は……
青星は梢子に近づき、温かさを感じられるその肩に、自分の額を置いた。
「ほんと、お前には何もかも、もらってばかりだな……」
「そんなことない。私だって、お前から色んなものをもらっている。ただそれは、目に見えないから、お前は与えていると思わないのだ」
梢子は片手で青星の後頭部を優しくなでた。
あったけえ……あったけえなあ……。
梢子の義手である手から感じた温かさとはおそらく、ぬくもりと言う名の温かさなんだと思う。それは紛れもなく、俺がずっと欲しかったものだ。
俺は完全に、強欲な人間になった。このぬくもりを、永遠にもらいたと思ったんだ――。
「さあ、用事も済んだ事だし、この辺を散歩して帰ろう」
「……ああ」
離された手。体温は引いていき、ぬくもりが消えていくように思えるが、それは違う。胸に、残っているんだ。
自然を満喫しようと、梢子は山地に行こうと言い出した。暗くなる前に帰ることを条件に、青星は同意した。
「あまり奥に行くなよ」
前を行く梢子の背中に青星は言った。
しかし、梢子はぐんぐん進んでいく。雨が降っていたせいで、地面は滑りやすくなっていた。
歩きにくい……。
「おわっ……」
「大丈夫か!?」
青星は梢子に駆け寄った。
「ちょっと躓いただけだ」
「頼むから、ひやひやさせないでくれ」
「すまん。お前がいると、ついな」
それは、安心していると捉えてもいいのだろうか。俺がいるから、自分は大丈夫だと言っているのか。ふと横に目をやると、そこには、見たことのない綺麗な花が咲いていた。
すげえ……なんだこれ。
その花は透明で葉がギザギザと尖っていた。青星はその場にしゃがみ込み、その花をじっと見た。花屋とかでも見た事ないやつだ。
「どうした?」
そう言い、青星の隣にしゃがむ梢子。
「見ろよ、この花」
「これは……」
梢子は身を乗り出しその花を見ていた。
「お前、運がいいな。この花は山荷葉(さんかよう)と言って、条件がそろわないと、この透明な状態を見ることは出来ないんだ」
山荷葉……初めて聞く花の名前だ。
「初めて見た」
「私も長いことここに住んでいるが、透明な状態を見たのは初めてだ。……美しいな……」
花を見ている梢子の横顔は、生命の尊さを愛しんでいるようだった。
今、この花を見ているこいつの瞳は、少女のように可憐だ。だが、一度この花から目を背ければ、こいつの瞳は、深い悲しみを持つのではないかと、俺はそう思ってならなかった。
「なんだ、そんな見つめて」
「……儚いな」
そうだ。お前はとても儚い。
「この花がか?」
「いや、梢子が」
梢子はじっと青星を見つめた。青星は喉に詰まった唾を飲み込んだ。
女にこんなに見つめられたのは初めてで、心臓が変に動く……。いや……お前だからなのか……??
数秒間、お互いを見合った。だが、その時間は、時が止まったかのようだった。
「……お前、芸術家みたいな事を言うな」
「へ?……」
そう言い、腰を上げる梢子。
「せっかくだ、その携帯で写真でも撮っていけ」
青星はポケットとからスマホを取り出すと、カメラを山荷葉に向けた。
――カシャッ。
……いいじゃん。
スマホに収めた山荷葉の写真は、とても愛らしかった。
家に帰る前に、スーパーに寄り夕飯の買い出しをした。仲良く一つずつ紙袋を持ちながら、二人は、夕暮れ時の空の下を歩いていた。
「結構買ったな」
「梢子は大食いだからな。怪獣みたく食べる」
「おいおい、レディーに対する言い方じゃないなそれは」
「お前は女でもか弱い女じゃない。握力なんてゴリラ並みにあっただろうに」
「……」
「いや、否定しろ? 俺がマジでいじめている見たくなるから」
「え?」
「え?」
「「……え?」」
二人は顔を見合わせた。
「プッ……ハハハハッ! お前といるとしょうもない事でも笑えるなほんと」
「ガキのおもりは得意なんだよ」
「そうかそうか」
日々は、こういう、何でもない瞬間が一番楽しいものだ。俺はお前と居てそれを知った。
帰ったら、まず何から作ろうか? その後はなにをしようか? そうやって俺たちは、なんでもない話をしていた。
真理愛の乱入で最初はどうなる事かと思ったが、今日はすごくいい日だった。
――このまま、二人笑いあった日で終わってほしかった。
「梢子――?」
信号待ちをしていた時、後ろからそう呼ぶ声が聞こえた。
振り返った先にいたのは、梢子によく似た女性だった。
「久しぶりね。元気だった?」
「うん……元気」
梢子はその女性相手に、静かにそう答えた。女性は隣にいる青星を見ると、小さく会釈した。
「私の仕事を手伝ってもらっているの」
「そうなのね。いつも娘がお世話になっています」
「娘……?」
ってことは……
「私の母だ」
どうりで似ているわけだ。そう言えば、梢子から親の話を聞いた事はなかったな。
母親は穏やかで、とても優しそうな人に見えた。梢子と俺の関係を知りたそうにしていたが、気を遣ったのか、何も聞いてこなかった。そう言うところが、また似ていると思った。相手の事に関して余計な事は、自ら首を突っ込まない。というところが。
「あ、そうだ。さっきね、ようかんを買ってきたの。あなたここの好きだったでしょ?」
梢子の母はそう言い、持っていた紙袋を梢子に渡してきた。
「ありがとう……」
「よかったらあなたも食べて」
青星は軽く会釈をすると、自分が持つと、母親から紙袋を受け取った。
と、その時だった。
「――皐月」
その声を聞いたとたん。梢子の顔から血の気が引くのが分かった。だがこれは、恐怖心からのものではない。これは、嫌悪だ。
背の高い、男性がこちらに近づいてきた。男性は梢子を見ると、驚いたように目を丸くしたが、それも一瞬だった。そして溜息をつくと、
「なんだ、お前か……」
男性は冷たげにそう言った。
なんなんだ、こいつ……いきなり会って、その言い方は。よく分からないが、すごく嫌な感じだ。態度は威圧的で、人を見下しているような、この目……。
「……父さん」
「――え?」
なんとそいつは、梢子の実の父親だった――。
最悪だ……どうしてこんな日に限って、今に限って。今日はあいつの喜ぶ顔見たさに、プレゼントを用意して、滅多に見る事の出来ない山荷葉を見られて、スーパーに寄って、楽しく会話をして、笑って一日が終わると、そう思っていたのに、なんで、なんで今なんだ……。
青星は庇うように梢子の前に出た。梢子から青星の顔は見えなかったが、その背中からは警戒していることが見て取れた。
きっと父を睨みつけているのだろう。
「何なんだ君は」
父は青星を見下すように見上げていた。
「青星、私は大丈夫だ」
「……」
だが梢子がそう言っても、青星は下がろうとはしなかった。
「小説家になると、啖呵を切って家を出て行ったくせに、最近はろくに結果も残せていないんじゃないか?」
父はまだ私を罵倒してくる。
「お前程度の人間が何をしようと、底辺以下の結果しか出せないんだ」
吐き捨てるようにそう言う父。
心が痛い……痛くて、痛くて、おかしくなりそうだ――。
「あなたっ……! そんなこと言う必要何でしょ……?」
「皐月、お前はこいつに甘すぎるんだ」
握りたくとも、握るこぶしすらない……私は、弱い……誰か、誰か、助けてくれ――。
「――謝れよ」
怒りが滲み出ている声。
「……青星……」
「お前みたく、人を使い捨ての駒のようにしか思わない奴に、こいつの人生が少しでも奪われたかと思うと、虫唾が走る……」
「ガキがいきがるなよ」
「大人はそんなに偉いのか? 俺からしたらあんたは、人の気持ちも理解できないで、ただ歳食っただけのおじさんにしか見えないけどな?」
「こいつ……」
父親は青星の胸ぐらに掴みかかり、揺すった。細くて華奢な青星は人形のようにふらふらだった。
「お父さんやめて……!!」
「あなたもうやめて下さいっ……!!」
梢子は母と必死になって、父親の腕を掴み、青星から手を離すように訴えづけた。
「っ……取り消せよ……こいつにさっき言った事……取り消せって言ってんだよ……クソジジイ……!!!」
青星は勢いよく体を後ろに反ると、父親の顔をめがけて足を振り上げた。青星の膝は父親の顎に直撃した。衝撃からきた痛みで、父親はその場にしゃがみ込んだ。
「貴様……」
父は青星を憎そうに睨みつけていた。プライドの高い父が子供の青星に口答えをされるのは許せなかっただろう。
「行くぞ、梢子」
青星は梢子の手を引き、歩き始めた。梢子は引かれるがまま歩いた。後ろを振り向くと、涙を流す、母の姿があった。
お母さん……ごめん……。
自宅までの道のり、青星が何かを言うことはなかった。ただ、梢子の手を強く握り、歩き続けた。
玄関に入って、青星は梢子の手を離した。
「……青星」
「怒るんだろ……なんであんなことをしたんだって。でも、俺は間違ったことをしたと思っていない」
「青星、私は大丈夫だ」
「何が大丈夫だよ……そんな見えすいた嘘、なんでつくんだよ……! それに……! たとえお前がよくても、俺が我慢ならなかったんだよっ……!!」
誰かが自分なんかのために怒ってくれたのは、生まれて初めてのことだった。
梢子は溢れそうな涙を必死に堪えた。
「青星……」
声が少し、枯れていただろうか。こいつに、涙を堪えていることを、悟られてはいないだろうか。
梢子は青星の胸に寄りかかった。
「お前がいて、良かった……」
瞼を閉じて、次に目を開ける時、これが夢であってもいい。それでもいいから、今だけは、こいつの体温をこの胸で感じていたい。
――この日、梢子の笑い声を聞く事はなかった。
夏本番を迎えていた今日この頃、俺は二者面談のため、放課後、学校に残っていた。夕暮れ時の校舎に人は少なく、居るのは同じく二者面談を待っている生徒と、部活に励む生徒のみだった。
空は茜色に輝き、眩しかった。廊下の手すりに寄りかかりながら、外の景色を眺める。
あの時の空も、こんな風に綺麗だったな。
結局、あれからあいつが親の話をしてくる事はなかった。次の日にはけろっとして、何事もなかったように振舞っていた。あいつらしいっちゃあいつらしい。あいつなりに俺に気を遣ったのかもしれないが、俺はそんな事をしてほしくなかった。自分の中だけで痛みをとどめるのではなく、俺はあいつの痛みを共に背負いたかった。でも、それは俺が一方的に思っているだけであって、あいつは違う。考えてみろ、親しい相手でも、遠慮なしにずかずかと心の中に入ってこられるのは、誰だって嫌なはずだ。心を許して、信頼している相手だからこそ、言えない事もある。だから、あいつが話してくれるまで、俺は待つことにした。
教室の扉が開く音がして振り向くと、そこいは春一の姿があった。隣には髪がショートの春一と同じ、大きな瞳を持つ女性も。青星は春一の母親に軽く会釈をすると、駆け寄って来る春一に向かって、あいさつ代わりに片手を挙げた。
「次、お前の番だろ?」
「ああ」
「親は、まだ来てないのか?」
春一はあたりを見回しながら言った。
俺は春一の事が好きだし、信頼もしている。だが、過去の事や家の事は一切、話してはいない。知られるのが怖いわけではない。仲間思いで優しい春一の事だ、自分の事のよう捉えて辛くなるだけだ。そんな思いしてほしくない。
「そのうち来る」
「そうか。じゃあ俺は行くよ。また明日な!」
「ああ」
手を振り去って行く春一に応えるように、青星も手を振って見送った。
梢子のやつ、忘れてるわけじゃないよな。あんな事があったが、最後に牧野と自宅で打ち合わせしたをしたあたりからか、仕事の調子が良いみたいだった。前までは、唸ってばかりいながら執筆をしていたが、最近はそれがなくなった。執筆に没頭して日付と時間の感覚が狂ってなきゃいいが。
大宮には、中で座っているように言われたが、青星は教室の前で梢子を待ち続けた。そして予定していた時間から遅れる事、十分。梢子はやって来た。
「悪い……! 道に迷ったんんだ……!」
ここまで来るのに走ったのだろう。息を荒げ、額には汗が流れていた。
「大丈夫かよ……水とか持ってきてんのか?」
こんな暑い中、走るなんて脱水症状でも起こした大変だ。
「いつものようにここにある」
そう言い、肩に掛けていたバッグをポンポンと叩く梢子。今日も義手を着けている。
大宮と挨拶を済ませ、水分補給をしてから二者面談は始まった。十分遅れでのスタートだが、今日の面談は青星で最後だったため、問題はないと言われた。
大宮はすぐに梢子の腕が義手であることに気づいたようだった。珍しい物を見るような目で見ていたが、梢子の両腕は展示品などではない。
「んで、先生。進路の事ですよね」
高校一年でも、進路の事について考えなくてはならない。高校生活の三年間は、俺たちが思っている以上に短く、あっという間に終わるらしい。
「七瀬は、何かやりたい事はあるのか?」
「特には」
「即答だなお前」
大宮の問いに間を開けずに答えた青星に、隣に座っている梢子の鋭いツッコミが入る。
この歳で、自分の将来を決める方が難しいと思う。
春一はサッカー推薦で、既にいくつかの学校から声がかかっているらしい。一年生でレギュラーに抜擢される才能の持ち主。それに加えて、あのセンス。春一のすごさは、以前、一緒にサッカーをした時に嫌というほど知っている。
梢子のように、若くして自分で事業を行う人間もまれだ。何がやりたいか明確に決まっている人間を羨ましく思う。
大宮は持っていたファイルを開くと、いくつかの大学のパンフレットを見せてきた。
「何か一つの道を究めるのだったら、専門を進めるが、やりたい事が何か分からないから大学に行くというのも、一つの手だ」
大学か。興味がないわけじゃない。今よりも多くの事を学べるし、関わる人間も国境を越える。
高校に入って気づいたが、知識と言うものは、紙だけで学べるものではないという事だ。誰かの話に耳を傾ける事で、得られる知識もある。例えば、その人物の今までの経験の談とかで。
「好きな事とかでもいいんだぞ、何か七瀬がやっていて楽しいと思える事はないのか?」
「楽しい……」
楽しと思える事。そう訊かれ、青星の頭の中で、すぐに一つの事が浮かんだ。
「ある。一つだけある」
「おおなんだ?」
大宮は食い気味に訊いていた。
「――小説を読む事だ」
もちろん春一とサッカーをするのも、梢子と過ごす日常も楽しい。でも、俺が無我夢中になって、楽しいと思えるものは、小説を読む事だ。
「お前の小説が教えてくれたんだ」
梢子、俺はお前の書く物語が好きだ。お前には言っていなかったが、俺はお前の今まで創り上げた物語を全て読んだ。雑誌で連載されていたのも、短編集も含め全部だ。最初はお前の事が知りたくて、あの本を手に取ったが、いつしか、ただお前の物語を読みたて、手に取るようになった。
ネット上に上がるお前の作品へのコメント読んで、作品を読んで分かったことがある。お前の小説は、人の痛みや苦しみの寄り添ってくれている。お前そのものなんだ。
――悲しいけど、温かくなった。
――辛いけど、生きたいと思った。
――孤独だけど、微かな光を集めたいと思った。
全部、お前の小説を読んで人が思った事だ。どこの誰とも顔も知らない人の言葉だが、すごいと思わないか? どこも誰とも、顔も知らない人が、お前の作品を読んで、生きたいと思ってくれているんだ。お前は人に、生きる希望を与えてくれている。
「梢子。俺に、楽しいを教えてくれてありがとう」
本当は、もっともっとたくさんのありがとうを伝えたい。でも、今ここで言うのは違うよな。
梢子は「ふっ」と口元を緩ますと、
「お前には、適わないな」
――その言葉の本当の意味を、俺はのちに知る事となる。
「先生」
梢子が真面目な顔で大宮に向き直った。その様子に、大宮も真剣な顔で梢子を見る。
「私は、この子の母親ではありませんし、血縁関係もない。先生からしても、私は得体のしれない存在でしょう」
大宮は偏見がある男ではない。しかし、進藤のように、俺と梢子の関係を不思議に思っているのは確かだ。梢子は、色んな覚悟の元、俺と居てくれる事を選んでくれた。
「私は、この子の幸せを切に願っている。ですが、私一人の力では、この子を守り抜く事は難しいのかもしれない。だから、どうかこの子が道を誤らないよう、しっかり見ていて上げてほしい」
「お願いします」と、深々と頭を下げる梢子。そんな梢子に、大宮は少し驚いたようだったが、決意の固そうな瞳で「はい」と頷いた。
そして、梢子は俺に向き直った。
「私は、将来を選択する際、一番邪魔になるものは、周りの視線だと思っている。何を言いたいかは分かるな?」
青星は静かに頷いた。
「誰かに自分の人生を委ねるような事はするな。世間に許されたいと思うな。何があっても、自分の心に従うんだ」
梢子は、年齢や立場で相手を判断しない。相手が子供であっても、自分と同じ対等な存在として、いつも同じ目線に立って接する。今だってそうだ。俺の目を真っ直ぐに見つめ、俺と真摯に向き合っている。だから俺も、いつもこいつに、正直でありたいと思うんだ。
「――で、大学には行くか?」
その問いに、俺がなんて答えたかは、安易に予想がつくだろう。
二者面談を終えて家に帰宅すると、話があると、梢子は青星をリビングに呼んだ。その表情は、少し硬い気もしたが、あの時のような嫌悪さはない。
これから話してくれる事は、きっと梢子の中でも覚悟がいる事だ。自分で自分に、プレッシャーをかけているのかもしれない。だから少しでもリラックスしてもらいたい。
「話って?」
なるべく柔和に、青星は問いかけた。
「私の両親について……父について、話しておきたいんだ」
青星は梢子の座る、目の前の椅子に腰を下ろした。
そして、梢子は深く、短く息を吐いた。
「父は厳しい人だった――」
梢子の父親は、いわゆる完璧主義者だった。学生時代には、生徒会長も務める文武両道の優等生。国立大学をしてからは、日本有数の大手企業に勤めた。その経験を生かし、今では自身で会社を経営しているという。そんな父親の一人娘であった梢子は、親の期待を一身に背負った。
「父に褒められるのは嬉しかった」そう梢子は言った。
学校でも、塾でも、成績優秀で何をやっても常に一番だった梢子。周りからも優秀な娘さんがいて羨ましいと言われ、近所でも梢子の評判の女の子。そんな梢子を父親も自慢に思っていただろう。あの時までは――。
「だが、私は父の思うような娘にはなれなかったのだ」
父親が梢子を罵倒し始めたのは、梢子が中学受験に落ちた時だった。同じく受験をした知人の子供は全員受かったが、梢子だけが、落ちてしまったのだ。
「その時に知ったよ。努力は、どれだけしても足りない。した全てが、報われるわけではないと」
父親は酷く梢子を嫌った。お前のせいで、恥ずかしくて近所の人にも顔向け出来ないと、お前は私たちの恥だと。
話せば話すほどに、梢子の表情は沈み、下を向いた。そんな梢子を見るのは青星にとっても辛い事だった。
あの男に会った時、頭ではなんでもないと思っていながら、気が付いたら体が勝手に反応していた。こいつを梢子に近づけてならないと、梢子を守らなければと、体が言っていた。それは多分、いつの日かまで、自分が感じていたものと、似ていたものを男から感じたからだと思う。
青星が身体的な暴力を受けていたなら、梢子は言葉の暴力を受けていた。体は何ともなくとも、心はずっと悲鳴を上げていた。助けて。助けて。と。
「お前のデビュー作、読んだ。あれは……お前自身だったんだな」
梢子のデビュー作、〈緋色の悲鳴〉物語の主人公は、厳格な父を持つがゆえに、人生に生きずらさを感じる。最初は自分のためだと感じていた事も、成長するにつれ、それが歪んだ愛である事を知る。
「ああ、そうだ。それが今の出版社の目に留まり、私は小説家という職を手に入れた」
父親には、そんな現実を見ない生き方なんて、絶対に上手くいかないと批難されたが、梢子は構わず家を出た。出来損ないだと蔑まれ続けた梢子は、文章を書く事でしか精神を保っていられなかったのだ。
「私は、小説を書く事でしか、自分の存在価値を見出す事が出来ない人間なのだから」
自分はまるで、存在価値のないような人間。あいつに出会う前の自分が思っていた事。俺は母に捨てられ、父に虐待され、自分の身体を売りながら生きてきた。こんなにも無様で、可笑しい話は他にないと思っていた。でも、こいつも俺と同じだったんだ。俺はいつだって、自分の不幸ばかりを見ていた。何も知らなかっただけで、こいつはずっと苦しんでいたんだ。それに何も気づいてやれなかった自分に腹が立った。
握った拳に自然と力が入った。
「梢子。俺に、何が出来る……?」
俺がそう言うと、梢子はゆっくりとその場から立ち上がった。そして、俺の目の前に来ると、自分の胸の中に、俺を優しく引き寄せた。
「……何もいらない。お前は何もしなくていいから、ただ明日も私の傍にいてくれ」
脆くて、儚いその存在を、俺は強く抱きしめ返した。
「ああ、分かった……」
約束する。俺はお前から離れないと。たとえ、どんな未来が訪れようとも、俺の心も身も全て、お前のものだ。
長い、長期休みが終わり、学生たちが現実に戻った九月上旬、梢子は程よく冷房の効いた、喫茶店を訪れていた。いつもの席に、いつものコーヒー。必要なとき以外、冒険をしないスタイルは、昔から変わらない。
九月と言っても、まだまだ暑い日は続く。窓越しに見える景色には、スーツを着たサラリーマンが、ハンカチで額の汗を拭い歩いていた。
世の男性たちはこうして仕事をしているのに、加齢臭だのなんだの言われると、侵害だろう。自分は涼しい店内で仕事だものな、ありがたい。
「おかわりはいかがですか」
横から和む声がして見ると、コーヒーサーバーを持った花田がいた。今日も白いシャツに、黒いエプロン姿だ。額を出した白髪の髪は、綺麗にまとめられていて、背筋を伸ばし佇むその姿は、気品が漂う。初めて花田を見た時、素敵な人だと梢子は思った。
「いただきます」
にっこりと微笑みながらそう答え、おかわりを注いでもらう梢子。湯気と共に、ふわりとコーヒーの香ばしい香りがして思わず鼻で香りを吸い込む。
ああいい香りだ……
「どうぞ」
「どうも」
会釈をすると、梢子はコーヒーを一口飲んだ。
……最高。
梢子は花田を見ると、またにっこりと微笑んだ。そんな梢子に返すように、花田も微笑んだ。笑った時にできる目尻の皺が、また和む。
「最近、何かいい事ありましたか?」
「え?」
急にそんな質問をされ、梢子は首を傾げた。
「いや、こないだ来てくれた時よりも、表情が晴れやかなので、何かいい事でもあったのかと思いまして」
自分では気づかないが、そんな顔をしているだろうか。……でも、そうなのだろうな。
「そうですね、ありましたね、良い事」
梢子がそう答えると、花田は微笑み、「良い一日を」と、カウンターの中へ戻って行った。
青星に父の事を話して、私の心は安らいだ。でも、出来ればあいつに、あんな自分の姿は見せたくなかったし、父のような人間をあいつの世界には入れたくなかった。あいつには、もう少しの苦しみも与えたくない。
人間って、絶対に下手くそな生き方しか出来ないようにつくられている。進んで、転んで、立ち上がって、また進んで、また転んで、後ろを見るけど誰もいなくて、絶望を感じてもう無理だってなるけど、ふと隣をみたら誰かが居てくれて。そして一緒に手を取り合って、前に進む。でも、時々、傷つけたり、傷つくのが怖くて、その手を掴めない時もあるけど、それでも多くの人に救われ、懸命に生きていく。それなのに、どうして私の父は、一人で完璧に生きようとするのだろうか。完璧な人間などいないのに。弱さを見せる事が、父にとって、一番の恥なのだろう。でもそれでは、失う事の多い人生となってしまう。そんな人生で、あの人は本当に幸せなのだろうか。
切っても、切れない関係。血のつながった関係というもの。嫌いになりたいのに、本気で捨てる事は出来ない。だから、こんなにも頭を悩ませる。
……もうやめよう。私があの人の事をどうこう考える必要はない。
父親の頭の隅に追いやるように、梢子はコーヒーを飲み干した。
牧野が来ると、世間話もほどほどに、すぐに打ち合わせを始めた。
注文したアイスコーヒーを飲むと、牧野は鞄から茶封筒を取り出した。だが牧野がテーブルの上に置く前に、梢子が一つの原稿を取り出し、テーブの上に置いた。
「……これは?」
突然出された原稿に、牧野は目を丸くして、何度か瞬きをしたのち、そう問いかけてきた。
「実はな、別に他の原稿を書いていたんだ」
タイトルは無題だった。牧野はその原稿を手に取り、最初のページをめくった。
「梢子ちゃん……これって……」
それは梢子の自筆の原稿だった。両腕がなく、義手で生活している梢子が、自筆で書いている事に、牧野はとても驚いただろう。
「これは、一体どういう事?」
牧野は必死に考えを巡らせていた。梢子が、わざわざ辛いやり方を選ぶその理由が、分からないのだろう。
「それだけはどうしても、手書きで書かなければならないんだ」
「読んでもいい?」
「もちろんと言いたいところだが、今はダメだ。時が来たら、必ず見せると約束する。それまでは、何も言わずに待っていてくれないか?」
「……何か、理由があるんだね?」
梢子は頷いた。
牧野は原稿を閉じ、梢子の元へ返した。
「すまないな、牧野」
梢子はその原稿をカバンにしまった。
「こっちの方は、白紙に戻すよ」
そう言うと、牧野は持ってきた原稿を梢子に返した。
「いいのか……?」
「うん」
「あいだあいだのストーリは絶賛していたから、てっきり直されるのかと」
「そのつもりだったけど、今の話を聞いて、気が変わった」
梢子は書く事でしか自分の存在価値を生み出せない人間。だがそこには、小説を好きだと言う、物語を書く事が好きだという前提がある。本当に書きたいものを楽しいんで書けなければ、梢子にとって意味がない。そんなところも、牧野は理解してくれている。
「編集長には、僕から上手く言っておくから。書いて梢子ちゃん。梢子ちゃんの本当に書きたいものを」
牧野は、眼鏡の奥の糸目を下げ、少しばかり頬を緩めた。梢子は知っている。これは牧野が誰かを思いやる時にする表情だ。
「……うん。ありがとう」
なんとしても、この物語だけは、自分の手で、完成させなければならないんだ。
【私は花と散った――】
「今日はここまでにしよう」
その言葉に従い、青星はペンを置いた。
ここ数日、義手の調子が悪いと言う梢子のために青星は代筆をしていた。
作品作りを手伝っていて、分かった事がある。梢子は、おおよそのストーリー構成を決めたらすぐに書き出す。キャラクターの人柄などは書いているうちに勝手にそうなったという感じで、話の展開や結末も、最初の設定ではなく、大幅に変更になる事もある。何にも縛られない、自由な制作の仕方だ。
もちろん、自分の事を主題としたデビュー作は、モデルとなる存在が居ての作品作りだったと思うが。
「私も死ぬのなら、花と散りたいものだ」
花と散る――。それは花のように散り、潔く死ぬこと意味する言葉だ。
梢子は鏡の前に立つと、義手を着けていない、自分の体を見つめた。
「私がお前くらいの時は、天才と謳われたものだ。でも、今はどうだ。落ちた小説家。落ちたって、どっちのことを言っているのだろうな」
人間は皆、交わる事の出来ない生き物。ベストセラーを生み出した梢子にも、一部の人間から誹謗中傷の声はある。俺は知っている。五体満足で生まれてきて、何不自由なく生きているやつらが梢子に向けている視線の数々を。
こいつを見た時の人の反応はそれぞれだ。不思議がる者。初めて見たと興味を持つも者。偽物だとバカにする者。変だと気持ち悪がる者。はたから見れば、若くしてプロの小説家になり、数々のヒット作を生み出した間宮梢子の人生は順風満帆。しかしそう見えるのは、誰も本当の彼女を知らないからだ。
「お前は訊かないんだな。私に両腕がない理由を」
鏡越しに会った梢子の目は、とても切ないものだった。
俺が知っている梢子は、強く、でも弱く、儚い。
「話したいのなら訊く。でもそうじゃないんだったらいい」
知りたい。だけど、こいつの気持ちを一番に考えたい。話して、辛くさせるような事はさせたくない。それに、なんとなく分かる気がするんだ。どうしてお前に両腕が無いのか。そして、それと同時に、誰を失ったのか。
「いや……訊いてほしいんだ。お前には、私の全てを知っていてもらいたい」
梢子は力なく、椅子に腰を下ろした。
「……人生でたった一人、愛した奴がいた。でも、そいつは私のせいで死んだ」
――やっぱりまたここにいた。
鬱陶しいと思っていた、その言葉を待つようになったのは、一体いつからだっただろうか。
奴は決まって私の前に現われては、私を叱りつけた。そこは本を読んでいい場所じゃない。と。
(うるさい奴め)
私は、毎度心の中で悪態をついていた。
――三年前――
夏の日差しが差す、暑い日のなか、私たちは出逢った。
執筆に息が詰まった時は、家の近くにある図書館に来て、物語の世界に足を踏み入れる。
私のお気に入りは、図書館の端にある、本棚の間と間のスペース。夏は日を避け、そこで本を読んでいた。歴史書しか置いていない、そのスペースに立ち入る人は、ほとんどいなかった。
奴、以外は――。
「すいません。そこ、邪魔です」
奴の第一印象は、そう。嫌な奴。
声の先に視線を向けると、そこには古風そうな男が立っていた。
邪魔って、もっと他の言い方があるだろ……
梢子は男を無視して、視線を本に戻した。
「あの、聞いてます?」
めんどくさい奴……
梢子は寄りかかっていた本棚から背中を離し、腰を上げ、別の場所に移動した。
少し日は当たるが、我慢するとしよう。
そう思い、梢子は窓辺から一番離れた席に座った。
それから三十分ほど経った頃だっただろうか。あの男がもう一度、私の元に来たのは。
「あの……」
図書館では静かにしましょう。子供から大人が知るルールがあるの中、小声で話しかけてきた奴の声は、弱弱しかった。
またお前か。
梢子は鬱陶しそうな顔を男に向けた。
「僕、もう行くんで」
「はあ……?」
そう言い、男は図書館を出て行った。梢子が元の場所に戻ると、寄りかかっていた本棚に、メモ用紙くらいの小さな紙が貼られていた。
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
読書中、ごめんなさい。
――――――――――――――――――――
僕は、一ノ瀬幸太郎と言います。
――――――――――――――――――――
またあなたにお会いしたいです。
――――――――――――――――――――
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古風そうな男より
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そいつは一ノ瀬(いちのせ)幸太郎(こうたろう)と言い、その見た目通りの達筆な字で私に手紙を書いてきた。
古風そうな男より。か…… 私の心を読んだのか。
――またあなたに、お会いしたいです。
その言葉通り、奴はまた私の前に現れた。
「こんにちは」
聞き覚えのある声に顔を上げると、あいつがいた。
「……どうも」
梢子は愛想なくそう言い、立ち上がろうとした。
「あ、いいんです……!」
「は?」
「ここにいてもらって、いいんです……」
そう言うやつの目は、少しばかりか緊張しているようにも思えた。
なんなんだ……こいつ……
梢子は不審に思いながらも、その場にいる事に。
奴は何を言ってくるわけでもなく、ただ私の傍にいた。歴史が好きなのか、誰も読まなさそうな古い分厚い書物を読んでは、顎に手を当て、何かを考えていた。時々私を一瞥しながら。私はその視線に気づかない振りをして、本を読んでいた。
日が暮れ、図書館も閉まる時間になり、私は本を閉じ、その場を去ろうとした。
「あっ……」
奴は立ち去る私を見て、焦ったような声を出したが、追ってはこなかった。
私は本棚に読んでいた本を戻すと、図書館を出た。
……結局、何もなかった。あんな手紙を残して、どういうつもりだったのか。
「……」
梢子は立ち止まった。
なんだ……この残念がる気持ちは……
梢子は胸に片手を置いた。
やめよう…… こんなの、私らしくない。
再び歩き出した時だった。
「―――ません――――すいません……!!」
振り返ると、奴が私の元へ走って来ていた。
え……
奴は私の前で止まり、
「あの……その……ゲホゲホッ……」
息を切らせながらも、何かを話そうとしてきた。
……たくっ
「え、あ……」
梢子は幸太郎の手を引くと、近くにあったベンチに座らせ、隣にあった自販機で水を買って渡し、隣に腰を下ろした。
「すいません……」
幸太郎は貰った水をゴクゴクと飲みは始めた。
そんなに必死になるほど、一体私になんの用なんだよ……
幸太郎が落ち着いてきたのを見計らい、梢子は幸太郎を咎めた。
「おい、お前」
「はい……!」
返事はするものの、幸太郎は梢子を見ようとしない。
「一体何なんだ? 何が目的で私に付きまとう」
「や、その……僕は付きまとっているつもりはなくて……」
幸太郎は慌てた様子で、誤解だと両手の手の平を前につきだしてきた。
「これが??」
「いや……その……」
「ああもう! 女々しい奴だな! はっきり言え!!」
梢子は強気な口調で言った。
すると幸太郎は、
「……君のことが気になって」
夏の夕暮れ。それはオレンジ色の太陽が、キラキラと輝く日だった。
「何だよ、それ……」
それから私たちは、毎日のように図書館で顔を合わせるようになった。奴は決まって本棚と本棚の間に座る私を注意した。
まるでそれが自分の役割であるかのように。
私がここに座る理由を話した時は、奴は何度か瞬きをした後、そんな事かと腹を抱えて笑った。
そんなこととはなんだ。失礼な奴だ。
――だが、奴はすんなりと私の心に入り込んできた。
幸太郎は歴史学を専攻する大学院生だった。研究に没頭する日々は忙しいが、とても充実していると言っていた。あの古くて分厚い書物を読んでいる理由も理解出来た。
「僕は将来、博士号を取って、今以上に多くの研究をするんだ」
奴の話す、夢の話が好きだった。
頬を染め、鼻高らかに話す、あの表情が好きだった。
幸太郎は幼い頃に父親を亡くし、母親と二人暮らしだと言っていた。
「いい会社に就職して、母さんに楽をさせてあげたいんだ」
「いい息子を持って、お母様も幸せだろうに」
「そうだといいなー」
奴の隣は、とても居心地が良かった。
「梢子は好きな人いないの?」
深々と降り積もる雪の中、奴は聞いてきた。
「……いないな」
そう答える私に、奴は「ほんとに?」と聞き返してきた。
「ほんとだよ」
幸太郎は眉を上げ、「ふーん?」と言ってきた。
「僕はね、いるんだ、好きな子」
好きな子。いい年して、随分と可愛い表現をするな。
聞いてもいないのに、奴はそいつの事をべらべらと話し出した。
「不愛想な奴だな」
幸太郎が私を想っていることは知っていた。だが、私は奴の気持ちに気づかないふりをしていた。大切なものを失う辛さは、痛いほど知っていたからだ。
「でしょ?? でもそんなとこもろもまた良くて。僕も最初はあんな言い方するつもりなかったんだけど、彼女を見ると、緊張して……ついああ言ってしまって……僕を初めて見た時の彼女を顔、今も忘れないよ。こんな風に眉間に皺をよせてさ」
幸太郎は両手で眉を寄せ、モノマネをしてきた。
それが面白くて、梢子は笑った。
「ははっ! 私はそんな顔はしていないぞ!……あっ……」
しまった……
そう思った時はもう遅かった。
幸太郎は梢子を見つめた。
「……お前、絶対わざとだろ」
「だって、梢子が素直じゃないから……」
寒さで悴んだ手で、あいつは優しく私の頬を包み込んだ。
「僕を受け入れてくれる?」
「……もう、とっくにお前は私の心に入っている」
幸太郎は「ふっ」と小さく笑った。
重ねられた唇に、安心したのを覚えている。
次の日の朝、目覚めた私の隣に奴がいたことで、私は初めて幸福をというものを知った。
――あいつと過ごす度に、私の心には、幸福が積み重なっていった。
「今度、梢子の事を母さんに紹介したいんだけどいい?」
「私を?」
「うんっ」
私なんかで、いいのだろうか……
私は、お前のような奴と、肩を並べて歩けるような人間じゃない。
「いてっ」
下を向く梢子の頬を幸太郎が引っ張った。
「なにするんだよ……!」
「だって梢子が浮かない顔するから。どうせ自分でいいのかとか、思ってたんでしょ」
「え?……なんでそんな事まで分かるんだよ」
「梢子は分かりやすいんだよー」
「私が……??」
今までの人生、自分の感情など押し殺し、人のために生きてきた。
私は人の考えていることが分かった。もっと深く言えば、相手が自分に何を求めているかがだ。だがそれは超能力とかの類ではない。これは私が育ってきた環境や今までの経験からのことで、私は相手が望む自分を演じられる。昔からそうだ。相手が今、どんな自分を求めていて、どんな言葉を欲しがっているのかが分かる。だから人付き合いで揉めたことはないし、いじめに遭ったこともない。だがいつしか自分を見失っていた。
……疲れたんだ。だから私は自分の殻に閉じこもり、人と深く関わることを避けた。でもその先に待っていたのは孤独だった。
私は、透明人間だった――。
だがそれを奴が変えた。
「初めて会った時、僕を古風そうな男だなって思ったでしょ??」
「まあ……」
「フフッ……ハハハハッ!」
「なんだよっ……」
「いや、梢子はさ、言動は素直じゃないけど、表情豊かで、なんか、いいなって……」
「……お前はよく分らん奴だがな」
「ハハハッ! そんな事ないよ! 僕は梢子の前では、いつも自分らしいよ!」
そんな奴との何気ない日々が好きだった。
「僕はね、梢子。君が出かける時は、いってらっしゃいと言う。君が帰ってくる時は、おかえりとなさいと言う。そして君に温かいご飯を作って、おやすみと言う。そんな当たり前を君と共にしたいんだ」
「当たり前……」
ずっと、奴の傍にいたい……この幸福で満ちた心を抱えて、奴と生きて、もっと幸せになりたい。それは誰もが願ったことのある願いだった。
――だが、それは私には許されない事だった。
二人で、実家を訪れる日のことだった。その日は、奴の母親の誕生日で、あいつは朝から頬を緩ませていた。
「母さん、喜ぶだろうな~ まさか彼女を連れてくるなんて、思ってもみないだろうにっ!」
子供のような無邪気な笑顔を浮かべ、私の手を引き歩く。
「やっぱり、ちゃんと連絡をした方がいいんじゃないか……?」
私は不安だった。せっかくの誕生日に、見知らぬ女がやって来るなんて、いい気がしないのではないかと。
幸太郎は立ち止まり、振り返った。
「何言ってんの! これはサプライズなんだよ?」
「サプライズ……」
「そう。梢子と僕から、母さんへのサプライズ」
そう言い、幸太郎は梢子の両手を握った。
――奴からの愛が、私の心から溢れた。
真冬の一月。テレビでは連日、自動車交通事故の様子が報道されていた。雪が氷となり、道路はブラックアイスバン状態。自動車がスリップし、人が巻き込まれて死人が出ている事故もあった。私はそれを他人事のようにニュースで見ていた。まさか、自分たちが被害者になるなんて、思いもしなかった。
「行こう、梢子」
強く握られた手は、とても温かかった。私は、奴に身を寄せながら、再び歩き始めていた。
――プゥゥゥゥゥ……!!!!
そのクラクッションが聞えた時には、もう既に遅かった。
目が眩むくらいの眩しい光で、前が見えなかった。
「梢子……――!!」
気が付いたとき、私は両腕の感覚がなかった。私の上には、血まみれになっている奴が覆いかぶさっていた。
「こう、たろう……こうた、ろう……」
私が呼びかけても、奴はぴくりとも動かなかった。
頼む……返事をしてくれっ……私を置いていくなっ……
「っ……くっ……うぅぅぅ……」
私達を轢いた運転手は、すぐに救急車に連絡をしてくれたが、奴は帰らぬ人となった。私は両腕の切断を余技なくされた。私が助かったのは、奴が私を守ってくれたから。事故が起きる瞬間、奴は私を庇うように覆いかぶさった。だから私は生きられた。
「あなたのせいで息子は死んだのよ……!! あなたとなんて……出逢わなければよかった……」
奴の母は、私は私を責めた。当然の事だと思う。私は頭を上げることが出来なかった。
「息子は死んだ。……あなたは……その程度で、よかったんじゃない……??」
大切な息子を奪われたのだ。そんな事を言われても、私が奴の母親に、憎しみや怒りの感情を持つことなんてなかった。
もう、何もない……。
私は心を持たない、人のカタチをで息をするだけ、何者でもない、ただの物となった。そんな空っぽな私に、牧野は言ったんだ。
「先生、書きましょう。書き続けるしかないんです。ここで終わってはダメです。負の感情に呑み込まれてはダメです」
私は前よりも物語にのめり込むようになった。そうしなければ、やっていけなかったのだ。
――梢子。
奴が最後に見たものも、最後に口に出した言葉も、私だった。
血に染まる、白い雪――
一度失ったものは、もう二度と戻らない。もう、お前の声を聞く事も、お前の笑顔を見る事も、お前に触れる事も、何も叶わない。タイムリープやパラレルワールドなんて、あんなものは物語の中での事にしか過ぎない。
私の時は完全に止まった――。
「……彼は夢を持ち、希望に満ち溢れた人生を送っていた。それなのに死んだ。……私のせいで」
梢子は淡々と語っていたが、その表情からは、喩えようのないほどの哀しみと苦しみがあった。
「私が……死ねばよかったんだ」
梢子の目は虚ろだった。
青星は怖くなった。梢子が消えてしまうのでないかと。
「やめろ……そんなこと言うな……お前は、お前は生きるべきだった……!」
だが青星がそう言っても、梢子は口を閉ざさなかった。
「いや、死ぬべきは、私だった……」
「っだから……やめろって言ってんだろ……!!」
青星は声を荒げた。
梢子は驚いた顔をして、青星を見ていた。
「頼むから……やめてくれ……」
青星の声は震えていた。
「これは罰なんだ……私の罰……」
両親の話を聞いたとき、もうこれ以上の不幸は、こいつには降りかからないだろうと思っていた。だが違った。こいはずっと暗闇の中にいた。永遠に出口のない、深い、暗闇の中に。
自分を抱きしめるように、体を丸め座る梢子を青星は抱き寄せた。何も言わずに、ただ心は傍にいるということだけ、伝わるように。
たとえ、この世界の誰もがお前を責めようとも、俺だけはお前の味方でいる。
なあ、梢子。俺をお前の心のより所にしてくれ……。
そして神様頼む、もうこれ以上、こいつを傷つけないでくれ――。
〈――我のみやよをうぐひすとなきわびむ人の心の花と散り花――〉
牧野は仕事をしているふりをしていた。椅子に腰かけ、手はパソコンのキーボードの上に置かれ、視線は画面に向いているが、頭の中は別の事を考えていた。
梢子ちゃん、原稿、進んでいるだろうか。あれから、メールではやり取りはしているけど、特に会ったりはしていないし。でも、梢子ちゃんには青星くんが付いているだろうし、でも、やっぱり心配だ……。後で様子を見に行こう。
「おい、牧野」
「……岩田」
そこには、同じ編集部で働く、岩田(いわた)の姿があった。
岩田は着ていたコートと脱ぐと、牧野の隣のデスクに腰を下ろした
「聞いたぞ、お前、間宮先生に独断で原稿書かせているらしいな?」
「まあ、うん」
打ち合わせ終わりだったのか、岩田はカバンから茶封筒を取り出し、大切そうにデスクの上に置いた。
同期の岩田は自分とは違い気前のいい男だ。今担当している小説家は気難しい相手だと聞いていたが、岩田ならどうってことないだろう。
「それにしても、よく編集長の許しを得たよなー」
「今回はそうするべきだと、判断してくれたんじゃないかな」
「お前だからってのもあるんじゃないか?」
「……僕が?」
「編集長、お前の事、結構気に入っていると思うぞ」
牧野は少し離れたところにデスクを構える編集長の事を横目で見た。
吊り上がったきつい目で、今日も原稿を凝視している。見た目は強面な感じだが、面倒見のいい人だ。
牧野の編集者としての姿勢は、今の編集長から教わったようなものだ。牧野が梢子の担当になった時、当時、副編集長をしていた今の編集長が、右も左も分からない牧野を支え、気遣っていてくれた。
『お前は昔の俺によく似ている』昔、そんなことを言われたたっけな。
あの見た目で見ているとは、どこがと牧野は思ったが、編集長は自分のどこかに、牧野を重ねたのだろう。
自分と同じ仕事の仕方をしているから、邪険に思っていないだけではないのだろうか。何にせよ職場の責任者に好かれて悪い事は無い。
「でも、一番驚いたのはお前だよ。独断で書かせるのは、こっちも責任を問うことある。真面目なお前なら、それくらい分かっていたことだろ?」
梢子ちゃんにあの原稿を見せられた時、自筆で書いていることに驚かされた。ネットが普及している今、手書きをしている小説家などいないに等しいが、梢子ちゃんの場合は、両腕がなく義手で生活している。そんな梢子ちゃんが自筆で書いている事が何よりも、この作品に対する思いが本気である事を示していた。
「僕はただ、先生に小説を書く楽しさをもう一度、思い出してほしいだけだ」
僕はこの三年間、ただそれを願ってきた。
「あれからだよな、間宮先生が書けなくなったのは」
「うん……」
梢子ちゃんが小説を書けなくなったのは、あの日からだ――。
連絡を受け駆け付けた僕は、看護師に梢子ちゃんのいる病室に案内された。梢子ちゃんの病室に行く途中、廊下で泣き崩れる母親の姿を見た。その時は、全く知らない赤の他とばかり思っていた。
梢子ちゃんは集中治療室で、体に色んな器具を着けられていた。医者が言うには、スリップしたトラックが二人に突っ込んだと。梢子ちゃんは重傷を負い、命を救うためにやむを得ず、両腕を切断したと。
「――二人……?」
聞き間違いだろうか。今、そう言った気が……
「正直、女性が死ななかったのは奇跡のようなものです。あんなに大きなトラックに至近距離で突っ込まれれば、助かることはまずない。助かったのは、彼が咄嗟に、自分の身を挺して彼女を守ったからでしょう」
亡くなったのは一ノ瀬幸太郎という男で、梢子ちゃんの恋人だった人物だ。
じゃあ、さっき廊下で泣きくずれていたのは……彼の母親……?
「一緒にいた男性のコートのポケットからこれが」
見た瞬間、それが何かすぐに分かった。
こんなのあんまりじゃないか……。
目を覚ました梢子ちゃんは、この世界に絶望していた。一ノ瀬幸太郎が死んだこと、自分だけが、生き残ったこと。
不思議な事に、失った両腕の感覚があるみたいで、必死に両腕を動かそうとしていた。そのうち幻肢痛(げんしつう)が起こり始め、嫌でも両腕を失った事を思い知らされ、寝られない日々を送っていた。
幻肢痛のための薬が処方されても、梢子ちゃんには効果は見られなかった。
梢子ちゃんの時間は止まった。
そんな梢子ちゃんに、僕はこの箱を渡そうか悩んだ。今の梢子ちゃんは負の感情に支配されている。下手の事をすれば、梢子ちゃんは……
僕は、この箱をしまって置くことにした。
一ノ瀬さんの葬儀は親族だけで行われ、梢子ちゃんが行くことはなかった。体の面を考慮しての事もあったが、理由はそれだけではないと僕は思っていた。
しばらくして、梢子ちゃんは一般病棟の個室に移された。いつもカーテンは閉め切っており、僕が見舞いに行き、カーテンを開き、窓を開けなければ、ずっと淀んだ空気のまま、一人、闇の中を彷徨っている状態だった。
「お前、何か私に隠しているだろう」
梢子ちゃんは、一点を見つめたままそう言った。
「えっ……何も隠していませんよ……」
「嘘はいい。お前が持っているんだろ」
持っている。梢子ちゃんはそう言った。
梢子ちゃんは気付いていた。一ノ瀬さんが、自分にプロポーズをしようとしていることを。
僕はカバンから箱を取り出し、梢子ちゃんの前に置いた。梢子ちゃんはしばらく無言でその箱を見つめると僕に開けるように言ってきた。
箱を開けると、中にはサーモンピンク色をした宝石が埋め込まれた指輪が入っていた。
「これは……」
「パパラチアサファイアだ」
パパラチアと言うのは、蓮の花のことで、石言葉は、<一途な愛> 蓮の花には、〈離れゆく愛〉という花言葉がある。梢子ちゃんはそれを知っていた。
そんな意味のある花の石をあえて使ったということはまるで……
――僕が君の傍から離れることはない。
そう言っているようだった。
一ノ瀬さんは深く、深く、梢子ちゃんを愛していた。梢子ちゃんには、その愛を受け取る権利があったはず。二人はただ、幸せになろうとしているだけだった。それがこんな結末を迎えた。
――なんて残酷な運命が、二人を襲ったのだろうか。
「私には、これをはめる指もない……」
梢子ちゃんの心は空っぽだ。もう何もない。このままでは本当にダメになってしまう。他にどこかに思考を持っていかせなければならないと思った。だから僕は、梢子ちゃんに小説を書くように言った。
「負の感情に呑み込まれてはダメです。あなたは書き続けるしかないのです」
半ば強引とも言えるこの言葉。梢子ちゃんが小説の奴隷になりたくない事は分かって。だけど、この時は、梢子ちゃんを奴隷にするしかなかった。
「書き続けるしか、ない……か……」
それから、梢子ちゃんは小説を書くために、何年も義手の訓練を積み重ね、そして、やっとの思いで義手を使いこなせるようになった。
だが、空いた心の隙間は埋まらない。
「朝、目覚めた時に絶望するんだ。また一日が始まってしまったと」
一ノ瀬さんの死を受け入れることは、この先一生ないだろうと梢子ちゃんは言った。自分には、梢子ちゃんを仕事の面でサポートする事しか出来ない。心の隙間は埋められない。だからどこかで願っていた。誰かが、梢子ちゃんを暗闇の中から救い出してくれる事を――。
「――きの……まきの!」
「えっ?」
「えっ? じゃねーよ。今の話、聞いてたか?」
「あ、ごめん…」
「たくっ……」
時計を見ると午後五時を過ぎていた。
やば、そろそろ行かないと、遅くなってからは迷惑になる。
牧野は慌てて立ち上がり、鞄に荷物を詰め込み出した。
「どこ行くんだ?」
「間宮先生のとこ……!」
急げ急げ~……
上着を手に取り、「行ってくる」と、岩田に言う。
「あ、おい……!」
走らせた足を止め、後ろを向く。
「間宮先生の新作、楽しみにしてるからな!」
「……ああ!」
牧野は足早に編集部を後にした。
もうすぐ、紅葉が色づく季節がやってくる――。
真夜中、青星は部屋のドアの隙間から入る、僅かな光で目が覚めた。
リビングに行くと、ソファーの上に膝を抱えうずくまる、梢子が居た。ってきり仕事でもしているのかと思っていたが、それは違った。
「梢子……? どうした……?」
青星が声をかけると、梢子は顔を上げた。その表情は、引きつっていて、何か痛みにでも耐えているようだった。
「悪い、起こしてしまったな」
眉を下げ、申し訳なさそうに謝る梢子。
「いや、そんな事はいいんだよ」
青星は梢子の隣に腰を下ろした。
「どうしたんだ?」
あえて明るく、でも優しくそう言い、青星は梢子の背中に手を添えた。
「……幻肢痛だ。よくある事なんだ、私のように、体の一部を失った者にはよくある事……」
幻肢痛とは、事故などで手や足を失った人がまだ手や足があると錯覚して起きるもの。幻肢痛の痛みは例えるなら、正座をして痺れた感覚がずっとあるような痛み。人によって痛みの強さや頻度は異なるが、これは慣れていけばいくほどに辛くなるもので、梢子の場合、事故の事を受け入れられていないせいか、たまにとてつもなく痛むらしい。
「不思議な事だが、切断されてぞれなりに時間が経った今でも、両腕があるような感覚に陥る事があるんだ。可笑しいだろ。無いのに、痛むだなんて……」
梢子は苦笑していた。
「そんな事ない。お前は苦しんでいる」
正座ごときの痛みかと思う者がいるかもしれない。でも、そう思う者が居てもおかしくはない。これは、失った者にしか分からない、苦悩と痛み。これが一生続いていくのかと思うと、相当な忍耐力と精神力がないとやっていけない。
「……今、結構痛むか?」
梢子はこくりと頷いた。
「……そうか。じゃあ……」
青星は梢子の体を自分の膝の上に倒した。
「青星……?」
「膝枕だ。光栄に思え、お前が初めてだ」
「……そうか……それは幸せな事だな。私はあのシリウスに膝枕をされているのだから」
「ああ、そうさ」
梢子は薄暗い天井を見上げながら、痛みに耐えていた。
今まで、一人ここでその痛みと苦しんでいたのかと思うと、もっと早くに梢子に寄り添ってあげたかったと青星は思った。
対処法も何もないその痛みに、耐えて耐えて、ただ耐え抜く事しか出来ない。そんな滑稽な現実――。
「大丈夫だ、俺が傍にいる」
梢子は青星の体に身を寄せた。
「うんっ……」
星屑のように輝く、梢子の細い髪。青星はその美しい髪を撫でるように指を通した。
それから三十分ほど経ったころだっただろうか。梢子から規則正しい寝息が聞こえてきたのは。その寝息を聞き、安堵した青星は、目を閉じた――。
翌朝、青星は学校に行くため、いつものように早起きをしていた。歯を磨いて顔を洗って、制服を着て、っと。そこまではいつもと変わらない。次にするのは梢子の作ってくれた朝食を食べる事だ。しかし、今日は梢子の作る朝食はない。梢子はまだ眠っている。
あれから梢子は何度か目を覚ました。その度に、俺に縋るように身を寄せた。そして、俺は迷うことなく、その体を抱き寄せた。
時より震えながら俺にしがみつこうとする梢子を、俺は守りたくて仕方がなかった。
適当に朝食を済ませ、梢子の分の食事をテーブルに置くと、鞄を持って、玄関に向かった。
靴紐を固く結び、腰を上げると、ドアノブに手をかけ、一度振り向いた。
「……」
見送りがないのは、初めての事だった。
梢子に、いってこいと言われることが、俺の学校に行く活力になっていたんだ。その事の大切さが、今なら分かる。
「いってきます」
青星は、誰もいない後ろに声をかけ、ドアノブを回した。
エレベーターに乗り込み、エントランスを出ると、真理愛が居た。真理愛は青星に気づくと、真理愛の表情は一気に明るくなった。
「おはようっ!」
今日も甘ったるさ全開で言われるおはようはある意味破壊力抜群だ。
あれ以降、真理愛はこうやって、朝、学校に行く青星を待ち伏せしては、学校までの道のりを一緒に歩く。毎日一生に登校するものだから、春一には付き合っているのかと誤解までされたが、青星は全力で否定した。
永遠にそれはあり得ないと。
鬱陶しいこいつの好意は迷惑でしかないのは事実だが、あまり邪険にすると、梢子が周りの大人に良い印象を持たれない。それが嫌なだけだった。だから特に追い払うことなく、ただその存在に無視をしているだけ。
今日も誰がああどか、どこに行ったとか、何を買ったとか、どうでもいい事を話す真理愛。
そして話題は青星の事に。
「青星くんはさ、どうして間宮さんの家にいるわけ?」
「……」
答えるわけがない。
青星が無視を続けていると、真理愛は機嫌を損ねたように頬を膨らました。
そうやって拗ねて、諦めて、他の男の所でも行ってくれればいい。その方が俺にとっても良い。
すると、真理愛はいきなり、梢子の事について話し始めた。
「間宮さんって。綺麗だけど、何考えてるか分かんない感じだよね」
青星が何を言っても反応してくれないから、梢子の話をし出したのだろうか。
「小説家だがなんだが知らないけど、周りの事見下している感じするんだよねー」
明らかに敵意のある言い方で言う真理愛に青星が苛立たないわけがなく。
青星の表情は分かりやすく曇った。
「間宮先生の腕ってさ――」
青星はその言葉に足を止めた。周りには同じ学校の生徒や職員が居た。
今日、あの授業がめんどくさいだの、スカートが短いだのと、いつもある光景が広がっていた。
色づいた紅葉が校舎を鮮やかにし、冷たい風が吹き抜ける。
「間宮さんの腕って、義手でしょ? なんでなの?」
言葉を続けて見ろ、俺はお前を……お前を生かさないかもしれない……
「ねえ、なんで?」
真理愛は悪気があってそう言ったわけではない事は、考えれば分かった。だが、青星は冷静でいられなかった。
気づいた時には、青星の手は、真理愛の胸ぐらを掴んでいた。地面には、投げ飛ばした鞄が落ちていた。
周りは驚きの声を上げ、青星を見ていた。
「お前が、お前があいつを語るんじゃねーよ……あいつが今まで、どれだけの想いを抱えて生きてきたきたか、お前ごときに分かるはずもないくせに……」
「だって、青星くんが間宮さんの事ばかりだからっ……!」
そして嫉妬から、真理愛は絶対に口にはしてはいけない事を口にする。
「あんな障害者のどこがいいのよっ……!!」
……っ! こいつっ……!!
頭に血が上りきった青星は片手を上げた。その目は、悪魔のように凶悪だった――。
殴られると思った真理愛は目を瞑った。
しかし……
青星の手は止まっていた。誰かに、手首を掴まれていた。
横を見ると、そこには血相を抱えて走って来たのであろう、額に汗をかき、血の気の引いた春一の姿があった。
「離せ、春一。俺は今、機嫌が悪い」
「ダメだ」
青星は殺気のある目で、春一を睨んでいた。
「離せって言ってんだ。俺の言っている事が分からないのか?」
「嫌だ」
体格も、身長もほぼ互角な春一と青星。青星がどんなに力を入れようとも、春一もまた力を入れてくる。
周りは騒然としていた。近くいた教員までもが駆けつける騒ぎになり、青星は仕方がなく真理愛から手を離した。
真理愛は力なくその場に崩れ落ちると、震える自分の体を両手で抱きしめていた。
その姿を見て、青星は我に返った。
――今、俺は、こいつに何をしようとしていた――?
俺は、俺はあの恐怖を、自分が感じていた憎悪を、他の奴に与えようとしていた。
「俺は、なんて事を……」
青星は後悔の念に襲われた。真理愛は教員らによって、学校の中へ連れられて行った。立ちつくす青星を、春一は心配そうな顔で見ていた。
「俺は……おれ、は……」
視界が眩んで、前が、上手く見えない……
「青星……!!」
目の前が真っ暗になる前に、弾丸のようにそう叫ぶ、春一の声がした。
青星は、その場に倒れ込んだ――。
震える体。寒い部屋。凍りついた心――。
父さん、もうやめてよ。もう俺を許して、俺を、殴らないで……。
やめて。俺が人生で三番目に話した言葉。
ごめんなさい。俺が、人生で二番目に話した言葉。
生きたい。俺が人生で最も望んだ事。
目を開けると、真っ白な天井が視界に入った。
あれ……俺は……。
「やっと気づいたか」
ぼやける視界の中、力を入れ上体を起こすと、そこには大宮が居た。
どうやら俺は倒れて、学校の一室であるここに運ばれたらしい。
大宮は青星の額に片手を置いた。
「熱はないな。酷くうなされていたようだけど、大丈夫か?」
体から冷や汗が出ていた。見なくても分かる。顔もこわばっている。
青星はゆっくりと息をした。
父親の夢を見るのは、今回が初めての事ではない。ただ、最近はずっと見ていなかったから、上手く体が対所出来なかっただけだ。
「問題ない」
自分の言い聞かせるようにそう言った青星だったが、体と声は震えていた。
大宮は、ベッドの脇にあった椅子に腰かけた。
「話は聞いた。……大丈夫か」
そうだ。俺は、あいつの事を……
「俺は別に。あいつは?」
「進藤は、さっき仕事終わりの親御さん来て、帰宅したところだ」
「……そうか」
梢子の事を言われて、ついかっとなった。もしも春一が止めてくれなければ、俺は完全にあいつを殴っていた。
俺は……あの男と同じ事を、あいつにしようとしていた。俺と同じ痛みを苦しみをあいつに与えようとしてしまった……。俺は……取り返しのつかない事をするところだったんだ……。
「春一を呼んでほしい」
「……分かった」
大宮はそう言い立ち上がると扉へ。
「先生――」
青星は大宮を呼び止めた。
「どうした……?」
「この事、梢子には……」
あいつには、心配はかけたくない。今、学校で俺が騒ぎを起こしたとすれば、あいつは飛んでやってくるだろう。自分の痛みと苦しみを追い込んでまで。
「言ってない」
梢子に連絡がいかなかったのは、青星の家庭の事情を理解している大宮の判断だろう。
「……ありがとう、ございます」
「でも、帰ったらきちんと、自分の口から話すんだ。間宮さんは、知りたいはずだ」
「……はい」
外は日が暮れていた。開いた窓からは、別れの挨拶を告げる生徒の声が聞こえ、カラスが鳴きながら群れを作り、山へ帰っていた。
クラスメイトを傷つけて、倒れて、寝て、呆れる人間だ。俺は今日一日、一体何をしていたんだろうな。
梢子、ちゃんと寝られているだろうか。朝作って来た食事は、食べてくれただろうか。無理を、していないだろうか。
憎悪、嫌悪、後悔、悲しみ、苦しみ、痛み。こんな感情をどれだけ持とうとも、俺の頭の中は、お前が全てだった。
梢子、お前に、逢いたい……。
ベッドの上、膝を抱え、青星は残っている梢子のぬくもりを欲した。
放課後のチャイムが鳴り少しして、部屋の扉が開いた。
「……よお」
春一はそう言うと、扉を閉め、先ほど大宮座っていた椅子に腰を下ろした。
互いに気まずいのか、すぐには話さなかった。
そして数分経った後、
「「あのさ」」
二人同士に口を開いた。
「先に言ってくれ」
青星がそう言うと、春一は「分かったと」と頷き、話し始めた。
「俺さ、お前は訳アリっていうか、他のやつとは違うってなって事は、初めから感じていて。一緒にいるうちに、うすうすそうなのかなって思ってたんだけど……」
春一は青星を気遣い、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「その……」
「いいよ」
「え?……」
春一はここに来て、初めて出来た友達だ。今の言葉通り、春一は初めから俺に違和感を感じていた。でも、言わなかった。きっと、それは春一にとって、どうでもいい事だったからだ。
――こいつも、俺自身を見てくれていた。
だから、俺の事をどういわれても、仮にお前が、俺を傷つける言葉を言おうとも、どうだっていいんだ。
「お前は……お前は一人、孤独に生きてきた。そうだろう……?」
「……お前は優しいな……」
結局、直接の言葉を避けるんだな。
「春一、俺はな――」
青星は、春一に自分の今までの事を全て打ち明けた。母親に捨てられた事。父親から虐待をされていた事。借金を背負わされ、クラブで男娼をしていた事。全部、包み隠さず打ち明けた。
言葉にすれば、もっと辛いかと思っていたが、案外、心は痛まなかった。春一に、自分を知ってほしいと言う気持ちが、俺の心の中にあったからだろう。
春一の表情はころころと変わった。眉を下げ、瞳を揺らし悲しんだり、目を吊り上げて、苛立ったり、制服のシャツを握りしめ、苦しんだり。
「でも……あいつと出会って、俺の人生は三百六十度変わったんだ。……あいつは、俺の光なんだ」
「青星……」
「春一、お前には感謝している。こんなどうしよもない俺と友達になってくれて。さっきの事も、お前が居なかったら、俺は進藤を傷つけた」
あの男を否定しようとも、俺の中にはあいつの血が流れている。俺もいつか同じように、誰かを力でねじ伏せ、支配してしまうのではないだろうか。そう思うと、俺は自分が恐ろしくて仕方がない……。
「だからこんな俺と居たくないと思っても、仕方がない。お前が俺から離れても、俺は……」
青星の両手は震えていた。
記憶の中のあの光景が、音が、頭に、耳に残って離れない……。
すると自分の両手に、春一の両手が重なった。
「お前は、汚れてなんかいない。恐ろしくなんてない。お前は優しい。だってそうだろ? お前は進藤を傷つけてしまったと後悔している。それがなによりの証拠だ」
「春一……」
「青星。俺はお前が大好きだ。これからも、俺たちは友達だ」
友がこんなにも優しく、心強い存在である事。俺はそれが嬉しかったし、安心した。
「また明日」その一言が、今日はやけに胸に響いた。
春一と別れ、青星は一人、廊下を歩いていた。途中、職員室に寄り、大宮に帰る事を伝えると、「気をつけて」とその一言だけだった。
大宮は、青星がどうしてあんな事をしたのかは聞いてこなかった。真理愛や春一からある程度の事情は聞いているだろうし、事の理由が理由だからと、変に蒸し返さないようにししてくれているのかもしれないと青星は思った。
先生の良い所は、余計な事は聞いてこない事だと思う。こんな奴が、何を偉そうに、上から目線で物を言うのかと感じだが。
梢子になんて説明しよう。この問題に直接的ではないが、関わってるし、そんな事を言ったら、あいつは自分を責めるかもしれない。だけど、先生の言う通り、黙っているのも秘密にしているみたいでよくないし。
玄関で靴を履き替えていると、人の気配がした。中腰になっていた体を元に戻すと、そこに立っていたのは、帰ったと思っていた真理愛だった。
「進藤……お前、帰ったんじゃ……」
「そのつもりだったけど、青星くんに謝りたくて」
真理愛はそう言うと、同じように靴を履き替えた。
「ここでいいから、私の話を聞いてもらえるかな」
こんな進藤は初めて見た。
真理愛はいつになく、冷静な顔をしていた。
「……私さ、気づいていると思うけど、青星くんに、好意があるんだよね。あ、恋愛での好意だからね? まあ、疎くないと思うから、分かっていると思うけど」
「うん」
「正直、一目ぼれで。何もかも理想で、絶対に手に入れたい。そう思ったの。引っ越しは偶然だった。青星くんと同じマンションって、知った時は嬉しかったなー。あれ、これって、恋が進展する予感じゃない? って思ったもん」
話の内容に沿って、身振り手振りをつけ、時々笑ったりする真理愛。しかし、目はずっと真剣そのものだった。
「でも……間宮さんを初めて見た時、これは適わないなって思った。美人でスタイルも良くて、自立していて、それに優しくて、性格まで良いし。子供の私なんかじゃ、到底敵いっこないって。分かってたけど、でも諦めきれなくて……」
真理愛は腕を後ろで組み俯き、心の中で準備してきた言葉を必死に吐き出そうとしていた。
「悔しくて、あんな事、言っちゃたの……本当は、思ってなんかいないのに……」
いつしか春一が言っていた。真理愛は強引なところもあるが、根は真面目でいいやつだと。
あの信頼における、春一が言ったくらいだ。進藤が本当の悪ではない事くらいは分かっていた。分かっていたのに、俺は……。
真理愛のワイシャツは、青星が掴んだ事によって皺ができていた。
それなりに時間が経っているのに、少しも消えていない皺。それほどまでに、あの時の青星は怒りの感情に心を支配されていたのだ。
「青星くん。本当にごめんなさい……」
真理愛は姿勢を正し、深々と頭を下げそう言った。その姿勢から、真理愛が心から詫びている事が伝わった。普段の真理愛からは、本当に想像もつかない姿だ。
きっと、進藤の本当の姿はこうなんだ。
愛は時に、人を歪ませてしまう。青星への純粋な好意が、いつしか嫉妬と敵意へと変わり、青星も梢子を思うが故にそうであったように、真理愛はあの時、本来の自分を失った。
「……進藤。謝るのは俺の方だ。怖い思いをさせて、本当に悪かった……」
青星もまた、深く真理愛に頭を下げた。同情ではない。心からの謝罪だ。
「どこか、痛むところはないか?」
「うん……大丈夫」
「そうか……ならいい」
小さく微笑む真理愛。その表情は、自然なものに思えた。
「もう行くね」そう言う進藤の背中を俺は見送った。帰り道は一緒だが、今日はもう、別々に帰った方がいいと言うのが、進藤がした判断だ。でも、そうしてくれて助かった。俺は家まで道のりの間に、梢子への説明の仕方を考えなければならなかったからだ。
少し遠回りをしたかったが、それだと梢子が心配する。体調が良ければ、今日もあのベランダで、俺の事を待っていてくれているはずだ。
嘘をつく事も、少しも偽る事をしない方がいいのは分かっている。でも、どうやって伝えれば、あいつを傷つけずに、心配させずに済むだろうか。
校門を出ていつものように道を曲がると、そこには先を歩いていたはずの真理愛がいた。
あいつ、あんなところで何してんだ……?
青星の位置からは、ちょうど電柱と重なって、相手の顔が上手く見えなかったが、真理愛は誰かと話しているようだった。
誰だ……??
青星は何の疑いもなしに、その場に近づいた。
しかし、すぐのその歩みを止めた。
身の毛もよだつこの感覚を、俺は知っている。
「――青星くーん!」
大きく手こちらに手を振る真理愛。
――嘘だ……
一気に血の気が引いた。
電柱の横から見えた相手のその姿に、青星は驚愕した。
大きな体を抱え、邪悪な笑みを浮かべてこちらに近づいてくる一人の男。
目には見えない縄に、体を縛り付けられているかのように、青星は一歩もその場から動く事が出来なかった。
その男は、青星の目の前までやって来て、見下ろした。
「――久しぶりだなー 青星」
男の正体。それは、青星が恐れ、嫌い、今もなお青星を苦しめ続けている存在。
「何だよ。父親の顔も忘れちまったのか?」
七瀬一浪だった――
「青星くん、大丈夫?」
隣には真理愛の姿もあった。
「この子が親切にお前の事を教えてくれたんだよ」
微笑む真理愛。
駄目だ。逃げろ進藤。その男は危険だ。そう言いたいのに声帯を失ったかのように何も話せない。
「仕方がない。お前がそんなんなら、この子に遊んでもらうとするか」
真理愛を上から下まで舐め回すように見て、不気味な笑みを浮かべる一浪。
「っ……やめ……ろ……」
「何? 声が聞こえない。もっと大きく話せ。お前、それでも男かー?」
けたけたと笑う一浪。完全にこの状況を楽しんでいる。
「やめろ……! あんたの言う通りにするから……だから……だからこいつには、手を出さないでくれっ……!」
必死な思いで叫ぶ青星。
「青星くん……?」
真理愛はさっぱり意味が分からないというような顔をしていた。
縋るような青星のその姿に、一浪は満足したようで、また不気味な笑みを浮かべた。
「……俺は大丈夫だから、お前は、もう帰れ……」
そう言った青星の表情は酷く怯えていた。いつも真理愛が見ている、気高さなど、どこにもなかった。まるでライオンが、兎にでもなったかのようだった。
「でも……」
「いいからいけってっ……!!」
青星がそう言い放つと、真理愛はその場から走り去って行った。
「賢明な判断だな」
一浪は不適な笑みを浮かべながら言った。
良かった……これで進藤は無事だ。俺が、ここから逃げさえしなければ。
青星は一浪を見上げた。
あの時と同じ、俺をゴミ駄目のような目で見ている。
梢子、すまない。俺はもう、お前の元には……
「来い」
一浪はそう言い、青星の腕を力強く引くと、引きづるように歩き出した。
お前の元には、もう、帰れそうにない――。
音がした、幸せを壊す、音が――。
目が覚めた時、そこにはいつもの天井があった。カーテンを通し、窓から入る夕暮の光をぼやける視界で見ていた。
昨日は幻肢痛が酷く、まともな睡眠がとれなかったせいか、体は海に沈んでいるかのように重かった。
あいつが居なかったら、きっと一睡もできなかっただろうに。
優しく、私の髪に指を通すあいつの手から、熱が伝わって、とても安心した。永遠に続いてしまうかのような長い夜に耐え続けてきたが、今、初めて私の目の前に、夜明けが現れた気がした。
しかし痺れる感覚は、昨日ほどではないが、今も続いていた。
まったく、嫌になるな……
頭を枕にこすりつけ、むしゃくしゃする気持ちをどうにかしようとした。
私だって、いつまでも過去を引きずってはだめだと分かっている。分かっているが、私には無理な事だ。
時間が経てば、痛みを忘れられると人は言う。私も、かつてはそう思っていた。しかし、この痛みを知って、分かった。それは、本当の痛みを知らない無責任な人間の言う事だと。強く想えば、想うほどに、想っていたほどに、失って感じる痛みは強く、重く。そういう痛みは、時間が経つほどに、濃くなっていく。
もう日が暮れている。青星は帰ってきているのか。
梢子はベッドから起き上がると、リビングに向かったが、そこは静まり返っていた。
まだか……。
「――アレクサ、青星、メール」
携帯のメールをチェックしたが、青星からの連絡はなかった。
友達とでも遊んでいるのかもしれんな。春一くんと言っただろうか、彼とサッカーをしているか、真理愛ちゃんに連れ回されているかのどっちかだな。どちらにせよ、喜ばしい事だ。
梢子はいつものようにベランダに出て、その帰りを待っていた。いつ帰って来るとも分からないのに、いつもこうして青星を待つ。
あいつがそこから手を振り、笑う姿が好きだ。その日によって、あいつの表情は変わるが、私に気づくと、必ず手を振り笑う。そのたった一瞬のためだけに、私は今日もここにいる。
早く帰って来てくれ、青星……。
――ピンポーン。
するとインターホンが鳴った。
青星……??
家の鍵を持っているはずの青星が、インターホンを鳴らす必要はない。梢子は不思議に思いながらも、玄関に駆けた。
上品とは言えないが、足を上げ、鍵を開けてドアノブを回した。
「青星――?」
しかし扉の先にいたのは、青星ではなかった。
「間宮さん……」
「真理愛ちゃん……?」
そこには、浮かない顔をする真理愛がいた。
「あ、青星なら、まだ帰ってないんだ」
「違うの……」
真理愛は小さく首を振った。
青星じゃないのか……?
梢子は膝を少し膝を折り曲げ、自分より背の低い真理愛と目線を合わせた。
「どうした?」
「……どうしよ……私……私……」
真理愛は酷く動揺していた。瞳が不規則に揺れ、冷や汗もかいているようだった。梢子はただ事ではないと察知した。
「落ちついて、ゆっくり息をするんだ」
真理愛の目には涙が溜まっていた。
手を添えてあげたいが、今の私には義手すらもない。
両腕がある感覚が残っているというのに義手をつけるのは、ない事を受け入れてしまった気がして、いたたまれない気持ちになるのだ。それが嫌で、幻肢痛が起こっている時は、義手をしない。
こうやって感情までもが、過去と現在を行ったり来たりする。誰かが泣いていても、ハンカチを差し出す事すら出来ない。
「大丈夫だ。大丈夫」
泣いている真理愛に言っているのか、自分に言っているのか。
――大丈夫だ。俺が傍にいる――
青星………。
真理愛は息を整えると、張りつめた表情で言った。
「青星くんが、男の人と……」
「男……?」
牧野……? じゃなきゃ阿久津……?
「お父さんって言うから、私……大丈夫だと思って、それで――」
心臓が大きく飛び撥ねた。
「……今、なんて……?」
その言葉に、梢子は阿久津の言葉を思い出した。
『――七瀬一浪が出所した』
まさか……そんなわけないよな……
「どんなやつだった」
「え?……えっと、体が大きくて……背も高かった」
間違いない。七瀬一浪だ。
「間宮さん……青星くん、大丈夫だよね……?」
「……」
「間宮さん……間宮さんってば……!!」
真理愛の声に梢子はハッとした。
「二人がどこに行ったのか、分かるか?」
「ううん……青星くんが、帰れって行ったから……」
青星は相手が一浪で、真理愛ちゃんの身が危険だと踏んだのだろう。迷わず、まず真理愛ちゃんを逃がしたんだ……自分を、おとりに使って。私が、こんな事になっているから……
「間宮さん……」
真理愛は不安げな顔をしていた。きっと自分のせいだと思っているのあろう。
「大丈夫。真理愛ちゃんは何も悪くないよ。家に帰って。お家の方が心配する」
梢子は苛立つ気持ちと焦りを必死に押さえながら、真理愛に笑いかけた。
「……分かった」
――バンッ。
閉じた扉の前、梢子は寄りかかるように崩れ落ちた。
酷い……心に、岩を置かれている気分だ。その岩を上から押されて、立ち上がる事の出来ないような気分にさせる……。
「……」
梢子は体を丸め、俯いた。
恐れていた事が起こった。
……考えろ……青星を救うんだ。両腕がない事がなんだ。足をもがれても、首だけにされても、私はあいつを助ける。あの日、あいつに出会った時に決めたんだ。
――この子を守ろうと。
絶対に、絶対に、あいつを死なせない……!
梢子は顔を上げ立ち上がると、再びドアノブを回した――。