夏本番を迎えていた今日この頃、俺は二者面談のため、放課後、学校に残っていた。夕暮れ時の校舎に人は少なく、居るのは同じく二者面談を待っている生徒と、部活に励む生徒のみだった。
 空は茜色に輝き、眩しかった。廊下の手すりに寄りかかりながら、外の景色を眺める。
 あの時の空も、こんな風に綺麗だったな。
 結局、あれからあいつが親の話をしてくる事はなかった。次の日にはけろっとして、何事もなかったように振舞っていた。あいつらしいっちゃあいつらしい。あいつなりに俺に気を遣ったのかもしれないが、俺はそんな事をしてほしくなかった。自分の中だけで痛みをとどめるのではなく、俺はあいつの痛みを共に背負いたかった。でも、それは俺が一方的に思っているだけであって、あいつは違う。考えてみろ、親しい相手でも、遠慮なしにずかずかと心の中に入ってこられるのは、誰だって嫌なはずだ。心を許して、信頼している相手だからこそ、言えない事もある。だから、あいつが話してくれるまで、俺は待つことにした。
 教室の扉が開く音がして振り向くと、そこいは春一の姿があった。隣には髪がショートの春一と同じ、大きな瞳を持つ女性も。青星は春一の母親に軽く会釈をすると、駆け寄って来る春一に向かって、あいさつ代わりに片手を挙げた。
「次、お前の番だろ?」
「ああ」
「親は、まだ来てないのか?」 
 春一はあたりを見回しながら言った。
 俺は春一の事が好きだし、信頼もしている。だが、過去の事や家の事は一切、話してはいない。知られるのが怖いわけではない。仲間思いで優しい春一の事だ、自分の事のよう捉えて辛くなるだけだ。そんな思いしてほしくない。
「そのうち来る」
「そうか。じゃあ俺は行くよ。また明日な!」
「ああ」
 手を振り去って行く春一に応えるように、青星も手を振って見送った。
 梢子のやつ、忘れてるわけじゃないよな。あんな事があったが、最後に牧野と自宅で打ち合わせしたをしたあたりからか、仕事の調子が良いみたいだった。前までは、唸ってばかりいながら執筆をしていたが、最近はそれがなくなった。執筆に没頭して日付と時間の感覚が狂ってなきゃいいが。
 大宮には、中で座っているように言われたが、青星は教室の前で梢子を待ち続けた。そして予定していた時間から遅れる事、十分。梢子はやって来た。
「悪い……! 道に迷ったんんだ……!」
 ここまで来るのに走ったのだろう。息を荒げ、額には汗が流れていた。
「大丈夫かよ……水とか持ってきてんのか?」
 こんな暑い中、走るなんて脱水症状でも起こした大変だ。
「いつものようにここにある」
 そう言い、肩に掛けていたバッグをポンポンと叩く梢子。今日も義手を着けている。
 大宮と挨拶を済ませ、水分補給をしてから二者面談は始まった。十分遅れでのスタートだが、今日の面談は青星で最後だったため、問題はないと言われた。
 大宮はすぐに梢子の腕が義手であることに気づいたようだった。珍しい物を見るような目で見ていたが、梢子の両腕は展示品などではない。
「んで、先生。進路の事ですよね」
 高校一年でも、進路の事について考えなくてはならない。高校生活の三年間は、俺たちが思っている以上に短く、あっという間に終わるらしい。
「七瀬は、何かやりたい事はあるのか?」
「特には」
「即答だなお前」
 大宮の問いに間を開けずに答えた青星に、隣に座っている梢子の鋭いツッコミが入る。
 この歳で、自分の将来を決める方が難しいと思う。
 春一はサッカー推薦で、既にいくつかの学校から声がかかっているらしい。一年生でレギュラーに抜擢される才能の持ち主。それに加えて、あのセンス。春一のすごさは、以前、一緒にサッカーをした時に嫌というほど知っている。
 梢子のように、若くして自分で事業を行う人間もまれだ。何がやりたいか明確に決まっている人間を羨ましく思う。
 大宮は持っていたファイルを開くと、いくつかの大学のパンフレットを見せてきた。
「何か一つの道を究めるのだったら、専門を進めるが、やりたい事が何か分からないから大学に行くというのも、一つの手だ」
 大学か。興味がないわけじゃない。今よりも多くの事を学べるし、関わる人間も国境を越える。  
 高校に入って気づいたが、知識と言うものは、紙だけで学べるものではないという事だ。誰かの話に耳を傾ける事で、得られる知識もある。例えば、その人物の今までの経験の談とかで。
「好きな事とかでもいいんだぞ、何か七瀬がやっていて楽しいと思える事はないのか?」
「楽しい……」
 楽しと思える事。そう訊かれ、青星の頭の中で、すぐに一つの事が浮かんだ。
「ある。一つだけある」
「おおなんだ?」
 大宮は食い気味に訊いていた。
「――小説を読む事だ」
 もちろん春一とサッカーをするのも、梢子と過ごす日常も楽しい。でも、俺が無我夢中になって、楽しいと思えるものは、小説を読む事だ。
「お前の小説が教えてくれたんだ」
 梢子、俺はお前の書く物語が好きだ。お前には言っていなかったが、俺はお前の今まで創り上げた物語を全て読んだ。雑誌で連載されていたのも、短編集も含め全部だ。最初はお前の事が知りたくて、あの本を手に取ったが、いつしか、ただお前の物語を読みたて、手に取るようになった。
ネット上に上がるお前の作品へのコメント読んで、作品を読んで分かったことがある。お前の小説は、人の痛みや苦しみの寄り添ってくれている。お前そのものなんだ。
――悲しいけど、温かくなった。
――辛いけど、生きたいと思った。
――孤独だけど、微かな光を集めたいと思った。
 全部、お前の小説を読んで人が思った事だ。どこの誰とも顔も知らない人の言葉だが、すごいと思わないか? どこも誰とも、顔も知らない人が、お前の作品を読んで、生きたいと思ってくれているんだ。お前は人に、生きる希望を与えてくれている。
「梢子。俺に、楽しいを教えてくれてありがとう」
 本当は、もっともっとたくさんのありがとうを伝えたい。でも、今ここで言うのは違うよな。
 梢子は「ふっ」と口元を緩ますと、
「お前には、適わないな」
 ――その言葉の本当の意味を、俺はのちに知る事となる。
「先生」
 梢子が真面目な顔で大宮に向き直った。その様子に、大宮も真剣な顔で梢子を見る。
「私は、この子の母親ではありませんし、血縁関係もない。先生からしても、私は得体のしれない存在でしょう」
 大宮は偏見がある男ではない。しかし、進藤のように、俺と梢子の関係を不思議に思っているのは確かだ。梢子は、色んな覚悟の元、俺と居てくれる事を選んでくれた。
「私は、この子の幸せを切に願っている。ですが、私一人の力では、この子を守り抜く事は難しいのかもしれない。だから、どうかこの子が道を誤らないよう、しっかり見ていて上げてほしい」
 「お願いします」と、深々と頭を下げる梢子。そんな梢子に、大宮は少し驚いたようだったが、決意の固そうな瞳で「はい」と頷いた。
 そして、梢子は俺に向き直った。
「私は、将来を選択する際、一番邪魔になるものは、周りの視線だと思っている。何を言いたいかは分かるな?」
 青星は静かに頷いた。
「誰かに自分の人生を委ねるような事はするな。世間に許されたいと思うな。何があっても、自分の心に従うんだ」
 梢子は、年齢や立場で相手を判断しない。相手が子供であっても、自分と同じ対等な存在として、いつも同じ目線に立って接する。今だってそうだ。俺の目を真っ直ぐに見つめ、俺と真摯に向き合っている。だから俺も、いつもこいつに、正直でありたいと思うんだ。
「――で、大学には行くか?」
 その問いに、俺がなんて答えたかは、安易に予想がつくだろう。



 二者面談を終えて家に帰宅すると、話があると、梢子は青星をリビングに呼んだ。その表情は、少し硬い気もしたが、あの時のような嫌悪さはない。
 これから話してくれる事は、きっと梢子の中でも覚悟がいる事だ。自分で自分に、プレッシャーをかけているのかもしれない。だから少しでもリラックスしてもらいたい。
「話って?」
 なるべく柔和に、青星は問いかけた。
「私の両親について……父について、話しておきたいんだ」
 青星は梢子の座る、目の前の椅子に腰を下ろした。
 そして、梢子は深く、短く息を吐いた。
「父は厳しい人だった――」
 梢子の父親は、いわゆる完璧主義者だった。学生時代には、生徒会長も務める文武両道の優等生。国立大学をしてからは、日本有数の大手企業に勤めた。その経験を生かし、今では自身で会社を経営しているという。そんな父親の一人娘であった梢子は、親の期待を一身に背負った。
「父に褒められるのは嬉しかった」そう梢子は言った。
 学校でも、塾でも、成績優秀で何をやっても常に一番だった梢子。周りからも優秀な娘さんがいて羨ましいと言われ、近所でも梢子の評判の女の子。そんな梢子を父親も自慢に思っていただろう。あの時までは――。
「だが、私は父の思うような娘にはなれなかったのだ」
 父親が梢子を罵倒し始めたのは、梢子が中学受験に落ちた時だった。同じく受験をした知人の子供は全員受かったが、梢子だけが、落ちてしまったのだ。
「その時に知ったよ。努力は、どれだけしても足りない。した全てが、報われるわけではないと」
 父親は酷く梢子を嫌った。お前のせいで、恥ずかしくて近所の人にも顔向け出来ないと、お前は私たちの恥だと。
 話せば話すほどに、梢子の表情は沈み、下を向いた。そんな梢子を見るのは青星にとっても辛い事だった。
 あの男に会った時、頭ではなんでもないと思っていながら、気が付いたら体が勝手に反応していた。こいつを梢子に近づけてならないと、梢子を守らなければと、体が言っていた。それは多分、いつの日かまで、自分が感じていたものと、似ていたものを男から感じたからだと思う。
 青星が身体的な暴力を受けていたなら、梢子は言葉の暴力を受けていた。体は何ともなくとも、心はずっと悲鳴を上げていた。助けて。助けて。と。
「お前のデビュー作、読んだ。あれは……お前自身だったんだな」
 梢子のデビュー作、〈緋色の悲鳴〉物語の主人公は、厳格な父を持つがゆえに、人生に生きずらさを感じる。最初は自分のためだと感じていた事も、成長するにつれ、それが歪んだ愛である事を知る。
「ああ、そうだ。それが今の出版社の目に留まり、私は小説家という職を手に入れた」
 父親には、そんな現実を見ない生き方なんて、絶対に上手くいかないと批難されたが、梢子は構わず家を出た。出来損ないだと蔑まれ続けた梢子は、文章を書く事でしか精神を保っていられなかったのだ。
「私は、小説を書く事でしか、自分の存在価値を見出す事が出来ない人間なのだから」
 自分はまるで、存在価値のないような人間。あいつに出会う前の自分が思っていた事。俺は母に捨てられ、父に虐待され、自分の身体を売りながら生きてきた。こんなにも無様で、可笑しい話は他にないと思っていた。でも、こいつも俺と同じだったんだ。俺はいつだって、自分の不幸ばかりを見ていた。何も知らなかっただけで、こいつはずっと苦しんでいたんだ。それに何も気づいてやれなかった自分に腹が立った。
 握った拳に自然と力が入った。
「梢子。俺に、何が出来る……?」
 俺がそう言うと、梢子はゆっくりとその場から立ち上がった。そして、俺の目の前に来ると、自分の胸の中に、俺を優しく引き寄せた。
「……何もいらない。お前は何もしなくていいから、ただ明日も私の傍にいてくれ」
 脆くて、儚いその存在を、俺は強く抱きしめ返した。
「ああ、分かった……」
 約束する。俺はお前から離れないと。たとえ、どんな未来が訪れようとも、俺の心も身も全て、お前のものだ。