午後は気温がどんどん上昇すると、朝のニュース番組で気象予報士が言っていた。こんなに暑いと、外にも出たくなくなるが、今日は出なくてはならない。
 梢子はノースリーブのワンピースを手に取った。普段は長袖を着ていることが多い梢子。義手を着けていることで感じる、人からの視線を気にしているわけではない。だからと言って、日焼けを気にしているわけではない。単に長袖が好きなだけだ。肌触りの良い素材の洋服を着ているとなんとも心地よく安心するのだ。
 夏にと思って買った、大きめのマクラメバッグをクローゼットの奥から取り出し、荷物を詰め込む。梢子は荷物を多く持ち歩くタイプの人間だ。特に夏が多く、財布や家の鍵などの貴重品以外に、水筒や日傘も持ち運ぶ。外を歩く時は日傘を差さないと、頭皮が焼けて頭痛がするのだ。
 玄関に鍵をかけ、エレベーターに乗り込む。途中、ベビーカーを押した子供連れの母親が乗って来た。
 子供は、まんまるとした大きな黒い瞳で、梢子をじっと見つめていた。
 赤ちゃんはこの世に、ただ一つだけ存在する純真無垢な生命だ。この目で、これから多くのものを見て、知っていくのだろう。どうかその先にある未来が、明るいものであるようにと、梢子は赤ちゃん笑いかけた。きっとその笑顔は世界一ぎこちなかっただろう。
 ウイーンと音を立てて開いたドアの奥から、強い日差しの暑さを感じ、梢子は愕然とした。
 暑い……暑すぎる……まだ夏前だろ。
 梢子は持っていた日傘を差し、再度カバンの中に水筒が入っていることを確認して、エントランスを出た。道中、ワイヤレスイヤホンを耳に着け、音楽を再生した。外の音が拾えるように、音量は小さめに。梢子が使っているイヤホンは、昔の友人からプレゼントで貰ったものだ。その友人は機械に詳しく、一緒に電気屋に行き店員におすすめを聞きいて、梢子の耳に合うものを選んで買ってくれた。
 最近のワイヤレスイヤホンは、性能がよく驚いたものだ。前に一度、バスターミナルでバスを待っていた時、横から気配を感じ向くと、七十代くらいのおばあさんがいた。そのおばあさんは、トイレに行くのに荷物を見ていてもらいたかったほしく、何度か私に声を掛けていたみたいだったが、私は全く気づかなかったのだ。自分は耳がいい方だと思っていたが、自分の感覚で丁度良い音くらいの音量にすると、周りの音が全く聞こえなくなってしまうのだ。音楽を聴くことに特化したイヤホンなのだろうが、何かあった時に対処出来ないとその時に実感した。しかしそうは言ってもプレゼントで貰ったもの。結局気に入って、出かける時や、仕事中気分がのらない時などと、毎日のように使っている。ただし、注意をして。
 時計を見ると、午後三時を回っていた。そろそろ学校を終えた青星が、こちらに向かってきている頃だ。今日は、青星と買い物に行く約束をしていて、学校終わりの青星と駅で待ち合わせをすることになっている。しかし、待ち合わせ時刻を過ぎても、青星は現れない。
 何かあったのだろうか。学校の都合で遅れているとかならいいのだが。
 待ち合わせ時刻から遅れる事、数十分。青星の姿が見えた。
「おーい、って……は? なんだあれ……」
 見ると、青星の後ろには、同じ制服を着た少女が居た。青星は不機嫌な顔をしながら、ズカズカとこちらに歩いて来たが、少女の顔はいたって普通だった。
 なんなんだ……。
「ついてくんじゃねーよ……!」
 青星は怒鳴るように少女にそう言った。
「おいおい、一体どうしたんだよ」
 梢子がなだめるようにそう言うと青星は、溜息をつき、少女を睨みつけた。
「こいつが勝手に俺の後、つけてきやがったんだよ」
「酷いよ青星くん! 私は話がしたいって言ったのに、全然聞いてくれないからじゃない!」
「俺はお前なんかと話す事はないんだよ! さっさと俺の前から消えろ、目障りなんだよ」
「そんな……酷い……」
 少女は顔を手で覆い、泣き始めた。
 ああ……泣き始めた……
「勝手に泣いてろ。行こうぜ梢子」
「あ、おい……!」
 そう言って梢子の腕を引っ張る青星。
「いや待て、このまま一人にも出来ないだろ」
「は?……こんなやつ、どうだっていいだろ。俺は被害者なんだよ。こないだっからずっと、嫌というほど追っかけ回されてんだよ!」
「しかしなあ……」
 周りの人たちは何事かと梢子たちを見ていた。
 完全にカオスだな。
 えっと……こういうのはどうすればいいんだ。
「あの……君。あのさ、なんか、青星に話があるんだろ? 私はここで待っているから、そこの喫茶店でも入って、話してくれば?」
「は、おま、待てよ! 俺は話す気なんてねーよ……!」
「お前はなくとも、この子は話したがっているじゃないか。とりあえず、話だけでもいいから聞いてやれよ」
 青星の言い分も分かるが、どっちにしろ、この子は話を聞いてもらうまで、引き下がるようには思えんしな。今ここでどうにかしとかないと、面倒なのは青星だ。
「君。それでいいか?」
 梢子がそう言うと、少女はこくりと頷いた。
「でも……」
「でもなんだよめんどくせ……」
「あなたも、一緒にお願いします」
 そう言い、少女が見ていたの、梢子だった。
「え……私??」 
 


 なぜこうなったのか。それは梢子には分からないが、今、梢子は青星のクラスメイトの少女と、三人で喫茶店に来ていた。綺麗なネイルがされた手で、オレンジジュースの入ったグラスを持つ少女。先ほどまでの泣き顔はどこにいったのかと思うぐらいに、にこにことしていた。
 まあ、こういう感じの子だと言うのは分かっていたが、それを目のあたりにすると、なんか怖いな。それに今どきの子ってのは、みんなこういう感じなのか。メイクして、ネイルして、髪も染めて。私の時代はあんなことしたら、許されなかったぞ。
「要件を早く言え」
 隣に座る青星は先ほどと表情を変えず、いやむろ、先ほどよりも表情がきつくなっている。まあ、無理もないだろう。学校で追いかけ回され、放課後も追いかけ回されたかと思ったら、公共の場で泣かれる。最悪すぎる。
「ケーキも食べようかなー」
 メニュー開き、愛らしい声で話す少女。
 少女は俗にいう、あざとかわいい女子なのだろう。男という生き物を知り尽くしたような甘い話し言葉に態度。男慣れしているのは見ていれば分かる。
「ふざけるな。お前のせいで俺たちは時間を無駄にしているんだ。これ以上、俺をイラつかせたくなかったら、さっさと話せ」
 青星の尖った声と鋭い目を見て観念したのか、少女はメニュー閉じた。そして、梢子に向き直った。
「私、青星くんと同じクラスの進藤真理愛って言います」
 意外にも、律儀に頭を下げる真理愛。礼儀はそれなりにあるようだ。
「間宮さん、ですよね?」
「え、あ、はい……」
 なんで私の名前を。
「私の事、ご存知ありませんか??」
「えっと……」
 うーん……誰だ? 
 人好き合いが多くない梢子。知り合いだったら、すぐに分かるはずだが、真理愛の事はこれっぽっちも思い当たらなかった。
「すまない。私は君を知らない」
「そうですか……まあ、無理もないです。引っ越してきたばかりですし。マンションだと、あまり他の人にも会いませんしね」
「マンション??」
「はい、私、間宮さんと青星くんと同じマンションに住んでいるんですよ」
「……えっ! そうだったのか!?」
「はい、何度か二人を見たことがあって」
 なるほど、それで私の名前も知っていて青星にも。……まあ、青星に近づいたのはそれだけではないような気がするが。
「……最悪だよ……お前なんかと同じマンションとか……」
 青星は頬杖をついて、外を眺めていた。機嫌は悪くなる一方だ。
「まあ、まあ、そう言わず」
 そんな青星を梢子はさらになだめる。
 話から察するに、この子は私と青星が一緒に住んでいるのを知っている。私をここに居させたのも、私たち二人の関係を知りたがっているからだろう。最初は青星に訊こうとしたが、相手にしてもらえず、たまたま居合わせた私を見て、こっちに訊いた方が早いと思ったのだろう。青星も限界のようだし、ここはさっと話をまとめて、退散してもらうとするか。
「真理愛ちゃん。と呼んでもいいかな?」
「はい」
「君が想像しているような事は、私たちの間にはないよ」
 そこは誤解があってはならないと、きっぱり言い切る梢子。
「ただ……」
 だが、そこで言葉に詰まった。
 この気持ちをどう言語化すればいいのか。どんな風に言うのが正しいのか。いざ言葉にすると、その続きを上手く言えない。
 ずっと考えていた、私たち関係を。青星にとって、私はでも兄弟でも、親戚でもなんでもない、全くの赤の他人。周りの人間から見れば私たちの関係が一体どういうものなのかと、頭をひねるのも当然の事。でもこれだけは確かだ。
「私は青星を大切に想っている」
 真理愛は、それでは納得がいっていないと言うような顔をしていた。血のつながりのない男女が、一つ屋根の下に暮らしている事は変わりない。何かあると思うのが普通だ。しかも相手は未成年。世間一般的に、私がしている事は、犯罪にも繋がりかねない。しかし、私は全て覚悟の元で、今、こいつの隣にいる。たとえ、こいつがこの先、私以外の誰かと生活を共にするようになって、いつか私の元を離れて行ってしまうような事があっても、私はこいつを想うだろう。とても大きく言ってしまえば、死んでもだ。
「俺は……」
 隣で黙って話を聞いていた青星が、ゆっくりと口を開いた。
 お前が、私をどう思っているのかを、訊くのはこれが初めてだな。
「俺は、こいつを想っている。こいつと同じようにだ」
 じんわりと、じんわりと、心に広がっていく互いの言葉。その言葉が離れないように、二人は己の心に、鎖をつけたのだった――。 



 改札を通り、風に吹かれながら電車を待つ。
 電車に乗るのは、久々だ。どこに行くのも近場で済ませる青星は、バスや地下鉄などの交通機関は使わないのだ。若干、閉所(へいしょ)恐怖症(きょうふしょう)のところがあり、閉じ込められた感のあるバスや地下鉄は、嫌で避けているという点もあるが、単に移動がめんどくさいという事もある。
「悪かったな」
 遠くの景色を眺めながら、青星は言った。
「気にするな。お前の学校での姿が見えた気がして、楽しかったよ」
「……みんなにああなわけじゃねーよ」
「分かっているさ」
 少し口を尖らせて言う青星を、梢子は可愛いと思った。
 ドア付近に立ち、町並みを見ながら電車に乗る。ドアが開く度に流れてくる風が体を涼しくさせた。
 ここ最近、続いていた雨が嘘のように、今日の空は穏やかだった。
 電車を降り、歩くこと数分。二人が立ち止まったのは、二文字のローマ字とオレンジ色が目印のお店。
 梢子は青星に、店前で待つように言い、一人、店の中へ。ガラス張りの店内越しに見ると、梢子は店の店員と何かを話していた。
 すぐに梢子が店の中から出てきた。手には紙袋があった。梢子はその紙袋を青星の胸の前に突き出した。
「え、なに」
「開けてみろ」
 そう言われ紙袋の開封すると、中には頑丈な箱に入ったスマホがあった。
「今日は七月の二日。お前が生まれた日だ」
 そうだ……今日は、俺の誕生日。
「覚えててくれたのか……」
「当たり前だ」
 俺は、込み上げてくる涙を止めようと、必死だった。自分が生まれてきた事を人から祝福されるのは、まるで、自分がこの世に生きていていい存在だと、認めてもらえたかのようだった。
「まだまだ子供のお前だから、私が支えるとしよう」
 梢子、俺は……
 青星は梢子に近づき、温かさを感じられるその肩に、自分の額を置いた。
「ほんと、お前には何もかも、もらってばかりだな……」
「そんなことない。私だって、お前から色んなものをもらっている。ただそれは、目に見えないから、お前は与えていると思わないのだ」
 梢子は片手で青星の後頭部を優しくなでた。
 あったけえ……あったけえなあ……。
 梢子の義手である手から感じた温かさとはおそらく、ぬくもりと言う名の温かさなんだと思う。それは紛れもなく、俺がずっと欲しかったものだ。
 俺は完全に、強欲な人間になった。このぬくもりを、永遠にもらいたと思ったんだ――。
「さあ、用事も済んだ事だし、この辺を散歩して帰ろう」
「……ああ」
 離された手。体温は引いていき、ぬくもりが消えていくように思えるが、それは違う。胸に、残っているんだ。
 自然を満喫しようと、梢子は山地に行こうと言い出した。暗くなる前に帰ることを条件に、青星は同意した。
「あまり奥に行くなよ」
 前を行く梢子の背中に青星は言った。
 しかし、梢子はぐんぐん進んでいく。雨が降っていたせいで、地面は滑りやすくなっていた。
 歩きにくい……。
「おわっ……」
「大丈夫か!?」
 青星は梢子に駆け寄った。
「ちょっと躓いただけだ」
「頼むから、ひやひやさせないでくれ」
「すまん。お前がいると、ついな」
 それは、安心していると捉えてもいいのだろうか。俺がいるから、自分は大丈夫だと言っているのか。ふと横に目をやると、そこには、見たことのない綺麗な花が咲いていた。
 すげえ……なんだこれ。
 その花は透明で葉がギザギザと尖っていた。青星はその場にしゃがみ込み、その花をじっと見た。花屋とかでも見た事ないやつだ。
「どうした?」
 そう言い、青星の隣にしゃがむ梢子。
「見ろよ、この花」
「これは……」
 梢子は身を乗り出しその花を見ていた。
「お前、運がいいな。この花は山荷葉(さんかよう)と言って、条件がそろわないと、この透明な状態を見ることは出来ないんだ」
 山荷葉……初めて聞く花の名前だ。
「初めて見た」
「私も長いことここに住んでいるが、透明な状態を見たのは初めてだ。……美しいな……」
 花を見ている梢子の横顔は、生命の尊さを愛しんでいるようだった。
 今、この花を見ているこいつの瞳は、少女のように可憐だ。だが、一度この花から目を背ければ、こいつの瞳は、深い悲しみを持つのではないかと、俺はそう思ってならなかった。
「なんだ、そんな見つめて」
「……儚いな」
 そうだ。お前はとても儚い。
「この花がか?」
「いや、梢子が」
 梢子はじっと青星を見つめた。青星は喉に詰まった唾を飲み込んだ。
 女にこんなに見つめられたのは初めてで、心臓が変に動く……。いや……お前だからなのか……??
 数秒間、お互いを見合った。だが、その時間は、時が止まったかのようだった。
「……お前、芸術家みたいな事を言うな」
「へ?……」
 そう言い、腰を上げる梢子。
「せっかくだ、その携帯で写真でも撮っていけ」
 青星はポケットとからスマホを取り出すと、カメラを山荷葉に向けた。
――カシャッ。
 ……いいじゃん。
 スマホに収めた山荷葉の写真は、とても愛らしかった。
 家に帰る前に、スーパーに寄り夕飯の買い出しをした。仲良く一つずつ紙袋を持ちながら、二人は、夕暮れ時の空の下を歩いていた。
「結構買ったな」
「梢子は大食いだからな。怪獣みたく食べる」
「おいおい、レディーに対する言い方じゃないなそれは」
「お前は女でもか弱い女じゃない。握力なんてゴリラ並みにあっただろうに」
「……」
「いや、否定しろ? 俺がマジでいじめている見たくなるから」
「え?」
「え?」
「「……え?」」
 二人は顔を見合わせた。
「プッ……ハハハハッ! お前といるとしょうもない事でも笑えるなほんと」
「ガキのおもりは得意なんだよ」
「そうかそうか」
 日々は、こういう、何でもない瞬間が一番楽しいものだ。俺はお前と居てそれを知った。
 帰ったら、まず何から作ろうか? その後はなにをしようか? そうやって俺たちは、なんでもない話をしていた。
 真理愛の乱入で最初はどうなる事かと思ったが、今日はすごくいい日だった。

 ――このまま、二人笑いあった日で終わってほしかった。

「梢子――?」
 信号待ちをしていた時、後ろからそう呼ぶ声が聞こえた。
 振り返った先にいたのは、梢子によく似た女性だった。
「久しぶりね。元気だった?」
「うん……元気」
 梢子はその女性相手に、静かにそう答えた。女性は隣にいる青星を見ると、小さく会釈した。
「私の仕事を手伝ってもらっているの」
「そうなのね。いつも娘がお世話になっています」
「娘……?」
 ってことは……
「私の母だ」
 どうりで似ているわけだ。そう言えば、梢子から親の話を聞いた事はなかったな。
 母親は穏やかで、とても優しそうな人に見えた。梢子と俺の関係を知りたそうにしていたが、気を遣ったのか、何も聞いてこなかった。そう言うところが、また似ていると思った。相手の事に関して余計な事は、自ら首を突っ込まない。というところが。
「あ、そうだ。さっきね、ようかんを買ってきたの。あなたここの好きだったでしょ?」
 梢子の母はそう言い、持っていた紙袋を梢子に渡してきた。
「ありがとう……」
「よかったらあなたも食べて」
 青星は軽く会釈をすると、自分が持つと、母親から紙袋を受け取った。
 と、その時だった。
「――皐月」
 その声を聞いたとたん。梢子の顔から血の気が引くのが分かった。だがこれは、恐怖心からのものではない。これは、嫌悪だ。
 背の高い、男性がこちらに近づいてきた。男性は梢子を見ると、驚いたように目を丸くしたが、それも一瞬だった。そして溜息をつくと、
「なんだ、お前か……」
 男性は冷たげにそう言った。
 なんなんだ、こいつ……いきなり会って、その言い方は。よく分からないが、すごく嫌な感じだ。態度は威圧的で、人を見下しているような、この目……。
「……父さん」
「――え?」
 なんとそいつは、梢子の実の父親だった――。 



 最悪だ……どうしてこんな日に限って、今に限って。今日はあいつの喜ぶ顔見たさに、プレゼントを用意して、滅多に見る事の出来ない山荷葉を見られて、スーパーに寄って、楽しく会話をして、笑って一日が終わると、そう思っていたのに、なんで、なんで今なんだ……。
 青星は庇うように梢子の前に出た。梢子から青星の顔は見えなかったが、その背中からは警戒していることが見て取れた。
 きっと父を睨みつけているのだろう。
「何なんだ君は」
 父は青星を見下すように見上げていた。
「青星、私は大丈夫だ」
「……」
 だが梢子がそう言っても、青星は下がろうとはしなかった。
「小説家になると、啖呵を切って家を出て行ったくせに、最近はろくに結果も残せていないんじゃないか?」
 父はまだ私を罵倒してくる。
「お前程度の人間が何をしようと、底辺以下の結果しか出せないんだ」
 吐き捨てるようにそう言う父。
 心が痛い……痛くて、痛くて、おかしくなりそうだ――。
「あなたっ……! そんなこと言う必要何でしょ……?」
「皐月、お前はこいつに甘すぎるんだ」
 握りたくとも、握るこぶしすらない……私は、弱い……誰か、誰か、助けてくれ――。
「――謝れよ」 
 怒りが滲み出ている声。
「……青星……」
「お前みたく、人を使い捨ての駒のようにしか思わない奴に、こいつの人生が少しでも奪われたかと思うと、虫唾が走る……」
「ガキがいきがるなよ」
「大人はそんなに偉いのか? 俺からしたらあんたは、人の気持ちも理解できないで、ただ歳食っただけのおじさんにしか見えないけどな?」
「こいつ……」
 父親は青星の胸ぐらに掴みかかり、揺すった。細くて華奢な青星は人形のようにふらふらだった。
「お父さんやめて……!!」
「あなたもうやめて下さいっ……!!」
 梢子は母と必死になって、父親の腕を掴み、青星から手を離すように訴えづけた。
「っ……取り消せよ……こいつにさっき言った事……取り消せって言ってんだよ……クソジジイ……!!!」
 青星は勢いよく体を後ろに反ると、父親の顔をめがけて足を振り上げた。青星の膝は父親の顎に直撃した。衝撃からきた痛みで、父親はその場にしゃがみ込んだ。
「貴様……」
 父は青星を憎そうに睨みつけていた。プライドの高い父が子供の青星に口答えをされるのは許せなかっただろう。
「行くぞ、梢子」
 青星は梢子の手を引き、歩き始めた。梢子は引かれるがまま歩いた。後ろを振り向くと、涙を流す、母の姿があった。
 お母さん……ごめん……。
 自宅までの道のり、青星が何かを言うことはなかった。ただ、梢子の手を強く握り、歩き続けた。
 玄関に入って、青星は梢子の手を離した。
「……青星」
「怒るんだろ……なんであんなことをしたんだって。でも、俺は間違ったことをしたと思っていない」
「青星、私は大丈夫だ」
「何が大丈夫だよ……そんな見えすいた嘘、なんでつくんだよ……! それに……! たとえお前がよくても、俺が我慢ならなかったんだよっ……!!」
 誰かが自分なんかのために怒ってくれたのは、生まれて初めてのことだった。
 梢子は溢れそうな涙を必死に堪えた。
「青星……」
 声が少し、枯れていただろうか。こいつに、涙を堪えていることを、悟られてはいないだろうか。
 梢子は青星の胸に寄りかかった。
「お前がいて、良かった……」
 瞼を閉じて、次に目を開ける時、これが夢であってもいい。それでもいいから、今だけは、こいつの体温をこの胸で感じていたい。
 ――この日、梢子の笑い声を聞く事はなかった。