【ミロ】

深い森の奥へサーチングの目印を頼りに進むと、やがて獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。
身を隠しながらそっと覗くと、そこには巨大な狼のような魔獣が横たわっていた。
その体長は軽く10メートルを超える。通常ならば“フェンリル”と呼ばれる伝説級の魔獣であると一目でわかるほどの威容。
だが今は体のあちこちに傷を負い、痛みのあまりまともに動けない様子だった。
血の匂いが辺りに充満し、フェンリルの銀色の毛並みがまだらに赤く染まっている。
これほどの生き物が怪我をするとは、よほど強力な相手か何かトラップでもあったのかもしれない。だがその答えはわからなかった。    そのとき、フェンリルがアルの気配に気づき、目だけをこちらに向けた。鋭い瞳には殺気が宿っている。
「グルルル……」
しかし、敵意はあるものの、立ち上がることすらままならないようだ。
普通ならこの場で襲いかかられておしまいだろうが、フェンリルにそこまでの力は残されていないらしい。
アルは恐る恐るフェンリルに近づきながら、自分の【トレーディング】が反応した理由を考えた。
ポーションと“従者としての忠誠”を交換してくれるなど、本来あり得ないことだ。
だが、このフェンリルは生命の危機に瀕していて、「とにかく傷を癒せるなら何でもいい」という状態なのかもしれない。
アルは一つ息をのみ、思い切ってフェンリルに声をかけた。
「……あー、聞こえるか? 俺はお前に危害を加えるつもりはない。ただ、俺はお前にポーションを提供できる。代わりに……いや、まさか通じないか……」
魔獣は人の言葉を解さない可能性が高い。しかし、フェンリルは高い知能を持ち、人化する個体もいると聞いたことがある。万が一言葉を理解できるなら交渉の余地はある。
すると、驚いたことにフェンリルが唸りながらも低い声で唸くように喋った。
「……痛い……動けない……治してくれるなら……何でも……する……」
アルの推測どおり、このフェンリルは高い知性を持ち、人語を解していた。そして今、死にかけている現状を何とか打開したいと考えているらしい。
アルは少し安堵し、続ける。
「お、お前が本当にそれでいいなら、ポーションを渡せる。そうすれば傷は治るはずだ。ただ……俺としては、どうしても助けてほしいことがある。俺は今、この森から脱出したいんだ。お前に乗せてもらいたい。でも、ただ一時的に乗せてもらうだけじゃなくて……いずれ旅を続けるときに、できれば一緒に来てほしい。つまり、お前に従者になってほしい。交換条件として……」
アルがそう告げると、フェンリルは苦しげに呼吸を繰り返しながらも、唸るように応じる。
「……いい……助けてくれるなら……」
交渉は成立した。
アルは急いでバッグからポーションを取り出し、フェンリルの口元へ注いでやる。
すると、みるみるうちに傷口から黒い瘴気のようなものが立ち上っては消え、血のにじんでいた被毛に急速に再生力が行き渡っていった。
フェンリルは苦しげだった呼吸を整え、しばし瞳を閉じて体を回復させる。
ぽたり、と赤い血の雫が地面に落ち、それっきり止まった。
フェンリルはやがてゆっくりと上体を起こし、アルを見つめる。
「……随分、いいポーションだな……お前、何者……?」
アルは少しだけ笑みを浮かべる。こうして会話が成り立つ相手ならば何よりだ。
「俺はもともと貴族だったけど、今は家を追われてこの森で死にかけてる人間さ。名前はアル。アルフレッド・フェルディナンド。」    
フェンリルはしばらくアルを見つめた後、
「俺は……ミロ。フェンリルのミロ。俺は……怪我を治してくれたお前に借りができた……。だから、俺はしばらくお前に協力する……」
それはまさに、アルの“ポーション”と“従者としての忠誠”との交換が成立した瞬間だった。
アルは感覚的に【トレーディング】が成立したが分かり、ミロの中にも契約が結ばれたという確信が走ったのか、どこか落ち着いた様子でいた。
アルは心底ホッとしながら、ふと思い出す。
「……でも、その体の大きさで移動は難しくないのか?」
フェンリルの体長は10メートルを超える。狭い道や人間の街中を移動するのは容易ではないだろう。
それを問うと、ミロは苦笑のような表情を浮かべる(犬の表情なのでそう見えただけかもしれないが)。
「俺には“変身”の力がある。フェンリルの種族は、時に子犬にも、人の姿にもなれるんだ……。」
言葉に合わせてミロの身体から小さな光が溢れ、次の瞬間には体が急激に縮んでいく。
たちまち普通の狼どころか、可愛らしい子犬程度の大きさになった。それでも瞳は知性を宿しているし、毛並みは銀色で高貴さを感じさせる。
アルは目を丸くして、「すごいな……」と小声でつぶやいた。
フェンリルが人間形態をとる個体がいるのは知識として知っていたが、実際に目の当たりにしたのは初めてだ。
「これなら人間の街でも目立たずに歩けるだろう……。助かるよ、ミロ。」
アルがそう言うと、ミロは子犬の姿のまま尻尾を軽く振る。そして、もう一度身体を光で包み込むと、今度は10歳くらいの人間の少年の姿になった。銀髪に蒼白い肌、瞳は少し金色がかっており、まるで神秘的な印象を受ける。
「でも、俺は人間の姿はあまり好きじゃない……。子犬か、この姿で歩くことが多い……。」
そう言って少年の姿で少し照れ臭そうに顔をそむけるミロ。
アルは改めて、異世界らしい光景に感嘆するしかなかった。