「明日は記念写真を撮るから、寝坊するなよ」

 自室に行こうとリビングを出るとき、父に呼びかけられた。そうか、明日は誕生日だったっけ。数日間のバタバタした行動で忘れていた。

 両親は年に一度、美咲の誕生日にハクモクレンの下で家族写真を撮る。幼稚園児の頃、嫌がる美咲を父が無理やり抱いて撮った写真には、あれが写っていた。だが、それは両親には見えなかった。美咲がなにを恐れているのか伝わらず、ただの写真嫌いだろうと言われていた。

 毎年、どれだけぐずっても写真撮影は続く。小学生になって、もう抱き上げられることはなくなり、自分で立つようにと叱られた。どうにも逃げられず、美咲はハクモクレンを挟んで、あれと出来るだけ離れるようにしていた。



 明日はそんなことをしなくていい。今夜、除霊する。三鶴にもらった目玉のお守りをぎゅっと握り締めた。

 ベッドの中で寝たふりをしながら、美咲は震えていた。ペンライトを点けて、何度もノートを見返してお経を読む。もう暗唱出来そうだと思ったとき、塩と酒を準備していないことに気付いた。
 慌てて起き上がり、廊下に顔を出す。もう家中の灯りは消され、真っ暗だ。お守りを持って行こうと思ったが、置いたはずのところにない。さあっと真っ青になったが、今やらなければ、手遅れになる気がした。

 足音を忍ばせてキッチンに向かう。小皿に塩を取り、コップに料理酒を少しだけ注ぎ、自室へ戻る。

 リビングの前で、テーブルに出しっぱなしになっているアルバムに気付いた。捲ってみると、ハクモクレンの下で撮った家族写真が並んでいる。美咲の成長と共にハクモクレンも大きく育っていく。
 見たくはないのに、視線はあれに向かう。

 ぎょっとした。あれも姿を変えている。美咲が三歳になるまで、あれは白いもや状だった。それが年数を経るごとに姿を現し、七歳の写真では、すっかり今と同じ形になっていた。それ以降、変化はないと思ったが、何度も見ていると、あれが動いていることが分かった。
 指さした方向へ、美咲の部屋へ、少しずつ近づいていっている。

 やろう。
 あれが、部屋に入ってくる前に。

 部屋に戻り、カーテンを開けた。あれと、目が合った。いつの間にか体も完全に部屋の方に向いている。指さしているのも、どろりとした目で見ているのも、部屋の中だ。
 美咲は思わず皿を取り落した。塩が床に散る。もうキッチンに取りに行く余裕はない。今すぐ祓わなければ。

 床の塩を掻き集めて口に含む。料理酒も口に入れて塩を溶かす。両手に塩酒を吹きかける。
窓をまたいで庭に下りる。裸足に土が冷たい。美咲はあれの正面に立った。濡れた両手を合わせて、覚えたばかりのお経を唱える。般若心経という名前だ。難しい漢字の羅列で、意味は一言もわからない。だが、これが効かないと、あれがやって来る。渾身の気合を込めた。

 あれが動いた。一歩、美咲に近づく。あれの指が美咲に突きつけられる。背筋にぞっと冷たいものが走った。お経を唱え続ける。あれは滑るようにやってくる。
 お経が効かない? そう思ったが、あれの姿は徐々に薄くなっている。このまま唱え続ければ、きっと消える。

 あれはどんどん近づいてくる。薄く、もやのような姿になりながらも、進みつづける。とうとうあれの指が美咲の鼻先に突き付けられた。

「ひっ!」

 美咲は小さく悲鳴をあげて、逃げだした。それでもお経は唱え続ける。あれは完全にもやになった。だが、まだ進みつづける。

 ついに、あれが部屋に入った。美咲は後を追い、窓をまたいだ。もやは、ふよふよと風に吹かれているかのように漂い、本棚に張り付いた。このままでは家の奥に入られてしまう。美咲は、より強く両手を合わせる。

 もやが強く発光した。部屋が白い光に包まれ、目を開けていられない。美咲は目をしっかりつぶって両手で覆う。

『みさき』

 誰かに呼ばれた。目を開けると、もう光は消えていた。あれもいない。すべてが終わった、あれは消えたと確信できた。

 だが、幼いころからハクモクレンを見るたびに覚えていた違和感が強くなっている。なにか大切なことを忘れているような感覚。あれがいなくなったことと関係しているのだろうか。
 本棚に目を向けた。あれが消える直前に触れていた本を、美咲は手に取ってみた。

『366日の花言葉』

 栞が挟んである日の誕生花はハクモクレンだった。