前回のあらすじ
餌につられたリリオ。呆れるウルウ。約束された飯テロの序曲である。
すっかり頭に血が上ってのぼせ上ったリリオを宥め、さすがにこれからじゃあ時間が遅くなるからと、一晩宿で休んで明朝早くから仕事に取り掛かることにした。
宿の食事は、あの《黄金の林檎亭》の料理と比べればもちろん劣るは劣るけれど、それでも十分立派な食事と言えた。
街を貫く川で獲れるという魚に衣をつけて揚げたものに、山盛りのフライド・ポテト。それに酢をかけて食べる。
いわゆる悪名高いフィッシュ・アンド・チップスではないかとちょっと気後れしたが、食べてみるとなるほどこれがなかなかうまい。
揚げ油をケチらずきれいなものを使っているようで妙な匂いもしないし、衣はビールではなく林檎酒を混ぜ込んでいるようで、ほんのり甘酸っぱい感じがする。かけ回すお酢も林檎酢で、見た目よりもずっとさっぱりと食べられる。
フライド・ポテトは見た通りの物かと思ったが、芋が違うようだ。もう少しねっとりとした食感で、どちらかというと山芋の類に近いのだろうか。これはこれで面白い食感だし、美味しいが、何しろ量が多かったので、半分ばかりリリオの皿に分けてやると、喜んで平らげてしまった。本当にどこに入るのやら。
湯を借りて体を洗い、歯を磨き、着替えが済んでも、リリオはまだ興奮冷めやらぬようだった。
「遠足前の小学生みたいだ」
「エンソク?」
「はしゃぎすぎて疲れるよって」
「仕方ないじゃないですか! すごく楽しみにしてたんですから!」
リリオに言わせれば旅の楽しみの半分以上は、その土地の食べ物を楽しむことにあるのだという。私なんかは腹が満ちればとりあえず満足ではあるけれど、それでも最近はリリオに引きずられてそういう楽しみに染められてきているので、わからないでもない。
最近と言ってもほんの数日であることを考えると、私という存在はそれほど簡単に染められてしまうほど空っぽだったわけだが。
ベッドの上でごろごろ寝転がりながらえへえへと奇声を上げているリリオを尻目に、私は何となく窓から夜空を見上げてみた。
思えば最初は森の中で、森を出ても暗くなる前に宿に入って眠りについてしまったから、夜空をきちんと見るのはこの世界では初めてだ。
だから、今の今まで、こんなことにも気づかなかった。
「……月だ」
「あ、本当ですね。今日は綺麗な満月です」
異世界の空にも、月があった。
見知らぬ星座が並ぶ、ビロードのような夜空の真ん中に、月が、あった。
私は異世界に来たということを、深く考えないようにしてきた。しかしここまであからさまだと、この世界について、また恐らくは私をこの世界に連れてきたであろう何者かの存在について、考えざるを得ない。
百歩譲って、異世界の夜空にも月があるとしよう。恐ろしく確率は低いだろうが、天体に衛星が存在するのは珍しいことではない。
けれど、たとえ千歩、万歩譲ったところで。
「……コピペってわけじゃないんだろうけど」
月の模様まで同じというのはどうなのだろう。
寸分たがわず元の世界と同じ顔で見下ろしてくる満月から目を逸らし、私はベッドに潜り込んだ。
考えなければいけないことだし、気になることでもある。
しかし取り敢えずのところ、目下の問題として、私は早く寝なければならないのだ。
明日の朝確実に寝坊するリリオを起こすために。
そうして翌朝、案の定寝坊したリリオを叩き起こして、私は日が出たばかりの早朝に川辺に佇んでいるのだった。
「うう、眠いです……」
「馬鹿」
「いまのちょっとドキッとするのでもう一回お願いします」
「死ねばいいのに」
「あふんっ」
などという下らない掛け合いをしているうちに、貸し出される船の持ち主で、漁業組合の人だというおじさんが来た。冒険屋の仕事ではあるけれど、漁業組合の仕事場であるし、漁場で変な事されて荒らされても困るので、その見張りがてら来ているらしい。
「おー、別嬪さんが二人も来てくれたねぇありがたいねえ! 大したお構いもできねんだけどよ、今日のとこはよろしく頼んまあ!」
まあ見張りと言っても気のいいおじさんで、実際のところは川に不慣れな冒険屋へのヘルプみたいなものらしい。
「んだばよ、早速船出すから、乗ってくれや。大体出てくるあたりはわかるから、そのあたりで棹突っ込んで底浚えば、その内引っかかるからよ」
大雑把な説明だが、そのあたりの作業はリリオに任せる気なので私は知ったことではない。今回も私は見物を決め込むつもりだ。
ただ一応、何かあった時の為に、ゆっくり漕ぎだされた船の上で霹靂猫魚とやらの話には耳を傾けておいた。
「霹靂猫魚ってのはよぉ、まー名前の通り猫魚の仲間なんだけんどよ」
「しるうろ?」
「ひげのあるお魚です」
「ほんでまあ、これまた名前通りにいかずちを放つんでよ、あぶねえんだなあ」
「あぶねえんですか」
「まあ、まんずあぶねえなあ。水の上まではまあ、あんまり飛ばしてこねえんだけどよ、うっかり水におっこっちまったら、まあまんず助からねえな」
喋り方がのんびりしているからどうにも危機感がわかないのだが、どうやらこの霹靂猫魚とやらはデンキナマズの化物らしい。
ナマズの類は猫のようにひげが生えているので英語ではキャットフィッシュとかいうのだが、間抜け面の割にデンキナマズという生き物は人死にを出すレベルで危険な生き物だ。何しろ名前の通り発達した発電器官から電気を発生させて感電死させるという例が結構ある。
自分自身も感電しているらしいが、そこは絶縁体になっている脂肪組織のおかげで耐えているそうだ。
おまけに繊細な電気の使い方もして、周囲の様子を電場で探ることもできるという器用さだ。
そんな生き物が魔獣とかいうモンスターとして存在しているのだから、これは油断ならない。
よく見かけるのは六十センチくらいのものらしいが、今回駆除してほしいのは二メートルくらいはある良く育ったものらしいので、これは危険かもしれない。デンキナマズは大きくても一メートルちょっとで、二メートルもいくとより強力なデンキウナギレベルのサイズだ。
発電器官は当然体が大きくなればなっただけ増えるし、この生き物は魔獣とかいう魔術を使う生き物らしいので、より強力な電気を使うかもしれない。
思えば、水の中がホームという面倒くささ込みでとはいえ、あのリリオを一撃で沈めた熊木菟と同ランク帯のモンスターだ。あんまり甘く見ると私はともかくリリオはまずいかもしれない。
私はインベントリをあさって一本の棒を取り出して、おもむろにリリオのベルトに差し込んだ。まあ一応これで装備品ってことにはなるだろう。
「な、なんですかこれ?」
「……おまもり」
「いま説明面倒くさくなったでしょう!?」
その通りだ。
だがまあ、リリオも私の奇行には慣れたようで、ちょっと位置を直しただけでそのままにしてくれた。
あの棒、正確には杖は、《フランクリン・ロッド》という装備品で、装備している間、雷属性の攻撃を減衰し、また確率で反射してくれるという耐電装備だ。私が装備すれば幸運値の関係で確実に反射できるが、リリオの場合どうだろう。まあ運はいい方だと思うが。
一応私の方も耐電装備として、《雷の日と金曜日は》というアクセサリー装備を身に着ける。レコード・ディスク型のこれは雷属性の攻撃を受けた時低確率でダメージ分体力を回復してくれるというもので、普通なら気休め程度の装備だ。お察しの通り私が装備すれば確実に体力回復するえげつない効果に早変わりだが。
さて、一応の準備を整えたあたりで、船頭のおじさんもそれらしい地点に辿り着いたようだ。
「よーし、ここらへんだあな。まあ一、二尾もやれりゃあいいかねえ」
「根こそぎにしてやります!」
「私を当てにするな」
「担げるだけ行きます!」
「魚臭くなりそうだな……」
非常にやる気満々のリリオは、川底まで届くという長い長い竿を危なげなく操り、勢いよく川面につきこんだ。そのつきこんだ棹がつきこんだ時と同じくらいの勢いで、はじき返されるように飛び上がる。
「いやまあ……ようにっていうか、はじき返されたんだろうけど」
次の瞬間には、船は下から突き上げるような波に押されて大きく揺れ、一瞬視界が激しい光に覆われた。
そして多分、轟音がした。
多分というのは、その音があまりにも強すぎて、ほとんど耳鳴りのようなものになり果ててしまったからだった。
まるでスタングレネードのような強烈な光と轟音に、リリオの体は完全にすくんでしまっていた。咄嗟に私が腰のベルトをひっつかんでいなければ落っこちていたかもしれない。つくづく刺激に鈍いこの体にいまは感謝だな。
同じくすくんでいた船頭のおじさんは、しかしやはり慣れがあるのだろう、思いのほかに早く立ち直り、素早く船を操って下がり始めた。
「ありゃあ主だあ。引きが強いな嬢ちゃん!」
主、ね。
成程主という位のことはある。
なにしろすでに水の中に引き返そうとしている尾の部分だけで一メートルは越えている。全体ではとても二メートルどころではないだろう。
《暗殺者》の《技能》である《生体感知》で水中を探ってみた結果、ざっくり五メートルはありそうだ。
確かデンキナマズの最大サイズが百二十二センチで二十キログラムぐらい。大体まあ体長が四倍くらいとすると、二乗三乗の法則にしたがえば体積つまり(イコールではないけど)体重は千二百八十キログラム、一・三トンくらいかな。
トンとかいう単位が出てくると途端に重たく感じるけど、カバよりは軽いな。馬だって大きいのだったら一トンくらい行くらしいし。でかいマグロで700キロ弱ぐらい。
まあどれだけ前向きに考えても、そいつと戦うってことを考えたら何の救いにもならないけど。
敵さんの方はどうやら完全に戦闘態勢に入ったようで、船の周りをぐるぐる泳ぎ始めた。時々バチバチと光が上がり、川面が泡立つのは、発電時の熱が水を沸騰させているのだろう。どんなジュール熱だ。
正確に距離を取っているのを見る限り、電場で周囲を探っているっていうのは本当らしいな。
さてどうするか。
用語解説
・月
この世界にも月があるようだ。それも全く同じ大きさ、同じ模様に見える。これはいったい何を意味するのだろうか。
・《フランクリン・ロッド》
金属製の杖の形をした装備品。ゲームアイテム。装備していると雷属性のダメージを三割ほど減衰し、また二割程度の確率で敵に反射して返す効果がある。
『彼のお方の加護を受けし雷避けの杖なれば、雷神とても忽ち退散せしめよう。…………原理は今ひとつわかっとらんのだがね』
・《雷の日と金曜日は》
ゲームアイテム。レコード・ディスク型のアクセサリ。装備していると雷属性の攻撃を受けた時に五パーセントの確率でダメージ分体力を回復してくれる。気休め程度ではあるが店売りの商品なので序盤は買う人も多い。
『雷の日と花の金曜日は、さあ気分を上げていきましょう!』
・スタングレネード
強烈な光と音を発してショック症状に陥らせ、行動を封じる道具。
・《生体感知》
《暗殺者》の《技能》。隠れた生物や、障害物で見えない向こう側の生物の存在を探り当てることができる。無生物系の敵には通用しないのが難点。
『生命を嗅ぎ取る嗅覚こそが彼の奥義だった。それ故にゴーレムに撲殺されたのだが』
前回のあらすじ
ナマズ退治だと思ったらガチでモンスターだった件。
川底に棹を突きおろし、それが勢いよく弾き返され、次の瞬間に感じたのは目の前が真っ白になるような光と、強い耳鳴りでした。それはまるで見えない槌で頭を殴りつけたかのように強烈で、私は頭の中身まで光と音に流されてしまったかのように、その場に棒立ちになってしまいました。
それでも何とか気を取り直せたのは、腰帯ががっしりとつかまれて、なんとか倒れずに済んだおかげでした。
耳は聞こえず、目も見えず、ただ真っ白な闇の中で、その感触だけが私の意識をつなぎとめてくれました。
ほんの十数秒。
しかしそれは致命的な十数秒でした。
私が思い出したように呼吸を再開し、かすむ視界の中でなんとか棹を握り直した時には、目の前に聳えるように巨大な影がこちらを見下ろしていました。
ぼんやりとした視界の中でもはっきりとわかる巨体。間抜けだとか愛らしいだとかいった前評判とは裏腹に、冷酷さすら感じさせるのっぺりとした顔つき。
ぬらりとしたはだえの表面を青白いいかずちが絶え間なく流れ、その接する水面は沸き立つように泡立っていました。
いんいんと不可思議な耳鳴りに似た音が大気を震わせ、よどんだ眼ではなく、何か奇妙な力でもってこちらを視ているというのが肌で感じられました。
霹靂猫魚。
それはただの食材と侮るには、あまりにも凶悪な暴力でした。
神威の権限、いかずちを操る魔獣を前に、しかし私の体はまだすくんだまま、指先は震えるようにしか動きません。いえ、たとえ動けたとして、それが何になったでしょう。目の前で高まっていく圧力を相手に、私に何ができるでしょう。
絶望的な無力感を胸に、私が思ったのはとてつもない恐怖でした。
私が食い意地に任せて軽率な行動をとったがために、私の物語に付き合ってくれるたった一人の大切なお友達を巻き添えにしてしまうことが、どうしようもなく恐ろしかったのでした。
せめて、せめてウルウだけでも。
そう歯を食いしばった私の体を、ふわりと柔らかな外套が覆いました。
ぐっと体を抱きすくめられ、ふわふわとした柔らかな何かが、胸元に押し付けられます。
「――――」
まだ耳鳴りのする中、それは確かには聞き取れませんでした。
しかしそれは、とても落ち着いた、優しいウルウの声でした。
次の瞬間、高まり切った圧力が解き放たれ、霹靂猫魚の額から青白い雷光が私たちめがけて降り注ぎ、そして全身をずたずたに引き裂く激痛と灼熱とが襲ってきませんでした。
おや。
襲ってきませんでした。
むしろ、驚きで目を見張る私の目の前で、何か不思議な膜にでも弾かれたように雷光は反転し、霹靂猫魚のひげ面に叩き返されたのでした。
いかずちを操る霹靂猫魚に、自分の放った雷光はさほどの痛手でもないようで、青白いばりばりはその体表を流れて川面に逃げてしまいましたけれど、さすがに驚いたのかその巨体が大きくのけぞり、音を立てて水の中に隠れました。
「大丈夫かー嬢ちゃんたちぃ!」
漁師のおじさんの叫びで、ようやく耳が慣れてきたことに気付きました。
「目は覚めた?」
耳元でウルウの声がします。
私は平坦なその声に血の気が下がるのを感じました。
きっとウルウはただ、私が最初の轟音の衝撃から立ち直れたのかということを尋ねただけだったのでしょう。でも私には、食い気に踊らされて寝ぼけていたのだという風に指摘されたように思えました。こうしてウルウに守られていなければ、きっと私は黒焦げになっていたでしょう。
私は馬鹿だ。
「だ、いじょうぶですっ!」
私が恐れをこらえて叫ぶと、ウルウはゆっくりと離れて、それから先程私の胸元に当てていた、白くてふわふわとしたものを腰帯に括りつけてくれました。
「私も少し甘く見ていた。君の腕試しだし、手は出さないけれど、対策は必要だ」
ウルウはゆっくり私を眺めて、それから言いました。
「六割くらいは大丈夫。残りの四割は神頼み」
「うぇ?」
「お守りのこと」
どうやら先程の鉄の棒と、白いふわふわのことらしいです。もしかしたら霹靂猫魚の雷光を弾き返してくれたのはこれなのでしょうか。
「過保護もよくないから、死なない程度のことはもう助けない」
う。優しいばかりでもありません。
でも、助けられてばかりでは私も駄目になってしまいます。ウルウが全部やってくれたらそれはウルウの物語です。私は、私の物語をウルウに見てもらいたいのです。
それにメザーガおじさんも、全部ウルウの手柄では私の冒険屋見習いを認めてくれないことでしょう。
私は棹を握り直し、覚悟を決めました。
事前に聞いた霹靂猫魚の倒し方は、棹で何度も叩いて刺激していかずちを出させ、疲労してもう出せなくなってからとどめを刺すというものでした。
しかしあれほど大きく強大な個体が相手ではこの手段は使えないでしょう。
持久力で争うには相手が悪すぎますし、ウルウのお守りを頼りにするのは危険な賭けです。
となれば、短期決戦で決めなければいけません。
一撃で急所を貫き、仕留める。これです。
あの巨体、それにぬめるはだえを通して貫くには、船の上では足場が悪すぎます。なにか仕掛けが必要そうです。
私は少し考え、そして船の周りをゆっくりとめぐりながら隙を窺う霹靂猫魚の影を追いました。泳ぐだけで渦が生まれ、船はもう逃げられそうにありません。
棹でつついたところであの巨体は身じろぎもしないでしょうし、それで変に刺激して船ごとひっくり返されてはたまったものではありません。
いま船が襲われないのは、恐らく今まで一度も防がれたことのない雷光を弾き返されて、相手が警戒しているからなのです。それでも最も自信のある攻撃である以上、奴は再度雷光をお見舞いしてくるでしょう。長年にわたって外敵を屠り続けてきた矜持のためにも、小細工を押しつぶしてやろうと怒りをたぎらせているはずなのです。
奴が顔を出し、そしてあの雷光を放つ瞬間を狙うしかありません。
ばちばち、ぐつぐつ、青白い雷光が川面を焼き、水を煮えたぎらせ、漁師のおじさんは怯えて縮こまります。しかし私にはわかります。これは威嚇にすぎません。どうだ怯えろと、そのように大声で怒鳴りつける示威行為なのです。
私が心折れてしまうのを待つように、焦れるようにぐるぐるとめぐっているのです。
ウルウもそれがわかっているのでしょう。揺れる中でもゆったりと腰かけて、眠たげな眼で水面を眺めて落ち着いています。
私もそんなウルウの姿を見てすっかり心を落ち着けて、棹を構えて時期を計ります。
なにしろ奴のいかずちで川の水は煮えたぎり、そうすれば奴自身も煮え湯の中を泳ぐようなもの。いかずちを放ち続けることで疲れも来るでしょうし、煮え湯の中を泳ぎ続ければいずれ必ず耐え切れなくなります。
すぐだ。もうすぐだ。
互いに焦れるような、しかし後で思ってみればおどろくほど短いつばぜり合いのような時間が過ぎて、ぐわり、と水面が持ち上がりました。
来た!
霹靂猫魚のぬめるはだえが川面を割って聳え、そのよどんだ瞳が怒りをにじませてこちらを睥睨します。
ばちばちと先程よりもはるかに激しく全身をいかずちが走り、そして額のあたりに集まっていきます。
雷神もかくやというその異様に思わず息をのみかけますが、しかしどれだけ威力が上がろうが、それはもう先ほど見た技です。
辺境の武辺に、同じ技は二度通用しないということを教えてやりましょう。
雷光が青白く輝き、そして奴が首をわずかに後ろにもたげた瞬間、私は手に持った棹を奴に向けて放りました。
奴が反射的にため込んだいかずちを放つと、それは私たちではなく棹に向けて流れ、そして棹を焼き焦がしながらその端の浸かった川面へとまっすぐに流れていきました。
霹靂猫魚は魔術でもっていかずちをあやつりますが、そのいかずちというものは、水が高きから低きに流れるように、流れやすい方へと流れる性質があります。
神殿や時計塔のように高い建物ばかりにいかずちが落ちるように、高いものへと落ちやすいですし、落ちたいかずちは金属や水など、流れやすいものを選んで流れていきます。
私はおつむの回転の遅い方ではありますけれど、辺境育ちは学がないと思われるのは心外です。
雷光を外し、ため込んだいかずちをすっかり吐きつくし、再度川へ潜ろうとする霹靂猫魚ですが、その動きは鈍いです。
雷光を放った直後、自分自身もしびれて硬直することは先程確認済みです。
私は不安定な足場を蹴って飛び上がり、霹靂猫魚を目指します。
勿論、こんな足場ではどれだけ強く蹴っても大した距離は得られません。
しかし、ここで役に立つのが私の装備です。
飛竜革の靴に加護を祈れば、私の足元で風精が集まり、見えない足場を作ってくれます。それを踏みつけ、もう一跳び、その先でさらにもう一跳び。
空の階段を駆け上り、鈍く固まった霹靂猫魚の頭上へと飛び上がり、ずらりと引き抜く腰の愛剣。
大具足裾払の甲殻から削り出した頑丈な切っ先を下に向け、最後の一蹴りで真下に向けて強く飛び出せば、私の体重そのものが勢いに乗せて力となる。
狙い過たず一突きに、やわなはだえを鋭く割いて、硬い頭蓋も何のその、顎の下まで突き抜けて、確かに私の剣は霹靂猫魚を貫いたのでした。
しかし敵もさるものひっかくもの、最後の悪あがきにと全身をぶるうんぶるうんと震わせて、じばじばじばばと青白い雷光が全身を駆け巡ります。
お守りのおかげかいくらかは弾かれ、しかしそのいくらかは確かに私の体を駆け抜け、全身が思うのとはまるで別物のように震え、かたまり、剣から指を離すことさえできません。
ようし、こうなれば根競べです。
私はいかずちに震えながら握りしめた剣をぐいりとひねって奴の頭の中をかき回し、奴は悶えながらも私の体にいかずちを見舞い、そして。
そして、私の意識はぷつりと途絶えたのでした。
用語解説
・はだえ
皮膚のこと。
・ふわふわとした柔らかな何か
ゲームアイテム。正式名称《三日月兎の後ろ足》。幸運値を飛躍的に高めるレア装備。この装備を入手するためにまずこの装備が必要だというジョークが生まれるほどの低確率でしかドロップしない。
『何しろこいつはとんでもない幸運のお守りさ。前の持ち主は後ろ足を切り取られたみたいだが』
・飛竜革の靴
風精を操って空を飛ぶ飛竜の革は、うまくなめせば風の精との親和性が非常に高くなる。これで作られた靴は、空を踏んで歩くことさえできるという。
・大具足裾払
辺境の森林地帯などに棲む巨大な甲殻生物。裾払の仲間としてはかなり鈍重そうな外見ではあるが、その甲殻は極めて強靭な割に恐ろしく軽く、裾払特有の機敏な身のこなしに強固な外角が相まって、下手な竜程度なら捕食する程に強大な生き物である。
前回のあらすじ
霹靂猫魚との決死の死闘を繰り広げ、ついに気絶するリリオ。
そしてそれを甲子園観戦くらいの興味のなさで見守るウルウであった。
リリオって割と無鉄砲なところあるよなあ。
いまさらながらにそんなことを思いながら見上げる先では、巨大なナマズの頭に剣を突き刺し、感電して痙攣しながらもしがみついているリリオの姿があった。
《フランクリン・ロッド》と、ついさっき渡したばかりの《三日月兎の後ろ足》の相乗効果でそこそこ弾き返しているとはいえ、四割は喰らっている癖に戦意が衰えないのは驚異的なバーサーカーっぷりだ。
感電というかなり恐ろしい光景を目の当たりにしても私がそれなりに平然としているのは、口の端から泡を吹きつつ、少女がしていい顔からかけ離れた形相で奮闘しているリリオが面白いからではなく、単純にパーティ・メンバーとして彼女のステータスが見えるからだ。
ステータスの内の一つ、《HP》が見える私には、見た目はどうあれ実際のところどれだけやばいのかというのが数字でわかる。
水に落ちた上で喰らったらどうかわからないが、少なくともああして乾いた状態であれば一発当たり五パーセントも減らないし、全体《HP》からするとまだ半分もいってない。
もともと生命力があほほど高いのでそれほど心配はしていなかったが、知性が低いわりに魔法ダメージが少ないのは、この世界ではダメージ計算の数式が違うためなのかもしれない。そのためか予想よりもかなり余裕がある。
とはいえ。
「あ、落ちる」
さすがに気絶までは免れないか。
脳をかき回されてようやく絶命したナマズだが、それと同時に張り詰めていたリリオも気絶したらしく、ぐらりと倒れていく巨体とともに、剣を握りしめたままのリリオも一緒に落下していく。
さすがに水に落ちられると回収が面倒くさいので、移動《技能》である《縮地》で一息に飛び移り、リリオごと剣を引き抜き船に放り投げる。
船頭が大慌てで受け止めるのを尻目に、大ナマズの顎を蹴り上げて船の上まで蹴り飛ばす。反動で自分の体が落ちる前に再度《縮地》で船へと戻る。
「おおおおお落ちてくっぞぉ!」
あとは実にいいリアクションをしてくれる常識人の横でインベントリを広げ、落ちてくる大ナマズを頭から収納して、はいおしまい。
さすがに五メートルもある巨体がぬるぬる入っていくのは見ていて面白い光景ではあったが、生臭くなりやしないかと不安ではある。そして相変わらずこの世界のものには重量設定がないのか、問題なく全身が入り切る。設定甘いんじゃないのか神様とは思うけれど、便利なので文句は言わない。
目を白黒させる船頭があまりにも哀れだったので、できるだけ優しい微笑みを心掛けて、そっと肩を叩いてやる。
「あなたは何も見なかった」
「ひぇ、いンや、でもよ」
「あなたは、何も、見なかった」
「……へ、へぇ」
落ち着いてもらえたようだ。
やはりパニックの時は落ち着いて話しかけるのが一番だ。
船上に転がされたリリオの様子を確認してみるが、あちこち焼け焦げて皮膚も裂けたところがあり、白目剥いて泡吹いていたり、これ死んでるんじゃないかという位かなり酷い有様だが、ステータス上では《HP》残り三割以上残しており、致命傷には程遠い。
起きてから回復薬を飲ませても十分間に合うだろう。
……この見かけでこれくらいのダメージということは、もしかして熊木菟に襲われた時も存外平気だったんじゃなかろうか。
そう思い至るとあの時薬を飲ませる際に行った行為が途端に気恥ずかしくなってきたが、あの時はそんなことに頭が回らなかったのだ、仕方がない。事故みたいなものだ。
ともあれ、だ。
一応はこれで試験は合格したと言っていいだろう。
あんまり小さいものだったら乙種未満として認められなかっただろうが、このサイズは乙種とかいうのに十分見合うと思う。見合わなかったらこの世界の基準値おかしい。
仮に私が、この最大レベルの私がタイマン勝負を挑んだとしても、環境もあって耐電装備込みでもそこそこ苦労させられただろうし、もし耐電装備なしでやりあえと言われたら遠距離からちまちま削るくらいしかやりようがない。日が暮れるわ。
そう考えると、耐電装備に幸運値爆上げした状態とはいえ、一人でとどめ刺したリリオはすごいな。私のステータス任せとは違って、戦闘に関する考え方や技術の違いなんだろうか。最後は気絶してしまったとはいえしっかり倒し切っているし、私に頼ろうとしなかったあたりも頑張っている。
よし。
私は船頭にお願いして、指示通りに船を動かしてもらった。
《生体感知》を使えばある程度以上の大きさの魚影を探ることなど容易いし、耐電装備を整えた私にかかれば程々の大きさのデンキナマズなど大した敵ではない。というか電気を喰らえば回復するという装備なのだから負けようがない。棹でつついて顔を出したところを、ちょっと気持ち悪いがひっつかんで首を折れば終わる。哺乳類に比べればまだ抵抗感はない。
ああ、いや、まて、生きている方が高いんだっけ。私はどっちでもいいが、冒険屋はあまり儲からないようだし、ちょっと稼いであげた方がいいか。それに鮮度がいい方が美味しいだろうし。
となると何がいいかな。
私はしばらくインベントリに納めた装備を見直し、生け捕り特化に組み立てることにした。一匹くらいは自分でも調べてみたいし、こいつを飯の種にしている冒険屋の迷惑にならない程度に荒稼ぎさせてもらおう。
結局最終的には、電気攻撃を喰らった時の為に《雷の日と金曜日は》を装備し、確実に手元まで来るように《火照命の海幸》という釣り竿を使って吊り上げ、手元まで来たところで《アルティメット・テイザー》という気絶属性特化の武器で意識を奪い、その状態でインベントリに放り込んだ。
このやり方は実に効率的で、途中までは呆然と眺めていた船頭が、あまりの効率の良さに「悪魔の所業」「霹靂猫魚があわれ」「もはや作業」とこちらの良心をちくちくつつくようなことを言い始めたので、程々のところで切り上げた。
実際のところは途中で作業ゲーが中毒化して予定より獲り過ぎたのでやめたのだが。
そのようにして結構長時間楽しんだもとい作業していたのだが、リリオは一向に目を覚ます気配がない。
もしかして死んだかと思って確認してみたら、気絶から睡眠状態に移行していたので《ウェストミンスターの目覚し時計》でぶん殴って叩き起こし、あれからどうなったとか主はどうなったとか騒がしいリリオを引きずって《踊る宝石箱亭》まで戻ることにした。
運動してお腹が減ったので、そろそろ昼飯にしたかったのだ。
用語解説
・《縮地》
《暗殺者》の《技能》の一つ。短距離ワープの類で、一定距離内であれば瞬間的に移動することができる。ただし、中間地点に障害物がある場合は不可能。連続使用で高速移動もできるが、迂闊にダンジョン内で高速移動していると、制御しきれずに敵の群れに突っ込んだ挙句《SP》が切れるという冗談にもならない展開もありうる。
『東にぴかっと 西にぴかっと 天下を自由自在に 千里の山々を駆け抜けて 暗殺者は行く』
・《火照命の海幸》
ゲームアイテム。水際などの特定の地形で使用することで魚介などの特殊なアイテムを確率で入手できる。使用する場所によって釣れるものが異なり、ひたすら釣りアイテムをコレクションするアングラーと呼ばれるプレイヤーも多かった。時にははずれを引くこともあるが、閠の幸運値で使うとレアアイテムしか出てこないという逆の弊害が発生する。
『おかしな話だろう。私はただ釣り針を返せと言っただけなんだ。誠意を見せろと。そりゃ怒りすぎたかもしれないが、ここまでするか?』
・《アルティメット・テイザー》
ゲームアイテム。装備品。攻撃力は低いが、高確率で相手を気絶状態にできる特殊な装備。思いっきり世界観に反したような、露骨にスタンガンにしか見えないヴィジュアルだが、設定上一応魔法の道具らしい。
露骨にスタンガンにしか見えないが、雷属性ではないという謎のアイテム。
『アルティメット・テイザー・ボール! 超エキサイティングなこのゲームがついにはじまりアッ! やめろ! 司会にテイザーを使うんじゃアッやめアッアッアッ』
前回のあらすじ
悪魔の所業。
私が目を覚ました時、というか目を覚まさせられた時、全ては終わった後でした。
漁師のおじさんは「おれぁ何も見てねえ」を繰り返すばかりですし、ウルウは説明が面倒くさいのか「君が勝ったよ」しか教えてくれないし、なんだか消化不良です。
一応とどめを刺してから気絶したのは確からしいのですが、ほとんど相打ちだったような気もします。
船から降りて自分の足で歩こうとすると、膝ががくがくと大笑いで、あちこちしびれるし痛いしで、かなりの怪我を負っていることにようやく気付きました。戦闘後の高揚でいまのいままで麻痺していたみたいですけれど、さすがに無理して動くにも限界があるみたいです。
「ちょ、っと、待ってくださいね。すぐ、すぐ行きますから」
ぎぎぎぎぎ、ときしむ音さえ立てそうな体を何とか動かそうとすると、ウルウにがっしりと顎を抑えられました。そして口の中に何やら硬くて細いものを突きこまれ、ドロッとした液体を流し込まれ、苦いそれを思わず飲み下してしまいます。
この私が口に入れるもので何かを不味いって思うの相当珍しいですから、これは相当な不味さです。
「ん、ぐっ、ふぅっ、けほ、えほ、な、なんですこれ?」
「疲れた。眠い。お腹減った」
それは説明ではないです。
物凄く面倒くさそうに私の背中をせっつくウルウに、まあ気を失って迷惑かけましたしと歩き出そうとすると、何と身体が軽いじゃありませんか。
ぎょっとして見下ろしていれば、皮膚の裂けたところも治っていますし、気だるさやしびれた感じもありません。鎧の焼け焦げなんかはそのままですけれど……。
ちらっとウルウの方を見れば、そこには見たことのある瓶をしまっている姿が。
「今の、もしかして、あの野盗たちに使ってた……」
「そう」
そう、じゃありません。
あんな貴重そうな霊薬を一体何本持っているのでしょうウルウは。
いえ、深く考えるのはやめましょう。怖いですし。それにウルウが私のために使ってくれたということを喜びましょう。それが例えお腹減って疲れて眠いので早く宿に戻りたいがためだとしても。
私は急かされるままに《踊る宝石箱亭》に戻り、暇そうに包丁を研いでいるユヴェーロさんのもとへと向かいました。
時刻はちょうど昼頃。ご飯時です。
「おや、お帰り。収穫はどうだい?」
「大物でしたよー」
私がお願いするまでもなく、ウルウが《自在蔵》からぬるりと主を引きずり出すと、昼食を摂りに来ていた冒険屋たちから、そのとてつもない巨体と、そしてそれを収めるとてつもない収容力の《自在蔵》とに驚嘆の声が上がりました。
私としてはちょっと自慢気な気持ちではありますけれど、視線を集めたウルウはとてつもなく面倒くさそうです。
ユヴェーロ氏も驚きの顔で、床に転がされた主を検めます。
「こいつはまたとんでもない大物だ! いやぁ、これは間違いなく乙種だね」
「でしょう!」
「でも傷口が荒いし、全身が大分焼け焦げてるから、素材の価格はちょっと落ちるな」
「あう」
「あと大きすぎると大味になって美味しくない」
「ぐへぇ」
あれだけ頑張ったのにそれはあんまりでした。
がっかりしていると、ウルウが一歩前に出ました。
「私のも買い取って欲しいんですが」
「そう言えばウルウもあの後獲ってたんですってね」
「ほほう。いいとも。状態が良ければ買い取るよ」
「状態が良い奴は全部買い取ってくれます?」
「霹靂猫魚は素材もとれるし飯にもなるしね、相場で買い取るよ」
「言質は取った」
「へ?」
ウルウがにっこりと笑います。
その営業用の爽やかさがかえって私にその先を予想させました。
「三十八匹」
「……なんだって?」
「傷なし。生け捕り。サイズは肥えた成魚ばかりで三十八匹。願いましては?」
ウルウがあくどい笑顔で《自在蔵》から手妻のように次々に取り出しましたるは、まるで川からそのまま飛び出たような傷もない霹靂猫魚たち。
一抱えもあるようなそれが十を超えたあたりで、さしものユヴェーロさんも顔を引きつらせて止めました。
「待て待て待て」
「言質は取った。状態が良い奴は全部買い取ってくれるんだそうで」
「い、言った……言ったが……」
「証人もいますね。おたくの常連が」
面白がった冒険屋たちがそうだそうだと声を上げます。
「ええい、わかったわかったわーかりましたよ!」
「『報酬は出来高制。討伐数で基本給。調理できないほどだったら廃棄だけど、傷が少なけりゃ卸した数だけ加算。まあまず無理だけど生きて捕まえられたら特別報酬』。だったかな」
「特別報酬もね! 忘れてくれりゃいいのに!」
「『お料理代は』?」
「ご馳走するよ!」
ウルウは満足げににっこり微笑んで、それから疲れたようにため息一つ、またいつもの三白眼で私をちろりと見ました。
「満足かい?」
「うぇ!? え、ええ、もちろん大満足です!」
「よかった」
頑張ったねと私の頭を撫でて、ウルウは再度ユヴェーロさんに向き直りました。
「さて、残りはどこへ?」
「氷室にしまおう。さばくにも時間がかかるし、仕込みもいる。料理は夜でいいかな?」
「リリオ」
「え、はい、大丈夫です!」
「じゃあ、お昼に軽く何か作ってください。この子も私もくたびれた」
「夜が入るように軽めにしとくよ」
「お願いします」
麺麭と乾酪の簡素な昼食を済ませると、ウルウは「疲れたから寝る」と言いおいて部屋まで戻ってしまいました。でも多分あれって、今のを見た冒険屋から絡まれるのが面倒くさいから引きこもったっていうのが正しいですよね、きっと。
さて、ではそんな面倒くさい状況に取り残された私としましては。
「ユヴェーロさん! 仕込み手伝いますよー!」
「おお、助かるよ!」
お手伝いの名目で厨房に逃げ込むのでした。
さて、夕刻の鐘が鳴って、そろそろ晩御飯時です。
大量の霹靂猫魚を腐る前に売りさばくため、今晩は急遽大安売りとして昼から宣伝していました。
おかげさまで普段来ないようなお客さんまで詰めかけて、酒場は満席、追加の卓まで借りてきて、店の外にまで席を広げる始末です。
なお、安売りと言っても、実は普段が技術料と希少価値でふんだくってるんだけどねとは内緒のお話。
私は流れで、ウルウは結局罪悪感やらなんやらで、給仕として働くことにしました。お給金は出ませんけれど、営業が終わった後には一番いい霹靂猫魚を使った、特別料理をふるまってくれるとのことです。
ウルウは、「それって当初の契約通りなだけでは」とずっとぼやいていましたけれど、給仕用にと貸し出してくれた衣装が可愛いので私としては満足です。旅をしているとなかなかかわいい衣装って持てませんしね。
それにウルウはこういう機会でもないときっとこういう格好してくれません。ものすごく恥ずかしそうに「犯罪だろこれ」とぼやいています。確かに犯罪者が出かねませんね。
私たちはひっきりなしに訪れるお客さんたちの注文を取り、揚げ霹靂猫魚とお酒を渡して回り、代金を隠し一杯に受け取っては戻って、そしてまた新たな揚げ霹靂猫魚とお酒を受け取って、と店内を駆け巡りました。
そういえば意外だったのは、いえ、意外でもないんでしょうか、ウルウがお金の勘定ができなかったのは驚きました。
一般によく使われる三角貨と五角貨、商人などが使う額の大きな七角貨と九角貨、それにとても大きな取引などで初めて使われる金貨、それらを教えるとウルウは興味深そうに硬貨を見比べました。
この一番価値の大きい金貨を、まあ帝国のものではないようなんですけれど、しれっと渡してしまうあたりウルウの金銭感覚がおかしいということは前々から感じていましたが、そもそもお金の単位すらわかっていなかったというのは驚きです。
そして教えれば一回で覚えて、すぐにそらで計算できるようになるのにはもっと驚きました。それなりに慣れた私でも指を使って計算するのに、ウルウは何も見ずに私よりはるかに早く計算してしまいます。
一度商人らしいお客さんが、誤魔化しているんじゃないかと算盤を持ち出しましたけれど、ウルウの方がより速く正確に計算するものですから、すっかり驚いていました。
それで何組もの商人が面白がって算盤で、または暗算で勝負を挑み、それを酔客がまた面白がってどちらが勝つか賭け出すという騒ぎにもなりましたが、なんとウルウが全勝してしまいました。
こんなに騒ぎになってしまってお店は大丈夫なんだろうかと不安になりましたけれど、よく見たら胴元はユヴェーロさんでした。ここで一儲けして赤字分を取り戻すとおっしゃっていました。
まったく!
私はもちろんウルウに賭けましたけどね!
そのようにして騒がしい夜は過ぎ、ようやく全てのお客さんが帰った後、私たちはくたくたの体でそれぞれ椅子に座りこんでいました。
長く、苦しい戦いでした……。
もしかしたら主との闘いより疲れたかもしれません。
「明日はお休みにしちゃうから、片づけは明日にして、まかないにしよう」
ユヴェーロさんが疲れのにじんだ、しかしたっぷり儲けた商人の顔でそういうので、私も、そしてウルウも顔を上げました。
「まあまかないといっても、お客にも出してない飛び切りの品だ。楽しみにしていいよ」
私たちが現金にもきびきびと調理場の見える席に着くと、ユヴェーロさんはにんまり笑いながら、たっぷりの揚げ油を沸かした鍋に、衣をつけた切り身を泳がせ始めました。
正直なところ、その時の私は「なあんだ」と思ってしまいました。
というのも、この一晩でもう一生分の揚げ霹靂猫魚は見たものと感じるほどで、食べる前から飽きてしまうくらいだったのです。
しかしここで目を見張ったのがウルウでした。
「これは……」
「わかるかい?」
ユヴェーロ氏は黄金色にからりと揚がった切り身を竹笊の上に上げると、上にぱらりと軽く塩を振って、すぐに私たちに寄越してきました。
「まずは塩だけでやってごらん」
ウルウが遠慮なく口にするので、私も負けじと手を付け、そして実に、実に驚きました。
大きく頬張ると、さくりとあまりにも軽やかな歯ごたえとともに衣が崩れ、火傷する程に熱い白身がほろほろと崩れてきます。この白身というのが全く驚くほど味わい深く、淡白ではあるのですが、ほんのわずかにかけられた塩が、その旨味を十全に引き出してくるのです。
またその身の汁気たっぷりなことに驚かされました。揚げ過ぎた揚げ物というものは大抵ぱさぱさしているものですし、かといって揚げ方が弱ければ生のままです。これは、その生から火が通るギリギリのところを見極めて、いえ、余熱ですっと火が通るところを見計らって油から取り上げられているのでした。
揚げたての揚げ物というものがここまで美味であるということを私は初めて知りました。
それも、目の前で上げて、一分と経たないうちにすぐに食べてしまえる、この調理場が覗ける席でしか食べられないまさしく特別料理です。
「さ、お次はこいつにつけて食べてごらん」
さっと揚げられた揚げ猫魚と一緒に、今度は小鉢に何か褐色の澄んだ液体が渡されました。
これもまたウルウが手慣れた様子でさっとつけて食べるので、私も半ばほどまで浸して食べてみました。
汁気のせいでしょうか、先程のさくりと崩れるような感じではなく、じゃくりと少し重たい歯応えで、しかしそれがまた歯に嬉しい感触でした。
「魚醤を猫魚の出汁で割ったものさ」
またこの不思議な液体の味が繊細で、不思議な香りがするのですが、魚のうまみがたっぷりと凝縮されており、塩だけを振って食べた時よりも強い塩気が、あっさりとした白身をうまく持ち上げて、気づけばじゃくじゃくっと食べ進めてしまうのでした。
ああ! 早く次を揚げて! そう願わずにはいられません。
「いい食べっぷりだ。じゃあこいつはどうかな」
竹笊にざっと置かれたのは、今度は衣に緑色が散っていました。
「紫蘇の葉を刻んで衣に混ぜ込んだんだ」
これには軽く塩を振って食べてみると、ふわりと爽やかな紫蘇の香りが広がり、脂っこくなってきた口の中を爽やかにしてくれました。それでいて、たっぷり詰まった魚のうまみはまるで損なわれるということがなくて、むしろ、かえってそのさっぱりとした香りとともに口の中にあふれてくるようでさえあります。
私が無意識に左手を卓の上に彷徨わせると、ユヴェーロさんがにやりと笑いました。
「わかってるとも。こいつだろう?」
そいつです!
ユヴェーロさんがにやっと笑って寄越してくれたのは、酒杯にたっぷり満たされた麦酒でした。
ごくごくごくっ、と音を立てて飲み下すと、さっぱりとした苦味と複雑な香り、それにフルーティーな甘みとコクとが、のど越しもよく流れ込んできます。
そしてそこに揚げたての猫魚!
じゃくりじゃくりと頬張り、そしてまた麦酒!
この単純で、しかしだからこそ飽きがこない黄金の連鎖たるや、もう無限に食べられると言っていい程です。
小食のウルウもこの連鎖を楽しんでいるようで、ゆっくりではありますがその手は止まりません。
そして程よく腹の膨れてきたころ合いで、まるで悪戯でもたくらむような楽しげな顔で、ユヴェーロさんは本当の特別料理を出してくれたのでした。
「さー、さすがにこいつは食べたことないんじゃないかな?」
「え!?」
皿に美しく盛られて出されたのは、なんと薄くそぎ切りにされた生の猫魚でした。うっすらと紅色を透かす透明感のある白い身は確かにとても美しいものですが、しかし、でも。
「な、生で食べるんですか?」
「サシミといってね、西の連中から聞いた食べ方なんだが、なかなかオツだよ」
「で、でもお腹壊しません?」
「普通は壊す」
「さ、さすがに怖いですよう」
「実はね、これは本当の本当にうちだけの秘密にしてあるんだけど、霹靂猫魚ってのは体中にいかずちが走っているだろう。だから腹を壊す虫がつかないのさ。もちろん、生け捕りじゃないといけないけどね」
なるほど、確かにあの強烈ないかずちは腹下しの虫など寄せ付けないことでしょう。
しかし頭でわかっているのと実際に試すのとはわけが違います。
私が少し怖気づいていると、ウルウは平然と皿に手をかけました。
「ユヴェーロさん、魚醤とやらを少しもらえる?」
「お、ウルウ君はわかるかい」
「川魚は初めてです」
先程の出汁で割ったものよりももっと濃くて、そして匂いの強い魚醤を小皿に注いで渡されたウルウは、粋というんでしょうかねえ、一切れ猫魚の身をとると、さっとつけて素早く口に運び、そして目を見開きました。
「ほへははひへへは」
「へ?」
「リリオ君も食べればわかるよ」
そう勧められれば逃げてもいられないと、私は意を決してウルウと同じように一切れ口にしてみました。
すると何ということでしょう。火を通した時とはまるで違った甘い味わいが魚醤の塩気によってちょうどよく引き立てられて口の中でとろけあばばばばばばばっ。
「ひゃ、ひゃんへふはほへ!?」
「死んですぐの霹靂猫魚はまだ雷精が残っててね。生だとそいつが抜けきらずに、独特のしびれを喰らわすのさ」
何というものを食べさせてくれるのでしょう!
私はエールで口の中を洗い、そして気づけば文句を言う前にもう一口を頬張ってあばばばば。
「こいつは後を引くだろう!」
確かに全くその通りです。口の中がしびれるこの、味というのでなし香りというのでなし、かといって食感というのでなし、第四の不思議な感覚が、味わいに不思議な立体感をもたらすのでした。
ユヴェーロさんも揚げながら食べ、飲み、そして活きのいい身をさばき、その夜は三人で飲み明かしたのでした。
用語解説
・氷室
ある程度大きな飲食店では、一部屋丸まるを氷精晶で冷やした氷室を持っていることが多い。
・乾酪
動物の乳を原料として、発酵させたり柑橘類の果汁を加えて酸乳化した後に、加熱したり酵素を加えたりしてなんやかんやあって固めた乳製品。いわゆるチーズ。
・夕刻の鐘
正午の鐘と同じように、夕方の六時ごろに鳴らされる鐘。基本的にどの業界も、長くてもこの時間で仕事は終わる。というのもこの後は暗くなる一方なので灯りがもったいないのだ。
・お金
帝国の通貨は三角貨、五角貨、七角貨、九角貨、そして金貨の五種類存在する。一〇〇三角貨で一五角貨。一〇五角貨で一七角貨。四七角貨で一九角貨。
つまり一九角貨=四七角貨=四十五角貨=四千三角貨。
金貨は主に恩賞や贈答用で、その重量や芸術性で価値が決まる。
どうせ大して出てこない設定なので覚えてもこれと言って得はない。
・指を使って計算
頭が悪そうに聞こえるが、リリオが使っているのは商人の用いる運指。
ひとつは、親指に一、人差し指に二、中指に四、薬指に八、小指に十六という風に数字を割り振ることで、片手で三十一まで数えることのできるもの。両手を遣えば六十二まで数えられる。
やってみるとわかるが、こんな指攣りそうなものを滑らかにできるだけの器用さは結構なものだ。実用性はともかくとして。
もう一つは、我々の世界ではインド式指算として知られるもので、両手を使って15×15まで計算できる。
・算盤
いわゆる算盤。竹製や木製、護身用に総金属製などがある。一つの芯に十顆ずつの珠のものもあれば、天一顆地四顆のよく見られるもの、また硬貨の換算に便利なように珠の数を調整したものなど、様々なものが出回っているようだ。
・魚醤
魚醤。魚を塩とともに漬け込み発酵させ、そこから染み出た液体を濾したもの。独特の香りまたは強い匂いを持つが、濃厚な魚のうまみが凝縮されている。塩分濃度は醤油より高い。
・紫蘇
爽やかな香りのする野草で、緑色のものや、鮮やかな紫色のものなどがある。
・麦酒
上面発酵の麦酒。いわゆるエール。地方や蔵元によって味が異なる。
前回のあらすじ
あ ば ば ば ば ば ば ば っ 。
飲み過ぎた。
酔っぱらっていて意識が揺れまくっていたせいか記憶があいまいだけれど、どうにかこうにか《目覚し時計》はセットしたようで時間には目覚められた。
しかし、気分は最悪だ。アルコール耐性もつけてくれよと思ったがそうなると酔いたいとき酔えないで困るのか。不便だ。
二日酔いで痛む頭を抱えながら身を起こすと、景色が違う。
何故だと思ってみれば、これは私のベッドではない。部屋の反対側だ。
いやな予感というか確信がして布団をはいでみれば、中途半端に服を脱ぎ散らかしたリリオが腰のあたりに抱き着いて涎をたらしていた。
反射的に蹴り落として、生理的嫌悪感からくる鳥肌をさすりつつ、自分の有様を確認してみた。
一応、酔っぱらいながらも着替え位はしたようで、下着はつけていないし寝巻代わりの《コンバット・ジャージ》にも着替えているが、うまくジッパーが閉じられなかったのか前は開いているし、かなりだらしがない格好だ。頭に触ってみれば寝ぐせも酷い。
最悪の目覚めだ。
取り敢えず酩酊状態を回復する《ノアの酔い覚まし》という水薬を一口飲んでみると、幸い効果があったようで頭痛も吐き気も晴れた。酔っぱらった時点で飲んでおけばよかったものをと思うが、酔っぱらった時点で思考能力などお察しだ。仕方あるまい。
しかし、この二日酔いという最悪の目覚めはあったが、昨夜の食事は素晴らしいものだった。まさか異世界で天ぷらと刺身が食えるとは思わなかった。勿論、いくらか違うところはあったし、醤油ではなく少し匂いのきつい魚醤であったが、私の中にもわずかばかり存在していたらしいホームシック的な郷愁の念も晴れたというものだ。
刺身を食べた時のあのしびれる感じは驚いたが、ワサビがなくて少し物足りないなと思っていた口にはちょっとうれしい驚きだった。フグの胆ってのはあんな感じなのだろうか。いや、まさかあそこまで直接的物理的にしびれるというのではないだろうけれど。
さて、寝癖を直し、汲み置きの水で顔を洗って歯を磨き、普段の装備に着替えて、これでいつも通りだ。
ベッドから蹴り落とされても暢気に眠りこけているリリオを《目覚し時計》の角で殴って起こし、先に行っていると言い残して階下に降りる。
するとまあ、悲惨なものだった。
こぼした酒や食べ物、また吐瀉物で床は汚れ、転がっている椅子などもあり、飲み過ぎたらしい泊り客が何組か青ざめた顔でテーブルに突っ伏し、その間をやや緩慢な動きでユヴェーロさんが掃除していた。
「ああ、ウルウ君か。おはよう。すまないが朝飯は昨日の残りで我慢しておくれ」
「構いませんよ」
昨夜揚げた猫魚の残りをいくらか頂いて食べてみたが、こいつは冷めてもなかなか食える味だった。衣はしけっているが、身の方はなんだかもちもちとしていて、なかなか食いでがある。林檎酢をかけるとちょっときついが、軽く塩を振って食べるとちょうどいい。
手早く食べ終えて、私は少し考えていったん引っ込み、これなら汚れてもよかろうと昨夜の給仕服に着替え直して、片づけの手伝いに参加した。昨日は随分美味しいものを食べさせてもらったし、これも給料分だ。年甲斐もなく足を出した格好は恥ずかしいものがあるが、酔っ払いに尻を触られそうになっては自動回避が発動しまくってブレイクダンスじみたことさえしたのだ。もう、慣れた。
ユヴェーロさんに感謝されながら掃除をし、半分ほど片付いたあたりでリリオもおりてきた。リリオは最初から手伝う気だったようで給仕服を着こんでいて、先程までの寝ぼけぶりなどどこへやら、そして二日酔いなどまるでないらしく元気溌剌に掃除に参加した。こいつの高生命力は肝臓までカバーしているのか。
私と、そしてえらく元気なリリオの活躍によって掃除は手早く終わり、ユヴェーロさんは昼から営業を再開することを宣言した。眠そうではあるが、宿屋というものは基本的に年中無休だ。一応昼には雇われの給仕も来るらしいので、それで何とかしのぐそうだ。
「さて、それじゃあ報酬と依頼票だ」
ユヴェーロさんは、私にはまだ虫食いのようにしか読めない依頼票にさらさらとサインをして依頼の完遂を認めてくれ、写しにも同じようにサインをして寄越してくれた。
「さて、報酬だけど、ウルウ君の活躍もあって結構な額になってね。どうしようか。手形にするかい? というかしておくれ」
「うーん。とりあえずの手持ちに二十五角貨下さいな。残りは手形で」
「助かるよ」
そう言えばこの国、帝国だったかでは、貨幣がきちんと統一されているようだ。これは何気に凄いことだと思う。貨幣というものは担保となる金なり銀なりの価値が安定していて初めて通用する。貨幣がきっちり統一されて、その価値の変動が少ないということは、採掘量が安定している、というよりは国家としての信用がしっかりしていることだと思う。
しかも手形、この場合約束手形になるのかな、そういうものが存在しているということは商取引がかなり洗練されているということだ。専門じゃないからよくわからないが、少なくとも金銭のやり取りを現金以外の方法でできるというのはかなり近代的だろう。
さて、昨夜見せてもらった硬貨は小さいものから順に三角貨、五角貨、七角貨、九角貨といった。
名前の通りそれぞれやや丸みを帯びた三角形、五角形、七角形、九角形の硬貨で、どれも大きさは似たようなものだ。
三角貨は銅貨で、支払いで見かけるのはもっぱらこれだ。大振りの串焼きなんかは十三角貨くらいかな。焼き鳥位の小さい奴なら五三角貨くらい。
百三角貨で五角貨になる。これは鉄製かな。少し大きい額の支払いなんかで見かける。一度に食べる量の多いリリオは結構これを使うことが多い。
十五角貨で七角貨になって、これは銀貨だ。さすがのリリオも一度の食事でこれを出すことはない。以前に泊まった《黄金の林檎亭》での支払いで見かけたきりだ。
この七角貨四枚分が九角貨で、これも銀貨だけど、多分含有量が高い。一応リリオも持っていたは持っていたけれど、本当にもしもの時のためのもので、個人で使うことはまずないという。商人なんかが大きな取引で使うもののようだ。
結構計算が面倒くさいが、たいていの場合三角貨と五角貨しか出回らないから、これに換算すればいい。昨夜は暗算で計算してたら絡まれたので反論したら、何故だかいつの間にか計算合戦になってしまって辟易したが、しかしあれも考えたら悪いことをしてしまった。
なんか算盤みたいなの使って必死で計算しているところ悪かったが、私、途中から暗算なんかしてないんだよね。単品の値段は固定だから、それかけることの幾つかっていうのは、客の数からいって限られてくるから、その組み合わせを覚えれば、あとは計算しないでも当てはめてしまえばすぐに数字出るんだよね。
単純な数の計算ならもっと簡単で、九九を覚えてるかどうかというのと同じレベルで、二十かける二十くらいの計算までなら昔暇つぶしに覚えたから。
私、計算力はそこそこだけど、記憶力だけはいいんだ。
さて、その上の金貨となるとこれはもう普通は流通しなくて、恩賞や贈答用であったり、銀行や貴族が箔付けにもっていたりというものらしい。
何も考えずにゲーム内通貨の金貨をばらまいた気がするけど、そりゃああの野盗も、リリオも困るわけだ。換金しようにもそうそうできまい。
なので、ウルウの稼ぎですからと渡された手形はそのままリリオに渡した。散々渋られたのだが、私の方も散々渋った挙句に、苦肉の策としてパーティの資金だからというとにこにこ笑顔で納めてくれた。ちょろい。
なお、手形をちらっと見た感じちょっと金額がおかしかったので心の底からユヴェーロ氏には申し訳ない。そりゃ即金で払えないわ。二メートル弱の奴一匹で八百三角貨かよ。ぼろ儲けし過ぎた。必死こいて囲んで棒で殴って疲れさせたところを捕まえて、傷だなんだで値引かれている地元冒険屋に申し訳なさすぎる。
あまりの申し訳なさに、ウルウもある程度は持っていてくださいと寄越された五角貨をさっそくユヴェーロ氏に渡して、霹靂猫魚獲りの冒険屋が来たら激励代わりに一杯飲ませてやってくださいと言ってしまった。
そのようにして私たちは初めての魔獣討伐を終え、あまりにも早すぎる試験終了のお知らせを叩き付けにメザーガ冒険屋事務所へと向かうのであった。
メザーガという男は、野ネズミのように勘のいい男らしい。
私たちが、というよりはリリオが事務所の戸を勢いよく開いた時、メザーガはちょうど上着を羽織ろうとしていたところだった。つまり、前回と同じだ。いま思うに、あの時も恐らく逃げ出そうとしていたのだろう。
私としては面倒ごとを回避しようというその姿勢には大変共感が持てるのだが、リリオの物語がこれ以上進展しないとそれは観客としては退屈極まりないので諦めていただこう。
さて、苦汁をリッター単位で飲み下したような顔で椅子に座り直すメザーガに、リリオは意気揚々と完遂済みの依頼票をもって、さあどうだと冒険譚を語り始めた。冒険者にしろ冒険屋にしろ、武勇譚を語りたがるというのはファンタジーものの定番らしい。
その間私はというと、クナーボと名乗った町娘風の少女に椅子をすすめられ、淹れたての珈琲っぽい飲み物を頂いた。結構大人びた顔立ちだが、成人するのは来年とのことで、西欧人の顔立ちはわからないというか、この世界の生育具合がわからないというか。
このクナーボという少女は冒険屋というものに対して実に愛らしくいたいけな憧れと理想を抱いているようで、それというのもリリオと同じように親戚筋であるらしいメザーガの冒険譚を聞いて育ったもので、それに強く憧れているらしいのだった。
いまは前線を退いているとはいえメザーガの若い頃の武勇はそれはもうすさまじいもので、いや、今だって若者に活躍の場を譲っているだけで腕は全く衰えていない、確かに少しだらしないし金勘定もいい加減だし事務処理だって自分が片付けている部分は多いが、まあ人間としていささかの難点はあるけれどそれを差し引いても冒険屋としてこれほど立派な人はそうはいないと、聞いているこちらの背中がむずかゆくなるような話を聞かせてくれるわけだ。
向こうでその当のメザーガが虚ろな目で天井を見つめているのは、はたしてリリオの話を聞き流しているのかクナーボの話を聞き流しているのか、どちらにしろ哀れな中年だ。
ともあれ、私が一杯の珈琲をのんびり飲み終える頃にはクナーボのメザーガ語りもリリオの武勇伝も落ち着き、疲れ果てたようなメザーガが「もういい」とどちらにともなく告げて、場を整えた。
「わかったわかった。依頼票も確かに本物だし、話の内容も嘘はなさそうだ。三十八匹も生け捕りにしたなんざ嘘であって欲しいが、ユヴェーロがほら話の為に手形切るわけがないからな」
「じゃあ!」
「いいだろう、うちの事務所で冒険屋見習いとして雇ってやる。即戦力もいいとこだが、うちのやり方に馴染むまではまあ、見習いってことでな」
そう聞いたときのリリオの喜びようと言ったら全く、年相応の子供らしいものだった。と言えばかわいらしいが、勢いよく飛びあがって私に抱き着いてきて自動回避を発動させやがった挙句、抱き着いた椅子を締め上げて破壊するという暴挙に出るほどだった。
「……言っておくが、備品を壊したら依頼料から天引きだ」
「ぐへぇ」
砕けちった椅子の破片を涙目で組み上げようとする様は、あほな大型犬のようでかわいらしいというよりは、うっかり力加減を間違えて飼い犬をバラバラにしてしまったサイコパスみたいなちょっとぞっとする光景ではある。普段は力加減間違えない癖に私に突進するときだけやたらと破壊力高いの、壊れにくいおもちゃとでも思ってんじゃないだろうなこいつ。
「一応空き部屋があるから、二人で使うといい。寝台が一つに、寝椅子が一つあるから、交代で使うなり新しく買うなりは好きにしてくれ。家具の新調は自由だが、備品を勝手に売るのはやめろ。倉庫があるから邪魔なのはそっちに移せ。消耗品は自費で賄うこと。飯は付かねえ。要するに屋根だけ貸してやるってことだ」
「わかった」
「わかりました」
「依頼に関しては俺が適正を鑑みて割り振るが、お前らの都合もあるからな、物にもよるが断っても構わん。依頼料から一割を仲介料として抜くが、これは組合の決めた割合で、俺には好き勝手にはできん。高くも、安くもな。あとは何があったか……」
「他所で依頼を受けた時ですよ、おじさん」
「そいつだ。お前たちが自分の足で仕事探して他所で受けてくる分には一向にかまわねえ。ただしその場合うちからの支援はねえし、あんまし他所に迷惑かけるならペナルティもある」
「例えば?」
「罰金、奉仕活動、除籍、まあそのあたりだな」
「大丈夫ですよー、ねえウルウ」
「私はね」
「ウルウ?」
「それから、ほっつきまわるのは自由だが、連絡が取れねえのは困る。長く留守にするときは必ず一報しろ」
「報連相だね」
「あ? なんだって?」
「報告、連絡、相談」
「おお、その通りだ。その三つは大事だ。頼むぜ」
「ええ、勿論ですよ! ね、ウルウ?」
「私はね」
「ウルウ?」
大まかな所はそのような具合らしい。
私たちは早速部屋を見せてもらったが、どうやら長らく誰も使っていなかったようで、最低限の備品はあるが、逆に言えばベッドとソファくらいしかなく、埃も積もっている。
私たちは適材適所を合言葉に役割分担することにした。
つまり、リリオは宿まで走って部屋を引き払い、その帰り道でよさ気な家具を見繕う。私は部屋の掃除を済ませ、物置とやらで何か使えるものがないか探す。
冒険屋見習いとしての最初の仕事は、まずこのようなことから始まったのだった。
用語解説
・《ノアの酔い覚まし》
ゲームアイテム。状態異常の一つである酩酊を回復させる水薬。他の薬品と比べてかなり小さな瓶として描かれているあたり、少量でも効果は抜群、つまり味は相当まずそうではある。
『今年の抱負:酔って脱いでも孫を呪わない』
・記憶力だけはいい
相当なレベルで。
前回のあらすじ
無事試験を終了し、あっけなく冒険屋見習いになったリリオとウルウ。
見習いということで依頼料をいくらかピンハネされる未来をまだ知らないのだった。
私が《踊る宝石箱亭》の部屋を引き払い、荷物を背負った帰り道で細々とした買い物を済ませて、事務所に戻ってくると、なんということでしょう、あの殺風景で何も物のなかった部屋は、殺風景で何も物のないままでした。
「おかえり」
実に満足げなウルウですけれど、上着も脱いで動きやすそうな格好で、髪も後ろで括ったりしてうなじが眩しいですけれど、ですけれどもー、どう見ても部屋は殺風景で何も物のないままです。
いえ、きれいに掃除されていますし、よく見れば寝台も増えていますけれど、それ以外何も増えていません。お手伝いしてくれたのでしょうクナーボが隣でひきつったような苦笑いを浮かべているのもわかります。
「ただいま戻りました、ウルウ。それでは」
「それでは?」
「模様替えを始めます」
たっぷり十秒ほど小首を傾げて、ウルウはげんなりしたような面倒くさそうな顔をしました。
「他に何か要る?」
「まずウルウの感性を直す必要がありそうです」
ウルウが早々にやる気をなくしたのを尻目に、私は物置を確かめて、書き物机があったのでそれを一台持ち込み、道中買ってきたかわいらしい行燈を設置。
壁紙は今からではどうしようもないですのでまた後日として、床も裸じゃ寂しいですね。物置で埃をかぶっていたじゅうたんを、表に出て盛大にはたいて綺麗にして、床に敷いてやれば、足元も暖かいだけでなく、暖色の色合いが目にも優しいですね。
箪笥に、化粧台も物置から引っ張ってきて、姿見はなかったので今度買ってきましょうか。
ウルウはひそかに読書家さんみたいですけれど、本棚はさすがになかったので今度見繕いましょう。
物置をあさっているうちに、素敵な一輪挿しの花瓶も見つけましたので、壁にかけて、とりあえず匂い消しの花や香草を束ねて飾り、装飾と消臭を兼ねてみます。
卓は大きいものだと邪魔になりますから、小さいものを一台。それに折り畳みのできる椅子を二脚。これでお茶くらいはできるでしょう。
あとは水差しやらなんやらとこまごまとしたものを適当な場所におさめて、まあこんなものでしょうか。
「いいですか、ウルウ。部屋を整えるというのはこういうことです」
「………なんか」
「なんです?」
「なんか生活感があって落ち着かない」
「生活するんですよ?」
ウルウは何を言っているんでしょうか。
こここそが我が最後の領地と言わんばかりに、自分の寝台の上で膝を抱えて座るウルウは、大津波で世界が流されてしまって最後に残った孤島に取り残された水鳥のように心細そうです。
「ウルウの前のお部屋はどうな感じだったんですか?」
「あー……ベッド……寝台があって」
「寝台があって」
「…………寝台があったよ」
「それは聞きました」
「あと、ご飯食べる、卓袱台」
「チャブダイ?」
「ちっちゃいテーブル、卓みたいの」
「ちっちゃい卓」
「以上」
「異常です」
寝台と卓しかないってどこの牢獄なんでしょうか。それに椅子は?
「ウルウ、ウルウ。ウルウはそれが当たり前で、もしかしたらこういうのは落ち着かないかもしれません」
「うん」
「即答しないでくださいよ。でもですね、これからは私たち、二人で冒険屋なんです」
「君が勝手に決めたんだけど」
「うぐぅ、で、でもウルウも断らなかったですし」
「うにゅぅ」
「私もウルウのやり方は尊重します。だからウルウも、私のやり方にちょっと慣れてくれると嬉しいです」
「むーん」
「……かぶりつきで主演女優の演技を見ると思って」
「私ちょくちょくそういう言い回しするけど、本気でそう思ってるわけじゃないからね? あくまでたとえであって、そういう言い方すれば私が従う訳じゃないからね?」
ウルウって時々妙に早口で饒舌になりますよね。
ともあれ。
「まだ見習いですけれど、冒険屋、なりましたね」
「……冒険屋、ね」
面倒臭そうで、胡散臭そうで、でもそこには確かに小さな高揚が見て取れたのは、私の目の錯覚ばかりではないと信じています。
冒険屋なんて面倒臭くて胡散臭いものに、ついに私もなってしまった、というかならされてしまったというか。いやはや、この前まで生きているのか死んでいるのかも定かではなかった事務職が、やくざな仕事に就くことになるなんて人生わからないものだ。
しかしいろいろショックではあるな。
冒険屋になったということではなくて、私のセンスがいろいろ否定されたことに関して。
どうやら私の考える文化的で最低限度の生活というものは、福祉なんて概念があるかどうかすら怪しいこの異世界においてすら、有り得ないと一蹴されるレベルで低すぎる水準だったようだ。
だって以前の私の部屋って本当にベッドと卓袱台しかなかったし。他は説明に困ったから言わなかったけど、ノートパソコンと、専門書の詰まった本棚。あとほとんど空だった冷蔵庫か。洗濯は週に一度コインランドリーでまとめてやってた。三点ユニットバスもあったけど、これだけは異世界より高水準かな。冬場はなかなかお湯が出ないし、温度調節が難しいけど。
薄い壁は防音効果も断熱効果もなくて、同じような生き物が同じような時間にひっそりとした物音を立てる、孤独ではないが触れ合うこともない安心感付き。
最寄り駅まで徒歩三十分。同じような生き物が同じような時間に世を忍ぶようにひっそりと出勤していく、孤独ではないが触れ合うこともない安心感込み。
これでなんとお家賃五万円ぽっきり。やったね。
やったね……。
ともあれ、他に何か要るのか私にはちょっとわからない。
ほとんど家にいる時間ないのに何で物が要るのか理解できない。家にいたとしてもやる事なんて寝るか専門書読むかパソコンに向かってネトゲしてるかだし、何が要るというのか。
でもこの世界の人間にとって文化的で最低限度の生活というのは、週に一度は観劇に行ったりとかそういうレベルの話らしい。何人だよお前ら。異世界人だよ。二重の意味で。
まあ、しかし、これもまた一つの。冒険か。
嬉々として部屋の模様替えをするリリオと、それを楽しそうに手伝うクナーボを眺めながら、私はごろりとベッドに横たわる。
冒険屋、冒険屋ね。人生に飽いた幽霊の転職先としてはまあ、悪くないかもしれない。
冒険屋事務所。
それが私の新しい職場だ。
用語解説
・用語解説
与太話のこと。
前回のあらすじ
冒険屋見習いとして事務所に所属することになったリリオとウルウ。
旅はまだ始まったばかりだ。
メザーガ冒険屋事務所に冒険屋見習いとして所属するようになってから早一月がたちました。季節はもうすっかり夏といった感じで、氷菓が恋しくなる頃合です。
私とウルウはすでに何度も依頼をこなし、もうかなり熟練の冒険屋としての風格を見せつけているような気がします。例えばそう、ドブさらいとか、店番とか、迷子の愛玩動物探しとか、迷子のおじいちゃん探しとか。
「なんか違いませんかこれ!?」
「何をいまさら」
そりゃあ、冒険屋が華々しい仕事ばかりではないというのは知っています。むしろ地味で誰もやりたがらないような仕事ばかりだというのも。
でもそれにしたってこういう仕事ばかり回ってくるというのはおかしくはないでしょうか。事務所の先輩冒険屋たちは魔獣や害獣の駆除なんかも請け負っているというのに、私たちはいつまでたってもドブさらいや店番や迷子のペット探しや迷子のおじいちゃん探しです。
そりゃあそういうのも大事なお仕事ではあるでしょうけれど、でもそういうのは大概依頼料も安いし、さらに見習いということで、授業料という形で事務所にいくらか天引きされてるんですよこっちは。
「おちんぎん欲しいんですよこっちは!」
「やめろ」
即戦力という言葉はどこに行ったのでしょう。
ぐぬぬ。
休日を頂いたけれど遊ぶお金もないので、《こんばっと・じゃーじ》を着て寝台の上でごろごろと悶えていましたが、ウルウは別に気にもしていないようで、同じように寝台に寝そべったまま何やら分厚い本を読んでいます。
「ウルウは不満に思わないんですか?」
「『こういう事は、きっと誰かがどうにかしてくれると誰もが無責任に思ってやがる。当事者でさえ誰かどうにかしてくれと願うばっかりだ。その誰かが冒険屋なんだ。その誰かが俺達なんだ。何せ俺達は、誰が言うでもないのに冒険したいなんて酔狂なんだからよ』」
「そうは言いますけどねえ」
ウルウがちらとこちらを見て諳んじて見せたのは、おじさんことメザーガの語る冒険屋論でした。はやく冒険したいと願うクナーボも同じ文句で誤魔化されていますけれど、私は誤魔化されません。それなら先輩方がそういう私たちもしたくないドブさらいとか店番とか迷子の愛玩動物探しとか迷子のおじいちゃん探しとかすればいいのに。
そもそもウルウに不満がないのは、もっぱら後ろをついてくるだけでほとんどの仕事を私がしているからなのではないでしょうか。いくらウルウ贔屓の私としても、さすがにちょっとは不満も溜まってきます。
私がぷんすこしていると、ウルウはのっそりと体を起こして、面倒くさそうに私を見ました。
「第一、そんなに稼がなくてもお金はまだいっぱいあるじゃない」
それは、まあ、そうです。遊ぶお金もないとは言いましたけれど、実際のところ霹靂猫魚狩りで頂いた報酬はまだかなり余っていますし、ウルウから預かった金貨も換金は済んでいないものの相当な額になりそうです。
しかしあれらは今後のためにも取っておきたい大事な軍資金です。
それに本音を言えばおちんぎんよりやっぱり冒険したいのです。
「私からすれば大分冒険してるんだけど」
「そうですか?」
「ペット探しとか」
「あー」
そういえば、ウルウは迷子のペットをかなり物珍しがっていました。
先日請けたのはお金持ちの商人の娘さんが、ペットの犬が迷子になってしまったので探してきてほしいとの依頼だったのですけれど、ウルウは犬を見たことがなかったのか、「これが犬?」と首をかしげていました。
まあこういう愛玩犬というものは、私の愛する牧羊犬とは違ってちょっと頭の足りない子ですからね、ウルウが困惑するのもおかしくありません。
この件で探したのは、八つ足のふわふわとした毛長種の犬だったのですけれど、人懐っこく誰にでものしかかって甘えるので、下町で可愛がられているところを発見しました。
ウルウは犬に慣れていないのか最初は思いっきり怖がっていましたが、ふわふわとした毛並みにのしかかられてその毛並みを堪能しているうちに、「あーむり、これはむり」と毛の中に沈んでいきました。あれは貴重な光景でしたね。
でも私にはあまり物珍しくもないので、そろそろ飽いてきました。依頼報酬のついでに感謝のしるしとして氷菓をご馳走してもらえたのは嬉しかったですけれど。
私たちがそのようにのんべんだらりとしていると、ノックの音がして、クナーボが顔を出しました。
「あ、お二人ともいらっしゃいますね。おじさんがお呼びですよ」
はて、なんでしょうか。
私たちが着替えて寮から事務所に向かうと、おじさん、じゃなかった、メザーガがデスクで書類を仕分けているところでした。
「おう、来たか。調子はどうだ」
「相変わらずですよ。そろそろ錆びちゃいそうです」
「だろうと思ってな」
おじさんは苦笑いを浮かべながら、書類を繰る手を止めました。
「ようやく先方の都合がついてな」
「先方?」
「お前、この前の霹靂猫魚で随分やられただろう」
まあ、そうです。私自身のダメージは全然残らなかったのですが、さすがに焼けて焦げ付いた鎧なんかはそのままだったのです。使用するのに問題はありませんが、やはり見栄えはよろしくないです。
「耐久性も不安だし、何しろ見すぼらしいと客も不安がるんでな、修理を頼んでいたんだ。それがようやく都合がついたのさ」
なんと、そのようなことを考えていたようです。
というかそういうことを全然思いつかなかった私がポンコツなのでしょうけれど。
「ついでに新調できるものがあれば見てもらうといい。俺のなじみの店だ。頑固だが、腕はいい」
そういってメザーガが放ってきた紙片を受け取れば、簡単な地図と、店の屋号が書いてありました。裏書にはメザーガのサインも。
その地図を頼りにやってきたお店というのが、鍛冶屋街にある一軒の鍛冶屋でした。
「―――――」
「え!? なんですって!?」
何かぼそぼそと言っていたウルウは、首を振って耳を押さえました。言いたいことはわかります。
街を貫く川沿いにある鍛冶屋街は、利便から言って川の傍に張り付く形で伸びているのですが、なにしろともすれば川向いからも聞こえる騒がしさです。槌を打つ音、何かを削る音、職人たちの怒号、そういったものが入り混じってかなりの喧騒です。
もともと声の小さなウルウの言葉はまるで聞こえません。
でも不思議なことに、こういうところは少しもすれば慣れてしまって、互いの言葉をうまく拾えるようになってくるのです。
私たちは少しの間、耳を慣らすために、そして物珍しさから鍛冶屋街を歩き回り、そうして程よい頃合を見計らって目的の鍛冶屋に入りました。
看板には傘に鉄床の絵。《鍛冶屋カサドコ》というのがその店の名前でした。
用語解説
・おちんぎん
誰もが欲しがる魅力のあいつ。
前回のあらすじ
ドブさらいに店番、迷い犬に迷いおじいちゃんの捜索に疲れた人生に迷うリリオ。
耳が壊れそうなほどやかましい鍛冶屋街を抜けて、鍛冶屋へと訪れた二人であった。
予想はしていたことだが、冒険屋稼業というのはまあ地味なものだった。
名前こそ派手なものだが、事務所まで出して安定した仕事を受注するためには、便利屋と名乗った方がいいような細々とした仕事を受けていくほかにないだろう。もちろん、害獣の駆除といったいわゆる冒険屋らしい仕事というのも多いだろうが、それはきちんと信頼と実績のあるベテランが請けるべき仕事で、少なくとも私たちのようなペーペーが請ける仕事ではない。
実力はあるのに、とリリオはぼやいているが、なにしろエクセルや計算能力のように数字で出せるようなものではない。こいつはこれこれこういう仕事をこなしたんですよという実績を積み重ねていかなければ、顧客の信頼は得られないだろう。私たちにはそれが圧倒的に足りない。
それに、リリオには悪いが私にはどの仕事も新鮮だった。
例えばドブさらい。運河から延びる水路や、下水道に詰まりそうになっているドブをさらうのだが、これがなかなか面白い。そりゃあドブだから汚いし臭いのだが、水路のつくりや下水道など、立ち入ることのできる範囲だけだが、興味深い作りをしている。管理人などに聞いてみても、とても古いもので詳しいことはわからないという。これは古代文明とか古代遺跡とかそういうファンタジーの匂いがするではないか。
また店番。大抵雑貨屋のかみさんが産気づいたとか、老店主がぎっくり腰やったとか、また酒場で人手が足りないから給仕をとか、そういった事情から任されるのだが、様々な種類の店の裏側がのぞけてちょっと楽しい。見たことのない商品に触れることもあるし、そういった商品の値札などを見て字も覚えられる。
迷子のペット探しは、これはかなり驚かされた。犬を探してほしいという依頼なのだが、似姿を描いた紙を寄越されてみてみれば、絵が下手なのかどうもモップにしか見えない。実際に探しに行ってみれば、見つけたのは何と毛むくじゃらの大蜘蛛である。それも本当に犬ほどのサイズのある蜘蛛で、見た瞬間悪寒が走るレベルだった。
しかしこれは随分人懐っこいうえに、ふわふわの毛むくじゃらのせいで思ったほど蜘蛛らしくはなく、八つ足の犬と言えば確かに犬だった。むしろ慣れてくると愛らしくさえあって、私はふわふわの毛並みにおぼれかけてしまったほどである。
犬というのはみな八つ足なのかと聞いてみれば、四つ足もたまにいると聞いたので、どうもちゃんとした犬もいるにはいるようだが、少数のようだ。
では猫も八つ足なのかと聞けば、怪訝そうに猫は四つ足に決まっていると返されてこちらが首を傾げた。
「八つ足の猫なんて気持ち悪いじゃないですか」
「ああ、うん……?」
「まあ可愛いは可愛いですけど、私は断然犬派ですね」
「猫っていうのは、いわゆる猫でいいんだよね?」
「はあ、まあそうですけど?」
きちんと聞けば、私の知る猫と一緒だった。絵もかいてみたが、相違ない。
「まあ猫はどこにでもいますよ。飼ってたり、野良だったり。ウルタールを通ってどこにでも住み着きますからね」
「どこだって?」
「ウルタールです」
よくわからない話だったが、まあ猫はもともとよくわからない生き物だ。そういうものなのだろう。
ある日、メザーガに呼び出されて話を聞いてみれば、いままでいわゆる冒険的な仕事を寄越さなかったのは、実績がないのもあるが、見すぼらしさにあったらしい。この前の戦闘で随分鎧が傷ついたから、確かにこのなりの冒険屋にたいそうな仕事は頼めない。
私の方は無傷だが、こちらはこちらであまり強そうな外見ではないから、依頼もしづらかろう。
メザーガのなじみだという《鍛冶屋カサドコ》とやらに出向いてみれば、待ち構えていたのは四つ腕に四つ足の、土蜘蛛とかいう種族の女だった。
どっかりと腰を下ろして、ぷかぷかパイプをふかしながら新聞らしき紙束を覗き込んでいる姿は、まあ四十から五十くらいといった年頃で、前に見た足高という氏族の男よりもがっしりとした体つきで、立てば背丈もそれなりにありそうだった。
腕も前後で作りが違い、前の腕は少し細めで指が長く器用そうで、後ろの腕はかなり太く、力仕事に向いていそうだった。
それとなくリリオを見れば、小さく頷いて教えてくれた。
「彼女は地潜という氏族ですね。土蜘蛛と言えば地潜という位、代表的な氏族です。鍛冶が得意で、山の神の加護を強く受けています」
「ついでに別嬪で腕自慢だよ」
リリオの説明を受けていると、その地潜という氏族の女性は、がさがさと新聞をたたんで、私たちをじろりと見やった。
「なんだいなんだい細っこいのにちんまいのが入り口でこそこそと」
「すみません。メザーガの紹介で来ました」
「誰だって? メザーガ? ああ、そういやそんな話だったね。さあさお入り」
カサドコと名乗った彼女は、非常に繊細な彫り物のなされたテーブルを乱雑に引きずって出してきて、これまた優美な彫り物のなされた椅子を適当に放り出して勧めてきた。
座り心地も素晴らしい椅子に腰かけると、少しして奥から小柄な土蜘蛛の青年が、柔らかな微笑みとともに豆茶を出してくれた。
「ん、うまい」
一口飲んでみれば、豆がいいのか焙煎がいいのか、それとも淹れ方がいいのか、こう言っては悪いがクナーボの淹れたものより、好みだ。
「そうだろうそうだろう。うちの妻は鍛冶はそんなだが、家事に関しちゃ他所様に自慢できる腕前でね」
ちらとリリオを見れば、一つ頷いて。
「土蜘蛛は基本的に女性の方が体格もよく力も優れて、男性は小柄で器用な方が多いんです。人族とは逆に男性が妻として家の事を仕切ることが多いですね」
なるほど。種族でそういう点も異なるわけだ。八つ足に八つ目と言い、土蜘蛛というのは蜘蛛に似た種族であるらしい。
「それでなんだっけ。鎧を見てほしいんだったね」
「そうです。革鎧なんですが」
「なあに、うちは金物より革の方が扱いが多いんだ。冒険屋は、革鎧を好むからね」
聞けば、騎士は金の鎧を、冒険屋は革の鎧を好むという。というのも、人間を相手にするより魔獣や害獣を相手にする事の多い冒険屋にとっては、防御力より敏捷性が大事であるから、動きやすく軽い革鎧の方が人気であるという。
それに魔獣の素材を多く手にする冒険屋は、下手な金属鎧より優れた革鎧を着こむことも多いという。
リリオが袋に入れて持ってきた鎧を私と、カサドコは片眉をぐいっと持ち上げて、感心したように鎧を検めた。
「ほーうほうほう、こいつは飛竜革じゃないか。それも白。珍しいねえ。ちんまいの、あんた辺境出かい?」
「ええ、成人の儀でこちらへ」
「そりゃあ、こんなにいい鎧を着れるわけだ」
「直せますか?」
「舐めるんじゃないよ、と言いたいとこだが、ずいぶん焼けちまってるねえ。なにとやりあったんだい?」
「霹靂猫魚の主と取っ組み合いになりまして」
「大きく出たねえ……いや、まてよ。そういやあ、ずいぶんデカい霹靂猫魚が先月売りに出てたね」
「多分それです」
「はー、そいつはまた、そりゃあこんなにもなるよ」
カサドコはしばらく頷きながら細い方の手で鎧を丁寧に調べて、それから顎をさすりながら唸った。
「随分いい仕立てだ。いい鎧だね。術の強化もある。下手に弄れないねえ」
「せめて見た目だけでもなんとかなるといいんですけれど」
「うーん……これなら、そうだねえ、表を少し削って、安く出回った質のいい霹靂猫魚の素材があるから、幾らか張り加えて強化したらどうだろうかね。そりゃあ飛竜の革と比べたらいくらか強度は落ちるけど、でも霹靂猫魚の革はしなやかだし、雷精にも水精にもよく耐える。滑りもいいから、下手な刃なら表面ではじけるだろう」
「それでお願いします」
リリオは深く考えていない風にそう答えたが、これは単にモノを考えていないというのでなく、職人への信頼と、紹介したメザーガへの信頼からのものだろう。リリオは直観的に行動するきらいがあるが、それは往々にしてよい方へと導いていく。
「活きのいい霹靂猫魚があったら、いい鎧になりますか」
「そりゃ、採れたての方が、加工の時間はかかるとはいえ、鎧に合わせて加工できるからね、そのほうがいいさね。これから獲ってくるってのかい?」
「いえ、手持ちが」
「ほう、《自在蔵》か……お、こいつはまだ生きてるのか! すごいもんだねえ!」
私はせっかくなので、以前獲っておいた霹靂猫魚の最後の一匹を取り出して渡した。あの時、実は四十匹とっていた。三十八匹は卸して、一匹は教わりながら自分でさばいてみた。そしてこれが最後の一匹だ。
「こいつはサシミが美味いんだ。丸まる寄越してくれるなら、安くするよ」
「構いません」
「よしきた。おーいイナオ! 今晩は猫魚だ!」
「お酒を買っておくね」
「うん、うん。そうだ、それにレドの奴がいま手が空いてただろう」
「革細工の?」
「そうそう、そいつ。そいつも晩飯に誘おう。あいつはサシミが好きだからな、鎧の細工を、手伝ってもらおう」
「じゃあお酒も、いっぱい買っておこう」
「うん、うん、頼んだよ」
カサドコは実に嬉しそうに霹靂猫魚を受け取って、イナオという妻の青年に渡してほくほく顔だ。
「よーしよしよし、私は機嫌がいいんだ。剣はどうだい? 見てやるよ」
「剣は大丈夫だと思いますけど、どうでしょう」
「こいつはなんだ? ふーむむ……蟲の甲か? 随分硬い。だがしなやかだ」
「大具足裾払の甲殻から削り出しました」
「へーえ! こいつがねえ! あたしも見るのは初めてだ。聖硬銀より硬いってのは本当かい?」
「聖硬銀の剣で切りかかって折れたという話は聞きます」
「さすがにこいつはアタシも歯が立たない。でも柄が少し緩んでるね、こっちは直してやれるよ」
「お願いします」
どうやらリリオの装備ってのは、私が思っていたよりもすごいものばかりらしい。
この世界のアイテムの価値は判断できないところが多いので、この世界の住人の基準がわかる機会っていうのは大事にしていきたい。
「あんたはどうするね?」
「フムン」
私の装備も聞かれたが、どうしたものだろう。ぶっちゃけ使う機会が全然ないので痛みようがないんだよね。
「……新しい武器が欲しいんだけど」
「どんな武器だい」
「手加減が楽な……うっかり殺してしまわないようなやつ」
カサドコは私のつたない説明にまゆを上げ、そしてリリオを見やった。
「えーと、ウルウは恩恵が強いんですけど、あんまり喧嘩慣れしてないので、加減が苦手なんです」
「成程ね。いまは何を使ってるんだい?」
何をと言われても困った。主武装があれだからなあ。
一応取り出して渡してみると、妙な顔をされた。
「……何の冗談だい?」
「それが、私の武器」
「武器ったって……縫い針かなんじゃないのかいこれ」
《死出の一針》。指先でつまむのが精いっぱいの小さな一針。それが私の主武装だ。
普通に刺したところで精々血が出るくらいのこれは、しかし私が使えば、相手が生きている限りほぼほぼ確実に殺すことのできる、強力な即死効果の付与された武器である。
「これじゃあ殺すことはできるけど、手加減ができない」
「…………恐ろしい馬鹿なのかい? 恐ろしい殺人狂なのかい?」
「恐ろしい手練れではあるんです」
「はー……」
カサドコは下手な冗談でも聞いたような顔で掌の上で《針》を転がし、そうしてうっかり落として慌てて取り上げようとして、動きを止めた。リリオもそれを凝視した。私もちょっと驚いた。
鉄床に抵抗なくすとんと根元まで刺さった針を見れば誰だってそうなると思う。
持ち手に膨らみがなければ多分貫通してどこまでも落ちていったと思う、これ。
「……冗談じゃないみたいだね」
「この通り私はいつも真面目だ」
「悪い冗談みたいな顔しやがって」
カサドコはまるで抵抗なく鉄床から《針》を引き抜いて、それから奇妙なメガネのようなものを取り出してかけると、まじまじと観察し始めた。
「あれなに?」
「鑑定用の眼鏡ですね。装備に付与された術式や加護を読み取るようにできているそうです」
便利なものだ。私も欲しいと呟いてみたら、目が飛び出るような値段を告げられた。ちょっと手が届かない。ゲーム内通貨を換金すれば買えるだろうけど。
「……なんだいこりゃ。なんだいこりゃあ」
「どうしたんですか?」
「こんなのは初めてだね。表示が読み取れないんだ」
じろじろと《針》を眺める姿をぼんやりと見ながら、私は何となくその理由を察した。多分、日本語で書いてあるんだろう。しかしそれを言ってもいいことはない。
「そろそろ返してもらっても?」
「あ? あ、ああ、そうだね、うん。アタシにはどうにもできんね、こりゃ」
《死出の一針》を返してもらってすぐにしまいこむ。なくしやすそうで怖いんだよねこれ。
他に使えそうな武器はどんなのがあるかと聞かれたけど、武器なんて使ったことがないので、素手と答えてみたら、リリオが何度もうなずいていた。「よく頭蓋骨をつぶされそうになります」などという。私が全力でアイアンクローかましてもびくともしない石頭が何を言いやがる。
「それじゃあたしにゃどうしようもないよ。拳鍔でもいるかい?」
何かと思って見せてもらったら、メリケンサックだった。リリオへの突込み用に買おうかと思ったが、全力で首を振られたのでやめておいた。
結局、リリオの装備だけ直してもらうことにして、その間の代用として数打ちの剣を一振り借りて、我々は店を後にしたのだった。
用語解説
・猫
ねこはいます。
・ウルタール
ウルサール、ウルサーなどとも。遠い地。歩いて渡れぬ隣。夢野の川の向こう。猫たちのやってくるところ。
・地潜
土蜘蛛と言えば人が想像する、代表的な種族。山に住まうものが多く、鉱山業と鍛冶を得意とする。種族的に山の神の加護を賜っており、ほぼ完全な暗視、窒息しない、鉱石の匂いを感じるなどの種族特性を持つ。
細工の得意な小さめの「掴み手」と頑丈で力の強い「掘り手」に腕が明確に分かれており、足腰ががっしりとしている。
酒を好み、仕事以外にはやや大雑把。
・聖硬銀
正確には銀ではない。古代王国時代に作られた特殊な金属で、非常に頑丈。現代では限られた工房でしか再現できていない。
・鑑定用の眼鏡
魔道具。品物にかけられた魔術や呪いを読み解くもの。専門家でないと表示の意味は正確にはわからない。
前回のあらすじ
鍛冶屋に鎧と剣を預けたリリオ。
内緒と言っていたサシミの秘密が鍛冶屋にもばれている件。
カサドコさんに装備を預けて数日間。これはとても長い数日間でした。
何しろ楽しみで楽しみで。ウルウはこの手の感覚に全く理解がないのですが、装備を新調した時というのは胸がわくわくしてたまらなくなるものなのです。
なので、私はその日になるや否や、ウルウ曰く「犬のように」駆けだしてお店に向かったのでした。
相変わらず騒がしい鍛冶屋街の喧騒に耳を慣らし、《鍛冶屋カサドコ》の戸をくぐると、カサドコさんが待っていましたとばかりに仕上がった鎧を置いて待っていました。
「よう、よう、よう、待たせたね」
「待ちました!」
「待たせただけの仕上がりにはなったよ」
鎧を渡す前に、カサドコさんは一人の男性を紹介してくれました。人族の男性で、腰の曲がったかなりのお年寄りですが、指先はとても繊細に動き、目元も力強く光っています。
「レド爺さんだ。革細工の店を出してて、あたしもよく世話になる」
「初めましてお嬢さん。レドだ。あんたの鎧の術式を刺させてもらったよ」
なんでもカサドコさんは、革をなめしたり鎧の形に仕上げたりということは得意だそうですが、術式などの絡む細かい刺繍はいつもレドさんに依頼しているとのことでした。年は離れたお二人でしたが、お互いの技術に対して信頼があるようで、仕上がりはしっかりと調和がとれています。
お二人が仕上げたという鎧は、大まかなデザインは以前のものをそのまま踏襲しているようでしたけれど、ところどころに霹靂猫魚のものと思われる革が鋭く黒いラインを描いており、より鋭角な印象を与えるようになっていました。
いままでの白一色の革鎧が、美しくはあるもののどこか曖昧な色彩だったことに比べて、輪郭がはっきりとして、地に足の着いたような印象があります。
「飛竜革の強度を落とさないように、霹靂猫魚の皮革は織り上げて靭性を高める方向で仕上げてある。衝撃に対してしなやかに受け止めるようになっているはずだ」
「術式に関しては、何しろ鎧自体の強度はこれ以上ないからね、耐性を上げる方向で仕上げてみた。雷精と水精にたいして親和性と耐性がかなり上がっておる。風精との親和性も全く落ちていないと確信しておるよ」
これは素晴らしいことでした。
いままでは風精に対する親和性が高かったのですけれど、他に関しては強度に頼るばかりでした。しかし、珍しい雷精はともかく水精に対する親和性と耐性が増したのはありがたいことです。
「水精に対する親和性ということはもしかして」
「空踏みのことだろう。あんたの練習次第だが、うまく合わせれれば水踏みもできるようになるだろうね」
「楽しみです!」
「さすがに水中呼吸の術式まではつけとらんから、おぼれないようにだけ気をつけてな」
「はい!」
空踏み、つまり風を蹴って走る技は、何しろ相手が軽い風なのでもって数歩くらいでしたけれど、重たい水ならあるいは川を渡るくらいはできるようになるかもしれません。楽しみです。
「剣に関しては、刀身に関しちゃ我々でも手におえんかったが、柄巻きに霹靂猫魚の雷繊を織り込んだ皮革を使い、放電の術式を刺しておいたよ」
「ほうでん?」
「雷を出すってことさ」
「おお!」
つまりそれは、剣に魔力を流し込めば霹靂猫魚のように雷を放てるということでしょう。
「まあお嬢さんの魔力次第だが、刀身にまとわせるくらいは簡単だろう。鉄の武器を使う相手には厄介な武器に仕上がったと思うよ」
「ありがとうございます!」
これは人相手だけでなく、魔獣や害獣相手にも素晴らしい効果を上げることでしょう。なにしろ雷を受けたことのあるものはそうそういないでしょうから。また、雷を受けると放心してしまうことは身をもって体験しましたから、余り傷つけずに素材を得るにも役立つことでしょう。
「早速身に着けてみようじゃないか」
「ええ、ええ、すぐにでも!」
早速私は、カサドコさんに手伝ってもらって鎧を着こみました。そしてその都度、鎧の各所に付け足された改良部分を説明してもらい、着心地に違和感はないか、どこか擦れるようなところは無いかを確かめてもらいました。
いくらかの調整を済ませて、剣を腰に帯びると、なんだか自分が立派な一人の冒険屋になったような気分で誇らしくなります。
「どうですウルウ! 似合いますか!?」
「え? ああ、うん、いいんじゃないかな」
「興味!」
「ないね」
「もう!」
面白いものを触らせてもらったし、とずいぶん安くしてもらったお代を支払い、私たちは事務所へと足取り軽く向かいました。正確には足取りが軽いのは私だけで、ウルウはいつも通りですけれど。
「うう、早く試し切りしたいです」
「そのセリフすっごく危ない気がする」
「辻斬りなんかしませんよう」
「そう祈るよ」
ルンルン気分で事務所までたどり着き、そして私は思わず回れ右してしまいそうになりました。
「どうした」
「え? えーと、なんでしょう」
何かはわかりませんが物凄く嫌な予感がします。
こういう時の私の勘はよく当たるのですけれど、しかし嫌な予感がするからという理由で避けようにも、目的地がここなので避けようがありません。
私はしばらくうんうんと唸って、それでもどうしようもないものはどうしようもないので、しかたなく事務所に入り、執務室のドアを恐る恐る開けました。
「ただいまもどりま」
「おっぜうさまっ!!!」
いやな予感、的中です。
甲高い叫び声が執務室の中から襲い掛かり、咄嗟にしめそうになったドアががっしりと押さえつけられ、私は室内に引きずり込まれました。
「よーうやっく見つけただよおぜうさま! いったいひとりでどーこまでほっつきまわりよっとですか!」
私が逃げられないように首根っこを掴み上げて、見慣れた姿が耳元で怒鳴りつけてきます。
「もう成人だっちうのにいい年してなーに子供みてな真似さしてっだ! おらァもうさんざっぱらあっちゃこっちゃ探し回ったんだど! ほだら一人でこげなとこまで! はーもう御屋形様になんてお詫びしたもんか!」
「せ、せからしかぁ! 耳元で叫ばんといてん!」
「はんかくしゃあ真似すっかい、がられるんだべさ!」
「おらァ一人でんでぇじょぶだって何度も言っとうが! 国さ帰れ!」
「おぜうさま残して帰るわけにいかんべや! 帰るなら一緒だべさ!」
「だ、誰が帰るかい、まだなんもしとらんべさ! やっとこさ冒険屋さなったんだど!」
ぎゃいぎゃいと怒鳴りあっている後ろでウルウが目を白黒とさせていることにも気づかず、私たちはしばらくそうして取っ組み合いを演じたのでした。
用語解説
・革細工の店
普通、鍛冶屋はすべての作業を一人で行うことはない。研ぎは研ぎ師に、柄は柄師にと仕事が分担されている。
・空踏み/水踏み
それぞれ空気を踏んで歩く技と、水を踏んで歩く技。達人は空を一里は走ることができるというし、伝説には海を渡ったものもいるという。
・水中呼吸の術式
水精の加護を得れば、水中で呼吸が可能になる。そう言った魔道具もあるし、自前で術をかけられる魔術師もいる。
・おっぜうさまっ!!!
訳:お嬢様!!!
・よーうやっく見つけただよおぜうさま! いったいひとりでどーこまでほっつきまわりよっとですか!
訳:ようやく見つけましたよお嬢様! いったい一人でどこまで行っていたんですか!
・「もう成人だっちうのにいい年してなーに子供みてな真似さしてっだ! おらァもうさんざっぱらあっちゃこっちゃ探し回ったんだど! ほだら一人でこげなとこまで! はーもう御屋形様になんてお詫びしたもんか!」
「せ、せからしかぁ! 耳元で叫ばんといてん!」
「はんかくしゃあ真似すっかい、がられるんだべさ!」
「おらァ一人でんでぇじょぶだって何度も言っとうが! 国さ帰れ!」
「おぜうさま残して帰るわけにいかんべや! 帰るなら一緒だべさ!」
「だ、誰が帰るかい、まだなんもしとらんべさ! やっとこさ冒険屋さなったんだど!」
訳:「もう成人だというのにいい年して何を子供みたいな真似をしているのですか! わたくしはもうずいぶんあちこち探しまわったんですよ! そうしたら一人でこんなところまで! ああもう御屋形様に何とお詫び申し上げたものか!」
「う、うるさいなあ! 耳元で叫ばないで!」
「ばかげた真似をするから、怒られるんですよ!」
「私は一人でも大丈夫だって何度も言ってるでしょ! 国に帰って!」
「お嬢様を残して帰るわけにいかないでしょう! 帰るなら一緒ですよ!」
「だ、誰が帰るもんですか、いまだなにもできてないのに! やっと冒険屋になったのよ!」