美しいガラスの彫刻が多数施されたファサード前に静かに着陸した二人は、顔を見合わせ、ゆっくりとうなずきあう。

 二人は玄関へと歩いていく。ガラスづくりなので中は丸見えである。どうやら広いロビーになっているようで、誰もおらず、危険性はなさそうだった。

 玄関の前まで行くと、巨大なガラス戸がシューッと自動的に開く。そして、広大なロビーの全貌(ぜんぼう)が露わになる。それはまるで外資系金融会社のオフィスのエントランスのようなおしゃれな風情で、二人は思わず足を止めた。

 大理石でできた床、中央にそびえるガラスづくりの現代アート、皮張りの高級ソファー。その全てがこの星のクオリティをはるかに超えている。

「こ、これは……、す、すごいですわ……」

 ベネデッタは見たこともない、その洗練されたインテリアに圧倒される。

 もちろん、トゥチューラの宮殿だって豪奢で上質な作りだったが、魔王城は華美な装飾を廃した先にある凄みのあるアートになっており、この国の文化とは一線を画していた。

 魔王って何者なんだろう?

 ベンは眉をひそめ、ガラスの現代アートが静かに光を放つのを眺める。

 コツコツコツ……。

 靴音の方を見ると、タキシードを着込んだヤギの魔人が歩いてやってくる。首には蝶ネクタイまでしている。

 そして、うやうやしく頭を下げながら言った。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 二人は怪訝そうな顔で見つめあったが、ヤギの所作には洗練されたものがあり、敵意はなさそうだった。うなずきあい、ついていく。

 ヤギの案内した先はシースルーの巨大なシャトルエレベーターだった。こんな立派なエレベーター、日本でも見たことが無い。二人は恐る恐る乗りこんでいく。

 扉が閉まってスゥっと上品に上昇を始める。うららかな日差しが差し込み、外には幻想的な岩山が並んでいるのが見えた。この風景を含め、魔王城はアートとして一つの作品に仕立てられたのだろう。

 エレベーターなんて初めて乗ったベネデッタが、不安そうな顔をしてベンの手を握ってくる。ベンはニコッと笑顔を見せて彼女の手を握り返し、優しくうなずいた。


 チーン!

 最上階につくと、

「こちらにどうぞ」

 と、ヤギに赤じゅうたんの上を案内され、しばらく城内を歩く。

 廊下の随所には難解な現代アートが配され、二人は神妙な面持ちでそれらを見ながら歩いた。

 ヤギは重厚な木製の扉の前に止まると、コンコンとノックをして、

「こちらでございます」

 と、扉を開く。

 そこは日差しの差し込む明るいオフィスのようなフロアだった。

「えっ!? ここですの?」

 ベネデッタは驚いて目を丸くする。

 ウッドパネルの床に観葉植物、上質な会議テーブルにキャビネット、そして天井からぶら下がる雲のような優しい光の照明、全てがおしゃれで洗練された空間だった。

 見回すと、奥の方にまるで証券トレーダーのように大画面をたくさん並べて画面をにらんでいる太った男がいた。

「え? あれが魔王?」

 ベンはベネデッタと顔を見合わせ首をかしげた。

 魔物の頂点に立つ魔王が、なぜ証券トレーダーみたいなことをやっているのか全く理解できない。

 恐る恐る近づいていくと、男は椅子をくるっと回して振り返った。そしてにこやかに、

「やぁいらっしゃい。悪いね、こんなところまで来てもらって」

 と、にこやかに笑う。丸い眼鏡をした人懐っこそうな魔王は、手にはコーラのデカいペットボトルを握っている。

「コ、コーラ!?」

 ベンは仰天した。それは前世では毎日のように飲んでいた懐かしの炭酸飲料。それがなぜこの世界にあるのだろうか?

「あ、コーラ飲みたい? そこの冷蔵庫にあるから飲んでいいよ」

 そう言って魔王は指さしながらコーラをラッパ飲みした。

 ベンは速足で巨大な銀色の業務用冷蔵庫まで行ってドアを開けた。中にはコーラがずらりと並び、冷蔵庫には厨房用機器メーカー『HOSHIZAKI』のロゴが入っている。

 ベンは唖然とした。異世界に転生してすっかり異世界になじんだというのに、目の前に広がるのは日本そのものだった。

 トゥチューラでの暮らしは、良くも悪くも刺激のない田舎暮らしである。秒単位でスマホから流れ出す刺激情報の洪水を浴び続ける日本での暮らしと比べたら、いたってのどかなものだ。しかし、今この目の前にあるHOSHIZAKIの冷蔵庫は、日本での刺激あふれる暮らしの記憶を呼び起こし、ベンは思わずブルっと震えた。

「これは何ですの?」

 ベネデッタが追いかけてきて聞く。

 しかし、ベンは回答に(きゅう)した。ちゃんと説明しようとすると、自分が転生者であることも言わないとならない。それは言ってしまっていいものだろうか?

 ベンは大きく息をつくと、

「とあるところで飲まれている炭酸飲料だよ。飲んでみる?」

 そうごまかしながら一本彼女に渡す。

「炭酸……? うわっ! 冷たい」

 ベネデッタはその冷たさに驚き、そして、初めて見たペットボトルに開け方も分からず、困惑しきっていた。






27. 目覚めるベン

 二人は重厚な革張りのソファーに案内された。新鮮な革のいい匂いがふわっと上がり、座り心地も上々だった。

 ベンはコーラをグッと傾ける。

 シュワーー! と口の中に広がる炭酸、スパイシーなフレイバーが鼻に抜け、舌に広がる甘味……。ベンは思わず目をつぶり、その懐かしの味をゆっくりと味わった。そう、これ、これなのだ。日本での暮らしがフラッシュバックし、思わず目頭が熱くなる。

 最後はブラック企業に潰されてしまったが、日本でのラノベ、アニメ、ジャンクフード、それはベンの身体の一部となっているのだ。

 久しぶりに出会えたジャンクな味にベンは言葉を失い、ただその味覚に呼び覚まされる日本での暮らしを懐かしく思い出していった。

 ゴホッゴホッ!

 隣でベネデッタがせき込んでいる。

「あ、無理して飲まなくていいですよ。ジャンクな飲み物なのでお口に合わないかと」

 するとベネデッタは渋い顔をしながらコーラをテーブルに戻した。

「はははっ、いきなりコーラは難しかったかな?」

 魔王がやってきて向かいにズシンと座った。なつかしい【笑い男】の青く丸いマークのプリントされたTシャツをラフにはおり、ジーンズをはいている。

「あなたが魔物の頂点、魔王……なんですか?」

 ベンは困惑しながらも切り出した。

 すると、魔王は愉快そうに笑って言った。

「いかにも魔王だが、頂点って言うのは違うな。魔物の管理者だよ」

「管理者……?」

 ベンは何を言われたのか分からなかった。

「見てみるかい?」

 そう言うと、魔王は巨大な画面を空中に展開した。そこには広大な地図と無数の赤い点が映っている。そして、魔王は両手で地図を拡大していき、

「この点が魔物なんだよね」

 と言いながら、そのうちの一つの点をタップした。
 
 するといきなり画面は森の中の映像となり、真ん中にゴブリンがうろついている。周りにはウインドウが開き、各種パラメーターが並んでいた。その画面は日本にいた時に遊んでいたVRMMOのゲーム画面そのものに見える。

「まるで……、ゲームですね……」

 ベンは眉をひそめながら言った。

「うんまぁ仕組みは一緒だね」

 そう言いながら魔王はゴブリンのパラメーターをいじっていく。すると、ゴブリンはどんどん大きくなり、ボン! と音がして筋骨隆々としたホブゴブリンへと進化した。

 ベンは唖然とした。魔物はこうやって管理されていたのだ。なぜ魔物は倒すと消えて魔石になってしまうのだろう、とずっと不思議に思っていたが、ついに謎が解けた。魔物はいわばNPCなのだ。コンピューターシステムが生み出したキャラクターであり、生き物ではないのだ。

 だが、ここでベンは背筋にゾクッと冷たいものが走るのを感じた。NPCが居るということは、この世界は造られた世界なのではないだろうか? 言わばこの世界全体がVRMMOのようなコンピューターによって創られた世界……。

 バカな……。

 ベンは急いで自分の手のひらを見てみた。細かく刻まれたしわ、そしてそれを縫うように展開される指紋の筋、その奥の青や赤の微細な血管。それらは指が動くたびにしなやかに変形し様相を変えていく。こんな芸当ができるVRMMOなんてありえない。ベンはグッとこぶしを握った。

 しかし、ここで嫌なことを思い出す。自分は一度死んでいたのだ。死んだ者が生き返る、それは明らかに自然の摂理(せつり)から逸脱(いつだつ)した行為である。つまり、自分自身そのものが自然の法則を破っている証拠になってしまっているのだ。ベンはその事実に愕然(がくぜん)となった。

「どうした、ベン君? もう目覚めてしまったかな?」

 魔王はニヤッと笑って言う。

 ベンはうつろな目で首を振り、そして頭を抱えた。

「まぁ、目覚めたかどうかなんてどうでもいい。それより今日はお願いがあってね……」

 そう言いながら、空中を裂き、空間の裂け目からガジェットを取り出すとガン! とテーブルの上に置いた。

 それは金属の輪にプラスチックのアームがニョキっと生えたような代物だった。

「何ですかこれ?」

 ベンはそれを持ち上げてみる。金属の輪は腕時計のベルトのように一か所ガチャっと外せるようになっていた。

「それ、履いてみてくれる?」

 魔王は意味不明なことを言って、コーラをゴクゴクと飲んだ。

 はぁっ!?

 言われて初めて気が付いたが、これは言わばふんどしみたいな物だったのだ。

「ここにボタンがあってね、いざと言う時にここを押すとプラスチックノズルの先から肛門内へ薬剤が噴射されて、一気に便意が高まるという……」

 魔王が説明を始めたが、ベンは頭に血が上ってガン! とガジェットを机に叩きつけた。

「嫌ですよ! なんでこんなもん履かなきゃならないんですか!」

 顔を真っ赤にして怒るベン。

「あー、ゴメンゴメン。話を端折(はしょ)りすぎたな……。そうだ! 今晩恵比寿で焼肉の会食があるんだけど来る?」

 魔王はニコニコしながらとんでもない事を言った。もう久しく聞いていない単語【恵比寿】、【焼肉】にベンは耳を疑った。







28. スクランブル交差点

「え、恵比寿って……、東京の?」

「そうそう、君にとっては懐かしいだろ?」

 ベンは言葉を失った。

 転生してもう長い。日本へ戻るなんてことはとっくにあきらめていた。自分はトゥチューラで新たな人生を築いていくのだ、とばかり考えていたが、会食で気軽に誘われてしまった。それも恵比寿で焼肉なんて転生前でもなかなか行けなかった所である。

 ベンは手を震わせながら言った。

「そ、そ、そ、それは……ぜひ……」

「その交換条件としてこれ履いてきて欲しいんだよね。背景はその時に説明するからさ」

「え? 履くんですか……?」

 ベンはもう一度ガジェットを持ち上げてしげしげと眺める。こんな人体実験みたいなことに協力するなんてまっぴらゴメンではあるが……、恵比寿の焼肉であれば仕方ないだろうか?

 悩んでいると魔王は追い打ちをかけてくる。

「松坂牛のトモサンカク、その店の看板メニューだよ。どう?」

 トモサンカク!

 ベンはその一言で陥落した。サシの綺麗に入った希少部位。それも松坂牛ならトロットロに違いない。思わず唾が湧いてくる。

 便意を高める方法は複数持っておいた方がいいのは、ダンジョンで痛感したことでもある。こんなガジェットに頼るのは気分いいものではないが、魔王に悪意がある訳ではなさそうだ。ここはありがたくいただいておいてトモサンカクを食べた方がいい。

「分かりました。トモサンカクなら履きますよ」

 ベンはそう言って、ややひきつった顔で笑った。


       ◇


「うわぁ! 何なんですのこれは?」

 渋谷のスクランブル交差点に転送されたベネデッタは、目を真ん丸に見開き、ベンにしがみついて聞いた。

 四方八方から多量の群衆が押し寄せ、ベネデッタのそばをすり抜けていく。目の前には巨大なスクリーンがアイドルの煌びやかなライブを流し、後ろでは山手線や埼京線が次々とガ――――! という轟音を上げながら鉄橋を通過していく。

 ベンにとっては懐かしい東京の雑踏だ。

 戻ってきたぞ! 東京!

 ベンはギュッとこぶしを握り、にぎやかな街の音に胸が熱くなるのを感じる。

 ただ、見慣れないものもある。なんと、超高層ビルが何本もそびえているではないか。いつの間にこんなビルができていたのだろうか?

 やがて赤信号となり、歩行者がいなくなると今度はバスやトラック、タクシーが突っ込んでくる。

 パッパ――――!

 きゃぁ!

「こっちこっち!」

 ベンは急いでベネデッタの手を引いて歩道へと引き上げる。

 ゴォォォ――――。

 上空をボーイングの旅客機が轟音を上げながら羽田への着陸態勢を取って通過していった。そして、目の前をホストクラブの宣伝をするデコレーショントラックが爆音を上げながら通過している。

 ベネデッタは固まってしまう。幌馬車がカッポカッポと石畳の道を歩くような景色しか見てこなかったベネデッタにとって渋谷の景色は刺激が強すぎた。

「ははは、ビックリしたかな? これが日本だよ」

 ベンはにこやかに言った。

「なんだかとんでもない……街ですわ……。なぜベン君はご存じなの?」

 ベネデッタは眉間にしわを寄せながら聞く。

「それはまたゆっくり話します。まずは……何か美味しいものでも食べましょう!」

 そう言ってベンはベネデッタの手を引きながら歩きだした。

 魔王からは、
『会食までまだ時間あるから渋谷でもブラブラするといい』

 そう言われて、最新型のスマホをもらっている。これで電子決済もできるそうだからベネデッタと渋谷を満喫してやろうと思う。

 適当に喫茶店に入り、ベンはコーヒー、ベネデッタはパフェを頼んだ。

 パステル色の店内は若い人でいっぱいであり、甘酸っぱい匂いに満ちている。

 そう、渋谷ってこういう街だったよなぁ、と、ベンはなつかしさについ目を細めてしまう。


       ◇


 その頃、はるかかなた宇宙で動きがあった。

「んん? この小僧か?」

 小太りの中年男は空中に開いた画面に渋谷のベンを表示し、ジッとのぞきこむ。

 男の後ろの巨大な窓には満天の星々がまたたき、下の方には巨大な(あお)い惑星が広がっている。その碧い水平線が巨大な弧を描き、そこからはくっきりとした天の川が立ち上っていた。

「ステータスはただの一般人……、むしろ貧弱じゃな。こんな小僧使って魔王は何をやるつもりかのう……。ちょっとお手並み拝見してやるか。グフフフフ」

 男はいやらしい笑みを浮かべ、画面をパシパシと叩いていった。













29. ヒュドラ

 ベネデッタのところに運ばれてきたパフェには、虹色の綿菓子が渦を巻きながら立ち上っていて、横にロリポップが刺さっている。その極彩色の見た目にベネデッタは言葉を失う。

「あははは、なんだこれ」

 ベンは思わず笑ってしまう。トゥチューラでは絶対に見られないぶっ飛んだスイーツに、ベンは日本っていいなと改めて思った。

 ベネデッタは恐る恐るフォークで綿菓子を口に入れ、その見た目とは違った優しい甘みに笑みを浮かべる。

 百面相のように表情をコロコロ変えながらパフェと格闘するベネデッタ。ベンはそんな彼女を見つめ、癒されながらコーヒーをすすった。

 トゥチューラにはコーヒーなんてないので、久しぶりの苦みにベンはちょっとくらくらしながら、それでも懐かしの味に思わずにんまりとしてしまう。

「ベン君は、この星の人なんですの?」

 パフェを半分くらいやっつけたベネデッタが上目遣いに聞いてくる。

 ベンはコーヒーをすすり、ベネデッタの美しい碧眼を見つめるとゆっくりとうなずいた。

 ベネデッタはふぅ、と大きく息をつくと、

「ベン君は稀人(まれびと)でしたのね……」

 そう言ってうつむいた。

「黙っていてごめんなさい。シアン様に転生させてもらったんです」

 ベネデッタは長いスプーンでサクサクとパフェをつつき、しばらく考え事をする。

 そして、一口アイスを堪能すると、いたずらっ子の目をしてベンを見つめ、ニコッと笑って言った。

「わたくし、ここで暮らすことにしましたわ」

 ベンは何を言ってるのか分からず、ポカンとしてベネデッタを見つめる。

「ここ、日本でしたっけ? 活気があって、いろんな文化にあふれ、最高ですわ。もうトゥチューラになんて戻れませんわ」

 ベネデッタはそう言って店内を見回し、先進的なファッションに身を包んだ若者たちの楽しそうな様子をうっとりと眺めた。

「ちょ、ちょっと待ってください! 公爵令嬢が日本で暮らす……んですか?」

「あら? だめかしら? お父様もベン君と一緒なら認めて下さるわ」

 ベネデッタは訳分からないことを言って、パフェをまたサクサクとつついた。

 ベンは言葉を失った。一緒に日本で暮らすってどういう事だろうか? なぜ、公爵は自分と一緒なら許すのだろうか?

 ん――――?

 ベンは疑問が頭をぐるぐると回って、首を傾げたまま固まる。

 その時だった、

 ズーン!

 腹の底に響くような衝撃音が渋谷一帯を襲った。

 驚いて窓の外を見ると、建設中の超高層ビルの上で何か巨大なものがうごめいている。よく見るとそれは大蛇の首のようなものだった。その首が九本ほど、獲物を探すかのようにウネウネ動きながら渋谷の街を見下ろしていた。首は一つの巨大な胴体に繋がっており、全長はゆうに百メートルはありそうだ。

「あれは何ですの? イベントかしら」

 ベネデッタは緊張感もなく楽しそうに聞いてくる。しかし、日本にあんな魔物などいない。

「違う、緊急事態だ。逃げよう!」

 そう言って、立ち上がった時だった。

 ポン! と音がしてぬいぐるみのシアンが出てくる。

「ベン君! お願いがあるんだけどぉ」

 と、シアンはおねだり声で、ベンの前で手を合わせた。

「嫌です! さぁ、逃げましょう!」

 そう言ってベネデッタの手を引いた。

 すると、シアンは標的を変え、

「ベネデッタちゃん、日本に住みたいよねぇ?」

 と、ベネデッタに声をかける。

「えっ!? いいんですか?」

 パアッと明るい表情をするベネデッタ。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! まさかあの化け物倒すのが条件とかじゃないですよね?」

「星の間の移住なんて普通は認められないんだよ?」

 シアンは悪い顔でニヤッと笑って言う。

「なぜ、僕なんですか? シアン様が倒せばいいじゃないですか、女神なんだから瞬殺できるでしょ?」

「んー、今、僕の本体は木星で交戦中なんだな。面倒だから木星ごと蒸発させちゃおうかと思ってるんだけど……」

 シアンはそう言って小首をかしげた。

 ベンは意味不明のことを言われて言葉を失う。木星を蒸発させるようなエネルギー量なら、太陽系そのものが吹っ飛びかねないのではないだろうか?

 その時だった、

 ギュワォォォォ!

 化け物の頭九個が全部ベン達の方を向いて雄たけびを上げる。その重低音は渋谷全体を揺らし、そのすさまじい威圧感に皆、パニックになって走り出した。

「どうやらお目当ては君のようだゾ」

 シアンはニヤッと笑う。その瞳には、子供が新しい遊びを見つけた時のようなワクワク感があふれていた。











30. YES! 百億円!

「えっ!? なんで僕なんですか?」

「悪い奴に見つかったという事かな。そいつ倒したら日本への移住認めるから頑張って」

 シアンは羽をパタパタさせながら嬉しそうに言う。

「え――――、嫌ですよ。日本で暮らすってのも楽じゃないし、絶対やりません!」

 ベンは毅然として断った。ベネデッタは来たいというが、日本に来たら一般人だ。どうやって暮らしていくつもりなのか?

「百億円」

 シアンはニコッと笑って言った。

「は? 百億……?」

「日本移住時には支度金として百億あげるよ。きゃははは!」

「マ、マジですか……」

 ベンは言葉を失った。百億もあれば大きな家を買って一生のんびり暮らせる。いや、ハワイにパリにニューヨークにあちこちに別荘買って毎日豪遊。そして、マチュピチュにピラミッド、南極に観光に行けちゃうぞ。夢のようじゃないか。

 便意を我慢するだけでそんな夢のような生活しちゃっていいのだろうか?

 YES! 百億! 百億!

 ベンは思わずガッツポーズをする。頭の中には札束のイメージがグルグルと巡った。

「や、やります! やらせてください!」

 ベンはパタパタと羽をはばたかせて浮いているシアンの可愛い手を、指先でキュッとつまんで言った。ベンの目には【¥】マークが浮かんでいた。

「うんうん、じゃ、その腰のところのボタン押して」

 シアンは魔王が作ったガジェットを使えと言う。

「わ、わかりました……。これかな?」

 ベンは金属のベルトのところに丸くへこんでいるところのボタンをポチっと押し込んだ。

 バシュッ!

 プラスチックノズルから何かが噴射され、まるで強すぎるウォシュレットのように何かが肛門を越えて入ってきた。

 ふぐっ……。

 ベンは腰が引け、目を白黒させてその異様な感覚に戸惑う。

 ぐー、ぎゅるぎゅるぎゅ――――。

 直後襲ってくる強烈な便意。それは水筒浣腸などとはくらべものにならない強烈で鮮烈な便意だった。

 ぐはぁ……。

 ポロン! ポロン! ポロン! と電子音が続き、一気に『×1000』まで表示が駆けあがる。

 激しい便意に耐えられず、思わず床にへたり込んでしまうベン。

「あれ? 千倍止まりかぁ……」

 シアンは不満げに首をかしげると、ベンのベルトのところまでパタパタと飛び、ボタンをポチっと押し込んだ。

 バシュッ!

 再度強烈な噴射がベンの肛門を襲う。

 ぐわぁぁぁ!!

 悶絶するベン。

「な、何すんだこのクソ女神!!」

 ベンは床でもだえ苦しみながら悪態をつく。

 ポロン! と電子音がして、『×10000』の表示になった。

「うん、これならあの【ヒュドラ】に勝てるねっ」

 シアンは満足げに言うが、ベンは床で脂汗を垂らしながら失神寸前である。

 漏れる……、漏れる……、くぅぅぅ……。

「ベン君!」

 ベネデッタは駆け寄って介抱する。そして、手を組んで祈り、神聖魔法で何とか苦痛を和らげていく。

 シアンはもだえ苦しむベンを見ながら、

「これじゃヒュドラと戦えないなぁ」

 と、腕を組んで首をかしげる。

「ちょ、ちょっとトイレ……」

 ベンはよろよろと立ち上がる。

「ダメだよ! 出しちゃったらヒュドラどうすんのさ! 百億円は払えないよ!」

「こんなんで闘えるわけないだろ!」

 ベンは下腹部を押さえて怒る。

「うーん、困ったなぁ……」

 シアンは眉をひそめ考え込む。

 そして何か閃いて、ポン! 手を打つと、

「よし、じゃあ戦わなくていいよ。僕が何とかするから言うとおりにして」

 と言って悪い顔で笑った。

「分かった、何でもいいから早くして!」

 ベンは脂汗を垂らしながら答える。

「まず、飛行魔法をインストールしてあげよう。出血大サービスだよっ!」

 と、いいながら、シアンはベンの身体を青く光らせた。

「これで空も自由自在に飛べるはずさ」

「え? 飛べる?」

「そう。行きたい方向に意識を向けるだけで飛べるんだゾ」

 そう言いながらシアンはベンの身体を空中に浮かべ、テラスの外へと運んでいく。

「ど、どこに行くの?」

 フワフワと運ばれて焦るベン。

 シアンはロープを出すとベンの腰の金属ベルトに結び、そして、端を金属の手すりに結んだ。

「はい、ヒュドラ向けて浮いて――――」

「いや、ちょっとそれどころじゃない……」

 お腹を押さえて苦悶の表情を浮かべるベン。

 するとシアンはニヤッと笑い、

「ひゃく・おく・えん! ひゃく・おく・えん!」

 と、耳元で囃し立てた。

 くぅぅぅ……。

 ベンは歯を食いしばる。

 そうだ。百億円! 日本でFIREな暮らしを手に入れるのだ。便意ごときに負けてはいられない!

 ベンはお腹を押さえながら行きたい方向をイメージしてみた。

 身体がグンと引っ張られ、ロープがピンと張った。

「お、いいねいいね! あー、もうちょっと右!」

 シアンは片目をつぶりながら飛ぶ方向を指示していく。

「こ、こう……?」

 ベンは何をやらされているのかよく分からなかったが、言うとおりに飛行魔法を調整していった。

「いいねいいね! じゃ、全力だして、一万倍だよ!」

 は、はぁ……?

 ベンは何度か深呼吸を繰り返すと、飛行魔法に意識を集中していった。ロープはものすごい力で引っ張られてビキビキっと音を立てている。

 やがて手すりが引っこ抜けそうになるくらい飛行魔法のエネルギーがたまると、シアンは、

「じゃぁこぶしを伸ばしてー」

 と、言った。

 金属ベルトが下腹部に食い込んでいくのに必死に耐えながら、

「こ、こうですか?」

 と、息も絶え絶えにベンは答えた。

「いいねいいねー! では、いってらっしゃーい! きゃははは!」

 シアンは嬉しそうにロープを手刀でぶった切った。