【百合小説】スイソウノムコウガワ

「起きて、彩音」

 利香の声で、彩音はうっすらと目を開けた。

 水の中から外を見ていたようになっていた世界が徐々に形を取り戻して、ゆっくりと馴染みの世界になった。

「ん?」

 意図せずにそう声を上げた。自分がどうしてここにいるのかを忘れてしまった彩音は、周囲を見渡してから、やっとのことで全てを把握した。

「え、あれ?寝てたの、私」

「うん、ぐっすりと」

「ごっ、ごめん!」

 起き上がって頭を下げると、利香はその頭を抱いた。

「大丈夫だよ、逆に自然な姿が描けてよかった。最初のほうはガチガチだったからどうしようかと思ったけど、寝息が聞こえ始めてからはなんだか自然な感じで仰向けになってたから、すごく描きやすかった。何枚か描いてみたんだけど、見る?」

「うん」

 脇にある開かれたスケッチブックを渡され、中身を確認すると、この前よりもはっきりとしたものが描かれていた。

 しかし、顔だけは十字の線が描かれているだけで、表情が描かれていなかった。

「これ、なんで顔が描かれてないの?」

「今回はさ、とりあえずポージングとか決めたかっただけだし、ほら、この前言ってたセーラー服も、貸してないでしょ?」

「あ、そういえば」

「うん、だから、今回はここまで。それにほら、時間」

 部屋の隅にあるデジタル表示の時計を指差された。十八時数分前を表示しているそれを見ながら、彩音は、そっか、と呟いた。

「とりあえず今日見た感じでまた詰めてさ、今度は本格的にキャンバスに描くから。長時間になると思うんだよね。だから、今日はこれで終わり。今度は髪の毛濡らすから、ちょっと大変だと思うけど、悪いけど協力よろしく」

「うん、わかった」

 ベッドから降りて、脇に置いてある鞄を肩にかける。

「ねえ、今日のことなんだけど」

 急に、冷静になった自分がその言葉を発した。

「勿論、黙ってるよ。私も邪魔されたくないし」

「ありがと」

「玄関まで送るよ」

 他愛の無い会話をしながら、階段を下りていく。上っている時も感じたが、ここの家の階段は少し急だ。降りる時にはそれがよくわかる。前を行く利香のつむじを見て、急斜面であることを認識しないようにしていると、恐怖心が和らいだ。

 あっという間に玄関に着いてしまい、帰りたくなくなった。けれど、そんなわがままを言えるわけもなく、靴をゆっくりと履きながら、少しだけ留まる時間を増やした。

「じゃあ、また」

「うん、また」

 明日、とは言わない。

 明日、水槽の中に帰れば、自分たちは赤の他人に戻る。否が応でもそうしなければいけない。

 それに、そうしてくれと言ったのは、彩音だ。

 水槽に帰ることで、自分が自分でいられると信じてた。だけど、この数日で変わってしまった。

 あの水槽への違和感が拭えなくなっている。

 いっそのこと、水槽を飛び出して……そう考えると、心の底から恐怖が浮かんできて、冷たい血を血管の中に送り込んだ。

 玄関を開けると、風が入り込んだ。

「涼しい……もう、秋の気配って感じだね。昨日までは、夏休みだったのに」

 その言葉に、少しだけ頷いて、彩音は外へと出て行った。

 涼しくなんてない。

 血管を巡る冷たい血が体の感覚を奪っていて、それどころではなかった。だけど、彼女といたいと思った。

 だって、自分を曝け出せるから。

 彩音は風に乗るように早足で歩き出した。背にした夕日が道路の影に異形の化け物のような影を作り出している。

 手と足の長い、人間のような人間でない何か。

 それを見ながら、自分もいつか、水槽の中で腐っていったら、養分にもならずにこんな風に化け物になるんじゃないか、と彩音は心配になった。

 もう一度、風が吹いた。

 そんな心配を少しだけ和らげるような温かい風。

 少しだけほっとしながら、前を向いて歩き出すと、遠くに見える工場で鉄と鉄のぶつかる大きな音がした。
 その後の一週間は、利香と彩音はそれまでと変わらない日々を過ごした。

 ふらりと図書室に現れる利香は、絵の進捗状況を話すと、ああでもない、こうでもないと自分なりの完成図を伝えて、美術室に帰っていった。彩音がしゃべる時もあった。中身は水槽の中身への不満がほとんどだったが、それを彩音は笑いながら『めんどくさいんだねえ』なんて言いながら聞いていた。

 九月になり、夕日が落ちるのが早くなるのもあって、図書館は橙色に染まることが多くなった。暖色に包まれ、柔らかに光る部屋の中で二人の少女は、お互いを理解しあいながら、急速に親しんでいく。

 水槽という教室の中で、素直になれない彩音は、この幸福の中に溺れたいとすら思うようになっていた。すでに、水槽の中への興味は失せていて、今まで培った演技力と惰性だけで周囲と過ごしていた。

 そんな時に、彩音は夢を見た。

 水槽の中で、自分の口から出て行く無数の気泡を見ながら、目の前にあるプラスチックの壁をがんがんと叩いている。壁の向こう側には利香がいて、こちらを不思議そうに眺めている。その目は「なんでそこで苦しんでいるの?」と言っている気がした。しばらくすると利香は、浮かび上がり、目の前を優雅に泳ぎまわる。個性的な尾びれを持った魚のようにセーラー服をひらひらと翻し、夏のセーラー服から出ている細い手足を、ゆっくりと動かしながら、少しだけ自慢するように、楽しく泳いでいる。

 それを見ているだけで自分は苦しくなっていき、意識が遠のきそうになる。そんな中、利香が壁に近寄って口を動かした。

「壁なんて、無いんだよ」

 ただそれだけを告げて、唇を壁に押し当てる。それに縋るように唇を近づけたところで、彩音は決まって目を覚ました。

 何を暗示しているのか、わかっていた。

 夢は、何かを案じさせる為に抽象的な夢を見せると、どこかの本に書いてあるのを思い出す。

 そんなことはなかった。

 自分のうちにあるものが、ほぼそのまま夢となって出ているじゃないか。

 起き上がり、自分の枕元に置いてある時計を見ると、タイマーがセットしてある二分前だった。窓から風が入り込んで、寝汗で濡れているパジャマに当たり、肌寒い。

 今日も演技をしないと。

 ぼんやりとした頭で考える。

 しかし、今週を乗り切れば、明日には利香の家に行ける。今回は何時間も会えるから、楽しみだった。

 だけど、これが終われば自分たちはもう、図書室で会うことしかない。

 周囲に気を遣って、会えるのは十分程度。誰にも怪しまれないように、まるで、秘密で付き合う恋人のように、会うことしかできない。

 それに、文化祭が終われば、もう、会うこともなくなる。

 だって、自分の役目が終わってしまうのだから。

 進む時計を見ながら、彩音はこのまま時が止まってしまえばいい、そうすれば、このままの状態でいられる。変わらずにずっと、このままの関係でいられるのに、と思った。



 ああ、でもそうしたら明日も来ないから、永遠に利香とは会えないまま―――



 それに気付いた瞬間に、アラームが鳴り響いた。
「あの、これ、やっぱりスースーするんだけど」

「はい、入って」

 彩音の訴えはあっさりと却下された。もじもじとしていると、利香が手を引っ張った。

「ほら、早く早く」

「やっ、ちょっ、止めて!ほんと、ほら、なんか恥ずかしいし」

「駄目です、入って」

「やだー!」

「聞き分けの無い委員長さんだね、さっき何食べた?」

 先ほど、有名な洋菓子屋の一個七百円もするケーキを食べた彩音は、その言葉にたじろいだが、搾り出すように言葉を出した。

「……吐き出す」

「却下」

 説明も無しに食べさせられたケーキの味は、どこかに飛んでいってしまった。なぜ、こんなことになったのか。

 今、彩音のセーラー服とスカートの下にあるのは白いTシャツだけだった。下着という代物は、十分前に全て鞄の中に仕舞われてしまった。

 借りたセーラー服を着て、ベッドの上に寝転がるだけだった今回のスケッチは、利香の兄のせいで、大幅に変わることになった。

 利香の兄である直弘が、実家宛に一畳ほどの大きなビニールプールを送ってきたのだった。直弘曰く「遊び用で買ったのはいいけど、直ぐに飽きたから」だそうで、それを見た利香がピンと来てしまったそうだ。

「リアリティのある絵を描きたいんだよね」

 そう言って、ケーキを食べ終えた彩音に話し始めた時の利香の顔は、捕食者のように輝いていた。

 利香の家には少し高めの塀があるのが救いだった。居間と庭は大きな窓で通じており、降りるだけで直ぐに庭に行ける。そこにイーゼルを置いて描くという。

「大丈夫、濡れるって言っても私の服だけだし、シャワーも貸すし」

「いやっ……だって、ほら、あれよ、まだまだ暑いから利香だって困るでしょ?ほら、夏服ないとさ……」

「夏服は二着買うのが当然だし、家の近くにすごーくいいクリーニング屋さんがあるから、今日濡れても明日出せばその日のうちにカラッカラッに乾かしてくれるんだよ」

「いや、だけど」

 言い訳が、もう見つからなかった。

 逃げ出すことも考えたが、胃袋の中に入っている七百円の高級ケーキと、利香に抱いている親しみの気持ちが『はい』と言わせた。

 庭に出されているプールには、どこかで買ってきた睡蓮の花が五個、ところどころに浮いていた。真ん中には、彩音を受け入れるためのスペースが開いている。

 水深はあまり無く、拳を入れたら手首まで浸かるぐらいしかない。しかも水は温かく、気持ちよささえも感じる。

「さ、入ってみましょう」

 利香がそう急かすと、彩音はハイソックスを履いたままの足でその場所へと入り込んだ

 足を水につけた瞬間に、布が水を吸って重くなった。柔らかに触れていた布が足の甲にまでべったりと張り付いて不快感を覚える。水に漬けるために作られた物ではないことを否応無く感じてしまう。

「ねえ、そのスカートの真ん中の洗濯ばさみはそのままなの?」

 利香の言葉に、彩音は口を尖らせた。

「当然です。このまま入ってスカートがふわーってなったらもうお嫁に行けなくなります。なので、これは絶対に外せません、ぜったいっにっ!」

 力強くそう言うと、利香も口を尖らせた。しかし、このぐらいは許して欲しかった。不意打ちをくらっているのはこちらのなのだ。

 ビニールプールに座ると、スカートが水を吸い、解いていた長い髪の端が水に浸かった。スカートは水の中でふんわりと開くようなイメージがあったが、自分の体のラインを強く出すように、腰から下にべったりと張り付いた。

 メガネを外して、利香に渡す。

 視界がぼやけて、少し離れたものの焦点が定まらなくて、現実と空想のぼんやりとした狭間に来ている気がしてきた。

「はい、じゃあ、これ」

 利香から耳栓を受け取り、耳の中に入れた。じんわりと音が遮断されていき、世界が遠くなっていく気がした。

 体の中の音が微かに聞こえるが、それは、水の音にかき消された。水を手で少し弾くと、体の中でも水の音が弾けて、どこかに消えていった。その瞬間に、音も自分の中に飲み込まれていくのだと、彩音は思った。

「じゃあ、よろしくね」

 微かに聞こえる声に頷き、彩音はそのまま寝そべった。

 その場に寝転ぶように寝そべると、耳の穴ギリギリのところまで水がやってきた。セーラー服は水を吸って体に張り付いて、凹凸に乏しい彩音の体のラインを浮かび上がらせた。髪の毛は水に浮いて、ゆらゆらと光と一緒に揺れている。

 彩音が息を吸うと、睡蓮の匂いがした。

 その不思議な香りを吸い込みながら、雲ひとつ無い空を見上げて、彩音は右手の甲をおでこの辺りに乗せた。

 水の揺れる音を聞きながら、彩音はこの場所の心地よさに浸っていた。

 もしかしたら、ここが自分の目指している水槽の外の世界なのかもしれない。

 そんなことを思う。

 利香のいる世界。まっすぐで、邪魔するものなんて無くて、息が詰まることを知らないでいる世界。この真っ青な空のように、どこまでもどこまでもいけてしまいそうな世界に、彼女は住んでいる。

 それが羨ましかった。

 でも、それをするには水槽の中から出て行かなければいけない。そんな勇気が自分にはあるのだろうか。

 ずっと寝ていると寝てしまうのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。こまめに休憩があり、そんな時は決まって利香が大きなバスタオルを彩音にかけた。

 太陽が真上にくる少し前、このまま太陽が昇り続ければ彩音と利香のいる場所の影がなくなって、直射日光が当たる直前に、利香が「出来た!」と叫んで腕を伸ばした。

 微かに聞こえたその声と同時に彩音は水の中から起き上がった。

「できたの?」

 耳栓を外すのを忘れてそう言ってしまって、自分の中に声が響いて酷く気持ち悪い気分を味わった。

 耳栓の端を掴んで耳から抜くと、空気が耳の中に微かな音を立てて入り込んだ。少し涼しくて、こそばゆい。

「うん、できたよ。見る?」

「うん、見せて見せて」

 メガネを受け取り、絵を見る。下描きになっているそれは、睡蓮の中に浮かび上がる少女を見事にキャンバスに封じ込めていた。

 勿論、色がまだ付いていないので、物足りなさもあるが、それを差し引いてもいい絵が描けていた。

 睡蓮の数はプールに浮いている以上に描かれていて、一瞬、睡蓮の園の中で死んでいるみたいに見えた。けれど、顔に触れている手、そして、少し口元の緩んでいる表情からは一切死のイメージが見えない。

「どうかな?」

 彩音はその言葉に答えずに、プールの中で方向転換をして、四つんばいになって絵に近寄っていく。水を吸った制服が重くて、風邪をひいた時の様に手足が重い。

 イーゼルの上に乗ったその絵を近くで見ると、愛おしさがこみ上げてきた。

 なんだか、愛情の篭ったプレゼントを貰ったかのように思えてきて、心臓が跳ねるように動き始めた。

「うん、いい。いいよ」

 何がどういいのかわからず、そう言うと、利香が弾けるような笑顔でそれに答えてくれた。

「嬉しい、ありがとう」

 利香はプールに入り込んで、彩音の前に座り込んだ。

 薄く青いジーンズが、水をあっという間に吸っていく。

「何してるのよ、利香」

「だって、嬉しかったから」

 さらに、濡れている彩音を抱きしめようと利香が犬のように突進してきたので、二人はそのままプールに倒れこむことになった。

 静かな庭に、水音が響く。

 遠くで鳴いている鳥の声も、工場の稼動音も、その音で一瞬だけかき消された後、また何事もなかったかのように、庭の中に入り込んだ。しかし、それは、二人の耳元には届いていない。

 倒れこみ、利香が彩音の胸に顔を当てていると、下で彩音がもがいた。

「ちょっ、何するのよ、利香」

「んー、嬉しかったからもうちょっとだけ」

「濡れるわよ!」

「濡れてもいいよ、ここ、私の家だし」

「とにかく、離れてよ」

「駄目?」

 胸に顔を埋めていた利香が上目遣いでそう言うと、彩音の胸の中で心臓が突き破れるぐらいに跳ねた。耳に、血が流れこんでくるのがわかる。

「駄目っ……じゃないけど」

「じゃあ、もう少しこうする」

「……はいはい」

 諦めたかのようにそう言うと、彩音は空を見上げた。微かに見える太陽が、目を刺したので手で覆った。

 指先から漏れる光を見ながら、背中にある違和感にもう片方の手を伸ばす。

 指先に触れたそれを取り出すと、自分の背中で潰れてしまった睡蓮だった。水を滴らせながら水中から上げられたそれは、花の形が潰れてはいるものの、十分な美しさを保っていた。太陽の光を反射して光るその幸福な花の死に、彩音は少しの切なさを感じていた。

 美しく咲く花が、か弱いことは知っていた。けれど、それを実感することはなかった。今実感したその死は、あまりにも呆気ない。

 胸の中で目を閉じている利香を見ると、彼女はそのまま眠ろうとしているようだった。いつものようにその頭にチョップをお見舞いしようとしたが、手を振り上げたところで止めた。彩音は目を閉じてから、太陽を塞いでいた手を下ろして、利香の背中に両手を当てた。右手に持っている睡蓮を彼女の背中において、抱きしめる。

 太陽の光のせいで赤く焼けている自分の瞼の裏側に、先ほど見た睡蓮の白さと利香の背中を重ね合わせながら、彩音は利香の心臓の音を手で感じていた。

 それは、自分と驚くぐらいに似ていて、愛おしさを覚えた。

「ねえ、彩音」

 腕の中にいた利香が動いて、瞼の色が黒くなった。

 目を開けると、目の前で利香の頭が太陽を遮っていた。光を背負いながら、水を滴らせる彼女は、さっきの睡蓮のように儚くて、すぐに崩れてしまいそうだった。

「私達、こんな風にしか会えないなんて、悲しいね」

 心臓に杭を打たれたかのような衝撃を覚えた。

 利香は、そんなことを言わないと思っていた。

 空気も読まない、人を見ない、ただ自分のためだけに動いて、何もかもを自分の中で消化する人間だと思っていた。だけど、目の前にいる利香は、ただの少女だった。背中で簡単に潰れてしまった、睡蓮のように純潔で、か弱いただの少女。

 それを守ることもできない自分が、酷く醜い気がした。

 誰のためでもない、ただ、あの水槽の中にある『正しいこと』の為に、自分で自分を削って、笑っている。

 それが、恐ろしく気持ち悪い。

 自分は、泥に塗れていると思っていた。

 水槽の中で、汚い人間関係の中で自分を埋没させて、そのまま泥に浸っていると思っていた。でも、それは違う。何も汚れてなんかいなかった。ただ、水槽の中で泳いで、外の世界を否定していただけだった。

 正義も悪も、真実も嘘も、綺麗も醜いも、集団も孤独も、何もかも水槽の中で与えられたものでしかなかった。

 自分はこのまま、泥にもなれずに中学生と言う時間を過ごすのだろうか。

 考えていなかった自分への質問が、心の奥底から現れて、彩音の心を殴った。

 でも、それは響かなかった。彩音の心の中にあるプラスチックの壁は、この中学の二年間で厚くなってしまっていた。

「うん……そうだね」

 心を殺した彩音が利香を抱いた。

 利香は彩音の拒否に気付いたかのようにまた胸に顔を沈めて、静かに泣き出した。

 その頭を抱きながら、彩音は空を見た。

 さっきまで利香が塞いでくれていた太陽の光が容赦なく彼女の目を刺してくる。彩音はしばらく太陽を見つめた。

 目が焼けるぐらいの熱さを感じ始めた後、ゆっくりと目を閉じた。

 眼球の暑さを、瞼が吸い取ってくれるような気がした。出来ることなら、今出そうになっている涙も、このまま蒸発してしまえばいい、そんな風に祈りながら、耳に聞こえる水の揺らぐ音に自分の心を寄せた。
 ビニールプールでモデルをやったあの日以来、利香と彩音は一度も会っていない。

 抱きしめてきた利香に対して、何もしてやれなかった。

 彩音の中に浮かんでくるその後悔は、日に日に大きくなっていった。いつもなら、自分の中にある真っ黒い場所にそれを沈めて、忘れてしまうのを待つだけだったが、今はそれが出来ない。力強ささえ感じるその後悔は、白い花―――まるであの日、彩音の周囲に浮かんでいた純潔な睡蓮のように真っ白で、どれだけ黒い色を重ねても、浮かび上がってくる。

 それに、黒い色が色濃くなればなるほど、不気味なぐらいに真っ白になっていく。強い白は、無視できないぐらいに大きくなっていた。けれど、自分の心の中にあるその異質な白を誰にも見せずに、彩音は日々を過ごしていた。

 利香に対しても、見せるつもりはなかった。

 もし見せたとしたら、自分を取り囲む水槽が壊れてしまいそうだったから。

 息苦しさを覚えつつも、自分はその中にいる心地よさに身を委ねているのだと、気付かされた。

 でも、それを見せる機会はもうないだろう。

 自分と利香は、もう他人になった。

 図書室の掃除を終えた彩音は、昨日まで読んでいた本を開いた。

 内容が頭に入ってこない。だけど、文字を追うだけ追った。

 こういうことは、たまに起こる。何かを気にしている時や、病気の時、生理の時もこれに近い感覚がある。だから、彩音はこの症状の対処に慣れていた。

 文字を追うだけ追って、それでも疲れたら休めばいい。

 それだけのことをすれば、いつの間にか時間が薬になって効いてくる。



 そう、いつかは。



 久しぶりにこの症状になったな。

 そんなことを考えながら、ページを捲る。その音が、図書室の空気中に溶けて消えていく。

 この前なったのは、いつ頃だったっけ。

 ああ、そうだ、あの日だ。

 確か、中学一年生の修了式の日。

 その時同じクラスだった、飯塚という男子生徒が部活の時間に図書室を訪ねてきた。今と同じで、図書室の中には彩音一人しかいなかった。彼は、彩音を見つけた瞬間に、緊張した面持ちになって「少し話があるんだけど」と言った。

 変声期が少しだけ始まっているその声は、小学生の頃に聞いていた男子の声ではなくて、大人びていた。

 彩音は、もうその時点で全てを悟っていた。

 告白される。

 そう、思っていた。

 案の定、少しの沈黙の後に彼は、自分の気持ちを伝えてきた。言葉は、誰かにアドバイスを貰ったかのような飾った言葉ではなくて、素っ気無くて、どこにでもありふれたものだったが、気持ちは本物だと思えた。少し赤面している彼を見て、なんとなくそう思っただけだったけれど。

 だけど、彩音はたった一言『ごめんなさい』と伝えて、彼の恋を終わらせた。

 彼に魅力が無いのではなかった。

 ただ、自分に彼氏ができることで、周囲の人間にどう思われるのか、そして、自分が目立つ存在になってしまうのが怖かった。

「そっか、ごめんね」

 彼はそれだけを告げて、肩を落とし、図書室を出て行った。

 出て行った直後、廊下から飯塚の声ではない声で「まあ、元気出せよ」という声が聞こえてきた。

 誰かが慰めていたのだろう。

 その声を聞いた瞬間に、自分の中にある醜い部分を見てしまった気がして、本を読んでも頭に入って来なくなった。

 その後、二年生になり、飯塚とは別のクラスになった。

 たまに廊下で顔を会わせるが、今ではもう、何も感じない。ただ、一生徒になっている。字が読めなくなる症状も、春休みの中盤には自然と治ってしまった。

 だから、今こんな風になっていても、いつかは治るのだ。

 そう、強く言い聞かせる。

 今まで一人で過ごしてきたところに、たまたま異質な存在として利香がやってきただけだったのだ。それがこの先、前のようにたった一人だけに戻るだけの話だ。

 そう、もう自分の水面が揺れることはない。水槽の中の平和は保たれて、何も心配することなどない。

 この胸の中の白い睡蓮も、やがて枯れ果てるだろう。

 本を閉じて、両腕を上に向かって、天井に触れるぐらいの勢いで伸びをした後に、窓際まで歩いた。窓から外を見ると運動場が、夕日の色に染まっていた。

 その中で蠢く運動部員達が、自由気ままに泳ぐ魚達に見える。

 いつもは、教室という名の水槽の中にいる彼らが、初めて自由に見えた。そっと手を伸ばすと、ガラスに自分の指が触れ、冷たさを感じた。強く指で押すと、窓枠が微かに鳴っただけで、何も変わることはなかった。

 ああ、ここも水槽か。そうなると、今、目の前で泳いでいるあの子達は外の住人になるのか。

 自由に泳ぐ彼らを見ながら、彩音は眩しさを感じた。

 いつの間に、こんな風になってしまったのだろうか。

 水槽の中に長くいた自分は、すっかりと化け物になってしまった。

 ゆっくりと指を離して、触れた指先をもう片方の手で包み込んで、胸の前に持ってきた。温かさも、冷たさも感じない、ただ、指先が指先であるだけという、冷静な感覚。感動も、悲哀もない。

 泣き出しそうだった。

 自分の愚かさに、自分の悲しみに、自分の孤独に。

 あの時、彼女の気持ちに応えることが出来たなら、こんな感情を抱くことはなかった。でも、女の子が女の子を好きになることが正しいとは思えなかった。だから、彼女を拒絶するしかなかった。

 拒絶することが、この世界では、この水槽では、普通のことだった。

 それをしたのだから、今、自分はここにいる。普通という世界に。水槽の中の世界に。自分が認めた、息苦しくて、死んでいく世界に。

 なのに、なんで。

 なんで自分の中の後悔がこんなにも広がっていくのだろう。

 あれは正しくなかった、それでいいじゃないか。ただ、それだけの話じゃないか。なんで、なんで、なんで。その言葉を心の奥に放つ度に、睡蓮は益々色付いていく。純潔なままの白さをもっと濃くしながら、活き活きとして、花を開く。

 生命の力をみせびらかすように、彩音の心に咲いていく。

 その真っ黒な場所に一つの波紋が広がる。水面に映っていた睡蓮がぐにゃりと曲げて、どこかに消えていった。

 そして、もう一つ同じように水面に波紋が出来た。

 時間を置いて、もう一つ。そして、その直ぐ後にまた一つ。

 彩音の頬から落ちた滴は、現実の世界で床の上に落ちて夕日を浴びて光っていた。それは、彩音の悲しさを否定するように美しかった。その後、滴は幾度も床に落ちて、その度に夕日を浴びて光った。

 数分後には、それは小さな水溜りになって、窓から見える空を反射した。ガラス越しに見える空。夕日の色を存分に吸収した空が、夜の闇を受け入れ始めて、徐々に黒く染まりつつあった。

 彩音は、やっと涙を袖口で拭うと、スカートのポケットからティッシュを取り出して、床を拭いた。洟をすすり、出ようとしてくる涙を必死に押さえつけながら、少し歪み始めている目の前を頼りに、掃除を続ける。

 その時、何の前触れもなく、図書室のドアが開いた。

「利香?」

 そんなことを言いそうになったが、入ってきたのは文学部の顧問の水木だった。

「もうそろそろ下校時間だぞ。帰れよー」

 そう声をかけた後で、直ぐに水木は帰っていった。こんな風に一声かけるだけで終わることも、よくあったので、彩音は不思議にも思わなかった。むしろ、今日は誰にも声をかけられたくないし、顔も見られたくなかったので、好都合だ。

 もう一度洟をすすると、床を拭いていたティッシュを折りたたんで、立ち上がる。

 さ、もう帰らないと。

 誰もいない図書室でそう呟いて、彩音はゴミ箱のある貸出カウンターへと歩んでいった。
 四階にある美術室に差し込む夕日は、部屋の中にハッキリとした明暗を作り出していた。十月の文化祭を明日に控えたこの部屋の中には、展示品が綺麗に揃えてあり、準備万端の状態にあった。そんな中、一人で利香は自分の絵を見ていた。

 あの時、彩音が何か言ってくれたら……。

 自分の描いた絵の前で、利香はふとそんなことを思っていた。

 この絵の下絵を描いたあの日から、彩音とは一言もしゃべっていない。

 元々仲が良かったわけでもないので、メールアドレスも、SNSのアカウントも知らなかった。だから、連絡をとることもなかった。

 教室でしゃべることができたらどんなに気楽だっただろうか。

 だけど、それは彩音が一番嫌がったことだった。水槽の中を荒らしてしまうような行為は、彼女にとって致命的なことになりかねない。だから、話しかけることは出来ない。

 図書室に行けば、簡単に会えることもわかっていた。だけど、そこで拒否されるような態度を示されたら、それこそ自分は、この絵を描けなくなるだろう。

 全てが仕上がったこの絵を、彼女に見せたい。だけど、それをすることは酷く恐ろしかった。

 それに、もしか自分達が仲良くしていたのがばれてしまったら、彩音はもう、あの教室の中で孤立しか出来ない。そうなったら、自分のところに彼女の恨みの矛先が向かってくるかもしれないのだ。

 そんなのは嫌だった。

 油絵で描かれた睡蓮と彩音の絵にそっと触れる。水面に浮かんでいる睡蓮と、半分沈んでしまって水を吸ったセーラー服が体にまとわり付いて、体のラインを露にしている彩音。セーラー服の白さよりも、睡蓮の白さのほうが目立っている。水の底には茶色で表現してある泥がところどころに入っている。

 浮かんでいる睡蓮に人差し指で触れると、少しだけ色が付いた。親指でそれをこすったけれど、それは消えない。そのまま彩音の腹の辺りに触れた。そこには、体に張り付いたセーラー服があった。



 夏のセーラー服を仕舞う際に、背中にセーラー服の白さとは違う白さがあることに気付いたのは、あのスケッチの日から数日経ってからだった。

 彩音が背中で潰した睡蓮の色が少しだけではあるが、制服を汚していたのだ。よく見なければわからないぐらいに微細な違いではあったが、確かに、付いている。

 それは、睡蓮の形をしていた。

 匂いを嗅いだが、そこには洗剤の匂いしか残っていなかった。本当にほんの少しだけ、彩音の匂いが残っていて、利香は悲しさを覚えた。

 なんで自分はあんな風に告白をしてしまったのだろうか。

 相手はあれだけ水槽の中に拘っていた人なのに、なぜ自分の思いを告げてしまったのだろうか。

 そんなのは、わかっていた。

 彩音が好きだからだ。

 綺麗なフリをしながら、どろどろとした自分を容認している彩音。睡蓮みたいに病的なほどの純潔さだけを周囲に見せながら、たった一人でその孤独と向き合っている彼女が、少し寂しそうに見えたからだ。

 もっと心の奥深くで繋がりたい。

 そんなことを思って、自分は彩音に思いを告げようとした。

 だって、あのまま彩音を放っておいたら、彼女は多分、水槽の中で溺死していただろう。空気がないことはわかっているのに、逃げない。そんなのは間違っている。だから、彼女のいる場所を壊すために、告白をした。

 二人でなら、逃げられる。

 二人でなら、水槽の外でもやっていける。

 それを彼女に伝えたかった。

 だけど、彼女はそれを拒絶したのだ。

 水槽の中で死んでいくのを、彼女は選んだ。仲間同士で空気を奪い合って生きていく、そんな生き方を。

 簡単に壊せると思った水槽の壁は、かなり厚くて、それ以上は何もできなかった。だから、利香は彼女に会いに行くことをやめた。

 これ以上、外の世界を見せるのは酷だと思ったからだ。

 水槽なんてない、と教えてあげたかったけれど、もうそれは叶わない。教えるだけで、彼女も自分も苦しむことになる。

 利香はそっと背中に触れる。

 夏服の、睡蓮の染みのあったその場所に。

 何も無いはずなのに、愛しいぐらいの温かさを感じる。ほんの数日だけの関係だったのに、こんなにも柔らかで温かい思いを彼女は自分に残してくれた。

 そんなことを思うと、この染みが愛おしくてたまらない。

 これからも、彼女とはしゃべることはないだろう。

 彼女は水槽の中で大人になっていく。自分は、彼女の言う外の世界を一人で生きていくのだ。

 もし、これから寂しくなった時は、こうやって背中を撫でて彼女を感じるのだろう。少しだけ分かり合えた彼女との絆。

 心臓の裏を指先で軽く撫でながら、利香は目を閉じた。

 明日はもう、文化祭だ。

 今日はもう絵を飾ってしまったから、明日は何もすることはない。クラスの出し物も、誰かが見張りをするのがめんどくさい、何かを用意するのがめんどくさい、という理由で修学旅行の写真の展示というどうでもいいもので終わっている。

 ふらふらと各教室を回ったら、美術部にずっといればいいか。

 溜息をつき、帰ろうとしたその時、美術室のドアが開いた。

「何してるの!早く帰りなさい!とっくに下校時刻は過ぎてるのよ!」

 金切り声に近いような声で、何も言わずにそう言ってきたのは、美術部の副顧問の伴野だった。

 眉間に皺が寄るのがわかる。

 めんどくさい上にうっとおしいのがやって来たな。

「もう、帰ります」

 出来るだけ悪意を込めて、だけど、言葉は普通に。呪いを吐くようにそう言ったが、

「さあさあ、早く出て!すぐに閉めたいから!」

と、伴野はそう言うだけだった。

 机にあるリュックと鞄を手にとると、伴野の脇を通りぬけていく。極力肌も、布ですらも合わせたくない。ましてや、彼女の吐いた空気なんか吸い込みたくもなかった利香は、息を止めて早足でその場を立ち去った。

「あら、展示は出来たのね」

 先ほどの金切り声とは違う、嫌悪感を抱くような甘ったるい声でそう言うと、彼女は美術室の中に入っていってしまった。

 あんな声、授業で行くのも嫌なのに。こんなところで聞くことになるなんて最悪。

 悪態をつきながら、利香は早足でその場から離れ始める。

 階段を二段ほど下りた所で、彼女はやっと息を吸い始めた。
 文化祭の当日、各クラスを見て回る彩音の胸は虚しさでいっぱいだった。

 一年生の時は、隣のクラスと合同で巨大な迷路を作り上げた。

 文化祭の前日に与えられる時間だけでは足りず、文化祭の前の週から迷路の部品を作った。それでも間に合わず、当日の朝五時に教室に行ってまで作った。

 その甲斐あってか、巨大迷路は好評で、出し物の中で優秀賞を貰えた。その時はクラスの女子の大半が泣いて、自分も泣いた。

 あれから一年。

 あの出来事が嘘だったみたいに、今年は冷めていた。

 クラスの出し物の意見交換の際にも『部活の出し物がある』や『めんどくさい』といった意見しか出てこず、結局修学旅行の写真を貼るだけの何の意味もないモノが出来上がった。ただ、与えられた課題を無難にこなすだけの展示物、それが今回の自分のクラスの出し物だった。

 その意見をまとめたのは、自分だった。

 委員長と言う立場上、全ての意見を聞いてまとめなければいけなかった彩音は、皆のやる気のなさに意見をせずに、ただ黙ってそのくだらない展示物をすることを担任に報告した。

 怒られるかもしれないと思ったが、意外とあっさり通ってしまい、拍子抜けした。

 なんだ、誰も真剣にやらないのか。

 そんなことを思ったが、水槽の中にいる自分はそれを意見することができず、ただ、時間は流れていった。

 自分の所属する文芸部も似たようなものだった。

 夏になると各出版社が出す『夏に読みたい本』というのを全てパクったような企画をやっていた。

 勿論、彩音なりにお勧めの本を並べたりはしたが、図書館の利用率の低いこの学校では、何をしても無駄な気がした。

 しかも当日は図書館で過ごすことができない。幽霊部員と化している連中がこぞって図書館で過ごすため、中に入りたくないのだ。

 勿論彼らにただやらせるわけにはいかなかったので、床の清掃と本を仕舞うことだけは条件としてつけた。

 勿論、やらないだろうとも思ったが、取敢えずの体裁として必要だった。

 なんで、こんなことになっているんだろう。

 四階にある一年生の教室を見ていると、初めての文化祭を楽しんでいるキラキラした顔が目に映る。

 どのクラスも喫茶店を出したり、自分たちが去年やったような巨大な迷路を作ったりと楽しく過ごしていた。

 いいなあ。

 そう思う。

 ふと口をついてそんな言葉が出たので、慌てて口を塞いだ。けれど、今日は自分一人しかいないことに気付き、安堵した。

 いつも一緒に行動している連中は、今頃体育館やグラウンドで親善試合の真っ最中だろう。親善試合が終わった後も、父母の相手が待っており、こちらに来る余裕なんてない。先ほど、とりあえず応援には行って、顔だけは見せておいた。

 行かなかったら、あとでうるさいからだ。

 顔だけ出しておけば、あとでなんだかんだと言われることは無い。

 打算的だな。

 自分の行動を振り返りながら、そう思う。

 だけど、これが水槽の中の生き方なのだ。自己を持たずに、周囲の魚と同じように過ごすのが。

 足を進めていくと、美術室が見えた。

『美術部展示会会場』と書いてある札が、扉の中の様子を伺う為のガラスに貼り付けられていて、中の様子が見えなかった。

 あの場所に行こうかどうか迷った。

 自分がモデルになって、利香が描いた絵が飾ってあるのだから、見たくないわけがない。



 だけど、怖い。



 中に利香がいたら、どうやって接すればいいのかが怖い。

 どうすればいいんだろう。

 美術室の前まで来て、彩音の足が止まったその瞬間に、中から怒号が聞こえた。

「ふっざけんな!」

 怒りが頂点に達しているようなその声は、まぎれもなく利香の声だった。彩音は迷っている心を忘れたかのように、美術部の部室のドアを開けた。
 そこにいたのは、父母が数人、クラスメイトが二、三人に、見知らぬ生徒が何人かがおり、美術部の副顧問である伴野と利香が、彩音を描いた絵の前で睨み合っていた。

「なんでこの絵が展示禁止になるんですか」

 自分の絵を指差しながらそう言う利香を鼻で笑い、伴野は彼女の絵に手をかけた。

「これはね、卑猥なのよ。こんな風にセーラー服を濡らした女の子を描くなんていやらしい。それに、体の凹凸もはっきりでてるじゃない。こういうのは学校に飾るのは相応しくないわ」

「何もおかしくないし、いやらしくありません。おかしいのは、アンタだ!」

「教師に向かってアンタとは失礼ね。とにかく、正しくないものを学校で飾るわけにはいきません。だから、展示は中止」

「納得いきません!」

「別にアナタが納得しなくてもいいの、これはルールなのよ」

「私は、顧問の先生からその絵を飾ってもいいといわれています、それでも駄目なんですか」

「ああ、顧問の活崎先生ねえ、あの先生はなんだか美術にかかわりすぎてるから判断が鈍ってるのよね。こういうのが芸術だって言えちゃう人なのよ。何もわかってない。美術とは美しさを求めること、それは花を描いたり、人物を丁寧に描くことなのよ。女の子をいやらしく描くなんて、誰も求めないわよ」

「……バッカみたい」

 吐き捨てるように利香が言うと、伴野は眉間に皺を寄せた。

 彩音は嫌な予感がして、利香と伴野の近くまで歩み寄っていく。

「教師に向かってそういう口の聞き方は……」

「何が教師だよ!何が正しさだよ!そんなもん関係ない!私は正しさが欲しいからそういう絵を描いてるんじゃない!醜いのも、美しいのも全部飲み込んで、それを吐き出してるだけだ!それを勝手なルールで縛ってるのはそっちだ!ふざけんな!」

 飛び掛ろうとする利香を、伴野が平手打ちにすると、今までざわついてた美術室が、水を打ったかのように静かになった。

「もういいわ。なら、こういう絵は処分したほうが良さそうね」

 伴野が床で頬を押さえている利香を無視してドアへと体を向けたその瞬間に、彩音が伴野の腕を掴んだ。

「待ってください」

「なに、アナタ」

「その絵のモデルです」

「これの?ああ、これアナタだったの?良かったわねえ、こんなところで体を晒さなくて済んで」

「よくありません」

「なんでかしら」

「それは、私と相沢さんの作品です。二人で作り上げた作品なんです」

「でも、こんな風に描かれたら、飾られないことはわかるでしょ?ほら、アナタも委員長なんだし、そのぐらいわかるでしょ?正しいことはいいことなのよ。だから、そのルールから外れている正しくないことは、すべて排除するのよ」

 伴野はそういいながら彩音のセーラー服の襟に付いてる委員長を示すバッヂを指差しながら微笑んだ。

 彩音はバッヂを掴んで、窓に向かって放り投げると、伴野の手に爪を立てた。

「きゃっ」

 甲高い声でそう言って伴野が手を離した隙に、彩音が絵を奪い取り、絵を体の後ろに隠した。

「何するのよ!」

「それはこっちの台詞です、伴野先生。誰かが作った正しさの中でしか物事を図れない人に、絵なんかわかりません。水槽の中で何も出来なかった私に、外の世界を教えてくれた相沢……利香が間違っているとは、思いません。正しさも悪いことも、全部自分で判断するのが、人間です。アナタみたいに、型にはまった正義しか語れない人が、何か口を出すことが、気持ち悪いです」

 絵の淵を握っている両の手が、震えている。

 自分が今やっていることは、明らかに度を越えた行為だった。だけど、そこまでして彩音は利香を守りたかった。

 その為なら、自分が彩音と仲がいいことが誰にバレても良かった。

「気持ち悪いって……それが教師に向かって言う言葉ですか!」

 伴野が手を振りかぶった瞬間に、彩音は目を閉じた。

 平手打ちされるのなら、それでもかまわない。こんなことで、自分達の作品を汚されたくはない。何度叩かれても、この手だけは絶対に離さない。

 しかし、何秒経っても平手打ちは頬に届かず、恐る恐る目を開けると、そこでは、美術部の顧問である水木が伴野の腕を掴んでいた。

「伴野先生、もうこれ以上はやめませんか」

「しかし、水木先生、こんな絵は」

「こんな絵、とは?」

「あの絵ですよ、あの、いやらしい絵です」

 水木は溜息をついた。

「あの絵がいやらしく見えるってことは、アナタがいやらしいってことですよ、伴野先生。絵は、自分の心を映す鏡みたいなものです。あの絵、相沢が描いたあの絵は、好きが溢れている絵ですよ。相手のことを思って、相手のことを理解しようとして、そして、相手のことを解放しようとしている、そういう絵ですよ。でなければ、あんな風には描けません。睡蓮の美しさと、少女……そこにいる桜澤を美しく描きながらも、泥を描いて、そして、太陽の下に連れてこようとしている。どこかに閉じ込められていた少女を、こんな風に解放しようとしているんですよ。それが見えませんか?それなら、アナタの目は腐っているんですよ。おおいに、しかも、しっかりと」

 まくし立てるようにそう言うと、水木は伴野の手を離して「職員室に行ってください、そこで話しましょう。ゆっくりとね」と言って、顎で出入り口を指した。

 何か言いたげな表情をしていた伴野をもう一度睨むと、伴野は素直に美術室から出て行った。

「皆様、お騒がせしまして申し訳ございません。すぐに絵を飾らせますので、どうぞゆっくりご覧になって下さい」

 水木はそう言って両手を彩音に差し出した。

 震える手をゆっくりと動かして、絵を掴んで水木に渡すと、彼は微笑んだ。

「ありがとう、こんないい絵を描かせるなんて、よっぽど君は魅力的なんだろうね、相沢にとって。少し妬けてしまうくらいだよ。さあて、そこで泣いている相沢をちょっとどこかに連れて行ってやってくれないか」

「はい」

 まだ震えの残る体を動かして、しゃがみこんでいる利香の目の前に腰を下ろすと、彼女が抱きついてきた。

「よしよし」

 ゆっくりと一緒に立ち上がり、頬を押さえている手に自分の手を重ねる。

「大丈夫?利香」

「うん……ねえ、どこに行くの」

「そうだね、どこにしよっか」

 支えあいながら二人は美術室を出て行く。その後ろ姿を水木が目を細めて見ていた。
 彩音が場所として選んだのは、美術室とは真反対にある家庭科室の横にある屋上に通じる階段だった。

 踊り場より上にはロープが張ってあり、それより上には行けないのだが、二人ともそのロープを潜って階段を上がっていった。

 屋上に通じるドアはさすがに鍵が掛かっていたが、ドアの前のスペースは二人が寝転がってもいいぐらいにスペースが取ってある。

 俯いてる利香を階段に座らせると、その隣に彩音も腰を下ろした。息を吸うだけで、埃っぽい空気が鼻の中に入ってくるのがわかる。

 ドアからこぼれている光が舞い上がる埃を照らしていて、なんだか幻想的にも見える。階下から聞こえる喧騒をよそに、ここは全てのモノが死んでいるかのように静かだった。

「利香、もう誰もいないよ」

 そう言うと、利香は彩音に抱きついてきた。

「ごめん、ごめんね」

 涙声でそう言ってくる利香の頭を撫でながら、利香は微笑んだ。

「何が、利香は何も悪いことしてないじゃない。むしろ、よく戦ったよ、かっこよかったよ」

「でも、でも……」

「なあに?」

 言葉を詰まらせながら、利香が一つずつ言葉を吐き出していく。

「だっで……私のこと……あんな風に彩音がかばったら、もう……彩音は水槽の中にいられなくなっちゃう……。あんなに出て行きたくないって言ってたから、私……わだし……彩音の居場所を奪っちゃったんだよ……」

 懺悔するかのように利香は彩音を強く抱きしめた。

「ううん、いいのよ、利香。もう、水槽の中に帰ろうなんて思わないから」

 彩音もそれに答えるかのように彼女を強く抱きしめた。

 彩音の心の中は、解放感に満ちていた。今まで自分の中にあった水槽が、利香を助けた瞬間から壊れ始めていたのだ。

 外からの攻撃ではヒビすらも入らなかった自分の中の水槽は、自分が変わろうとして、中から攻撃しただけで、あっさりと壊れてしまった。

 水槽の外は怖いものだと、ずっと思っていた。

 自由がある代わりに、もの凄く恐ろしいものがいる場所なのだと。だから、安心を好む自分は水槽の中にいて、想像上の恐ろしいものを皆と共有して、安心をしていた。

 だけど、外には何もなかった。確かに、恐ろしいとは思う。何があるのかはわからないのだから。

 だけど、自分の腕の中に、この広い水槽の外を一緒に泳いでくれる愛しい人がいるのだ。だから、この先に何があっても怖くなんてない。

 二人で居れば、何も怖くなんてないのだ。

「ねえ」

 彩音は、体を離して利香を見つめた。

 涙で目を腫らした利香は、なんだかかわいく見える。

「ねえ、利香。私さ、利香のこと好き。ううん、大好き」

 真っ直ぐな瞳でそう言うと、目だけが赤くなっていた利香の顔が、みるみる真っ赤になっていく。

「いや、あの……うん、彩音、うれしいけど、何、どうしたの?」

 混乱するかのように、あわあわとしながら利香がそう言うと、彩音は利香の胸に自分のおでこを当てた。

「何って、その言葉通りだよ。私は、利香のことが好き」

「それって、どういうことだかわかってるの?」

「何が?」

「それって、前に彩音が言ってた正しいことじゃないんだよ?男子は女子に、女子は男子が好きになることが当たり前で、普通で、正しいことなんだよ?それを覆すことになるんだよ?それでもいいの?」

 正しさ。

 水槽の中にいた頃は、その言葉に振り回されて生きてきた。

 何が正しいのか、何が悪いのか、全て教えられて、それを避けてきた。だけど、何もわかっていなかった。

 正しさなんていらない。

 欲しいのは、自分で判断する心だ。

「いらない、正しさなんて」

「本当に?」

「うん、本当に」

 胸から頭を上げて微笑む。今まで自分がしたことないような笑顔が今、出来ている気がする。だって、その顔を見た利香が、本当に嬉しそうな顔をしたから、わかる。

「じゃあ、キス」

 利香は恥ずかしそうにそう言うと、口を尖らせたままそっぽを向いた。彩音はそっぽを向いた利香の顔を無理矢理自分の方に向ける。

「今、なんて言ったの、利香」

「な、なんでもないです」

「な・ん・て・言・っ・た・の?」

 力強くそう言うと、利香は俯きながら

「ちゅっ……ちゅー……したいです」

 と囁いて、顔を真っ赤にしていく。

 顔を持っていた彩音の手が火傷しそうなほどに熱くなっていくのがわかる。

「はい、よくできました」

「なんか彩音、キャラ違う」

「こういうのを隠してたのよ」

「くっろーい」

「ふーん」

 彩音が無表情になってそっぽを向くと、利香はあわあわと手をばたつかせて彩音のご機嫌を伺ってくる。それがおかしくて、無表情でいれたのはごく短時間だった。

「怒ったの?」

 利香の言葉に、頭を振った。

「大丈夫だよ。怒ってない」

「よかった」

「じゃあ……」

「うん!」

「帰ろうか」

「えっ」

 彩音が立ち上がると、利香がそれを追いかけるように遅れて立ち上がった。

「あ、利香。スカートのすそにいっぱいほこり付いてる」

「ほんとだ、ああ、もう、これだからこういう埃っぽい場所やだよ」

 スカートのすそをパンパンと叩き、利香が顔を上げる。無防備に上げたその顔に、彩音がキスをした。

 ほんの一瞬で終わったキスは、かすかに、だけど確実に二人の中に忘れられない感触を残した。

「帰ろうか」

 すぐに顔を逸らして階段を下りていく彩音に利香が声をかける。

「も、もう一回!」

 それを、彩音がいたずらっぽく笑う。

「ダーメ」

「もう、なんで」

 彩音が振り向く。屋上に通じるドアからこぼれてくる光が、眩しい。水槽の外はこんなにも美しくて、眩しかったのか。

 光が強すぎて、利香の姿がシルエットしか見えない。

 右手をおでこに乗せて、光を遮ったその瞬間に、ああ、そういえばこのポーズをしたあの時から、私達の恋は始まっていたのだと思った。

 目がゆっくりと慣れてきて、赤面しながらお預けをくらって悲しくなっている子犬みたいな目をした彼女が見えてきた。

「なんで」

 もう一度、利香が聞いてきた。

 彩音が微笑む。

「この水槽を出られる放課後まで、お預け」

 口元に人差し指を当てながら、彩音が笑うと、利香は大きく頷いて、同じようにそのポーズをとった。





 二人が階段を降りていき、屋上に静寂が訪れた。

 先ほどまで二人が座っていた場所の埃だけが取れていて、大きな穴に見える。それは、彩音が必死になって開けた水槽から外へ出る為の大きな穴に見えた。

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