ビニールプールでモデルをやったあの日以来、利香と彩音は一度も会っていない。
抱きしめてきた利香に対して、何もしてやれなかった。
彩音の中に浮かんでくるその後悔は、日に日に大きくなっていった。いつもなら、自分の中にある真っ黒い場所にそれを沈めて、忘れてしまうのを待つだけだったが、今はそれが出来ない。力強ささえ感じるその後悔は、白い花―――まるであの日、彩音の周囲に浮かんでいた純潔な睡蓮のように真っ白で、どれだけ黒い色を重ねても、浮かび上がってくる。
それに、黒い色が色濃くなればなるほど、不気味なぐらいに真っ白になっていく。強い白は、無視できないぐらいに大きくなっていた。けれど、自分の心の中にあるその異質な白を誰にも見せずに、彩音は日々を過ごしていた。
利香に対しても、見せるつもりはなかった。
もし見せたとしたら、自分を取り囲む水槽が壊れてしまいそうだったから。
息苦しさを覚えつつも、自分はその中にいる心地よさに身を委ねているのだと、気付かされた。
でも、それを見せる機会はもうないだろう。
自分と利香は、もう他人になった。
図書室の掃除を終えた彩音は、昨日まで読んでいた本を開いた。
内容が頭に入ってこない。だけど、文字を追うだけ追った。
こういうことは、たまに起こる。何かを気にしている時や、病気の時、生理の時もこれに近い感覚がある。だから、彩音はこの症状の対処に慣れていた。
文字を追うだけ追って、それでも疲れたら休めばいい。
それだけのことをすれば、いつの間にか時間が薬になって効いてくる。
そう、いつかは。
久しぶりにこの症状になったな。
そんなことを考えながら、ページを捲る。その音が、図書室の空気中に溶けて消えていく。
この前なったのは、いつ頃だったっけ。
ああ、そうだ、あの日だ。
確か、中学一年生の修了式の日。
その時同じクラスだった、飯塚という男子生徒が部活の時間に図書室を訪ねてきた。今と同じで、図書室の中には彩音一人しかいなかった。彼は、彩音を見つけた瞬間に、緊張した面持ちになって「少し話があるんだけど」と言った。
変声期が少しだけ始まっているその声は、小学生の頃に聞いていた男子の声ではなくて、大人びていた。
彩音は、もうその時点で全てを悟っていた。
告白される。
そう、思っていた。
案の定、少しの沈黙の後に彼は、自分の気持ちを伝えてきた。言葉は、誰かにアドバイスを貰ったかのような飾った言葉ではなくて、素っ気無くて、どこにでもありふれたものだったが、気持ちは本物だと思えた。少し赤面している彼を見て、なんとなくそう思っただけだったけれど。
だけど、彩音はたった一言『ごめんなさい』と伝えて、彼の恋を終わらせた。
彼に魅力が無いのではなかった。
ただ、自分に彼氏ができることで、周囲の人間にどう思われるのか、そして、自分が目立つ存在になってしまうのが怖かった。
「そっか、ごめんね」
彼はそれだけを告げて、肩を落とし、図書室を出て行った。
出て行った直後、廊下から飯塚の声ではない声で「まあ、元気出せよ」という声が聞こえてきた。
誰かが慰めていたのだろう。
その声を聞いた瞬間に、自分の中にある醜い部分を見てしまった気がして、本を読んでも頭に入って来なくなった。
その後、二年生になり、飯塚とは別のクラスになった。
たまに廊下で顔を会わせるが、今ではもう、何も感じない。ただ、一生徒になっている。字が読めなくなる症状も、春休みの中盤には自然と治ってしまった。
だから、今こんな風になっていても、いつかは治るのだ。
そう、強く言い聞かせる。
今まで一人で過ごしてきたところに、たまたま異質な存在として利香がやってきただけだったのだ。それがこの先、前のようにたった一人だけに戻るだけの話だ。
そう、もう自分の水面が揺れることはない。水槽の中の平和は保たれて、何も心配することなどない。
この胸の中の白い睡蓮も、やがて枯れ果てるだろう。
本を閉じて、両腕を上に向かって、天井に触れるぐらいの勢いで伸びをした後に、窓際まで歩いた。窓から外を見ると運動場が、夕日の色に染まっていた。
その中で蠢く運動部員達が、自由気ままに泳ぐ魚達に見える。
いつもは、教室という名の水槽の中にいる彼らが、初めて自由に見えた。そっと手を伸ばすと、ガラスに自分の指が触れ、冷たさを感じた。強く指で押すと、窓枠が微かに鳴っただけで、何も変わることはなかった。
ああ、ここも水槽か。そうなると、今、目の前で泳いでいるあの子達は外の住人になるのか。
自由に泳ぐ彼らを見ながら、彩音は眩しさを感じた。
いつの間に、こんな風になってしまったのだろうか。
水槽の中に長くいた自分は、すっかりと化け物になってしまった。
ゆっくりと指を離して、触れた指先をもう片方の手で包み込んで、胸の前に持ってきた。温かさも、冷たさも感じない、ただ、指先が指先であるだけという、冷静な感覚。感動も、悲哀もない。
泣き出しそうだった。
自分の愚かさに、自分の悲しみに、自分の孤独に。
あの時、彼女の気持ちに応えることが出来たなら、こんな感情を抱くことはなかった。でも、女の子が女の子を好きになることが正しいとは思えなかった。だから、彼女を拒絶するしかなかった。
拒絶することが、この世界では、この水槽では、普通のことだった。
それをしたのだから、今、自分はここにいる。普通という世界に。水槽の中の世界に。自分が認めた、息苦しくて、死んでいく世界に。
なのに、なんで。
なんで自分の中の後悔がこんなにも広がっていくのだろう。
あれは正しくなかった、それでいいじゃないか。ただ、それだけの話じゃないか。なんで、なんで、なんで。その言葉を心の奥に放つ度に、睡蓮は益々色付いていく。純潔なままの白さをもっと濃くしながら、活き活きとして、花を開く。
生命の力をみせびらかすように、彩音の心に咲いていく。
その真っ黒な場所に一つの波紋が広がる。水面に映っていた睡蓮がぐにゃりと曲げて、どこかに消えていった。
そして、もう一つ同じように水面に波紋が出来た。
時間を置いて、もう一つ。そして、その直ぐ後にまた一つ。
彩音の頬から落ちた滴は、現実の世界で床の上に落ちて夕日を浴びて光っていた。それは、彩音の悲しさを否定するように美しかった。その後、滴は幾度も床に落ちて、その度に夕日を浴びて光った。
数分後には、それは小さな水溜りになって、窓から見える空を反射した。ガラス越しに見える空。夕日の色を存分に吸収した空が、夜の闇を受け入れ始めて、徐々に黒く染まりつつあった。
彩音は、やっと涙を袖口で拭うと、スカートのポケットからティッシュを取り出して、床を拭いた。洟をすすり、出ようとしてくる涙を必死に押さえつけながら、少し歪み始めている目の前を頼りに、掃除を続ける。
その時、何の前触れもなく、図書室のドアが開いた。
「利香?」
そんなことを言いそうになったが、入ってきたのは文学部の顧問の水木だった。
「もうそろそろ下校時間だぞ。帰れよー」
そう声をかけた後で、直ぐに水木は帰っていった。こんな風に一声かけるだけで終わることも、よくあったので、彩音は不思議にも思わなかった。むしろ、今日は誰にも声をかけられたくないし、顔も見られたくなかったので、好都合だ。
もう一度洟をすすると、床を拭いていたティッシュを折りたたんで、立ち上がる。
さ、もう帰らないと。
誰もいない図書室でそう呟いて、彩音はゴミ箱のある貸出カウンターへと歩んでいった。
抱きしめてきた利香に対して、何もしてやれなかった。
彩音の中に浮かんでくるその後悔は、日に日に大きくなっていった。いつもなら、自分の中にある真っ黒い場所にそれを沈めて、忘れてしまうのを待つだけだったが、今はそれが出来ない。力強ささえ感じるその後悔は、白い花―――まるであの日、彩音の周囲に浮かんでいた純潔な睡蓮のように真っ白で、どれだけ黒い色を重ねても、浮かび上がってくる。
それに、黒い色が色濃くなればなるほど、不気味なぐらいに真っ白になっていく。強い白は、無視できないぐらいに大きくなっていた。けれど、自分の心の中にあるその異質な白を誰にも見せずに、彩音は日々を過ごしていた。
利香に対しても、見せるつもりはなかった。
もし見せたとしたら、自分を取り囲む水槽が壊れてしまいそうだったから。
息苦しさを覚えつつも、自分はその中にいる心地よさに身を委ねているのだと、気付かされた。
でも、それを見せる機会はもうないだろう。
自分と利香は、もう他人になった。
図書室の掃除を終えた彩音は、昨日まで読んでいた本を開いた。
内容が頭に入ってこない。だけど、文字を追うだけ追った。
こういうことは、たまに起こる。何かを気にしている時や、病気の時、生理の時もこれに近い感覚がある。だから、彩音はこの症状の対処に慣れていた。
文字を追うだけ追って、それでも疲れたら休めばいい。
それだけのことをすれば、いつの間にか時間が薬になって効いてくる。
そう、いつかは。
久しぶりにこの症状になったな。
そんなことを考えながら、ページを捲る。その音が、図書室の空気中に溶けて消えていく。
この前なったのは、いつ頃だったっけ。
ああ、そうだ、あの日だ。
確か、中学一年生の修了式の日。
その時同じクラスだった、飯塚という男子生徒が部活の時間に図書室を訪ねてきた。今と同じで、図書室の中には彩音一人しかいなかった。彼は、彩音を見つけた瞬間に、緊張した面持ちになって「少し話があるんだけど」と言った。
変声期が少しだけ始まっているその声は、小学生の頃に聞いていた男子の声ではなくて、大人びていた。
彩音は、もうその時点で全てを悟っていた。
告白される。
そう、思っていた。
案の定、少しの沈黙の後に彼は、自分の気持ちを伝えてきた。言葉は、誰かにアドバイスを貰ったかのような飾った言葉ではなくて、素っ気無くて、どこにでもありふれたものだったが、気持ちは本物だと思えた。少し赤面している彼を見て、なんとなくそう思っただけだったけれど。
だけど、彩音はたった一言『ごめんなさい』と伝えて、彼の恋を終わらせた。
彼に魅力が無いのではなかった。
ただ、自分に彼氏ができることで、周囲の人間にどう思われるのか、そして、自分が目立つ存在になってしまうのが怖かった。
「そっか、ごめんね」
彼はそれだけを告げて、肩を落とし、図書室を出て行った。
出て行った直後、廊下から飯塚の声ではない声で「まあ、元気出せよ」という声が聞こえてきた。
誰かが慰めていたのだろう。
その声を聞いた瞬間に、自分の中にある醜い部分を見てしまった気がして、本を読んでも頭に入って来なくなった。
その後、二年生になり、飯塚とは別のクラスになった。
たまに廊下で顔を会わせるが、今ではもう、何も感じない。ただ、一生徒になっている。字が読めなくなる症状も、春休みの中盤には自然と治ってしまった。
だから、今こんな風になっていても、いつかは治るのだ。
そう、強く言い聞かせる。
今まで一人で過ごしてきたところに、たまたま異質な存在として利香がやってきただけだったのだ。それがこの先、前のようにたった一人だけに戻るだけの話だ。
そう、もう自分の水面が揺れることはない。水槽の中の平和は保たれて、何も心配することなどない。
この胸の中の白い睡蓮も、やがて枯れ果てるだろう。
本を閉じて、両腕を上に向かって、天井に触れるぐらいの勢いで伸びをした後に、窓際まで歩いた。窓から外を見ると運動場が、夕日の色に染まっていた。
その中で蠢く運動部員達が、自由気ままに泳ぐ魚達に見える。
いつもは、教室という名の水槽の中にいる彼らが、初めて自由に見えた。そっと手を伸ばすと、ガラスに自分の指が触れ、冷たさを感じた。強く指で押すと、窓枠が微かに鳴っただけで、何も変わることはなかった。
ああ、ここも水槽か。そうなると、今、目の前で泳いでいるあの子達は外の住人になるのか。
自由に泳ぐ彼らを見ながら、彩音は眩しさを感じた。
いつの間に、こんな風になってしまったのだろうか。
水槽の中に長くいた自分は、すっかりと化け物になってしまった。
ゆっくりと指を離して、触れた指先をもう片方の手で包み込んで、胸の前に持ってきた。温かさも、冷たさも感じない、ただ、指先が指先であるだけという、冷静な感覚。感動も、悲哀もない。
泣き出しそうだった。
自分の愚かさに、自分の悲しみに、自分の孤独に。
あの時、彼女の気持ちに応えることが出来たなら、こんな感情を抱くことはなかった。でも、女の子が女の子を好きになることが正しいとは思えなかった。だから、彼女を拒絶するしかなかった。
拒絶することが、この世界では、この水槽では、普通のことだった。
それをしたのだから、今、自分はここにいる。普通という世界に。水槽の中の世界に。自分が認めた、息苦しくて、死んでいく世界に。
なのに、なんで。
なんで自分の中の後悔がこんなにも広がっていくのだろう。
あれは正しくなかった、それでいいじゃないか。ただ、それだけの話じゃないか。なんで、なんで、なんで。その言葉を心の奥に放つ度に、睡蓮は益々色付いていく。純潔なままの白さをもっと濃くしながら、活き活きとして、花を開く。
生命の力をみせびらかすように、彩音の心に咲いていく。
その真っ黒な場所に一つの波紋が広がる。水面に映っていた睡蓮がぐにゃりと曲げて、どこかに消えていった。
そして、もう一つ同じように水面に波紋が出来た。
時間を置いて、もう一つ。そして、その直ぐ後にまた一つ。
彩音の頬から落ちた滴は、現実の世界で床の上に落ちて夕日を浴びて光っていた。それは、彩音の悲しさを否定するように美しかった。その後、滴は幾度も床に落ちて、その度に夕日を浴びて光った。
数分後には、それは小さな水溜りになって、窓から見える空を反射した。ガラス越しに見える空。夕日の色を存分に吸収した空が、夜の闇を受け入れ始めて、徐々に黒く染まりつつあった。
彩音は、やっと涙を袖口で拭うと、スカートのポケットからティッシュを取り出して、床を拭いた。洟をすすり、出ようとしてくる涙を必死に押さえつけながら、少し歪み始めている目の前を頼りに、掃除を続ける。
その時、何の前触れもなく、図書室のドアが開いた。
「利香?」
そんなことを言いそうになったが、入ってきたのは文学部の顧問の水木だった。
「もうそろそろ下校時間だぞ。帰れよー」
そう声をかけた後で、直ぐに水木は帰っていった。こんな風に一声かけるだけで終わることも、よくあったので、彩音は不思議にも思わなかった。むしろ、今日は誰にも声をかけられたくないし、顔も見られたくなかったので、好都合だ。
もう一度洟をすすると、床を拭いていたティッシュを折りたたんで、立ち上がる。
さ、もう帰らないと。
誰もいない図書室でそう呟いて、彩音はゴミ箱のある貸出カウンターへと歩んでいった。