「彩音、準備できたけど?」

 利香のその声にビックリし、顔を強張らせると、彼女が笑った。

「そんなに緊張しなくても脱がしたりしないから、大丈夫だよ。じゃあ、そこに寝てみて。とりあえずポーズはこの前のスケッチと一緒で、仰向けになってさ……」

 利香の言葉が、遠くなっていく。

 彼女の前で今、無防備になるのが怖い。このまま寝てしまったら、あのベッドに沈み込んで、そのまま何かに飲み込まれてしまいそうな気がした。

「えっと……」

 何かしらの理由を見つけたい。けれども、そんなものはなかった。

 彩音は『なんでもない』と自分自身に言い聞かせて、ベッドに座る。描きやすいようにカーテンは横で縛られていて、枕以外には何もない。真っ白なシーツの上に体を預けると、尻が少しだけ沈みこんだ。

 そのまま体を横にして、仰向けになる。目の前にある天蓋が、木の間にある蜘蛛の巣のように思えた。

「どう?寝心地悪くない?」

「うん、大丈夫そう」

 体を、柔らかなタオルでくるまれているような感覚だった。優しさの中で眠る胎児のように彩音は危うく体を丸めてしまいそうになった。

 手足を伸ばし、天井を向いていると、利香が笑っていた。

「もっと、リラックスしてよ、それだと手足を縛られた人みたいになってるよ」

 照れそうになるのを必死に押さえながら「はいはい」と、ふて腐れたように言って誤魔化して、徐々に力を抜いていく。

 肩まで力が抜けた辺りで、どこまでリラックスしていいのかわからず、利香に声をかけようとしたが、止めた。

 姿は見えなかったが、無心になって鉛筆を走らせる音が聞こえた。それは、話しかけるなという声にも聞こえて、彩音は何も言えなくなった。

 ぼんやりと天井を見る。

 蜘蛛の巣のように広がる天蓋を見つめながら、ゆっくりと現実と空想の合間を溶かして、ぼやかしていく。

 自分が自分でない感覚になる中で、今の自分は水槽の中にいるのだと思った。このベッドの中が、水槽だった。

 あの、教室と言う名の水槽と同じ、だけど、違う場所。

 教室の水槽は、同じ種類熱帯魚が沢山いて、酸素を奪い合って生きている。息苦しくても、それを表に出さずに、ずっと仲間に寄り添って生きていくしかない。それが正しい。少なくとも、自分にとっては。

 だけど、ここは違う。

 一匹だけ連れてこられた彩音という熱帯魚が今、ここで見られているのだ。

 多くの中の一つでもなく、委員長という肩書きでもなく、ただの、一人の人間として連れてこられて、観察されている。

 全てを曝け出しているような感覚に襲われて、開いていた足が自然に閉じてしまいそうになる。慌てて力を込めて、足をそのままの形に保った。

 少し落ち着くために大きく息を吸い込む。枕から香る、利香の匂いが自分の鼻へと入って、脳内に響いた。

 柔らかで、何者にも縛られていない匂い。リンスの匂いを汗が溶かして、上質の砂糖菓子のように甘く、入り込んでくる。

 その中に、自分の匂いも混ざっていた。

 多分、さっき暑い中を歩いてきたせいだろう、粒にならない汗が髪の毛に微細に絡まって、そのまま枕に染みこんで、そこにあった利香の残り香と混ざり合った。

 肌と肌を合わせたような気恥ずかしさを覚えながら、彩音はそのまま体を預けていた。汚らわしい性を幾度か浴びたことのある少女の中に入り込んだ、香りだけの性交は、彼女の体の中に入り込んで、組織の中に溶け込んだ。

 妙ないやらしさもなく、煽るような視覚的淫らさとも無縁の中で生まれた性が、少しだけ花開いて、彼女を困惑させた。

 どうかしている。

 額に右手の甲を当てて、熱を測る。

 特に何もなっていない気がするが、頬に集まっている血液の音がはっきりと聞こえる。片方の視界が手に遮られて、暗闇と天井が彩音の前に現れた。



 シャンバラ。

 その言葉を、声を発しないように呟いた。

 ベッドの外にいる利香と、ベッドの中にいる自分。発狂しそうな程の感情の波の中いる自分と、冷静の中で白いスケッチブックに鉛筆を走らせる利香。それが、相反する二つの世界に見えた。

 この部屋の中を一つの水槽と捉えると、相反する二つの世界が存在するまさにシャンバラの世界だった。

 心臓が壊れそうだった。

 ただ寝ているだけなのに、ただ、頭の中で妄想をしているだけだったのに、心臓は何かを感じ取って、体中に血液を送った。新鮮な酸素を血液に送り込まないと、死んでしまう。血が止まれば、そのまま腐り落ちていく。そんなことが本当に起きてしまいそうだと思いながら、心臓が動いている。

 早く終わらないかな。

 自分の心臓の音を聞きながら、そんなことを思う。だけど、その言葉が心の内から出てくる度に、それに相反するような『終わってほしくない』という言葉が浮かんでは消えていく。

 混乱を覚えながら、彩音は天井の蜘蛛の巣を眺める。

 あの場所に絡まった獲物は、どんな蜘蛛に食べられるのだろうか。牙をむいた大蜘蛛を想像しながら、彩音の意識はどんどん遠ざかっていった。