【百合小説】スイソウノムコウガワ

 利香が帰り、たった一人になった図書室で、彩音は考え事をしていた。

 利香は何を思ってここにきたんだろうか、何か他にも用事があったんではないだろうか。自分が自分語りしてる間に全てが有耶無耶になってしまった気がする。

 ああ、しまった。

 つい興奮して、話しすぎた。

 机の上に自分のおでこを付けながら、彩音は自分と利香の会話を記憶の中から取り出して反芻する。

 その会話があまりに青くて、彩音は瞳を閉じてしまった。そのせいか、聴覚がするどくなり、自分の心臓の音が聞こえた。

 いつもより激しく動くその心臓は、自分のあそこに血を送っているだのだろう。

 彩音はその部分に両手で触れる。手が予想以上に冷たくて、気持ちいい。

 頬に手を付きながら、彩音は目の前のハードカバーの本を見て、時計を見上げた。

 時計は十一時半を過ぎており、彩音は急いで本を広げて読み始めた。だけど、頭の中に全然入ってこず、ただ文字の羅列を目でなぞるだけだった。

 こんなに集中できないのは、久しぶりだった。
「絵のモデル?」

 利香と彩音が初めて会話をしたしばらく後、夏休みの終わる二日前、利香はやっと彩音に自分が図書室に来た理由を伝えた。

「そう、絵のモデル」

 初めて会話したその日、そのまま図書室に戻ってこのことを伝えればよかったのだが、まだ彩音と睡蓮の絵をどうやって絡ませるのかを考えていなかったので、なかなか顔を出せなかった。

 あの日以降、美術部で自由な時間はずっと彼女と睡蓮を絡ませた絵を描いていた。目の前に彩音がいないので、顔も形もぼんやりとしたものにしかならない。けれど、いくつかパターンを描いていくうちに、構図が決まり、あとはモデルとなる彼女に許可を取ればいいだけになった。

「うん、今度の文化祭で絵を出すんだけど、それのモデルになってほしいんだ」

「……ヌード?」

 モデルといえば、ヌード、そんなことを言われるのは何故だろうか。美術部の人間は裸体ばかり描いているわけではないのに。最初にそのイメージを付けた人間がいたとしたら、はた迷惑な話だ。だって、最初に拒否の色が出て、嫌悪する人間が増える。

「違う」

 利香は笑いながら、目の前で手を左右に振る。

「だよね、そんな絵は飾れないもんね」

 少し安堵した表情で彼女が笑う。

 本気でヌードモデルを頼まれると思われていたのだろうか。確かに、描いてはみたい。利香は彩音を上から下までなぞるように見つめる。

「違うん……だよね」

 あまりにジロジロ見つめすぎたせいか、彩音は不安そうにそう尋ねてきた。

「ああ、ごめん。うん、大丈夫、勿論服は着てもらうよ」

「うん……でも」

 やはり断りを入れてくるだろう、利香はそう予想していた。

 モデルを頼むとなると、彼女は自分と一緒に過ごす時間を増やさなければいけない。そうなると、自分達の関係がバレる可能性があるのだ。

 水槽の中で過ごしている彩音にとって、それはもっとも避けなければいけないことだった。ここで下手なことすれば、自分が積み上げてきた全てのことが吹き飛んでしまう。それは、とても怖い。

 水槽の中で行き場を無くした魚は、外には出られない。ただ、隅の方で死を待つか、または仲間割れの果てに殺されるかしかない。

 温かい水の中で冷たい関係を築いている歪な熱帯魚達。

 それが、利香には不思議なものに見えた。

「駄目?」

「……どんな絵を描こうと思っているの?」

 その言葉は、予想外だった。

 もしかしたら興味を持ってくれるかもしれない、とは思っていたけれど、本当に興味を持ってくれるとは思っていなかった。

 断られたら、もう、適当な絵でも描こうと思っていたぐらいだった。

「ちょっと待って」

 利香は学校用のリュックの中に入れているスケッチブックを取り出し、自分の描きたいと思っているものを彼女に見せた・

 それは、絵の真ん中で空を仰ぎながら片手を自分の目の辺りに置いて光を遮り、憂鬱そうな表情でこちらを見つめている少女の絵だった。顔以外にはあまり描き込まれておらず、周辺に咲いている花も、葉の形からかろうじて睡蓮だとわかるぐらいだった。

「これなんだけど、真ん中の人間を彩音にやってほしいの」

 憂鬱そうな瞳で、睡蓮の中で空を見上げる少女。

 想像をしてみた。

 泥の中で生まれて、太陽に焦がれながら水面に茎を伸ばす睡蓮。太陽に出会った瞬間から吸い上げる養分の汚れた場所を忘れたかのように自分の白さを保ちながら咲いていく。

 ああ、確かにこれは自分かもしれない。

 彩音は受け取ったスケッチブックに描かれている仮の自分に指を這わせる。さらさらとしたスケッチブックは、描かれているところだけざらついていて、軽い熱を帯びていた。そこに置いてある黒鉛の線は、もしかしたら、利香の燃える創作意欲の燃えカスなのかもしれない。

 指を離すと、紙の上に描かれている彼女の一部が黒くなって彩音の指先に付いていた。

「どう?」

 利香の言葉に、彩音は卑怯だと思った。

 こんな風に描かれたら、自分はうんと言わざるを得ない。例え、危険を犯しても、この絵になりたい。そう思ってしまうではないか。

「あの、これ、水の中に入ったりしないよね?」

 自分の中の感情を誤魔化す為に、わかりきった質問をすると、利香は微笑んだ。

「しないしない。ああ、でも、髪の毛を濡らしてもらうぐらいはするかも。あと、彩音だってばれない様にメガネも外すし、その髪の毛、全部ほどいてもらうよ」

「じゃあ、いいかな」

「ほんとに?」

 利香は彩音の両手を握り、目を輝かせている。彩音の両手に支えられていたスケッチブックは、そのまま倒れて、静かな図書館の中を少しだけ騒がせて机の上に倒れこんだ。

「う、うん」

「ありがと、助かるよ。本当は断られるかもって思ってたけど、本当に良かった」

 利香は掴んだ手をブンブンと上下に振りながら、教室では見せたことのないような笑顔で彩音を見ていた。

「でも、どこで描くって言うの?学校だと目立つから困るし、それに髪の毛濡らすなんて」

「うん、それでね、そこは悪いんだけど、私の家まで来て欲しいな、って」

「利香の?」

「うん」

「どこだっけ?」

「あの、ここから三十分ぐらい歩いていさ……」

「西に?東に?」

「ごめん、そういうの、わかんない」

「アンタ、中二でしょ?」

「いいの、そういうのは。えーと、どうやって説明すればいいかな」

 うんうんと唸りながら考えている利香を見つめながら、彩音は利香が方向を知らないことに驚いていた。

 東と西がわからないなんて、どうかしてる。

「あのね、利香、東って言うのは」

「あ、わかった!」

 説明を始めようとした瞬間に、利香がルーズリーフを鞄の中から出して、そこに道を描き始めた。

 なるほど、口で伝わらないものは絵で補足する、か。

 さっさと描かれていく利香への道順を見ながら、彩音は利香が美術向きの感性を持っていることに納得をした。

 言葉ではなくて、絵で伝えられる才能があるのだ。

 それは多分、学校という枠の中に納まっていては出来ないものだろう。全てを解放して、自由な発想の中で泳ぎまわらないとできない芸当だ。

「ほい、できた!」

 出来上がったルーズリーフをこちらに渡された。そこには、様々な目印が描かれていた。

 通りにある『楽汽』という喫茶店。たしかここは、数年前に出来た喫茶店で、一度か二度、テレビに出たこともあった有名な喫茶店だった。最初は名前が『らくき』だと思っていたが、母親から『らっきー』と言うと聞いて驚いた覚えがある。数ヶ月前にモーニングを食べに行った際『楽汽』と描かれている看板の隣に『LUCKY』と書いてあるのを見て、二度驚いた覚えがあった。

 その近くにある薬屋、そして、初音神社の前を通って、坂道を下る。

 見覚えのある道順だった。

「あれ、利香って私の家の前通ってるの?」

「え、彩音の家ってどこ?」

「初音神社の前」

「あれ?あそこに住んでたんだ」

「そうよ、でも、会わないもんね」

「でも確かに、そうかも。彩音と一緒のクラスになったのって、多分今回が初めてじゃない?」

「私の記憶が確かなら、そうね」

「そうなると、あんまりしゃべらないよね。特に私、一人で過ごすこと多かったし」

「ふーん」

「じゃあ、話は早いね。最初からそうやって聞いておけばよかった」

「えーと、じゃあ、この地図を見ている限りだと、私の家の前からずーっと坂を下って、線路越えたところにあるのね?」

「そうだね、近くにでっかい公園あるし、わからないならコンビニで待ち合わせとかする?」

「いや、それは止めて。誰かに見つかるかもしんない」

「えー、大丈夫だよ」

「いや、これだけは本当に気をつけないと。男子も女子も、自分達とは違う行動をとる連中には敏感だから。クラスメイト、いいや、同級生に見つかったが最後よ。その情報はすぐに拡散される」

「息苦しいね」

「もう、慣れっこだわ……じゃあ、この道の通りに行くようにするわ。で、いつ行けばいい?」

「そうだね、直ぐにでも製作したいから、明後日の始業式の後とかどう?」

「うん、オッケー。ちょうど先生いないから部活もない」

「あとは、そうだね、九月の一週目の日曜日がいいかな」

「何回か行かないと駄目?」

「うん、悪いけど。一回じゃ多分駄目だと思う。勿論、写真とか撮って資料にして残すから、この二回でなんとかなると思うけど」

「そう、ならいいよ。日曜日は基本的に部活はないの」

「あの、友達への配慮はいいの?」

「ああ、あの子達なら心配ないわ」

「どうして?」

「あの子達、全員運動系の部活に入ってるから」

「どういうこと?」

「今年の運動部系の部活、全然成績残せなかったの、知ってる?」

「知らない」

「だよね。なんかね、今年はてんで駄目だったらしいのよ。勿論、駄目だったのは私達みたいな二年生の代じゃなくて、三年生達なんだけど、もうね、全然駄目。毎年地区予選の準決勝まで行ってたバレー部ですら、二回戦負け。それでね、今年は二年生を鍛えるために、部活の量が増えたんだってさ」

「はあ、大変だねえ」

「そうね、だけど、私にとっては好都合よ。日曜日にまで呼び出されて遊ばなくていいし、もうずっとそのまま部活をしてて欲しいぐらい」

 にやりと笑う彩音の顔が、少しだけ怖い。

「というわけで、なんとかなると思うから、利香の家にお邪魔させてもらうわ」

「うん」

「持っていくものとか、ない?」

「大丈夫、ああ、でもセーラー服だけは持ってきてほしいな」

「えっ、セーラー服?」

「駄目?」

「いや、持っていくのは……ちょっと」

「そっか、じゃあ、私の着てもらえばいいか」

「え、う、うん」

「ん?でも……」

 利香はおもむろに彩音の胸に両手を当て、手を動かし始めた。

「うひゃっ……」

 声を上げて体を捻らせる。

 胸に触れられたのは、家族以外では、これが初めてだった。

「な、なにするのよ、利香!」

「いや、私のサイズに合うかなって」

 自分の胸を揉み、サイズを確かめると、利香は頷いた。

「うん、多分大丈夫。いやー、彩音も大分控え目なんだね」

 その言葉を聞いた瞬間に、彩音は近くにあったハードカバーの本を利香の頭に振り下ろした。

 鈍い音と、利香の『ごしゅっ』という声が図書室に響いた。
ハウスのような風貌のこの家を見上げる。今まで自分が行ったことのある家は、特にこれといって特徴があるわけではなかった。勿論、それには自分の家も含まれる。目立たない、落ち着いた家。それが普通なのだと思っていた。けれど、堂々と建てられているその家を見ていると、自分の中の常識が簡単に崩れていくのがわかる。

 木の階段を上がって、玄関へと行く。『相沢』と書かれている表札の下にある小さなインターフォンを押すと、中から利香が出てきた。

「いらっしゃい」

 レモン色の半袖のTシャツに、下はジャージと言う格好で現れた利香は、満面の笑みで彼女を迎えた。

「お、おじゃまします」

 緊張しながらそう言うと、利香がフフッと笑う。

「そんなに緊張しなくてもいいのに」

 スリッパを出され、家の中へと上がると、ふんわりと木の香りがした。優しいその香りは、どこの家に行っても嗅いだことの無い匂いで、なんだか森の中にいるように思えた。

 一歩家に上がると、右手には色々な絵や彫刻が飾ってあった。ただ、それが誰の作品なのかは、わからない。

「二階なんだ、私の部屋」

 手を引かれ、階段を上っていく。

 利香の部屋に着くと、最初に目に付いたのはベッドだった。天蓋つきのお姫様のようなベッドには、ふんわりとした布団が乗っており、まるで王族が寝る場所に来たのかと錯覚するほどだった。けれど、その周辺に、絵を描くためのイーゼル、スケッチブックが散乱していて、その美しさを著しく壊していた。

「素敵なベッドね」

 彩音が目を輝かせてそう言うと、利香は首をかしげた。

「そっかなあ。もう、こういうのに憧れる歳じゃないんだけど、兄貴が作ってくれたベッドだし、分解しようとするとすっごい嫌がるんだよね」

「これ、手作りなの?」

「え、うん」

 何をそんなに驚いてるんだ、といわんばかりの声を出した。

「手作りって、すごいじゃない!」

「いや、そんなにすごいと思わないけどなあ。兄貴とか、なんでも作っちゃうし、お父さんも昔からなんでも作っては持ってきてたから、特になんとも思わないや」

「利香のお兄さん、何してる人なの?」

「美術大学通ってる学生だよ。先週まで家に居たんだけど、帰っちゃった」

「お父さんは?」

「お父さんは建築家。ついでにお母さんは作家だよ。あんまり売れてないけど、絵本書いてる」

「そうなの?」

「うん」

「なんかすごいね、家族全員でなんか作れる才能があるなんて」

「私、まだ何もしてないけど」

「今から作ろうとしてるじゃない。それに、美術部で何か作ってるんじゃないの?」

「そりゃあ、そうだけど……まだまだだよ」

「そうかなあ……」

 ふと、壁を見ると一枚の絵が飾ってあった。ただ、それには明確な物は描かれておらず、ただ絵の具が飛沫となって描いてあるだけだった。真ん中にわざと落とされたであろう黒い大きな点、そして、くすんだ緑を基調とした下地に縦横無尽に走り回る絵の具の線と、飛沫。特に明確な意図があるわけではないのに、彩音の中に伝わるものがあった。

 その大きな黒い点が特に気になった。

 人を包み込むような、森の優しいくすんだ緑色の中にあるその一点。そこに吸い込まれてしまうような感覚さえ覚えてしまう。

 近寄ってみてみると、そこには凸凹があった。

 生命活動をする血管のように、浮き出ているその凹凸は感情の迸りの様に思える。怒りも悲しみも喜びも、このキャンバスの上に叩きつけられているように思える。

「ねえ、これって誰の絵?」

 ベッドの上においてある漫画本を床に置いている利香に尋ねる。

「ああ、それ?私の去年描いた作品だよ」

「これ、素敵ね」

「ほんと?」

 作業をしている手を止めて、キラキラした笑顔で利香がそういうと、彩音が逆に恥ずかしくなった。

 真っ直ぐに自己を表現できる彼女は少し羨ましい。もし自分がそんな褒められ方をしても、適当にあしらってしまうだろう。ましてやこれが教室だったら、褒めてほしくないとすら思ってしまう。

 目立つから、やめてほしい。

 ずっと質素に生きていたいのだ。

 目立てば目立つほど、足場が削り取られていって、立てなくなる。そんなことはしたくない。

「うん、ほんと」

「そっかぁ……ありがと」

 先程とは違い、はにかんで笑う利香を見て、彩音はドキッとした。

 その素直なかわいさが、眩しくて、そして、自分の汚さが浮き上がってくるような気がしたから。

「でも、こういう絵があったなら、絶対に私覚えてると思うんだけど、なんで覚えてないんだろう」

「ああ、それね……飾ってもらえなかったんだ」

「え?」

「それ、駄目って言われたんだよ。あの、美術部の副顧問の伴野にさ。あのババア、何も知らないで口出してくるから嫌い」

「なんで?」

「絵じゃないんだってさ」

「絵じゃない?」

「これって、アクションペインティングっていう技法で作った作品なんだけど、あの人、そういうの知らないみたい」

「アクションペインティング?」

「うん。例えば刷毛にたっぷりペンキをつけてさ、それを思い切り振ると飛沫になるでしょ?逆にゆっくりとやれば垂らしこんでるみたいになるし、手だけで描くよりも体全体で作れるから楽しかったなあ。でも、駄目だって。何か風景画とか人物画を描きなさいって」

 声のトーンが下がり、顔を背けた利香はそのまま片付けを再開し始めた。先ほどまで嬉しそうに揺れていた小さな背中に、今は黒いものが乗っかっている気がする。

 多分、彼女はこの絵を余程気に入っていたのだろう。その態度、その声の一つ一つに眩しいぐらいの愛しさが詰まっていた。

 そして、やるせなさも。

「ねえ、触ってもいい?」

 彩音がそう言うと、利香が顔を向けた。

「いいけど、あんまり強く触ると形が崩れるし、色が指に移るかもしれないから、少しだけね」

「うん、大丈夫」

 指先を伸ばして、脈動する血管のような絵の具に触れる。

 一年前に描かれた絵とは思えないほどの熱が、そこには込められている気がした。直接熱いわけじゃない。ただ、触れるだけでこちらも触発されてしまいそうなほどの、高温の熱をこれは宿している気がした。

 しかしその感想は、指を動かしていくうちに変わった。

 色の違いによって、指で感じる温度が変わるのだ。

 青色は冷たく、黄色は春を思わせる陽気を感じさせ、緑色は緩く寒い森の中のような温度を宿していた。

 中心の真っ黒な部分に、指が触れた瞬間に彩音は指を離した。その、何も無い温度が、ここは、触れてはいけない場所だったことを告げていた。

 自分と一緒で、表に出してはいけない感情を封じ込めている場所だ。

 彩音はそれを本能的に感じ取っていた。目を閉じて、耳を塞ぎ、そのまま真っ黒な中に沈んでいく自分の姿と、目の前にある真っ黒に塗られた空間がリンクした。

 利香とまだ数度しか会っていないが、自分が彼女と何かを共有しているような錯覚を覚えたのは、こういうことだったのか。

 彩音も利香も、自分の中に深い黒色を持っていた。

 それは、何もかもを飲み込んでしまう黒色で、少し油断すればそのまま沈んでしまいそうになる。けれど、思春期という稀有で、美しくて野蛮で、暴力的な心がそれをギリギリのバランスで許容していて、汚れずにすんでいた。

 それは、まさに今から描かれようとしている睡蓮のようだった。

 泥に吐き出された種子から生まれた穢れを知らずに朽ちていく純潔の花は、二つの相反する世界が同居している。



 シャンバラ。



 利香の言っていた言葉を、声に出さずに口の中で唱えた。

 ゆっくりと黒の場所から指を離した。

「なんか暑いし、温度下げるね」

 目の前で利香がリモコンを操作して、温度を下げた。



 まったく寒さを感じない。もしかして、自分は風邪でもひいたのだろうか。でも、風邪をもらうような場所には行っていない。

 動悸に、頬の熱さ。

 彩音は気付かないうちに、利香との接点に喜びを感じていた。

 自分と彼女は同属なのだ、と。真っ黒な色を持って、そこに何もかもを沈めて、日々を過ごしている私達。

 彼女が何を沈めているのかわからない、けれど、それをどうしても知りたくなった。



 もっと、彼女のことが知りたい。もっと触れたい。



 湧き上がるこの感情は、久しぶりだった。

 クラスの中で結びついてる派閥は、打算的に選んだものだった。ここにいればいじめられる確率が少なくて、そして、身も守れる。

 利香との関係は、そんな風に選んだものではなくて、純粋に、ただ胸のうちにある感情のままに仲良くなりたいと思った。

 初恋にも似ているような気がしたが、それを彼女は打ち消した。

 それは多分、ありえない。

 だって、それは正しいことではないのだから。教科書にも、漫画にも載っていないその行為は、正しくない。

 なんで正しくないのかは、わからない。

 でも、ただ、なんとなく、なんとなく正しくない気がする。だから、この感情は恋ではなくて、ただの……ただの……



 なんだろう……

「彩音、準備できたけど?」

 利香のその声にビックリし、顔を強張らせると、彼女が笑った。

「そんなに緊張しなくても脱がしたりしないから、大丈夫だよ。じゃあ、そこに寝てみて。とりあえずポーズはこの前のスケッチと一緒で、仰向けになってさ……」

 利香の言葉が、遠くなっていく。

 彼女の前で今、無防備になるのが怖い。このまま寝てしまったら、あのベッドに沈み込んで、そのまま何かに飲み込まれてしまいそうな気がした。

「えっと……」

 何かしらの理由を見つけたい。けれども、そんなものはなかった。

 彩音は『なんでもない』と自分自身に言い聞かせて、ベッドに座る。描きやすいようにカーテンは横で縛られていて、枕以外には何もない。真っ白なシーツの上に体を預けると、尻が少しだけ沈みこんだ。

 そのまま体を横にして、仰向けになる。目の前にある天蓋が、木の間にある蜘蛛の巣のように思えた。

「どう?寝心地悪くない?」

「うん、大丈夫そう」

 体を、柔らかなタオルでくるまれているような感覚だった。優しさの中で眠る胎児のように彩音は危うく体を丸めてしまいそうになった。

 手足を伸ばし、天井を向いていると、利香が笑っていた。

「もっと、リラックスしてよ、それだと手足を縛られた人みたいになってるよ」

 照れそうになるのを必死に押さえながら「はいはい」と、ふて腐れたように言って誤魔化して、徐々に力を抜いていく。

 肩まで力が抜けた辺りで、どこまでリラックスしていいのかわからず、利香に声をかけようとしたが、止めた。

 姿は見えなかったが、無心になって鉛筆を走らせる音が聞こえた。それは、話しかけるなという声にも聞こえて、彩音は何も言えなくなった。

 ぼんやりと天井を見る。

 蜘蛛の巣のように広がる天蓋を見つめながら、ゆっくりと現実と空想の合間を溶かして、ぼやかしていく。

 自分が自分でない感覚になる中で、今の自分は水槽の中にいるのだと思った。このベッドの中が、水槽だった。

 あの、教室と言う名の水槽と同じ、だけど、違う場所。

 教室の水槽は、同じ種類熱帯魚が沢山いて、酸素を奪い合って生きている。息苦しくても、それを表に出さずに、ずっと仲間に寄り添って生きていくしかない。それが正しい。少なくとも、自分にとっては。

 だけど、ここは違う。

 一匹だけ連れてこられた彩音という熱帯魚が今、ここで見られているのだ。

 多くの中の一つでもなく、委員長という肩書きでもなく、ただの、一人の人間として連れてこられて、観察されている。

 全てを曝け出しているような感覚に襲われて、開いていた足が自然に閉じてしまいそうになる。慌てて力を込めて、足をそのままの形に保った。

 少し落ち着くために大きく息を吸い込む。枕から香る、利香の匂いが自分の鼻へと入って、脳内に響いた。

 柔らかで、何者にも縛られていない匂い。リンスの匂いを汗が溶かして、上質の砂糖菓子のように甘く、入り込んでくる。

 その中に、自分の匂いも混ざっていた。

 多分、さっき暑い中を歩いてきたせいだろう、粒にならない汗が髪の毛に微細に絡まって、そのまま枕に染みこんで、そこにあった利香の残り香と混ざり合った。

 肌と肌を合わせたような気恥ずかしさを覚えながら、彩音はそのまま体を預けていた。汚らわしい性を幾度か浴びたことのある少女の中に入り込んだ、香りだけの性交は、彼女の体の中に入り込んで、組織の中に溶け込んだ。

 妙ないやらしさもなく、煽るような視覚的淫らさとも無縁の中で生まれた性が、少しだけ花開いて、彼女を困惑させた。

 どうかしている。

 額に右手の甲を当てて、熱を測る。

 特に何もなっていない気がするが、頬に集まっている血液の音がはっきりと聞こえる。片方の視界が手に遮られて、暗闇と天井が彩音の前に現れた。



 シャンバラ。

 その言葉を、声を発しないように呟いた。

 ベッドの外にいる利香と、ベッドの中にいる自分。発狂しそうな程の感情の波の中いる自分と、冷静の中で白いスケッチブックに鉛筆を走らせる利香。それが、相反する二つの世界に見えた。

 この部屋の中を一つの水槽と捉えると、相反する二つの世界が存在するまさにシャンバラの世界だった。

 心臓が壊れそうだった。

 ただ寝ているだけなのに、ただ、頭の中で妄想をしているだけだったのに、心臓は何かを感じ取って、体中に血液を送った。新鮮な酸素を血液に送り込まないと、死んでしまう。血が止まれば、そのまま腐り落ちていく。そんなことが本当に起きてしまいそうだと思いながら、心臓が動いている。

 早く終わらないかな。

 自分の心臓の音を聞きながら、そんなことを思う。だけど、その言葉が心の内から出てくる度に、それに相反するような『終わってほしくない』という言葉が浮かんでは消えていく。

 混乱を覚えながら、彩音は天井の蜘蛛の巣を眺める。

 あの場所に絡まった獲物は、どんな蜘蛛に食べられるのだろうか。牙をむいた大蜘蛛を想像しながら、彩音の意識はどんどん遠ざかっていった。
「起きて、彩音」

 利香の声で、彩音はうっすらと目を開けた。

 水の中から外を見ていたようになっていた世界が徐々に形を取り戻して、ゆっくりと馴染みの世界になった。

「ん?」

 意図せずにそう声を上げた。自分がどうしてここにいるのかを忘れてしまった彩音は、周囲を見渡してから、やっとのことで全てを把握した。

「え、あれ?寝てたの、私」

「うん、ぐっすりと」

「ごっ、ごめん!」

 起き上がって頭を下げると、利香はその頭を抱いた。

「大丈夫だよ、逆に自然な姿が描けてよかった。最初のほうはガチガチだったからどうしようかと思ったけど、寝息が聞こえ始めてからはなんだか自然な感じで仰向けになってたから、すごく描きやすかった。何枚か描いてみたんだけど、見る?」

「うん」

 脇にある開かれたスケッチブックを渡され、中身を確認すると、この前よりもはっきりとしたものが描かれていた。

 しかし、顔だけは十字の線が描かれているだけで、表情が描かれていなかった。

「これ、なんで顔が描かれてないの?」

「今回はさ、とりあえずポージングとか決めたかっただけだし、ほら、この前言ってたセーラー服も、貸してないでしょ?」

「あ、そういえば」

「うん、だから、今回はここまで。それにほら、時間」

 部屋の隅にあるデジタル表示の時計を指差された。十八時数分前を表示しているそれを見ながら、彩音は、そっか、と呟いた。

「とりあえず今日見た感じでまた詰めてさ、今度は本格的にキャンバスに描くから。長時間になると思うんだよね。だから、今日はこれで終わり。今度は髪の毛濡らすから、ちょっと大変だと思うけど、悪いけど協力よろしく」

「うん、わかった」

 ベッドから降りて、脇に置いてある鞄を肩にかける。

「ねえ、今日のことなんだけど」

 急に、冷静になった自分がその言葉を発した。

「勿論、黙ってるよ。私も邪魔されたくないし」

「ありがと」

「玄関まで送るよ」

 他愛の無い会話をしながら、階段を下りていく。上っている時も感じたが、ここの家の階段は少し急だ。降りる時にはそれがよくわかる。前を行く利香のつむじを見て、急斜面であることを認識しないようにしていると、恐怖心が和らいだ。

 あっという間に玄関に着いてしまい、帰りたくなくなった。けれど、そんなわがままを言えるわけもなく、靴をゆっくりと履きながら、少しだけ留まる時間を増やした。

「じゃあ、また」

「うん、また」

 明日、とは言わない。

 明日、水槽の中に帰れば、自分たちは赤の他人に戻る。否が応でもそうしなければいけない。

 それに、そうしてくれと言ったのは、彩音だ。

 水槽に帰ることで、自分が自分でいられると信じてた。だけど、この数日で変わってしまった。

 あの水槽への違和感が拭えなくなっている。

 いっそのこと、水槽を飛び出して……そう考えると、心の底から恐怖が浮かんできて、冷たい血を血管の中に送り込んだ。

 玄関を開けると、風が入り込んだ。

「涼しい……もう、秋の気配って感じだね。昨日までは、夏休みだったのに」

 その言葉に、少しだけ頷いて、彩音は外へと出て行った。

 涼しくなんてない。

 血管を巡る冷たい血が体の感覚を奪っていて、それどころではなかった。だけど、彼女といたいと思った。

 だって、自分を曝け出せるから。

 彩音は風に乗るように早足で歩き出した。背にした夕日が道路の影に異形の化け物のような影を作り出している。

 手と足の長い、人間のような人間でない何か。

 それを見ながら、自分もいつか、水槽の中で腐っていったら、養分にもならずにこんな風に化け物になるんじゃないか、と彩音は心配になった。

 もう一度、風が吹いた。

 そんな心配を少しだけ和らげるような温かい風。

 少しだけほっとしながら、前を向いて歩き出すと、遠くに見える工場で鉄と鉄のぶつかる大きな音がした。
 その後の一週間は、利香と彩音はそれまでと変わらない日々を過ごした。

 ふらりと図書室に現れる利香は、絵の進捗状況を話すと、ああでもない、こうでもないと自分なりの完成図を伝えて、美術室に帰っていった。彩音がしゃべる時もあった。中身は水槽の中身への不満がほとんどだったが、それを彩音は笑いながら『めんどくさいんだねえ』なんて言いながら聞いていた。

 九月になり、夕日が落ちるのが早くなるのもあって、図書館は橙色に染まることが多くなった。暖色に包まれ、柔らかに光る部屋の中で二人の少女は、お互いを理解しあいながら、急速に親しんでいく。

 水槽という教室の中で、素直になれない彩音は、この幸福の中に溺れたいとすら思うようになっていた。すでに、水槽の中への興味は失せていて、今まで培った演技力と惰性だけで周囲と過ごしていた。

 そんな時に、彩音は夢を見た。

 水槽の中で、自分の口から出て行く無数の気泡を見ながら、目の前にあるプラスチックの壁をがんがんと叩いている。壁の向こう側には利香がいて、こちらを不思議そうに眺めている。その目は「なんでそこで苦しんでいるの?」と言っている気がした。しばらくすると利香は、浮かび上がり、目の前を優雅に泳ぎまわる。個性的な尾びれを持った魚のようにセーラー服をひらひらと翻し、夏のセーラー服から出ている細い手足を、ゆっくりと動かしながら、少しだけ自慢するように、楽しく泳いでいる。

 それを見ているだけで自分は苦しくなっていき、意識が遠のきそうになる。そんな中、利香が壁に近寄って口を動かした。

「壁なんて、無いんだよ」

 ただそれだけを告げて、唇を壁に押し当てる。それに縋るように唇を近づけたところで、彩音は決まって目を覚ました。

 何を暗示しているのか、わかっていた。

 夢は、何かを案じさせる為に抽象的な夢を見せると、どこかの本に書いてあるのを思い出す。

 そんなことはなかった。

 自分のうちにあるものが、ほぼそのまま夢となって出ているじゃないか。

 起き上がり、自分の枕元に置いてある時計を見ると、タイマーがセットしてある二分前だった。窓から風が入り込んで、寝汗で濡れているパジャマに当たり、肌寒い。

 今日も演技をしないと。

 ぼんやりとした頭で考える。

 しかし、今週を乗り切れば、明日には利香の家に行ける。今回は何時間も会えるから、楽しみだった。

 だけど、これが終われば自分たちはもう、図書室で会うことしかない。

 周囲に気を遣って、会えるのは十分程度。誰にも怪しまれないように、まるで、秘密で付き合う恋人のように、会うことしかできない。

 それに、文化祭が終われば、もう、会うこともなくなる。

 だって、自分の役目が終わってしまうのだから。

 進む時計を見ながら、彩音はこのまま時が止まってしまえばいい、そうすれば、このままの状態でいられる。変わらずにずっと、このままの関係でいられるのに、と思った。



 ああ、でもそうしたら明日も来ないから、永遠に利香とは会えないまま―――



 それに気付いた瞬間に、アラームが鳴り響いた。
「あの、これ、やっぱりスースーするんだけど」

「はい、入って」

 彩音の訴えはあっさりと却下された。もじもじとしていると、利香が手を引っ張った。

「ほら、早く早く」

「やっ、ちょっ、止めて!ほんと、ほら、なんか恥ずかしいし」

「駄目です、入って」

「やだー!」

「聞き分けの無い委員長さんだね、さっき何食べた?」

 先ほど、有名な洋菓子屋の一個七百円もするケーキを食べた彩音は、その言葉にたじろいだが、搾り出すように言葉を出した。

「……吐き出す」

「却下」

 説明も無しに食べさせられたケーキの味は、どこかに飛んでいってしまった。なぜ、こんなことになったのか。

 今、彩音のセーラー服とスカートの下にあるのは白いTシャツだけだった。下着という代物は、十分前に全て鞄の中に仕舞われてしまった。

 借りたセーラー服を着て、ベッドの上に寝転がるだけだった今回のスケッチは、利香の兄のせいで、大幅に変わることになった。

 利香の兄である直弘が、実家宛に一畳ほどの大きなビニールプールを送ってきたのだった。直弘曰く「遊び用で買ったのはいいけど、直ぐに飽きたから」だそうで、それを見た利香がピンと来てしまったそうだ。

「リアリティのある絵を描きたいんだよね」

 そう言って、ケーキを食べ終えた彩音に話し始めた時の利香の顔は、捕食者のように輝いていた。

 利香の家には少し高めの塀があるのが救いだった。居間と庭は大きな窓で通じており、降りるだけで直ぐに庭に行ける。そこにイーゼルを置いて描くという。

「大丈夫、濡れるって言っても私の服だけだし、シャワーも貸すし」

「いやっ……だって、ほら、あれよ、まだまだ暑いから利香だって困るでしょ?ほら、夏服ないとさ……」

「夏服は二着買うのが当然だし、家の近くにすごーくいいクリーニング屋さんがあるから、今日濡れても明日出せばその日のうちにカラッカラッに乾かしてくれるんだよ」

「いや、だけど」

 言い訳が、もう見つからなかった。

 逃げ出すことも考えたが、胃袋の中に入っている七百円の高級ケーキと、利香に抱いている親しみの気持ちが『はい』と言わせた。

 庭に出されているプールには、どこかで買ってきた睡蓮の花が五個、ところどころに浮いていた。真ん中には、彩音を受け入れるためのスペースが開いている。

 水深はあまり無く、拳を入れたら手首まで浸かるぐらいしかない。しかも水は温かく、気持ちよささえも感じる。

「さ、入ってみましょう」

 利香がそう急かすと、彩音はハイソックスを履いたままの足でその場所へと入り込んだ

 足を水につけた瞬間に、布が水を吸って重くなった。柔らかに触れていた布が足の甲にまでべったりと張り付いて不快感を覚える。水に漬けるために作られた物ではないことを否応無く感じてしまう。

「ねえ、そのスカートの真ん中の洗濯ばさみはそのままなの?」

 利香の言葉に、彩音は口を尖らせた。

「当然です。このまま入ってスカートがふわーってなったらもうお嫁に行けなくなります。なので、これは絶対に外せません、ぜったいっにっ!」

 力強くそう言うと、利香も口を尖らせた。しかし、このぐらいは許して欲しかった。不意打ちをくらっているのはこちらのなのだ。

 ビニールプールに座ると、スカートが水を吸い、解いていた長い髪の端が水に浸かった。スカートは水の中でふんわりと開くようなイメージがあったが、自分の体のラインを強く出すように、腰から下にべったりと張り付いた。

 メガネを外して、利香に渡す。

 視界がぼやけて、少し離れたものの焦点が定まらなくて、現実と空想のぼんやりとした狭間に来ている気がしてきた。

「はい、じゃあ、これ」

 利香から耳栓を受け取り、耳の中に入れた。じんわりと音が遮断されていき、世界が遠くなっていく気がした。

 体の中の音が微かに聞こえるが、それは、水の音にかき消された。水を手で少し弾くと、体の中でも水の音が弾けて、どこかに消えていった。その瞬間に、音も自分の中に飲み込まれていくのだと、彩音は思った。

「じゃあ、よろしくね」

 微かに聞こえる声に頷き、彩音はそのまま寝そべった。

 その場に寝転ぶように寝そべると、耳の穴ギリギリのところまで水がやってきた。セーラー服は水を吸って体に張り付いて、凹凸に乏しい彩音の体のラインを浮かび上がらせた。髪の毛は水に浮いて、ゆらゆらと光と一緒に揺れている。

 彩音が息を吸うと、睡蓮の匂いがした。

 その不思議な香りを吸い込みながら、雲ひとつ無い空を見上げて、彩音は右手の甲をおでこの辺りに乗せた。

 水の揺れる音を聞きながら、彩音はこの場所の心地よさに浸っていた。

 もしかしたら、ここが自分の目指している水槽の外の世界なのかもしれない。

 そんなことを思う。

 利香のいる世界。まっすぐで、邪魔するものなんて無くて、息が詰まることを知らないでいる世界。この真っ青な空のように、どこまでもどこまでもいけてしまいそうな世界に、彼女は住んでいる。

 それが羨ましかった。

 でも、それをするには水槽の中から出て行かなければいけない。そんな勇気が自分にはあるのだろうか。

 ずっと寝ていると寝てしまうのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。こまめに休憩があり、そんな時は決まって利香が大きなバスタオルを彩音にかけた。

 太陽が真上にくる少し前、このまま太陽が昇り続ければ彩音と利香のいる場所の影がなくなって、直射日光が当たる直前に、利香が「出来た!」と叫んで腕を伸ばした。

 微かに聞こえたその声と同時に彩音は水の中から起き上がった。

「できたの?」

 耳栓を外すのを忘れてそう言ってしまって、自分の中に声が響いて酷く気持ち悪い気分を味わった。

 耳栓の端を掴んで耳から抜くと、空気が耳の中に微かな音を立てて入り込んだ。少し涼しくて、こそばゆい。

「うん、できたよ。見る?」

「うん、見せて見せて」

 メガネを受け取り、絵を見る。下描きになっているそれは、睡蓮の中に浮かび上がる少女を見事にキャンバスに封じ込めていた。

 勿論、色がまだ付いていないので、物足りなさもあるが、それを差し引いてもいい絵が描けていた。

 睡蓮の数はプールに浮いている以上に描かれていて、一瞬、睡蓮の園の中で死んでいるみたいに見えた。けれど、顔に触れている手、そして、少し口元の緩んでいる表情からは一切死のイメージが見えない。

「どうかな?」

 彩音はその言葉に答えずに、プールの中で方向転換をして、四つんばいになって絵に近寄っていく。水を吸った制服が重くて、風邪をひいた時の様に手足が重い。

 イーゼルの上に乗ったその絵を近くで見ると、愛おしさがこみ上げてきた。

 なんだか、愛情の篭ったプレゼントを貰ったかのように思えてきて、心臓が跳ねるように動き始めた。

「うん、いい。いいよ」

 何がどういいのかわからず、そう言うと、利香が弾けるような笑顔でそれに答えてくれた。

「嬉しい、ありがとう」

 利香はプールに入り込んで、彩音の前に座り込んだ。

 薄く青いジーンズが、水をあっという間に吸っていく。

「何してるのよ、利香」

「だって、嬉しかったから」

 さらに、濡れている彩音を抱きしめようと利香が犬のように突進してきたので、二人はそのままプールに倒れこむことになった。

 静かな庭に、水音が響く。

 遠くで鳴いている鳥の声も、工場の稼動音も、その音で一瞬だけかき消された後、また何事もなかったかのように、庭の中に入り込んだ。しかし、それは、二人の耳元には届いていない。

 倒れこみ、利香が彩音の胸に顔を当てていると、下で彩音がもがいた。

「ちょっ、何するのよ、利香」

「んー、嬉しかったからもうちょっとだけ」

「濡れるわよ!」

「濡れてもいいよ、ここ、私の家だし」

「とにかく、離れてよ」

「駄目?」

 胸に顔を埋めていた利香が上目遣いでそう言うと、彩音の胸の中で心臓が突き破れるぐらいに跳ねた。耳に、血が流れこんでくるのがわかる。

「駄目っ……じゃないけど」

「じゃあ、もう少しこうする」

「……はいはい」

 諦めたかのようにそう言うと、彩音は空を見上げた。微かに見える太陽が、目を刺したので手で覆った。

 指先から漏れる光を見ながら、背中にある違和感にもう片方の手を伸ばす。

 指先に触れたそれを取り出すと、自分の背中で潰れてしまった睡蓮だった。水を滴らせながら水中から上げられたそれは、花の形が潰れてはいるものの、十分な美しさを保っていた。太陽の光を反射して光るその幸福な花の死に、彩音は少しの切なさを感じていた。

 美しく咲く花が、か弱いことは知っていた。けれど、それを実感することはなかった。今実感したその死は、あまりにも呆気ない。

 胸の中で目を閉じている利香を見ると、彼女はそのまま眠ろうとしているようだった。いつものようにその頭にチョップをお見舞いしようとしたが、手を振り上げたところで止めた。彩音は目を閉じてから、太陽を塞いでいた手を下ろして、利香の背中に両手を当てた。右手に持っている睡蓮を彼女の背中において、抱きしめる。

 太陽の光のせいで赤く焼けている自分の瞼の裏側に、先ほど見た睡蓮の白さと利香の背中を重ね合わせながら、彩音は利香の心臓の音を手で感じていた。

 それは、自分と驚くぐらいに似ていて、愛おしさを覚えた。

「ねえ、彩音」

 腕の中にいた利香が動いて、瞼の色が黒くなった。

 目を開けると、目の前で利香の頭が太陽を遮っていた。光を背負いながら、水を滴らせる彼女は、さっきの睡蓮のように儚くて、すぐに崩れてしまいそうだった。

「私達、こんな風にしか会えないなんて、悲しいね」

 心臓に杭を打たれたかのような衝撃を覚えた。

 利香は、そんなことを言わないと思っていた。

 空気も読まない、人を見ない、ただ自分のためだけに動いて、何もかもを自分の中で消化する人間だと思っていた。だけど、目の前にいる利香は、ただの少女だった。背中で簡単に潰れてしまった、睡蓮のように純潔で、か弱いただの少女。

 それを守ることもできない自分が、酷く醜い気がした。

 誰のためでもない、ただ、あの水槽の中にある『正しいこと』の為に、自分で自分を削って、笑っている。

 それが、恐ろしく気持ち悪い。

 自分は、泥に塗れていると思っていた。

 水槽の中で、汚い人間関係の中で自分を埋没させて、そのまま泥に浸っていると思っていた。でも、それは違う。何も汚れてなんかいなかった。ただ、水槽の中で泳いで、外の世界を否定していただけだった。

 正義も悪も、真実も嘘も、綺麗も醜いも、集団も孤独も、何もかも水槽の中で与えられたものでしかなかった。

 自分はこのまま、泥にもなれずに中学生と言う時間を過ごすのだろうか。

 考えていなかった自分への質問が、心の奥底から現れて、彩音の心を殴った。

 でも、それは響かなかった。彩音の心の中にあるプラスチックの壁は、この中学の二年間で厚くなってしまっていた。

「うん……そうだね」

 心を殺した彩音が利香を抱いた。

 利香は彩音の拒否に気付いたかのようにまた胸に顔を沈めて、静かに泣き出した。

 その頭を抱きながら、彩音は空を見た。

 さっきまで利香が塞いでくれていた太陽の光が容赦なく彼女の目を刺してくる。彩音はしばらく太陽を見つめた。

 目が焼けるぐらいの熱さを感じ始めた後、ゆっくりと目を閉じた。

 眼球の暑さを、瞼が吸い取ってくれるような気がした。出来ることなら、今出そうになっている涙も、このまま蒸発してしまえばいい、そんな風に祈りながら、耳に聞こえる水の揺らぐ音に自分の心を寄せた。
 ビニールプールでモデルをやったあの日以来、利香と彩音は一度も会っていない。

 抱きしめてきた利香に対して、何もしてやれなかった。

 彩音の中に浮かんでくるその後悔は、日に日に大きくなっていった。いつもなら、自分の中にある真っ黒い場所にそれを沈めて、忘れてしまうのを待つだけだったが、今はそれが出来ない。力強ささえ感じるその後悔は、白い花―――まるであの日、彩音の周囲に浮かんでいた純潔な睡蓮のように真っ白で、どれだけ黒い色を重ねても、浮かび上がってくる。

 それに、黒い色が色濃くなればなるほど、不気味なぐらいに真っ白になっていく。強い白は、無視できないぐらいに大きくなっていた。けれど、自分の心の中にあるその異質な白を誰にも見せずに、彩音は日々を過ごしていた。

 利香に対しても、見せるつもりはなかった。

 もし見せたとしたら、自分を取り囲む水槽が壊れてしまいそうだったから。

 息苦しさを覚えつつも、自分はその中にいる心地よさに身を委ねているのだと、気付かされた。

 でも、それを見せる機会はもうないだろう。

 自分と利香は、もう他人になった。

 図書室の掃除を終えた彩音は、昨日まで読んでいた本を開いた。

 内容が頭に入ってこない。だけど、文字を追うだけ追った。

 こういうことは、たまに起こる。何かを気にしている時や、病気の時、生理の時もこれに近い感覚がある。だから、彩音はこの症状の対処に慣れていた。

 文字を追うだけ追って、それでも疲れたら休めばいい。

 それだけのことをすれば、いつの間にか時間が薬になって効いてくる。



 そう、いつかは。



 久しぶりにこの症状になったな。

 そんなことを考えながら、ページを捲る。その音が、図書室の空気中に溶けて消えていく。

 この前なったのは、いつ頃だったっけ。

 ああ、そうだ、あの日だ。

 確か、中学一年生の修了式の日。

 その時同じクラスだった、飯塚という男子生徒が部活の時間に図書室を訪ねてきた。今と同じで、図書室の中には彩音一人しかいなかった。彼は、彩音を見つけた瞬間に、緊張した面持ちになって「少し話があるんだけど」と言った。

 変声期が少しだけ始まっているその声は、小学生の頃に聞いていた男子の声ではなくて、大人びていた。

 彩音は、もうその時点で全てを悟っていた。

 告白される。

 そう、思っていた。

 案の定、少しの沈黙の後に彼は、自分の気持ちを伝えてきた。言葉は、誰かにアドバイスを貰ったかのような飾った言葉ではなくて、素っ気無くて、どこにでもありふれたものだったが、気持ちは本物だと思えた。少し赤面している彼を見て、なんとなくそう思っただけだったけれど。

 だけど、彩音はたった一言『ごめんなさい』と伝えて、彼の恋を終わらせた。

 彼に魅力が無いのではなかった。

 ただ、自分に彼氏ができることで、周囲の人間にどう思われるのか、そして、自分が目立つ存在になってしまうのが怖かった。

「そっか、ごめんね」

 彼はそれだけを告げて、肩を落とし、図書室を出て行った。

 出て行った直後、廊下から飯塚の声ではない声で「まあ、元気出せよ」という声が聞こえてきた。

 誰かが慰めていたのだろう。

 その声を聞いた瞬間に、自分の中にある醜い部分を見てしまった気がして、本を読んでも頭に入って来なくなった。

 その後、二年生になり、飯塚とは別のクラスになった。

 たまに廊下で顔を会わせるが、今ではもう、何も感じない。ただ、一生徒になっている。字が読めなくなる症状も、春休みの中盤には自然と治ってしまった。

 だから、今こんな風になっていても、いつかは治るのだ。

 そう、強く言い聞かせる。

 今まで一人で過ごしてきたところに、たまたま異質な存在として利香がやってきただけだったのだ。それがこの先、前のようにたった一人だけに戻るだけの話だ。

 そう、もう自分の水面が揺れることはない。水槽の中の平和は保たれて、何も心配することなどない。

 この胸の中の白い睡蓮も、やがて枯れ果てるだろう。

 本を閉じて、両腕を上に向かって、天井に触れるぐらいの勢いで伸びをした後に、窓際まで歩いた。窓から外を見ると運動場が、夕日の色に染まっていた。

 その中で蠢く運動部員達が、自由気ままに泳ぐ魚達に見える。

 いつもは、教室という名の水槽の中にいる彼らが、初めて自由に見えた。そっと手を伸ばすと、ガラスに自分の指が触れ、冷たさを感じた。強く指で押すと、窓枠が微かに鳴っただけで、何も変わることはなかった。

 ああ、ここも水槽か。そうなると、今、目の前で泳いでいるあの子達は外の住人になるのか。

 自由に泳ぐ彼らを見ながら、彩音は眩しさを感じた。

 いつの間に、こんな風になってしまったのだろうか。

 水槽の中に長くいた自分は、すっかりと化け物になってしまった。

 ゆっくりと指を離して、触れた指先をもう片方の手で包み込んで、胸の前に持ってきた。温かさも、冷たさも感じない、ただ、指先が指先であるだけという、冷静な感覚。感動も、悲哀もない。

 泣き出しそうだった。

 自分の愚かさに、自分の悲しみに、自分の孤独に。

 あの時、彼女の気持ちに応えることが出来たなら、こんな感情を抱くことはなかった。でも、女の子が女の子を好きになることが正しいとは思えなかった。だから、彼女を拒絶するしかなかった。

 拒絶することが、この世界では、この水槽では、普通のことだった。

 それをしたのだから、今、自分はここにいる。普通という世界に。水槽の中の世界に。自分が認めた、息苦しくて、死んでいく世界に。

 なのに、なんで。

 なんで自分の中の後悔がこんなにも広がっていくのだろう。

 あれは正しくなかった、それでいいじゃないか。ただ、それだけの話じゃないか。なんで、なんで、なんで。その言葉を心の奥に放つ度に、睡蓮は益々色付いていく。純潔なままの白さをもっと濃くしながら、活き活きとして、花を開く。

 生命の力をみせびらかすように、彩音の心に咲いていく。

 その真っ黒な場所に一つの波紋が広がる。水面に映っていた睡蓮がぐにゃりと曲げて、どこかに消えていった。

 そして、もう一つ同じように水面に波紋が出来た。

 時間を置いて、もう一つ。そして、その直ぐ後にまた一つ。

 彩音の頬から落ちた滴は、現実の世界で床の上に落ちて夕日を浴びて光っていた。それは、彩音の悲しさを否定するように美しかった。その後、滴は幾度も床に落ちて、その度に夕日を浴びて光った。

 数分後には、それは小さな水溜りになって、窓から見える空を反射した。ガラス越しに見える空。夕日の色を存分に吸収した空が、夜の闇を受け入れ始めて、徐々に黒く染まりつつあった。

 彩音は、やっと涙を袖口で拭うと、スカートのポケットからティッシュを取り出して、床を拭いた。洟をすすり、出ようとしてくる涙を必死に押さえつけながら、少し歪み始めている目の前を頼りに、掃除を続ける。

 その時、何の前触れもなく、図書室のドアが開いた。

「利香?」

 そんなことを言いそうになったが、入ってきたのは文学部の顧問の水木だった。

「もうそろそろ下校時間だぞ。帰れよー」

 そう声をかけた後で、直ぐに水木は帰っていった。こんな風に一声かけるだけで終わることも、よくあったので、彩音は不思議にも思わなかった。むしろ、今日は誰にも声をかけられたくないし、顔も見られたくなかったので、好都合だ。

 もう一度洟をすすると、床を拭いていたティッシュを折りたたんで、立ち上がる。

 さ、もう帰らないと。

 誰もいない図書室でそう呟いて、彩音はゴミ箱のある貸出カウンターへと歩んでいった。
 四階にある美術室に差し込む夕日は、部屋の中にハッキリとした明暗を作り出していた。十月の文化祭を明日に控えたこの部屋の中には、展示品が綺麗に揃えてあり、準備万端の状態にあった。そんな中、一人で利香は自分の絵を見ていた。

 あの時、彩音が何か言ってくれたら……。

 自分の描いた絵の前で、利香はふとそんなことを思っていた。

 この絵の下絵を描いたあの日から、彩音とは一言もしゃべっていない。

 元々仲が良かったわけでもないので、メールアドレスも、SNSのアカウントも知らなかった。だから、連絡をとることもなかった。

 教室でしゃべることができたらどんなに気楽だっただろうか。

 だけど、それは彩音が一番嫌がったことだった。水槽の中を荒らしてしまうような行為は、彼女にとって致命的なことになりかねない。だから、話しかけることは出来ない。

 図書室に行けば、簡単に会えることもわかっていた。だけど、そこで拒否されるような態度を示されたら、それこそ自分は、この絵を描けなくなるだろう。

 全てが仕上がったこの絵を、彼女に見せたい。だけど、それをすることは酷く恐ろしかった。

 それに、もしか自分達が仲良くしていたのがばれてしまったら、彩音はもう、あの教室の中で孤立しか出来ない。そうなったら、自分のところに彼女の恨みの矛先が向かってくるかもしれないのだ。

 そんなのは嫌だった。

 油絵で描かれた睡蓮と彩音の絵にそっと触れる。水面に浮かんでいる睡蓮と、半分沈んでしまって水を吸ったセーラー服が体にまとわり付いて、体のラインを露にしている彩音。セーラー服の白さよりも、睡蓮の白さのほうが目立っている。水の底には茶色で表現してある泥がところどころに入っている。

 浮かんでいる睡蓮に人差し指で触れると、少しだけ色が付いた。親指でそれをこすったけれど、それは消えない。そのまま彩音の腹の辺りに触れた。そこには、体に張り付いたセーラー服があった。



 夏のセーラー服を仕舞う際に、背中にセーラー服の白さとは違う白さがあることに気付いたのは、あのスケッチの日から数日経ってからだった。

 彩音が背中で潰した睡蓮の色が少しだけではあるが、制服を汚していたのだ。よく見なければわからないぐらいに微細な違いではあったが、確かに、付いている。

 それは、睡蓮の形をしていた。

 匂いを嗅いだが、そこには洗剤の匂いしか残っていなかった。本当にほんの少しだけ、彩音の匂いが残っていて、利香は悲しさを覚えた。

 なんで自分はあんな風に告白をしてしまったのだろうか。

 相手はあれだけ水槽の中に拘っていた人なのに、なぜ自分の思いを告げてしまったのだろうか。

 そんなのは、わかっていた。

 彩音が好きだからだ。

 綺麗なフリをしながら、どろどろとした自分を容認している彩音。睡蓮みたいに病的なほどの純潔さだけを周囲に見せながら、たった一人でその孤独と向き合っている彼女が、少し寂しそうに見えたからだ。

 もっと心の奥深くで繋がりたい。

 そんなことを思って、自分は彩音に思いを告げようとした。

 だって、あのまま彩音を放っておいたら、彼女は多分、水槽の中で溺死していただろう。空気がないことはわかっているのに、逃げない。そんなのは間違っている。だから、彼女のいる場所を壊すために、告白をした。

 二人でなら、逃げられる。

 二人でなら、水槽の外でもやっていける。

 それを彼女に伝えたかった。

 だけど、彼女はそれを拒絶したのだ。

 水槽の中で死んでいくのを、彼女は選んだ。仲間同士で空気を奪い合って生きていく、そんな生き方を。

 簡単に壊せると思った水槽の壁は、かなり厚くて、それ以上は何もできなかった。だから、利香は彼女に会いに行くことをやめた。

 これ以上、外の世界を見せるのは酷だと思ったからだ。

 水槽なんてない、と教えてあげたかったけれど、もうそれは叶わない。教えるだけで、彼女も自分も苦しむことになる。

 利香はそっと背中に触れる。

 夏服の、睡蓮の染みのあったその場所に。

 何も無いはずなのに、愛しいぐらいの温かさを感じる。ほんの数日だけの関係だったのに、こんなにも柔らかで温かい思いを彼女は自分に残してくれた。

 そんなことを思うと、この染みが愛おしくてたまらない。

 これからも、彼女とはしゃべることはないだろう。

 彼女は水槽の中で大人になっていく。自分は、彼女の言う外の世界を一人で生きていくのだ。

 もし、これから寂しくなった時は、こうやって背中を撫でて彼女を感じるのだろう。少しだけ分かり合えた彼女との絆。

 心臓の裏を指先で軽く撫でながら、利香は目を閉じた。

 明日はもう、文化祭だ。

 今日はもう絵を飾ってしまったから、明日は何もすることはない。クラスの出し物も、誰かが見張りをするのがめんどくさい、何かを用意するのがめんどくさい、という理由で修学旅行の写真の展示というどうでもいいもので終わっている。

 ふらふらと各教室を回ったら、美術部にずっといればいいか。

 溜息をつき、帰ろうとしたその時、美術室のドアが開いた。

「何してるの!早く帰りなさい!とっくに下校時刻は過ぎてるのよ!」

 金切り声に近いような声で、何も言わずにそう言ってきたのは、美術部の副顧問の伴野だった。

 眉間に皺が寄るのがわかる。

 めんどくさい上にうっとおしいのがやって来たな。

「もう、帰ります」

 出来るだけ悪意を込めて、だけど、言葉は普通に。呪いを吐くようにそう言ったが、

「さあさあ、早く出て!すぐに閉めたいから!」

と、伴野はそう言うだけだった。

 机にあるリュックと鞄を手にとると、伴野の脇を通りぬけていく。極力肌も、布ですらも合わせたくない。ましてや、彼女の吐いた空気なんか吸い込みたくもなかった利香は、息を止めて早足でその場を立ち去った。

「あら、展示は出来たのね」

 先ほどの金切り声とは違う、嫌悪感を抱くような甘ったるい声でそう言うと、彼女は美術室の中に入っていってしまった。

 あんな声、授業で行くのも嫌なのに。こんなところで聞くことになるなんて最悪。

 悪態をつきながら、利香は早足でその場から離れ始める。

 階段を二段ほど下りた所で、彼女はやっと息を吸い始めた。