ハウスのような風貌のこの家を見上げる。今まで自分が行ったことのある家は、特にこれといって特徴があるわけではなかった。勿論、それには自分の家も含まれる。目立たない、落ち着いた家。それが普通なのだと思っていた。けれど、堂々と建てられているその家を見ていると、自分の中の常識が簡単に崩れていくのがわかる。
木の階段を上がって、玄関へと行く。『相沢』と書かれている表札の下にある小さなインターフォンを押すと、中から利香が出てきた。
「いらっしゃい」
レモン色の半袖のTシャツに、下はジャージと言う格好で現れた利香は、満面の笑みで彼女を迎えた。
「お、おじゃまします」
緊張しながらそう言うと、利香がフフッと笑う。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
スリッパを出され、家の中へと上がると、ふんわりと木の香りがした。優しいその香りは、どこの家に行っても嗅いだことの無い匂いで、なんだか森の中にいるように思えた。
一歩家に上がると、右手には色々な絵や彫刻が飾ってあった。ただ、それが誰の作品なのかは、わからない。
「二階なんだ、私の部屋」
手を引かれ、階段を上っていく。
利香の部屋に着くと、最初に目に付いたのはベッドだった。天蓋つきのお姫様のようなベッドには、ふんわりとした布団が乗っており、まるで王族が寝る場所に来たのかと錯覚するほどだった。けれど、その周辺に、絵を描くためのイーゼル、スケッチブックが散乱していて、その美しさを著しく壊していた。
「素敵なベッドね」
彩音が目を輝かせてそう言うと、利香は首をかしげた。
「そっかなあ。もう、こういうのに憧れる歳じゃないんだけど、兄貴が作ってくれたベッドだし、分解しようとするとすっごい嫌がるんだよね」
「これ、手作りなの?」
「え、うん」
何をそんなに驚いてるんだ、といわんばかりの声を出した。
「手作りって、すごいじゃない!」
「いや、そんなにすごいと思わないけどなあ。兄貴とか、なんでも作っちゃうし、お父さんも昔からなんでも作っては持ってきてたから、特になんとも思わないや」
「利香のお兄さん、何してる人なの?」
「美術大学通ってる学生だよ。先週まで家に居たんだけど、帰っちゃった」
「お父さんは?」
「お父さんは建築家。ついでにお母さんは作家だよ。あんまり売れてないけど、絵本書いてる」
「そうなの?」
「うん」
「なんかすごいね、家族全員でなんか作れる才能があるなんて」
「私、まだ何もしてないけど」
「今から作ろうとしてるじゃない。それに、美術部で何か作ってるんじゃないの?」
「そりゃあ、そうだけど……まだまだだよ」
「そうかなあ……」
ふと、壁を見ると一枚の絵が飾ってあった。ただ、それには明確な物は描かれておらず、ただ絵の具が飛沫となって描いてあるだけだった。真ん中にわざと落とされたであろう黒い大きな点、そして、くすんだ緑を基調とした下地に縦横無尽に走り回る絵の具の線と、飛沫。特に明確な意図があるわけではないのに、彩音の中に伝わるものがあった。
その大きな黒い点が特に気になった。
人を包み込むような、森の優しいくすんだ緑色の中にあるその一点。そこに吸い込まれてしまうような感覚さえ覚えてしまう。
近寄ってみてみると、そこには凸凹があった。
生命活動をする血管のように、浮き出ているその凹凸は感情の迸りの様に思える。怒りも悲しみも喜びも、このキャンバスの上に叩きつけられているように思える。
「ねえ、これって誰の絵?」
ベッドの上においてある漫画本を床に置いている利香に尋ねる。
「ああ、それ?私の去年描いた作品だよ」
「これ、素敵ね」
「ほんと?」
作業をしている手を止めて、キラキラした笑顔で利香がそういうと、彩音が逆に恥ずかしくなった。
真っ直ぐに自己を表現できる彼女は少し羨ましい。もし自分がそんな褒められ方をしても、適当にあしらってしまうだろう。ましてやこれが教室だったら、褒めてほしくないとすら思ってしまう。
目立つから、やめてほしい。
ずっと質素に生きていたいのだ。
目立てば目立つほど、足場が削り取られていって、立てなくなる。そんなことはしたくない。
「うん、ほんと」
「そっかぁ……ありがと」
先程とは違い、はにかんで笑う利香を見て、彩音はドキッとした。
その素直なかわいさが、眩しくて、そして、自分の汚さが浮き上がってくるような気がしたから。
「でも、こういう絵があったなら、絶対に私覚えてると思うんだけど、なんで覚えてないんだろう」
「ああ、それね……飾ってもらえなかったんだ」
「え?」
「それ、駄目って言われたんだよ。あの、美術部の副顧問の伴野にさ。あのババア、何も知らないで口出してくるから嫌い」
「なんで?」
「絵じゃないんだってさ」
「絵じゃない?」
「これって、アクションペインティングっていう技法で作った作品なんだけど、あの人、そういうの知らないみたい」
「アクションペインティング?」
「うん。例えば刷毛にたっぷりペンキをつけてさ、それを思い切り振ると飛沫になるでしょ?逆にゆっくりとやれば垂らしこんでるみたいになるし、手だけで描くよりも体全体で作れるから楽しかったなあ。でも、駄目だって。何か風景画とか人物画を描きなさいって」
声のトーンが下がり、顔を背けた利香はそのまま片付けを再開し始めた。先ほどまで嬉しそうに揺れていた小さな背中に、今は黒いものが乗っかっている気がする。
多分、彼女はこの絵を余程気に入っていたのだろう。その態度、その声の一つ一つに眩しいぐらいの愛しさが詰まっていた。
そして、やるせなさも。
「ねえ、触ってもいい?」
彩音がそう言うと、利香が顔を向けた。
「いいけど、あんまり強く触ると形が崩れるし、色が指に移るかもしれないから、少しだけね」
「うん、大丈夫」
指先を伸ばして、脈動する血管のような絵の具に触れる。
一年前に描かれた絵とは思えないほどの熱が、そこには込められている気がした。直接熱いわけじゃない。ただ、触れるだけでこちらも触発されてしまいそうなほどの、高温の熱をこれは宿している気がした。
しかしその感想は、指を動かしていくうちに変わった。
色の違いによって、指で感じる温度が変わるのだ。
青色は冷たく、黄色は春を思わせる陽気を感じさせ、緑色は緩く寒い森の中のような温度を宿していた。
中心の真っ黒な部分に、指が触れた瞬間に彩音は指を離した。その、何も無い温度が、ここは、触れてはいけない場所だったことを告げていた。
自分と一緒で、表に出してはいけない感情を封じ込めている場所だ。
彩音はそれを本能的に感じ取っていた。目を閉じて、耳を塞ぎ、そのまま真っ黒な中に沈んでいく自分の姿と、目の前にある真っ黒に塗られた空間がリンクした。
利香とまだ数度しか会っていないが、自分が彼女と何かを共有しているような錯覚を覚えたのは、こういうことだったのか。
彩音も利香も、自分の中に深い黒色を持っていた。
それは、何もかもを飲み込んでしまう黒色で、少し油断すればそのまま沈んでしまいそうになる。けれど、思春期という稀有で、美しくて野蛮で、暴力的な心がそれをギリギリのバランスで許容していて、汚れずにすんでいた。
それは、まさに今から描かれようとしている睡蓮のようだった。
泥に吐き出された種子から生まれた穢れを知らずに朽ちていく純潔の花は、二つの相反する世界が同居している。
シャンバラ。
利香の言っていた言葉を、声に出さずに口の中で唱えた。
ゆっくりと黒の場所から指を離した。
「なんか暑いし、温度下げるね」
目の前で利香がリモコンを操作して、温度を下げた。
まったく寒さを感じない。もしかして、自分は風邪でもひいたのだろうか。でも、風邪をもらうような場所には行っていない。
動悸に、頬の熱さ。
彩音は気付かないうちに、利香との接点に喜びを感じていた。
自分と彼女は同属なのだ、と。真っ黒な色を持って、そこに何もかもを沈めて、日々を過ごしている私達。
彼女が何を沈めているのかわからない、けれど、それをどうしても知りたくなった。
もっと、彼女のことが知りたい。もっと触れたい。
湧き上がるこの感情は、久しぶりだった。
クラスの中で結びついてる派閥は、打算的に選んだものだった。ここにいればいじめられる確率が少なくて、そして、身も守れる。
利香との関係は、そんな風に選んだものではなくて、純粋に、ただ胸のうちにある感情のままに仲良くなりたいと思った。
初恋にも似ているような気がしたが、それを彼女は打ち消した。
それは多分、ありえない。
だって、それは正しいことではないのだから。教科書にも、漫画にも載っていないその行為は、正しくない。
なんで正しくないのかは、わからない。
でも、ただ、なんとなく、なんとなく正しくない気がする。だから、この感情は恋ではなくて、ただの……ただの……
なんだろう……
木の階段を上がって、玄関へと行く。『相沢』と書かれている表札の下にある小さなインターフォンを押すと、中から利香が出てきた。
「いらっしゃい」
レモン色の半袖のTシャツに、下はジャージと言う格好で現れた利香は、満面の笑みで彼女を迎えた。
「お、おじゃまします」
緊張しながらそう言うと、利香がフフッと笑う。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
スリッパを出され、家の中へと上がると、ふんわりと木の香りがした。優しいその香りは、どこの家に行っても嗅いだことの無い匂いで、なんだか森の中にいるように思えた。
一歩家に上がると、右手には色々な絵や彫刻が飾ってあった。ただ、それが誰の作品なのかは、わからない。
「二階なんだ、私の部屋」
手を引かれ、階段を上っていく。
利香の部屋に着くと、最初に目に付いたのはベッドだった。天蓋つきのお姫様のようなベッドには、ふんわりとした布団が乗っており、まるで王族が寝る場所に来たのかと錯覚するほどだった。けれど、その周辺に、絵を描くためのイーゼル、スケッチブックが散乱していて、その美しさを著しく壊していた。
「素敵なベッドね」
彩音が目を輝かせてそう言うと、利香は首をかしげた。
「そっかなあ。もう、こういうのに憧れる歳じゃないんだけど、兄貴が作ってくれたベッドだし、分解しようとするとすっごい嫌がるんだよね」
「これ、手作りなの?」
「え、うん」
何をそんなに驚いてるんだ、といわんばかりの声を出した。
「手作りって、すごいじゃない!」
「いや、そんなにすごいと思わないけどなあ。兄貴とか、なんでも作っちゃうし、お父さんも昔からなんでも作っては持ってきてたから、特になんとも思わないや」
「利香のお兄さん、何してる人なの?」
「美術大学通ってる学生だよ。先週まで家に居たんだけど、帰っちゃった」
「お父さんは?」
「お父さんは建築家。ついでにお母さんは作家だよ。あんまり売れてないけど、絵本書いてる」
「そうなの?」
「うん」
「なんかすごいね、家族全員でなんか作れる才能があるなんて」
「私、まだ何もしてないけど」
「今から作ろうとしてるじゃない。それに、美術部で何か作ってるんじゃないの?」
「そりゃあ、そうだけど……まだまだだよ」
「そうかなあ……」
ふと、壁を見ると一枚の絵が飾ってあった。ただ、それには明確な物は描かれておらず、ただ絵の具が飛沫となって描いてあるだけだった。真ん中にわざと落とされたであろう黒い大きな点、そして、くすんだ緑を基調とした下地に縦横無尽に走り回る絵の具の線と、飛沫。特に明確な意図があるわけではないのに、彩音の中に伝わるものがあった。
その大きな黒い点が特に気になった。
人を包み込むような、森の優しいくすんだ緑色の中にあるその一点。そこに吸い込まれてしまうような感覚さえ覚えてしまう。
近寄ってみてみると、そこには凸凹があった。
生命活動をする血管のように、浮き出ているその凹凸は感情の迸りの様に思える。怒りも悲しみも喜びも、このキャンバスの上に叩きつけられているように思える。
「ねえ、これって誰の絵?」
ベッドの上においてある漫画本を床に置いている利香に尋ねる。
「ああ、それ?私の去年描いた作品だよ」
「これ、素敵ね」
「ほんと?」
作業をしている手を止めて、キラキラした笑顔で利香がそういうと、彩音が逆に恥ずかしくなった。
真っ直ぐに自己を表現できる彼女は少し羨ましい。もし自分がそんな褒められ方をしても、適当にあしらってしまうだろう。ましてやこれが教室だったら、褒めてほしくないとすら思ってしまう。
目立つから、やめてほしい。
ずっと質素に生きていたいのだ。
目立てば目立つほど、足場が削り取られていって、立てなくなる。そんなことはしたくない。
「うん、ほんと」
「そっかぁ……ありがと」
先程とは違い、はにかんで笑う利香を見て、彩音はドキッとした。
その素直なかわいさが、眩しくて、そして、自分の汚さが浮き上がってくるような気がしたから。
「でも、こういう絵があったなら、絶対に私覚えてると思うんだけど、なんで覚えてないんだろう」
「ああ、それね……飾ってもらえなかったんだ」
「え?」
「それ、駄目って言われたんだよ。あの、美術部の副顧問の伴野にさ。あのババア、何も知らないで口出してくるから嫌い」
「なんで?」
「絵じゃないんだってさ」
「絵じゃない?」
「これって、アクションペインティングっていう技法で作った作品なんだけど、あの人、そういうの知らないみたい」
「アクションペインティング?」
「うん。例えば刷毛にたっぷりペンキをつけてさ、それを思い切り振ると飛沫になるでしょ?逆にゆっくりとやれば垂らしこんでるみたいになるし、手だけで描くよりも体全体で作れるから楽しかったなあ。でも、駄目だって。何か風景画とか人物画を描きなさいって」
声のトーンが下がり、顔を背けた利香はそのまま片付けを再開し始めた。先ほどまで嬉しそうに揺れていた小さな背中に、今は黒いものが乗っかっている気がする。
多分、彼女はこの絵を余程気に入っていたのだろう。その態度、その声の一つ一つに眩しいぐらいの愛しさが詰まっていた。
そして、やるせなさも。
「ねえ、触ってもいい?」
彩音がそう言うと、利香が顔を向けた。
「いいけど、あんまり強く触ると形が崩れるし、色が指に移るかもしれないから、少しだけね」
「うん、大丈夫」
指先を伸ばして、脈動する血管のような絵の具に触れる。
一年前に描かれた絵とは思えないほどの熱が、そこには込められている気がした。直接熱いわけじゃない。ただ、触れるだけでこちらも触発されてしまいそうなほどの、高温の熱をこれは宿している気がした。
しかしその感想は、指を動かしていくうちに変わった。
色の違いによって、指で感じる温度が変わるのだ。
青色は冷たく、黄色は春を思わせる陽気を感じさせ、緑色は緩く寒い森の中のような温度を宿していた。
中心の真っ黒な部分に、指が触れた瞬間に彩音は指を離した。その、何も無い温度が、ここは、触れてはいけない場所だったことを告げていた。
自分と一緒で、表に出してはいけない感情を封じ込めている場所だ。
彩音はそれを本能的に感じ取っていた。目を閉じて、耳を塞ぎ、そのまま真っ黒な中に沈んでいく自分の姿と、目の前にある真っ黒に塗られた空間がリンクした。
利香とまだ数度しか会っていないが、自分が彼女と何かを共有しているような錯覚を覚えたのは、こういうことだったのか。
彩音も利香も、自分の中に深い黒色を持っていた。
それは、何もかもを飲み込んでしまう黒色で、少し油断すればそのまま沈んでしまいそうになる。けれど、思春期という稀有で、美しくて野蛮で、暴力的な心がそれをギリギリのバランスで許容していて、汚れずにすんでいた。
それは、まさに今から描かれようとしている睡蓮のようだった。
泥に吐き出された種子から生まれた穢れを知らずに朽ちていく純潔の花は、二つの相反する世界が同居している。
シャンバラ。
利香の言っていた言葉を、声に出さずに口の中で唱えた。
ゆっくりと黒の場所から指を離した。
「なんか暑いし、温度下げるね」
目の前で利香がリモコンを操作して、温度を下げた。
まったく寒さを感じない。もしかして、自分は風邪でもひいたのだろうか。でも、風邪をもらうような場所には行っていない。
動悸に、頬の熱さ。
彩音は気付かないうちに、利香との接点に喜びを感じていた。
自分と彼女は同属なのだ、と。真っ黒な色を持って、そこに何もかもを沈めて、日々を過ごしている私達。
彼女が何を沈めているのかわからない、けれど、それをどうしても知りたくなった。
もっと、彼女のことが知りたい。もっと触れたい。
湧き上がるこの感情は、久しぶりだった。
クラスの中で結びついてる派閥は、打算的に選んだものだった。ここにいればいじめられる確率が少なくて、そして、身も守れる。
利香との関係は、そんな風に選んだものではなくて、純粋に、ただ胸のうちにある感情のままに仲良くなりたいと思った。
初恋にも似ているような気がしたが、それを彼女は打ち消した。
それは多分、ありえない。
だって、それは正しいことではないのだから。教科書にも、漫画にも載っていないその行為は、正しくない。
なんで正しくないのかは、わからない。
でも、ただ、なんとなく、なんとなく正しくない気がする。だから、この感情は恋ではなくて、ただの……ただの……
なんだろう……