「三船先生」
呼びかけると、窓の外を眺めていた先生がはっとしたように振り向いた。
「……吉野くん、正気?」
「失礼ですね、正気ですよ」
僕の答えに、先生は困ったような笑みを浮かべる。
「だってまさか卒業式にまでここに来るとは思わないじゃない?」
「先生だって来てるじゃないですか。本来なら今日は閉館日なのに」
入学式や卒業式、離任式など、式典がある日は本来図書室の閉館日だ。それでも先生は今日ここにいる。口では色々言っているけれど、きっと僕を待っていてくれたのだろう。自惚れでなくそう思えるくらいには、僕は先生のことを知っているつもりだ。
「親御さんは?」
「もう帰りました」
「……お友達、とか」
「別れを惜しむほど親しい友達はいないです。先生だって知ってますよね」
そんなに仲の良い友達がいたら、僕はこの一年間図書室に通い詰めていない。
僕の返答を聞くと、先生は小さくひとつため息を吐いた。
「これじゃあ吉野くんを追い返せないじゃない」
「追い返されたら困るんで。……それに、たとえ追い返されてもまた先生のところに来ますよ」
「今日で卒業しちゃうのに?一介の司書教諭にそこまでする意味が分からないな」
その言葉はやけに白々しく響いた。
分かっているくせに、と思う。三船先生は特別敏いわけではないけれど、「卒業式が終わったら話したいことがあるんです」と言われて内容が察せないほど鈍くもないはずだ。
僕は今日、三船先生に告白をしに来た。
僕たちの関係が"先生と生徒"でなくなるこの日に、抱え続けた想いに終止符を打つために。
「好きです、三船先生」
視線は逸らさなかった。ただ真っ直ぐに先生の目を見つめた。
その瞳は戸惑うようにゆらゆらと揺れている。
まるで先生に初めて会った時のようだ。僕はふとそう思った。
進級して早々に"雑用を押し付けても許されるヤツ"だと認識されてしまったのは不運でしかない。「吉野くんって帰宅部だよね?それなら図書委員やってもらってもいいかな?」という委員長の言葉を思い出し、僕はひとつため息を吐く。やってもらってもいいかな?なんてお願いの体で言われたけれど、あれは実質強制だ。だって、うちのクラスは僕以外に帰宅部がいないのだ。これで断ったら確実にクラスメイトからの心象は悪くなる。特別本が好きなわけでもないのに仕事が多いと分かりきっている図書委員になるのは嫌だったけれど、こうなると断ることなど不可能だ。僕は渋々委員長の頼みを引き受け、仕方なしに図書委員になった。
そんな経緯で図書委員となった身なのだから、図書室の引き戸を乱暴に引いてしまったのも致し方ないと言えるだろう。なんて言い訳してみたけれど、勢いよく戸を引いたせいで響きわたった騒音はなかったことにできない。その証拠に、図書の先生と思しき女性が険しい顔でこちらを見つめてきた。
「君は今日の図書当番の子かな」
「……はい、そうです」
問いかける声は冷ややかだ。この後お叱りの言葉が飛んでくるであろうことは容易に想像できて、僕はそっと視線を逸した。
「学年と組、それから名前を教えてくれる?」
図書の先生が図書委員の名前を覚えなければならないのは当然のはずなのに、鋭い視線のせいで尋問されているように感じる。
「三年一組、吉野楓です」
答える僕の声は情けなく震えていた。艶のある黒髪に大きな瞳を持ち合わせたその先生はなかなかに美人で、それ故に迫力があったのだ。
いつ怒られるだろうか、と内心ドキドキしていると、僕の予想に反して先生は薄く笑みを浮かべた。
「吉野くん、ね。私は司書教諭の三船美波です。よろしく」
「あ、はい、よろしくお願いします……」
反射的に頭を下げ、数秒の後に顔を上げる。すると、三船先生は薄い笑みを浮かべたまま口を開いた。
「さっきのことは特別に不問とします。図書室で騒音は厳禁だから本当はたっぷり注意したいところだけど、今は人もいないし──それに、今日は叱ってる時間ももったいないくらいに忙しいし」
怒られる、ということで頭がいっぱいだったせいで気付かなかったが、確かに室内に人の気配はない。うちの高校の近くには大きな図書館があるため、わざわざ学校の図書室に足を運ぶ人は少ないのだろう。
「そのかわり、今日は閉館時間ギリギリまで働いてもらうからそのつもりでいてね」
「わ、分かりました……」
三船先生はにこりと笑みを深めたけれど、その目は全く笑っていない。とはいえこれに関しては全面的に僕が悪いので、雑用だろうとなんだろうと甘んじて受け入れることにした。
「僕は何をすれば?」
問いかけると、先生は「これ」と言いながらホチキスで留められた紙の束を手渡してくる。
「この図書室の蔵書リスト。抜けがないかチェックしてくれる?」
「……全部ですか?」
「もちろん。終わるまでは帰れないと思ってね」
随分久しぶりに足を踏み入れた図書室を僕は改めて見渡す。出入口付近、つまり僕の立っている場所には、腰の高さほどの低い本棚が並んでいた。横目で背表紙を確認すると、この辺りには学術書が置かれていることが分かる。目線を少し先に向けると、そこにあるのは申し訳程度の小さな読書スペース。そばには窓があり、淡い光がその場を照らしている。そして、そのスペースを囲んでいるのは僕の背丈よりも高い本棚たち。これらを一つひとつ確認して回るのは途方もない労力がかかるだろう、ということは容易に理解できた。けれど、僕に逃げるという選択肢はないのである。なんせ僕は図書委員であり、その上初っ端から先生を怒らせてしまっているので。
「それじゃあよろしく。私はカウンターで別の仕事してるから、何かあったら声かけて」
僕はその台詞を「何もなかったら声をかけるな」だと解釈した。これ以上先生を怒らせるわけにはいかない、と思い慌ててリストに目を落とす。
『よくわかる!二次関数』『ゼロから始める熱力学』『いかにして人類は月に到達したのか』
1ページ目に並んでいる文字を見るに、これらはそばにある本棚に収まっていそうだ。僕は屈んで棚に顔を近づけると、蔵書とリストを照らし合わせる作業に入った。
上から下へとリストをチェックしていくと、だんだんと言語系らしきタイトルが増えてくる。
『I LOVE YOUの訳し方』『楽しく学ぶ俳句』『早急に英語を身につけるために』
そこまで目を通して、僕はぴたりと手を止めた。本棚を確認しても『早急に英語を身につけるために』が見つからないのである。
「三船先生」
声を張り上げると、それに反応するように先生がこちらを見た。
「どうかした?」
応える声は存外に優しい。もう怒りは収まったのだろうか。だとしたら僕は嬉しいけれど。
「本が一冊足りません」
「あー……借りパクされちゃったかなぁ。たまにあるんだよね、そういうの」
貸出手続きをせずに持ち出されると持主を特定することはできなくなる。それを分かって借りパクする人が毎年一定数いるのだ、と先生は言った。
「発注かけなきゃいけないから、タイトル教えてくれる?」
そう問われて僕は口を開く。
「『早急に英語を身につけるために』です」
すると、先生は驚いたように目を見開いた。
「そ、っか……」
「はい。盗まれるくらいだし、人気な本なんですか?」
「……うん、そうだね。英語の入門書の中ではかなり有名みたい。タイトル通り早急に英語を身につけたいって人がたまに借りてくよ」
早急に英語を身につけなければならない状況とは一体どんなものなのだろう。テスト前の学生が焦って借りていくのだろうか。だとしたら、随分と計画性のない人たちだ。僕は内心で呆れのため息をひとつ吐く。けれど、今はそれよりももっと気になることがあった。
「日頃から勉強していれば早急に、なんて思わなくてもすむでしょうけどね」
先生の機嫌を損ねることがないよう気をつけながら、気になった言葉をさり気なく訂正する。
早急の正しい読み方は「そうきゅう」ではなく「さっきゅう」だ。些細なことだと言われればそれまでだけれど、僕はこの手の間違いが気になって仕方なくなってしまう性質だった。
ちらりと先生を窺う。すると、彼女は再び驚いたように目を見開いた。
「……うん、そうだね。ほんとその通りだ」
「あの、先生……?」
そのおかしな様子が気になって声をかけると、先生はふっと柔らかな笑みを浮かべる。
「吉野くんって面白いね」
「そう、ですか?」
僕は進級早々クラスメイトに仕事を押し付けられるような地味な人間で、面白いなんて言われたことは一度もない。けれど、三船先生は僕を見て心底楽しそうに笑っている。
「吉野くんといたら退屈しなさそうだなぁ」
笑顔とともに溢されたその言葉に、僕の心臓は大きく音を立てた。それはまるで、胸の中でビックバンが起こったかのようだった。
渋々引き受けたはずの図書委員の仕事が嫌でなくなったのは、三船先生に惹かれたからだ。我ながら単純だと思う。けれど、あの言葉と笑顔にはそれくらいの破壊力があった。地味で目立たなくて、その上厄介ごとを押し付けられてしまうような僕を、三船先生だけが面白いと言ってくれたのだ。僕といると退屈しなさそうだ、とも。そんなの嬉しくないわけがないに決まっている。
「先生、返却本です」
そう言ってクラスメイトから預かった──もとい押し付けられた返却本を手渡すと、先生は僅かに顔を顰める。三船先生は、僕が雑用を押し付けられたと分かるといつもこういう顔をするのだ。
「返しに来るのを面倒くさがるなら本を借りるなって言ってやりたいな」
カウンターに肘をつきながら先生はそうぼやく。
「図書委員に渡せばそれでいいって思ってるんでしょうね。まぁ実際大した手間ではないからいいんですけど」
クラスメイトの考えはあながち間違ってもいない。帰宅部である僕は他の人よりも図書当番になる回数が多いので、返却を任すには適任だろう。しかし、先生は僕の言葉を聞くと露骨に呆れた顔をした。
「あのね、吉野くん。これは手間じゃないからいいとかそういう問題じゃないんだよ。一度理不尽な要求を受け入れると、無茶な頼みごとをしてもいい人だと思われちゃうんだから」
言われてみると確かに、進級早々僕に図書委員を押し付けた委員長は今でも何かと頼みごとをしてくる。ゴミ捨てに行ってきてだとか代わりに日誌を書いてほしいだとか。一つひとつは大したことではないけれど、そのどれもが僕の仕事でないことを思うと確かに理不尽な要求ではあるかもしれなかった。
「……でも、断るって難しいですよ。ただでさえ友達と呼べるような友達がいないのに、断ったら今度こそクラスから孤立してしまいそうで」
「それで孤立するなら吉野くんのクラスメイトは所詮その程度の人間だったってことでしょ。……って言いたいところだけど、学校って色々と難しい場所だからね」
そう言って先生は困ったように笑う。
「全部断るのは無理だとしても、二回に一回くらいなら断ってもいいんじゃない?」
「断れますかね……」
自分が頼みごとを断っているところなど想像できなくてそう呟くと、先生は「できるかできないかじゃなくてやるかやらないかでしょ」ともっともらしいことを言った。
「それにしても」
言いながら、先生は返却本のバーコードを通す。
「『出生地について知る』、なんて吉野くんのクラスメイトは随分と難しそうな本を読んでるんだね。そういう授業でもあるの?」
「あー……はい。著名人の出生地を調べるって課題が出てるんです」
出生の読み方を訂正したのは反射のようなものだった。図書室で働いているくらいだからそれなりに言語についての知識はあるだろうに、三船先生はよくこういう間違いをする。そして、僕が間違いを訂正すると決まって楽しそうな顔をした。
「ふふっ、学生は大変そうだねぇ。社会の課題?」
「はい。日本史のレポートです」
くすくすと笑い声を上げる先生は目に見えて機嫌がいい。不可解なその様子が気になって、僕は思わず声を上げた。
「あの」
「ん?」
カウンターに肘をついたまま、先生がこちらに視線を向ける。
「……先生って、本を読むのが好きなんですか?」
けれど口から出てきたのはそんな遠回しすぎる質問で、僕は僕自身の口べた具合にがっかりした。もっといい切り込み方があっただろうに。
「突然どうしたの?」
案の定、先生は戸惑ったような様子で瞬きをする。けれど、質問を無視するつもりはないらしい。
「好きかと言われれば好きかな。じゃなきゃ司書教諭なんてやってないしね」
そう答えて目を伏せた。
「どういうジャンルを読みますか?」
続けざまに問いかけると、「今日の吉野くんは質問攻めだね」と笑ってから先生は再び口を開く。
「うーん……。私は割と乱読タイプだから、特別このジャンルが好き!っていうのはないかなぁ。小説も伝記も図鑑も辞書も学術書も手当たり次第に読んだよ」
「"読んだ"って過去形なんですね」
まるで今は本を読んでいないみたいだ。そう思い口を挟むと、先生は一瞬驚いたような表情を浮かべて──それから、弾けるように笑い声を上げた。
「ん、ふふっ……!吉野くんってほんと面白い。細かいっていうか面倒くさい性格っていうか、気になったことは直ぐ口にしちゃうタイプでしょ?」
「えっ、いや、その……」
褒めているのか貶しているのかよく分からない言葉を口にして、先生は迷惑になりそうなほど大声で笑った。それは、普段の先生だったら「図書室で騒音は厳禁!」と怒るであろうほどの声量だった。
「あっ、吉野くん!ちょっといい?」
僕を呼び止めた委員長は、そう言って分厚い本を差し出した。
「これ返却しといてもらってもいいかな?」
視線を落とすと、『宇宙のふしぎ』と書かれた表紙が目に入る。そのとき、ふと「二回に一回は頼みごとを断った方がいい」という三船先生の言葉を思い出した。
「いや、あの……僕、今日当番の日じゃないし」
遠回しに返却はできない、と告げる。けれど、委員長は一歩たりとも引き下がらなかった。
「別に今日じゃなくてもいいよ!返却日までまだ余裕あるし。次の当番の時に返しといてくれたらいいから!」
それなら自分で返してくれ、とは言えなかった。その言葉を口にする間もなく委員長が立ち去ってしまったからである。「じゃあよろしくね!」という去り際に吐き出された言葉が、いつまでも耳に残って離れなかった。
当番でもないのに図書室に顔を出したのは、そんなことがあったからかもしれない。つまり、下がりに下がりきった気分が三船先生に会うことで浮上するのではないか、と。そう考えたわけである。
「返却本です」
言いながら本を差し出すと、先生は露骨に呆れたような顔をした。
「吉野くんが図書委員になってから暫く経つけど、君はここで本を借りていかないよね」
「……そうですね」
「つまりこの本は吉野くんが返却作業を押し付けられた本ってわけだ」
「ご明察です」
返事をすると、三船先生は薄いネイルが施された爪でコツコツとカウンターを叩く。
「私、前に二回に一回は断った方がいいって言ったよね?」
「言いましたね」
「全く実行できてないじゃない」
そう言われると返す言葉もない。僕はカウンター横の椅子に腰を下ろし、身を小さくして先生のお叱りを受け入れる。
「断ろうとは思ったんですよ。今日は当番じゃなかったし、頼みごとを受け入れたら僕の放課後の時間が削られるわけですし」
「なのに結局受け入れて、大切な放課後を削ってまでここに来たの?」
それじゃあ何も変わらないじゃない、と先生は言った。それはまったくもってその通りで、僕は項垂れることしかできなかった。
「月並みな言葉だけど、人は変わろうとしなきゃ変われないんだよ。少しの勇気も出せないままじゃ、ずーっとこのままなの」
「それは分かってます。……分かってるつもりです」
僕だって変われるものなら変わりたい。こんな情けない姿じゃなくて、たまにはかっこいい姿を先生に見せたい。でも、あと一歩の勇気がどうしても出ないのだ。
気まずさから視線を逸らすと、先生はひとつため息を吐く。そして小さく呟いた。
「仕方ないなぁ……」
「先生……?」
「仕方ないから、私が勇気の出し方を教えてあげる」
驚いて顔を上げると、ちょうど先生がポケットからスマホを取り出すところだった。
「今から私はここで電話をかけます」
「えっ……。館内は通話厳禁じゃないんですか?」
「放課後の図書室なんていつも貸切り状態なんだし、どうせ今日も誰も来ないでしょ。だから特別」
「そういうものですか……?っていうか、電話をかけるって誰に……?」
尋ねると、先生は考え込むように指先を顎に当てた。そして、暫く悩んだ後にカウンターにスマホを置く。
「そうだね、まずは事情から説明しなくちゃ。私のことと──それから、私が電話をかける相手のことを」
聞いてくれる?と尋ねられて、僕は首を縦に振る。先生は、一体誰に電話をするつもりなのか。今はただ、それを知りたいと思った。
出会いは大学生同士の合コンだった。あの人は好んで合コンに参加するタイプではないから、今思えば飲み会だと騙されて連れて来られたのだろうな、と思う。
「西宮夏羽。大学では宇宙について勉強している」
自己紹介はたったそれだけ。いかにもつまらなそうな顔でぐるぐるとドリンクをかき混ぜていたのが記憶に残った。声をかけたのはそんな単純な理由だ。
「西宮くんって何を専攻してるの?ひとくちに宇宙って言ったって色々あるでしょ?」
一番端の席で壁に凭れかかりながら飲み物を混ぜていた西宮くんは、私が声をかけるとマドラーから手を離した。
「……宇宙に興味が?」
「宇宙というよりは、西宮くんの自己紹介に興味があるかな」
そう告げると、西宮くんの身体が固くなったのが分かった。誤解されてはいけないと思い「西宮くんを狙ってるとかそういうわけじゃなくてね」と付け加える。
「宇宙について勉強してるって大雑把すぎない?宇宙工学なのか天文学なのか、それともまた別のものなのかで全然違うでしょ」
私が気になったのはそこだ。私を含め他の皆んなはもっとはっきり自分の専門分野を告げていたのに、西宮くんは「宇宙」としか言っていなかった。疑問に思い尋ねると、彼は考え込むように指を顎に当てる。
「そう言われてもな……。あの場では宇宙としか答えようがなかったんだ」
「えっ、なんで?この研究をするゼミに入ってます、とか言えば良かったんじゃないの?」
私の言葉に、西宮くんは困ったように眉根を寄せた。
「ゼミでは宇宙生物学をやっている。でも、専門的に勉強しているのがそれだけかと言われるとそういうわけではないからな」
「そう……なの?」
「ああ。別の学科の講義を取ったり別のゼミの教授に話を聞いたりもしているから……それこそ先ほど貴女が言っていた宇宙工学も天文学も勉強している最中だ」
西宮くんは簡単に言ってのけるけれど、それは決して容易なことではないはずだ。文学全般が好きで文学部に入った私も、今となってはほとんど専門であるプロレタリア文学の研究しかしていない。それだけで手いっぱいになってしまうのである。
「いいなぁ……。やりたいことを学ぶってやっぱり大事だよね。私も今のレポートが一段落したら他の分野も勉強してみようかな」
入学した当時は古典文学に興味があったから、家にはそれ関連のテキストや資料があるはずだ。レポートを書き上げるまでは別の分野に手を出す余裕がないけれど、やるべきことが片付いたらそちらの勉強をするのも悪くないかもしれない。そう考えていると、西宮くんが目を見開いてこちらを見つめていることに気が付いた。
「西宮くん?どうかした?」
声をかけると、彼はもごもごと小さく口を動かす。
「いや……。珍しいな、と思って」
「へ?」
「一段落は"ひとだんらく"と読まれることが多いからな。言葉は時代と共に変化していくものだし、本来の読み方と違うから悪いというものでもないだろうが……。貴女が"いちだんらく"と読んでいることに驚いた」
言われてみれば確かに一段落はひとだんらくと読まれることが多い。私が正しい読みを知っていたのは、学部柄そのような知識を得ることが多いからだ。
「まぁ文学部の人間にとって言葉って凄く大事なものだしね。それより私は西宮くんが本来の読み方と違うから悪いわけじゃないって認識でいることに驚いたかな」
「そうか……?」
「そうだよ。揚げ足をとるみたいにその読み方は間違ってる!って指摘してくる人もいるんだから」
特にSNSなんかでは頻繁にそんな議論が起こっている気がする。言葉は時代によって変わっていくものだし、正しいか間違っているかよりも他者に通じるか通じないかの方が大事な気がするのだけれど。そうは思っていない人がこの世にはたくさんいるのだ。
「そうなのか……。でも、それを言うと俺も揚げ足とりをする側の人間かもしれない」
私の言葉を受け、西宮くんが小さくそう溢す。
「間違っているから悪いというものではないと頭では分かっていても、気になることにはつい口を挟んでしまう性分でな。反射的に正しい読みはこれだぞ、と訂正してしまうのだ」
大真面目な顔でそう言うものだから、私は思わず吹き出した。
「ふふっ、西宮くんって面倒くさい性格してるねぇ」
「っ……やはりこういう性格は面倒くさいか?」
自分でも気にしているところだったのか、彼は僅かに悲しそうな表情を浮かべる。
けれど、そうではないのだ。私が言いたいのはそういうことではなくて──。
「西宮くんは面白いねって言いたかったの」
「面白い……?」
「うん。だって、別に揚げ足とりをしたいわけでもなく相手を馬鹿にしたいわけでもなく、気になったことはそのままにしておけない性格ってことでしょ?それって凄く面倒くさいけど、凄く面白いなって思うよ」
そう告げると、彼は驚いたように目を見開いて──それから、嬉しそうに笑った。
「……ありがとう」
それはこちらがびっくりするほどに優しい笑顔で。私は、自分の心臓がどくどくと音を立てるのを感じた。
西宮くんはきっと恋愛に興味のない人だ。彼との付き合いが長くなると、だんだんとそれが分かるようになってきた。合コンで連絡先を交換するのもまめにメッセージを送るのも、ちょっと考えれば好意を持たれているからだと分かりそうなものなのに。どうやら西宮くんは私の気持ちに気付いていないようで、いつ連絡をとっても彼の口から出るのは研究の話ばかり。
思い切って「恋人とかいないの?」と聞いたこともあったけれど、返ってきたのは「必要だと感じたこともない」という素っ気ないもので。これには粘り強くアタックし続けていた私の心も折れそうになった。
「ねぇ、西宮くん」
プリントアウトされた論文や薬品の匂いが染み付いた白衣で散らかっている西宮くんの部屋で、私はそっと彼に声をかける。
「なんだ?」
西宮くんは集中モードに入ると周りの音が聞こえなくなることがほとんどだけれど、幸いにも今日はそうでなかったらしい。コーヒーの入ったマグカップを片手に持ちながら、ちらりと私の顔を見た。
言うなら今だ、と思う。貴方のことが好きですって。部屋にまで上げてくれるんだから、ちょっとは期待しちゃだめですかって。でも、口にしようとするとどうしても「恋人が必要だと感じたことはない」と言い切った彼の姿を思い出してしまう。意気地なしの私は、結局「この間勧めてくれた本読んだよ」と関係ない話に逃げることしかできなかった。
「ああ、あれか。地球の誕生についての……」
「そうそう。『いかにして地球は生まれたか』ってやつ。はやく西宮くんに感想言いたかったし、早急に読まなきゃ!と思って」
笑いながらそう告げると、西宮くんはすかさず口を挟む。
「早急に、だろう?最近の君はやけに間違いが多いな」
言外に「文学部の人間にとって言葉は大切なのではないのか」と言われているのが分かる。けれど仕方ないのだ。だって、こうやってわざと間違った言い方をすれば西宮くんがツッコんでくれると知っているから。西宮くんにかまってほしいという気持ちの前では、文学部としての矜持も無力なのである。
「ふふっ、それでも律儀に訂正してくれる西宮くんのことが好きだよ」
こうやって冗談めかした"好き"は伝えられるのに、本当に伝えたい"好き"は口に出せない。そんな自分のことがどうしようもなく情けなくて──でも、もうそれでもいいか、と思ってしまう気持ちもあった。恋人になれなくても、このままの関係で西宮くんのそばにいられるならそれで。
けれど、そんな私の甘い考えはすぐに打ち砕かれることとなる。
「そういえば、話は変わるんだが……」
マグカップを置いた西宮くんは、そう言って真っ直ぐな視線をこちらに向けた。
「暫くの間アメリカに行くことになるから、読みたい本があれば今のうちに持っていってくれ」
「え……?」
ちょっとコンビニに行ってくる、とでも言うような気軽さで放たれたその言葉に、私は思わず目を見開く。
「アメリカ、って……。なんで……」
「向こうのチームと共同研究をすることになったからな。アメリカに永住するわけではないから、そのうち日本に帰ってくるとは思うが」
あっさりとそう言ってから、彼はほんの少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「というわけで、せっかく三船が宇宙に興味を持ってくれたところ申し訳ないが暫く本は貸せなくなる」
そんなことに申し訳なさを感じないでほしかった。だって、私が何度も理由をつけて西宮くんから本を借りていたのは彼との繋がりを失いたくなかったからだ。私は西宮くんのように純粋な気持ちで宇宙と向き合っているわけではない。むしろ、今となっては宇宙という存在が私たちを引き裂くものであるかのように感じている。
「……西宮くん」
「なんだ?」
それでも、行かないでとは言えなかった。それだけは言ってはならない言葉だ、ということは冷静さを欠いた私の頭でも理解できたから。
だから、精いっぱい笑った。西宮くんが安心できるように。申し訳なさなんて感じなくてもすむように。
「私ね、来年から司書教諭になるんだよ。高校の図書室で働くの。本ならきっとそこでも読めるから……だから、気に病まないで」
高校の図書室にはきっと、西宮くんが持っているものほど専門的な本はないだろう。そもそも仕事に慣れるまではゆっくり本を読む時間なんて作れないかもしれない。それに何より、西宮くんのいない世界は味気ないに違いない。そう思うと涙が溢れ落ちそうだった。それでも笑顔を崩さなかったのは、私の意地みたいなものだ。
「いってらっしゃい、西宮くん」
それ以来、私は一度も西宮くんと連絡を取っていない。
「だからね、私も結局のところ吉野くんと一緒なの」
そう言って先生はカウンターに置いたスマホをそっとひと撫でする。
先生が以前「今は本を読んでいない」と取れるような発言をしていたのも、きっとその人が原因なのだろう。もしかしたら、三船先生は今も彼から勧められる本を待っているのかもしれない。
「彼に電話しようと思えばいつでもできた。メッセージだって送れた。でも、勇気が出なくて一つも行動に移せなかった。……だって、向こうからは一度も連絡が来なかったから」
「それは……相手が忙しいだけかもしれないですし」
フォローするようにそう言うと、先生は自嘲気味に笑って首を横に振る。
「慰めなくていいよ。連絡の一つもないのは彼にとっての私がその程度の人間だからだってこと、ちゃんと分かってるから」
そう言われてしまうと、僕はもうなんと声をかけたらいいのか分からなかった。……いや、もしかしたら声などかけるべきではないのかもしれない。先生の想いが彼にある限り、僕は先生に振り向いてもらえないのだから。
「諦めた方がいいんだろうなって何度も思ったよ。でもどうしたって諦めきれなくて──そんな時に吉野くんに出会ったの」
「僕、ですか?」
驚きに目を見開くと、先生は小さく頷く。
「うん。初めて会ったとき、吉野くん早急を"さっきゅう"って読んでたでしょ?彼と同じだ、ってびっくりしちゃった」
「あ……」
思い返してみると確かに、あの時の先生の様子はおかしかった。当時はなぜ先生がそんなリアクションをするのか分からなかったけれど、話を聞いた今なら分かる。先生はきっと、自分の想い人に僕を重ねていたのだ。
「私がわざと違う読みをした時は遠回しな言い方で訂正してくるし。そういうとこ、ほんとあの人にそっくり」
そう言って、先生は見惚れてしまうほどに優しい笑みを浮かべた。その笑顔に胸が高鳴る一方で、それほどまでに彼を想っているのかと思うと胸が苦しくなる。
「吉野くんと一緒にいると、彼と一緒にいた時のことを思い出すの。だから楽しかった。このぬるま湯に浸かるみたいな日々がずっと続けばいいのにって思った。でも、それじゃ駄目だよね」
先生は笑った。そして、震える手でスマホを掴んだ。
「見てて、吉野くん。誰だって一歩踏み出せるんだってこと、私が証明してあげるから」
静かな図書室に電話のコール音が響く。僕は、黙ってそれを聞いていることしかできなかった。
その後先生と彼の関係がどう変わったのか、僕は知らない。なぜなら、僕自身が結果を聞くことを拒んだからだ。しかし、通話を終えた先生はあの優しい笑みを浮かべていたから、手酷くフラレたということはないだろうと思う。もしかしたら、二人はもう恋人同士になっているのかも。そう思うと胸が締め付けられるような苦しさを感じた。しかし、今はそんなことに気を取られている場合ではないのだ。
僕は先生の勇気を目にした。だから今度は僕が勇気を出さねばならない。大きく息を吸うと、僕は委員長の席に向かった。
「あの」
声をかけると、彼女はパッと顔を上げてこちらを見る。
「あっ、吉野くん!ちょうど良かった〜!頼みたいことがあるんだけど」
雑用を押し付けることに対して躊躇いなんて少しもなさそうに、委員長は弾んだ声を上げた。この勢いに僕はいつも流されてしまう。でも、それではいけないのだ。一度理不尽な要求を受け入れると、無茶な頼みごとをしてもいい人だと思われてしまう。いつか先生が言っていた言葉を思い出す。勇気を出さなければならないのは今だ、と思った。
「ご、ごめん。……本を返すのとか、次からは自分でやってほしい。僕も毎回は無理、だから」
吐き出した声は情けないほどに震えていた。それでも、確かに一歩踏み出すことができた。
安堵の息を吐きながら委員長の表情を覗うと、彼女は目を丸くしてこちらを見つめていた。僕が頼みごとを断るなんて思ってもいなかったのだろう。
「……私、無理させちゃってたかな」
暫くの沈黙の後、彼女が小さくそう溢す。そんなことない、とは言えなかった。けれど、まさかその通りですなんて言うこともできないので僕は曖昧に笑う。
「そっ、かぁ……。吉野くん帰宅部だし、誰かと一緒にいるところもあんまり見かけないし、だからつい色々任せちゃってたけど、吉野くんだって暇なわけじゃないもんね」
「いや、それは……」
委員長のお察し通り、部活をしている人たちよりは暇ではあるけれど。そう肯定しそうになって、僕は慌てて口を噤んだ。僕が僕自身を蔑ろにすることを、三船先生は決して良しとはしない。だから、僕は自分のことを大切にしなければならないのだ。
「……うん、まあ、そういうことになる、のかな」
小さく頷くと、委員長は僕に向かって頭を下げる。
「ごめんね。こんなんじゃ委員長失格だよね。これからは本は自分で返すし、仕事も平等に割り振るようにします」
「えっ、あ、うん……。よろしくお願いします……?」
合わせるように頭を下げると、委員長はくすくすと笑い声を上げた。
「吉野くんって面白いね」
その笑顔は柔らかくて、温かくて、可愛らしかった。けれど、三船先生の笑顔を前にした時のような胸の高鳴りは少しも感じられなかった。
「先生!」
言いながら勢いをつけてドアを開ける。すると、思っていたよりも大きな音が響いてしまい僕は慌ててドアを押さえた。
「図書室ではお静かに」
いつも通りカウンターで仕事をしていた先生がじとりとこちらを睨めつける。それに頭を下げて応えると、僕は再び口を開いた。
「先生、僕もちゃんと一歩踏み出してきました」
委員長に話をしたこと、今後は雑用を押し付けられることはなくなりそうであることを告げると、先生は大きく目を見開いた。
「びっくりしちゃった。……吉野くんも勇気を出せって発破をかけたのは私だけど、まさか本当に話をつけてくるなんて」
「僕も驚きました。まさか自分が嫌なことを嫌だと言えるとは思ってなかったので」
先生のおかげですね。そう言って笑うと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「吉野くんには大分情けないところ見せちゃったけど、そう言ってもらえると救われるよ」
そう告げる先生の瞳には翳りがない。結果を聞かずとも、その顔を見ただけで先生とあの人が上手くいっているであろうことが分かった。けれど、それが分かったからといって僕の中にある恋心が消えるわけではない。だから、僕は最後の勇気を振り絞って声を上げた。
「……あの、先生」
お願いがあるんです、と言うと先生は不思議そうに首を傾げる。
「なぁに?私にできることだったら聞くけど……」
「卒業式が終わったら、話したいことがあるんです。先生の時間を僕にくれませんか?」
先に委員長と話をしておいたおかげか、今度は声が震えることはなかった。怖いし緊張もしているけれど、思っていたより心が凪いでいる。
真っ直ぐにそう告げると、先生は困ったように眉根を下げた。
「あのね、吉野くん。報告はいらないって言われたから言わなかったけど……私、電話の彼とそれなりに上手くいってるんだよ」
「それはおめでとうございます。付き合ってはないんですか?」
「まだそこまではいってない、けど……。彼が帰国したら、そういうのも含めて話すつもりだし」
三船先生は特別敏いわけではないけれど、決して鈍い人ではない。だから、遠回しに拒絶されているのだろうと思った。けれど、出会った時からずっと募らせ続けたこの想いをなかったことにするなんて今の僕にはとてもできそうにない。
「別に僕は先生の邪魔をするつもりはないんです。ただ時間を作って欲しいだけ。……よろしくお願いしますね、先生」
"お願い"に対する返事は聞かなかった。これ以上踏み込んで「駄目だ」と言われてしまったら、もう僕にはどうすることもできないからだ。そうなるくらいなら、曖昧なうちに引き下がって判断を先生に任せた方がいい。
踵を返して図書室を後にした僕を、先生は追いかけてこなかった。
卒業まであと二ヶ月。三年生は受験の追い込み時期で、そうなると委員会活動は自由参加となる。僕は図書室を出たその足で貸出の仕事を二年生に頼みに行った。
そうして、卒業を迎えるその日まで三船先生との連絡を断った。
「吉野くん」
先生の声で我にかえる。彼女は困ったような顔で僕を見つめていた。
「私が誤魔化してあげようとしたのに、なんで告白しちゃうかなぁ」
その言葉に、僕はムッとして言い返す。
「想いを告げるのが悪いみたいに言わないでください。一歩踏み出す勇気が大事だって教えてくれたのは先生ですよ」
「それはそうだけど……。さすがにあの間で心変わりするかなって思ってたのに」
「たった二ヶ月で心変わりするわけないじゃないですか。僕はずっと……出会った時からずっと、先生のことが好きなんですから」
そう言うと、先生は驚いたように目を見開いた。
「出会った時から……?」
「……気付かなかったんですか?」
「いや、気付かないでしょ……。だって、私と吉野くんって出会いがあんまり良くなかったし」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまう。誰もやりたがらない図書委員という役目を押し付けられて、あの日の僕は機嫌が良くなくて──でも、嫌な仕事を押し付けられたからこそ三船先生と出会えた。そう思うと、僕のこの厄介ごと巻き込まれ体質もそう悪くないような気がした。
「確かに出会いは良くなかったかもしれませんけど、先生はそれを吹き飛ばすくらい素敵なものを僕にくれましたから」
こんな僕のことを面白いと言ってくれて、僕といたら退屈しなさそうだと言ってくれて、とびきりの笑顔を見せてくれて。そうやって、"僕"を見つめてくれた先生だから好きになった。
今思えば、あれは僕を通して彼を見ていただけなのだと分かるけれど。それでも、一度溢れ出した気持ちは止まらない。
「フラレるならそれでもいいんです。せっかく踏み出すことの大切さを教えてもらったのに、気持ちを伝えられないまま終わるのは嫌だっただけなので」
笑みを浮かべながらそう告げると、先生は小さく息を吸い、僕に向かって深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
そして、頭を下げたまま先生は言葉を続ける。
「貴方に彼の姿を重ねていたことも、好意に気付かず貴方の前で彼に電話したことも、申し訳ないと思ってる。……でも、その気持ちを受け取ることはできない」
それは予想通りの返事だった。フラレるだろう、ということは分かっていたのだ。だから、悲しいことなんて一つもない。そのはずなのに、ゆらりと視界が滲んだ。
「……顔を上げてください」
そう告げると、先生はゆっくりと頭を上げる。そして、僕の顔を見るとくしゃりと表情を歪めた。そんな顔をさせたかったわけじゃない。そう思っているのに、涙は僕の意思とは関係なしに溢れてくる。
「三船先生」
震える声で彼女の名を呼んだ。どうかこの想いが伝わりますように、と願いながら。
「そんな顔しないで笑ってください。……最後は、笑顔で見送られたいです」
「吉野くん……」
「ほら、いつまでもここにいるわけにはいかないんですから。早急にお願いしますよ」
悪戯っぽくそう告げると、先生はふっと息を吐き出した。
「早急に、ね。任せてよ」
先生が笑う。哀しそうに──けれど、どこか慈愛を感じさせる眼差しで。
「吉野くん、卒業おめでとう」
この日、僕の初恋は終わった。
最後に見た先生の笑顔は見たことがないくらいに綺麗で、いつまでもいつまでも僕の胸に焼き付いて離れなかった。
呼びかけると、窓の外を眺めていた先生がはっとしたように振り向いた。
「……吉野くん、正気?」
「失礼ですね、正気ですよ」
僕の答えに、先生は困ったような笑みを浮かべる。
「だってまさか卒業式にまでここに来るとは思わないじゃない?」
「先生だって来てるじゃないですか。本来なら今日は閉館日なのに」
入学式や卒業式、離任式など、式典がある日は本来図書室の閉館日だ。それでも先生は今日ここにいる。口では色々言っているけれど、きっと僕を待っていてくれたのだろう。自惚れでなくそう思えるくらいには、僕は先生のことを知っているつもりだ。
「親御さんは?」
「もう帰りました」
「……お友達、とか」
「別れを惜しむほど親しい友達はいないです。先生だって知ってますよね」
そんなに仲の良い友達がいたら、僕はこの一年間図書室に通い詰めていない。
僕の返答を聞くと、先生は小さくひとつため息を吐いた。
「これじゃあ吉野くんを追い返せないじゃない」
「追い返されたら困るんで。……それに、たとえ追い返されてもまた先生のところに来ますよ」
「今日で卒業しちゃうのに?一介の司書教諭にそこまでする意味が分からないな」
その言葉はやけに白々しく響いた。
分かっているくせに、と思う。三船先生は特別敏いわけではないけれど、「卒業式が終わったら話したいことがあるんです」と言われて内容が察せないほど鈍くもないはずだ。
僕は今日、三船先生に告白をしに来た。
僕たちの関係が"先生と生徒"でなくなるこの日に、抱え続けた想いに終止符を打つために。
「好きです、三船先生」
視線は逸らさなかった。ただ真っ直ぐに先生の目を見つめた。
その瞳は戸惑うようにゆらゆらと揺れている。
まるで先生に初めて会った時のようだ。僕はふとそう思った。
進級して早々に"雑用を押し付けても許されるヤツ"だと認識されてしまったのは不運でしかない。「吉野くんって帰宅部だよね?それなら図書委員やってもらってもいいかな?」という委員長の言葉を思い出し、僕はひとつため息を吐く。やってもらってもいいかな?なんてお願いの体で言われたけれど、あれは実質強制だ。だって、うちのクラスは僕以外に帰宅部がいないのだ。これで断ったら確実にクラスメイトからの心象は悪くなる。特別本が好きなわけでもないのに仕事が多いと分かりきっている図書委員になるのは嫌だったけれど、こうなると断ることなど不可能だ。僕は渋々委員長の頼みを引き受け、仕方なしに図書委員になった。
そんな経緯で図書委員となった身なのだから、図書室の引き戸を乱暴に引いてしまったのも致し方ないと言えるだろう。なんて言い訳してみたけれど、勢いよく戸を引いたせいで響きわたった騒音はなかったことにできない。その証拠に、図書の先生と思しき女性が険しい顔でこちらを見つめてきた。
「君は今日の図書当番の子かな」
「……はい、そうです」
問いかける声は冷ややかだ。この後お叱りの言葉が飛んでくるであろうことは容易に想像できて、僕はそっと視線を逸した。
「学年と組、それから名前を教えてくれる?」
図書の先生が図書委員の名前を覚えなければならないのは当然のはずなのに、鋭い視線のせいで尋問されているように感じる。
「三年一組、吉野楓です」
答える僕の声は情けなく震えていた。艶のある黒髪に大きな瞳を持ち合わせたその先生はなかなかに美人で、それ故に迫力があったのだ。
いつ怒られるだろうか、と内心ドキドキしていると、僕の予想に反して先生は薄く笑みを浮かべた。
「吉野くん、ね。私は司書教諭の三船美波です。よろしく」
「あ、はい、よろしくお願いします……」
反射的に頭を下げ、数秒の後に顔を上げる。すると、三船先生は薄い笑みを浮かべたまま口を開いた。
「さっきのことは特別に不問とします。図書室で騒音は厳禁だから本当はたっぷり注意したいところだけど、今は人もいないし──それに、今日は叱ってる時間ももったいないくらいに忙しいし」
怒られる、ということで頭がいっぱいだったせいで気付かなかったが、確かに室内に人の気配はない。うちの高校の近くには大きな図書館があるため、わざわざ学校の図書室に足を運ぶ人は少ないのだろう。
「そのかわり、今日は閉館時間ギリギリまで働いてもらうからそのつもりでいてね」
「わ、分かりました……」
三船先生はにこりと笑みを深めたけれど、その目は全く笑っていない。とはいえこれに関しては全面的に僕が悪いので、雑用だろうとなんだろうと甘んじて受け入れることにした。
「僕は何をすれば?」
問いかけると、先生は「これ」と言いながらホチキスで留められた紙の束を手渡してくる。
「この図書室の蔵書リスト。抜けがないかチェックしてくれる?」
「……全部ですか?」
「もちろん。終わるまでは帰れないと思ってね」
随分久しぶりに足を踏み入れた図書室を僕は改めて見渡す。出入口付近、つまり僕の立っている場所には、腰の高さほどの低い本棚が並んでいた。横目で背表紙を確認すると、この辺りには学術書が置かれていることが分かる。目線を少し先に向けると、そこにあるのは申し訳程度の小さな読書スペース。そばには窓があり、淡い光がその場を照らしている。そして、そのスペースを囲んでいるのは僕の背丈よりも高い本棚たち。これらを一つひとつ確認して回るのは途方もない労力がかかるだろう、ということは容易に理解できた。けれど、僕に逃げるという選択肢はないのである。なんせ僕は図書委員であり、その上初っ端から先生を怒らせてしまっているので。
「それじゃあよろしく。私はカウンターで別の仕事してるから、何かあったら声かけて」
僕はその台詞を「何もなかったら声をかけるな」だと解釈した。これ以上先生を怒らせるわけにはいかない、と思い慌ててリストに目を落とす。
『よくわかる!二次関数』『ゼロから始める熱力学』『いかにして人類は月に到達したのか』
1ページ目に並んでいる文字を見るに、これらはそばにある本棚に収まっていそうだ。僕は屈んで棚に顔を近づけると、蔵書とリストを照らし合わせる作業に入った。
上から下へとリストをチェックしていくと、だんだんと言語系らしきタイトルが増えてくる。
『I LOVE YOUの訳し方』『楽しく学ぶ俳句』『早急に英語を身につけるために』
そこまで目を通して、僕はぴたりと手を止めた。本棚を確認しても『早急に英語を身につけるために』が見つからないのである。
「三船先生」
声を張り上げると、それに反応するように先生がこちらを見た。
「どうかした?」
応える声は存外に優しい。もう怒りは収まったのだろうか。だとしたら僕は嬉しいけれど。
「本が一冊足りません」
「あー……借りパクされちゃったかなぁ。たまにあるんだよね、そういうの」
貸出手続きをせずに持ち出されると持主を特定することはできなくなる。それを分かって借りパクする人が毎年一定数いるのだ、と先生は言った。
「発注かけなきゃいけないから、タイトル教えてくれる?」
そう問われて僕は口を開く。
「『早急に英語を身につけるために』です」
すると、先生は驚いたように目を見開いた。
「そ、っか……」
「はい。盗まれるくらいだし、人気な本なんですか?」
「……うん、そうだね。英語の入門書の中ではかなり有名みたい。タイトル通り早急に英語を身につけたいって人がたまに借りてくよ」
早急に英語を身につけなければならない状況とは一体どんなものなのだろう。テスト前の学生が焦って借りていくのだろうか。だとしたら、随分と計画性のない人たちだ。僕は内心で呆れのため息をひとつ吐く。けれど、今はそれよりももっと気になることがあった。
「日頃から勉強していれば早急に、なんて思わなくてもすむでしょうけどね」
先生の機嫌を損ねることがないよう気をつけながら、気になった言葉をさり気なく訂正する。
早急の正しい読み方は「そうきゅう」ではなく「さっきゅう」だ。些細なことだと言われればそれまでだけれど、僕はこの手の間違いが気になって仕方なくなってしまう性質だった。
ちらりと先生を窺う。すると、彼女は再び驚いたように目を見開いた。
「……うん、そうだね。ほんとその通りだ」
「あの、先生……?」
そのおかしな様子が気になって声をかけると、先生はふっと柔らかな笑みを浮かべる。
「吉野くんって面白いね」
「そう、ですか?」
僕は進級早々クラスメイトに仕事を押し付けられるような地味な人間で、面白いなんて言われたことは一度もない。けれど、三船先生は僕を見て心底楽しそうに笑っている。
「吉野くんといたら退屈しなさそうだなぁ」
笑顔とともに溢されたその言葉に、僕の心臓は大きく音を立てた。それはまるで、胸の中でビックバンが起こったかのようだった。
渋々引き受けたはずの図書委員の仕事が嫌でなくなったのは、三船先生に惹かれたからだ。我ながら単純だと思う。けれど、あの言葉と笑顔にはそれくらいの破壊力があった。地味で目立たなくて、その上厄介ごとを押し付けられてしまうような僕を、三船先生だけが面白いと言ってくれたのだ。僕といると退屈しなさそうだ、とも。そんなの嬉しくないわけがないに決まっている。
「先生、返却本です」
そう言ってクラスメイトから預かった──もとい押し付けられた返却本を手渡すと、先生は僅かに顔を顰める。三船先生は、僕が雑用を押し付けられたと分かるといつもこういう顔をするのだ。
「返しに来るのを面倒くさがるなら本を借りるなって言ってやりたいな」
カウンターに肘をつきながら先生はそうぼやく。
「図書委員に渡せばそれでいいって思ってるんでしょうね。まぁ実際大した手間ではないからいいんですけど」
クラスメイトの考えはあながち間違ってもいない。帰宅部である僕は他の人よりも図書当番になる回数が多いので、返却を任すには適任だろう。しかし、先生は僕の言葉を聞くと露骨に呆れた顔をした。
「あのね、吉野くん。これは手間じゃないからいいとかそういう問題じゃないんだよ。一度理不尽な要求を受け入れると、無茶な頼みごとをしてもいい人だと思われちゃうんだから」
言われてみると確かに、進級早々僕に図書委員を押し付けた委員長は今でも何かと頼みごとをしてくる。ゴミ捨てに行ってきてだとか代わりに日誌を書いてほしいだとか。一つひとつは大したことではないけれど、そのどれもが僕の仕事でないことを思うと確かに理不尽な要求ではあるかもしれなかった。
「……でも、断るって難しいですよ。ただでさえ友達と呼べるような友達がいないのに、断ったら今度こそクラスから孤立してしまいそうで」
「それで孤立するなら吉野くんのクラスメイトは所詮その程度の人間だったってことでしょ。……って言いたいところだけど、学校って色々と難しい場所だからね」
そう言って先生は困ったように笑う。
「全部断るのは無理だとしても、二回に一回くらいなら断ってもいいんじゃない?」
「断れますかね……」
自分が頼みごとを断っているところなど想像できなくてそう呟くと、先生は「できるかできないかじゃなくてやるかやらないかでしょ」ともっともらしいことを言った。
「それにしても」
言いながら、先生は返却本のバーコードを通す。
「『出生地について知る』、なんて吉野くんのクラスメイトは随分と難しそうな本を読んでるんだね。そういう授業でもあるの?」
「あー……はい。著名人の出生地を調べるって課題が出てるんです」
出生の読み方を訂正したのは反射のようなものだった。図書室で働いているくらいだからそれなりに言語についての知識はあるだろうに、三船先生はよくこういう間違いをする。そして、僕が間違いを訂正すると決まって楽しそうな顔をした。
「ふふっ、学生は大変そうだねぇ。社会の課題?」
「はい。日本史のレポートです」
くすくすと笑い声を上げる先生は目に見えて機嫌がいい。不可解なその様子が気になって、僕は思わず声を上げた。
「あの」
「ん?」
カウンターに肘をついたまま、先生がこちらに視線を向ける。
「……先生って、本を読むのが好きなんですか?」
けれど口から出てきたのはそんな遠回しすぎる質問で、僕は僕自身の口べた具合にがっかりした。もっといい切り込み方があっただろうに。
「突然どうしたの?」
案の定、先生は戸惑ったような様子で瞬きをする。けれど、質問を無視するつもりはないらしい。
「好きかと言われれば好きかな。じゃなきゃ司書教諭なんてやってないしね」
そう答えて目を伏せた。
「どういうジャンルを読みますか?」
続けざまに問いかけると、「今日の吉野くんは質問攻めだね」と笑ってから先生は再び口を開く。
「うーん……。私は割と乱読タイプだから、特別このジャンルが好き!っていうのはないかなぁ。小説も伝記も図鑑も辞書も学術書も手当たり次第に読んだよ」
「"読んだ"って過去形なんですね」
まるで今は本を読んでいないみたいだ。そう思い口を挟むと、先生は一瞬驚いたような表情を浮かべて──それから、弾けるように笑い声を上げた。
「ん、ふふっ……!吉野くんってほんと面白い。細かいっていうか面倒くさい性格っていうか、気になったことは直ぐ口にしちゃうタイプでしょ?」
「えっ、いや、その……」
褒めているのか貶しているのかよく分からない言葉を口にして、先生は迷惑になりそうなほど大声で笑った。それは、普段の先生だったら「図書室で騒音は厳禁!」と怒るであろうほどの声量だった。
「あっ、吉野くん!ちょっといい?」
僕を呼び止めた委員長は、そう言って分厚い本を差し出した。
「これ返却しといてもらってもいいかな?」
視線を落とすと、『宇宙のふしぎ』と書かれた表紙が目に入る。そのとき、ふと「二回に一回は頼みごとを断った方がいい」という三船先生の言葉を思い出した。
「いや、あの……僕、今日当番の日じゃないし」
遠回しに返却はできない、と告げる。けれど、委員長は一歩たりとも引き下がらなかった。
「別に今日じゃなくてもいいよ!返却日までまだ余裕あるし。次の当番の時に返しといてくれたらいいから!」
それなら自分で返してくれ、とは言えなかった。その言葉を口にする間もなく委員長が立ち去ってしまったからである。「じゃあよろしくね!」という去り際に吐き出された言葉が、いつまでも耳に残って離れなかった。
当番でもないのに図書室に顔を出したのは、そんなことがあったからかもしれない。つまり、下がりに下がりきった気分が三船先生に会うことで浮上するのではないか、と。そう考えたわけである。
「返却本です」
言いながら本を差し出すと、先生は露骨に呆れたような顔をした。
「吉野くんが図書委員になってから暫く経つけど、君はここで本を借りていかないよね」
「……そうですね」
「つまりこの本は吉野くんが返却作業を押し付けられた本ってわけだ」
「ご明察です」
返事をすると、三船先生は薄いネイルが施された爪でコツコツとカウンターを叩く。
「私、前に二回に一回は断った方がいいって言ったよね?」
「言いましたね」
「全く実行できてないじゃない」
そう言われると返す言葉もない。僕はカウンター横の椅子に腰を下ろし、身を小さくして先生のお叱りを受け入れる。
「断ろうとは思ったんですよ。今日は当番じゃなかったし、頼みごとを受け入れたら僕の放課後の時間が削られるわけですし」
「なのに結局受け入れて、大切な放課後を削ってまでここに来たの?」
それじゃあ何も変わらないじゃない、と先生は言った。それはまったくもってその通りで、僕は項垂れることしかできなかった。
「月並みな言葉だけど、人は変わろうとしなきゃ変われないんだよ。少しの勇気も出せないままじゃ、ずーっとこのままなの」
「それは分かってます。……分かってるつもりです」
僕だって変われるものなら変わりたい。こんな情けない姿じゃなくて、たまにはかっこいい姿を先生に見せたい。でも、あと一歩の勇気がどうしても出ないのだ。
気まずさから視線を逸らすと、先生はひとつため息を吐く。そして小さく呟いた。
「仕方ないなぁ……」
「先生……?」
「仕方ないから、私が勇気の出し方を教えてあげる」
驚いて顔を上げると、ちょうど先生がポケットからスマホを取り出すところだった。
「今から私はここで電話をかけます」
「えっ……。館内は通話厳禁じゃないんですか?」
「放課後の図書室なんていつも貸切り状態なんだし、どうせ今日も誰も来ないでしょ。だから特別」
「そういうものですか……?っていうか、電話をかけるって誰に……?」
尋ねると、先生は考え込むように指先を顎に当てた。そして、暫く悩んだ後にカウンターにスマホを置く。
「そうだね、まずは事情から説明しなくちゃ。私のことと──それから、私が電話をかける相手のことを」
聞いてくれる?と尋ねられて、僕は首を縦に振る。先生は、一体誰に電話をするつもりなのか。今はただ、それを知りたいと思った。
出会いは大学生同士の合コンだった。あの人は好んで合コンに参加するタイプではないから、今思えば飲み会だと騙されて連れて来られたのだろうな、と思う。
「西宮夏羽。大学では宇宙について勉強している」
自己紹介はたったそれだけ。いかにもつまらなそうな顔でぐるぐるとドリンクをかき混ぜていたのが記憶に残った。声をかけたのはそんな単純な理由だ。
「西宮くんって何を専攻してるの?ひとくちに宇宙って言ったって色々あるでしょ?」
一番端の席で壁に凭れかかりながら飲み物を混ぜていた西宮くんは、私が声をかけるとマドラーから手を離した。
「……宇宙に興味が?」
「宇宙というよりは、西宮くんの自己紹介に興味があるかな」
そう告げると、西宮くんの身体が固くなったのが分かった。誤解されてはいけないと思い「西宮くんを狙ってるとかそういうわけじゃなくてね」と付け加える。
「宇宙について勉強してるって大雑把すぎない?宇宙工学なのか天文学なのか、それともまた別のものなのかで全然違うでしょ」
私が気になったのはそこだ。私を含め他の皆んなはもっとはっきり自分の専門分野を告げていたのに、西宮くんは「宇宙」としか言っていなかった。疑問に思い尋ねると、彼は考え込むように指を顎に当てる。
「そう言われてもな……。あの場では宇宙としか答えようがなかったんだ」
「えっ、なんで?この研究をするゼミに入ってます、とか言えば良かったんじゃないの?」
私の言葉に、西宮くんは困ったように眉根を寄せた。
「ゼミでは宇宙生物学をやっている。でも、専門的に勉強しているのがそれだけかと言われるとそういうわけではないからな」
「そう……なの?」
「ああ。別の学科の講義を取ったり別のゼミの教授に話を聞いたりもしているから……それこそ先ほど貴女が言っていた宇宙工学も天文学も勉強している最中だ」
西宮くんは簡単に言ってのけるけれど、それは決して容易なことではないはずだ。文学全般が好きで文学部に入った私も、今となってはほとんど専門であるプロレタリア文学の研究しかしていない。それだけで手いっぱいになってしまうのである。
「いいなぁ……。やりたいことを学ぶってやっぱり大事だよね。私も今のレポートが一段落したら他の分野も勉強してみようかな」
入学した当時は古典文学に興味があったから、家にはそれ関連のテキストや資料があるはずだ。レポートを書き上げるまでは別の分野に手を出す余裕がないけれど、やるべきことが片付いたらそちらの勉強をするのも悪くないかもしれない。そう考えていると、西宮くんが目を見開いてこちらを見つめていることに気が付いた。
「西宮くん?どうかした?」
声をかけると、彼はもごもごと小さく口を動かす。
「いや……。珍しいな、と思って」
「へ?」
「一段落は"ひとだんらく"と読まれることが多いからな。言葉は時代と共に変化していくものだし、本来の読み方と違うから悪いというものでもないだろうが……。貴女が"いちだんらく"と読んでいることに驚いた」
言われてみれば確かに一段落はひとだんらくと読まれることが多い。私が正しい読みを知っていたのは、学部柄そのような知識を得ることが多いからだ。
「まぁ文学部の人間にとって言葉って凄く大事なものだしね。それより私は西宮くんが本来の読み方と違うから悪いわけじゃないって認識でいることに驚いたかな」
「そうか……?」
「そうだよ。揚げ足をとるみたいにその読み方は間違ってる!って指摘してくる人もいるんだから」
特にSNSなんかでは頻繁にそんな議論が起こっている気がする。言葉は時代によって変わっていくものだし、正しいか間違っているかよりも他者に通じるか通じないかの方が大事な気がするのだけれど。そうは思っていない人がこの世にはたくさんいるのだ。
「そうなのか……。でも、それを言うと俺も揚げ足とりをする側の人間かもしれない」
私の言葉を受け、西宮くんが小さくそう溢す。
「間違っているから悪いというものではないと頭では分かっていても、気になることにはつい口を挟んでしまう性分でな。反射的に正しい読みはこれだぞ、と訂正してしまうのだ」
大真面目な顔でそう言うものだから、私は思わず吹き出した。
「ふふっ、西宮くんって面倒くさい性格してるねぇ」
「っ……やはりこういう性格は面倒くさいか?」
自分でも気にしているところだったのか、彼は僅かに悲しそうな表情を浮かべる。
けれど、そうではないのだ。私が言いたいのはそういうことではなくて──。
「西宮くんは面白いねって言いたかったの」
「面白い……?」
「うん。だって、別に揚げ足とりをしたいわけでもなく相手を馬鹿にしたいわけでもなく、気になったことはそのままにしておけない性格ってことでしょ?それって凄く面倒くさいけど、凄く面白いなって思うよ」
そう告げると、彼は驚いたように目を見開いて──それから、嬉しそうに笑った。
「……ありがとう」
それはこちらがびっくりするほどに優しい笑顔で。私は、自分の心臓がどくどくと音を立てるのを感じた。
西宮くんはきっと恋愛に興味のない人だ。彼との付き合いが長くなると、だんだんとそれが分かるようになってきた。合コンで連絡先を交換するのもまめにメッセージを送るのも、ちょっと考えれば好意を持たれているからだと分かりそうなものなのに。どうやら西宮くんは私の気持ちに気付いていないようで、いつ連絡をとっても彼の口から出るのは研究の話ばかり。
思い切って「恋人とかいないの?」と聞いたこともあったけれど、返ってきたのは「必要だと感じたこともない」という素っ気ないもので。これには粘り強くアタックし続けていた私の心も折れそうになった。
「ねぇ、西宮くん」
プリントアウトされた論文や薬品の匂いが染み付いた白衣で散らかっている西宮くんの部屋で、私はそっと彼に声をかける。
「なんだ?」
西宮くんは集中モードに入ると周りの音が聞こえなくなることがほとんどだけれど、幸いにも今日はそうでなかったらしい。コーヒーの入ったマグカップを片手に持ちながら、ちらりと私の顔を見た。
言うなら今だ、と思う。貴方のことが好きですって。部屋にまで上げてくれるんだから、ちょっとは期待しちゃだめですかって。でも、口にしようとするとどうしても「恋人が必要だと感じたことはない」と言い切った彼の姿を思い出してしまう。意気地なしの私は、結局「この間勧めてくれた本読んだよ」と関係ない話に逃げることしかできなかった。
「ああ、あれか。地球の誕生についての……」
「そうそう。『いかにして地球は生まれたか』ってやつ。はやく西宮くんに感想言いたかったし、早急に読まなきゃ!と思って」
笑いながらそう告げると、西宮くんはすかさず口を挟む。
「早急に、だろう?最近の君はやけに間違いが多いな」
言外に「文学部の人間にとって言葉は大切なのではないのか」と言われているのが分かる。けれど仕方ないのだ。だって、こうやってわざと間違った言い方をすれば西宮くんがツッコんでくれると知っているから。西宮くんにかまってほしいという気持ちの前では、文学部としての矜持も無力なのである。
「ふふっ、それでも律儀に訂正してくれる西宮くんのことが好きだよ」
こうやって冗談めかした"好き"は伝えられるのに、本当に伝えたい"好き"は口に出せない。そんな自分のことがどうしようもなく情けなくて──でも、もうそれでもいいか、と思ってしまう気持ちもあった。恋人になれなくても、このままの関係で西宮くんのそばにいられるならそれで。
けれど、そんな私の甘い考えはすぐに打ち砕かれることとなる。
「そういえば、話は変わるんだが……」
マグカップを置いた西宮くんは、そう言って真っ直ぐな視線をこちらに向けた。
「暫くの間アメリカに行くことになるから、読みたい本があれば今のうちに持っていってくれ」
「え……?」
ちょっとコンビニに行ってくる、とでも言うような気軽さで放たれたその言葉に、私は思わず目を見開く。
「アメリカ、って……。なんで……」
「向こうのチームと共同研究をすることになったからな。アメリカに永住するわけではないから、そのうち日本に帰ってくるとは思うが」
あっさりとそう言ってから、彼はほんの少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「というわけで、せっかく三船が宇宙に興味を持ってくれたところ申し訳ないが暫く本は貸せなくなる」
そんなことに申し訳なさを感じないでほしかった。だって、私が何度も理由をつけて西宮くんから本を借りていたのは彼との繋がりを失いたくなかったからだ。私は西宮くんのように純粋な気持ちで宇宙と向き合っているわけではない。むしろ、今となっては宇宙という存在が私たちを引き裂くものであるかのように感じている。
「……西宮くん」
「なんだ?」
それでも、行かないでとは言えなかった。それだけは言ってはならない言葉だ、ということは冷静さを欠いた私の頭でも理解できたから。
だから、精いっぱい笑った。西宮くんが安心できるように。申し訳なさなんて感じなくてもすむように。
「私ね、来年から司書教諭になるんだよ。高校の図書室で働くの。本ならきっとそこでも読めるから……だから、気に病まないで」
高校の図書室にはきっと、西宮くんが持っているものほど専門的な本はないだろう。そもそも仕事に慣れるまではゆっくり本を読む時間なんて作れないかもしれない。それに何より、西宮くんのいない世界は味気ないに違いない。そう思うと涙が溢れ落ちそうだった。それでも笑顔を崩さなかったのは、私の意地みたいなものだ。
「いってらっしゃい、西宮くん」
それ以来、私は一度も西宮くんと連絡を取っていない。
「だからね、私も結局のところ吉野くんと一緒なの」
そう言って先生はカウンターに置いたスマホをそっとひと撫でする。
先生が以前「今は本を読んでいない」と取れるような発言をしていたのも、きっとその人が原因なのだろう。もしかしたら、三船先生は今も彼から勧められる本を待っているのかもしれない。
「彼に電話しようと思えばいつでもできた。メッセージだって送れた。でも、勇気が出なくて一つも行動に移せなかった。……だって、向こうからは一度も連絡が来なかったから」
「それは……相手が忙しいだけかもしれないですし」
フォローするようにそう言うと、先生は自嘲気味に笑って首を横に振る。
「慰めなくていいよ。連絡の一つもないのは彼にとっての私がその程度の人間だからだってこと、ちゃんと分かってるから」
そう言われてしまうと、僕はもうなんと声をかけたらいいのか分からなかった。……いや、もしかしたら声などかけるべきではないのかもしれない。先生の想いが彼にある限り、僕は先生に振り向いてもらえないのだから。
「諦めた方がいいんだろうなって何度も思ったよ。でもどうしたって諦めきれなくて──そんな時に吉野くんに出会ったの」
「僕、ですか?」
驚きに目を見開くと、先生は小さく頷く。
「うん。初めて会ったとき、吉野くん早急を"さっきゅう"って読んでたでしょ?彼と同じだ、ってびっくりしちゃった」
「あ……」
思い返してみると確かに、あの時の先生の様子はおかしかった。当時はなぜ先生がそんなリアクションをするのか分からなかったけれど、話を聞いた今なら分かる。先生はきっと、自分の想い人に僕を重ねていたのだ。
「私がわざと違う読みをした時は遠回しな言い方で訂正してくるし。そういうとこ、ほんとあの人にそっくり」
そう言って、先生は見惚れてしまうほどに優しい笑みを浮かべた。その笑顔に胸が高鳴る一方で、それほどまでに彼を想っているのかと思うと胸が苦しくなる。
「吉野くんと一緒にいると、彼と一緒にいた時のことを思い出すの。だから楽しかった。このぬるま湯に浸かるみたいな日々がずっと続けばいいのにって思った。でも、それじゃ駄目だよね」
先生は笑った。そして、震える手でスマホを掴んだ。
「見てて、吉野くん。誰だって一歩踏み出せるんだってこと、私が証明してあげるから」
静かな図書室に電話のコール音が響く。僕は、黙ってそれを聞いていることしかできなかった。
その後先生と彼の関係がどう変わったのか、僕は知らない。なぜなら、僕自身が結果を聞くことを拒んだからだ。しかし、通話を終えた先生はあの優しい笑みを浮かべていたから、手酷くフラレたということはないだろうと思う。もしかしたら、二人はもう恋人同士になっているのかも。そう思うと胸が締め付けられるような苦しさを感じた。しかし、今はそんなことに気を取られている場合ではないのだ。
僕は先生の勇気を目にした。だから今度は僕が勇気を出さねばならない。大きく息を吸うと、僕は委員長の席に向かった。
「あの」
声をかけると、彼女はパッと顔を上げてこちらを見る。
「あっ、吉野くん!ちょうど良かった〜!頼みたいことがあるんだけど」
雑用を押し付けることに対して躊躇いなんて少しもなさそうに、委員長は弾んだ声を上げた。この勢いに僕はいつも流されてしまう。でも、それではいけないのだ。一度理不尽な要求を受け入れると、無茶な頼みごとをしてもいい人だと思われてしまう。いつか先生が言っていた言葉を思い出す。勇気を出さなければならないのは今だ、と思った。
「ご、ごめん。……本を返すのとか、次からは自分でやってほしい。僕も毎回は無理、だから」
吐き出した声は情けないほどに震えていた。それでも、確かに一歩踏み出すことができた。
安堵の息を吐きながら委員長の表情を覗うと、彼女は目を丸くしてこちらを見つめていた。僕が頼みごとを断るなんて思ってもいなかったのだろう。
「……私、無理させちゃってたかな」
暫くの沈黙の後、彼女が小さくそう溢す。そんなことない、とは言えなかった。けれど、まさかその通りですなんて言うこともできないので僕は曖昧に笑う。
「そっ、かぁ……。吉野くん帰宅部だし、誰かと一緒にいるところもあんまり見かけないし、だからつい色々任せちゃってたけど、吉野くんだって暇なわけじゃないもんね」
「いや、それは……」
委員長のお察し通り、部活をしている人たちよりは暇ではあるけれど。そう肯定しそうになって、僕は慌てて口を噤んだ。僕が僕自身を蔑ろにすることを、三船先生は決して良しとはしない。だから、僕は自分のことを大切にしなければならないのだ。
「……うん、まあ、そういうことになる、のかな」
小さく頷くと、委員長は僕に向かって頭を下げる。
「ごめんね。こんなんじゃ委員長失格だよね。これからは本は自分で返すし、仕事も平等に割り振るようにします」
「えっ、あ、うん……。よろしくお願いします……?」
合わせるように頭を下げると、委員長はくすくすと笑い声を上げた。
「吉野くんって面白いね」
その笑顔は柔らかくて、温かくて、可愛らしかった。けれど、三船先生の笑顔を前にした時のような胸の高鳴りは少しも感じられなかった。
「先生!」
言いながら勢いをつけてドアを開ける。すると、思っていたよりも大きな音が響いてしまい僕は慌ててドアを押さえた。
「図書室ではお静かに」
いつも通りカウンターで仕事をしていた先生がじとりとこちらを睨めつける。それに頭を下げて応えると、僕は再び口を開いた。
「先生、僕もちゃんと一歩踏み出してきました」
委員長に話をしたこと、今後は雑用を押し付けられることはなくなりそうであることを告げると、先生は大きく目を見開いた。
「びっくりしちゃった。……吉野くんも勇気を出せって発破をかけたのは私だけど、まさか本当に話をつけてくるなんて」
「僕も驚きました。まさか自分が嫌なことを嫌だと言えるとは思ってなかったので」
先生のおかげですね。そう言って笑うと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「吉野くんには大分情けないところ見せちゃったけど、そう言ってもらえると救われるよ」
そう告げる先生の瞳には翳りがない。結果を聞かずとも、その顔を見ただけで先生とあの人が上手くいっているであろうことが分かった。けれど、それが分かったからといって僕の中にある恋心が消えるわけではない。だから、僕は最後の勇気を振り絞って声を上げた。
「……あの、先生」
お願いがあるんです、と言うと先生は不思議そうに首を傾げる。
「なぁに?私にできることだったら聞くけど……」
「卒業式が終わったら、話したいことがあるんです。先生の時間を僕にくれませんか?」
先に委員長と話をしておいたおかげか、今度は声が震えることはなかった。怖いし緊張もしているけれど、思っていたより心が凪いでいる。
真っ直ぐにそう告げると、先生は困ったように眉根を下げた。
「あのね、吉野くん。報告はいらないって言われたから言わなかったけど……私、電話の彼とそれなりに上手くいってるんだよ」
「それはおめでとうございます。付き合ってはないんですか?」
「まだそこまではいってない、けど……。彼が帰国したら、そういうのも含めて話すつもりだし」
三船先生は特別敏いわけではないけれど、決して鈍い人ではない。だから、遠回しに拒絶されているのだろうと思った。けれど、出会った時からずっと募らせ続けたこの想いをなかったことにするなんて今の僕にはとてもできそうにない。
「別に僕は先生の邪魔をするつもりはないんです。ただ時間を作って欲しいだけ。……よろしくお願いしますね、先生」
"お願い"に対する返事は聞かなかった。これ以上踏み込んで「駄目だ」と言われてしまったら、もう僕にはどうすることもできないからだ。そうなるくらいなら、曖昧なうちに引き下がって判断を先生に任せた方がいい。
踵を返して図書室を後にした僕を、先生は追いかけてこなかった。
卒業まであと二ヶ月。三年生は受験の追い込み時期で、そうなると委員会活動は自由参加となる。僕は図書室を出たその足で貸出の仕事を二年生に頼みに行った。
そうして、卒業を迎えるその日まで三船先生との連絡を断った。
「吉野くん」
先生の声で我にかえる。彼女は困ったような顔で僕を見つめていた。
「私が誤魔化してあげようとしたのに、なんで告白しちゃうかなぁ」
その言葉に、僕はムッとして言い返す。
「想いを告げるのが悪いみたいに言わないでください。一歩踏み出す勇気が大事だって教えてくれたのは先生ですよ」
「それはそうだけど……。さすがにあの間で心変わりするかなって思ってたのに」
「たった二ヶ月で心変わりするわけないじゃないですか。僕はずっと……出会った時からずっと、先生のことが好きなんですから」
そう言うと、先生は驚いたように目を見開いた。
「出会った時から……?」
「……気付かなかったんですか?」
「いや、気付かないでしょ……。だって、私と吉野くんって出会いがあんまり良くなかったし」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまう。誰もやりたがらない図書委員という役目を押し付けられて、あの日の僕は機嫌が良くなくて──でも、嫌な仕事を押し付けられたからこそ三船先生と出会えた。そう思うと、僕のこの厄介ごと巻き込まれ体質もそう悪くないような気がした。
「確かに出会いは良くなかったかもしれませんけど、先生はそれを吹き飛ばすくらい素敵なものを僕にくれましたから」
こんな僕のことを面白いと言ってくれて、僕といたら退屈しなさそうだと言ってくれて、とびきりの笑顔を見せてくれて。そうやって、"僕"を見つめてくれた先生だから好きになった。
今思えば、あれは僕を通して彼を見ていただけなのだと分かるけれど。それでも、一度溢れ出した気持ちは止まらない。
「フラレるならそれでもいいんです。せっかく踏み出すことの大切さを教えてもらったのに、気持ちを伝えられないまま終わるのは嫌だっただけなので」
笑みを浮かべながらそう告げると、先生は小さく息を吸い、僕に向かって深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
そして、頭を下げたまま先生は言葉を続ける。
「貴方に彼の姿を重ねていたことも、好意に気付かず貴方の前で彼に電話したことも、申し訳ないと思ってる。……でも、その気持ちを受け取ることはできない」
それは予想通りの返事だった。フラレるだろう、ということは分かっていたのだ。だから、悲しいことなんて一つもない。そのはずなのに、ゆらりと視界が滲んだ。
「……顔を上げてください」
そう告げると、先生はゆっくりと頭を上げる。そして、僕の顔を見るとくしゃりと表情を歪めた。そんな顔をさせたかったわけじゃない。そう思っているのに、涙は僕の意思とは関係なしに溢れてくる。
「三船先生」
震える声で彼女の名を呼んだ。どうかこの想いが伝わりますように、と願いながら。
「そんな顔しないで笑ってください。……最後は、笑顔で見送られたいです」
「吉野くん……」
「ほら、いつまでもここにいるわけにはいかないんですから。早急にお願いしますよ」
悪戯っぽくそう告げると、先生はふっと息を吐き出した。
「早急に、ね。任せてよ」
先生が笑う。哀しそうに──けれど、どこか慈愛を感じさせる眼差しで。
「吉野くん、卒業おめでとう」
この日、僕の初恋は終わった。
最後に見た先生の笑顔は見たことがないくらいに綺麗で、いつまでもいつまでも僕の胸に焼き付いて離れなかった。