この世界は君で彩られていく

 そんな自分を覆すきっかけとなったのは、消極的になるどころか、何事にも興味持つことを辞めてしまった時期だった。

 当時の私はすでに志望校どころか、ある私立高校の推薦入試を受け、合格内定まで進んでいた。クラスの誰より早く決まったこともあって、残りの中学校生活をどう過ごそうか考えていたとき、早紀に誘われて渋々ついて行ったのが、この高校の文化祭だった。
 早紀の目当ては校風やカリキュラムではなく、入学したら先輩になる在校生との交流だった。確かにコミュニケーションは大切だとは思うけど、何も文化祭じゃなくてもいいと思った。在校生だって思い出作りに楽しんでいるのに、わざわざ部外者が割り込む必要はないだろう。
 しかし、実際に行ってみれば、来場者との関わりも大切であることもわかるような気がした。早紀は顔ばかりに目がいっていたけど、在校生は皆、親切に校内を教えてくれて、屋台のクレープではホイップを多めにしてくれることもあった。気さくな人が多く、居心地の良い雰囲気が、どこか羨ましく見えたのかもしれない。
 この学校は普通科の中にコースが複数あって、進学を目指すコースの他に、芸術コースが設けられていた。すでに在籍中に数々のコンクールで最優秀賞をいくつも獲得する生徒が出てくるほど、毎年特待生で入ってくる生徒もいるくらいだと聞く。
 そんな芸術コースの生徒が有終の美を飾る作品展示が文化祭なのだ。
 会場となる校内の展示ホールでは、いくつもの作品が壁やパーテーションに飾られ、中央の台には彫刻や陶芸が並べられていた。すでにホールには多くの来場者が集まっており、どの作品もじっくり吟味しながら見て回っている人も見受けられた。かっちりとしたスーツを着ていた複数の来場者は、採点でもしていたのかもしれない。
  さらっと見ていく早紀に置いて行かれながらも、私は作品を一つずつ目を向けていく。
 絵や彫刻にすごく興味があるわけでもなければ、込められた意味を汲み取ることもできないが、自分ができないことをこなす誰かの才能にただ圧倒され、羨ましく思う。
 その中でも孤立し、異様な雰囲気を漂わせていたのが、カンバスに描かれた『明日(あす)へ』と題された一枚の絵だった。誰もが見落としそうな、一歩引いた場所に置かれたカンバスはまるでのけ者扱いのようで、ひっそりと息をひそめているようにも見える。

 それは一見、明るい未来を描いた世界だった。澄んだ青空を背景に、ブルーインパルスを彷彿とさせるスタイリッシュな機体が雲を突き抜ける瞬間を、白と灰色で描かれた風が力強く表現している。
 地上では色とりどりの花束を抱えた少女が見上げていた。少女の姿は黒く塗りつぶされていて、どんな表情をしているかはわからない。風で揺れた長い髪が大きく羽ばたくための翼のようにも見える。
 どことなく他の作品と比べて感じる違和感に惹かれて立ち止まる私の後ろを、何人もの人が通り過ぎた。
「なんて希望に満ち溢れた素敵な世界だろう。どの生徒さんも、表現が豊かで良いね」
 一度立ち止って私の隣に並んだ来場者の一人が、鼻で嗤いながらよく見ようともせず通り過ぎていく。
「満ち溢れた世界……?」
 誰かも知らない来場者の何気ない一言に、私は眉をひそめる。
 本当にその絵は希望に満ち溢れているのだろうか。人の感性はそれぞれだから否定はしないけど、どうしても違和感が拭えない。もう一度、カンバスの細かいところまで目を皿にして探していく。気になったのはブルーインパルスの機体だ。テレビの特集で見かけた機体は真っ白なフォルムをしていた。風を纏わせているからとはいえ、こんなに煤で汚れていただろうか。
 一歩前に出てふと、絵の中に鉛筆で何かが細かく描かれているのに気付く。
 カンバスは布だ。使うとしたらアクリル絵の具で、下描きが残っていたとしてもここまで目立つものではないはず。
 私はカンバスにさらに近付いて目を凝らした。
 ブルーインパルスだと思っていた機体の側面には、国旗と機体の番号が書かれており、雲に紛れて縋るように無数の手が伸びていた。真っ黒に塗り潰された少女を覗き込めば、泣き叫ぶような表情と浮かべ、手を空へ真っ直ぐ手を伸ばす姿が残されている。
「これって……」
 まさかと思い、少女が抱えている花にも目を向ける。
 特徴からデイジー、コスモス、オリーブ、タンジーと推測してポケットに入れっぱなしにしていたスマホで手早く検索をかける。暇つぶしで読んでいた植物図鑑の記憶がこんなところで役立つとは思わなかったけど。描かれている花の特徴はどれも異なるが、検索欄に「花言葉」を追加すれば「平和」の花言葉があるものばかり。
 そこでようやくタイトルの意味に気付いた。
 誰でも近づくことができるイーゼルに飾られているのは、鉛筆の下描きこそがこの『明日へ』の本来の姿だと観ている誰かに気付いてもらいたいからだ。
 機体に伸ばす手は、飛び立つそれを引き留めたい人々によるもの。
 少女の顔が黒で塗りつぶされているのは、周りの煙で見えないから。
 まとまりのない花ばかりをまとめたのは、「平和」の花言葉が入った花を少女が身の危険を顧みずに懸命にかき集めた、命と同等に大切なもの。
 憶測にしかすぎないけど、今の私にはここまでしか分からない。ずっと拭えなかった違和感の正体を、他にどう説明しようというのだろう。
 この絵は――。
「戦時中の、光景……」
 子どもっぽい絵に見えるかもしれない。
 作品名だけで、希望に溢れたきれいな絵だと思うかもしれない。
 だから大抵の人が素通りをしていく。意味など考えることもなく、壁にかかった色鮮やかな作品に目を向け、一通り見終わったらホールを出ていく。カンバスに描かれた本当の意味など知る由もない。
 それが本当にこの絵の作者が意図して仕組んだものかは別として、そう推測した私はカンバスの前で立ち尽し、何度も絵を見て疑った。繊細で大胆なカンバスから、悲鳴と警報が今にも聴こえてくる。何度も何度も「やめて」と泣き叫ぶ声がかき消されていくのを、空に向かって泣き叫ぶ少女が煙に巻かれて消えていくのを、私は目の前で起こっているような錯覚に陥った。
 きれいなもので彩られたこの世界は、どろどろと醜いものが積み重なってできている。――怪我をした指を隠すように。汚いお金を隠すように。空に向かって飛び立つその機体に乗せた儚い命を隠したように。鮮やかで眩しい世界に見せるために、色を塗って蓋をした。

 それに気付いた時、私はぞっと背筋が凍るような悪寒に襲われた。恐怖に当てられて急に苦しくなる。胸に押し当てていた手の甲に、涙がひとつ、またひとつと零れていく。
 それでようやく、自分が絵の中に呑み込まれていたことに気付いたのだ。驚きが隠せない中でも、密かに得た好奇心に胸をときめかせた。
 少女が願った明日を知っているのは自分だけかもしれない、と。

「あら、大丈夫?」

 突然隣にいた女性に声をかけられてハッとする。自分がいるのは煙の立ち込める悲惨な惨状の街中ではなく、平和な展示会場だったことを思い出した。知らぬ間にぼろぼろと零した涙は頬を濡らし、目元を腫らしていたのを見て、横目で通り過ぎる来場客には変な奴だと思われたかもしれない。彼女もまた、その一人だったのだろう。白い髪を一つに束ね、シックな紺色のロングスカート姿のご婦人は、私を見て小さく微笑む。
 慌てて袖口で目を擦った。ポケットに入れっぱなしのハンカチなんてすっかり忘れていて「そんなに擦ると赤くなっちゃうわよ」とご婦人に注意されるも、大丈夫だと返せば笑ってくれた。
「すみません、見苦しい姿を見せました」
「いいのよ。ここにはいろんな人がいるけど、皆感じるものは違うのだから。私もこの絵をすごく気に入っているの。こんな端に追いやられて多くの人に素通りされてしまっているけれど、あなたのように涙を流してくれる人がいるのがすごく嬉しいわ」
「そう……ですか」
「ええ。私はね、この絵を描いてもらってから、美術部を創ってよかったと思ったの」
「……美術部?」
 パンフレットや学校のホームページの部活紹介の中で、美術部のことは何も書かれていなかった。むしろ学科として芸術コースがあるくらいなのだから、存在しないのかと思っていた。不思議そうに尋ねる私に、ご婦人は嬉しそうに笑う。
「ええ。とっても素敵な部よ」
 しばらくこの学校の良さについて語ると「だからね」と言葉を続けた。
「あなたにもきっと見つかると思うの。自分がしたいこと、諦めていたことも、全部」
 私はこの時、心臓に矢を突き立てられたような気がした。自分がしたいことも見つからない、やろうとしていたことも全部、できないから仕方がないと言って諦めて周りの空気を読むようにしていた。
 なにより、彼女の真っ直ぐな目が私を捉えて離さない。
「……な、んで」
「あら。私はなんでも知っているのよ。……あなたとまた会えること、楽しみにしているわね」
 ご婦人はそう言って、ふふっといたずらに笑いながら立ち去った。

 あの日以来、私の頭の中にはいつも、ご婦人の言葉とあのカンバスがあった。
 周りにいる人たちに合わせるようにしてきた自分に嫌気が差す。無関心を保っていられるはずがない。本当に自分がしたいこと――そればっかり考えていたら、すでに受験して合格を貰った進学校に行く意味がないことに気付いた。偏差値が高く、両親が出会った大学に進学してほしいとだけ言われて受験した。大学はともかく、勉強ばかりに時間を費やすのは今も変わらない。学ぶ内容のレベルが変わっただけで同じ日々を繰り返すことに、何の意味があるのか。
「……これじゃあ、ダメだ」
 それからの行動は、自分のでも驚くほど早かった。まず学校資料を片手に担任の先生に一般入試で受験できるか確認すると、両親に承諾を得て受験へ。両親にも先生にも驚かれたが、それ以上は何も言われなかった。私の成績で問題ない範囲内で、すでに合格していた高校の偏差値よりも高かったからだ。今思えば「ダメで元々」と軽視していたようにも思える。
 選んだのは普通科の進学コース。芸術コースはすでに応募が閉め切られており、更に自分の作品を提出することが前提条件だった。私は授業で習う程度で、詳しくもなければ描くのも得意な方ではない。それに今の自分に、何がしたいのかが分からなかったから、決められたコースにいるのは難しいと思った。
 ただ、今の自分を変えたい。――その一心だけで入学を決めた。
 中学三年間という長い時間の中で、私は初めて、未来の自分を期待した。
 入学式から数日経った部活紹介を含めたオリエンテーションでは、運動部と文化部を合わせた二十以上の紹介がされる中、やはり美術部は単語すら出てこなかった。ある日の放課後、別件で長谷川先生に呼び出されて職員室にきた私は、次いでに美術部について尋ねてみた。先生は途端に眉をひそめると、怪訝そうな顔をして教えてくれた。
「美術部? 学科として特別に芸術コースがあるんだ。部活の一環で同じものがあるのはおかしいだろう。そもそもなぜ受験の時に選ばなかった?」
「それは、すでに募集が終わって……」
「つまり、浅野は別に芸術には興味なかったってことだろう? それを存在しない美術部に入ろうなんて、芸術コースをバカにしているのと同じだぞ」
 視界の端で職員室にいるほとんどの先生が嫌そうな顔をしているのが見えた。先生は美術部に入りたいなら最初から芸術コースに入っていればいいと、言い方が違うだけで同じことを繰り返す。中身のない、空っぽな話に耳にタコができるかと思った。
「――だから、美術部は存在しない。わかったら他の部活にしなさい。確かに強制ではないが、今後の浅野の学校生活や内申点に繋がってくるだろうし、毎日が難しければ週二日で活動している同好会でも良いんじゃないか? それに今、俺が担当している演劇部も人が足りなくてだな……」
「強制でなければ入るつもりはないので……。すみません、失礼します」
 逃げるようにして職員室から出ていく。どの先生も私を睨んだ。蔑むような、汚いものを見るような、冷たい視線だった。
 なぜそれほどまでに美術部の存在を毛嫌いするのだろうか。先生の言い分でいえば、校内のニュースや話題を取り上げる新聞部と、生徒会で校内新聞を月に一回のペースで発行している編集委員会だってどちらか一つに絞るべきだ。生徒会の管轄が優先されるのであれば、廃止されるのは新聞部の方だろうけど。
 それほどまでに先生たちの態度は異常だった。まるで生徒――特に新入生――を近づけさせないようにしているようにも見える。だからこそ一つの確証が持てた。
 美術部は確かに存在する。
 *

 長谷川先生との話を終えると、私は急いで学校を出た。未だに履き慣れないローファーは歩き方の問題か、すでに内側に擦った跡を気にしながら、学校から少し離れたところにある本屋に駆け込んだ。
 四月から始めたアルバイトは、本屋の中にあるチェーン店のカフェだ。レジでオーダーを貰い、前払いで会計を済ます作業は、私が入ったその日にレジ自体が新しいものに変更したこともあって、誰よりも早く覚えた。最近はレジさえもタッチパネルらしい。会計の度に操作画面をお客様に向けないといけないのが少々手間だが、以前よりも閉め作業が楽になったと店長が言っていた。
「浅野さん、お疲れ様。(よう)()さんがそろそろお子さんのお迎えだから交代してあげてくれるかい? この作業が終わったら僕もお店に出るから」
「は、はい!」
 急がなくていいからね、とバックヤードでシフトを組んでいた店長が笑う。なるべく急ぎながら身支度を整えて店内に出るも、平日ということもあってあまりお客様はいなかった。新しくなったレジに慣れようと操作していたアルバイトの先輩――()()陽子さんに声をかける。
「陽子さん、おはようございます。レジ代わります」
「おはよー浅野ちゃん。ありがとう。今日はシナモンロールが売り切れててね……」
 ショーケースに入っている軽食やケーキの在庫、今日のピーク時の状況など、事細かに引き継ぐ。陽子さんはパートをしつつ、二人の子どもを育てている主婦だ。旦那さんとも仲が良いようで、たまに父子で訪れることもある。
「浅野ちゃん、何かあった?」
「え……?」
「なんか疲れてる顔してるから。高校が始まってばかりだから大変でしょう?」
 陽子さんは視野が広い。それはお客様がドリンクを零してもすぐ駆け付けるほどの対応力でもあるが、スタッフの顔色も見るだけでその日の調子がわかるらしい。特に連日遅くまでバックヤードで仕事をしている店長には厳しい目で見ているという。
「ありがとうございます。……ちょっと、部活の勧誘がすごくて」
「あら、でも部活は自由でしょう? やりたくなかったら蹴っ飛ばせばいいのよ」
 あっけらかんと答える陽子さんに、思わず苦笑いを浮かべた。大雑把ながらも言われると納得してしまうアドバイスに救われている人は大勢いるが、さすがにそんなことをしたら学校のブラックリストに入ってしまう。
「冗談よ。でも本当に自分がしたいことをすべきなんだから、他人の勧誘なんて無視していいんじゃない? それとも他に入りたい部活があるの?」
「そうだよ、部活がしたかったらシフトも調整するよ?」
 バックヤードで仕事をしていた店長がのっそりと出てくる。どうやら作業がひと段落ついたらしい。
「店長もそう言ってるし、私のことも気にしなくていいのよ」
「いえ、その……」
「……なんか、訳ありみたいだね」
 図星を突かれて黙り込む。なるべく二人の重荷にはなりたくないが、これ以上黙っていても無駄だと悟った。
「気になっていた部活が存在しないって言われてしまったんです。芸術コースと変わらないから、部活として活動する理由がないと」
「教師がそんなこというの? なんか意外ね」
「いや、浅野さんの学校は芸術家の卵が集まっているようなモンだからね。似通ったものに手を回すほど、学校側の教員が足りないんだろう」
 教員の人手不足問題か。それなら面倒事を押し付け合いになりかねない。だったらなぜ、長谷川先生はそう言ってくれなかったんだろう。頑なに否定する理由さえも話さなかった先生への疑惑は、さらに深くなった。
「すみませーん。注文お願いしますー」
「あっはい!」
 後ろからかけられた声にふりかえる。あろうことかカウンターに背を向けてしまっていて、レジに注文待ちのお客様に気づいていなかった。
 慌てて私がレジに入ると、一人の男子学生がメニューに書かれた二つのドリンクを「どちらにしようかなー」と人差し指を交互にさしながら選んでいたところだった。
「大変失礼いたしました。店内でのご利用でしょうか?」
「いえ、持ち帰ります。ホットコーヒーとー……えっと、ちょっと待ってくださいね」
 そう言って彼はメニュー表を睨みつけるようにして悩み始める。その間に注文を受けるためのレジ操作を行う。操作が終わっても彼はまだ唸っていた。
 詮索するつもりはないが、メニュー表と睨めっこしている彼をよく見ると、私が通っている学校の制服を着ていることに気付いた。昨年から制服が一部変更となり、白シャツからブルーのカラーシャツになったこともあって、目の前の彼が唯一制服が代わっていない三年生の先輩だと知る。すらっとした長身で色白な肌。屈託のない笑顔が印象的だった。
「あーどうしようかな。あの、キャラメルラテにしようと思っているんですけど、他に店員さんのオススメはありますか?」
 そういってキャラメルラテを指す。ホイップとキャラメルソースがこれでもかと載せられているそれは、後味にキャラメルのほろ苦さがやってくる人気商品だ。
「甘いのがお好きなんですか?」
「いや、今日の気分で。普段はそんなに飲まないからわからなくて」
「そうですか……あ。塩キャラメルはどうですか?」
 スタッフの賄いドリンクで今流行っているのが、キャラメルラテに岩塩を振りかけるという、塩辛くも甘いカフェラテだ。提案したのは陽子さんで、あわよくばトッピングの項目に組み込みたいと息巻いていた。
「塩? そんなのがあるんですか?」
「裏メニューで、今スタッフの中で人気なんです」
「そういうことか。じゃあそれで。塩キャラメル、好きなんですよ」
 会計を済ませ、店長が手際よくホットコーヒーと塩キャラメルラテを手提げ袋に入れて渡すと、彼は「ありがとうございます」と爽やかな笑顔と共に帰っていった。その隙に陽子さんは子どものお迎えのために上がったらしい。それから少しだけ店内が混み始めて、私はレジを、店長はドリンクを片っ端から捌いていった。
 ひと段落ついたところで洗ったものを片付けていると、店長がいう。
「そういや、ドリンク二つ買っていった学生さん、浅野さんと同じ学校だったね。何度か見かけたことがあるなぁ。知ってる人だった?」
「いえ、そもそも私は上級生と関わりがないので……」
 これで部活動に入っていれば関わったかもしれないが、あれだけ否定されてしまっては他の部活に入る気力はない。
「だったらこれを機に知り合うかもね」
「そう、でしょうか……?」
「そういうもんだよ。人と関わるのは、縁を増やしていくことなんだからさ」
 首を傾げる私を見て、店長はハハッと笑った。
 ***

 翌日の昼休みを告げるチャイムが校内に響いた。
 座学で下を向いていたクラスメイトが各々動き出すと、教室は一気に騒がしくなる。鞄からお弁当を取り出すと、見計らったように早紀が椅子だけを持ってきて私の机に自分のお弁当を置いた。
「ねぇ、佐知。考え直してくれた?」
「何を?」
「何って部活だよ。同好会でもいいからさ、何か一緒に入ろうよ」
「早紀はハンドボール部に入ってるでしょ?」
 クラスの誰よりも早く入部届を提出したのは早紀だった。おそらく昨年の文化祭の時にすでに決めていたのだろう。中学は陸上部だったこともあって、運動部に入るのは何となく察していたけど、まさか球技を選ぶとは思わなかった。
「大丈夫! 同好会なら顔出す頻度少ないから」
 部活の掛け持ちは基本許可されているが、夏のインターハイに向けた予選会がそろそろ始まる運動部に、どう考えても余裕があるとは思えない。早紀はさらに得意げに続ける。
「それに最初の二、三回だけ一緒にいればいいんだよ。その間に話せる相手を探しておけば、私がいなくなっても佐知は気まずい思いをしなくて済むでしょ?」
 いや、いる方が気まずいんだけど。喉まで出てきている言葉を強引に飲み込む。
 これは彼女の好意によるものだ。悪意などなく、自分がいないと私が可哀想だと、本心で思っている彼女だからできる提案だった。
「何度も言ってるけど、部活は入らないんだって」
「でもまた長谷川先生に言われるよ? だったら先に入っておいた方がよくない? 幽霊部員がいてもおかしくないし」
「部活は有志。だから無理に入る必要ないよ」
「それはちぃちゃんが入る勇気がないからだよ!」
「…………」
 思わず睨みつけてしまうと、早紀はビクッと肩を震わせる。彼女が勝手に名付けたそれを聞くたびに、いつからか嫌悪感に襲われるようになっていた。
「そ、そんな顔しなくてもいいじゃない? もしかして怒っちゃった?」
 ただの悪ふざけだよー、とへらっと笑う。クラスメイトが談笑しているとはいえ、何人かの目がこちらに向けているのが分かった。
 早紀は目立つ。どこにいても、何をしていても。
 だから、必然的に近くにいる私が巻き込まれるのだ。
「……ごめん、用事思い出したから先に食べてて」
「佐知? ちょ、ちょっと!」
 早紀の言葉を最後まで聞くことなく、自分の弁当箱とスマホを持って教室を出る。
 あのまま席にいたら、きっと私は一方的に早紀に怒鳴ってしまいそうだった。今まで飲み込んできたものがすべて無駄になる。一度口が開いたら止まらない気がして、でもずっと飲み込んだままにする自分が嫌だった。
 廊下を出て行く宛もなく行けば、別のクラスの同級生が行き交っていた。なんとなく居づらくて中庭に顔を出してみたが、すでにベンチは埋まっていた。次の授業まで時間がある。どこで時間を潰そうか。
「あれ、昨日の店員さん?」
 その場で立ち尽くしていると、後ろから聞き覚えのある声がした。そっと振り返ると、昨日、塩キャラメルラテを勧めたあの三年生だった。
「あっ……!?」
「驚いた、同じ学校だったんだ。あそこのカフェ、結構行くんだよ。もしかして最近バイトを始めた感じかな。そうそう、美味しかったよ。塩入りのキャラメルラテ」
「ほ、ほんとですか!」
 昨日と同じ爽やかな笑みを向けられたからか、妙に緊張してしまう。いや、それ以前に上級生と関わることがなかった私がこんなことで話しかけられるとは想定外で、次第に緊張によって体温が上がっていくのがわかった。
「うん。ところで、こんなところで何してるの?」
「え、えっと……」
 友人気まずくなって教室を飛び出してきた……なんて、流石に言えない。
 先輩を前にして混乱する中、どう答えていいのか考えるもパッと頭に浮かばない。すると、先輩の目線が私の手元に向けられていることに気付いた。まだ中身が詰まった弁当が入った巾着袋を、つい力を入れてしまってシワがさらに濃くなる。
「そういや知ってる? ウチの学校、昼休みは視聴覚室が解放されているんだ。一人でも良し、友達と食べて良し。どう?」
「は、はぁ……?」
「一人になりたいときだってあるのわかるわー。よし、先輩が案内しよう。ついておいで」
「へ――!?」
 名前も知らない先輩に背中を押されたかと思えば、半ば強引に中庭を抜け、いくつかの階段を登って降りてを繰り返す。
 途中で「ここが保健室で、そっちに行くと……」と校内を案内されたが、全くと言っていいほど頭に入ってこなかった。私は今、何をしているんだっけ?
「――で、ここが展示ホール」
 現在地がわからないまま、先輩が一度立ち止まったのにつられて私も足を止める。展示ホールと掲げられたプレートの下で、ガラス張りのドアの前で目を疑った。
 ガラス越しに見えたそれは、私があの日からずっと消えなかった『明日へ』だった。
 誰もいない展示ホールの中心で、イーゼルに立てかけられて鎮座している。離れていても感じる、あの異色な雰囲気を見間違えるはずがない。
「ここは外部の講師や卒業生の講演会や座談会によく使われているんだ。あとは文化祭で展示会場に使われて……って、大丈夫か?」
 説明しながら私の方を向いた先輩がぎょっと目を丸くする。
 それはそうだろう。ただ黙って涙を流している、ほぼ初対面の後輩の扱いなんて困るだけだ。
「……すみません、教室に戻ります!」
 先輩の手を振り払い、朧気ながらも来た道を戻る。途中、すれ違う際に先生から引き留められるけど、気に留めることなく全速力で駆け抜けた。
 あの絵があった。存在した。だから美術部も存在する。――それが分かっただけで充分だった。
 胸が絞めつけられるように痛いのは、急に走ったからなんかじゃない。
 ――近付きたい。もう一度近くで見たい。
 でも対面したらきっと、私は泣き崩れてしまうような気がした。
 先輩から逃れるように教室近くのトイレに駆け込むと、鏡を見て驚いた。絵を一目見ただけなのに、私は目が真っ赤になるほど泣いていた。ハンカチを湿らせて目元に当てていれば、昼休み終了のチャイムが聞こえてくる。結局、お弁当は食べられなかった。
 授業開始ギリギリに教室に戻ると、眉を下げて申し訳なさそうな顔をした早紀と目が合う。何か言いたげだったけど、入ってきた数学の先生の号令によって、言葉を交わすことなく席に着いた。
 しばらく授業を受けていると、先生が背を向けたタイミングで早紀から小さく折り畳まれた手紙が回ってくる。

『佐知へ。ごめんね。まさか泣くなんて思わなかった。もし部活やるって決めたら教えてね 早紀』

 早紀が気付くほど、まだ目元の腫れは治まっていないらしい。鏡を見ないと確認出来ないのは難儀なものだ。私が泣いた理由があの絵と再会したからなど、早紀は想像もしていないだろう。
 また会えると思って入学した矢先、多くの人になかったことにされたあの絵を諦めかけていたのに、ひっそりを息をひそめていたことが何よりも嬉しかった。
 ……嬉しかったはず、なのに。
 部外者なのに悔しい思いが胸を絞めつける。
 だから、早紀は何も悪くない。回ってきた手紙に返事をさらっと書く。
「次の問題をー……(ふる)(はた)!」
 いつの間にか先生がこちらを向いており、私の前の席に座る古畑さんを指名した。黒板の上から下までびっしり書かれた問題は、しばらく先生が背を向けることはない。
 返事を書き終えた手紙を折り畳んでペンケースに隠すと、黒板に書かれた問題をノートに写して解き始める。シャーペンを走らせた字は焦っていたせいか、かすれていた。
 手紙は授業中に回せるタイミングがなく、そのまま授業を終えたてすぐ早紀に正面から渡した。
 相変わらず眉をひそめていたけれど「ちゃんと回してよね、心配になるじゃん!」といって、授業中に出された問題が解けなかったことを私に批難する。授業中に手紙を回すことの方が悪いような気がすると、喉まで出かかった言葉はまた飲み込んだ。

 放課後になると同時に、教室から颯爽と出ていくクラスメイト達を見送った。なんでも、今日から本格的に部活動が始まるらしい。早紀も同じようで張り切って出ていった。教室に残ったのは部活がなかったり、帰宅部の生徒ばかりで談笑して盛り上がっている。それを横目に、荷物をまとめて教室を出た。今日はアルバイトが入っていないから、このまま真っ直ぐ帰るつもりだ。
 すると、廊下で後ろから「浅野!」と長谷川先生に声をかけられた。
「お前だけ入部届が提出されていないが、本当に入る気はないのか?」
「は、はい……バイトも始めているので」
「家の事情は聞いてはいるけどな、浅野は本当にそれでいいのか? よかったら幽霊部員でもいいから演劇部に入るのはどうだ? 成績にも反映されるし、浅野にとっても都合がいいだろう」
 長谷川先生は、自分が顧問をしている演劇部を存続させるために必死に新入部員をかき集めているのだと、クラスの誰かが話していた。そのせいか、今の先生の言葉は誘導尋問のようなものにしか聞こえなかった。そんな先生にとって、どの部活にも入ろうとしない私はちょうどよい人材なのだろう。人数合わせにはもってこいだ。
「だから、部活は――」
「ひょっとして、まだ美術部を探しているのか? なぜそんなに固執するのか俺には分からないが、時間の無駄だ。別の部活に入って楽しめばきっと美術部のことも忘れる。まだ始まったばかりの高校生活だぞ、先生を敵にまわしたくないだろ?」
 あまりにも強い威圧感に耐え切れず俯いた。
 先生の顔を見られない。ここで頷かなかれば、先生だけでなく学校中を敵にまわしたことになるなんて、ただの脅迫だ。先生の自己満足に屈したくないのに、恐怖心からか断りたくても声が出ない。
 ああ、なんでこうなるんだろう。
 先生も早紀も皆、私のことなんて放っておいてくれたらいいのに!

「――それって、スクハラにあたりませんか?」

 誰かが私の横に並んだ。聞き覚えのある、優しい声色に強張った身体が解かれた。顔を上げると、そこにはあの三年生の先輩がいた。屈託のない笑みを浮かべた先輩を前に、長谷川先生は苦笑いをする。
「た、(たか)(みね)……お前、こんなところで何をしているんだ?」
「生徒なんだから、どこにいてもいいでしょう。用事があって来ただけです。それよりも先生、一年生に何しているんですか?」
「いや、これは……」
「あ、これ動画撮ってるんで。とぼけても無駄ですよ。体罰同様にハラスメントも厳しいご時世ですから、拡散したら一気に炎上しますね」
 高嶺と呼ばれた先輩はそう言って片手に構えたスマホを揺らす。録画中の赤いランプがちらついたのを見て、次第に先生の顔色が真っ青になっていく。
「お前っ……理事長に気に入られていたからって、調子に乗るんじゃ――」
「それとこれとは話が別です。彼女に用があるんですが、話はまだ続きますか? 返答次第では動画、削除してあげてもいいですよ?」
 先生だって学校に泥を塗りたくないでしょう、と一向に笑みを崩さない先輩に対し、先生は悔しそうに唇を噛む。しばらく睨み合いが続くも、先に白旗を上げたのは先生だった。
「クソ……わかったよ! ちゃんと消しておけよ!」
「はーい」
 舌打ちを残して先生が立ち去る。こんな簡単に教師が折れることがあるのだろうか。唖然としていると、先輩は私に声をかけた。
「長谷川先生の授業、昨年受けていたけど大分悲惨だったな。答えが合わない問題を自分で出したくせに、生徒が解けなくて困っているのを一方的に怒鳴ってた。今回の動画を職員室に提出したら、今度こそブラックリスト入りってところだな」
 災難だったね、と笑って言う。片手で操作するスマホの画面には「保存しますか」と表示されており、先輩は迷わず「はい」をタップする。
「削除するんじゃないんですか?」
「スマホの中のはね。自宅のパソコンに保存したんだ。何かあったときのための武器は多い方が良いからさ。……それよりも、大丈夫? 何もされてない?」
 スマホをポケットに仕舞いながら先輩は心配そうに問う。先輩が来なかったら、私はあのまま長谷川先生の威圧感に押され、演劇部の入部届に記入していただろう。
「はい、ありがとうございました」
「ならよかった。……ところで、さっきちょっと聞こえたんだけど、美術部を探しているって本当?」
 美術部――そう口にした途端、先輩の目つきが変わった。先生たちのように毛嫌いするような目つきではなく、真剣な表情に息を飲んだ。
「は、はい。……でも、美術部は存在しないっていわれて」
「ああ、うちの学校は芸術コースがあるからね。毎度コンクールで入賞しているし、先生たちもそっちにつきっきりなんだよぁ。掛け持ちしている先生だって多いのに、年がら年中人手不足だよ」
「そうですよね……教えてくださってありがとうございます」
 先生の思惑が生徒にまで反映されている。もしかしたら、あの絵を描いた美術部員は卒業してしまったのかもしれない。あれが最後だったから展示してもらえた可能性だってある。あの時のご婦人にもっともっと詳しく聞いておくべきだった。
 私が大きく肩を落としたからか、先輩はさらに尋ねてきた。
「どこで美術部があるって知ったの? 学校案内のパンフレットにも、ホームページにも載ってないはずだけど」
「……そこまで徹底されているんですか?」
 急ぎ取り寄せた資料はカリキュラムについての説明が全体の三分の二を占めていたし、部活紹介の欄は運動部と文化部の代表的な部活がそれぞれ三つほど並べられ、最後に「…他」と締めくくられていた。すべての部活動を把握したのはオリエンテーションの時だ。
 それを先輩に言うと、引きつった笑みでさらに問われた。
「マジか……本当にどうやって知ったの? 教師も二、三年生も暗黙の了解みたいに知らないことになっている美術部の存在だぞ?」
「でも文化祭のときに一枚出していましたよね? 私、あの絵を見て入学を決めたんです」
 あの日からずっと頭の中にあった『明日へ』の絵が今日、ガラス戸の向こうに飾られているを見て息が詰まった。
 初めて見たときから感じたあの衝動が一瞬のうちに蘇って、涙が零れるほど嬉しかった。私がこの学校に入学した目的のうち、一つはすでに達成したにすぎない。
 ――ああ、そうか。私は嬉しかったんだ。
 散々な言われようの美術部が存在していたことを、あの絵が証明してくれた。その事実だけで充分だ。
 すると先輩は突然、私の両肩を掴んだ。心無しか手が震えている。
「……その話、もっと詳しく聞かせてくれる?」

 先輩――改め、高嶺()(あき)先輩に連れられ、校内をぐるぐるとまわる。
 昼休みにも同じようなことがあったけど、それがつい先日のような感覚に陥っているのは、迷路のように続く校内が未だに覚えられないからだろう。高嶺先輩は長身で足も長いから、隣に並んで歩くとどうしても駆け足になってしまう。追いつくのがやっとだった。
 次第に美術室や金工室がある階に着くと、芸術コースの生徒が個人製作の作業をしている姿が見えた。廊下から珍しそうに覗きながら歩く私を見て、高嶺先輩が立ち止まった。
「ここら一帯が芸術コースの作業場なんだ。彫刻や金工作品を保管する場所の確保も大変だからな。ちょっとしたアトリエみたいになっているんだよ」
「やっぱり芸術コースというだけあってしっかりしてますね」
「いや、たかが高校の普通科内の学科コースだ。美大には比べられないし、他の学校よりも機材は揃っていない。でも部屋が多く余ってるってのは利点だな。それだけ作業が自分のペースでできる」
「……あの、高嶺先輩は一組ですよね? 芸術コースの専攻なんですか?」
 芸術コースはクラスが独立しているわけではなく、普通科の進学コースの生徒と混ざって授業を受けている。難関大学を目指す少人数制の特進コースは別として、一組で内部事情にも詳しいのであれば、芸術コースにいてもおかしくはない。
 すると高嶺先輩は大きく肩をすくめた。
「俺は進学だよ。軽くスケッチができるくらい」
「え……じゃあどうしてそんなに詳しいんですか?」
「有名だからね。芸術家の卵が集まる学校にしては宝の持ち腐れって感じだな。……でもまぁ、内情はもっと腐ってるけどな」
 最後の方は声が小さくて聞こえなかったけど、多分先輩は芸術コースのことをあまり良く思っていないような気がした。
 さらに足を進め、芸術コースの生徒が使っている美術室よりも奥にやってきた。
 廊下の両端には乱雑に画材やガラクタが置かれている。随分放置されているのか、埃が溜まっていた。それを避けるようにして進むと、『第八美術室・資材置き場』とプレートが掲げられた戸の前で止まった。
「ここは過去の作品や使われなくなった資材を置く、物置扱いされてる美術室。気味が悪いって誰も寄りつかないんだ」
「えっ……!?」
「大丈夫、何も取って食ったりしないから。……新入生が美術部の存在を知っていることを、アイツにも教えてやりたいんだ」
 アイツ?
 私が首を傾げたのを見て、高嶺先輩は戸に触れた。ギチギチと引っかかる音を立てながら開かれると、中は薄暗く、埃っぽい匂いがする。換気ができていないのだろう。
 先輩が入口近くのスイッチを押すと、パッと室内が明るくなった。そこには何十枚、何百枚もののカンバスが壁一面に置かれた棚にぎっちりと詰め込まれており、物置と呼ばれてもおかしくはないほど乱雑に置かれていた。
 その中心――ぽっかりと穴が空いた空間に一人、イーゼルに乗せられた描きかけのカンバスの前でじっと見つめている男子生徒がいた。カーテンの隙間から覗かせた夕日の色が頬を照らすと、造形の美しさに思わず息を呑んだ。
()(しい)、ちょっと休憩しろー」
 高嶺先輩が画材を避けながら、香椎と呼んだ彼がいる中心に寄っていく。声が届いたのか、彼はぎろり、と目を私に向けた。
「……誰を連れてきた?」
「可愛い可愛い後輩だよ。先生たちに絡まれてたから連れてきちゃった」
「きちゃった、じゃねぇよ……ちょっと、そこの人」
 睨みつけたままそう言って、私にこいこいと手を振ってくる。
 呼ばれるがまま近付くと、突然、両頬を包まれるように触れられ、ぐいっと引っ張って自分の顔に寄せてきた。
 鼻先があと五センチもない距離感に、慌てて後ろに下がろうとするも、頬から後頭部へ移動した右手が頭をホールドして動けない。
「ヒッ!?」
「逃げんな。何もしねぇからじっとしてろ」
 こ、これのどこが!?
 焦る私に対して、顔色変えない彼は頑なに目を逸らそうとしない。
「香椎、それはさすがにやりすぎだろ……」
「そ、そそうです! 近いにもほどがありますって!」
「うっせぇ。これくらいしないとわからないだって」
 私の頭を掴んだ手を緩めることなく、ただじっと見つめられる。そして少し距離を離したかと思えば、品定めするようにじっと黙り込む。体感的には五分くらい経っている気がした。
 しばらくして「なるほど」と、何がわかったのかは知らないが、固定されていた両手から解放された。生きた心地がしない。急激に上がった心拍数を落ち着かせようと深呼吸すると、途端にむせかえった。この教室がろくに掃除されていない物置だったことをすっかり忘れていた。
「高嶺、換気しといて。自販機行ってくる」
「自分で開けてからいけよ、ったく……大丈夫?」
 颯爽と出ていく姿を横目に、高嶺先輩が近くにあった椅子を持ってきて座らせてくれた。呼吸を整えている間に教室の窓を開けて換気をする。
「すみません……あの、さっきの人は……?」
「俺と同じクラスの香椎(ゆう)()。ごめんな、急に驚いただろ」
「は、はい……あんなに距離が近いのは生まれて初めてだったので」
「アイツ、顔を覚えるのが苦手でさ。許してやってよ」
 高嶺先輩に背中を擦られてようやく落ち着くと、室内を見渡した。
 机や棚を埋め尽くすカンバス、カンバス、カンバスばかり。乱雑に置かれたイーゼルが立てかけられているが、ほとんど脚が折れている。
 香椎と呼ばれたあの先輩がいつからいたのかは知らないけど、この埃まみれの部屋の中心で何を描いていたのだろう。中心に置かれたカンバスには鉛筆で描いた下描きがうっすら見えるだけで、描き始めたばかりのようだった。
 しばらくして戻ってきた香椎先輩の手には、ペットボトルの水を二本と、紙パックで売られているウーロン茶とミルクティー、いちごミルクがあった。空気を入れ替えているせいか、教室に入って早々にぶるっと肩を震わせる。
「……寒い」
「窓開けたばっかりだぞ。半分も空気の入れ替えしてないって。それより買いすぎじゃね?」
「適当に買った。えっと……名前聞いてなかった」
「あ、浅野です。一年二組で、進学コースです」
「へぇ、浅野さんって言うんだ。知らなかった」
「お前、連れてくるなら知っとけよ……とりあえず水。咳き込んでたから飲んどいて」
 そういって、器用に指で挟むようにして持っていた二本のペットボトルの一つを私の前に差し出す。戸惑っていると「指が攣るから早くして」と催促されてしまった。受け取ると、満足そうに口元を緩める。不愛想な表情を前に怖がっていたけど、小さく微笑んだその表情のおかげで、恐怖はどこかに消えてしまった。
「あと紙パック。何が好き?」
「あの、水だけで充分なんですが……」
「水はさっきのお詫び。紙パックは高嶺のおごり。今飲めとか言わないから」
「で、でも……」
「どうせ詳しい説明をされずに連れてこられたんだろ? だったら高嶺のおごりで充分だ。俺たちは残り物でいいから先に選んでくれ。高嶺、後で四八〇円な」
「ちょっと待て! 浅野さんの紙パック代はいいとして、その金額だとお前の水代も入ってるよな?」
「じゃあ何か? こんな埃まみれのところに何も知らない後輩連れてきて、ハウスダストアレルギー持ちだったらどうすんだよ。アウトだろアウト」
「うっ……」
「そ、それじゃミルクティー、いただきます。ありがとうございます」
 ミルクティーを受け取ると、おごりについて聞いてくる高嶺先輩の頭にウーロン茶を乗せて黙らせた。
 香椎先輩はペットボトルの水をカンバスの近くに置いて戻ってくると、椅子を二つ持ってきて渋い顔をする高嶺先輩に渡す。この二人、案外仲が良いのかもしれない。
「それで高嶺、どうして連れてきた?」
「そうそう! 実は彼女、美術部に入りたくて入学したんだって!」
 入りたいとは言ってないんだけどな。――多少事実を曲げられたことに眉をひそめると「美術部」の言葉を聞いた香椎先輩が私を二度見した。先程と打って変わって目の色が変わる。可愛らしいパッケージのいちごミルクにストローを刺そうとする手を止め、高嶺先輩の方を見た。
「……高嶺、お前正気か?」
「まさか。文化祭の絵を見て決めたって聞いて、俺もびっくりしているんだよ」
「コイツまで巻き込むつもりじゃないよな?」
「現状を伝えて理解してもらうつもり。……なんせあの長谷川の勧誘を頑なに拒んでいたんだ。それ相応の話を教えてあげないと、彼女も納得してくれないだろ」
 話が見えない。
 一人でおろおろしていると、高嶺先輩が気付いて説明してくれた。
「浅野さんが探している美術部はね、一応あるんだよ。ただ芸術コースが表立って有名だから、完全に目の上のたんこぶなんだ」
「それは活動の内容が、学科コースと被っているからですか?」
「表向きはね。多分本当の理由は、部員が俺と香椎だけだからかな。いろいろ問題児なんだ、俺たち」
 高嶺先輩は気恥ずかしそうにヘラっと笑う。
 目の前に座る二人の先輩の話を聞きながら、貰った水を飲み込んで頭の中で整理する。
 そもそも、学校に許可なく部活動を堂々としていても指導対象にならないのだろうか。それに問題児だと言われてもあまりピンとこない。距離感がおかしいのはともかく、ごく普通の人にしか見えなかった。
 私が眉をひそめて黙り込んだのを見て、高嶺先輩が口を開いた。
「何十年も前の頃には、美術部はあったんだよ。部員もそこそこいて、この第八美術室を中心に皆が皆、それぞれの得意な芸術を楽しんでいた。コンクールにも出すようになって、美術部から有名な芸術家に育っていくと、味を占めた学校側は芸術コースを設立したんだ。それと同時に美術部は自然消滅。美術部に入りたいという生徒がいれば、芸術コースへの選択を促される。――浅野さん、君の考えている通り、芸術コースがあるという理由で美術部は無くなったんだ」
「そんな……強制的に芸術コースに行かせるなんて横暴すぎませんか?」
「もちろん、進学コースの先輩でも部活動として絵を描きたい奴がいた。芸術コースは人気だから応募はすぐ埋まる。入りたくても入れない奴は沢山いる。そういう奴らを集めて、半ば強引に立ち上げたんだ。今は俺と香椎、それと名前だけの幽霊部員が三人と、顧問の先生が一人。一応、生徒会からは白い目で見られたけど許可は下りている。公認じゃない、非公認としてね」
 この高校の校則によれば、部として認められる条件として、五名以上の生徒と顧問の教員一名。そして学校への貢献度。人数はともかく、貢献度はすぐに上げられるものではない。
「美術部は非公認とはいえ、規則上は存在する。でも文化祭の展示やコンテストへの参加は認められていない。学校側も良く思っていないから美術部の話をすると機嫌が悪くなるし、公の場に美術部の存在を隠している。去年の文化祭で一枚出せたのが奇跡みたいなモンさ」
「……つまり、無くなった美術部を再設立したのは高嶺先輩たちなんですよね? どうして違反みたいなことをしているんですか?」
「あー……それはだな……」
 私が尋ねると、高嶺先輩は気まずそうに目を逸らす。
「職員室で美術部の名前を出した時、先生の視線はとても冷たいものでした。他にも何かあるんじゃないんですか? それに去年の文化祭で受付していた人も鼻で嗤っていました。もし飲食店だったらクレームが入れられるくらい、酷い言われようです」
「受付……ああ、芸術コースの卒業生か。あの絵の事情を知ってるから――っでぇ! おい、急に殴るなって!」
 懐かしそうに話す高嶺先輩の脇腹に、目にも止まらぬ素早い手刀が入った。痛がる高嶺先輩を余所に、香椎先輩は私に訊いた。
「浅野は去年の文化祭に来たのか?」
「はっ、はい。私、あの絵が気になって、この学校に入りました」
 私は『明日へ』を思い浮かべながら、あの時感じた感覚と、描かれた機体や少女が抱えた花――まるで下描きが本当の意味を示しているのではないかと推察したことも話した。
 拙い言葉を並べた、見苦しい説明だったと思う。自分がこんなに説明が下手だったのかと内心落胆してしまうほどだ。
 笑われてもいい、バカにされてもいい。
 それでも確かに、あの時私が感じたものが少しでも伝わってくれたらいい。
 私が一方的に話している間、先輩たちは黙って聞いてくれていた。時折頷いたり、小さく口元を緩める姿も見受けられて、妄想のような私の話に耳を傾けてくれた。
 話し終えたと同時に、高嶺先輩は両手で顔を覆って下を向いた。隣に座った香椎先輩は黙ったまま遠くを見ているようで、美術室に沈黙が流れる。
 先輩たちの気に障ってしまったのではないか――不安に駆られるほど、二人は口を開かない。遠くからランニング中の運動部の掛け声がやけにはっきりと聴こえてくる。
「――浅野はさ」
 先に沈黙を破ったのは香椎先輩だった。
「お前が見た『明日へ』は、どんな世界だと思った?」
「世界……ですか?」
「そう。あの絵からいろんなモンを感じ取ったんだろ。一つくらい上げてみろ。また言葉に詰まってもいいからさ」
 明るい希望のある世界。平和を願う世界。残酷な争いの世界。――今でも耳をすませば、遠くから警報が聴こえてくる。焼け焦げた黒い煙が漂ってくる。その中でかき消された誰かの泣き叫ぶ声さえも、絵の一部として存在していた。
 そんな言葉が頭の中で飛び交う中、私は慎重に口を開いた。
「耳を傾けてほしい世界、でしょうか」
「耳?」
「聞いてほしいって意味です。周囲の無機物の音と建前で成り立っている世の中に、もっと耳を傾けてほしい。飛行機と少女に持たせた花の意味は、平和についてもっと考えてほしいという、作者の願いだと思いました」
 自分なりの解釈を話すと、香椎先輩は唸った。
 反応に困っているのだろうか、口が開くと同時にずっと視線を落としていた高嶺先輩が、隣にいる香椎先輩の背中を思い切り叩きつけた。バシンッと音が美術室内に響くと同時に、香椎先輩は顔をしかめる。
 何が始まったのかと驚いていると、高嶺先輩は涙目ながらも満面の笑みを浮かべていた。
「――っヤバくねぇ!? お前の描いた絵がこれだけ深堀りされたんだぞ!」
「わぁってんだよ、叩くな」
「だってさ!」
「落ち着けアホ」
 喜びを噛みしめている高嶺先輩の脇腹にまた手刀が入る。腹を抱えて丸くなりながらも、笑い声が漏れていく。状況が全く理解できない私は、ただ呆然の二人の喜ぶ姿に困惑した。少し引いてしまっていたのかもしれない。
 香椎先輩が気付いて「でもさ」と続けた。
「お前、作品名の下の説明書きを読んだか?」
「説明書き?」
 作品名は見たけど、説明書きなんて書いてあっただろうか。それより先に絵に目を向けてしまったから、視界に入っていなかったのかもしれない。
「その様子だと読んでねぇな。それであの熱弁かよ」
「どういうことですか?」
「これだよ」
 高嶺先輩は脇腹を抑えながら、スマートフォンの画面をこちらに向けた。
 画面には文化祭で見た絵が写っており、その横のプレートに『明日へ』とタイトルが大きく書かれている。タイトルが書かれた札は見たのを覚えている。
 ただ、その下に小さな字で書かれていた部分は見逃していた。

『故・(はな)()(ふみ)()名誉理事長の遺言に基づき、絵の具に遺灰を混ぜて製作しております。
 心からのご冥福をお祈り申し上げます。美術部一同』

 花井文江――この高校の創立に関わった一人で、芸術コースの設立に携わった人物。長きにわたり教鞭をとったのち、名誉理事長に任命された。確か昨年亡くなったと、学校のホームページに載っていたのを思い出す。
 問題はその後――理事長の名前の後に書かれていた、たった二文字の言葉だ。
 遺灰(・・)――たった二文字に、ぞっと寒気が走った。
「気味が悪くなっただろ」
 私の口が開く前に、香椎先輩は続けた。
「お前が熱弁し、涙まで流してくれたあの絵は、亡くなった理事長の遺灰を絵の具に混ぜて描いている。平和の意味を持つ花、機体に纏う風、あと空だな。亡くなる前にどんなものを残したいか聞いて、俺が描いた。……美術部が嫌われているのは、そういうところなんだよ」