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 長谷川先生との話を終えると、私は急いで学校を出た。未だに履き慣れないローファーは歩き方の問題か、すでに内側に擦った跡を気にしながら、学校から少し離れたところにある本屋に駆け込んだ。
 四月から始めたアルバイトは、本屋の中にあるチェーン店のカフェだ。レジでオーダーを貰い、前払いで会計を済ます作業は、私が入ったその日にレジ自体が新しいものに変更したこともあって、誰よりも早く覚えた。最近はレジさえもタッチパネルらしい。会計の度に操作画面をお客様に向けないといけないのが少々手間だが、以前よりも閉め作業が楽になったと店長が言っていた。
「浅野さん、お疲れ様。(よう)()さんがそろそろお子さんのお迎えだから交代してあげてくれるかい? この作業が終わったら僕もお店に出るから」
「は、はい!」
 急がなくていいからね、とバックヤードでシフトを組んでいた店長が笑う。なるべく急ぎながら身支度を整えて店内に出るも、平日ということもあってあまりお客様はいなかった。新しくなったレジに慣れようと操作していたアルバイトの先輩――()()陽子さんに声をかける。
「陽子さん、おはようございます。レジ代わります」
「おはよー浅野ちゃん。ありがとう。今日はシナモンロールが売り切れててね……」
 ショーケースに入っている軽食やケーキの在庫、今日のピーク時の状況など、事細かに引き継ぐ。陽子さんはパートをしつつ、二人の子どもを育てている主婦だ。旦那さんとも仲が良いようで、たまに父子で訪れることもある。
「浅野ちゃん、何かあった?」
「え……?」
「なんか疲れてる顔してるから。高校が始まってばかりだから大変でしょう?」
 陽子さんは視野が広い。それはお客様がドリンクを零してもすぐ駆け付けるほどの対応力でもあるが、スタッフの顔色も見るだけでその日の調子がわかるらしい。特に連日遅くまでバックヤードで仕事をしている店長には厳しい目で見ているという。
「ありがとうございます。……ちょっと、部活の勧誘がすごくて」
「あら、でも部活は自由でしょう? やりたくなかったら蹴っ飛ばせばいいのよ」
 あっけらかんと答える陽子さんに、思わず苦笑いを浮かべた。大雑把ながらも言われると納得してしまうアドバイスに救われている人は大勢いるが、さすがにそんなことをしたら学校のブラックリストに入ってしまう。
「冗談よ。でも本当に自分がしたいことをすべきなんだから、他人の勧誘なんて無視していいんじゃない? それとも他に入りたい部活があるの?」
「そうだよ、部活がしたかったらシフトも調整するよ?」
 バックヤードで仕事をしていた店長がのっそりと出てくる。どうやら作業がひと段落ついたらしい。
「店長もそう言ってるし、私のことも気にしなくていいのよ」
「いえ、その……」
「……なんか、訳ありみたいだね」
 図星を突かれて黙り込む。なるべく二人の重荷にはなりたくないが、これ以上黙っていても無駄だと悟った。
「気になっていた部活が存在しないって言われてしまったんです。芸術コースと変わらないから、部活として活動する理由がないと」
「教師がそんなこというの? なんか意外ね」
「いや、浅野さんの学校は芸術家の卵が集まっているようなモンだからね。似通ったものに手を回すほど、学校側の教員が足りないんだろう」
 教員の人手不足問題か。それなら面倒事を押し付け合いになりかねない。だったらなぜ、長谷川先生はそう言ってくれなかったんだろう。頑なに否定する理由さえも話さなかった先生への疑惑は、さらに深くなった。
「すみませーん。注文お願いしますー」
「あっはい!」
 後ろからかけられた声にふりかえる。あろうことかカウンターに背を向けてしまっていて、レジに注文待ちのお客様に気づいていなかった。
 慌てて私がレジに入ると、一人の男子学生がメニューに書かれた二つのドリンクを「どちらにしようかなー」と人差し指を交互にさしながら選んでいたところだった。
「大変失礼いたしました。店内でのご利用でしょうか?」
「いえ、持ち帰ります。ホットコーヒーとー……えっと、ちょっと待ってくださいね」
 そう言って彼はメニュー表を睨みつけるようにして悩み始める。その間に注文を受けるためのレジ操作を行う。操作が終わっても彼はまだ唸っていた。
 詮索するつもりはないが、メニュー表と睨めっこしている彼をよく見ると、私が通っている学校の制服を着ていることに気付いた。昨年から制服が一部変更となり、白シャツからブルーのカラーシャツになったこともあって、目の前の彼が唯一制服が代わっていない三年生の先輩だと知る。すらっとした長身で色白な肌。屈託のない笑顔が印象的だった。
「あーどうしようかな。あの、キャラメルラテにしようと思っているんですけど、他に店員さんのオススメはありますか?」
 そういってキャラメルラテを指す。ホイップとキャラメルソースがこれでもかと載せられているそれは、後味にキャラメルのほろ苦さがやってくる人気商品だ。
「甘いのがお好きなんですか?」
「いや、今日の気分で。普段はそんなに飲まないからわからなくて」
「そうですか……あ。塩キャラメルはどうですか?」
 スタッフの賄いドリンクで今流行っているのが、キャラメルラテに岩塩を振りかけるという、塩辛くも甘いカフェラテだ。提案したのは陽子さんで、あわよくばトッピングの項目に組み込みたいと息巻いていた。
「塩? そんなのがあるんですか?」
「裏メニューで、今スタッフの中で人気なんです」
「そういうことか。じゃあそれで。塩キャラメル、好きなんですよ」
 会計を済ませ、店長が手際よくホットコーヒーと塩キャラメルラテを手提げ袋に入れて渡すと、彼は「ありがとうございます」と爽やかな笑顔と共に帰っていった。その隙に陽子さんは子どものお迎えのために上がったらしい。それから少しだけ店内が混み始めて、私はレジを、店長はドリンクを片っ端から捌いていった。
 ひと段落ついたところで洗ったものを片付けていると、店長がいう。
「そういや、ドリンク二つ買っていった学生さん、浅野さんと同じ学校だったね。何度か見かけたことがあるなぁ。知ってる人だった?」
「いえ、そもそも私は上級生と関わりがないので……」
 これで部活動に入っていれば関わったかもしれないが、あれだけ否定されてしまっては他の部活に入る気力はない。
「だったらこれを機に知り合うかもね」
「そう、でしょうか……?」
「そういうもんだよ。人と関わるのは、縁を増やしていくことなんだからさ」
 首を傾げる私を見て、店長はハハッと笑った。