顔をこちらに向けることなく呟いて、先輩はカンバスに絵筆を走らせた。
 下描きに沿って、いつになく丁寧に線を引く。心なしか動作がゆっくりなのは、緊張している手の震えを押さえているからかもしれない。
 真っ黒だったカンバスが、少しずつ色づいていく工程を一瞬たりとも見逃したくなくて、記憶に焼きつけるように熟視する。調整されたイーゼルや絵筆の灰は、アクリル絵の具にしっかり馴染んでいるようで、カンバスの布に染まっていく。それを隣で見ていた宮地さんが満足気に頷いた。
 形あるものが灰になる。――意志があろうがなかろうが、人も物も変わらない。イーゼルも絵筆も、下描きに使われた木炭もすべて、美術部の思い出が詰まった大切なものばかり。何一つ無くならないことはないし、時間が経てば消えてしまう。それは私も、先輩たちも同じだ。
 最後だなんてもう誰も言わない。沢山の思い出を込めた一枚の絵を完成させる、すべての想いを背負った先輩の描く姿は、おくりびとが故人に化粧を施す姿勢を訪仏させるほど美しさがあった。
 絵が完成したのは、休み明けから半月経った頃だった。
 香椎先輩は描き終えた後、絵筆を置くと同時にゆっくり屈んで後ろに倒れた。
 突然のことで驚いたが、大きく伸びをしながら頬や腕に絵の具をつけた顔で「楽しかった」と満足そうに笑ったのを見て、私もつられてその場に座り込んだ。
 見上げた先にあるカンバスの美術室に、前振りもなく呑み込まれる。いろんな生徒が出入りして、作品を一緒に作り上げていく姿が見える。黒一色で染まらない、光で溢れる世界が広がっていた。

 私はこの光景を、何年、何十年経っても忘れることはないだろう。
 完成したものを目の前にして味わう達成感が、こんなにも心地良いことを。
 たった一枚の絵に呑まれ、世界が彩られていくその瞬間に立ち合い、目撃したことを。
 全身で感じ取った愛おしさも、寂しさも全部。
 私はきっと、忘れない。