「佐知は中学の時のコンクールで入賞した時、あまり実感が湧かなかったって言ってただろ?」
 カンバスに目を向けたまま、先輩は私に問う。あの頃は自分が入賞するとは思っていなかったからこそ、賞状を受け取ったときも何も感じなかった。たった一枚の紙に達成感も何もない。
「感動体験って必要なんだよ。それが佐知には足りなかったんじゃないかな。だからメッセージ性を強く描いた『明日へ』に引き込まれた。……妄想と錯覚してしまうくらいにね。現に、理事長に弟がいることを、あの時点で佐知はまだ知らなかっただろ」
「……先輩は、私が絵に呑まれたことが妄想と思っていないんですか?」
「思わないよ。俺もあるんだ。美術館に展示されていた猫の絵にね」
 猫――そう聞いて思い出したのは、私が初めて美術部と出会った頃、『明日へ』の引き渡し直前で話してくれた、香椎先輩の知り合いの話だ。
「初めて両親に頼み込んで、美術館に連れて行ってもらったんだ。日本の芸術家の作品が並ぶなか、黒い猫が描かれた絵の前で足を止めた。描き方が特徴的で、当時は評価されなかった手法が今、こうやって大きな美術館で代表作として展示されている。繊細で細やかな絵に圧倒されて、心臓を貫かれたような衝撃を受けた。そしたら、途端に周囲の音さえ聞こえなくなって、おかしいなと思って顔を上げたら誰もいなかった。人がいる気配がない、静まり返った空間に閉じ込められた感覚だった。そしたら、猫の鳴き声が聞こえたんだ。それでまた絵に目を戻したら、笑っていたんだよ、絵の中の猫が。思わず声が出て、現実に戻ってきた。その時両親は隣にいて、微動だにしない俺にずっと呼びかけていてくれたらしい。全然気付かなかったけど」
 懐かしそうに話す高嶺先輩は、カンバスを取り上げてイーゼルに戻す。先程見た時よりも、黒い部分が増えているような気がした。
「俺が次に絵に呑まれたのは、香椎が描いた花だった。見舞いで貰ったライラックだったけど、鉛筆で筋まで細かく描き込んでいて、スケッチブックの中で生きているのかと錯覚するほど、描いたものに命を吹き込まれていた。花の香りがしたのだって、今でも覚えてる。だから俺はこの先、失明しても香椎に絵を描き続けてほしかった。……こんなことしか思えない俺は、惨めだなぁ」
 カンバスに描かれた絵が、高嶺先輩の心情を現している。
 真っ黒に染まっていくのは、香椎先輩への嫉妬と絶望。自分は死ぬかもしれないのに、香椎先輩は視力を失うだけ。何よりも、絵が好きなのは自分なのに、圧倒的な天才が現れて謙るしかなかったことへの屈辱。真っ黒な感情が絵の世界で露わとなり、それを卑屈に思う自分への後悔も滲んでみえた。
「……好きなものを独り占めしたい気持ちは、わからなくもないです」
 私は先輩を見据えて「でも」と続ける。
「二人で描き始めたのは、純粋に楽しいことを共有したかったからなんじゃないんですか? 責任もプレッシャーも要らない、ただ絵を描いているだけでよかったはずです」
 ――ゲームも本もお菓子も要らない。俺と高嶺には、紙と鉛筆さえあればよかった。
 以前、香椎先輩が懐かしそうに話してくれたのを思い出す。
 楽しいから始まったそれは、気付かないうちに好きなものに変わっていく。好きだから続けていく。弊害も妨害もなく続けてきたそれを、自分以外の誰かの方が勝っていただけで嫌になる。好きなものが、だんだん嫌いになっていく。自覚した瞬間、人は首を傾げるのだ。「なんで好きだったんだっけ?」と。
「嫉妬は醜いものかもしれません。憧れを陥れたいと思うこともあるかもしれません。それでも一緒にいるのは、相手の良い一面を知っているからでしょう? 現に香椎先輩は、高嶺先輩の風景画が好きで、自分も同じようにいつか描きたいと言っていました。今、イラストだけに集中しているは、自分がまだ先輩の域に達していないからだと」
 私がそう言うと、先輩は驚いた顔をした。
「香椎が……? そんなこと一言も」
「言うわけないでしょう。高嶺先輩だって羨ましいと思っていても言ってないじゃないですか」
 二人とも頑固なんだから知るはずがない。
 どうしたらこの真っ黒な世界から先輩を連れ出せるか、私なりに考えてみたけれど何も浮かばない。だから、私なんかじゃダメだということ。先輩を動かすには、切磋琢磨してきた同士が必要不可欠なのだ。
 心が揺らいだのか、少しだけ真っ黒に染まりつつあるカンバスが薄れた気がした。
「私、先輩たちが並んで模索する姿を見ているのが好きです。この絵は必ず完成させます。スランプだろうがなんだろうが、香椎先輩は私が全力でフォローします。だから……生きて、その目で確かめてください。先輩たちが続けてきたことが間違っていなかったことを、好きなことを続けてきてよかったと思えることを、美術部の最初の作品を!」
 私たちは、大前提を間違えていた。
 美術部の作品は最初で最後なんかじゃない。これからも描いていけるのだと、決意表明をしていかないといけない。
 今まで描いてきたものに胸を張るべきだ。上手いも下手も関係ない、同じ人間なんていないし、表現は自由だ。それを見て共感する誰かが一人でもいればいいし、逆に一人もいなければそれでもいい。
 自分が好きで良いと思ったから描いただけのことを、最後なんかにしてはいけない。
「……まさか、入部して半年も経ってない奴に言われちゃうなんてな」
 高嶺先輩は大きな溜息をついてから、どこか嬉しそうに口元を緩める。確証はないけれど、もう大丈夫だとそんな気がした。カンバスに目を向ければ、真っ黒に染まりつつあった絵が、元の美術室に戻っていた。
「そうだな。美術部として俺はできることをした。この世界を彩るのは香椎の仕事!」
 高嶺先輩は満面の笑みを浮かべて言う。
「香椎の背中を叩いてやってくれ。頼んだぞ」
 だからそれが、勝手すぎるんだって。