この世界は君で彩られていく

『この手紙を見つけた人へ。
 もし自分が倒れたら、これを美術部に渡してください。
 香椎、佐知、宮地さん。
 美術室の下描きはほぼ完成だ。残りは佐知に任せたい。この間、追加で写真を撮るように頼んだ場所に一つずつ描き加えてほしい。俺の大切な世界を完成させてくれ。大丈夫、佐知ならできる。
 それと、香椎に目の治療を受けてほしい。俺は香椎の絵が見たくて今日まで生きてきた。これからも、死ぬまでずっと描き続けてほしいと思う。失明までのカウントダウンが始まってしばらくした時に「もう見えなくなってもいい」ってふざけたことを言っていたの、俺はちゃんと覚えてるからな。
 頼むから、主治医と一度話を聞いてくれ。絶対だぞ。
 宮地さん、二人を頼みます。俺の大切な部員を支えてやってください。
 そして最後に、もし俺が死んだその時は、俺の遺灰の一部を使って描いてほしい。
 それじゃ、次に会うその時まで。
 高嶺千暁』

 私は困惑する頭で何度も読み直した。鉛筆の筆圧も右上がりになる癖も、高嶺先輩が書いたものだと分かるのに、指示書きのようで遺言にも見て取れてしまう内容が信じられなかった。
「ごめんなさい。どうしても悠人くんだけには渡せなかったの……っ」
 お母さんは震える声で告げると両手で顔を覆ってすすり泣く。
 高嶺先輩の病気の進行について、具体的に聞かされていない。自分の体のことは自分が一番よくわかっているとは聞く。もしかして高嶺先輩は、保険として書き残していた?

 ――もし俺が死んだその時は、俺の遺灰の一部を使って描いてほしい。

「……酷いですね、先輩」
 誰もが望んでいる。明日も一緒にいられるって誰もが願い、信じている。――信じているのに。
「死なないって、私たちの前で言ってくれたじゃないですか」
 ずっと我慢していたのに、せき止めていたものがはずれて涙がこぼれていく。その一つが手紙に落ちると、書かれた字が滲んだ。慌てて拭いたけど、引っ張ったように字が崩れてしまう。
 それでもいい、このまま消えてしまえ。
 ここにいる私たち以外の誰かの目に触れる前に、破り捨ててしまいたい。でもそれができないのは、高嶺先輩が書いたものだから。最悪な場合、これが最後の言葉になるかもしれない。
 それを無かったことにするなど、私にはできなかった。

 病院を出て学校に向かう。夏休み中にも関わらず人の出入りが激しいのは、秋に行われる新人戦に
向けての運動部の追い込みと、文化祭の準備を進める実行委員が連日会議を重ねているからだろう。
 その中には芸術コースの生徒の姿もあった。特に三年生が多く、運動着で取り組む姿の真剣な眼差しには誰も近寄ることができない。作業している教室の前を通るたびに睨まれたほどだ。
 緊迫した空気の中を通り抜けて、第八美術室の戸を開く。誰もいない室内の中心に、ポツンと置かれたイーゼルの上には、高嶺先輩が描いた美術室の下描きが飾られている。
 香椎先輩はまだ来ていないらしい。いつものように荷物を置いて、窓を開いた。空気を入れ替えている間、私は鞄から受け取った高嶺先輩のスケッチブックを取り出す。
 描き加えたいと言っていた部分について、未だはっきりしていない。
 手紙をもう一度読み直して、カンバスの正面に立つ。高嶺先輩が倒れた際、下描きで使っている木炭が擦れて布に馴染んでしまっているが、置かれている机や棚の影になって様になっていた。美術室の奥から全体を見た構図は、香椎先輩が使っているイーゼルを中心に、物の位置をそのままに置かれている。真ん中にぽっかりと開いたスペースに走り書きで「後は頼んだ」とあるが、これ以上描き込むスペースなどない。
 むしろ下描きの範疇を越えている。
 香椎先輩がメッセージで送ってくれた画像と照らし合わせていく。指定された場所は端に予備のクロッキー帳や絵の具が保管されている棚、美術室の中心に設定されたイーゼル、その向こうに見える、カンバスの布を貼り付けるための木枠が山積みになっている。何度も見比べてもちっとも違いが分からない。ここに何を一つずつ描き込めというのか。幼い頃からウォーリーも探せなかった私に、間違い探しは無理難題だ。
 自分勝手すぎる。
 さっきまで悲しんでいたはずなのに、沸々と苛立ちが湧いてきた。高嶺先輩の頭の中を覗けるわけでもないのに、こんな中途半端な指示でどうしろと。
「……絵の中に入れたらいいのに」
 ふざけた考えが頭をよぎる。そんなことができるわけがないのにと、忘れようとするけと、ハッと顔を上げた。
 絵の中に入る――いや、絵に呑まれることは不可能じゃない。
 今まで私が呑まれてきた絵は、必ず絵の中の世界が広がっていた。それこそ、作者である香椎先輩が考え、願いを込めた世界そのものだとしたら。
 作者の考えが絵に込められている――ならば、絵に呑まれたら、先輩の真意を探れるかもしれない。
 私は持っていたスケッチブックと手紙を端に置いて、カンバスを両手で持って掲げる。すぐに入れたなら苦労はしないが、こればかりは運任せだ。
 ……それにしても。
「素敵な絵だなぁ」
 木炭だけでこんなにも感傷的に描けるものなのかと感服する。ただ少しだけ寂しげに見えるのは、これが最後の絵だと悟った、先輩の心が映し出されているのだろうか。
 ――俺の大切な世界を完成させてくれ。
 手紙で高嶺先輩はそう言っていた。カンバスに描かれたものは、先輩の大切な思い出が詰まった世界。モノクロなんかで終わらない、色を乗せるまでが完成なのだから。だから「ほぼ完成」だと曖昧な言葉を使ったのだろうか?
 ……わからないことばかりで頭がパンクしそう。
 カンバスを動かして、いろんな角度から描かれた美術室を見る。平面なのは変わらないけれど、見方によって変わるかもしれない。それこそ、トリックアートのように飛び出しているとか。

「――さすがにそれは難しいんじゃない? もっと俺に時間があったら描いてみたいけど」

 後ろからかけられた声に、私は一瞬思考が止まった。
 思わず振り向いて目を疑う。ここにいるはずのない人がどうしているのか。
「……高嶺先輩」
「お化けかと思った? まだ生きてるよ」
 いつもの変わらない屈託のない笑みを浮かべながら、洒落にならないことを言う。ああ、なんてデリカシーのない人。今も治療室の前で、ご両親が無事に回復するよう祈っているというのに。
 高嶺先輩は私の隣にくると、カンバスの中心に触れる。走り書きの文字を擦って消すと、どこか達成感に浸りながら続けた。
「久しぶりに風景画を描いたよ。まさか生きている間にカンバスに描けるなんて思ってもいなかったから、すごく楽しかった」
「……描いたこと、なかったんですか?」
「それはそうだろ。美術部の原点は、カンバスじゃなくてルーズリーフやノートの端っこの落書きから始まったんだから。カンバスに描き始めたのは『明日へ』が最初だ。そして、それを描いたのは全部香椎だ」
「待ってください、高嶺先輩だってフォローに入ったって」
「俺は横で意見を言っただけ。描いたことはないよ」
 高嶺先輩は懐かしそうに話を続ける。
「香椎はさ、昔から単体を描くのが得意だったんだ。イラストを描くように勧めたのは俺で、アイツが風景画が描きたいって言ってたのを知った上で押し付けた。自分の好きなものと自慢できるものが同時に盗られたような気がしてさ、俺にとっては嫌がらせみたいなもんだった。『お前はイラストに集中すべきだ』って言い聞かせた」
 高嶺先輩が顔を上げると、途端に周りの様子が変わった。端に寄せられたイーゼルや山積みの木枠、雑に片付けられた机と椅子、棚の位置すべてが第八美術室そのものなのに一つだけ違う。
 色がない。モノクロで描かれた、カンバスの絵のように。
「後悔したよ。香椎のやりたいことを俺が奪った。描くたびにどんどん上達していくアイツを見ていて妬んで、なんてバカなことしたんだろうって自分に呆れた。だから美術部で絵を一枚描くってなると全部香椎に押し付けてた。カンバスなら風景も単体も全部描ける。俺は絵を描かないで、アイツのサポートに回る方がいいって思った。……でもやっぱり、俺もやりたかったなって羨ましく思う」
 自業自得だよな。
 だんだんと暗くなる表情にあわせて、周りの様子も一段と黒く染まっていく。先輩の心情と世界が同調している。これは現実じゃない。
「困惑してるな」
「……しますよ、立ったまま眠っているのか錯覚するくらい」
 だとしたら都合のいい夢だな、と高嶺先輩が皮肉そうに笑う。私の知っている先輩は、こんな顔しないのに。
 これが「絵に呑まれた」というのなら、私はこの高校に来てから頻度が増えている。それこそ、理事長先生と出会ってから二度も『明日へ』に呑まれているし、最近だと宮地さんが依頼したベンチの下描き時点で、また理事長先生と再会した。
 二つの絵には理事長先生が関係していて、香椎先輩が描いている。さらに灰が使われていることが共通していたし、後から聞いた情報が積み重なって生み出した妄想だと思えば納得できた。
 でもこの美術室の絵は違う。描いたのは高嶺先輩で、灰を混ぜ込んだ絵の具ではなく、ベンチから作られた木炭だ。これでは妄想の一言で片付けられない。
 だとしたら、絵に呑まれるこの現象はなんだろう?
「佐知は中学の時のコンクールで入賞した時、あまり実感が湧かなかったって言ってただろ?」
 カンバスに目を向けたまま、先輩は私に問う。あの頃は自分が入賞するとは思っていなかったからこそ、賞状を受け取ったときも何も感じなかった。たった一枚の紙に達成感も何もない。
「感動体験って必要なんだよ。それが佐知には足りなかったんじゃないかな。だからメッセージ性を強く描いた『明日へ』に引き込まれた。……妄想と錯覚してしまうくらいにね。現に、理事長に弟がいることを、あの時点で佐知はまだ知らなかっただろ」
「……先輩は、私が絵に呑まれたことが妄想と思っていないんですか?」
「思わないよ。俺もあるんだ。美術館に展示されていた猫の絵にね」
 猫――そう聞いて思い出したのは、私が初めて美術部と出会った頃、『明日へ』の引き渡し直前で話してくれた、香椎先輩の知り合いの話だ。
「初めて両親に頼み込んで、美術館に連れて行ってもらったんだ。日本の芸術家の作品が並ぶなか、黒い猫が描かれた絵の前で足を止めた。描き方が特徴的で、当時は評価されなかった手法が今、こうやって大きな美術館で代表作として展示されている。繊細で細やかな絵に圧倒されて、心臓を貫かれたような衝撃を受けた。そしたら、途端に周囲の音さえ聞こえなくなって、おかしいなと思って顔を上げたら誰もいなかった。人がいる気配がない、静まり返った空間に閉じ込められた感覚だった。そしたら、猫の鳴き声が聞こえたんだ。それでまた絵に目を戻したら、笑っていたんだよ、絵の中の猫が。思わず声が出て、現実に戻ってきた。その時両親は隣にいて、微動だにしない俺にずっと呼びかけていてくれたらしい。全然気付かなかったけど」
 懐かしそうに話す高嶺先輩は、カンバスを取り上げてイーゼルに戻す。先程見た時よりも、黒い部分が増えているような気がした。
「俺が次に絵に呑まれたのは、香椎が描いた花だった。見舞いで貰ったライラックだったけど、鉛筆で筋まで細かく描き込んでいて、スケッチブックの中で生きているのかと錯覚するほど、描いたものに命を吹き込まれていた。花の香りがしたのだって、今でも覚えてる。だから俺はこの先、失明しても香椎に絵を描き続けてほしかった。……こんなことしか思えない俺は、惨めだなぁ」
 カンバスに描かれた絵が、高嶺先輩の心情を現している。
 真っ黒に染まっていくのは、香椎先輩への嫉妬と絶望。自分は死ぬかもしれないのに、香椎先輩は視力を失うだけ。何よりも、絵が好きなのは自分なのに、圧倒的な天才が現れて謙るしかなかったことへの屈辱。真っ黒な感情が絵の世界で露わとなり、それを卑屈に思う自分への後悔も滲んでみえた。
「……好きなものを独り占めしたい気持ちは、わからなくもないです」
 私は先輩を見据えて「でも」と続ける。
「二人で描き始めたのは、純粋に楽しいことを共有したかったからなんじゃないんですか? 責任もプレッシャーも要らない、ただ絵を描いているだけでよかったはずです」
 ――ゲームも本もお菓子も要らない。俺と高嶺には、紙と鉛筆さえあればよかった。
 以前、香椎先輩が懐かしそうに話してくれたのを思い出す。
 楽しいから始まったそれは、気付かないうちに好きなものに変わっていく。好きだから続けていく。弊害も妨害もなく続けてきたそれを、自分以外の誰かの方が勝っていただけで嫌になる。好きなものが、だんだん嫌いになっていく。自覚した瞬間、人は首を傾げるのだ。「なんで好きだったんだっけ?」と。
「嫉妬は醜いものかもしれません。憧れを陥れたいと思うこともあるかもしれません。それでも一緒にいるのは、相手の良い一面を知っているからでしょう? 現に香椎先輩は、高嶺先輩の風景画が好きで、自分も同じようにいつか描きたいと言っていました。今、イラストだけに集中しているは、自分がまだ先輩の域に達していないからだと」
 私がそう言うと、先輩は驚いた顔をした。
「香椎が……? そんなこと一言も」
「言うわけないでしょう。高嶺先輩だって羨ましいと思っていても言ってないじゃないですか」
 二人とも頑固なんだから知るはずがない。
 どうしたらこの真っ黒な世界から先輩を連れ出せるか、私なりに考えてみたけれど何も浮かばない。だから、私なんかじゃダメだということ。先輩を動かすには、切磋琢磨してきた同士が必要不可欠なのだ。
 心が揺らいだのか、少しだけ真っ黒に染まりつつあるカンバスが薄れた気がした。
「私、先輩たちが並んで模索する姿を見ているのが好きです。この絵は必ず完成させます。スランプだろうがなんだろうが、香椎先輩は私が全力でフォローします。だから……生きて、その目で確かめてください。先輩たちが続けてきたことが間違っていなかったことを、好きなことを続けてきてよかったと思えることを、美術部の最初の作品を!」
 私たちは、大前提を間違えていた。
 美術部の作品は最初で最後なんかじゃない。これからも描いていけるのだと、決意表明をしていかないといけない。
 今まで描いてきたものに胸を張るべきだ。上手いも下手も関係ない、同じ人間なんていないし、表現は自由だ。それを見て共感する誰かが一人でもいればいいし、逆に一人もいなければそれでもいい。
 自分が好きで良いと思ったから描いただけのことを、最後なんかにしてはいけない。
「……まさか、入部して半年も経ってない奴に言われちゃうなんてな」
 高嶺先輩は大きな溜息をついてから、どこか嬉しそうに口元を緩める。確証はないけれど、もう大丈夫だとそんな気がした。カンバスに目を向ければ、真っ黒に染まりつつあった絵が、元の美術室に戻っていた。
「そうだな。美術部として俺はできることをした。この世界を彩るのは香椎の仕事!」
 高嶺先輩は満面の笑みを浮かべて言う。
「香椎の背中を叩いてやってくれ。頼んだぞ」
 だからそれが、勝手すぎるんだって。

「――ち、佐知?」
 すぐ近くで名前を呼ばれてハッと我に返った。辺りを見れば、香椎先輩が心配そうに顔を覗かせていた。高嶺先輩の姿はどこにもなく、いつもと変わらない第八美術室に戻っている。
「香椎先輩?」
「ようやく気付いた……ったく、毎度絵に呑まれてんじゃねぇよ」
「絵……」
 カンバスを見ると、高嶺先輩が描いた美術室の絵が変わらず置かれている。一つ違うのは、中央にあった走り書きが消されていることだ。
 あれは本当に絵の中に呑まれていたのか、それとも私が無意識で触れたのか。曖昧な記憶だけど、高嶺先輩と話していたことだけは覚えている。
 途端に足の力が抜けて立ち崩れる。慌てて香椎先輩が腕を掴んで、すぐに近くの椅子に座らせてくれた。頭がボーッとする。先輩がペットボトルの水を渡してくれた。
「飲めるか? こんな暑い中、水分取らずにボーッとしてたら熱中症になりかねないだろ」
「ありがとう、ございます……」
 受け取って一口、二口と流し込んでいく。一気に半分まで減った水を見て納得する。窓を全開にしていただけで満足して、熱中症のことなどすっかり忘れていた。
 落ち着いたところで、香椎先輩も近くの椅子に座りながら何があったのかと訊いてくる。どこから話せばいいのか、と視線を逸らすと、先輩の手に持っていた手紙を見てハッとする。
「先輩、それ……」
「ん? ああ、高嶺のだろ。全部見た」
 そういえばスケッチブックと一緒に出しっぱなしにしていたっけ。先輩がまだ来ていないからと油断していた。
 ただでさえ今の香椎先輩は、視力をカバーするための聴覚や触覚が正常に機能していない。過度のストレスからくるものだとしたら、さらに追い詰める内容だ。
 しかし、全部見たというわりには、どこかあっさりと答える香椎先輩に疑問が浮かぶ。
「全部、読んだんですか……?」
「読んだんですかって、高嶺からの指示書きだろ。半分は滲んで読めねぇし」
「え?」
 滲んで読めない?
 手紙を見せてもらうと目を疑った。読めるのは宮地さんへ宛てた一文が書かれた行までで、それ以降は濡れた痕が引っ張られて文字が滲んで読めなくなっている。私が涙を落とした時はすぐ拭いたし、滲みもそこまでなかったはずだ。
 まさかと思い、まだ読める文の末尾に指を置いて小さく擦れば、うっすらと読めるくらいの薄さで残っている。ボールペンはおろか、鉛筆でもこんな消え方はしない。
「木炭……?」
「なるほどな。なんかの拍子で擦れて消えたのか。重要なことでも書かれていたのか?」
「えっ、えっと……いえ、なかったと思います」
 本当のことを告げるべきか迷って、私は黙っておくことにした。
 この文字が滲んで読めなくなったのが偶然だったとしても、これを実現しないように誰かが細工したのかもしれない。いや、それ以上に、高嶺先輩が消したと思っていた方が気が楽だった。香椎先輩はしろどもどろに答えた私を疑うように見ていたが、すぐに手紙を取り上げて見ながら言う。
「アイツが遺言まがいなことでも書いていたら、叩き起こしに行こうとしたのに」
「うえっ!? そ、それはダメですって!」
「一丁前に俺に説教してんだ。それくらいしたっていい」
「それは先輩のことを思って……」
「だからって、自分の灰を俺に託そうなんて考えるバカがどこにいる」
 先輩が的確すぎて、心臓がどきりと跳ねた。滲んで読めないと言っておきながら、香椎先輩が消した可能性だってある。普段からあまり表情が顔に出ない香椎先輩も、今日ばかりは苛立ちが滲み出ていた。
「それで、お前は何を見た?」
 何を、と問われるとこんなにも答えるのが難しいと思わなかった。少し考えてから、私は見たものをそのまま伝えることにした。
 気付いたら高嶺先輩が現れて思い出話に浸っていたこと。香椎先輩の画力を絶賛し、それに嫉妬している自分が嫌だったこと。カンバスが高嶺先輩の心情にあわせて真っ黒に染まっていくのを見たこと。
 すべて話し終えると、香椎先輩はカンバスに目を向けた。
「中心にあった走り書きが消されているのは、高嶺がやったのか?」
「少なくとも私が見た中では……もしかしたら、気付かないうちに私が触れていたかも」
「それはねぇよ。お前が消したら、お前の手にも煤がついてるはずだろ」
 両手を見比べるが、煤がついている様子はない。制服の袖口でも擦れる可能性はあるとはいえ、夏場の半袖のワイシャツでピンポイントにどう擦ることができると言うのか。
 ふと、香椎先輩の手が震えているのが見えた。それが感情によるものだったのか、それとも症状によるものだったかはわからなくて、私はおそるおそる問う。
「あの、香椎先輩……手の痺れは、どうなりましたか」
「まだなんとも」
 やっぱり聞かなければよかった、と後悔する。たった数日で回復するようなものじゃないことくらい、私にだってわかるのに。
「それにしても、さすが高嶺だな。これで完成と言われても驚かねぇ」
 カンバスを見つめる香椎先輩の目はいつになく優しい目をしていた。先輩にしてみれば、高嶺先輩の描く風景画は目標だ。経験を積むために今はイラストを描いているとはいえ、いつかは自分も描くと決めている。お互いを目標にしている二人は、ライバルといっても良いのかもしれない。幼なじみで同志で、ライバル。ありきたりで拙く並べた言葉がぴったりだと思ってしまう。
「佐知、あのさ」
 香椎先輩がカンバスを見つめながら言う。
「俺は、この絵に色を乗せたくない」
「……高嶺先輩が完成させるべき絵だからですか?」
「それもある。……ただ、これで本当にいいのか? 本当に最後になるかもしれないこの絵を、すべて高嶺が手がけるべきじゃないか。俺が中途半端に介入して、作品の世界を壊すんじゃないか。……俺が、高嶺のしたいことを奪ってきたようなものなのに」
 まるで懺悔だった。吐き出してすっきりしたいのに、どうやってもできないもどかしさ。好きなものを描き続けることが正しいと思っていたはずなのに、途端に自信がなくなった香椎先輩の姿は、今にも崩れそうだった。
 作品については意見を出し合う二人でも、もしかしたら自分が相手に思っていることを口に出して話したことがないのだと思った。長い付き合いだからこそ話せない――いや、話さなくてもわかったような気になっているかもしれない。
 私は咄嗟に香椎先輩の手を掴んだ。震えていたのが途端に止み、先輩は困惑した表情で私を見る。「このカンバスの世界は、色がありませんでした」
「……は?」
「絵に呑まれた時、高嶺先輩はこの世界を彩るのは香椎先輩の仕事だと言い切りました。高嶺先輩だけの絵ではなく、美術部で完成させる絵だからです。香椎先輩以外に色を乗せられる人はいません。先輩以外の人に、描かせちゃダメなんです」
 こんな言い方は卑怯だと思う。それでも構わない。だって私は、部長直々に背中を叩いてやってくれと頼まれているのだから。
「高嶺先輩も一緒に作るんです、最後なんかじゃない、最初の作品です!」
「……最初……そうか、最初か」
 そう呟いた香椎先輩は突然ハッと顔を上げ、私とカンバスを見比べ始めた。そして何を思ったのか、カンバスを持って高嶺先輩がいつも座っていた椅子に腰かけると、高さを調節しながら確認していく。
「せ、先輩? どうしたんですか?」
「佐知、そこの箱馬を持ってきてイーゼルの前に立ってくれ」
「え?」
「いいから、早く!」
「は、はい!」
 慌てて言われた通りにイーゼルの横に詰まれていた箱馬を一つ持ってくる。演劇部が使わなくなったのか、芸術コースの生徒か教師が作ったのかは定かではないが、埃の被った箱板をイーゼルの前に置いてその上に乗る。ミシッと音が聞こえた気がするけど気にしない。そのまま前を向くと、普段よりも高い視点での美術室の景色に新鮮さを感じた。
「……そういうことか」
 一人で納得した声が聞こえてきた。振り向いて「何がですか」と問えば、先輩はニヤリと笑みを浮かべる。
「わかったんだ。高嶺が描き加えたかったものが」
 いつもの先輩が、戻ってきた。
 ***

 香椎先輩が気付いたのは、高嶺先輩が指定した場所の写真と、カンバスに描かれた部分の角度が微妙にずれていたことだった。
 自分が見ている視点よりも、低い位置だったことに違和感を覚えたらしい。箱馬の高さは約十八センチ。私の身長一五五センチと合わせれば、香椎先輩の身長に近付く。その状態で高嶺先輩がいつも座っていた高さのある椅子に座り、片足を折り曲げる姿勢で見渡せば、カンバスに描かれた位置が一致するというのだ。私が撮ってきた写真と、スケッチブックに描かれたものでは高さが異なることに気付かなかった高嶺先輩も、下描きを進めて困惑したことだろう。
 そして正しい位置から見て、描き加えてほしいと言ったものがようやく浮き彫りになった。私はそれを聞いて、実に先輩らしいと納得してしまった。なんせ指定した場所に必要だったのは、備品でも花でもなかったのだから。
 描くものがわかれば、あとは描き込めばいいだけの簡単な話だ。
 香椎先輩は早速クロッキー帳を出して、自分も描きながら事細かに追加する絵のポイントを教えてくれた。震える手を抑えながらも線を引くのは、もはや気合で乗り切っているようなもので、無理をしているのが目に見えてわかった。短時間で香椎先輩からあたりのつけ方を描き方を学び、指定された場所に描き加えるそれの動きをどうつけるのか、どうやったら見たときに楽しいと思えるのか、考えつく限り出して話し合う。
 私がこう描きたいと言えば、香椎先輩は配置を気にしながらアドバイスをくれる。すんなりと却下されることもあるけど、それもすべてメインが美術室であるということを考慮したうえでのことだ。
 それらを踏まえて、カンバスにひたすら描き込んでいく。高嶺先輩が描いた線を消すことに最初は躊躇ったけど、緊張と焦りのせいで気にしていられない。
「最初から上手く描けたら苦労なんてしねぇ。そんなに気を張らなくていい」
「はい……」
 頭ではわかっているし、描き方も充分だとお墨付きをもらっている。隣には香椎先輩という心強いアドバイザーがいるのに、私の手は緊張で震えていた。
 アクリル絵の具を重ねていけば、下描きは消えてしまう。だから多少のずれが生じても問題はない。
 でもこの絵は、わざと下描きがわかるように色を乗せることになる。もちろん意図的に色を乗せるから、見えない場所は出てきてしまうが、高嶺先輩が描き加えようとしていたものは残さなければならなかった。以前描いたカスミソウの花束よりも難しい。
 ああだこうだと話しながら進めていき、気付いた頃にはもうすっかり日は落ちていて、見回りにきた先生に怒られてその日は帰宅した。
 途中、香椎先輩は病院の前で足を止めたけど、立ち寄ることはしなかった。震えた右手をぎゅっと握りしめるのが見えた。

 追加の下描きに二日間の時間をかけて、ついに今日から着色が始まる。塗ってしまえば、もう下描きを加えることも直すこともできない。ここで見落とせば後戻りはできないと思うと、美術室に向かう足が重くなった。こんな調子で本当にできるのか。
「お、佐知じゃないか」
 美術室に向かう途中、廊下で大荷物を抱えた宮地さんと会った。珍しく正面玄関から入ってきたようで、首に「来校者」と書かれたカードを下げている。
「宮地さん、こんにちは。どうしたんですか?」
「灰の調整が終わったから持ってきた。それとうちの嫁から差し入れのおにぎり。佐知が絶賛してたキムチとたくわんのおにぎり、入れてあるってよ」
「あ、ありがとうございます!」
 初めて宮地さんの家でお昼を御馳走になったときに感激したおにぎりを、奥さんが覚えていてくれたことに胸がいっぱいになる。たまに家でも作ることがあるけど、やっぱり奥さんの味には敵わない。
 おにぎりの入った重箱の袋を受け取って、一緒に美術室に向かう。宮地さんがこっそりと訊いてきたのは、やはり高嶺先輩のことだった。
「千暁の容態について聞いた。あれから連絡はあったか?」
「……いいえ。まだ何も」
 高嶺先輩のお母さんに容態の変化があったら連絡をもらうようにお願いしている。今のところ音沙汰もないから、未だ集中治療室で眠っているのだろう。
「下描きだからって全力を注ぎすぎたんだ。後ろには佐知も悠人も、俺もいるってのによ」
「宮地さん……」
「それよりずっと気になってたんだが……悠人の奴、スランプ気味か?」
 鋭い宮地さんの視線に、私はどきりと心臓を突かれた気がした。顔に出ていたのか、宮地さんは「やっぱりな」と零しながら溜息をつく。
「病室で下描きの立ち合い、工房で灰の準備……分担にした時から思ってたんだ。ここしばらく、悠人は筆どころか、鉛筆さえも握っていない。休憩中も何かデッサンをしているかと思ったら、すぐにクロッキー帳を破って捨てていた。いつも顔に出さないから驚いたよ、アイツが絵を描くことを躊躇っているのを、初めて見たから」
 躊躇っている――それを聞いて少しだけ納得した。高嶺先輩が倒れたあの日、美術室の床に破かれたクロッキー帳が散らばっていたのは、やはり先輩なりに焦りを感じていたのだろう。
「最後まで千暁にやらせたい気持ちと、完成させないといけないプレッシャー。これがスランプを引き起こしているとしたら、悠人自身が乗り越えないとダメだ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
 宮地さんの言うことはもっともだ。スランプを克服するには、いくら周りのフォローがあっても、結局は自分が動かなければ意味がない。
 話しているうちに美術室に到着し、いつものように戸を開けた途端、私は目を疑った。
 何枚もののクロッキー紙が床に散乱している。まるで荒らされた跡のようだ。
「な、なんだこれ!? 一体誰が……」
「……宮地さん、私たちの心配は杞憂だったかもしれません」
 私の言葉に、宮地さんは首を傾げる。
 カンバスの前には、いつものように香椎先輩の姿があった。
 近くに落ちていた紙を拾いあげると、人物や花といったものが一枚の紙にぎっしりと詰め込まれている。他にも異なる絵がすべての紙に描かれており、真っ黒に塗り潰されているものもある。これには宮地さんも戸惑いながら、落ちている絵と香椎先輩を皇后に見遣る。
 そんなことなど気にも留める様子もなく、香椎先輩はいつにも増して清々しい表情を浮かべている。そこでふと、高嶺先輩が言っていたことが頭をよぎった。
 絵を描くことで気持ちを落ち着かせて、集中することで頭の中をクリアにする、と、
「描き続けることが、先輩のスランプから抜け出す方法だったんですね」
 私の声に気付いたのか、香椎先輩はこちらを向いた。目を細めて私たちだと気付くと、肩の力が抜けたのか、小さく笑みを浮かべた。
「あれ? 佐知に宮地さん、どうした?」
「え、えっと……」
「お前……いつからそんな顔で笑ってたか?」
「いつから俺はロボット扱いされてんの? つか宮地さんその荷物なに?」
「灰ができたから持ってきたんだ。それと差し入れ」
「重いのにわざわざ持ってきたの? 連絡くれたら工房まで行ったのに……ありがとう」
 慌てて新聞紙を取り出して机に広げる。宮地さんは袋から慎重にタッパーに入ったイーゼルと絵筆の灰を取り出した。袋に詰め込めるだけの数を持って行ったはずなのに、戻ってきた量がこれっぽっちだったことが少し寂しく思う。香椎先輩はタッパーの蓋を開いていつものように確認していく。
「頼んだサイズぴったりじゃん。さすが灰の職人」
「まぁな。……灰の職人、か」
 小さく呟いた宮地さんが視線を落とす。灰の職人と名付けたのは高嶺先輩だ。不意に頭に過ぎったのかもしれない。それを余所に、香椎先輩は着色の準備を進めていく。
「佐知、俺が着色の準備を進めている間に、下描きをもう一度見直して、余分な木炭を払い落しておいてくれ。もし描き加えたかったら入れていい」
「先輩は確認しないんですか?」
「大丈夫だろ。ずっと佐知の絵を見てきたんだ。その分着色に集中したい。……今、いいところだからさ」
 小さく微笑んだ先輩を見て、この状況を楽しんでいるのだと悟った。ベンチの絵を描いている時と同じ、高揚感が隠しきれていない。スランプを脱したことで、先輩の中で吹っ切れたのだろう。
「……わかりました」
 私が言うと、先輩は慣れた手つきで準備を進めていく。突然のことで驚いたが、私も準備に取り掛からねばならない。
 下描きをもう一度見直して、木炭の粉が絵の具と混ざって真っ黒にならないように、ガーゼで消さないように軽く払い落とす。カンバスをイーゼルに戻す頃には、香椎先輩の準備も終わっていた。三枚のパレットに灰を混ぜたものとそうでないものを分けている。
「始めるか。宮地さん、見てく?」
「そうだな、ちょっとばかり見ていこうか。途中で工房に戻らねぇといけないから最初だけな」
「わかった。出ていく時は声かけなくていいから。佐知は?」
「もちろん、完成まで見届けます」
「だな。今度は見れるもんな」
 おそらく前回のシフトを詰め込みすぎ手見逃したのを覚えていたのだろう。同じ轍は二度踏んでなるものか。
 香椎先輩は使いなれた絵筆とパレットを手に持つ。途端に周囲の音が聞こえなくなった。
 すぐに線を引いていくのかと思いきや、先輩は「佐知」と私を呼んだ。何か下描きに問題でもあっただろうか。

「描き続ける理由を取り戻してくれて、ありがとう」