香椎先輩がそう呟くと、自分の荷物をまとめ始めた。嫌な胸騒ぎがするのは私だけじゃなかった。
 学校を出て病院に向かう。歩いて十分もかからないのは分かっているのに、気持ちが焦って足早になる。信号が赤から青に変わるのを待つ時間さえ惜しい。
 すると、香椎先輩のスマホに着信が入った。画面に表示された名前に眉をひそめると、タップして電話に出る。音量の問題か、電話越しに漏れて聞こえてきたのは、女性の震えた声だった。
『悠人くん、千暁が……千暁が、倒れたの! お願い、早く来て!』
 信号機が青に切り替わった途端、香椎先輩と私は一目散に走り出した。通行人を避けて、途中で足がもつれても立ち止まっていられなかった。
 嫌でも高嶺先輩が頭に浮かぶ。いつかはそんな時が来るかもしれない。でもそれはきっと今じゃないって、先輩だって言っていたのに!
 病院に入ってすぐにエレベーターを待っている時間も勿体無くて、階段で三階まで駆け上がる。端にある高嶺先輩の病室を看護師さんが慌しく出入りしていた。近くにあるベンチには、顔を真っ青にした夫婦の姿があった。高嶺先輩のご両親だ。二人が私たちに気付くと、お母さんが香椎先輩に駆け寄った。
「悠人くん……っ」
「おばさん、千暁は?」
「通ります! どいてください!」
 話を聞こうとすると、病室から医師と看護師、そしてストレッチャーに乗せられた高嶺先輩が出てくる。苦しそうに顔を歪ませ、煤で真っ黒になった手で病院着を握っている。
 最後に出てきた看護師が、ご両親に話しかける。
「高嶺千暁くんご家族ですね」
「息子は、息子はどうなるんですか!」
「大きな物音が聞こえて駆けつけたら、床に倒れ込んでいました。胸を押さえていたので、発作を起こしたようですが、その際に頭を打っているようで……処置後、集中治療室へ移っていただきます」
「集中治療室って……そんな」
「……詳しいお話は、担当医からご説明いたします」
 深々と頭を下げた看護師の言葉に、ご両親はその場に泣き崩れた。それを余所に、香椎先輩は誰もいない病室に入っていく。
 後を追うと目を疑った。
 先輩が愛用しているスケッチブックや見本の写真をプリントアウトしたもの、先の割れた木炭が床に散乱している。まるで泥棒に入られたかの惨状だ。シーツや手すりには黒い煤が付いており、ナースコールを探すのに無我夢中で手を伸ばしたのがわかる。
「……ふざけんなよ」
 横たわったイーゼルの近くで香椎先輩が屈んでカンバスを拾いあげた。聞き取るのがやっとの小さくて震えた香椎先輩の声で、カンバスに目を向ける。見慣れた美術室の光景は息を呑むほどの迫力で、デッサンならばこれで成立してしまうほどの完成度だ。
 その中心に書かれた走り書きに、私は言葉を失くした。

 “後は頼んだ”

 勝手すぎるよ、先輩。