遮るようにして言った私に、視線を逸らしていた早紀が驚いてこちらを見た。自分勝手なところはよく知っているから今更だけど、だったら私も勝手にしてやる。
「早紀って本当に人の話を聞かないよね。ううん、私の話をまともに取り合ったことなかったもんね」
「え、えっと……?」
「さっきから自分のことばっかりじゃん。私の話を聞こうともしないで、勝手に解決したことにしないでくれる? 私だって言いたいこと山ほどあるのに、なんで早紀ばっかり言って終わりにするの? 全部自分が悪いで簡潔にまとめたものだけで納得できるほど、私は大人な対応できないから!」
「ちょ、ちょっと待って、なんなのいきなり!」
ぐいぐいと距離を詰めて意図的に壁際に追い込むと、早紀は焦った様子で私を怪訝そうに見る。
「私はね、早紀がいてくれてよかったと思ってる。もちろん早紀の性格は本当に嫌いだし、なんで私だけにマウントを取ってくるのか意味がわからなかった。それを羨ましかったからなんて言葉で片付けないで。それとも、私が今まで仕方がなく一緒にいたとでも思ってるの?」
「思ってるって、実際にそうでしょ!」
「違うよ! 自分で望んで一緒にいたの。……早紀が助けてくれたから、信じることにしたんだよ」
私が息をひそめるきっかけになった中学でのグループ発表の時、周りが笑い、ひそひそと陰口を叩く中、早紀だけが私を笑わなかった。それどころか、私を背に隠して気を逸らすように自分の発表を堂々とやり遂げたのだ。もちろん、天と地ほどの差となった発表で、陰口が減ることは無かったけれど、早紀は私に話し続けてくれた。たとえそれが自分の為だったとしても、私にとって恩人に変わりはなかった。それほどまでに、私は彼女に依存していた。
「早紀がいなかったら、私はこの学校に入学してないし、部活もしてなかった。今の私があるのは早紀のおかげ。関わらないなんて、そんな寂しいこと言わないで」
「佐知……」
「でも今度からハッキリ言うから。もう遠慮しない。……だから、もっと喧嘩しようよ」
お互いの嫌なところも全部含めて、何でも言い合える相手になりたい。ずっと考えていたことをようやく言葉にできた。息が乱れるほどの私の勢いに、早紀は戸惑いを隠せなかったけど、最後は諦めたように大きな溜息をついた。
「……本当、不器用だね。普通、喧嘩しようなんて言わないよ?」
「うっ……」
「でもそれが佐知なんだって、一緒にいたのに今初めて知った」
面倒臭そうに言いながらも頬が緩んでいたのを、私は見逃さなかった。
それから少し話して、早紀は部活の先輩に呼ばれて行ってしまった。ただでさえ練習でくたくたなのに、これから三日間の合宿が始まるのだ。ざっくり練習メニューやスケジュールを聞いたが、運動に無縁な私にとってはハードすぎてついていけないと思った。
去り際、すっきりした表情の早紀は「今度、佐知がシフト入っているときにバイト先に茶化しに行くから」と言い残していった。自分でも欠点を把握しているのを隠して部活に励んでいるようなので、これ以上天狗になることはないだろう。茶化されるのは御免だけど。
私はすっかり忘れていた当初の目的を果たすため、再び美術室に向かった。
誰もいないはずの第八美術室には、香椎先輩がカンバスの置かれていないイーゼルを前に呆然と立ち尽くしていた。今日は工房に行くと聞いていたが、予定が変更になったのだろうか。
開け閉めするだけでガタガタと鳴る戸をゆっくり閉めると、私は違和感を覚えた。先輩がピクリとも動かない。普段なら引き戸の音で気付くのに見向きもしない。ゆっくり近付いて「先輩」と声をかけると、おそるおそる顔をこちらに向けた。絵と向き合っているときは外している眼鏡をかけていても気付かない、それどころか、私だと気付いていない。
「……佐知?」
「は、はい。入ってきたの、気付きませんでし――!?」
問いかけを遮って、先輩はおもむろに私の頬に両手を添えた。何かを探るように、顔のパーツをなぞっていく。初めて出会ったときよりも慎重に、壊れてしまわないようにそっと触れられる。きっと先輩は気付いていないだろうが、私は沸騰しそうなくらい顔が熱かった。
「せ、せせ先輩!? どうしたんですか!?」
「……不味いな」
「え?」
顔から手を離すと、香椎先輩はいたって冷静に言う。
「触覚がうまく機能していない。佐知の顔の形や温度も、鉛筆を持つ感覚も痺れてよく分からない。……困った」
大問題じゃないか。
部長不在の中を積極的に動いてきた香椎先輩が、低下した視力をカバーするための感覚の一つをこのタイミングで機能しなくなるのは一大事だ。いや、近付くまで気付かなかったことも考えると、もしかしたら聴覚も怪しい。
それを「困った」と平然を装う先輩に、焦りを通り越して心底呆れた。
「先輩、病院行きましょう。触覚が怪しいのはさすがに不味いですって」
「昨日の通院次いでに診てもらったっての。ストレスから来るモンで、ある程度期間で戻るらしい」
「嘘ついてません?」
「これ以上佐知に嘘も隠し事もしねぇよ。高嶺じゃあるまいし」
はぁ、と大きな溜息をつく香椎先輩。その反応は私がしたいんだけど。
「別に今に始まったことじゃねぇから。心配すんな」
「……私が入ってきたのも気付かなかったのに?」
「タイミングの問題だろ」
あっけらかんと答えて、またイーゼルに目を戻す。ああもう、この人も自分の心配をしない!
「二人とも根詰めすぎなんです。文化祭まで時間があるとはいえ……」
「俺達には時間がない」
「それでも詰め込みすぎですよ。工房に行ったりお見舞い行ったり、文化祭のことだけじゃなくて、進路のころで先生と話したりで、夏休み中なのにここ毎日学校に来てるじゃないですか。心労が溜まっていてもおかしくないんです」
「ストレスなんて感じてねぇし」
「気付かないからストレスなんです」
絵に関しては気にしていられないんだろうな。似たもの同士もいいところだ。
「つか、なんでお前がここに? 今日は高嶺のところって言ってただろ?」
「その高嶺先輩から、写真を撮ってこいと言われて来たんです。撮って出力したら病院戻ります」
「そっか。それ、俺も行く」
「工房の方はいいんですか?」
「今は宮地さんが灰を調整中。種類が多いから時間がかかる」
さっさと撮るぞ、と言いながら香椎先輩は同じ構図の写真を取り出した。私も鞄から渡された赤い印の入ったプリントを取り出して机に広げる。高嶺先輩の意図が手に取るようにしてわかるのか、先輩はプリントと照らし合わせながらスマホで撮っていく。
その姿を見ていると、いつも思う。
夏休みに入る前は先輩たちが並んで描いていた。お互いの絵を見比べて、一つの絵に時間を費やして語ることもあった。特に香椎先輩が使っているイーゼルの上にはいつもカンバスが置かれていた。見るたびに何かが描き加えられていて、真っ白なカンバスを見たことがない。
だから聞けなかった。香椎先輩が何も置かれていないイーゼルの前で何を考えていたのか、と。
右の手のひらや指先に付いた鉛筆が刺さった複数の痕も、足元にビリビリに破かれ、散らばったクロッキー帳も、触覚や聴覚の危機以前にスランプに陥っているのではないか、なんて考えたくなかった。
嘘も隠し事もしない――そう言っていたのは、先輩なりの強がりだ。私が追い詰めているんじゃないかと、途端に不安が襲い掛かる。払拭するものが見当たらないから、何も聞けなかった。
「佐知」
気付かないうちに俯いていたらしい。名前を呼ばれて顔を上げると、香椎先輩がスマホで撮影を続けながら言う。
「お前は俺達の我儘に付き合わされているようなモンだ。バイトだってしてるんだし、お前までストレスで倒れたりしたら、俺達が後悔する。だからほどほどにしとけよ」
「……私は私ができることをしています。先輩たちに尻拭いなんてさせません」
「そうか。じゃあ俺達も後輩に尻拭いなんてさせねぇから」
香椎先輩なりの気遣いだったのだろう。挑発的な言い方に少しムッと顔をしかめると、横目でこちらを見た先輩が鼻で嗤った。
「撮れたぞ。メッセージに送ったから、高嶺も見れるよな?」
「はい。ありがとうございます」
「にしても、こんなことさせるなんて高嶺らしくないな」
「どういう意味ですか?」
「指定した場所が細かすぎるんだよ。『明日へ』くらい、細かく描き込むつもりなのかもしれない」
『明日へ』の時は、亡き理事長先生と話し合ったうえで絵の内容を決めたと聞いている。実際は近付くことで鉛筆で細かく描き込まれた戦時中の悲痛の叫びがメインだったとも話を聞くが、先輩たちは「こればっかりは依頼者との約束で口外しないことになっているから」といって教えてくれない。
たとえ文化祭に現れたご婦人――改め、理事長先生が私の妄想によって作り出されたものだったとしても、気に入っていると誇らしく笑みを浮かべたのだから、要望通りのものに仕上がったのだろう。
しかし、今回の美術室はただでさえ物が多い。構図は美術室の奥から見渡した室内で、ある程度の荷物を描かないことで、空間を作り出している。高嶺先輩はそれをわざわざ描き込もうとしている。
「……バカなことを考えていなければいいんだけどな」
香椎先輩がそう呟くと、自分の荷物をまとめ始めた。嫌な胸騒ぎがするのは私だけじゃなかった。
学校を出て病院に向かう。歩いて十分もかからないのは分かっているのに、気持ちが焦って足早になる。信号が赤から青に変わるのを待つ時間さえ惜しい。
すると、香椎先輩のスマホに着信が入った。画面に表示された名前に眉をひそめると、タップして電話に出る。音量の問題か、電話越しに漏れて聞こえてきたのは、女性の震えた声だった。
『悠人くん、千暁が……千暁が、倒れたの! お願い、早く来て!』
信号機が青に切り替わった途端、香椎先輩と私は一目散に走り出した。通行人を避けて、途中で足がもつれても立ち止まっていられなかった。
嫌でも高嶺先輩が頭に浮かぶ。いつかはそんな時が来るかもしれない。でもそれはきっと今じゃないって、先輩だって言っていたのに!
病院に入ってすぐにエレベーターを待っている時間も勿体無くて、階段で三階まで駆け上がる。端にある高嶺先輩の病室を看護師さんが慌しく出入りしていた。近くにあるベンチには、顔を真っ青にした夫婦の姿があった。高嶺先輩のご両親だ。二人が私たちに気付くと、お母さんが香椎先輩に駆け寄った。
「悠人くん……っ」
「おばさん、千暁は?」
「通ります! どいてください!」
話を聞こうとすると、病室から医師と看護師、そしてストレッチャーに乗せられた高嶺先輩が出てくる。苦しそうに顔を歪ませ、煤で真っ黒になった手で病院着を握っている。
最後に出てきた看護師が、ご両親に話しかける。
「高嶺千暁くんご家族ですね」
「息子は、息子はどうなるんですか!」
「大きな物音が聞こえて駆けつけたら、床に倒れ込んでいました。胸を押さえていたので、発作を起こしたようですが、その際に頭を打っているようで……処置後、集中治療室へ移っていただきます」
「集中治療室って……そんな」
「……詳しいお話は、担当医からご説明いたします」
深々と頭を下げた看護師の言葉に、ご両親はその場に泣き崩れた。それを余所に、香椎先輩は誰もいない病室に入っていく。
後を追うと目を疑った。
先輩が愛用しているスケッチブックや見本の写真をプリントアウトしたもの、先の割れた木炭が床に散乱している。まるで泥棒に入られたかの惨状だ。シーツや手すりには黒い煤が付いており、ナースコールを探すのに無我夢中で手を伸ばしたのがわかる。
「……ふざけんなよ」
横たわったイーゼルの近くで香椎先輩が屈んでカンバスを拾いあげた。聞き取るのがやっとの小さくて震えた香椎先輩の声で、カンバスに目を向ける。見慣れた美術室の光景は息を呑むほどの迫力で、デッサンならばこれで成立してしまうほどの完成度だ。
その中心に書かれた走り書きに、私は言葉を失くした。
“後は頼んだ”
勝手すぎるよ、先輩。
「発作がいつ起きてもおかしくない状況です。最悪の場合も考えておいてください」
担当医に告げられ、集中治療室に入って二日が経つ。高嶺先輩は未だ眠ったままだった。壁を隔てた向こう側で、高嶺先輩のご両親は祈るように目を覚ますのを待ち続けている。
倒れたあの日、私もその場にいて回復を待っていたが、香椎先輩に「もう遅いから」と先に帰らされた。ただ祈ることしかできない今、私はこの場に不要だと自覚する反面、このどうしようもない空気から逃れたいと思ってしまったのを見透かされたような気がした。
翌朝になって「容態は安定してきているが油断できない」と香椎先輩の淡々としたメッセージを受けて、夏の蒸し暑さも一瞬で引いた。震える手で返信はできなくて、結局二日経った今も既読スルーしたままだ。
「佐知、今日はでかけるの?」
キッチンで洗い物をしていた母に聞かれ、私は「うん」と短く答える。一度気持ちを整理したほうがいいと、香椎先輩から休むように言われ、アルバイトも店長にしばらくは部活優先にしたいと相談してシフトを休日に入れるよう調整してもらっていることもあって、何も予定のない日は久しぶりだった。といっても、課題をいつもより多くこなして、庭先に咲いた花や遠くに見える風景をスケッチしていれば、一日はあっという間に終わった。なるべく絵から離れようとしていたけど、寝る前に振り返れば、いつもと変わらなかったことに気付いた。
「そう、あまり無理しないでね」
「……ありがとう」
私の両親には先輩たちの病気のことはふせて、最後の部活になるかもしれないから全力でやり遂げたい旨を伝えた。何か言われるかと覚悟していたが、あっさりと承諾されてこっちが拍子抜けしたくらいだ。困惑する私に、二人はそろって「高校受験の時を思い出した」と笑っていた。言われてみれば、二人の前で自分のしたいことを口にしたことがあまりなかった気がする。それが私には首を傾げることでも、両親からしてみたら成長したのだという。
そう、人は変われるのだ。やるべきことが決まっているのなら、自ら変わるべきなのだ。
――決まっていれば、の話だけど。
外に出た途端、全身に生温い風が体にまとわりつく。朝にも関わらず日差しが照らすコンクリートはじりじりと陽炎が揺れている。今日も暑い日になりそうだった。
学校に行く前に、病院に行ってみることにした。もしかしたら急に調子がよくなって一般病室に戻っているかもしれない。淡い期待を抱きながら向かうも、そこにはからっぽのベッドが一つ置かれているだけだった。
それもそうか、もし何かあったら香椎先輩から電話なりメッセージなり来るはずだ。
「あら、あなた……」
引き返そうとすると、後ろから声をかけられた。高嶺先輩のお母さんだ。よく眠れていないのか、昨日会ったときよりも目の下のくまが濃くなっている。
「千暁と悠人くんと同じ学校の方よね、えっと……」
「一年の浅野佐知といいます。……あの、先輩の様子は?」
「大分落ち着いてきたけど、こればかりはわからないわ」
「そうですか……いきなり来てしまって、すみませんでした」
「いいえ、わざわざありがとう。千暁と会わせてあげられないのが申し訳ないわ」
高嶺先輩がいるのは集中治療室は、家族以外の面会は禁じられている。昨日は香椎先輩が訪れたようで、状況を聞いて放置されていたカンバスを回収して帰ってしまったという。
「悠人くんは幼い頃からずっと一緒にいてくれたの。だからずっと気にかけてくれていてね。人は笑うと病気が治るって話を知ってる? 実際に千暁は悠人くんと出会って毎日が楽しそうで、最近は発作もなかったのよ。だから……今回ばかりは、ね」
そう言いかけて言葉を詰まらせる。余命宣告を受けた一年前から気が気でなかったはずだ。
「本当は、宣告を受けてからすぐに入院することを勧められていたの。でも千暁自身が、頑なに夏休みに入るまで待ってくれって聞かなくて。発作が落ち着いているからと言って、完治したわけじゃないわ。だから週一日の通院と運動の禁止、夏休みに入る前に悪化したら即入院という条件で通わせることにしたけど……私たちは、間違っていたのかしら」
「……え?」
「あの子、ただ絵を描きたかっただけだと笑ったの。……親としてはふざけてると思ったわ。でも反対できなくて、結局夏休みに入る前にこうなってしまった。入院中も描いているのを見て頭が痛くなった。私たちはただ、自分のことを考えて生きてほしいのに」
「……確かに、ふざけていると思われても仕方がないかもしれません」
たとえ文化祭に作品を出さなかったとしても、先輩は病室のベッドの上で何かを描いていただろう。まだ出会って一年どころか、半年も経っているかも怪しい私が言うのもどうかと思うが、美術部としての先輩を見てきたから言えることだってある。
「先輩は美術部であることに誇りを持っています。自分のタイムリミットがあるとわかったうえでやりたいことを決めて、まだ生きることを諦めていません。どうか、それだけはわかってあげてください」
私がそう言うと、お母さんは辛いのを隠して小さく笑った。すると、ずっと抱えるようにして持っていたものを差し出す。
「あなたに、これを預けていいかしら」
高嶺先輩がいつも持ち歩いているスケッチブックだった。以前よりも背のリングが歪んで、表紙に妙な折り目が見受けられる。
「倒れたときにいろんなものが床に散乱していたでしょう? その時に誰かが蹴っちゃったみたい。ボロボロになってるけど中は無事だったわ」
「……どうしてこれを、私に?」
「…………」
黙ったまま顔をふせた仕草を不思議に思いながらも受け取る。風景画が描かれているページを何枚か捲っていくと、私は目を疑った。
描かれていたのは、カンバスに向かう香椎先輩の横顔だった。何度も描き直しているようで、うっすらと跡が残っている。他にも、床に座って描く私や、工房のかまどに火をくべる宮地さんのスケッチが描かれていた。さらにページを捲っていけば、学校周辺や工房、二人がそろって私のバイト先に来て注文したコーヒーとケーキもあった。チーズケーキをフォークですくった時の、断面の質感さえも繊細に描き込まれている。
知らないうちにモデルになっていたことが怖いとか、ぞっとする感情さえも忘れてしまうほど絵のクオリティに圧倒される。
もしかしたら、いつもスケッチブックを使っていたのもこのためだったのかもしれない。
私や香椎先輩が使っているクロッキー帳は、無地の薄い紙でできており、鉛筆などの単色で描くのに向いているため、主に絵の練習の際に使われる。
対してスケッチブックは、厚みのある画用紙だ。スケッチした上で水彩等で色がつけられる。水彩画を清書する際に利用されるから、作品として描くときにはスケッチブックを使われる傾向があるという。
ならば、高嶺先輩にとってこれは記録だ。
描かれている角度がすべて後ろ向きや顔が見えないようになっているのは、長身の高嶺先輩がいつも見ている位置だからだ。自分がいつ死んでもいいようにと、余命宣告されてからずっと描き続けてきた先輩の生きた証を一冊のスケッチブックにまとめた作品集――考えたくはないが、皮肉にもそれが一番しっくりくる。
スケッチブックの最後のページを開くと、中に四つ折りにされたルーズリーフが入っていた。丁寧に中を開くと、高嶺先輩の字が並んでいる。
『この手紙を見つけた人へ。
もし自分が倒れたら、これを美術部に渡してください。
香椎、佐知、宮地さん。
美術室の下描きはほぼ完成だ。残りは佐知に任せたい。この間、追加で写真を撮るように頼んだ場所に一つずつ描き加えてほしい。俺の大切な世界を完成させてくれ。大丈夫、佐知ならできる。
それと、香椎に目の治療を受けてほしい。俺は香椎の絵が見たくて今日まで生きてきた。これからも、死ぬまでずっと描き続けてほしいと思う。失明までのカウントダウンが始まってしばらくした時に「もう見えなくなってもいい」ってふざけたことを言っていたの、俺はちゃんと覚えてるからな。
頼むから、主治医と一度話を聞いてくれ。絶対だぞ。
宮地さん、二人を頼みます。俺の大切な部員を支えてやってください。
そして最後に、もし俺が死んだその時は、俺の遺灰の一部を使って描いてほしい。
それじゃ、次に会うその時まで。
高嶺千暁』
私は困惑する頭で何度も読み直した。鉛筆の筆圧も右上がりになる癖も、高嶺先輩が書いたものだと分かるのに、指示書きのようで遺言にも見て取れてしまう内容が信じられなかった。
「ごめんなさい。どうしても悠人くんだけには渡せなかったの……っ」
お母さんは震える声で告げると両手で顔を覆ってすすり泣く。
高嶺先輩の病気の進行について、具体的に聞かされていない。自分の体のことは自分が一番よくわかっているとは聞く。もしかして高嶺先輩は、保険として書き残していた?
――もし俺が死んだその時は、俺の遺灰の一部を使って描いてほしい。
「……酷いですね、先輩」
誰もが望んでいる。明日も一緒にいられるって誰もが願い、信じている。――信じているのに。
「死なないって、私たちの前で言ってくれたじゃないですか」
ずっと我慢していたのに、せき止めていたものがはずれて涙がこぼれていく。その一つが手紙に落ちると、書かれた字が滲んだ。慌てて拭いたけど、引っ張ったように字が崩れてしまう。
それでもいい、このまま消えてしまえ。
ここにいる私たち以外の誰かの目に触れる前に、破り捨ててしまいたい。でもそれができないのは、高嶺先輩が書いたものだから。最悪な場合、これが最後の言葉になるかもしれない。
それを無かったことにするなど、私にはできなかった。
病院を出て学校に向かう。夏休み中にも関わらず人の出入りが激しいのは、秋に行われる新人戦に
向けての運動部の追い込みと、文化祭の準備を進める実行委員が連日会議を重ねているからだろう。
その中には芸術コースの生徒の姿もあった。特に三年生が多く、運動着で取り組む姿の真剣な眼差しには誰も近寄ることができない。作業している教室の前を通るたびに睨まれたほどだ。
緊迫した空気の中を通り抜けて、第八美術室の戸を開く。誰もいない室内の中心に、ポツンと置かれたイーゼルの上には、高嶺先輩が描いた美術室の下描きが飾られている。
香椎先輩はまだ来ていないらしい。いつものように荷物を置いて、窓を開いた。空気を入れ替えている間、私は鞄から受け取った高嶺先輩のスケッチブックを取り出す。
描き加えたいと言っていた部分について、未だはっきりしていない。
手紙をもう一度読み直して、カンバスの正面に立つ。高嶺先輩が倒れた際、下描きで使っている木炭が擦れて布に馴染んでしまっているが、置かれている机や棚の影になって様になっていた。美術室の奥から全体を見た構図は、香椎先輩が使っているイーゼルを中心に、物の位置をそのままに置かれている。真ん中にぽっかりと開いたスペースに走り書きで「後は頼んだ」とあるが、これ以上描き込むスペースなどない。
むしろ下描きの範疇を越えている。
香椎先輩がメッセージで送ってくれた画像と照らし合わせていく。指定された場所は端に予備のクロッキー帳や絵の具が保管されている棚、美術室の中心に設定されたイーゼル、その向こうに見える、カンバスの布を貼り付けるための木枠が山積みになっている。何度も見比べてもちっとも違いが分からない。ここに何を一つずつ描き込めというのか。幼い頃からウォーリーも探せなかった私に、間違い探しは無理難題だ。
自分勝手すぎる。
さっきまで悲しんでいたはずなのに、沸々と苛立ちが湧いてきた。高嶺先輩の頭の中を覗けるわけでもないのに、こんな中途半端な指示でどうしろと。
「……絵の中に入れたらいいのに」
ふざけた考えが頭をよぎる。そんなことができるわけがないのにと、忘れようとするけと、ハッと顔を上げた。
絵の中に入る――いや、絵に呑まれることは不可能じゃない。
今まで私が呑まれてきた絵は、必ず絵の中の世界が広がっていた。それこそ、作者である香椎先輩が考え、願いを込めた世界そのものだとしたら。
作者の考えが絵に込められている――ならば、絵に呑まれたら、先輩の真意を探れるかもしれない。
私は持っていたスケッチブックと手紙を端に置いて、カンバスを両手で持って掲げる。すぐに入れたなら苦労はしないが、こればかりは運任せだ。
……それにしても。
「素敵な絵だなぁ」
木炭だけでこんなにも感傷的に描けるものなのかと感服する。ただ少しだけ寂しげに見えるのは、これが最後の絵だと悟った、先輩の心が映し出されているのだろうか。
――俺の大切な世界を完成させてくれ。
手紙で高嶺先輩はそう言っていた。カンバスに描かれたものは、先輩の大切な思い出が詰まった世界。モノクロなんかで終わらない、色を乗せるまでが完成なのだから。だから「ほぼ完成」だと曖昧な言葉を使ったのだろうか?
……わからないことばかりで頭がパンクしそう。
カンバスを動かして、いろんな角度から描かれた美術室を見る。平面なのは変わらないけれど、見方によって変わるかもしれない。それこそ、トリックアートのように飛び出しているとか。
「――さすがにそれは難しいんじゃない? もっと俺に時間があったら描いてみたいけど」
後ろからかけられた声に、私は一瞬思考が止まった。
思わず振り向いて目を疑う。ここにいるはずのない人がどうしているのか。
「……高嶺先輩」
「お化けかと思った? まだ生きてるよ」
いつもの変わらない屈託のない笑みを浮かべながら、洒落にならないことを言う。ああ、なんてデリカシーのない人。今も治療室の前で、ご両親が無事に回復するよう祈っているというのに。
高嶺先輩は私の隣にくると、カンバスの中心に触れる。走り書きの文字を擦って消すと、どこか達成感に浸りながら続けた。
「久しぶりに風景画を描いたよ。まさか生きている間にカンバスに描けるなんて思ってもいなかったから、すごく楽しかった」
「……描いたこと、なかったんですか?」
「それはそうだろ。美術部の原点は、カンバスじゃなくてルーズリーフやノートの端っこの落書きから始まったんだから。カンバスに描き始めたのは『明日へ』が最初だ。そして、それを描いたのは全部香椎だ」
「待ってください、高嶺先輩だってフォローに入ったって」
「俺は横で意見を言っただけ。描いたことはないよ」
高嶺先輩は懐かしそうに話を続ける。
「香椎はさ、昔から単体を描くのが得意だったんだ。イラストを描くように勧めたのは俺で、アイツが風景画が描きたいって言ってたのを知った上で押し付けた。自分の好きなものと自慢できるものが同時に盗られたような気がしてさ、俺にとっては嫌がらせみたいなもんだった。『お前はイラストに集中すべきだ』って言い聞かせた」
高嶺先輩が顔を上げると、途端に周りの様子が変わった。端に寄せられたイーゼルや山積みの木枠、雑に片付けられた机と椅子、棚の位置すべてが第八美術室そのものなのに一つだけ違う。
色がない。モノクロで描かれた、カンバスの絵のように。
「後悔したよ。香椎のやりたいことを俺が奪った。描くたびにどんどん上達していくアイツを見ていて妬んで、なんてバカなことしたんだろうって自分に呆れた。だから美術部で絵を一枚描くってなると全部香椎に押し付けてた。カンバスなら風景も単体も全部描ける。俺は絵を描かないで、アイツのサポートに回る方がいいって思った。……でもやっぱり、俺もやりたかったなって羨ましく思う」
自業自得だよな。
だんだんと暗くなる表情にあわせて、周りの様子も一段と黒く染まっていく。先輩の心情と世界が同調している。これは現実じゃない。
「困惑してるな」
「……しますよ、立ったまま眠っているのか錯覚するくらい」
だとしたら都合のいい夢だな、と高嶺先輩が皮肉そうに笑う。私の知っている先輩は、こんな顔しないのに。
これが「絵に呑まれた」というのなら、私はこの高校に来てから頻度が増えている。それこそ、理事長先生と出会ってから二度も『明日へ』に呑まれているし、最近だと宮地さんが依頼したベンチの下描き時点で、また理事長先生と再会した。
二つの絵には理事長先生が関係していて、香椎先輩が描いている。さらに灰が使われていることが共通していたし、後から聞いた情報が積み重なって生み出した妄想だと思えば納得できた。
でもこの美術室の絵は違う。描いたのは高嶺先輩で、灰を混ぜ込んだ絵の具ではなく、ベンチから作られた木炭だ。これでは妄想の一言で片付けられない。
だとしたら、絵に呑まれるこの現象はなんだろう?