授業開始のチャイムが校内に響く頃、無意識ながらも第八美術室へのルートを辿っていた。
今行ったところで誰もいないし、おそらく鍵も空いていない。途中で芸術コースの生徒と鉢合わせしたら、どんな顔されるだろう。
……今に始まったことではないし、どうでもいいけど。
かといって、また教室に戻って授業を受けても、いつかのように早紀からの手紙が回ってくる気がした。
そういえばあの手紙、なんて返したんだっけ? ……ダメだ、興味がなさすぎて思い出せない。
「浅野? こんなところで何してるんだ?」
うだうだ考えていると、聞き慣れた声がした。生物の教科書を抱え、黒縁フレームの眼鏡をかけている香椎先輩だ。見慣れなくて一瞬誰だかわからなかった。
「未知の生物と遭遇した顔してんじゃねぇよ。お前、授業は?」
「……ま、迷子! 迷子です!」
「はぁ?」
「ほら、校内って広いじゃないですか、ちょっと歩いたら帰り道が分からなくなってしまってー……なんて、あ、ははは!」
我ながら下手な誤魔化し方をしたと思う。しかも相手は香椎先輩だ。通じるわけがない。
しかし、私の慌てようを察したのか、先輩は呆れたように溜息をつくと、「ついてこい」とだけ言って美術室の方へ足を向けた。
何も聞いてこないのは先輩の優しさなのか、呆然としていると振り返っては私がついてきているかを確認する。慌てて駆け寄って隣に並べば、見計らったように歩き出した。高嶺先輩とたいして身長も変わらないのに、私に歩幅を合わせてくれている。
「先輩、授業は? 移動教室だったんじゃないんですか?」
「終わった。次の授業は教室で座学。怠い」
三年生の教室は三階にある。きっと授業終わりに通りがかったところだったのだろう。
……チャイムはもう鳴っているのに?
いくら移動教室だったとしても、教室に戻るのが遅すぎやしないか。
「でも疲れたから休んでく。お前も付き合えよ」
返事を返す間もなく、第八美術室についてしまった。手慣れたように戸を引けば、またミシッと音がした。鍵は四六時中かけていないらしい。真ん中のぽっかり空いた空間に椅子を引っ張っていくと、先輩が教科書とかけていた眼鏡を近くの机に置いて持ってきた椅子に座る。いつもの香椎先輩に内心ホッとした。
「それで?」
「え? それで、とは?」
「とぼけんな。一年生が校内を迷子になって授業サボってるって、学年主任に告げ口する前に何があったか言え」
「うわぁ……完全に恐喝ですよ、それ」
「言ってろ。ただでさえ真面目な浅野が授業中に出歩いてるのを見てこっちは驚いてんだよ」
さすがに嘘ですよね。――と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込む。相変わらず仏頂面の香椎先輩だが、目が笑っていない。先輩の言う通り、まだ入学して三ヶ月そこらの一年生が授業をサボっているのは問題だろう。
それにただでさえ美術部と関わっている私は、長谷川先生のブラックリスト入りを果たしていたことをつい先日知ったばかりだ。高嶺先輩はあの恐喝動画を消さなかったのは、美術部を関連したことで問題が起きたときに自分の身だけでなく、香椎先輩と私を守るためだという。
「安心しろ。高嶺には言ってねぇし、警備員も教師も第八美術室には来ない。だから話せ」
「……言いたくない場合は?」
「授業が終わるまでここに居ろ。戻ったら俺に付き添ってたって答えとけ」
そんな言い訳が通ったら仮病の使い放題じゃないか。
いつになく自由な香椎先輩に翻弄されている気がする。すると、先輩はずいっと私の前に手を差し出した。
「な、なんですか?」
「中間報告。描いてるんだろ?」
「なんで……」
「クロッキー帳の表紙に鉛筆で擦った痕があるから。ちょっと歪んでるし」
早く、と急かすので、私は渋々クロッキー帳を渡した。まだページの半分も進んでいない。それでも先輩は表紙から丁寧に、まるで読み聞かせの絵本を扱うようにゆっくりと優しい手つきで一枚ずつ捲っていく。好きなものを描けと言われて描いたものは、どれもしっくりこないものばかり。多少上手く描けたといえば、庭先のパンジーくらいだ。それでも一ページずつ吟味する真剣な表情から、先輩なら何か感じ取ってくれるのではと期待してしまう自分がいる。
しばらく沈黙の時間が流れ、パンジーのページを私に見せるようにして開くと、香椎先輩は問う。
「このパンジー、お前の家に咲いているのか?」
「はい……って、わかるんですか?」
「縁側とか、ゆっくり落ち着けるところで描いたってところか。こっちの黒板消しは教室だな。入学してまだクラスにはまだ馴染めてないのか。……いや、授業中に隠れて描いてたようにも見える。どっち?」
「な、なんで描いた場所まで……」
私はクロッキー帳に描いた絵の横には日付だけを残している。だから先輩が私がどの場所で、どんな状況で描いていたなど知る由もない。
「線の入れ方、筆圧、感情の乗せ方……すべてが違う。見ればわかる。それで、この黒板消しはどっちだ?」
「……ご想像にお任せします」
「浅野のいう上手い下手は置いておいて、描いた奴の感情がわかりやすい。いい絵だ」
そんなことがわかるのは香椎先輩くらいだろう。じろっと恨めしそうに見ると、先輩はフッと笑みを浮かべた。
「先輩は第六感でも持ってるんですか?」
「第六感? なんで?」
「察知能力が高いから」
「アホ抜かせ。……でも、欠けているから敏感になるんだろうな」
先輩は自虐するように鼻で嗤うと、クロッキー帳を私に戻す。そんな寂しそうな顔を見てしまったら、何が欠けているのかと問うことはできない。まだ出会って三ヶ月程度の関係でわかるはずもない。それは高嶺先輩も同じだ。
――「いろいろ問題児なんだ、俺たち」
芸術コースのために美術部を認めない学校の悪い印象が強くて、私には二人の先輩が問題児ではなく、革命家のような立ち位置にいるような気がしてならない。でもそれだけじゃないような気がして、少しばかり聞いてみたいと思ってしまった。私は自覚がないだけで、案外非常識で冷酷な性格をしているのかもしれない。
すると、香椎先輩はイーゼルと書きかけのカンバスを所定の位置に持ってきた。
鉛筆で描かれているのは、校庭のグラウンドの端に設置された木製のベンチとその風景。私が美術室に訪れた頃からずっと描き続けていた下描きだった。
「……そういえば、無くなっちゃうんでしたっけ」
カンバスの中心に描かれたベンチは、二十年前に卒業生が製作したものだ。つい先日にあった大雨の際、近くの木に落ちた雷のせいで大破してしまった。今週中にも撤去される予定だと、今朝のホームルームで話が上がっていたのを思い出す。
「新しいベンチはアルミの素材を使っている。木の部分はない」
「……それが?」
「灰にしてやれないだろ」
鉛筆で描いた線を、先輩は愛おしそうに指でそっと撫でた。
それからしばらくして授業終了のチャイムが流れると、香椎先輩と一緒に美術室を出る。
教室に戻っても誰も私に目を向けることはしなかった。早紀でさえ口をとがらせてそっぽを向いていた。
その後、担任の長谷川先生に咎められたけど、言われた通り「香椎先輩に付き添っていた」と伝えれば、苦虫を噛んだ顔をして許してもらった。なぜこの言い訳で通用するのかは分からないけど、また先輩に弱みを握られているんだろうと、その時は思っていた。