宿題が出された。
「好きなものを描いて来い」と、ざっくばらんに言う香椎先輩を横目に、高嶺先輩が楽しそうに口元を緩ませている。他人事だからとニヤニヤした笑みを浮かべる先輩を睨みつけると、さらに満面の笑みを浮かべた。コノヤロウ、と思ったのは内緒の話。
 それでも提出期限がないことだけは救いだった。一週間で仕上げろと言われたら、きっと焦って何も描けなかった気がする。
 その反面、悩ましいものでもあった。期限がない――だからこそ、好きなものが思いつかない。何かに執着することなく、流行に疎い私にはかなりの難問だった。
 とりあえずここ一週間の間、目に留まったものを描いてみることにした。
 庭先に咲いていたパンジーや、教室の黒板を消したっきりで掃除されていない、真っ白な黒板消しを描いてみたけれど、どうもしっくりこない。気付かないうちに上手く描こうと意識しているのかもしれない。それでも消しゴムで消したり、ページを破ることはしなかった。これも香椎先輩の言いつけで「後で見て笑う用で全部残しておけ」とのこと。
 ただの鬼畜でしかない。
「ちぃ、さっきから何してるの?」
 授業の合間にある休憩中にクロッキー帳を開いて考えていると、早紀が覗き込むようにしてやってきた。話す相手がいなかったらしい。
「うわぁ、懐かしー! なんでこんなの持ってるの?」
 許可を貰う前に、私の手からクロッキー帳を取り上げて適当に捲っていく。
 毎度のことながら、無意識で言葉を選ばない彼女に苛立ちを覚えるが、ぐっと堪える。
「別に持っててもいいでしょ」
「まぁそうだけど! もしかして、絵に目覚めちゃったとか?」
「目覚めたというか、ちょっと描いてみようかなって――」
「やめときなよ」
 パシン、と音を立ててクロッキー帳を閉じられた。
 思わず目を向けると、早紀は笑みを浮かべているにもかかわらず、目の奥が笑っていない。
「……早紀?」
「佐知って別に絵がすごい上手い訳じゃなかったじゃん。今更始めたって時間の無駄だよ」
 机に叩きつけるようにクロッキー帳を置く。そのはずみで開いたページには、最近描いたパンジーのスケッチがあった。しっくりこなかったとはいえ、久々にしては上手く描けた方だと思う。それが早紀や先輩たちに鼻で嗤われることになろうとも、何とも思わない――はずなのに。
「こんなの誰でも描けるよ。文化祭の絵が気になって入学したって言ってたけど、進学コースにしたのは自分に絵の才能がないってわかってたからでしょ? もしかして中学のコンクールで入賞したから自分も行けるって思った? あんなのまぐれだって自分でも言ってたじゃん。だって佐知は、私がいないと何もできないちぃちゃんでしょ?」
 何もできないちぃちゃん――そう言われて、コンクールで入賞した時のことを思い出した。
 賞状を貰って教室に戻る中、周りのクラスメイトからは「おめでとう」「すごいね」と祝福の言葉をかけられる中、早紀だけは違った。
 ――「佐知は私と一緒に描いてて、私の絵を盗み見て描いてたんだよ。気づいていないと思った? 本当、何もできないちぃちゃんだよね」
 早紀の話は誰も当てにしなかった。私が描いて入賞した絵は構図どころか、描かれた場所が異なっていることは一目見れば明白で、もちろん隣で描いた覚えもない。だからこの時、私は黙ったまま聞き流すことをしていた。
「たかが絵に魅了されたってだけで、絵描きになれるなら誰だってなってるでしょ? 希望持ちすぎなんだよ。佐知は、私と一緒に何かする方がいいんだって」
 ああ、ダメだ。――これ以上、早紀の言葉を聞き流すことはできない。
「なぁに、その顔。睨んだって本当の事でしょう? 分かったら――」
「早紀は、偉いの?」
「え?」
「私のやりたいこと全部を否定できるほど、早紀はそんなに偉いの?」
 早紀にとって、このクロッキー帳は紙切れにしかすぎないのかもしれない。
 それでも何かに執着せず、流行に疎い私にとって、自分で考える初めての「好きなもの」を映す鏡なのだ。それを無下に扱い、『明日へ』に込められた絵の意味も知らない彼女に、知ったような口で話してほしくない。私の好きなものに触れないでほしいとさえ思う。
 誰も傷つかない言葉を選ぶのが難しいように、他人の物差しで計った価値観を押し付けられて、素直に肯定することは難しい。理解することさえ時間がかかるものを「はいそうですか」と簡単に頷いてたまるものか。
「私、別に早紀がいなくてもできるから」
 私が言い返したことに驚いたのか、次第に早紀の顔が歪んでいく。それと同時に、しんと静まり返った教室は、ほとんどのクラスメイトがこちらを注目していた。はた迷惑だといいたげな顔をする中で、心配そうに眉を下げる人もいる。
 私はクロッキー帳を持って席を立つと、足早に教室を出た。後ろで早紀がなにか叫んでいるけど、今更聞いてやる義理もない。
 廊下には別クラスの生徒が、談笑して十分もない休憩時間を楽しんでいれば、次の授業に向かうために教科書を抱えている生徒もいる。重い空気を漂わせていたのは、あの教室だけだった。