しかも掘り返してほしくない、中学時代の話。なぜ先輩が知っているのか。
急に黙り込んだ私を見て、高嶺先輩が焦り出す。
「あれ、もしかして聞いちゃいけなかった?」
「……絵が描けるお二人に見せられるほどのものではありません」
「俺と高嶺が気にすると思うか?」
「私が気にします!」
私は肩を落として項垂れ、座っている椅子の背もたれがしなる音がした。この椅子もじきに壊れてしまうかもしれないなどと考える傍らで、脳裏に浮かんだのは入賞したという私の描いた水彩画だった。
中学の頃、授業の一環で写生大会が行われ、町から山へと続く道なりを描いたことがある。それが知らぬ間に県主催のコンクールに提出されており、数ヵ月経ったある日の朝礼で入賞者が発表された。中学生の部門とはいえ、入賞するとは思っていなかった私は、教頭先生から名前を呼ばれ、優秀賞と書かれた賞状を受け取った後も実感が湧かなかった。
時間が経てば喜びを噛み締めることができるのではと思っていたけど、その直後から嫌味を言う早紀を無視し続けていたこともあってすっかり抜け落ちていた。早紀がその時に何を言っていたかは覚えていない。周りのクラスメイトが引いていたから、きっとろくなことじゃなかったのだろう。思えばその時に「ものに執着しない」ことを自覚したのかもしれない。
「高嶺先輩はどこでその話を?」
「どこって、そもそも浅野の名前をどこかで見たなーってところから始まるんだけど。あのコンクールは一定期間、ショッピングモールの広場に飾られることになってるの知ってた? ちょうどその頃に友達と映画観に行ったことがあって、そこで見かけたんだ。建物と足元に咲いた花との遠近法が良かったって講評付きで。それを思い出して、ちょっとネット調べていたらヒットしたってわけ」
「ネットに上がっていたんですか?」
「最優秀賞の絵はあったけど、浅野の優秀賞は名前だけだったね。もしかしたらあるかもしれない」
ああ、最悪。自分でも描いたことをつい先程まで忘れていたのに。
すると香椎先輩が突然立ち上がって、つい最近整理したばかりの棚から新品のクロッキー帳と鉛筆を取り出した。鉛筆は最近削ったばかりなのか、先端が整えられ、透明なキャップでカバーされている。クロッキー帳の中身をパラパラと捲って確認してから、鉛筆と揃えて私の前に差し出した。
香椎先輩は無言ながらも、描けとでも言っているかのようにじっと私を見てくる。
「わ、私は描けません。下手ですし、見せられるほどのものじゃ……」
しどろもどろに言い訳をして目線を逸らす。頭の上で小さく溜息が聞こえた。
「浅野の言う『絵が描ける』って、上手いか下手しかないのか?」
香椎先輩の言葉におそるおそる目をむければ、いつも無表情な先輩が苛立っているように見えた。
「パブロ・ピカソの『夢』や『泣く女』みたいに、パッと見たときに首を曲げて見たり、不思議だと思う絵は下手か? 幼稚園児が『僕のパパとママ』と題した、クレヨンで描いたもじゃもじゃの物体を見て上手いと思うか?」
「えっと……」
「同じ人間なんていないし、表現は自由だ。だから上手くても下手でも良いんだよ。それ見て共感する奴が一人でもいればいいし、逆に一人もいなければそれでもいい。描く理由は人それぞれ違っていて、自分が良いと思ったからカンバスに描いただけのこと。だから気にすんな」
「そう言われましても……」
私にはしっくり来なかった。日頃からカンバスの前に立つ香椎先輩と違って、私はただ遠くから見ているだけ。それがつまらないわけじゃない。カンバスに薄っすらと描かれた鉛筆の線が何なのか、一枚のカンバスがどの色で染まるのか、想像するだけで楽しい。
だからこそ、自分が描く側になった時を想像できなかった。
中学の時だってたまたま入賞しただけで、遠近法なんて手法を使ったつもりはなかった。もしかしたら、授業で習ったのが頭の片隅に朧げながらも残っていただけかもしない。それでも入賞したのは本当に偶然だったのだ。
沈黙が続く中、様子を伺っていた高嶺先輩が口を開いた。
「気付いてるか分からないけど、俺と香椎が描いてる時の浅野、ボーッとして見ているというより、いいなぁって顔しているんだよ」
「え……?」
「美術部に入ろうとしたのだって、『明日へ』の絵が見たかったとか、作者の香椎に会ってみたかった以外にも理由があったんじゃない? 自分が自覚してないだけでさ」
ハッとした。
確かに絵を見たいだけなら、絵のありかを聞けばいいだけの話だった。それでも非公認の美術部に入り浸っている私は、ただ居心地が良いだけじゃないなのかもしれない。自分のことなのにわかっていないけど、一つだけ確かなのは、差し出されたクロッキー帳に描いてみたいと思ったこと。
「なんとなくで始めて、合わなかったら捨てていい。でも俺は、お前が最後のページまで使い切るような気がする」
「……香椎先輩、それは断りにくいです」
「断りにくくしてんだよ」
先輩にそこまで言われてしまっては、一ページだけでも埋めなければと思ってしまう。
差し出されたクロッキー帳と鉛筆に手を伸ばす。スケッチブックや画用紙と違って薄い紙を使っているそれは、デッサンをするのに適していると聞く。中学の時も授業で何度か触れたけど、あまり使わなかった気がする。家に帰ればまだ半分以上を残したクロッキー帳が眠っているはずだ。
「何を、描けばいいですか?」
顔を上げて問うと、香椎先輩は「何を今更」と言わんばかりに小さく笑った。
「自分の好きなものを好きに描けばいい。誰も咎めたりしねぇよ」
急に黙り込んだ私を見て、高嶺先輩が焦り出す。
「あれ、もしかして聞いちゃいけなかった?」
「……絵が描けるお二人に見せられるほどのものではありません」
「俺と高嶺が気にすると思うか?」
「私が気にします!」
私は肩を落として項垂れ、座っている椅子の背もたれがしなる音がした。この椅子もじきに壊れてしまうかもしれないなどと考える傍らで、脳裏に浮かんだのは入賞したという私の描いた水彩画だった。
中学の頃、授業の一環で写生大会が行われ、町から山へと続く道なりを描いたことがある。それが知らぬ間に県主催のコンクールに提出されており、数ヵ月経ったある日の朝礼で入賞者が発表された。中学生の部門とはいえ、入賞するとは思っていなかった私は、教頭先生から名前を呼ばれ、優秀賞と書かれた賞状を受け取った後も実感が湧かなかった。
時間が経てば喜びを噛み締めることができるのではと思っていたけど、その直後から嫌味を言う早紀を無視し続けていたこともあってすっかり抜け落ちていた。早紀がその時に何を言っていたかは覚えていない。周りのクラスメイトが引いていたから、きっとろくなことじゃなかったのだろう。思えばその時に「ものに執着しない」ことを自覚したのかもしれない。
「高嶺先輩はどこでその話を?」
「どこって、そもそも浅野の名前をどこかで見たなーってところから始まるんだけど。あのコンクールは一定期間、ショッピングモールの広場に飾られることになってるの知ってた? ちょうどその頃に友達と映画観に行ったことがあって、そこで見かけたんだ。建物と足元に咲いた花との遠近法が良かったって講評付きで。それを思い出して、ちょっとネット調べていたらヒットしたってわけ」
「ネットに上がっていたんですか?」
「最優秀賞の絵はあったけど、浅野の優秀賞は名前だけだったね。もしかしたらあるかもしれない」
ああ、最悪。自分でも描いたことをつい先程まで忘れていたのに。
すると香椎先輩が突然立ち上がって、つい最近整理したばかりの棚から新品のクロッキー帳と鉛筆を取り出した。鉛筆は最近削ったばかりなのか、先端が整えられ、透明なキャップでカバーされている。クロッキー帳の中身をパラパラと捲って確認してから、鉛筆と揃えて私の前に差し出した。
香椎先輩は無言ながらも、描けとでも言っているかのようにじっと私を見てくる。
「わ、私は描けません。下手ですし、見せられるほどのものじゃ……」
しどろもどろに言い訳をして目線を逸らす。頭の上で小さく溜息が聞こえた。
「浅野の言う『絵が描ける』って、上手いか下手しかないのか?」
香椎先輩の言葉におそるおそる目をむければ、いつも無表情な先輩が苛立っているように見えた。
「パブロ・ピカソの『夢』や『泣く女』みたいに、パッと見たときに首を曲げて見たり、不思議だと思う絵は下手か? 幼稚園児が『僕のパパとママ』と題した、クレヨンで描いたもじゃもじゃの物体を見て上手いと思うか?」
「えっと……」
「同じ人間なんていないし、表現は自由だ。だから上手くても下手でも良いんだよ。それ見て共感する奴が一人でもいればいいし、逆に一人もいなければそれでもいい。描く理由は人それぞれ違っていて、自分が良いと思ったからカンバスに描いただけのこと。だから気にすんな」
「そう言われましても……」
私にはしっくり来なかった。日頃からカンバスの前に立つ香椎先輩と違って、私はただ遠くから見ているだけ。それがつまらないわけじゃない。カンバスに薄っすらと描かれた鉛筆の線が何なのか、一枚のカンバスがどの色で染まるのか、想像するだけで楽しい。
だからこそ、自分が描く側になった時を想像できなかった。
中学の時だってたまたま入賞しただけで、遠近法なんて手法を使ったつもりはなかった。もしかしたら、授業で習ったのが頭の片隅に朧げながらも残っていただけかもしない。それでも入賞したのは本当に偶然だったのだ。
沈黙が続く中、様子を伺っていた高嶺先輩が口を開いた。
「気付いてるか分からないけど、俺と香椎が描いてる時の浅野、ボーッとして見ているというより、いいなぁって顔しているんだよ」
「え……?」
「美術部に入ろうとしたのだって、『明日へ』の絵が見たかったとか、作者の香椎に会ってみたかった以外にも理由があったんじゃない? 自分が自覚してないだけでさ」
ハッとした。
確かに絵を見たいだけなら、絵のありかを聞けばいいだけの話だった。それでも非公認の美術部に入り浸っている私は、ただ居心地が良いだけじゃないなのかもしれない。自分のことなのにわかっていないけど、一つだけ確かなのは、差し出されたクロッキー帳に描いてみたいと思ったこと。
「なんとなくで始めて、合わなかったら捨てていい。でも俺は、お前が最後のページまで使い切るような気がする」
「……香椎先輩、それは断りにくいです」
「断りにくくしてんだよ」
先輩にそこまで言われてしまっては、一ページだけでも埋めなければと思ってしまう。
差し出されたクロッキー帳と鉛筆に手を伸ばす。スケッチブックや画用紙と違って薄い紙を使っているそれは、デッサンをするのに適していると聞く。中学の時も授業で何度か触れたけど、あまり使わなかった気がする。家に帰ればまだ半分以上を残したクロッキー帳が眠っているはずだ。
「何を、描けばいいですか?」
顔を上げて問うと、香椎先輩は「何を今更」と言わんばかりに小さく笑った。
「自分の好きなものを好きに描けばいい。誰も咎めたりしねぇよ」