この世界は君で彩られていく

 *
 
 昨年の文化祭に展示された『明日へ』は、理事長の遺言により展示後、息子夫婦の自宅へ置かれることになっていた。なんでもカンバス一枚を飾る場所を確保するために一時的に学校で預かっていたようだ。先週まで第八美術室に置かれていたが、学校側の恩情で今日までの一週間、展示ホールの中心に置かせてもらっていたという。展示ホールは荷物の搬入口として駐車所に近いこともあって、展示兼保管には最適な場所だった。
 第八美術室を後にした私たちは、展示ホールに向かった。未だ校内を把握しきれていない私は、先輩たちの後を追うので精一杯だった。
 その間、二人は何も喋ることはなかった。どこかピリッと張りつめた雰囲気に、緊張しているのかもしれない。
 階段を登って降りてを繰り返し、昼間に一度だけ通った廊下を抜けると、そこに展示ホールはあった。鍵はかかっていないようで、高嶺先輩がガラス戸を開く。それに続いて香椎先輩が入っていき、中に置かれたカンバスの前に立った。
「いつも開けっ放しだけど、絵が置いてある時くらいは鍵かけて欲しいよな。今度交渉してみるか」
「無駄だろ。どうせ警備員も学校の息がかかってんだから。損壊はしてないからいいけど、これで壊れてたら理事長に頼んで枕元に立ってもらえ」
「香椎先輩、その言い方はダメですって!」
 いくら冗談で言っていたとしても理事長に失礼だ。「悪かったって」と香椎先輩が言うけれど、悪い笑みは隠しきれていない。
「それよりも浅野、さっさとこっち来いよ。絵の前に落とし穴が掘られている訳じゃあるまいし、警戒する必要もねぇだろ」
「い、いえ! 私はここで大丈夫です!」
 香椎先輩に指摘されても、未だ入口で立ち止まっていた。昼休みの時に一瞬見えただけで胸が張り裂けそうになったのに、文化祭で見たときの距離に立ったらどうなってしまうのか。そんな私の異常な行動に、先輩たちは苦笑いを浮かべた。
「あ、浅野さん、もっと気楽でいいんだよ? そんな好きな人に告白するような反応されてもこっちが困るし」
「そう、ですけど……でも」
 そう言われたら余計に近付くことを躊躇ってしまう。まだ『明日へ』の絵の前に香椎先輩が立っていることが幸いして、この位置からは何も見えない。
 すると、香椎先輩がこちらに向かって歩いてくる。
「――これは……知り合いから聞いた話なんだけど」
「は、はい?」
「お前みたいに、絵に呑まれたっていう奴がいるんだ。美術館に展示してあった猫の絵だったらしいんだけど、繊細で細やかで、線の一本一本に目を奪われたんだと。それは電流が身体に駆け巡ったというより、心臓を貫かれたような感覚だったらしい。目が離せなくてじっと見入っていたら、周囲の声だけでなく、来場者が歩く靴底の擦れる音さえも聞こえなくなっていた。周りの空気が違うことに気付いた途端、絵の中にいるはずの猫が笑ったのを見て、思わず声が出て現実に戻ってきたって話だ。一緒に来ていた家族は、微動だにしない自分を心配して背中を何度も叩いた。何度声をかけても反応がなくて慌てたらしい」
「……それって」
「お前の話を聞いていたら、その感覚に似ているなって思った。絵にのめり込み、その情景を思い浮かべて、絵に込められた声が聞こえる。……なんか、いいよな。ただの妄想だったとしても、感性って人それぞれだから、何も間違っちゃいない」
 香椎先輩が目の前で止まり、目を細めてじっと私の目を見る。
「『明日へ』は息子夫婦が引き取ることになっているが、ずっと飾ってもらえるかは分からない。布に巻かれて日の当たらない薄暗い場所で、他の骨董品と一緒に永い眠りにつくかもしれない」
「え……?」
「理事長もわかってたうえで供養絵画を選んだ。あの絵が誰かの目に触れるのはこれが最期になるかもしれない」
「…………」
「聞いてやってくれ。もう一度、あの子の声を」
 香椎先輩が一歩横にずれると、私の正面にカンバスが現れた。周りに他の作品が並んでいないせいか、あの時のような浮いた印象はない。
 ようやく展示ホールに足を踏み入れ、おそるおそるカンバスの前に立つ。イーゼルの上に立てかけられた『明日へ』の絵は、半年前に初めて見たときと同じ希望に満ち溢れた世界に見えた。その中に描かれた、醜い部分を隠すように、泣き叫ぶ声を抑え込むほどきれいだった。
 さらにカンバスに近付けば、途端に遠くから警報の音が聞こえてきた。
 近くの建物に火がついて、逃げろ逃げろと泣き叫ぶ声が飛び交う。背を向けたときに漂ったあの苦い香りは、焼き焦げた匂いによく似ていた。
 周囲の混乱に呆然としていると、少女が目の前で転んだ。ボロボロの布に包んだ何かをしっかり抱きかかえ、無事かどうか確認してもう一度立ち上がる。
 周囲にある建物が崩れる音、何かが近くで落ちてきた音が重なってかき消されてしまう。黒煙が立ちのぼり、人々が逃げ惑う中、少女と目が合った。
 言葉が出てこないほど、少女はきれいに笑った。
「……伺ってもいいですか?」
 後ろで様子を伺っている二人の先輩に問いかける。すぐ隣に来たのは高嶺先輩だった。
「どうした?」
「理事長先生に、ご兄弟はいらっしゃいますか」
 あの日からずっと引っかかっていたことがある。カンバスに描かれた、花束を抱えた少女だ。
 平和の意味を持つ花――デイジー、コスモス、オリーブ、タンジーは戦時中に集められるほど簡単な花ではない。それが作者によるオリジナルだったとしても、同じ花を揃えるだけでよかったはずだ。複数にする必要はどこにもない。
 思えば花束の抱え方も不自然だ。いくら大きい花束だからといって、子ども一人を抱えているようにも見える。戦時中なら、自分の身で隠すように大切に抱えているのが子どもでもおかしくない。
 一瞬見えた、大切そうに抱えた布の中で眠る赤ん坊がいたのだって、見間違えなんかじゃない。
「弟さんが一人いるけど……なんでお前が知ってるんだ?」
 驚いた様子の高嶺先輩にさらに問う。
「今、その人どうされていますか……っ」
 どうか死なないで。忘れないで。――少女が私に向かって確かに言った。でもそれは私ではなく、抱きかかえた男の子に向けられたものかもしれない。
「……赤ん坊だった弟を理事長が親代わりで育てた話は生前聞いたことがある。戦争の時代を生き延びて、今は歴史博物館で館長しているよ。戦争を後世に残していくために、定期的に講演会も開いてる」
「……そうですか」
 少女が抱きかかえていたあの小さな子が、今も生きている。その事実にホッとし、途端に脚の力が抜けて立ち崩れた。自分でも気付かないうちに気を張っていたのかもしれない。
 慌てて高嶺先輩が駆け寄って背中を支えてくれた。
 「大丈夫か?」と心配そうに顔を覗き込んでくるけど、私はまだカンバスに目を向けたままでいた。
 忘れてはならない。伝えていかなければならない。――たとえそれが、綺麗事だったとしても。
 それを訴え続けた理事長の想いに触れたような気がして、気付けばボロボロと涙をこぼしていた。
「私、理事長先生に会ってみたかったです」
 私がそう言うと、先輩たちがそろって私の頭をガシガシと撫でまわした。

 ――その数分後、引き取りにきた息子夫婦がやってくると、目元が真っ赤に腫れた私を見て大層驚いていた。説明するには恥ずかしいので「花粉症です」と誤魔化したら納得してくれたけど、高嶺先輩だけが小さく笑っていた。
「引き取りが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。ようやく飾る場所が決まったので、やっと母を連れていけます」
「連れていける……ってことは、ご自宅に飾られるのではないんですか?」
 息子さんの言葉に高嶺先輩が問うと、気恥ずかしそうに笑った。
「実は、伯父の博物館に置いてもらえないか相談していたんです。母から絵について聞いたとき、自宅に飾るだけではもったいないと思って。僕らがいつかいなくなって、倉の中に片付けられてしまったら母が可哀想ですから。伯父の運営する博物館の中に、戦時中のものを集めた写真や古着が展示されているホールがありまして、そこに入れてもらうことになりました。……あなたのように、絵を見て何か感じとってくれる人がこの先も現れるかもしれないですから」
 あなた、と言って私のほうを見る。下手な嘘はとっくに見抜かれていたらしい。
 カンバスを梱包し、駐車場に停めていた車に乗せると、息子夫婦は礼を言って立ち去った。一度自宅に持ち帰り、明日また博物館へ持っていくのだという。
 遠くになるまで見送った私たちは駐車場から展示ホールへ戻る。その道中、校舎に入る手前で香椎先輩が急に立ち止まった。つられて私も、高嶺先輩も立ち止まる。
「香椎? どうした」
「……浅野さ、部活どうすんの?」
「え?」
 じろっと目だけを動かして、香椎先輩は私に問う。
「話を聞いてりゃ、担任にしつこく強要されてんだろ? バイトの日以外は高嶺のところに行くって言っとけばしばらくは大丈夫だろうが、お前さえよければ暇な時に第八美術室に顔を出しに来い」
「……えぇ!?」
 あまりにも唐突な提案に、思わず声が出てしまった。これには高嶺先輩も驚いていて「お、おい香椎!」と咎めた。
「正気か? 俺に巻き込むなって言ったくせに!」
「元はといえば、お前が巻き込んだんだから責任持てよ」
「そうだけど! 俺たちにとっては貴重な人材だし、このままにしておくのは勿体無いと思ってたけど」
「だろ。今なら紙パック代チャラにしてやってもいい」
「安い取引をするな! ……いいよ、わかった」
 乗り掛かった舟だ、と小さく肩を落とした。仕方がないと言いたげながらも、心なしか嬉しそうに見える。本日何度目かもわからない、困惑する私に高嶺先輩がいう。
「埃っぽいところに好んで来ると変な目で見られるかもだけど、それでもいいならおいで」
「……いいんですか?」
「いいよ。香椎がこんなに活き活きとしているのは久々だ。その礼はさせてほしい。……それと」
 高嶺先輩が香椎先輩と目配せすると、私に向かって同時に頭を下げた。
「あの絵を見つけてくれて、泣いてくれてありがとう」

 ――桜の花びら舞う、四月の空。こうして私が駆け込んだ世界は、胸にぽっかりと空いた穴を埋める優しさと、寂しさを残して別れを告げるとともに、新たな景色に小さく胸が高鳴った。
 顔に出ていたのか、笑みを隠せない私を見て、先輩たちも笑った。
 美術部を探し出し、思い焦がれた一枚のカンバスにさよならを告げてから、気付けば六月の梅雨入りが迫っていた。
 急に難しくなった授業と課題、いつも落ち着ているアルバイトも、祝日が重なる数日は大忙しで、あっという間に時間が過ぎていく。
 それを実感したのは悲しいことに、数学の授業で提示された問題の回答者に指名された時だった。名簿順のア行は、月の第一週目に必ず当てられる。仕方がないというか、運が悪いと言うべきなのか、中学からの付き合いである早紀は「幸が浅い」からだと言う。人の名前で遊ぶな。
 早紀との関係は相変わらずだが、担任の長谷川先生から演劇部への勧誘はあの日を境にぴたりと止んだ。どうやら高嶺先輩の仕業らしい。長谷川先生をはじめ、教師陣が生徒へ恐喝まがいな場面に居合わせると必ずスマホで録り溜めしているという。実際にあの日以来、先生から部活の話は出してこない。削除すると言ってパソコンに保存したデータの流出を懸念しているのか、ここまでくると高嶺先輩が先生を脅しているようにもみえる。それでもしつこい勧誘が続くよりはマシだと思い、私は見て見ぬふりをしている。
 それに対して早紀は、隙あらば入部したばかりのハンドボール部がいかに楽しいかを熱弁してくる。悪びれる様子もなく楽しそうに話す彼女に、私は今日も相槌を打つだけ。
「佐知、最近なんかいいことあった?」
 昼休みにお弁当を食べていると、ふいに早紀が問う。両手で持ったお手製のポテトサラダをレタスと食パンで挟んだサンドイッチは、彼女が頬張る度にレタスが押し出されている。
「いいことって、なんで?」
「最近、活き活きしているなって思って。いつも根暗なちぃちゃんがバイトの日以外は終わったらすぐ教室出ていくし。もしかしてデート? 相手は誰!?」
「勝手に話を広げないでよ……」
「別に広げてないよ? それくらいしか思いつかないんだもん」
 これで悪気ないから余計に腹が立つ。
 思わずムッとしたのをどうにかして抑え込んで、ブロッコリーを口に頬張る。少し塩辛く感じたのは、茹でる時に入れすぎた塩のせいだ。
「結局絵の作者も見つからないままなんでしょ? 私、ハンド部の先輩にそれとなく聞いてみたんだけどさ、気になるなんて変人だねって笑われちゃった。そんなに変な人なの?」
「……早く食べないと次の授業間に合わないよ、早紀」
「あー! 今明らかに話を逸らしたよね? 見つけたの!?」
「逸らしてないって。ほら」
 口をとがらせて拗ねた顔をする早紀にスマホの画面を見せる。初期設定のシンプルな壁紙の真ん中に置かれたアナログ時計は、秒針が止まることなく進んでいく。あと五分もしないうちに昼休みが終わってしまうと気付くと、早紀は慌ててサンドイッチを口へ押し込んだ。私も食べ終えた弁当箱を仕舞っていると、早紀が言う。
「佐知、スマホに通知来てるよ?」
「え?」
 画面を見れば、左上に通知のアイコンが表示されていた。タップして確認すれば、「美術部」と名付けられたグループのトーク画面が現れる。高嶺先輩からだった。
『今日の放課後は全員集合!』
 つい先日、連絡先を交換した時にグループトークに入れられたのを思い出す。先輩との関わりがほとんどない私にはとても新鮮だった。画面をしばらく見ていると、香椎先輩から『了解』と素っ気ないメッセージが送られてくる。続けて高嶺先輩からキャラクターが変顔しているスタンプが送られてきて、思わず吹き出しそうになる。
「……ねぇ佐知、やっぱりいいことあったでしょ?」
「別にないよ」
「いーや! その顔は絶対ある! 長年の付き合いで親友である私が断言する!」
 いつ私は早紀の親友になったのか。そんな毒がこぼれてしまいそうになって、慌てて画面に視線を戻す。『了解です』と歌う猫のスタンプを送ると、すぐに二件の既読がついた。また早紀に茶化される前に、空になった弁当箱を鞄に戻しながら顔を背けた。
 その日の放課後、颯爽と部活に向かう早紀を見送ってから第八美術室に向かった。道中には芸術コースの生徒が作業している姿が見受けられた。場違いな私など目に止めることなく、懸命に打ち込む姿は美しいとさえ思う。
 睨まれる前にその場を離れ、さらに奥の方へ進んでいく。「第八美術室」と掲げられた教室の戸をゆっくり開いた。入ってすぐに埃っぽい空気に肌がひりついた。その中心にはすでにカンバスの前に立って鉛筆を走らせる香椎先輩がいた。
 私が入ってきたことに気付いたのか、目線だけをこちらに向けられた。相変わらず睨みつけるように目を細めると、「ああ」となぜか安堵したように頬を緩めた。
「浅野か。早かったな」
「ホームルームが副担任の先生だったので、いつもより少し早く終わったんです」
 担任の長谷川先生はよく自分の自慢話をする。それがいつも放課後のホームルームで、時間いっぱいまで使うから、部活に向かう生徒からはブーイングばかりきていた。今日は午後から出張のようで、代わりに教卓に立った副担任の先生が「今日はさっさと終わらせましょう!」と嫌味を言って生徒を笑わせていた。
 香椎先輩も昨年は長谷川先生の授業を受けていたようで、話を聞いて嫌そうな顔をした。
「怠かった記憶しかねぇな。ろくに授業もしてなかった気がする」
「あはは……そ、そういえば高嶺先輩は?」
「担任に呼び出されてた。もう少ししたら来るだろ。いつものところでいいか?」
 あの日以来、私はバイトがない日の放課後に第八美術室に行くのが習慣づいた。といっても、先輩たちが描いているのをずっと見ているだけ。出入り口に入ってすぐに用意された椅子は、いつしか私の特等席となっていた。
 使われなくなったカンバスやイーゼルが詰め込まれたこの教室で、非公認であるが故にコンク―ルへの出展もできないこともあって、それぞれの時間を過ごしている。
 イラストが得意だという香椎先輩は、亡き理事長先生の遺灰を絵の具に混ぜて描いた『明日へ』を描いて以来、カンバスで描くことが増えたらしい。
 鉛筆の下描きに時間をかけ、誰も見ていないであろう隅まで細かく描き込み、それから色を決め、絵に合わせた灰と混ぜて塗っていく。『明日へ』でも同様に、アクリル絵の具の下に隠れた下描きがギリギリ見える色の濃さに調節しているのは、一番見せたい箇所だけに限定しているという。だから先輩の絵を見る時はいつも目がしばしばする。端から端までしっかり見ようと意識してしまうからだ。 高嶺先輩はいつも持ち歩いているスケッチブックにひたすらに描いている。イーゼルに立てかけるのではなく自分で抱えるように持ち、高さのある椅子に座って片足を折り曲げて描くのが、高嶺先輩の一番書きやすい恰好らしい。先輩のお気に入りは物置状態の第八美術室を描いたデッサンだという。何段にも積み重ねたカンバスが寂しげに描かれているのが印象的だった。他には人物像や動物といった動きのあるスケッチが多い。本人曰く苦手らしいが、それを感じさせないほどの躍動感に感動すら覚える。
 私が美術室の端に置かれた椅子に座って、しばらく香椎先輩がカンバスに描き込んでいるのを眺めていると、高嶺先輩が慌てた様子で美術室へ入ってきた。しなる音を無視して強引に閉めた戸は、そろそろ亀裂が入ってしまうのではないかと内心ヒヤヒヤする。
「悪い、遅れた! 浅野も来てたか」
「こ、こんにちは」
「珍しく長かったな、高嶺」
「それがさー聞いてくれよ!」
 荷物を近くに置いて行儀悪く机に乗ると、香椎先輩は鉛筆を置いて椅子を引っ張ってきた。私も椅子を持っていき、やけにげっそりとした様子の高嶺先輩の近くに座った。
「ウチのクラス担任に、今年の文化祭の展示会に美術部として一点だけでも出せないか頼んでみたんだよ」
「呼び出されてたんじゃないのかよ。呆れてただろ」
「呆れるどころか、ふんぞり返ってカンカンに怒ってたよ。終いには『お前は教師の弱みを握っているから信用ならん!』……とか言われてさ。あーあ、悲しいなー」
「自業自得だな」
「ちょっと! 香椎は俺の味方でしょーが!」
「完全に教師からの信用を失くしてる奴をどう味方しろってんだ。何の為の交渉役だよ」
「武器は多く持っていた方がいいに決まってるだろ」
「持ちすぎるのも毒だっての。……で、結局どうだった?」
「一枠あったら喜べってさ」
「ないな」
 先が見えたのか、香椎先輩が面倒臭そうに溜息をついた。教師どころか学校に嫌われ、存在しないことになっている美術部に、作品をお披露目をする場はない。
「つか、なんで逆に交渉しようとしてんだよ。進路の話は?」
「それはそれ、これはこれ。ちゃんと本題を解決したうえで文化祭の話してんだから」
「で、怒られたと」
「あの……先生たちは美術部の活動を良く思っていないんじゃ……」
「ん? ああ、俺たちのクラス担任は別。美術部の顧問してもらってるし」
 言ってなかったっけ? と首をこてんと傾ける高嶺先輩を前に、私は驚いて言葉が出ない。顧問がいたこと自体初耳だ。でもよく考えれば、部員が五名と顧問教師一名がいれば部活として成立、生徒会から承認を得られるのだ。非公認でも部を名乗る以上、順当な手順を踏んでいるはず。
「学校の中でも悪い奴しかいないわけじゃない。それを生徒がどう上手く扱い、味方に引きずり込むか――使えるものは全部使うし、利用する」
「高嶺先輩が言うと、すごく悪いことに使いそうな感じがします……」
「違いねぇ」
 香椎先輩がククッと喉を鳴らすように笑うと、高嶺先輩は不貞腐れた顔をした。私も耐えられずに吹き出してしまう。高嶺先輩はさらに眉間にシワを寄せる。
「浅野、最近ようやく素が出てきたよね。言葉が刺々しいというか」
「えっ……ご、ごめんなさい!」
「いいぞ浅野、もっとやれ」
 私が美術部に顔を出すようになってしばらくすると、高嶺先輩は「浅野」と呼び捨てるようになった。緊張しい私を慣れさせるためだったのだろうが、私自身もいつの間にか、教室にいる時よりも心無しか居心地がいい。素が出ているのかは自分でもわからないけど、少なくとも美術部の二人といるときが一番気を張らずにいられる気がする。
「そういえば浅野、ずっと気になってたんだけどさ」
「へ?」
「中学の時に絵画コンクールで入賞してなかった?」
 ――だから、唐突に投げてくる話にどう返せばいいのか困ることも増えた。
 しかも掘り返してほしくない、中学時代の話。なぜ先輩が知っているのか。
 急に黙り込んだ私を見て、高嶺先輩が焦り出す。
「あれ、もしかして聞いちゃいけなかった?」
「……絵が描けるお二人に見せられるほどのものではありません」
「俺と高嶺が気にすると思うか?」
「私が気にします!」
 私は肩を落として項垂れ、座っている椅子の背もたれがしなる音がした。この椅子もじきに壊れてしまうかもしれないなどと考える傍らで、脳裏に浮かんだのは入賞したという私の描いた水彩画だった。
 中学の頃、授業の一環で写生大会が行われ、町から山へと続く道なりを描いたことがある。それが知らぬ間に県主催のコンクールに提出されており、数ヵ月経ったある日の朝礼で入賞者が発表された。中学生の部門とはいえ、入賞するとは思っていなかった私は、教頭先生から名前を呼ばれ、優秀賞と書かれた賞状を受け取った後も実感が湧かなかった。
 時間が経てば喜びを噛み締めることができるのではと思っていたけど、その直後から嫌味を言う早紀を無視し続けていたこともあってすっかり抜け落ちていた。早紀がその時に何を言っていたかは覚えていない。周りのクラスメイトが引いていたから、きっとろくなことじゃなかったのだろう。思えばその時に「ものに執着しない」ことを自覚したのかもしれない。
「高嶺先輩はどこでその話を?」
「どこって、そもそも浅野の名前をどこかで見たなーってところから始まるんだけど。あのコンクールは一定期間、ショッピングモールの広場に飾られることになってるの知ってた? ちょうどその頃に友達と映画観に行ったことがあって、そこで見かけたんだ。建物と足元に咲いた花との遠近法が良かったって講評付きで。それを思い出して、ちょっとネット調べていたらヒットしたってわけ」
「ネットに上がっていたんですか?」
「最優秀賞の絵はあったけど、浅野の優秀賞は名前だけだったね。もしかしたらあるかもしれない」
 ああ、最悪。自分でも描いたことをつい先程まで忘れていたのに。
 すると香椎先輩が突然立ち上がって、つい最近整理したばかりの棚から新品のクロッキー帳と鉛筆を取り出した。鉛筆は最近削ったばかりなのか、先端が整えられ、透明なキャップでカバーされている。クロッキー帳の中身をパラパラと捲って確認してから、鉛筆と揃えて私の前に差し出した。
 香椎先輩は無言ながらも、描けとでも言っているかのようにじっと私を見てくる。
「わ、私は描けません。下手ですし、見せられるほどのものじゃ……」
 しどろもどろに言い訳をして目線を逸らす。頭の上で小さく溜息が聞こえた。
「浅野の言う『絵が描ける』って、上手いか下手しかないのか?」
 香椎先輩の言葉におそるおそる目をむければ、いつも無表情な先輩が苛立っているように見えた。
「パブロ・ピカソの『夢』や『泣く女』みたいに、パッと見たときに首を曲げて見たり、不思議だと思う絵は下手か? 幼稚園児が『僕のパパとママ』と題した、クレヨンで描いたもじゃもじゃの物体を見て上手いと思うか?」
「えっと……」
「同じ人間なんていないし、表現は自由だ。だから上手くても下手でも良いんだよ。それ見て共感する奴が一人でもいればいいし、逆に一人もいなければそれでもいい。描く理由は人それぞれ違っていて、自分が良いと思ったからカンバスに描いただけのこと。だから気にすんな」
「そう言われましても……」
 私にはしっくり来なかった。日頃からカンバスの前に立つ香椎先輩と違って、私はただ遠くから見ているだけ。それがつまらないわけじゃない。カンバスに薄っすらと描かれた鉛筆の線が何なのか、一枚のカンバスがどの色で染まるのか、想像するだけで楽しい。
 だからこそ、自分が描く側になった時を想像できなかった。
 中学の時だってたまたま入賞しただけで、遠近法なんて手法を使ったつもりはなかった。もしかしたら、授業で習ったのが頭の片隅に朧げながらも残っていただけかもしない。それでも入賞したのは本当に偶然だったのだ。
 沈黙が続く中、様子を伺っていた高嶺先輩が口を開いた。
「気付いてるか分からないけど、俺と香椎が描いてる時の浅野、ボーッとして見ているというより、いいなぁって顔しているんだよ」
「え……?」
「美術部に入ろうとしたのだって、『明日へ』の絵が見たかったとか、作者の香椎に会ってみたかった以外にも理由があったんじゃない? 自分が自覚してないだけでさ」
 ハッとした。
 確かに絵を見たいだけなら、絵のありかを聞けばいいだけの話だった。それでも非公認の美術部に入り浸っている私は、ただ居心地が良いだけじゃないなのかもしれない。自分のことなのにわかっていないけど、一つだけ確かなのは、差し出されたクロッキー帳に描いてみたいと思ったこと。
「なんとなくで始めて、合わなかったら捨てていい。でも俺は、お前が最後のページまで使い切るような気がする」
「……香椎先輩、それは断りにくいです」
「断りにくくしてんだよ」
 先輩にそこまで言われてしまっては、一ページだけでも埋めなければと思ってしまう。
 差し出されたクロッキー帳と鉛筆に手を伸ばす。スケッチブックや画用紙と違って薄い紙を使っているそれは、デッサンをするのに適していると聞く。中学の時も授業で何度か触れたけど、あまり使わなかった気がする。家に帰ればまだ半分以上を残したクロッキー帳が眠っているはずだ。
「何を、描けばいいですか?」
 顔を上げて問うと、香椎先輩は「何を今更」と言わんばかりに小さく笑った。
「自分の好きなものを好きに描けばいい。誰も咎めたりしねぇよ」
 宿題が出された。
「好きなものを描いて来い」と、ざっくばらんに言う香椎先輩を横目に、高嶺先輩が楽しそうに口元を緩ませている。他人事だからとニヤニヤした笑みを浮かべる先輩を睨みつけると、さらに満面の笑みを浮かべた。コノヤロウ、と思ったのは内緒の話。
 それでも提出期限がないことだけは救いだった。一週間で仕上げろと言われたら、きっと焦って何も描けなかった気がする。
 その反面、悩ましいものでもあった。期限がない――だからこそ、好きなものが思いつかない。何かに執着することなく、流行に疎い私にはかなりの難問だった。
 とりあえずここ一週間の間、目に留まったものを描いてみることにした。
 庭先に咲いていたパンジーや、教室の黒板を消したっきりで掃除されていない、真っ白な黒板消しを描いてみたけれど、どうもしっくりこない。気付かないうちに上手く描こうと意識しているのかもしれない。それでも消しゴムで消したり、ページを破ることはしなかった。これも香椎先輩の言いつけで「後で見て笑う用で全部残しておけ」とのこと。
 ただの鬼畜でしかない。
「ちぃ、さっきから何してるの?」
 授業の合間にある休憩中にクロッキー帳を開いて考えていると、早紀が覗き込むようにしてやってきた。話す相手がいなかったらしい。
「うわぁ、懐かしー! なんでこんなの持ってるの?」
 許可を貰う前に、私の手からクロッキー帳を取り上げて適当に捲っていく。
 毎度のことながら、無意識で言葉を選ばない彼女に苛立ちを覚えるが、ぐっと堪える。
「別に持っててもいいでしょ」
「まぁそうだけど! もしかして、絵に目覚めちゃったとか?」
「目覚めたというか、ちょっと描いてみようかなって――」
「やめときなよ」
 パシン、と音を立ててクロッキー帳を閉じられた。
 思わず目を向けると、早紀は笑みを浮かべているにもかかわらず、目の奥が笑っていない。
「……早紀?」
「佐知って別に絵がすごい上手い訳じゃなかったじゃん。今更始めたって時間の無駄だよ」
 机に叩きつけるようにクロッキー帳を置く。そのはずみで開いたページには、最近描いたパンジーのスケッチがあった。しっくりこなかったとはいえ、久々にしては上手く描けた方だと思う。それが早紀や先輩たちに鼻で嗤われることになろうとも、何とも思わない――はずなのに。
「こんなの誰でも描けるよ。文化祭の絵が気になって入学したって言ってたけど、進学コースにしたのは自分に絵の才能がないってわかってたからでしょ? もしかして中学のコンクールで入賞したから自分も行けるって思った? あんなのまぐれだって自分でも言ってたじゃん。だって佐知は、私がいないと何もできないちぃちゃんでしょ?」
 何もできないちぃちゃん――そう言われて、コンクールで入賞した時のことを思い出した。
 賞状を貰って教室に戻る中、周りのクラスメイトからは「おめでとう」「すごいね」と祝福の言葉をかけられる中、早紀だけは違った。
 ――「佐知は私と一緒に描いてて、私の絵を盗み見て描いてたんだよ。気づいていないと思った? 本当、何もできないちぃちゃんだよね」
 早紀の話は誰も当てにしなかった。私が描いて入賞した絵は構図どころか、描かれた場所が異なっていることは一目見れば明白で、もちろん隣で描いた覚えもない。だからこの時、私は黙ったまま聞き流すことをしていた。
「たかが絵に魅了されたってだけで、絵描きになれるなら誰だってなってるでしょ? 希望持ちすぎなんだよ。佐知は、私と一緒に何かする方がいいんだって」
 ああ、ダメだ。――これ以上、早紀の言葉を聞き流すことはできない。
「なぁに、その顔。睨んだって本当の事でしょう? 分かったら――」
「早紀は、偉いの?」
「え?」
「私のやりたいこと全部を否定できるほど、早紀はそんなに偉いの?」
 早紀にとって、このクロッキー帳は紙切れにしかすぎないのかもしれない。
 それでも何かに執着せず、流行に疎い私にとって、自分で考える初めての「好きなもの」を映す鏡なのだ。それを無下に扱い、『明日へ』に込められた絵の意味も知らない彼女に、知ったような口で話してほしくない。私の好きなものに触れないでほしいとさえ思う。
 誰も傷つかない言葉を選ぶのが難しいように、他人の物差しで計った価値観を押し付けられて、素直に肯定することは難しい。理解することさえ時間がかかるものを「はいそうですか」と簡単に頷いてたまるものか。
「私、別に早紀がいなくてもできるから」
 私が言い返したことに驚いたのか、次第に早紀の顔が歪んでいく。それと同時に、しんと静まり返った教室は、ほとんどのクラスメイトがこちらを注目していた。はた迷惑だといいたげな顔をする中で、心配そうに眉を下げる人もいる。
 私はクロッキー帳を持って席を立つと、足早に教室を出た。後ろで早紀がなにか叫んでいるけど、今更聞いてやる義理もない。
 廊下には別クラスの生徒が、談笑して十分もない休憩時間を楽しんでいれば、次の授業に向かうために教科書を抱えている生徒もいる。重い空気を漂わせていたのは、あの教室だけだった。

 授業開始のチャイムが校内に響く頃、無意識ながらも第八美術室へのルートを辿っていた。
 今行ったところで誰もいないし、おそらく鍵も空いていない。途中で芸術コースの生徒と鉢合わせしたら、どんな顔されるだろう。
 ……今に始まったことではないし、どうでもいいけど。
 かといって、また教室に戻って授業を受けても、いつかのように早紀からの手紙が回ってくる気がした。
 そういえばあの手紙、なんて返したんだっけ? ……ダメだ、興味がなさすぎて思い出せない。
「浅野? こんなところで何してるんだ?」
 うだうだ考えていると、聞き慣れた声がした。生物の教科書を抱え、黒縁フレームの眼鏡をかけている香椎先輩だ。見慣れなくて一瞬誰だかわからなかった。
「未知の生物と遭遇した顔してんじゃねぇよ。お前、授業は?」
「……ま、迷子! 迷子です!」
「はぁ?」
「ほら、校内って広いじゃないですか、ちょっと歩いたら帰り道が分からなくなってしまってー……なんて、あ、ははは!」
 我ながら下手な誤魔化し方をしたと思う。しかも相手は香椎先輩だ。通じるわけがない。
 しかし、私の慌てようを察したのか、先輩は呆れたように溜息をつくと、「ついてこい」とだけ言って美術室の方へ足を向けた。
 何も聞いてこないのは先輩の優しさなのか、呆然としていると振り返っては私がついてきているかを確認する。慌てて駆け寄って隣に並べば、見計らったように歩き出した。高嶺先輩とたいして身長も変わらないのに、私に歩幅を合わせてくれている。
「先輩、授業は? 移動教室だったんじゃないんですか?」
「終わった。次の授業は教室で座学。怠い」
 三年生の教室は三階にある。きっと授業終わりに通りがかったところだったのだろう。
 ……チャイムはもう鳴っているのに? 
 いくら移動教室だったとしても、教室に戻るのが遅すぎやしないか。
「でも疲れたから休んでく。お前も付き合えよ」
 返事を返す間もなく、第八美術室についてしまった。手慣れたように戸を引けば、またミシッと音がした。鍵は四六時中かけていないらしい。真ん中のぽっかり空いた空間に椅子を引っ張っていくと、先輩が教科書とかけていた眼鏡を近くの机に置いて持ってきた椅子に座る。いつもの香椎先輩に内心ホッとした。
「それで?」
「え? それで、とは?」
「とぼけんな。一年生が校内を迷子になって授業サボってるって、学年主任に告げ口する前に何があったか言え」
「うわぁ……完全に恐喝ですよ、それ」
「言ってろ。ただでさえ真面目な浅野が授業中に出歩いてるのを見てこっちは驚いてんだよ」
 さすがに嘘ですよね。――と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込む。相変わらず仏頂面の香椎先輩だが、目が笑っていない。先輩の言う通り、まだ入学して三ヶ月そこらの一年生が授業をサボっているのは問題だろう。
 それにただでさえ美術部と関わっている私は、長谷川先生のブラックリスト入りを果たしていたことをつい先日知ったばかりだ。高嶺先輩はあの恐喝動画を消さなかったのは、美術部を関連したことで問題が起きたときに自分の身だけでなく、香椎先輩と私を守るためだという。
「安心しろ。高嶺には言ってねぇし、警備員も教師も第八美術室には来ない。だから話せ」
「……言いたくない場合は?」
「授業が終わるまでここに居ろ。戻ったら俺に付き添ってたって答えとけ」
 そんな言い訳が通ったら仮病の使い放題じゃないか。
 いつになく自由な香椎先輩に翻弄されている気がする。すると、先輩はずいっと私の前に手を差し出した。
「な、なんですか?」
「中間報告。描いてるんだろ?」
「なんで……」
「クロッキー帳の表紙に鉛筆で擦った痕があるから。ちょっと歪んでるし」
 早く、と急かすので、私は渋々クロッキー帳を渡した。まだページの半分も進んでいない。それでも先輩は表紙から丁寧に、まるで読み聞かせの絵本を扱うようにゆっくりと優しい手つきで一枚ずつ捲っていく。好きなものを描けと言われて描いたものは、どれもしっくりこないものばかり。多少上手く描けたといえば、庭先のパンジーくらいだ。それでも一ページずつ吟味する真剣な表情から、先輩なら何か感じ取ってくれるのではと期待してしまう自分がいる。
 しばらく沈黙の時間が流れ、パンジーのページを私に見せるようにして開くと、香椎先輩は問う。
「このパンジー、お前の家に咲いているのか?」
「はい……って、わかるんですか?」
「縁側とか、ゆっくり落ち着けるところで描いたってところか。こっちの黒板消しは教室だな。入学してまだクラスにはまだ馴染めてないのか。……いや、授業中に隠れて描いてたようにも見える。どっち?」
「な、なんで描いた場所まで……」
 私はクロッキー帳に描いた絵の横には日付だけを残している。だから先輩が私がどの場所で、どんな状況で描いていたなど知る由もない。
「線の入れ方、筆圧、感情の乗せ方……すべてが違う。見ればわかる。それで、この黒板消しはどっちだ?」
「……ご想像にお任せします」
「浅野のいう上手い下手は置いておいて、描いた奴の感情がわかりやすい。いい絵だ」
 そんなことがわかるのは香椎先輩くらいだろう。じろっと恨めしそうに見ると、先輩はフッと笑みを浮かべた。
「先輩は第六感でも持ってるんですか?」
「第六感? なんで?」
「察知能力が高いから」
「アホ抜かせ。……でも、欠けているから敏感になるんだろうな」
 先輩は自虐するように鼻で嗤うと、クロッキー帳を私に戻す。そんな寂しそうな顔を見てしまったら、何が欠けているのかと問うことはできない。まだ出会って三ヶ月程度の関係でわかるはずもない。それは高嶺先輩も同じだ。
 ――「いろいろ問題児なんだ、俺たち」
 芸術コースのために美術部を認めない学校の悪い印象が強くて、私には二人の先輩が問題児ではなく、革命家のような立ち位置にいるような気がしてならない。でもそれだけじゃないような気がして、少しばかり聞いてみたいと思ってしまった。私は自覚がないだけで、案外非常識で冷酷な性格をしているのかもしれない。
 すると、香椎先輩はイーゼルと書きかけのカンバスを所定の位置に持ってきた。
 鉛筆で描かれているのは、校庭のグラウンドの端に設置された木製のベンチとその風景。私が美術室に訪れた頃からずっと描き続けていた下描きだった。
「……そういえば、無くなっちゃうんでしたっけ」
 カンバスの中心に描かれたベンチは、二十年前に卒業生が製作したものだ。つい先日にあった大雨の際、近くの木に落ちた雷のせいで大破してしまった。今週中にも撤去される予定だと、今朝のホームルームで話が上がっていたのを思い出す。
「新しいベンチはアルミの素材を使っている。木の部分はない」
「……それが?」
「灰にしてやれないだろ」
 鉛筆で描いた線を、先輩は愛おしそうに指でそっと撫でた。 
 それからしばらくして授業終了のチャイムが流れると、香椎先輩と一緒に美術室を出る。
 教室に戻っても誰も私に目を向けることはしなかった。早紀でさえ口をとがらせてそっぽを向いていた。
 その後、担任の長谷川先生に咎められたけど、言われた通り「香椎先輩に付き添っていた」と伝えれば、苦虫を噛んだ顔をして許してもらった。なぜこの言い訳で通用するのかは分からないけど、また先輩に弱みを握られているんだろうと、その時は思っていた。
 ***

 入学当初からずっと私にひっついてきた早紀は、クラスのグループに混ざるようになった。まるで私への当てつけのように友達との会話が教室中に響いている。それが羨ましいとは正直思えなくて、教室で一人、机に突っ伏して寝たふりをするか、適当に持ってきた本を呼んでで授業までの時間を潰している。
 クロッキー帳は教室に早紀がいるときに開くのを躊躇っていた。また取り上げられて、笑われたらたまったものじゃない。
 それから一週間が過ぎた。ホームルームが終わって向かった第八音楽室は珍しく一番乗りだった。案の定、鍵はかかっていない。
 私はいつの間にか、美術部にいる時間が楽しみになっていた。ふと思い立って、入学当初に全員に配られた入部届の希望欄に美術部と自分の名前を書いて、お守り代わりにクロッキー帳の後ろに貼り付けている。入れなくても同じ時間が共有できるだけでいい。だから、誰もいない美術室にいることにドキドキした。
 入ってすぐにやるのは、空気の入れ替える作業。警備員も教師も立ち寄らない美術室は、物置同然の扱いで掃除もろくにできていない。棚だけでなく、床に並べられたイーゼルや額縁に溜まりっぱなしの埃は、つい先日三人で大掃除をしてようやくきれいになった。「面倒だったから」と今までやってこなかったことを聞いて、私から動いた。それでも建物の構造上の問題で風の通りが悪く、一番乗りで入ってきた人が換気をするようにしていた。
 空気の入れ替えには時間がかかる。先輩たちはホームルームが長引いているのか、未だ連絡もない。
「……よし」
 鞄からクロッキー帳を取り出して、床に座り込む。
 椅子に座って描いているよりも、体育座りして描いた方が自分には合っているのだと気付いてからはずっとこの体勢だ。クロッキー帳の新しいページを開くと、描く位置を確認してから線を引く。ホームルームが早く終わったときから、今日は部屋の中心に置かれたイーゼルとカンバスを描こうと決めていた。
 香椎先輩はここに来ると、いつも決まってカンバスの前に立って描く。片付けずにそのまま帰るから、最低限の整頓しかされていない。それが先輩のスタイルのようで、高嶺先輩も片付けようとはしない。もちろん、一応部外者である私も触れたことはない。普段見えない部分は、美術室に一番乗りしたときにしか見れない。この機会を逃すわけにはいかないのだ。
 近くの机に並べられた絵の具とパレット、数種類の筆。その近くで使い込んだ2Hの鉛筆が数本転がっている。どれも香椎先輩が描くときに使う道具だ。
 ふと、香椎先輩に連れられて授業をサボった日のことを思い出した。
 あの時の先輩は珍しい眼鏡姿だったけど、美術室に着くなりすぐ外していた。授業の時だけとかならわかるけど、普段かけていなければ移動する前に外しているのではないか。それとも、絵と向き合っているときだけ外しているのか。私は生まれてからずっと裸眼のため、眼鏡をかけて生活をしたことがないが、レンズ一枚が対象物との間に入ることで、見え方が変わることがあってもおかしくない。絵ならば特に、だ。
 手を止めて考えていると、美術室の戸がいつものようにしなりながら開いた。鞄とスケッチブックを持った高嶺先輩だ。
「おっ! 浅野、早いな」
 換気してくれたのか、と開いた窓から入ってくる風でなびいたカーテンをおさえる。普段は高嶺先輩がしているのだろう。
「助かったよ、ありがとう。遅くなって悪かった」
「いえ……あれ? 香椎先輩は一緒じゃないんですか?」 
「ああ、香椎は今日、通院の日だから帰ったよ」
「通院?」
 繰り返して問うと、高嶺先輩はしまった、と顔を歪めた。
「……聞かなかったことにしたほうがいいですか?」
「いや、その……」
 高嶺先輩はうーんと唸りながら自分の荷物を下ろし、近くの椅子を引っ張ってくる。私も立ち上がって先輩の近くの椅子に座った。しばらく躊躇っていたが、渋々口を開いた。
「本当は俺の口から話すことじゃないんだけど……最近一緒にいること多いし、最悪のケースを考えて浅野にも教えておく。ただし、他言無用で頼むな」
「は、はい」
 高嶺先輩は一呼吸置いてから、私を真っ直ぐ見据えた。
「香椎、目があまり良く見えないんだ」
「……え?」
「網膜色素変性症っていう目の病気でさ、夜盲症から始まって次第に視野が狭くなって視力低下し、色覚異常の症状が出てくる。個人差があるが、今の香椎は見える範囲が狭くなりつつあるんだ。特に最近は絵に没頭することが増えたからか、めまいまで起こしてる」
「視力が低下する病気……それって」
「完全に失明する事例は二五〇人に一人程度。可能性はかなり低いと言われてれる。……けど」
 いつになく真剣な表情で、高嶺先輩は私に現実を叩きつける。

「アイツはその一人に選ばれた。あと二年もしないうちに失明するらしい」
 言葉を失う、とはこのことかと痛感する。
 ふいに視界に入ったイーゼルの前に、渦中の人である香椎先輩の姿が見えた気がした。目を細めながらも真剣に、丁寧に鉛筆で線を引いている姿が、この先もずっとあるものだと思い込んでいたのは私だけだった。
 信じたくないと顔に出ていたのか、高嶺先輩はいう。
「嘘じゃないから、浅野に話したんだよ」
 高嶺先輩の声が小さく震えていたのを聞き逃さなかった。
「浅野が初めて第八美術室にきたときのこと、覚えてる?」
「……はい」
 何も知らされずにやってきた私に、香椎先輩が異常な距離感で顔を覗き込んできたことは今も鮮明に覚えている。頭を固定されて身動きが取れない中、頬が当たる寸前で止まってじっと見ていたことも、アクリル絵の具の匂いが鼻をかすめたことも、急に上がった心拍の音も忘れられない。
「眼鏡がない時は顔の輪郭くらいしかわからなくて、一つ一つのパーツが見えていない。だから関わることがある人とは、いつもあの距離で顔を確認しているんだ。目で見えない分は手のひらの感触で確かめていることもある」
 あの時、驚いてむせていた私を介抱しながら、高嶺先輩は「香椎は顔を覚えられない」と濁していた。でも実際は、あの距離でなければ香椎先輩は私を認識できなかったのだ。
 先日『欠けているから敏感なのかもしれない』と自嘲気味に言っていたのは、視力が欠けた分、他の感覚で補っていたということ。先輩にとって第六感は、視力をカバーするために必要なものだった。
 高嶺先輩はさらに続けた。
「急にこんな話してごめんな。もう浅野と会ってしばらく経つのに、アイツの通院とお前のバイトの日がいつも被ってたから、すっかり気が緩んでた」
「……どうして私に話してくれたんですか? 今のだって誤魔化せましたよね?」
 すぐに何でもないとはぐらかしてくれたなら、高嶺先輩は打ち明ける必要が無かったし、私だって聞き流していただろう。
「いずれは話していたよ。それが今日だったってだけの話さ」
「本当ですか?」
「香椎が失明するまでの時間は、高校に入学する前から伝えられていた。もちろん、完治した人だっている病気だ。治療を続けていけば失明の手前で免れるかもしれないとも言われている。香椎だって、それを防ぐために通院しているんだ。最初から諦めてない」
 まるで自分に言い聞かせているような口ぶりだった。他人だとしても、普段から近くにいる人が急に消えてしまうことに恐怖を覚えるのと同じように、香椎先輩が失明する事実に目を背けたくてもおかしい話ではないのだ。
 だとしたら私は知らなかったとはいえ、酷いことを言ってしまった。
「私、この間香椎先輩に……」
「聞いたよ。第六感を持ってるんじゃないかって言ったんだって?」
 高嶺先輩が失笑しながら言う。
「アイツは気にしてないよ。褒め言葉だって受け取ってた。絵を見て触れただけで、絵の作者が描いている場所やその時の感情を読み取るとかに日常的にやってるし」
「でも!」
「悪気があって言ったことじゃないのは、香椎だってわかってる。そう重く捉えないで」
 小さな言葉で人は深く傷つくことを、私は知っている。いくら無意識だったとしても、生きている間はずっと背中に刺さっているのだ。「私がいないと何もできないちぃちゃん」と早紀が私にずっと言い続けるように、聞き流しても取れない棘はいくらでもある。卑屈な言葉で傷つける側の化け物に、なりたくなかった。
 耐え切れず先輩から目を逸らして俯いた。美術室の沈黙があんなに心地良いと思っていたのに、ずんと沈んだ空気で満ちる。
 すると、高嶺先輩は目線を私に合わせて言う。
「言葉は時に人を救い、時に傷つける。そんな道具を人が使い続ける以上、この世界から言葉の暴力がなくなることはない。全部背中に刺さったまま、生きていくしかないんだよ」
 否定された美術室、問題児扱い――高嶺先輩だってずっと誰かを傷つけ、誰かに傷つけられてきた。
 いや、この世界に誰一人傷つけずに人生を終える人間はいないのではないか。それは誰も口にしないだけで、生きる上での暗黙の了解として成立している。理由に納得できない小学生の気分になる。
「だーかーら! 浅野はいつも通りに香椎と接してやってくれないか? アイツ、お前のこと気に入ってるみたいだし」
「……香椎先輩が?」
「あんなに至近距離で確認していたのを久々に見たよ。『明日へ』を見て入学してきた話をする前にも関わらずだ。浅野って、なんでもかんでも溜め込んじゃうタイプだろ?」
「うっ……」
「だからクロッキー帳を渡したんじゃないかな。絵を描くことで気持ちを落ち着かせて、集中することで頭の中をクリアにするって、前に香椎が言ってたんだ。上手くいかない時はブツブツ呟いてるし。そうそう、あの時もすごかった。数学の授業で図形の面積を求める問題があって――」
 授業中の香椎先輩のとんでも話がニ、三個続く。香椎先輩の話をするときの高嶺先輩の表情はいつも活き活きとしている。自分のことのように自慢気に話すのは早紀と変わらないのに、先輩からは香椎先輩へのリスペクトを感じた。それは逆もしかり、香椎先輩と二人で話しているときは必ずと言っていいほど、高嶺先輩の名前が上がっている。
 ひとしきり笑ったところで、先輩は描きかけになっているクロッキー帳に目を向けた。
「浅野、俺たちの前でも描くようになったな」
「……そう、ですね。スケッチだけですけど」
「やっぱり香椎の言った通りだった」
「え?」
「クロッキー帳を渡したとき、かなり強引だっただろ。さすがに不躾しすぎだって言ったら、『他人に欠陥品だと決めつけられるのは誰だって嫌だろ』ってさ」
 以前「私の絵は下手」だと言った際、香椎先輩の表情が歪んだのを思い出した。たかが一回の入賞というだけで「上手い」という認識で話を進める周りが嫌いだった。畳み掛けるように「何も出来ない人間」だと早紀に言われても聞き流すことしかしなかった。すべてが上手い下手だけで成立するものじゃないと、わかっていたつもりでいたのに、美術部の二人によって思い知らされたのだ。
 下手だろうが関係ない、絵が描きたい。
 知識がなくたって、落書きしかできなくたって、誰かに咎められることじゃない。法律を破り、刑務所に入れられるわけじゃない。衝動で志望校を変えたのだって、私が決めたことだ。
「きっと浅野は、今の自分から変わりたかったんじゃないかな。高校デビューとかそんな言葉を使う程簡単なものじゃなくて、自分のしたいことを見つけるためにさ。……って俺の所見なんだけど、実際のところはどうなの?」
 表現は自由で、上手い下手もどうでも良い。他人の物差しで自分を図ろうとするのは愚かだ。
「……そうかも、しれません」
 小さく呟くと、高嶺先輩は満足そうに笑った。