その日の放課後、颯爽と部活に向かう早紀を見送ってから第八美術室に向かった。道中には芸術コースの生徒が作業している姿が見受けられた。場違いな私など目に止めることなく、懸命に打ち込む姿は美しいとさえ思う。
睨まれる前にその場を離れ、さらに奥の方へ進んでいく。「第八美術室」と掲げられた教室の戸をゆっくり開いた。入ってすぐに埃っぽい空気に肌がひりついた。その中心にはすでにカンバスの前に立って鉛筆を走らせる香椎先輩がいた。
私が入ってきたことに気付いたのか、目線だけをこちらに向けられた。相変わらず睨みつけるように目を細めると、「ああ」となぜか安堵したように頬を緩めた。
「浅野か。早かったな」
「ホームルームが副担任の先生だったので、いつもより少し早く終わったんです」
担任の長谷川先生はよく自分の自慢話をする。それがいつも放課後のホームルームで、時間いっぱいまで使うから、部活に向かう生徒からはブーイングばかりきていた。今日は午後から出張のようで、代わりに教卓に立った副担任の先生が「今日はさっさと終わらせましょう!」と嫌味を言って生徒を笑わせていた。
香椎先輩も昨年は長谷川先生の授業を受けていたようで、話を聞いて嫌そうな顔をした。
「怠かった記憶しかねぇな。ろくに授業もしてなかった気がする」
「あはは……そ、そういえば高嶺先輩は?」
「担任に呼び出されてた。もう少ししたら来るだろ。いつものところでいいか?」
あの日以来、私はバイトがない日の放課後に第八美術室に行くのが習慣づいた。といっても、先輩たちが描いているのをずっと見ているだけ。出入り口に入ってすぐに用意された椅子は、いつしか私の特等席となっていた。
使われなくなったカンバスやイーゼルが詰め込まれたこの教室で、非公認であるが故にコンク―ルへの出展もできないこともあって、それぞれの時間を過ごしている。
イラストが得意だという香椎先輩は、亡き理事長先生の遺灰を絵の具に混ぜて描いた『明日へ』を描いて以来、カンバスで描くことが増えたらしい。
鉛筆の下描きに時間をかけ、誰も見ていないであろう隅まで細かく描き込み、それから色を決め、絵に合わせた灰と混ぜて塗っていく。『明日へ』でも同様に、アクリル絵の具の下に隠れた下描きがギリギリ見える色の濃さに調節しているのは、一番見せたい箇所だけに限定しているという。だから先輩の絵を見る時はいつも目がしばしばする。端から端までしっかり見ようと意識してしまうからだ。 高嶺先輩はいつも持ち歩いているスケッチブックにひたすらに描いている。イーゼルに立てかけるのではなく自分で抱えるように持ち、高さのある椅子に座って片足を折り曲げて描くのが、高嶺先輩の一番書きやすい恰好らしい。先輩のお気に入りは物置状態の第八美術室を描いたデッサンだという。何段にも積み重ねたカンバスが寂しげに描かれているのが印象的だった。他には人物像や動物といった動きのあるスケッチが多い。本人曰く苦手らしいが、それを感じさせないほどの躍動感に感動すら覚える。
私が美術室の端に置かれた椅子に座って、しばらく香椎先輩がカンバスに描き込んでいるのを眺めていると、高嶺先輩が慌てた様子で美術室へ入ってきた。しなる音を無視して強引に閉めた戸は、そろそろ亀裂が入ってしまうのではないかと内心ヒヤヒヤする。
「悪い、遅れた! 浅野も来てたか」
「こ、こんにちは」
「珍しく長かったな、高嶺」
「それがさー聞いてくれよ!」
荷物を近くに置いて行儀悪く机に乗ると、香椎先輩は鉛筆を置いて椅子を引っ張ってきた。私も椅子を持っていき、やけにげっそりとした様子の高嶺先輩の近くに座った。
「ウチのクラス担任に、今年の文化祭の展示会に美術部として一点だけでも出せないか頼んでみたんだよ」
「呼び出されてたんじゃないのかよ。呆れてただろ」
「呆れるどころか、ふんぞり返ってカンカンに怒ってたよ。終いには『お前は教師の弱みを握っているから信用ならん!』……とか言われてさ。あーあ、悲しいなー」
「自業自得だな」
「ちょっと! 香椎は俺の味方でしょーが!」
「完全に教師からの信用を失くしてる奴をどう味方しろってんだ。何の為の交渉役だよ」
「武器は多く持っていた方がいいに決まってるだろ」
「持ちすぎるのも毒だっての。……で、結局どうだった?」
「一枠あったら喜べってさ」
「ないな」
先が見えたのか、香椎先輩が面倒臭そうに溜息をついた。教師どころか学校に嫌われ、存在しないことになっている美術部に、作品をお披露目をする場はない。
「つか、なんで逆に交渉しようとしてんだよ。進路の話は?」
「それはそれ、これはこれ。ちゃんと本題を解決したうえで文化祭の話してんだから」
「で、怒られたと」
「あの……先生たちは美術部の活動を良く思っていないんじゃ……」
「ん? ああ、俺たちのクラス担任は別。美術部の顧問してもらってるし」
言ってなかったっけ? と首をこてんと傾ける高嶺先輩を前に、私は驚いて言葉が出ない。顧問がいたこと自体初耳だ。でもよく考えれば、部員が五名と顧問教師一名がいれば部活として成立、生徒会から承認を得られるのだ。非公認でも部を名乗る以上、順当な手順を踏んでいるはず。
「学校の中でも悪い奴しかいないわけじゃない。それを生徒がどう上手く扱い、味方に引きずり込むか――使えるものは全部使うし、利用する」
「高嶺先輩が言うと、すごく悪いことに使いそうな感じがします……」
「違いねぇ」
香椎先輩がククッと喉を鳴らすように笑うと、高嶺先輩は不貞腐れた顔をした。私も耐えられずに吹き出してしまう。高嶺先輩はさらに眉間にシワを寄せる。
「浅野、最近ようやく素が出てきたよね。言葉が刺々しいというか」
「えっ……ご、ごめんなさい!」
「いいぞ浅野、もっとやれ」
私が美術部に顔を出すようになってしばらくすると、高嶺先輩は「浅野」と呼び捨てるようになった。緊張しい私を慣れさせるためだったのだろうが、私自身もいつの間にか、教室にいる時よりも心無しか居心地がいい。素が出ているのかは自分でもわからないけど、少なくとも美術部の二人といるときが一番気を張らずにいられる気がする。
「そういえば浅野、ずっと気になってたんだけどさ」
「へ?」
「中学の時に絵画コンクールで入賞してなかった?」
――だから、唐突に投げてくる話にどう返せばいいのか困ることも増えた。
睨まれる前にその場を離れ、さらに奥の方へ進んでいく。「第八美術室」と掲げられた教室の戸をゆっくり開いた。入ってすぐに埃っぽい空気に肌がひりついた。その中心にはすでにカンバスの前に立って鉛筆を走らせる香椎先輩がいた。
私が入ってきたことに気付いたのか、目線だけをこちらに向けられた。相変わらず睨みつけるように目を細めると、「ああ」となぜか安堵したように頬を緩めた。
「浅野か。早かったな」
「ホームルームが副担任の先生だったので、いつもより少し早く終わったんです」
担任の長谷川先生はよく自分の自慢話をする。それがいつも放課後のホームルームで、時間いっぱいまで使うから、部活に向かう生徒からはブーイングばかりきていた。今日は午後から出張のようで、代わりに教卓に立った副担任の先生が「今日はさっさと終わらせましょう!」と嫌味を言って生徒を笑わせていた。
香椎先輩も昨年は長谷川先生の授業を受けていたようで、話を聞いて嫌そうな顔をした。
「怠かった記憶しかねぇな。ろくに授業もしてなかった気がする」
「あはは……そ、そういえば高嶺先輩は?」
「担任に呼び出されてた。もう少ししたら来るだろ。いつものところでいいか?」
あの日以来、私はバイトがない日の放課後に第八美術室に行くのが習慣づいた。といっても、先輩たちが描いているのをずっと見ているだけ。出入り口に入ってすぐに用意された椅子は、いつしか私の特等席となっていた。
使われなくなったカンバスやイーゼルが詰め込まれたこの教室で、非公認であるが故にコンク―ルへの出展もできないこともあって、それぞれの時間を過ごしている。
イラストが得意だという香椎先輩は、亡き理事長先生の遺灰を絵の具に混ぜて描いた『明日へ』を描いて以来、カンバスで描くことが増えたらしい。
鉛筆の下描きに時間をかけ、誰も見ていないであろう隅まで細かく描き込み、それから色を決め、絵に合わせた灰と混ぜて塗っていく。『明日へ』でも同様に、アクリル絵の具の下に隠れた下描きがギリギリ見える色の濃さに調節しているのは、一番見せたい箇所だけに限定しているという。だから先輩の絵を見る時はいつも目がしばしばする。端から端までしっかり見ようと意識してしまうからだ。 高嶺先輩はいつも持ち歩いているスケッチブックにひたすらに描いている。イーゼルに立てかけるのではなく自分で抱えるように持ち、高さのある椅子に座って片足を折り曲げて描くのが、高嶺先輩の一番書きやすい恰好らしい。先輩のお気に入りは物置状態の第八美術室を描いたデッサンだという。何段にも積み重ねたカンバスが寂しげに描かれているのが印象的だった。他には人物像や動物といった動きのあるスケッチが多い。本人曰く苦手らしいが、それを感じさせないほどの躍動感に感動すら覚える。
私が美術室の端に置かれた椅子に座って、しばらく香椎先輩がカンバスに描き込んでいるのを眺めていると、高嶺先輩が慌てた様子で美術室へ入ってきた。しなる音を無視して強引に閉めた戸は、そろそろ亀裂が入ってしまうのではないかと内心ヒヤヒヤする。
「悪い、遅れた! 浅野も来てたか」
「こ、こんにちは」
「珍しく長かったな、高嶺」
「それがさー聞いてくれよ!」
荷物を近くに置いて行儀悪く机に乗ると、香椎先輩は鉛筆を置いて椅子を引っ張ってきた。私も椅子を持っていき、やけにげっそりとした様子の高嶺先輩の近くに座った。
「ウチのクラス担任に、今年の文化祭の展示会に美術部として一点だけでも出せないか頼んでみたんだよ」
「呼び出されてたんじゃないのかよ。呆れてただろ」
「呆れるどころか、ふんぞり返ってカンカンに怒ってたよ。終いには『お前は教師の弱みを握っているから信用ならん!』……とか言われてさ。あーあ、悲しいなー」
「自業自得だな」
「ちょっと! 香椎は俺の味方でしょーが!」
「完全に教師からの信用を失くしてる奴をどう味方しろってんだ。何の為の交渉役だよ」
「武器は多く持っていた方がいいに決まってるだろ」
「持ちすぎるのも毒だっての。……で、結局どうだった?」
「一枠あったら喜べってさ」
「ないな」
先が見えたのか、香椎先輩が面倒臭そうに溜息をついた。教師どころか学校に嫌われ、存在しないことになっている美術部に、作品をお披露目をする場はない。
「つか、なんで逆に交渉しようとしてんだよ。進路の話は?」
「それはそれ、これはこれ。ちゃんと本題を解決したうえで文化祭の話してんだから」
「で、怒られたと」
「あの……先生たちは美術部の活動を良く思っていないんじゃ……」
「ん? ああ、俺たちのクラス担任は別。美術部の顧問してもらってるし」
言ってなかったっけ? と首をこてんと傾ける高嶺先輩を前に、私は驚いて言葉が出ない。顧問がいたこと自体初耳だ。でもよく考えれば、部員が五名と顧問教師一名がいれば部活として成立、生徒会から承認を得られるのだ。非公認でも部を名乗る以上、順当な手順を踏んでいるはず。
「学校の中でも悪い奴しかいないわけじゃない。それを生徒がどう上手く扱い、味方に引きずり込むか――使えるものは全部使うし、利用する」
「高嶺先輩が言うと、すごく悪いことに使いそうな感じがします……」
「違いねぇ」
香椎先輩がククッと喉を鳴らすように笑うと、高嶺先輩は不貞腐れた顔をした。私も耐えられずに吹き出してしまう。高嶺先輩はさらに眉間にシワを寄せる。
「浅野、最近ようやく素が出てきたよね。言葉が刺々しいというか」
「えっ……ご、ごめんなさい!」
「いいぞ浅野、もっとやれ」
私が美術部に顔を出すようになってしばらくすると、高嶺先輩は「浅野」と呼び捨てるようになった。緊張しい私を慣れさせるためだったのだろうが、私自身もいつの間にか、教室にいる時よりも心無しか居心地がいい。素が出ているのかは自分でもわからないけど、少なくとも美術部の二人といるときが一番気を張らずにいられる気がする。
「そういえば浅野、ずっと気になってたんだけどさ」
「へ?」
「中学の時に絵画コンクールで入賞してなかった?」
――だから、唐突に投げてくる話にどう返せばいいのか困ることも増えた。