この世界は君で彩られていく

 先輩から逃れるように教室近くのトイレに駆け込むと、鏡を見て驚いた。絵を一目見ただけなのに、私は目が真っ赤になるほど泣いていた。ハンカチを湿らせて目元に当てていれば、昼休み終了のチャイムが聞こえてくる。結局、お弁当は食べられなかった。
 授業開始ギリギリに教室に戻ると、眉を下げて申し訳なさそうな顔をした早紀と目が合う。何か言いたげだったけど、入ってきた数学の先生の号令によって、言葉を交わすことなく席に着いた。
 しばらく授業を受けていると、先生が背を向けたタイミングで早紀から小さく折り畳まれた手紙が回ってくる。

『佐知へ。ごめんね。まさか泣くなんて思わなかった。もし部活やるって決めたら教えてね 早紀』

 早紀が気付くほど、まだ目元の腫れは治まっていないらしい。鏡を見ないと確認出来ないのは難儀なものだ。私が泣いた理由があの絵と再会したからなど、早紀は想像もしていないだろう。
 また会えると思って入学した矢先、多くの人になかったことにされたあの絵を諦めかけていたのに、ひっそりを息をひそめていたことが何よりも嬉しかった。
 ……嬉しかったはず、なのに。
 部外者なのに悔しい思いが胸を絞めつける。
 だから、早紀は何も悪くない。回ってきた手紙に返事をさらっと書く。
「次の問題をー……(ふる)(はた)!」
 いつの間にか先生がこちらを向いており、私の前の席に座る古畑さんを指名した。黒板の上から下までびっしり書かれた問題は、しばらく先生が背を向けることはない。
 返事を書き終えた手紙を折り畳んでペンケースに隠すと、黒板に書かれた問題をノートに写して解き始める。シャーペンを走らせた字は焦っていたせいか、かすれていた。
 手紙は授業中に回せるタイミングがなく、そのまま授業を終えたてすぐ早紀に正面から渡した。
 相変わらず眉をひそめていたけれど「ちゃんと回してよね、心配になるじゃん!」といって、授業中に出された問題が解けなかったことを私に批難する。授業中に手紙を回すことの方が悪いような気がすると、喉まで出かかった言葉はまた飲み込んだ。

 放課後になると同時に、教室から颯爽と出ていくクラスメイト達を見送った。なんでも、今日から本格的に部活動が始まるらしい。早紀も同じようで張り切って出ていった。教室に残ったのは部活がなかったり、帰宅部の生徒ばかりで談笑して盛り上がっている。それを横目に、荷物をまとめて教室を出た。今日はアルバイトが入っていないから、このまま真っ直ぐ帰るつもりだ。
 すると、廊下で後ろから「浅野!」と長谷川先生に声をかけられた。
「お前だけ入部届が提出されていないが、本当に入る気はないのか?」
「は、はい……バイトも始めているので」
「家の事情は聞いてはいるけどな、浅野は本当にそれでいいのか? よかったら幽霊部員でもいいから演劇部に入るのはどうだ? 成績にも反映されるし、浅野にとっても都合がいいだろう」
 長谷川先生は、自分が顧問をしている演劇部を存続させるために必死に新入部員をかき集めているのだと、クラスの誰かが話していた。そのせいか、今の先生の言葉は誘導尋問のようなものにしか聞こえなかった。そんな先生にとって、どの部活にも入ろうとしない私はちょうどよい人材なのだろう。人数合わせにはもってこいだ。
「だから、部活は――」
「ひょっとして、まだ美術部を探しているのか? なぜそんなに固執するのか俺には分からないが、時間の無駄だ。別の部活に入って楽しめばきっと美術部のことも忘れる。まだ始まったばかりの高校生活だぞ、先生を敵にまわしたくないだろ?」
 あまりにも強い威圧感に耐え切れず俯いた。
 先生の顔を見られない。ここで頷かなかれば、先生だけでなく学校中を敵にまわしたことになるなんて、ただの脅迫だ。先生の自己満足に屈したくないのに、恐怖心からか断りたくても声が出ない。
 ああ、なんでこうなるんだろう。
 先生も早紀も皆、私のことなんて放っておいてくれたらいいのに!

「――それって、スクハラにあたりませんか?」

 誰かが私の横に並んだ。聞き覚えのある、優しい声色に強張った身体が解かれた。顔を上げると、そこにはあの三年生の先輩がいた。屈託のない笑みを浮かべた先輩を前に、長谷川先生は苦笑いをする。
「た、(たか)(みね)……お前、こんなところで何をしているんだ?」
「生徒なんだから、どこにいてもいいでしょう。用事があって来ただけです。それよりも先生、一年生に何しているんですか?」
「いや、これは……」
「あ、これ動画撮ってるんで。とぼけても無駄ですよ。体罰同様にハラスメントも厳しいご時世ですから、拡散したら一気に炎上しますね」
 高嶺と呼ばれた先輩はそう言って片手に構えたスマホを揺らす。録画中の赤いランプがちらついたのを見て、次第に先生の顔色が真っ青になっていく。
「お前っ……理事長に気に入られていたからって、調子に乗るんじゃ――」
「それとこれとは話が別です。彼女に用があるんですが、話はまだ続きますか? 返答次第では動画、削除してあげてもいいですよ?」
 先生だって学校に泥を塗りたくないでしょう、と一向に笑みを崩さない先輩に対し、先生は悔しそうに唇を噛む。しばらく睨み合いが続くも、先に白旗を上げたのは先生だった。
「クソ……わかったよ! ちゃんと消しておけよ!」
「はーい」
 舌打ちを残して先生が立ち去る。こんな簡単に教師が折れることがあるのだろうか。唖然としていると、先輩は私に声をかけた。
「長谷川先生の授業、昨年受けていたけど大分悲惨だったな。答えが合わない問題を自分で出したくせに、生徒が解けなくて困っているのを一方的に怒鳴ってた。今回の動画を職員室に提出したら、今度こそブラックリスト入りってところだな」
 災難だったね、と笑って言う。片手で操作するスマホの画面には「保存しますか」と表示されており、先輩は迷わず「はい」をタップする。
「削除するんじゃないんですか?」
「スマホの中のはね。自宅のパソコンに保存したんだ。何かあったときのための武器は多い方が良いからさ。……それよりも、大丈夫? 何もされてない?」
 スマホをポケットに仕舞いながら先輩は心配そうに問う。先輩が来なかったら、私はあのまま長谷川先生の威圧感に押され、演劇部の入部届に記入していただろう。
「はい、ありがとうございました」
「ならよかった。……ところで、さっきちょっと聞こえたんだけど、美術部を探しているって本当?」
 美術部――そう口にした途端、先輩の目つきが変わった。先生たちのように毛嫌いするような目つきではなく、真剣な表情に息を飲んだ。
「は、はい。……でも、美術部は存在しないっていわれて」
「ああ、うちの学校は芸術コースがあるからね。毎度コンクールで入賞しているし、先生たちもそっちにつきっきりなんだよぁ。掛け持ちしている先生だって多いのに、年がら年中人手不足だよ」
「そうですよね……教えてくださってありがとうございます」
 先生の思惑が生徒にまで反映されている。もしかしたら、あの絵を描いた美術部員は卒業してしまったのかもしれない。あれが最後だったから展示してもらえた可能性だってある。あの時のご婦人にもっともっと詳しく聞いておくべきだった。
 私が大きく肩を落としたからか、先輩はさらに尋ねてきた。
「どこで美術部があるって知ったの? 学校案内のパンフレットにも、ホームページにも載ってないはずだけど」
「……そこまで徹底されているんですか?」
 急ぎ取り寄せた資料はカリキュラムについての説明が全体の三分の二を占めていたし、部活紹介の欄は運動部と文化部の代表的な部活がそれぞれ三つほど並べられ、最後に「…他」と締めくくられていた。すべての部活動を把握したのはオリエンテーションの時だ。
 それを先輩に言うと、引きつった笑みでさらに問われた。
「マジか……本当にどうやって知ったの? 教師も二、三年生も暗黙の了解みたいに知らないことになっている美術部の存在だぞ?」
「でも文化祭のときに一枚出していましたよね? 私、あの絵を見て入学を決めたんです」
 あの日からずっと頭の中にあった『明日へ』の絵が今日、ガラス戸の向こうに飾られているを見て息が詰まった。
 初めて見たときから感じたあの衝動が一瞬のうちに蘇って、涙が零れるほど嬉しかった。私がこの学校に入学した目的のうち、一つはすでに達成したにすぎない。
 ――ああ、そうか。私は嬉しかったんだ。
 散々な言われようの美術部が存在していたことを、あの絵が証明してくれた。その事実だけで充分だ。
 すると先輩は突然、私の両肩を掴んだ。心無しか手が震えている。
「……その話、もっと詳しく聞かせてくれる?」

 先輩――改め、高嶺()(あき)先輩に連れられ、校内をぐるぐるとまわる。
 昼休みにも同じようなことがあったけど、それがつい先日のような感覚に陥っているのは、迷路のように続く校内が未だに覚えられないからだろう。高嶺先輩は長身で足も長いから、隣に並んで歩くとどうしても駆け足になってしまう。追いつくのがやっとだった。
 次第に美術室や金工室がある階に着くと、芸術コースの生徒が個人製作の作業をしている姿が見えた。廊下から珍しそうに覗きながら歩く私を見て、高嶺先輩が立ち止まった。
「ここら一帯が芸術コースの作業場なんだ。彫刻や金工作品を保管する場所の確保も大変だからな。ちょっとしたアトリエみたいになっているんだよ」
「やっぱり芸術コースというだけあってしっかりしてますね」
「いや、たかが高校の普通科内の学科コースだ。美大には比べられないし、他の学校よりも機材は揃っていない。でも部屋が多く余ってるってのは利点だな。それだけ作業が自分のペースでできる」
「……あの、高嶺先輩は一組ですよね? 芸術コースの専攻なんですか?」
 芸術コースはクラスが独立しているわけではなく、普通科の進学コースの生徒と混ざって授業を受けている。難関大学を目指す少人数制の特進コースは別として、一組で内部事情にも詳しいのであれば、芸術コースにいてもおかしくはない。
 すると高嶺先輩は大きく肩をすくめた。
「俺は進学だよ。軽くスケッチができるくらい」
「え……じゃあどうしてそんなに詳しいんですか?」
「有名だからね。芸術家の卵が集まる学校にしては宝の持ち腐れって感じだな。……でもまぁ、内情はもっと腐ってるけどな」
 最後の方は声が小さくて聞こえなかったけど、多分先輩は芸術コースのことをあまり良く思っていないような気がした。
 さらに足を進め、芸術コースの生徒が使っている美術室よりも奥にやってきた。
 廊下の両端には乱雑に画材やガラクタが置かれている。随分放置されているのか、埃が溜まっていた。それを避けるようにして進むと、『第八美術室・資材置き場』とプレートが掲げられた戸の前で止まった。
「ここは過去の作品や使われなくなった資材を置く、物置扱いされてる美術室。気味が悪いって誰も寄りつかないんだ」
「えっ……!?」
「大丈夫、何も取って食ったりしないから。……新入生が美術部の存在を知っていることを、アイツにも教えてやりたいんだ」
 アイツ?
 私が首を傾げたのを見て、高嶺先輩は戸に触れた。ギチギチと引っかかる音を立てながら開かれると、中は薄暗く、埃っぽい匂いがする。換気ができていないのだろう。
 先輩が入口近くのスイッチを押すと、パッと室内が明るくなった。そこには何十枚、何百枚もののカンバスが壁一面に置かれた棚にぎっちりと詰め込まれており、物置と呼ばれてもおかしくはないほど乱雑に置かれていた。
 その中心――ぽっかりと穴が空いた空間に一人、イーゼルに乗せられた描きかけのカンバスの前でじっと見つめている男子生徒がいた。カーテンの隙間から覗かせた夕日の色が頬を照らすと、造形の美しさに思わず息を呑んだ。
()(しい)、ちょっと休憩しろー」
 高嶺先輩が画材を避けながら、香椎と呼んだ彼がいる中心に寄っていく。声が届いたのか、彼はぎろり、と目を私に向けた。
「……誰を連れてきた?」
「可愛い可愛い後輩だよ。先生たちに絡まれてたから連れてきちゃった」
「きちゃった、じゃねぇよ……ちょっと、そこの人」
 睨みつけたままそう言って、私にこいこいと手を振ってくる。
 呼ばれるがまま近付くと、突然、両頬を包まれるように触れられ、ぐいっと引っ張って自分の顔に寄せてきた。
 鼻先があと五センチもない距離感に、慌てて後ろに下がろうとするも、頬から後頭部へ移動した右手が頭をホールドして動けない。
「ヒッ!?」
「逃げんな。何もしねぇからじっとしてろ」
 こ、これのどこが!?
 焦る私に対して、顔色変えない彼は頑なに目を逸らそうとしない。
「香椎、それはさすがにやりすぎだろ……」
「そ、そそうです! 近いにもほどがありますって!」
「うっせぇ。これくらいしないとわからないだって」
 私の頭を掴んだ手を緩めることなく、ただじっと見つめられる。そして少し距離を離したかと思えば、品定めするようにじっと黙り込む。体感的には五分くらい経っている気がした。
 しばらくして「なるほど」と、何がわかったのかは知らないが、固定されていた両手から解放された。生きた心地がしない。急激に上がった心拍数を落ち着かせようと深呼吸すると、途端にむせかえった。この教室がろくに掃除されていない物置だったことをすっかり忘れていた。
「高嶺、換気しといて。自販機行ってくる」
「自分で開けてからいけよ、ったく……大丈夫?」
 颯爽と出ていく姿を横目に、高嶺先輩が近くにあった椅子を持ってきて座らせてくれた。呼吸を整えている間に教室の窓を開けて換気をする。
「すみません……あの、さっきの人は……?」
「俺と同じクラスの香椎(ゆう)()。ごめんな、急に驚いただろ」
「は、はい……あんなに距離が近いのは生まれて初めてだったので」
「アイツ、顔を覚えるのが苦手でさ。許してやってよ」
 高嶺先輩に背中を擦られてようやく落ち着くと、室内を見渡した。
 机や棚を埋め尽くすカンバス、カンバス、カンバスばかり。乱雑に置かれたイーゼルが立てかけられているが、ほとんど脚が折れている。
 香椎と呼ばれたあの先輩がいつからいたのかは知らないけど、この埃まみれの部屋の中心で何を描いていたのだろう。中心に置かれたカンバスには鉛筆で描いた下描きがうっすら見えるだけで、描き始めたばかりのようだった。
 しばらくして戻ってきた香椎先輩の手には、ペットボトルの水を二本と、紙パックで売られているウーロン茶とミルクティー、いちごミルクがあった。空気を入れ替えているせいか、教室に入って早々にぶるっと肩を震わせる。
「……寒い」
「窓開けたばっかりだぞ。半分も空気の入れ替えしてないって。それより買いすぎじゃね?」
「適当に買った。えっと……名前聞いてなかった」
「あ、浅野です。一年二組で、進学コースです」
「へぇ、浅野さんって言うんだ。知らなかった」
「お前、連れてくるなら知っとけよ……とりあえず水。咳き込んでたから飲んどいて」
 そういって、器用に指で挟むようにして持っていた二本のペットボトルの一つを私の前に差し出す。戸惑っていると「指が攣るから早くして」と催促されてしまった。受け取ると、満足そうに口元を緩める。不愛想な表情を前に怖がっていたけど、小さく微笑んだその表情のおかげで、恐怖はどこかに消えてしまった。
「あと紙パック。何が好き?」
「あの、水だけで充分なんですが……」
「水はさっきのお詫び。紙パックは高嶺のおごり。今飲めとか言わないから」
「で、でも……」
「どうせ詳しい説明をされずに連れてこられたんだろ? だったら高嶺のおごりで充分だ。俺たちは残り物でいいから先に選んでくれ。高嶺、後で四八〇円な」
「ちょっと待て! 浅野さんの紙パック代はいいとして、その金額だとお前の水代も入ってるよな?」
「じゃあ何か? こんな埃まみれのところに何も知らない後輩連れてきて、ハウスダストアレルギー持ちだったらどうすんだよ。アウトだろアウト」
「うっ……」
「そ、それじゃミルクティー、いただきます。ありがとうございます」
 ミルクティーを受け取ると、おごりについて聞いてくる高嶺先輩の頭にウーロン茶を乗せて黙らせた。
 香椎先輩はペットボトルの水をカンバスの近くに置いて戻ってくると、椅子を二つ持ってきて渋い顔をする高嶺先輩に渡す。この二人、案外仲が良いのかもしれない。
「それで高嶺、どうして連れてきた?」
「そうそう! 実は彼女、美術部に入りたくて入学したんだって!」
 入りたいとは言ってないんだけどな。――多少事実を曲げられたことに眉をひそめると「美術部」の言葉を聞いた香椎先輩が私を二度見した。先程と打って変わって目の色が変わる。可愛らしいパッケージのいちごミルクにストローを刺そうとする手を止め、高嶺先輩の方を見た。
「……高嶺、お前正気か?」
「まさか。文化祭の絵を見て決めたって聞いて、俺もびっくりしているんだよ」
「コイツまで巻き込むつもりじゃないよな?」
「現状を伝えて理解してもらうつもり。……なんせあの長谷川の勧誘を頑なに拒んでいたんだ。それ相応の話を教えてあげないと、彼女も納得してくれないだろ」
 話が見えない。
 一人でおろおろしていると、高嶺先輩が気付いて説明してくれた。
「浅野さんが探している美術部はね、一応あるんだよ。ただ芸術コースが表立って有名だから、完全に目の上のたんこぶなんだ」
「それは活動の内容が、学科コースと被っているからですか?」
「表向きはね。多分本当の理由は、部員が俺と香椎だけだからかな。いろいろ問題児なんだ、俺たち」
 高嶺先輩は気恥ずかしそうにヘラっと笑う。
 目の前に座る二人の先輩の話を聞きながら、貰った水を飲み込んで頭の中で整理する。
 そもそも、学校に許可なく部活動を堂々としていても指導対象にならないのだろうか。それに問題児だと言われてもあまりピンとこない。距離感がおかしいのはともかく、ごく普通の人にしか見えなかった。
 私が眉をひそめて黙り込んだのを見て、高嶺先輩が口を開いた。
「何十年も前の頃には、美術部はあったんだよ。部員もそこそこいて、この第八美術室を中心に皆が皆、それぞれの得意な芸術を楽しんでいた。コンクールにも出すようになって、美術部から有名な芸術家に育っていくと、味を占めた学校側は芸術コースを設立したんだ。それと同時に美術部は自然消滅。美術部に入りたいという生徒がいれば、芸術コースへの選択を促される。――浅野さん、君の考えている通り、芸術コースがあるという理由で美術部は無くなったんだ」
「そんな……強制的に芸術コースに行かせるなんて横暴すぎませんか?」
「もちろん、進学コースの先輩でも部活動として絵を描きたい奴がいた。芸術コースは人気だから応募はすぐ埋まる。入りたくても入れない奴は沢山いる。そういう奴らを集めて、半ば強引に立ち上げたんだ。今は俺と香椎、それと名前だけの幽霊部員が三人と、顧問の先生が一人。一応、生徒会からは白い目で見られたけど許可は下りている。公認じゃない、非公認としてね」
 この高校の校則によれば、部として認められる条件として、五名以上の生徒と顧問の教員一名。そして学校への貢献度。人数はともかく、貢献度はすぐに上げられるものではない。
「美術部は非公認とはいえ、規則上は存在する。でも文化祭の展示やコンテストへの参加は認められていない。学校側も良く思っていないから美術部の話をすると機嫌が悪くなるし、公の場に美術部の存在を隠している。去年の文化祭で一枚出せたのが奇跡みたいなモンさ」
「……つまり、無くなった美術部を再設立したのは高嶺先輩たちなんですよね? どうして違反みたいなことをしているんですか?」
「あー……それはだな……」
 私が尋ねると、高嶺先輩は気まずそうに目を逸らす。
「職員室で美術部の名前を出した時、先生の視線はとても冷たいものでした。他にも何かあるんじゃないんですか? それに去年の文化祭で受付していた人も鼻で嗤っていました。もし飲食店だったらクレームが入れられるくらい、酷い言われようです」
「受付……ああ、芸術コースの卒業生か。あの絵の事情を知ってるから――っでぇ! おい、急に殴るなって!」
 懐かしそうに話す高嶺先輩の脇腹に、目にも止まらぬ素早い手刀が入った。痛がる高嶺先輩を余所に、香椎先輩は私に訊いた。
「浅野は去年の文化祭に来たのか?」
「はっ、はい。私、あの絵が気になって、この学校に入りました」
 私は『明日へ』を思い浮かべながら、あの時感じた感覚と、描かれた機体や少女が抱えた花――まるで下描きが本当の意味を示しているのではないかと推察したことも話した。
 拙い言葉を並べた、見苦しい説明だったと思う。自分がこんなに説明が下手だったのかと内心落胆してしまうほどだ。
 笑われてもいい、バカにされてもいい。
 それでも確かに、あの時私が感じたものが少しでも伝わってくれたらいい。
 私が一方的に話している間、先輩たちは黙って聞いてくれていた。時折頷いたり、小さく口元を緩める姿も見受けられて、妄想のような私の話に耳を傾けてくれた。
 話し終えたと同時に、高嶺先輩は両手で顔を覆って下を向いた。隣に座った香椎先輩は黙ったまま遠くを見ているようで、美術室に沈黙が流れる。
 先輩たちの気に障ってしまったのではないか――不安に駆られるほど、二人は口を開かない。遠くからランニング中の運動部の掛け声がやけにはっきりと聴こえてくる。
「――浅野はさ」
 先に沈黙を破ったのは香椎先輩だった。
「お前が見た『明日へ』は、どんな世界だと思った?」
「世界……ですか?」
「そう。あの絵からいろんなモンを感じ取ったんだろ。一つくらい上げてみろ。また言葉に詰まってもいいからさ」
 明るい希望のある世界。平和を願う世界。残酷な争いの世界。――今でも耳をすませば、遠くから警報が聴こえてくる。焼け焦げた黒い煙が漂ってくる。その中でかき消された誰かの泣き叫ぶ声さえも、絵の一部として存在していた。
 そんな言葉が頭の中で飛び交う中、私は慎重に口を開いた。
「耳を傾けてほしい世界、でしょうか」
「耳?」
「聞いてほしいって意味です。周囲の無機物の音と建前で成り立っている世の中に、もっと耳を傾けてほしい。飛行機と少女に持たせた花の意味は、平和についてもっと考えてほしいという、作者の願いだと思いました」
 自分なりの解釈を話すと、香椎先輩は唸った。
 反応に困っているのだろうか、口が開くと同時にずっと視線を落としていた高嶺先輩が、隣にいる香椎先輩の背中を思い切り叩きつけた。バシンッと音が美術室内に響くと同時に、香椎先輩は顔をしかめる。
 何が始まったのかと驚いていると、高嶺先輩は涙目ながらも満面の笑みを浮かべていた。
「――っヤバくねぇ!? お前の描いた絵がこれだけ深堀りされたんだぞ!」
「わぁってんだよ、叩くな」
「だってさ!」
「落ち着けアホ」
 喜びを噛みしめている高嶺先輩の脇腹にまた手刀が入る。腹を抱えて丸くなりながらも、笑い声が漏れていく。状況が全く理解できない私は、ただ呆然の二人の喜ぶ姿に困惑した。少し引いてしまっていたのかもしれない。
 香椎先輩が気付いて「でもさ」と続けた。
「お前、作品名の下の説明書きを読んだか?」
「説明書き?」
 作品名は見たけど、説明書きなんて書いてあっただろうか。それより先に絵に目を向けてしまったから、視界に入っていなかったのかもしれない。
「その様子だと読んでねぇな。それであの熱弁かよ」
「どういうことですか?」
「これだよ」
 高嶺先輩は脇腹を抑えながら、スマートフォンの画面をこちらに向けた。
 画面には文化祭で見た絵が写っており、その横のプレートに『明日へ』とタイトルが大きく書かれている。タイトルが書かれた札は見たのを覚えている。
 ただ、その下に小さな字で書かれていた部分は見逃していた。

『故・(はな)()(ふみ)()名誉理事長の遺言に基づき、絵の具に遺灰を混ぜて製作しております。
 心からのご冥福をお祈り申し上げます。美術部一同』

 花井文江――この高校の創立に関わった一人で、芸術コースの設立に携わった人物。長きにわたり教鞭をとったのち、名誉理事長に任命された。確か昨年亡くなったと、学校のホームページに載っていたのを思い出す。
 問題はその後――理事長の名前の後に書かれていた、たった二文字の言葉だ。
 遺灰(・・)――たった二文字に、ぞっと寒気が走った。
「気味が悪くなっただろ」
 私の口が開く前に、香椎先輩は続けた。
「お前が熱弁し、涙まで流してくれたあの絵は、亡くなった理事長の遺灰を絵の具に混ぜて描いている。平和の意味を持つ花、機体に纏う風、あと空だな。亡くなる前にどんなものを残したいか聞いて、俺が描いた。……美術部が嫌われているのは、そういうところなんだよ」

 人は動揺すると本音が口走ってしまうらしい。どれだけ飲み込んでも嗚咽や顔色は生理現象で、他人にもバレてしまうことも時にはある。だから私もなるべく表に出さないように注意したけれど、あの絵の真実を知って動揺した。
 真っ青になった私の顔を見ながら、香椎先輩はフッと口元を緩めた。
「いいんだよ。それが正しい反応だから」
「……え、と……」
「芸術コースの奴らは皆、同じような顔をしていた。当たり前だよな、顔見知り程度だったとしても、その人の遺骨に触れ、絵の具に混ぜて一枚描くんだから。だから美術部にまわってきたんだよ」
「……どういう、ことですか? それと美術部が嫌われる理由がわからないんですけど」
 彼女の遺言に従い、美術部が戦争を彷彿とさせる絵を一枚描いたところで、批難される筋合いはないはずだ。
「おおう、浅野さん、意外にタフだね」
 そうだなぁ、と考えるフリをしながら、高嶺先輩は続けた。
「学校側が芸術コースにこの遺言をまわさなかったのには、二つの理由がある。一つは遺灰を使った絵――供養絵画だったことだ」
「供養、絵画……」
「絵に色を乗せる手法の一つに、絵の具に灰を混ぜることがある。別に珍しい手法じゃない。ただ理事長の遺言は『自分の遺骨を使った絵を描くこと』――そう、遺灰だ。遺骨をすり潰して絵の具に混ぜて描くことが前提だった。遺骨を骨壺に入れるとき、係員が全部入れられるように骨を最後に押し込むのを見たことがあるか? 俺はあれを実際に見て、ぞっとしたんだ。さも当然のように潰していくその顔を二度見したほどだ。理事長が何を考えて生徒に託そうとしたのか、今となっては分からないけど、『こんなことさせるなんて!』と批難の声がいろんなところから挙がった。でも遺骨は学校の名誉理事長だ。生徒よりも教師が世話になりっぱなしだったからな。失敗は許されないし、外部からの圧力も強い。周りから何を言われるかたまったもんじゃない。そんな張りついた緊張感を持ちこたえられるほどの生徒はいないし、失態は芸術コースの名に泥を塗ることになる。そしてもう一つは、理事長直々の指名が美術部だったからだ」
「……待ってください、芸術コースを設立したのは理事長ですよね? なんでわざわざ進学コースの生徒を選ぶんですか?」
 高嶺先輩が進学コースなら香椎先輩も同じだろう。もし芸術コースならこんな埃っぽい場所ではなく美術室を使わせてくれるだろうし、一人で隠れるようにして描く必要もない。生前、理事長が美術部を気にかけていたとしても、自分のこんな突飛な遺言を託すだろうか。
 私が眉をひそめると、高嶺先輩がいう。
「芸術コースの資本となった美術部を創ったのは理事長だったからさ。遺言はメッセージ性の強い絵を求めていたんだ。芸術コースの奴等は自画像や風景画が得意だけど、悠人はイラストが得意。だからまわってきたんだと思う」
「……そもそも、絵とイラストって何が違うんですか?」
「わかりやすく言えば、役割が違う。絵画は一枚で独立し、完成形として成り立つ芸術作品――つまり主役だ。それに対してイラストは挿絵のことをいう。文章と文章の間に挟んだり、添えられたりする脇役ってところだな。ウチの芸術コースは未来の主演を育てることに躍起になっているから、イラストレーターの教育には遅れているのが現状だ」
「はぁ……」
「遺言の内容は、理事長の遺灰を混ぜた絵の具を使った絵を描いて文化祭に展示すること。特にメッセージ性のあるものを描いてほしいと言っていた。断る理由もなかったから引き受けることにした。構図は亡くなる前に理事長と相談しながら決めて、亡くなった後に着色、完成まで香椎が仕上げた。俺はそのサポートや展示までの段取り、交渉に専念した。顧問の先生に頼ってられなかったからな」
「何ヶ月かかったんですか……?」
「話を聞いて半月、完成まで一ヶ月半ってところだ」
 つまり、香椎先輩は約二ヶ月であの絵を仕上げたことになる。
 下描きが完成していたとしても、つい先日まで話していた相手が遺灰となって手元にやってくる。
 ……ダメだ、私には耐えられない。受け取ったとき、絵の具に混ぜるとき――その瞬間ごとに手が震えて、絵を描くどころではない。想像するだけでぞっとする。
 高嶺先輩はさらに続けた。
「遺言どおり、完成した絵――『明日へ』は文化祭に展示された。来場者のほとんどは、理事長の供養絵画を興味本位で観に来た他校の理事や先生ばかり。『未来に向けた素晴らしい絵』だと高く評価してくれたし、香椎に至っては芸術コースの生徒よりも話を聞かれてた。あの時の悔しそうな顔、撮っておけばよかったなぁ」
 昨年の文化祭の展示ホールを思い出す。やけにスーツを来た人がじっくり絵を見ているなぁとは思っていたが、理事長の供養絵画が展示されていたからだっのか。私の横を通り過ぎる際に呟いていたあの来場客も、おそらく学校の関係者だったのだろう。
「そんなわけで、ただでさえ目の上のたんこぶだった美術部は、文化祭と理事長のせいで存在しないことになっている。……これが君が探していた、美術部の正体だ」
 喋りっぱなしだったからか、高嶺先輩は紙パックにストローを挿すと、そのまま一気にウーロン茶を飲み干した。空になった紙パックは潰れたまま固まっている。
「……え、それだけですか?」
私が尋ねると、先輩たちはキョトンとした顔で私を見る。
「……それだけ、って?」
「それだけで批判されなくちゃいけないんですか? 理不尽すぎません?」
 理事長がなぜ供養絵画を遺言として残したのか、私にはわからない。でも設立したからこそ、自分の最期を飾ってほしいと思っても不思議ではない。上級生のほとんどが美術部の事情を知っているのなら、芸術コースの生徒に一度話がされていたのかもしれない。本当は芸術コースの誰かに描いてほしかったのではないか。――しかし、学校側の返答は「ノー」だった。
「自分から断っておいて後から評価を欲しがるとか、みっともない! 大体、芸術コースが目玉だからって何よ、美術部があったっていいじゃないですか!」
 ちやほやされた子どもが何も悪くない子を仲間外れにする、自分の地位を優先した勝手な行動にしか思えない。生徒はともかく指導者の立場である教師と学校側がするべきことではないと、私は思う。中には学校側の事情というものがあるのだろう。それでも芸術コース以外の生徒が絵を描いたり彫刻に興味を持つことを否定していい理由にはならないはずだ。
「おおう、怒ってんなー。ちょっと水飲みな」
 高嶺先輩に促されてペットボトルの水を煽った。半分以上飲んでも、早紀のこともあって苛立ちが抑えられなかったらしい。時折埃っぽい空気が入って小さく咳き込めば、香椎先輩は鼻で笑った。
「当事者じゃない浅野がそこまで苛立つ理由がわからねぇけどさ。……ありがとな」
 これは仕方ないことだと笑う。「でも」と口を開いたけど、香椎先輩が困った顔をしていたのを見て、出かかっていた言葉を飲み込んだ。理不尽を口に出して訴える私も、学校側と同じ子どもなのかもしれない。
「ってことで、美術部は一応俺たちの代で終わりにするつもりだ。……だから、入部は勧められない」
 高嶺先輩がごめんな、と小さく呟く。本当は先輩たちも卒業した後も美術部を残したかったのかもしれない。香椎先輩がいなくても、芸術コースに入れなくても、少しでも絵に触れられる場所にいたい生徒だっているはずなのに。
 すると、香椎先輩が立ち上がり、先程まで描いていたであろうカンバスを片付け始めた。
「あれ? 香椎、今日はもう終わり?」
「そろそろ引き渡しの時間だろ。どうせ話は長くなるだろうし、戻ってきても区切りが悪くなりそうだから」
「ああ、そっか。興奮して忘れてた」
 高嶺先輩が腕時計を見て、納得したようにいう。
「そうだ、浅野さんも行く?」
「行くって、どこにですか?」
 生憎、先程の会話だけで二人がどこに行くか読み取れるような高等技術は持ち合わせていない。長年の付き合いでお互いが考えていることができるようになるという話も、信憑性に欠けることもあって信じていない。
 換気のために開けっ放しになっていた窓を閉めた香椎先輩は、口元をニヤリと歪ませた。
「展示ホールに一時保管させてもらってた『明日へ』の絵の引き渡し。せっかくだから立ち会えよ」
 *
 
 昨年の文化祭に展示された『明日へ』は、理事長の遺言により展示後、息子夫婦の自宅へ置かれることになっていた。なんでもカンバス一枚を飾る場所を確保するために一時的に学校で預かっていたようだ。先週まで第八美術室に置かれていたが、学校側の恩情で今日までの一週間、展示ホールの中心に置かせてもらっていたという。展示ホールは荷物の搬入口として駐車所に近いこともあって、展示兼保管には最適な場所だった。
 第八美術室を後にした私たちは、展示ホールに向かった。未だ校内を把握しきれていない私は、先輩たちの後を追うので精一杯だった。
 その間、二人は何も喋ることはなかった。どこかピリッと張りつめた雰囲気に、緊張しているのかもしれない。
 階段を登って降りてを繰り返し、昼間に一度だけ通った廊下を抜けると、そこに展示ホールはあった。鍵はかかっていないようで、高嶺先輩がガラス戸を開く。それに続いて香椎先輩が入っていき、中に置かれたカンバスの前に立った。
「いつも開けっ放しだけど、絵が置いてある時くらいは鍵かけて欲しいよな。今度交渉してみるか」
「無駄だろ。どうせ警備員も学校の息がかかってんだから。損壊はしてないからいいけど、これで壊れてたら理事長に頼んで枕元に立ってもらえ」
「香椎先輩、その言い方はダメですって!」
 いくら冗談で言っていたとしても理事長に失礼だ。「悪かったって」と香椎先輩が言うけれど、悪い笑みは隠しきれていない。
「それよりも浅野、さっさとこっち来いよ。絵の前に落とし穴が掘られている訳じゃあるまいし、警戒する必要もねぇだろ」
「い、いえ! 私はここで大丈夫です!」
 香椎先輩に指摘されても、未だ入口で立ち止まっていた。昼休みの時に一瞬見えただけで胸が張り裂けそうになったのに、文化祭で見たときの距離に立ったらどうなってしまうのか。そんな私の異常な行動に、先輩たちは苦笑いを浮かべた。
「あ、浅野さん、もっと気楽でいいんだよ? そんな好きな人に告白するような反応されてもこっちが困るし」
「そう、ですけど……でも」
 そう言われたら余計に近付くことを躊躇ってしまう。まだ『明日へ』の絵の前に香椎先輩が立っていることが幸いして、この位置からは何も見えない。
 すると、香椎先輩がこちらに向かって歩いてくる。
「――これは……知り合いから聞いた話なんだけど」
「は、はい?」
「お前みたいに、絵に呑まれたっていう奴がいるんだ。美術館に展示してあった猫の絵だったらしいんだけど、繊細で細やかで、線の一本一本に目を奪われたんだと。それは電流が身体に駆け巡ったというより、心臓を貫かれたような感覚だったらしい。目が離せなくてじっと見入っていたら、周囲の声だけでなく、来場者が歩く靴底の擦れる音さえも聞こえなくなっていた。周りの空気が違うことに気付いた途端、絵の中にいるはずの猫が笑ったのを見て、思わず声が出て現実に戻ってきたって話だ。一緒に来ていた家族は、微動だにしない自分を心配して背中を何度も叩いた。何度声をかけても反応がなくて慌てたらしい」
「……それって」
「お前の話を聞いていたら、その感覚に似ているなって思った。絵にのめり込み、その情景を思い浮かべて、絵に込められた声が聞こえる。……なんか、いいよな。ただの妄想だったとしても、感性って人それぞれだから、何も間違っちゃいない」
 香椎先輩が目の前で止まり、目を細めてじっと私の目を見る。
「『明日へ』は息子夫婦が引き取ることになっているが、ずっと飾ってもらえるかは分からない。布に巻かれて日の当たらない薄暗い場所で、他の骨董品と一緒に永い眠りにつくかもしれない」
「え……?」
「理事長もわかってたうえで供養絵画を選んだ。あの絵が誰かの目に触れるのはこれが最期になるかもしれない」
「…………」
「聞いてやってくれ。もう一度、あの子の声を」
 香椎先輩が一歩横にずれると、私の正面にカンバスが現れた。周りに他の作品が並んでいないせいか、あの時のような浮いた印象はない。
 ようやく展示ホールに足を踏み入れ、おそるおそるカンバスの前に立つ。イーゼルの上に立てかけられた『明日へ』の絵は、半年前に初めて見たときと同じ希望に満ち溢れた世界に見えた。その中に描かれた、醜い部分を隠すように、泣き叫ぶ声を抑え込むほどきれいだった。
 さらにカンバスに近付けば、途端に遠くから警報の音が聞こえてきた。
 近くの建物に火がついて、逃げろ逃げろと泣き叫ぶ声が飛び交う。背を向けたときに漂ったあの苦い香りは、焼き焦げた匂いによく似ていた。
 周囲の混乱に呆然としていると、少女が目の前で転んだ。ボロボロの布に包んだ何かをしっかり抱きかかえ、無事かどうか確認してもう一度立ち上がる。
 周囲にある建物が崩れる音、何かが近くで落ちてきた音が重なってかき消されてしまう。黒煙が立ちのぼり、人々が逃げ惑う中、少女と目が合った。
 言葉が出てこないほど、少女はきれいに笑った。
「……伺ってもいいですか?」
 後ろで様子を伺っている二人の先輩に問いかける。すぐ隣に来たのは高嶺先輩だった。
「どうした?」
「理事長先生に、ご兄弟はいらっしゃいますか」
 あの日からずっと引っかかっていたことがある。カンバスに描かれた、花束を抱えた少女だ。
 平和の意味を持つ花――デイジー、コスモス、オリーブ、タンジーは戦時中に集められるほど簡単な花ではない。それが作者によるオリジナルだったとしても、同じ花を揃えるだけでよかったはずだ。複数にする必要はどこにもない。
 思えば花束の抱え方も不自然だ。いくら大きい花束だからといって、子ども一人を抱えているようにも見える。戦時中なら、自分の身で隠すように大切に抱えているのが子どもでもおかしくない。
 一瞬見えた、大切そうに抱えた布の中で眠る赤ん坊がいたのだって、見間違えなんかじゃない。
「弟さんが一人いるけど……なんでお前が知ってるんだ?」
 驚いた様子の高嶺先輩にさらに問う。
「今、その人どうされていますか……っ」
 どうか死なないで。忘れないで。――少女が私に向かって確かに言った。でもそれは私ではなく、抱きかかえた男の子に向けられたものかもしれない。
「……赤ん坊だった弟を理事長が親代わりで育てた話は生前聞いたことがある。戦争の時代を生き延びて、今は歴史博物館で館長しているよ。戦争を後世に残していくために、定期的に講演会も開いてる」
「……そうですか」
 少女が抱きかかえていたあの小さな子が、今も生きている。その事実にホッとし、途端に脚の力が抜けて立ち崩れた。自分でも気付かないうちに気を張っていたのかもしれない。
 慌てて高嶺先輩が駆け寄って背中を支えてくれた。
 「大丈夫か?」と心配そうに顔を覗き込んでくるけど、私はまだカンバスに目を向けたままでいた。
 忘れてはならない。伝えていかなければならない。――たとえそれが、綺麗事だったとしても。
 それを訴え続けた理事長の想いに触れたような気がして、気付けばボロボロと涙をこぼしていた。
「私、理事長先生に会ってみたかったです」
 私がそう言うと、先輩たちがそろって私の頭をガシガシと撫でまわした。

 ――その数分後、引き取りにきた息子夫婦がやってくると、目元が真っ赤に腫れた私を見て大層驚いていた。説明するには恥ずかしいので「花粉症です」と誤魔化したら納得してくれたけど、高嶺先輩だけが小さく笑っていた。
「引き取りが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。ようやく飾る場所が決まったので、やっと母を連れていけます」
「連れていける……ってことは、ご自宅に飾られるのではないんですか?」
 息子さんの言葉に高嶺先輩が問うと、気恥ずかしそうに笑った。
「実は、伯父の博物館に置いてもらえないか相談していたんです。母から絵について聞いたとき、自宅に飾るだけではもったいないと思って。僕らがいつかいなくなって、倉の中に片付けられてしまったら母が可哀想ですから。伯父の運営する博物館の中に、戦時中のものを集めた写真や古着が展示されているホールがありまして、そこに入れてもらうことになりました。……あなたのように、絵を見て何か感じとってくれる人がこの先も現れるかもしれないですから」
 あなた、と言って私のほうを見る。下手な嘘はとっくに見抜かれていたらしい。
 カンバスを梱包し、駐車場に停めていた車に乗せると、息子夫婦は礼を言って立ち去った。一度自宅に持ち帰り、明日また博物館へ持っていくのだという。
 遠くになるまで見送った私たちは駐車場から展示ホールへ戻る。その道中、校舎に入る手前で香椎先輩が急に立ち止まった。つられて私も、高嶺先輩も立ち止まる。
「香椎? どうした」
「……浅野さ、部活どうすんの?」
「え?」
 じろっと目だけを動かして、香椎先輩は私に問う。
「話を聞いてりゃ、担任にしつこく強要されてんだろ? バイトの日以外は高嶺のところに行くって言っとけばしばらくは大丈夫だろうが、お前さえよければ暇な時に第八美術室に顔を出しに来い」
「……えぇ!?」
 あまりにも唐突な提案に、思わず声が出てしまった。これには高嶺先輩も驚いていて「お、おい香椎!」と咎めた。
「正気か? 俺に巻き込むなって言ったくせに!」
「元はといえば、お前が巻き込んだんだから責任持てよ」
「そうだけど! 俺たちにとっては貴重な人材だし、このままにしておくのは勿体無いと思ってたけど」
「だろ。今なら紙パック代チャラにしてやってもいい」
「安い取引をするな! ……いいよ、わかった」
 乗り掛かった舟だ、と小さく肩を落とした。仕方がないと言いたげながらも、心なしか嬉しそうに見える。本日何度目かもわからない、困惑する私に高嶺先輩がいう。
「埃っぽいところに好んで来ると変な目で見られるかもだけど、それでもいいならおいで」
「……いいんですか?」
「いいよ。香椎がこんなに活き活きとしているのは久々だ。その礼はさせてほしい。……それと」
 高嶺先輩が香椎先輩と目配せすると、私に向かって同時に頭を下げた。
「あの絵を見つけてくれて、泣いてくれてありがとう」

 ――桜の花びら舞う、四月の空。こうして私が駆け込んだ世界は、胸にぽっかりと空いた穴を埋める優しさと、寂しさを残して別れを告げるとともに、新たな景色に小さく胸が高鳴った。
 顔に出ていたのか、笑みを隠せない私を見て、先輩たちも笑った。
 美術部を探し出し、思い焦がれた一枚のカンバスにさよならを告げてから、気付けば六月の梅雨入りが迫っていた。
 急に難しくなった授業と課題、いつも落ち着ているアルバイトも、祝日が重なる数日は大忙しで、あっという間に時間が過ぎていく。
 それを実感したのは悲しいことに、数学の授業で提示された問題の回答者に指名された時だった。名簿順のア行は、月の第一週目に必ず当てられる。仕方がないというか、運が悪いと言うべきなのか、中学からの付き合いである早紀は「幸が浅い」からだと言う。人の名前で遊ぶな。
 早紀との関係は相変わらずだが、担任の長谷川先生から演劇部への勧誘はあの日を境にぴたりと止んだ。どうやら高嶺先輩の仕業らしい。長谷川先生をはじめ、教師陣が生徒へ恐喝まがいな場面に居合わせると必ずスマホで録り溜めしているという。実際にあの日以来、先生から部活の話は出してこない。削除すると言ってパソコンに保存したデータの流出を懸念しているのか、ここまでくると高嶺先輩が先生を脅しているようにもみえる。それでもしつこい勧誘が続くよりはマシだと思い、私は見て見ぬふりをしている。
 それに対して早紀は、隙あらば入部したばかりのハンドボール部がいかに楽しいかを熱弁してくる。悪びれる様子もなく楽しそうに話す彼女に、私は今日も相槌を打つだけ。
「佐知、最近なんかいいことあった?」
 昼休みにお弁当を食べていると、ふいに早紀が問う。両手で持ったお手製のポテトサラダをレタスと食パンで挟んだサンドイッチは、彼女が頬張る度にレタスが押し出されている。
「いいことって、なんで?」
「最近、活き活きしているなって思って。いつも根暗なちぃちゃんがバイトの日以外は終わったらすぐ教室出ていくし。もしかしてデート? 相手は誰!?」
「勝手に話を広げないでよ……」
「別に広げてないよ? それくらいしか思いつかないんだもん」
 これで悪気ないから余計に腹が立つ。
 思わずムッとしたのをどうにかして抑え込んで、ブロッコリーを口に頬張る。少し塩辛く感じたのは、茹でる時に入れすぎた塩のせいだ。
「結局絵の作者も見つからないままなんでしょ? 私、ハンド部の先輩にそれとなく聞いてみたんだけどさ、気になるなんて変人だねって笑われちゃった。そんなに変な人なの?」
「……早く食べないと次の授業間に合わないよ、早紀」
「あー! 今明らかに話を逸らしたよね? 見つけたの!?」
「逸らしてないって。ほら」
 口をとがらせて拗ねた顔をする早紀にスマホの画面を見せる。初期設定のシンプルな壁紙の真ん中に置かれたアナログ時計は、秒針が止まることなく進んでいく。あと五分もしないうちに昼休みが終わってしまうと気付くと、早紀は慌ててサンドイッチを口へ押し込んだ。私も食べ終えた弁当箱を仕舞っていると、早紀が言う。
「佐知、スマホに通知来てるよ?」
「え?」
 画面を見れば、左上に通知のアイコンが表示されていた。タップして確認すれば、「美術部」と名付けられたグループのトーク画面が現れる。高嶺先輩からだった。
『今日の放課後は全員集合!』
 つい先日、連絡先を交換した時にグループトークに入れられたのを思い出す。先輩との関わりがほとんどない私にはとても新鮮だった。画面をしばらく見ていると、香椎先輩から『了解』と素っ気ないメッセージが送られてくる。続けて高嶺先輩からキャラクターが変顔しているスタンプが送られてきて、思わず吹き出しそうになる。
「……ねぇ佐知、やっぱりいいことあったでしょ?」
「別にないよ」
「いーや! その顔は絶対ある! 長年の付き合いで親友である私が断言する!」
 いつ私は早紀の親友になったのか。そんな毒がこぼれてしまいそうになって、慌てて画面に視線を戻す。『了解です』と歌う猫のスタンプを送ると、すぐに二件の既読がついた。また早紀に茶化される前に、空になった弁当箱を鞄に戻しながら顔を背けた。
 その日の放課後、颯爽と部活に向かう早紀を見送ってから第八美術室に向かった。道中には芸術コースの生徒が作業している姿が見受けられた。場違いな私など目に止めることなく、懸命に打ち込む姿は美しいとさえ思う。
 睨まれる前にその場を離れ、さらに奥の方へ進んでいく。「第八美術室」と掲げられた教室の戸をゆっくり開いた。入ってすぐに埃っぽい空気に肌がひりついた。その中心にはすでにカンバスの前に立って鉛筆を走らせる香椎先輩がいた。
 私が入ってきたことに気付いたのか、目線だけをこちらに向けられた。相変わらず睨みつけるように目を細めると、「ああ」となぜか安堵したように頬を緩めた。
「浅野か。早かったな」
「ホームルームが副担任の先生だったので、いつもより少し早く終わったんです」
 担任の長谷川先生はよく自分の自慢話をする。それがいつも放課後のホームルームで、時間いっぱいまで使うから、部活に向かう生徒からはブーイングばかりきていた。今日は午後から出張のようで、代わりに教卓に立った副担任の先生が「今日はさっさと終わらせましょう!」と嫌味を言って生徒を笑わせていた。
 香椎先輩も昨年は長谷川先生の授業を受けていたようで、話を聞いて嫌そうな顔をした。
「怠かった記憶しかねぇな。ろくに授業もしてなかった気がする」
「あはは……そ、そういえば高嶺先輩は?」
「担任に呼び出されてた。もう少ししたら来るだろ。いつものところでいいか?」
 あの日以来、私はバイトがない日の放課後に第八美術室に行くのが習慣づいた。といっても、先輩たちが描いているのをずっと見ているだけ。出入り口に入ってすぐに用意された椅子は、いつしか私の特等席となっていた。
 使われなくなったカンバスやイーゼルが詰め込まれたこの教室で、非公認であるが故にコンク―ルへの出展もできないこともあって、それぞれの時間を過ごしている。
 イラストが得意だという香椎先輩は、亡き理事長先生の遺灰を絵の具に混ぜて描いた『明日へ』を描いて以来、カンバスで描くことが増えたらしい。
 鉛筆の下描きに時間をかけ、誰も見ていないであろう隅まで細かく描き込み、それから色を決め、絵に合わせた灰と混ぜて塗っていく。『明日へ』でも同様に、アクリル絵の具の下に隠れた下描きがギリギリ見える色の濃さに調節しているのは、一番見せたい箇所だけに限定しているという。だから先輩の絵を見る時はいつも目がしばしばする。端から端までしっかり見ようと意識してしまうからだ。 高嶺先輩はいつも持ち歩いているスケッチブックにひたすらに描いている。イーゼルに立てかけるのではなく自分で抱えるように持ち、高さのある椅子に座って片足を折り曲げて描くのが、高嶺先輩の一番書きやすい恰好らしい。先輩のお気に入りは物置状態の第八美術室を描いたデッサンだという。何段にも積み重ねたカンバスが寂しげに描かれているのが印象的だった。他には人物像や動物といった動きのあるスケッチが多い。本人曰く苦手らしいが、それを感じさせないほどの躍動感に感動すら覚える。
 私が美術室の端に置かれた椅子に座って、しばらく香椎先輩がカンバスに描き込んでいるのを眺めていると、高嶺先輩が慌てた様子で美術室へ入ってきた。しなる音を無視して強引に閉めた戸は、そろそろ亀裂が入ってしまうのではないかと内心ヒヤヒヤする。
「悪い、遅れた! 浅野も来てたか」
「こ、こんにちは」
「珍しく長かったな、高嶺」
「それがさー聞いてくれよ!」
 荷物を近くに置いて行儀悪く机に乗ると、香椎先輩は鉛筆を置いて椅子を引っ張ってきた。私も椅子を持っていき、やけにげっそりとした様子の高嶺先輩の近くに座った。
「ウチのクラス担任に、今年の文化祭の展示会に美術部として一点だけでも出せないか頼んでみたんだよ」
「呼び出されてたんじゃないのかよ。呆れてただろ」
「呆れるどころか、ふんぞり返ってカンカンに怒ってたよ。終いには『お前は教師の弱みを握っているから信用ならん!』……とか言われてさ。あーあ、悲しいなー」
「自業自得だな」
「ちょっと! 香椎は俺の味方でしょーが!」
「完全に教師からの信用を失くしてる奴をどう味方しろってんだ。何の為の交渉役だよ」
「武器は多く持っていた方がいいに決まってるだろ」
「持ちすぎるのも毒だっての。……で、結局どうだった?」
「一枠あったら喜べってさ」
「ないな」
 先が見えたのか、香椎先輩が面倒臭そうに溜息をついた。教師どころか学校に嫌われ、存在しないことになっている美術部に、作品をお披露目をする場はない。
「つか、なんで逆に交渉しようとしてんだよ。進路の話は?」
「それはそれ、これはこれ。ちゃんと本題を解決したうえで文化祭の話してんだから」
「で、怒られたと」
「あの……先生たちは美術部の活動を良く思っていないんじゃ……」
「ん? ああ、俺たちのクラス担任は別。美術部の顧問してもらってるし」
 言ってなかったっけ? と首をこてんと傾ける高嶺先輩を前に、私は驚いて言葉が出ない。顧問がいたこと自体初耳だ。でもよく考えれば、部員が五名と顧問教師一名がいれば部活として成立、生徒会から承認を得られるのだ。非公認でも部を名乗る以上、順当な手順を踏んでいるはず。
「学校の中でも悪い奴しかいないわけじゃない。それを生徒がどう上手く扱い、味方に引きずり込むか――使えるものは全部使うし、利用する」
「高嶺先輩が言うと、すごく悪いことに使いそうな感じがします……」
「違いねぇ」
 香椎先輩がククッと喉を鳴らすように笑うと、高嶺先輩は不貞腐れた顔をした。私も耐えられずに吹き出してしまう。高嶺先輩はさらに眉間にシワを寄せる。
「浅野、最近ようやく素が出てきたよね。言葉が刺々しいというか」
「えっ……ご、ごめんなさい!」
「いいぞ浅野、もっとやれ」
 私が美術部に顔を出すようになってしばらくすると、高嶺先輩は「浅野」と呼び捨てるようになった。緊張しい私を慣れさせるためだったのだろうが、私自身もいつの間にか、教室にいる時よりも心無しか居心地がいい。素が出ているのかは自分でもわからないけど、少なくとも美術部の二人といるときが一番気を張らずにいられる気がする。
「そういえば浅野、ずっと気になってたんだけどさ」
「へ?」
「中学の時に絵画コンクールで入賞してなかった?」
 ――だから、唐突に投げてくる話にどう返せばいいのか困ることも増えた。