先輩――改め、高嶺()(あき)先輩に連れられ、校内をぐるぐるとまわる。
 昼休みにも同じようなことがあったけど、それがつい先日のような感覚に陥っているのは、迷路のように続く校内が未だに覚えられないからだろう。高嶺先輩は長身で足も長いから、隣に並んで歩くとどうしても駆け足になってしまう。追いつくのがやっとだった。
 次第に美術室や金工室がある階に着くと、芸術コースの生徒が個人製作の作業をしている姿が見えた。廊下から珍しそうに覗きながら歩く私を見て、高嶺先輩が立ち止まった。
「ここら一帯が芸術コースの作業場なんだ。彫刻や金工作品を保管する場所の確保も大変だからな。ちょっとしたアトリエみたいになっているんだよ」
「やっぱり芸術コースというだけあってしっかりしてますね」
「いや、たかが高校の普通科内の学科コースだ。美大には比べられないし、他の学校よりも機材は揃っていない。でも部屋が多く余ってるってのは利点だな。それだけ作業が自分のペースでできる」
「……あの、高嶺先輩は一組ですよね? 芸術コースの専攻なんですか?」
 芸術コースはクラスが独立しているわけではなく、普通科の進学コースの生徒と混ざって授業を受けている。難関大学を目指す少人数制の特進コースは別として、一組で内部事情にも詳しいのであれば、芸術コースにいてもおかしくはない。
 すると高嶺先輩は大きく肩をすくめた。
「俺は進学だよ。軽くスケッチができるくらい」
「え……じゃあどうしてそんなに詳しいんですか?」
「有名だからね。芸術家の卵が集まる学校にしては宝の持ち腐れって感じだな。……でもまぁ、内情はもっと腐ってるけどな」
 最後の方は声が小さくて聞こえなかったけど、多分先輩は芸術コースのことをあまり良く思っていないような気がした。
 さらに足を進め、芸術コースの生徒が使っている美術室よりも奥にやってきた。
 廊下の両端には乱雑に画材やガラクタが置かれている。随分放置されているのか、埃が溜まっていた。それを避けるようにして進むと、『第八美術室・資材置き場』とプレートが掲げられた戸の前で止まった。
「ここは過去の作品や使われなくなった資材を置く、物置扱いされてる美術室。気味が悪いって誰も寄りつかないんだ」
「えっ……!?」
「大丈夫、何も取って食ったりしないから。……新入生が美術部の存在を知っていることを、アイツにも教えてやりたいんだ」
 アイツ?
 私が首を傾げたのを見て、高嶺先輩は戸に触れた。ギチギチと引っかかる音を立てながら開かれると、中は薄暗く、埃っぽい匂いがする。換気ができていないのだろう。
 先輩が入口近くのスイッチを押すと、パッと室内が明るくなった。そこには何十枚、何百枚もののカンバスが壁一面に置かれた棚にぎっちりと詰め込まれており、物置と呼ばれてもおかしくはないほど乱雑に置かれていた。
 その中心――ぽっかりと穴が空いた空間に一人、イーゼルに乗せられた描きかけのカンバスの前でじっと見つめている男子生徒がいた。カーテンの隙間から覗かせた夕日の色が頬を照らすと、造形の美しさに思わず息を呑んだ。
()(しい)、ちょっと休憩しろー」
 高嶺先輩が画材を避けながら、香椎と呼んだ彼がいる中心に寄っていく。声が届いたのか、彼はぎろり、と目を私に向けた。
「……誰を連れてきた?」
「可愛い可愛い後輩だよ。先生たちに絡まれてたから連れてきちゃった」
「きちゃった、じゃねぇよ……ちょっと、そこの人」
 睨みつけたままそう言って、私にこいこいと手を振ってくる。
 呼ばれるがまま近付くと、突然、両頬を包まれるように触れられ、ぐいっと引っ張って自分の顔に寄せてきた。
 鼻先があと五センチもない距離感に、慌てて後ろに下がろうとするも、頬から後頭部へ移動した右手が頭をホールドして動けない。
「ヒッ!?」
「逃げんな。何もしねぇからじっとしてろ」
 こ、これのどこが!?
 焦る私に対して、顔色変えない彼は頑なに目を逸らそうとしない。
「香椎、それはさすがにやりすぎだろ……」
「そ、そそうです! 近いにもほどがありますって!」
「うっせぇ。これくらいしないとわからないだって」
 私の頭を掴んだ手を緩めることなく、ただじっと見つめられる。そして少し距離を離したかと思えば、品定めするようにじっと黙り込む。体感的には五分くらい経っている気がした。
 しばらくして「なるほど」と、何がわかったのかは知らないが、固定されていた両手から解放された。生きた心地がしない。急激に上がった心拍数を落ち着かせようと深呼吸すると、途端にむせかえった。この教室がろくに掃除されていない物置だったことをすっかり忘れていた。
「高嶺、換気しといて。自販機行ってくる」
「自分で開けてからいけよ、ったく……大丈夫?」
 颯爽と出ていく姿を横目に、高嶺先輩が近くにあった椅子を持ってきて座らせてくれた。呼吸を整えている間に教室の窓を開けて換気をする。
「すみません……あの、さっきの人は……?」
「俺と同じクラスの香椎(ゆう)()。ごめんな、急に驚いただろ」
「は、はい……あんなに距離が近いのは生まれて初めてだったので」
「アイツ、顔を覚えるのが苦手でさ。許してやってよ」
 高嶺先輩に背中を擦られてようやく落ち着くと、室内を見渡した。
 机や棚を埋め尽くすカンバス、カンバス、カンバスばかり。乱雑に置かれたイーゼルが立てかけられているが、ほとんど脚が折れている。
 香椎と呼ばれたあの先輩がいつからいたのかは知らないけど、この埃まみれの部屋の中心で何を描いていたのだろう。中心に置かれたカンバスには鉛筆で描いた下描きがうっすら見えるだけで、描き始めたばかりのようだった。
 しばらくして戻ってきた香椎先輩の手には、ペットボトルの水を二本と、紙パックで売られているウーロン茶とミルクティー、いちごミルクがあった。空気を入れ替えているせいか、教室に入って早々にぶるっと肩を震わせる。
「……寒い」
「窓開けたばっかりだぞ。半分も空気の入れ替えしてないって。それより買いすぎじゃね?」
「適当に買った。えっと……名前聞いてなかった」
「あ、浅野です。一年二組で、進学コースです」
「へぇ、浅野さんって言うんだ。知らなかった」
「お前、連れてくるなら知っとけよ……とりあえず水。咳き込んでたから飲んどいて」
 そういって、器用に指で挟むようにして持っていた二本のペットボトルの一つを私の前に差し出す。戸惑っていると「指が攣るから早くして」と催促されてしまった。受け取ると、満足そうに口元を緩める。不愛想な表情を前に怖がっていたけど、小さく微笑んだその表情のおかげで、恐怖はどこかに消えてしまった。
「あと紙パック。何が好き?」
「あの、水だけで充分なんですが……」
「水はさっきのお詫び。紙パックは高嶺のおごり。今飲めとか言わないから」
「で、でも……」
「どうせ詳しい説明をされずに連れてこられたんだろ? だったら高嶺のおごりで充分だ。俺たちは残り物でいいから先に選んでくれ。高嶺、後で四八〇円な」
「ちょっと待て! 浅野さんの紙パック代はいいとして、その金額だとお前の水代も入ってるよな?」
「じゃあ何か? こんな埃まみれのところに何も知らない後輩連れてきて、ハウスダストアレルギー持ちだったらどうすんだよ。アウトだろアウト」
「うっ……」
「そ、それじゃミルクティー、いただきます。ありがとうございます」
 ミルクティーを受け取ると、おごりについて聞いてくる高嶺先輩の頭にウーロン茶を乗せて黙らせた。
 香椎先輩はペットボトルの水をカンバスの近くに置いて戻ってくると、椅子を二つ持ってきて渋い顔をする高嶺先輩に渡す。この二人、案外仲が良いのかもしれない。
「それで高嶺、どうして連れてきた?」
「そうそう! 実は彼女、美術部に入りたくて入学したんだって!」
 入りたいとは言ってないんだけどな。――多少事実を曲げられたことに眉をひそめると「美術部」の言葉を聞いた香椎先輩が私を二度見した。先程と打って変わって目の色が変わる。可愛らしいパッケージのいちごミルクにストローを刺そうとする手を止め、高嶺先輩の方を見た。
「……高嶺、お前正気か?」
「まさか。文化祭の絵を見て決めたって聞いて、俺もびっくりしているんだよ」
「コイツまで巻き込むつもりじゃないよな?」
「現状を伝えて理解してもらうつもり。……なんせあの長谷川の勧誘を頑なに拒んでいたんだ。それ相応の話を教えてあげないと、彼女も納得してくれないだろ」
 話が見えない。