放課後になると同時に、教室から颯爽と出ていくクラスメイト達を見送った。なんでも、今日から本格的に部活動が始まるらしい。早紀も同じようで張り切って出ていった。教室に残ったのは部活がなかったり、帰宅部の生徒ばかりで談笑して盛り上がっている。それを横目に、荷物をまとめて教室を出た。今日はアルバイトが入っていないから、このまま真っ直ぐ帰るつもりだ。
 すると、廊下で後ろから「浅野!」と長谷川先生に声をかけられた。
「お前だけ入部届が提出されていないが、本当に入る気はないのか?」
「は、はい……バイトも始めているので」
「家の事情は聞いてはいるけどな、浅野は本当にそれでいいのか? よかったら幽霊部員でもいいから演劇部に入るのはどうだ? 成績にも反映されるし、浅野にとっても都合がいいだろう」
 長谷川先生は、自分が顧問をしている演劇部を存続させるために必死に新入部員をかき集めているのだと、クラスの誰かが話していた。そのせいか、今の先生の言葉は誘導尋問のようなものにしか聞こえなかった。そんな先生にとって、どの部活にも入ろうとしない私はちょうどよい人材なのだろう。人数合わせにはもってこいだ。
「だから、部活は――」
「ひょっとして、まだ美術部を探しているのか? なぜそんなに固執するのか俺には分からないが、時間の無駄だ。別の部活に入って楽しめばきっと美術部のことも忘れる。まだ始まったばかりの高校生活だぞ、先生を敵にまわしたくないだろ?」
 あまりにも強い威圧感に耐え切れず俯いた。
 先生の顔を見られない。ここで頷かなかれば、先生だけでなく学校中を敵にまわしたことになるなんて、ただの脅迫だ。先生の自己満足に屈したくないのに、恐怖心からか断りたくても声が出ない。
 ああ、なんでこうなるんだろう。
 先生も早紀も皆、私のことなんて放っておいてくれたらいいのに!

「――それって、スクハラにあたりませんか?」

 誰かが私の横に並んだ。聞き覚えのある、優しい声色に強張った身体が解かれた。顔を上げると、そこにはあの三年生の先輩がいた。屈託のない笑みを浮かべた先輩を前に、長谷川先生は苦笑いをする。
「た、(たか)(みね)……お前、こんなところで何をしているんだ?」
「生徒なんだから、どこにいてもいいでしょう。用事があって来ただけです。それよりも先生、一年生に何しているんですか?」
「いや、これは……」
「あ、これ動画撮ってるんで。とぼけても無駄ですよ。体罰同様にハラスメントも厳しいご時世ですから、拡散したら一気に炎上しますね」
 高嶺と呼ばれた先輩はそう言って片手に構えたスマホを揺らす。録画中の赤いランプがちらついたのを見て、次第に先生の顔色が真っ青になっていく。
「お前っ……理事長に気に入られていたからって、調子に乗るんじゃ――」
「それとこれとは話が別です。彼女に用があるんですが、話はまだ続きますか? 返答次第では動画、削除してあげてもいいですよ?」
 先生だって学校に泥を塗りたくないでしょう、と一向に笑みを崩さない先輩に対し、先生は悔しそうに唇を噛む。しばらく睨み合いが続くも、先に白旗を上げたのは先生だった。
「クソ……わかったよ! ちゃんと消しておけよ!」
「はーい」
 舌打ちを残して先生が立ち去る。こんな簡単に教師が折れることがあるのだろうか。唖然としていると、先輩は私に声をかけた。
「長谷川先生の授業、昨年受けていたけど大分悲惨だったな。答えが合わない問題を自分で出したくせに、生徒が解けなくて困っているのを一方的に怒鳴ってた。今回の動画を職員室に提出したら、今度こそブラックリスト入りってところだな」
 災難だったね、と笑って言う。片手で操作するスマホの画面には「保存しますか」と表示されており、先輩は迷わず「はい」をタップする。
「削除するんじゃないんですか?」
「スマホの中のはね。自宅のパソコンに保存したんだ。何かあったときのための武器は多い方が良いからさ。……それよりも、大丈夫? 何もされてない?」
 スマホをポケットに仕舞いながら先輩は心配そうに問う。先輩が来なかったら、私はあのまま長谷川先生の威圧感に押され、演劇部の入部届に記入していただろう。
「はい、ありがとうございました」
「ならよかった。……ところで、さっきちょっと聞こえたんだけど、美術部を探しているって本当?」
 美術部――そう口にした途端、先輩の目つきが変わった。先生たちのように毛嫌いするような目つきではなく、真剣な表情に息を飲んだ。
「は、はい。……でも、美術部は存在しないっていわれて」
「ああ、うちの学校は芸術コースがあるからね。毎度コンクールで入賞しているし、先生たちもそっちにつきっきりなんだよぁ。掛け持ちしている先生だって多いのに、年がら年中人手不足だよ」
「そうですよね……教えてくださってありがとうございます」
 先生の思惑が生徒にまで反映されている。もしかしたら、あの絵を描いた美術部員は卒業してしまったのかもしれない。あれが最後だったから展示してもらえた可能性だってある。あの時のご婦人にもっともっと詳しく聞いておくべきだった。
 私が大きく肩を落としたからか、先輩はさらに尋ねてきた。
「どこで美術部があるって知ったの? 学校案内のパンフレットにも、ホームページにも載ってないはずだけど」
「……そこまで徹底されているんですか?」
 急ぎ取り寄せた資料はカリキュラムについての説明が全体の三分の二を占めていたし、部活紹介の欄は運動部と文化部の代表的な部活がそれぞれ三つほど並べられ、最後に「…他」と締めくくられていた。すべての部活動を把握したのはオリエンテーションの時だ。
 それを先輩に言うと、引きつった笑みでさらに問われた。
「マジか……本当にどうやって知ったの? 教師も二、三年生も暗黙の了解みたいに知らないことになっている美術部の存在だぞ?」
「でも文化祭のときに一枚出していましたよね? 私、あの絵を見て入学を決めたんです」
 あの日からずっと頭の中にあった『明日へ』の絵が今日、ガラス戸の向こうに飾られているを見て息が詰まった。
 初めて見たときから感じたあの衝動が一瞬のうちに蘇って、涙が零れるほど嬉しかった。私がこの学校に入学した目的のうち、一つはすでに達成したにすぎない。
 ――ああ、そうか。私は嬉しかったんだ。
 散々な言われようの美術部が存在していたことを、あの絵が証明してくれた。その事実だけで充分だ。
 すると先輩は突然、私の両肩を掴んだ。心無しか手が震えている。
「……その話、もっと詳しく聞かせてくれる?」