「は?」
一瞬、何を言ったかわからなかった。鮮烈な名前だけが雷光のように閃き、数秒遅れてその名が意味する衝撃が俺を襲った。
「はあああ!? 何お前、露川祠のいとこなの?」
「うん。アタシは親しみとリスペクトをこめて祠ちゃんって呼んでいるけど」
「親しみはともかくリスペクトこもってないだろ、ソレ?」
「そう? 少なくとも呼び捨てよりかはリスペクトしてない?」
納得できるような、釈然としないような回答。コイツらしいといえばコイツらしいかもしれない。ともかく、妙に親しげな「ちゃん」付けの理由は分かった。
いやそれよりも、だ。
「何でそれ、もっと早くにそれ教えてくれなかったんだよ」
「だって匠、祠ちゃんガチ恋勢じゃん。初めての彼氏を取られたくなかったんだもん」
「う……」
言い方はともかく、琴那の視点は鋭い。
露川祠は俺の憧れだ。その憧れの親戚がすぐ近くにいると知れば、俺も思わず変な要求をしてしまったかもしれない。
少なくとも藤原琴那と言う存在が「大切な彼女」から「露川祠のいとこ」に格下げされる可能性は十分にあった。
「じゃあお前は、露川祠から小説のいろはを習ってきたのか?」
「小学校の頃は、学校の宿題の作文を見てもらっていたし、中学に入ってからはweb小説のアドバイス貰ってた」
「なんて……」
なんて羨ましいヤツ。
そう言いかけたけど、途中で俺の感情が、喉奥の門を固く閉ざす。
「最初は、好きな漫画やアニメの二次創作みたいな所から始まってね。祠ちゃんのアドバイスに従って、構成とか言葉選びとか考えていくうちに、面白くなってきちゃってさ」
昔を懐かしむような琴那の口調。
「高校に入ると、オリジナルに挑戦するようになった。投稿先も一時創作専門で、人気作品は書籍化もするようなところに変えてね」
そのあたりの話は、付き合っていた頃にも聞いたことがあった。投稿サイトのマイページを見せてもらったこともある。閲覧数やフォロワー数は結構な数字で、ランキングにもちょくちょく名前が載っているようだった。
その裏にはプロ作家・露川祠の影があったとわけか。ふざけるな、と思ってしまう。
そこまで恵まれた環境を捨てて、堕落の路へと向かったコイツに、羨ましいどころか憎悪が募る。露川祠に憧れ、文章を書いてきた者として、許せない。
「ま、シェヘラザードの二次選考まで通ったのは、奇跡みたいなものだけどね。露川祠の劣化コピーみたいな作品しか書けなかったし、祠ちゃんも私のこと、自分のマネだって評価してた」
ため息交じりに、琴那は言う。
「劣化コピー、か」
その評価が正しいのかどうか、俺にはわからなかった。なぜなら俺は……。
「おや? その、うなずくでも否定するでもない、微妙な反応。さては匠、アタシの作品読んでないな?」
「なっ!?」
図星だ。そうなのだ。俺は、その二次選考を通ったという、コイツの作品を読んでいない。いや、その後に出しているサークル機関誌も、藤原琴那のページだけは読み飛ばしている。
「や、それは……」
「アッハハハ! やっぱりね。そんな気はしていたんだけどさ」
「違うんだ。それは、説明させてくれ!」
「ううん、いらない。嫉妬でしょ?」
身体が凍りついた。全て、見透かされている。
「それと、下手に読みこんで、自分の作品が彼女の色に染まるのが怖かった、とか?」
「……」
的中すぎて、何も言えない。
「多分さー、アタシも同じだもん。仮に自分の彼氏がシェヘラザードのファイナリストになったと考えて、当時のアタシなら絶対読まなかった。同じ理由でね」
「多分、お前と付き合ってなければ読めたんだと思う。嫌……だったんだ。お前の作品を読んだら、お前との関係が変わってしまう気がして」
適度にライバルであり、適度に恋人。あの頃の俺たちの繋がりは絶妙なバランスで成り立っていた。そのバランスが心地よく、それが崩れそうなことはできなかったのだ。
「うんうん。そーゆーとこまで、アタシと同じだ。実はさ、アタシも付き合い始めてからアンタの小説を読んでないよ」
「そうだったのか?」
「うん。だからこれはお互い様。それに、他のメンバーもどうせ読んでないしね、アタシの話なんて」
そう言うと、琴那はふふっと笑った。俺にはそれが、どこか乾いたような、空虚な息遣いに感じられた。
「いや……そんな事はないんじゃ?」
「本当にそう思う?」
「どういう意味だよ?」
「うーん。ま、とりあえずはいいや」
表情に少しだけ空虚さを残して、琴那は続ける。
「話を戻すけどさ。アタシ、露川祠っぽさから抜け出したくて、文創に入ったんだ。高校までは師匠が祠ちゃんだけだったからさ、他のメンバーから刺激をもらえれば、違う方向へ発展できるんじゃないかって」
露川祠の劣化コピーという状況を打開したいと思うのなら、その選択は間違っていないだろう。仲間から刺激をもらってそれを創作に活かす。それは俺にとっても、理想のサークル活動であり、文創に求めていたものだった。
けど、いよいよもってわからない。そんな文創を、何故こいつはぶち壊した?
ここまでの話を聞く限り、そして当時の記憶を思い出す限り、一年生の頃の藤原琴那は、真面目に創作に打ち込み、結果も出している文創期待のホープだった。もしかしたら、それこそ第二の露川祠にだってなれたかもしれない。
それがどうして、ろくに書かず、飲み会やら何やらで周りを巻き込んで、サークルを堕落させていったんだろう?
「祠ちゃんの作品が載ってる機関誌、もちろん読んだ事あるよね?」
「ああ。サークル部屋に残っているバックナンバーは全部読んでいる」
「さすが」
文創は毎年11月に機関誌を発行する。それを学祭で頒布するのだ。基本的にサークルメンバーは全員参加、原則として未発表のオリジナル作品のみ。
つまりそこには露川祠の未発表作品が掲載されている。俺はサークル部屋に保管されているバックナンバーを何度も何度も読み直した。
「ならわかるでしょ。祠ちゃんの世代がどれだけヤバかったかって」
サークル発足以来、数十年。その歴史と同じ冊数の機関誌が発行されている。その中でも、露川祠が在学していた期間の4冊はすごかった。特に彼女が四年生の時の1冊は、アンソロジーとしての出来が卓越している。
露川本人もさることながら、他のメンバーの作品もずば抜けてレベルが高い。あのまま書店で売っていてもおかしくない程だった。
「祠ちゃん、あまりサークル時代の話しないんだけど、一度だけ私に話してくれた事あるんだ。文創が今の自分を作ったって」
「まぁ、文創にいた時の作品がシェヘラザード取ったわけだしな」
「ううん。そうじゃなくて……ほら、あの人って変な経歴じゃん?」
「変な? ……確かに変ではあるな」
露川祠作品の中で、いわゆる「初期露川」とされるものは案外少ない。デビューから卒業直後までの2年半に書かれた長編2作と短編2作のみだ。
最後に発表された短編のあと、彼女は専業作家の道を一度離れ、少年漫画の原作を始めた。さらにはゲーム会社に籍を置き、十年近くシナリオライターをやっている。作家として行き詰ったとか、最初からエンタメ方面への進出を考えていたとか、諸説あるけど真相は定かではない。
「アタシに話してくれたのは、ちょうどゲームシナリオを始めた時期だった。まずアタシが聞いたんだよね、もう小説は書かないのかって」
彼女のファンなら誰でも知りたいことだ。俺自身、彼女の活躍を目にするたび思っていた。
露川祠原作の漫画もゲームも全部買った。どれも最高に面白かった。けど、俺が憧れ目指していたのは小説家の彼女だったから、またいつか本を出して欲しいと願い続けていた。
「そしたら祠ちゃん、小説が嫌になったわけじゃないって。ただ、文創で培ったものが自分を新天地へ行くように急かすんだって」
「どういうことだ?」
「アタシもその時はわからなかった。でも嬉しそうに話してくれたよ、当時の文創のメンバーが色々なきっかけを作ってくれたって。その話を覚えていたから、アタシもこの学校を目指したの」
「文創で刺激をもらうために?」
琴那は黙ってうなずく。
「同じサークルで創作を志す同志なら、アタシの文章を変えてくれるかもってね。ま、結果はとんだ見込み違い。アタシらの代の文創はまるでダメだったね。先輩たちも含めて」
「ちょっと待て、それは……」
聞き捨てならない一言だった。文創をダメにしたのはお前だろう。他ならない藤原琴那だろう?
「んー何か不満?」
不満だ。決まっているだろう。
「ならさ、覚えてる? あの日の新歓にきてた一年生は5人。けど、そのうち3人は4月中に辞めてるって」
「え?」
「よーく、思い返してみ? あの新歓のメンバーに、今の四年生いる?」
確かにいない。あの日の新入生のうち、俺と琴那以外の3人は、気が付けば姿を消していた。今となってはみんな顔も思い出せない。
同期の文創メンバーの残り全員は、連休のあとに先輩たちがかき集めてきた面子だった。
「あの3人は、すぐ理解したんだよ。どれだけ熱意を持っていても……いや、熱意があればこそ、ここで書き続けるのは難しいって」
3人ともプロ志望で、高校の頃から何本もの長編を書いていた。そう、だから一年生の4月当時、俺は確かに思っていたんだ。文創に入ってよかったと、いい刺激をもらえそうだと。
「ま、当然だよね。好きな作家の名前を出したら、平然と読んだことないって返してくるような先輩たちだもん。失望するよ」
俺のメモを、琴那がめざとく見つけたとき、そこから露川作品の話題へと転がっていった。他の一年生もその話に加わっていった。その様子を眺めながら、ジョッキ片手にテーブルの向かい側に座る先輩が言った。「その人最近急に出てきたよね、読んだことないけど」と。
「初期露川も漫画原作やゲームシナリオの時代も知らないの。入部早々、アレでガッカリしちゃった」
琴那は嘲るように言った。その声音が、なぜかすごく癇に障った俺は、少し憮然とした声で応答した。
「文創はジャンルの制限していない。そういう人だっているだろう」
SF創作同好会や歴史文芸研究会とは違い、文創は執筆ジャンルが自由だった。俺のようなミステリ志望もいれば、恋愛小説専門の子やラノベ志望の子もいた。流行していたこともあって、web投稿のファンタジー作品を書いてるのが一番多かったようにも思う。
「村上春樹や宮部みゆきならともかく、露川祠だぜ。一般文芸読まない人なら、知らなくても仕方ないさ」
実際、俺だってよく読むミステリやラノベならともかく、馴染みのない恋愛小説やハードSFレーベルの人気作家を尋ねられても、答えられる自信はない。
「でも、話題の作家のひとりだったわけだし、とりあえず読んでおく、みたいな事しない?」
「全員が全員、同じ強度の文芸オタクってわけじゃ無い。その憤りは無意味だよ」
そこまで言って、奇妙な状況に気づく。なんで俺は弁護に回っているんだ?
琴那の憤りは、俺がずっと味わっていたことじゃないか。確かに俺も、あのジョッキの先輩の言葉はどうかと思った。
それだけじゃない。メモ癖を奇異な目で見られた時もそうだ。さらにはコイツが企画した飲み会やらBBQやらに皆がうつつを抜かしている時も、俺は今の琴那と同じような事を考え続けていたじゃないか。
「じゃあ、メンバー同士で作品を読みあわないのは?」
「だからそれも、そんな事はないって」
それでも、琴那の言葉と反対のことを言わないと気が済まない。そんな心境になっていた。
「期待の新人がシェヘラザードでいいセンまでいった原稿だぞ。読まないはずないって!」
俺自身は、琴那の作品を読まなかった。だからそう反論するのは、後ろめたかった。けど誰も読んでいなかった、なんてことはありえないだろう。
「匠さ、作品の批評とかしてもらったことある、あのサークルで?」
「いや、それは……」
無い。かつて、書き上げた短編の批評を先輩にお願いしたことはあった。けど何日たっても、先輩たちが原稿を手にすることは無く、サークル部屋の机の上に置かれたままだったことがあった。それで催促をすると先輩は言った。「他人の作品をこき下ろすとか、そういうことしたくないんだよね」と。
批評と叩きの区別すらついてないのかこの人達は、と心底落胆したのを覚えている。
「なんか、他人を評価したりするのはNGで、自分の好きなように書くのが良い、みたいな雰囲気あったじゃん?」
「でも、それはそれで考え方のひとつだとは思う。全員が公募ガチ勢ってわけでもないんだから、波風立つような事を避けるのはある意味当然だ」
思ってもいないことが舌先からベラベラと流れ出す。
どうしたんだ俺は? 琴那の言うとおりじゃないか。なのに、どうして俺は先輩たちや、彼らが作った文創を擁護している?
「ふーん。本当にそう思ってるの? 匠が?」
「……ああ、思ってるよ」
内心とは裏腹に、俺の口はそう続ける。すると、琴那はフッ、と鼻を鳴らした。
「フフっ、あはははっ! ……嘘ばっかり!」
声をあげて笑ったかと思うと、琴那の声が一段階高く、そして険しくなる。
「よく言うよ! じゃあ、匠はどうしてあんな発言したの? あの編集会議でさ!」
窓ガラスがガタガタと揺れている。風が強くなり、3月の雨は嵐の様相を呈していた。
「う……」
編集会議。その四文字が琴那の口からこぼれたことで、俺は肺を押し潰されそうな感覚を覚えた。
毎年11月に文創は、全員の作品を載せた機関誌を発行する。去年の夏休み、その編集会議の場で、俺は問題を起こし、そしてサークルを脱退することになった。
以来、今日まで俺は文創のメンバーと会っていない。今日コイツが押しかけてこなければ、生涯会わないはずだった。
「こんな低いレベルじゃ、本になんて出来ない。そうアンタは言ったよね?」
「……」
突きつけられた事実に、俺は無言の返答をするしかない。
「このままじゃ、歴代文創の恥さらしだ、なんてことも言ってたっけ」
「……」
琴那の言葉は、すべて事実だ。
俺はあの日、それらの言葉を同期のメンバーに投げつけた。
「そんなこと言った人に、先輩たちの肩を持つ資格があるとでも?」
琴那がそう言った瞬間、俺の中で何かに火が付いた。
「……お前さあ、いい加減にしろよ」
コイツにだけは言われたくない。コイツにあの事を非難されるのは我慢ならない。
「そういうの全部、お前のせいだろうが?」
「アタシの?」
「ああ、そうだよ。お前が訳の分からねえ飲み会やらレクリエーションやら。みんなの書く時間なにもかも奪って……サークル全体のレベルが下げてよ。堕落させやがって、俺は……!」
負の感情が脳から直接、口の外に飛び出してくるような感覚だった。文章として成り立っていない。俺の感情そのままに言葉断片だけがから出てくる。
「ふーん、見解の相違がありそうだね?」
「なんだと?」
「アタシに言わせりゃ、最初から文創はレベル低かったよ。それをアタシのせいにされるのは心外かな」
反撃の言葉が出てこない。こいつの言葉に同意してるからじゃない。呆れてるからだ。どの口が言うんだ、本当に。
「……少なくとも、俺たちが二年生のころまでは、みんな真面目に創作に取り組んでいたはずだ」
「本当にそう思ってる?」
初期露川を知らない先輩、メモ癖を呆れた目で見るメンバーたち。確かに思うところがないわけじゃない。それでも。
「それでも、みんな書いていた。それだけでも、今とはまるで違う」
「書くだけなら個人だってできる。サークルでやるのは刺激を与えあうためじゃない? アンタはそう思ったことないの? 例えば露川世代のようにさ」
露川世代……。
ああ、そうだ。何もかも琴那の言うとおりだ。あのバックナンバーを読んで以来、露川祠が在籍していた時代の文創が俺の理想だった。だからこそ俺は、あの3人のように文創を去らず、どうにかしてあの頃の文創に近づこうとあがいていた。
「アタシさ、アンタが一年の頃から文創を変えようとしていた事は知ってたよ。先輩や同期にオススメの小説の話をしたり、それとなく相手の作品のアドバイスをしようとしたり」
「よく見てたんだな……」
「当然でしょ。彼氏、だったんだから」
「彼氏、ね」
その言葉に、不意に不安が込み上げてきた。一年生の夏に告白されて以降、俺なりにコイツのことを想ってきたつもりだった。
けど、10ヶ月後に別れを告げられて以降、コイツの行動は不可解なものばかりだった。一体俺はどれだけ、コイツのことを理解してあげられたのだろう?
「それにさ、アタシ観察は得意なの。アンタや祠ちゃんみたいなメモ魔にはなれなかったけど、それには自信がある。だから人の行動の裏にどんな望みがあるのか、ある程度理解できるつもり」
「望んでいること、ねえ」
あの時、琴那は何を望んでいたんだろう。俺に、そして文創に……。
「そういう点では匠は落第だよね。頑張ってたのはわかるけど、相手が望んでいないことばかり押し付けていた。だったから何も変えられなかった。それどころか次第に、みんなとアンタの距離は開いていった」
まったく、その通りだ。反論のしようがない。少しずつでも文創を変えていきたかった。けどその思いが空回りし続けていた。
「で、その挙句が夏の編集会議ってわけ」
就活もひと段落して、四年生は書く時間が増えたはずだ。そして三年生もまだ自由に使える時間が潤沢な季節だった。なのに誰も動こうとしなかった。まだ真面目に書いていたころに過去作を適当に選んで、それ掲載すればいい。そんなことを本気で考えてる奴もいた。
事ここに至って、俺は焦っていた。このままだと本当に最低な機関誌になる。文創数十年の歴史の中で汚点となるような本になってしまう。よりもよって俺の代の本が、露川世代と対極にあるような駄作になってしまう。
だから強めの言葉を使った。「こんな低いレベルじゃ、本になんて出来ない」「歴代文創の恥さらしだ」
全部、今コイツが言ったとおりだった。そのくらいわないと届かない、もうそういうところまで来ていると思っていた。
結果、俺は編集委員を外された。機関誌に俺の作品を載せる場所は無い。そう宣告もされた。
事実上、俺は創文をクビになった。
「結局、アンタは4年間独り相撲を取り続けてたってわけ」
「きっかけが、きっかけさえあれば変わると思っていたんだ。少なくともみんな、創作に対する熱はあった……」
そう答える自分の声の、あまりの力のなさに驚いた。ふるえ、かすれ、ひどく弱々しい音だ。
「きっかけ? シェヘラザードのファイナリストじゃ不十分だったのかな?」
「そのファイナリストが率先して書かなくなったんだ。そういう意味では、みんな変わったよな?」
やりきれない気持ちをどうにかしたくて、俺は渾身の皮肉を琴那にぶつけた。けど、コイツは全く動じた様子も見せない。
「ふぅん。堕落、ねー」
つい今しがたまで琴那の目に宿っていた怒気のようなものは消えていた。そこに代わりに入ったようなものもなく、琴那はその空虚な視線を天井へ向け、そのまま黙ってしまった。
「……なぁ琴那。なぜだ? お前、昔はマジではすごかったじゃん。何で急に書くのをやめた? なんで急に文創を潰す側になった?」
「だからー、それは見解の相違だって」
琴那はちょっとうんざりしたような声音で答える。顔は天井に向けたままだ。
「あいつらは最初っからクズだった。匠にそれが見えてなかっただけ」
「なら、そう思った理由を教えてくれよ! 何があったんだ?」
俺と別れた直後からの変貌。あのサークル破壊の引き金になったのは俺なのか?
そう考えたこともあった。辻褄も合う。元彼への当てつけで、俺が大切に思っていたものを破壊する。考えられない話じゃない。けど、あまりに不愉快な推測になるのでこれまでは、深く考えるのを避けてきた。
けど、それ以外の何かがあったんじゃないか?
琴那の話ぶりから、俺はそんなことを考え始めていた。
「ふう……」
琴那は深いため息をつく。それから十秒程度の沈黙。その後ようやく視線を水平に戻し、俺の顔を見てきた。
「何があったか、ね。いいよ。答えても」
黒く、大きな瞳には異様な光が宿り、それが俺の目を貫いていた。
「その代わり、全部受け止めなさいよ?」
ビタッと、窓に何ががぶつかる音がした。風に巻き上げられた落ち葉が和室の窓に張り付いている。春の嵐はいよいよ本格的になっていた。
「掃き溜めに鶴って言葉あるよね? あの鶴、掃き溜めに住んでいる虫やネズミの視点でどう見られているか、想像したことある?」
外の様子もお構いなしに、琴那は話し始めた。掃き溜めに鶴。シェヘラザードの二次選考通過者が文層でどう見られていたか、と言う話だろう。
「羨望……いや、違うな。……嫉妬」
「ん、正解。簡単すぎたかな?」
「いや、それはまあ……」
俺がそうだったから。そう言おうと思ったけどやめた。どうせコイツは全て見透かしている。
「じゃあ、その嫉妬はどう言う形で発露されると思う?」
今度の質問は、答えるのに迷いが生じた。当時の自分の心境や、その時とった行動を振り返るのにはためらいがあった。
「ちなみに、アンタのアレはだいぶマシ。自分の創作を頑張るって方向で嫉妬心を処理していたのは、アンタだけだよ」
「そ、そうか」
どう反応すればいいか分からず、煮え切らない返事になってしまった。
自分の創作を頑張る。そう言えば聞こえはいいけど、シェヘラザードの後の俺は、お世辞にも良い彼氏とは言えなかっただろう。
恋人の名前が選考結果の記事に載ったのは、もちろん嬉しかったし誇らしかった。けど自分のペンネームがそこに無い事への焦りや敗北感のようなものも確かにあった。
それから二人で会う時間も削って執筆に費やしていた。コイツに対するアタリや言葉遣いもキツくなっていたと思う。
「もちろん彼女として不満が無いわけじゃなかったけどさ。でも、さっきも言った通り、逆の立場だったらアタシも同じような行動とってたハズだから」
一度言葉を区切り、琴那はフフッと笑った。
「むしろ嬉しかったよ。彼女である前に、書き手としてライバルと思ってくれてるって実感できたから」
「そう言うものなのか? 何にしても、悪かった」
あの頃の事が鮮明に思い出され、自然と頭を下げていた。
「だーから、謝んなって。アンタは全然マシだった。で、さっきの正解だけどさ……足を引っ張るんだよ。鶴の」
その声は表情豊かなコイツに似つかわしくない、無機質なものだった。何の感情もこもらない、機械音声のような、ただ事実を伝えるだけの声。
「何か、されていたのか?」
「今となっては他愛のもない事だけどね。サークル部屋の私物が消えたり、飲み会の連絡がアタシにだけ来なかったり、本当にくだらない事」
琴那の声は、変わらず温度がなく、淡々としている。
「アタシの気のせいかもしれないし、責めても言いがかりだと言われるだけで終わりそうなレベルの嫌がらせだよ。それでも立て続けにやられると、ね……」
初めて聞く話だ。あの頃のコイツにそんな事をする奴がいたのか。文創のメンバーに。
「あとは、webでの誹謗中傷。作品のコメント欄とか、ツイッターのエゴサ結果とかさ」
「は? いや、でもそんなの気にするお前じゃないだろ?」
琴那にとって何のダメージにもならないはずだった。大学に入る前からweb小説を投稿していたコイツにとってアンチコメなんて空気みたいなもので、全く相手にしていなかった。タチの悪いコメントならば削除することは出来るし、粘着してくるユーザーはブロックすればいい。
「顔の見えない相手からの誹謗中傷なら何とも思わない。でもさ、アンチコメをしたのが誰だか推測ついちゃうとさ、コレがけっこーキツイんだよね……」
「犯人がわかっていたのか?」
「確証はないけど、99%はそう。そいつの名字を英語に直訳しただけの雑なハンドルネームだったし」
確かに裏垢にしては雑だ。あるいはコイツに見つかるように、わざとわかりやすい名前にしたのかもしれない。
「それとさ……ううん。これはいいや」
無機質だった琴那の言葉が突如ゆらめき、歯切れ悪く中断された。
「なんだよ?」
「いや、いいって」
「ここまで言っておいて、それはないだろ? 全部受け止めろって言ったのはお前だぞ」
「……」
琴那は束の間、迷っていた。けど、決意したように顔を上げて俺の目を見つめてきた。
「嫌がらせの中には、彼氏には絶対言えないようなこともあった。……これだけで勘弁して」
目の前が暗くなった。十分過ぎた。平衡感覚が狂い、4.5畳の和室が歪むような錯覚を覚える。
「お前……なんで、もっと早く……そんなことになる前に……」
「言える訳ないでしょ。アンタはアタシのライバル。彼氏であるのと同時にさ、ライバルだったんだよ?」
不意に、琴那の目が潤んだ。頬がほのかに薄紅に染まった。
「アンタはライバルにこんな相談出来る? 自分の弱さをさらけ出せる?」
何も言えなかった。シェヘラザードの選考直後の俺の心境をコイツが言い当てたように、俺もコイツの心境をありありと想像できてしまう。
コイツはコイツで、俺とのバランスを崩したくなかったんだろう。
「アンタと別れる少し前にさ、アタシが2週間くらい学校休んだの覚えてる?」
「あったな、そんな事」
ちょうどコロナの流行が始まり、緊急事態宣言が出た頃だったから心配したのを覚えている。コイツには安否確認のLINEを何度も送ったけど「大丈夫」だとか「生きてる」だとか、一言のレスが返ってくるだけだった。
コイツの部屋に見舞いに行こうとしたが「来ないで」の一点張り。ステイホームのご時世、無理矢理押しかけるわけにもいかず、2週間悶々としていた。
「実はあの時がピークでさ。何もする気力も湧かなくて、ただ寝て過ごして1日をやり過ごすだけだった」
「マジかよ。そんな事になってたのか……」
「うん……でも、あの鬼LINEのおかげかな」
琴那はくすりと笑う。ほんの一瞬だけ、コイツの表情が安心できるものに変わった。
「急に、アンタの顔が見たくなって、それだけのために学校へ行って、それがきっかけで持ち直したんだ」
「そうか。だからあの時、学食で待ち合わせたのか」
大学では、いつもサークル部屋で待ち合わせていた。それがあの時に限って、普段は寄り付かない学食に呼び出された。あの時は不思議だったけど、他のサークルメンバーと顔を合わせたくなかったんだとすれば、当然の選択だ。
「でもね、本当の地獄はそこから。文字がさ、読めなくなったんだ」
「は?」
「気晴らしに祠ちゃんの本を読んだんだけど、全然頭に入ってこなかった。目と脳の間にフィルターがあって、意味が濾し取られてるみたいに。メールやLINEみたいな日常生活で使う短文は大丈夫。けど小説は全くダメ。書いてあることはわかるのに、それが文章として入ってこないの。想像できる?」
できるわけがない。
琴那や俺のような人種にとって、絶対起きてはならない事態だ。
「当然、書くこともできない。自分が書いた文章が正しいかどうかも分からないんだもん。笑っちゃうでしょ?」
「馬鹿……笑えるわけ、ないだろ……」
読むことも書くこともできない。
ストレスによる脳機能の低下? メンタルが脳に及ぼす作用? 医学的なことは推測のしようもない。ただ一つ明らかなのは、そんなのプロ作家志望の人間にとっては死に等しいということだ。
コイツの絶望感はどれほどのものだっただろう……?
「今も、そうなのか?」
「ううん、2年かけてだいぶマシになった。前より時間はかかっちゃうけど、読むことはできる。でも……書くのはダメだね。作家としてのアタシは二年生の時に終わっちゃったんだと思う」
「そんな……っ!」
そんなことがあっていいのか?あと一歩でプロ作家になれるだけの実力を持っていた奴が、あの露川祠に師事して何年も物語を紡いできた奴が、そんな目に遭わされるなんて許されるのか?
「なんで、なんでもっと……」
俺を頼ってくれなかったんだ。そう言いたいけど、その回答は先ほど突きつけられたばかりだ。
ライバルだから。
でもコイツに負けたくないと思う気持ちと同じくらい、支えたいって思いもあったんだ。恋人としての俺は、コイツにとっては不足だったと言うことか?
いや、実際そうなのだろう。俺とコイツの間にあるのはあくまで、作家志望者としての意識が前提で、真っ当に愛を育む事を怠っていた。
こんなにも脆い関係だったのに、それこそが最良のバランスと誤解していた。
「……だよねえ。やっぱ匠はそう言う顔になるよね」
そんな表情になる必要は全くないのに、琴那はどこか申しわけなさそうな顔をしている。それがやりきれなくて、瞼の裏に涙が溜まっていくのを感じた。
「だって、俺は……お前を、助け……」
「うん。いいよ、わかってる。言ったでしょ? アタシ、観察が得意なの。今の匠の顔が全て物語ってくれているから」
そんなこと言わないでくれ。お前は俺を責めるべきだ。お前が絶望の底にいた時、俺は何もしていなかった。お前に勝つ小説を書くことと、文創を露川世代の頃のように変えることしか頭になかった。その文創こそが、お前の敵だったのに。
いや、まて。
……敵?
その時、俺の中で恐ろしい推測が頭をもたげてきた。
「もしかして、お前が変わったのって……」
小説を書けなくなり、ヤケになった? いや、違う。それなら文創を辞めればいいだけだ。書けなくなった人間が文芸サークルに留まる必要なんかないんだ。まして、自分を陥れた敵ばかりのサークルに。
「復讐、なのか?」
けど、留まること自体に意味があるのだとしたら?
「鋭いねー。それも自分の感情をメモし続けてきた成果なのかな? 同類の思考回路は簡単に推測できちゃう、みたいな?」
同類。自分がもし琴那の立場になった時、同じ事を考えるかはわからない。けど、コイツは絶対にそうするという確信のようなものがあった。
「正直さーアタシに色々やってきた連中を追い出すのは簡単だったんだよ。手前味噌だけどサークル内でも人望ある方だったし、いくらでも味方は作れたと思う」
それはそうだろう。表向きのコイツの振る舞いを見ていればわかる。別に文創の全員がコイツをいじめていたわけではないはずだ。持ち前のコミュ力を活かせば、もっと短絡的な復讐は簡単に出来たはずだ。
「けど、お前はしなかった。お前の標的は、お前を陥れた個人ではなく、文創そのものだった」
事那はうなずいた。
「アイツら追い出したところで何も変わらないもん。憎むべきは文創の空気そのもの。アイツらを追い出したところで、どうせまたすぐ頑張ってる人の足を引っ張る奴が出てくる」
その顔は嫌悪感に満ちていた。
「それにさ、許せなかったの。人が書けなくなって地獄を味わっているのに、ろくに書いてもない奴が浅いところで『産みの苦しみ味わってます』みたいな感じ出しているのがさ!」
滅茶苦茶で独善的な論理。けど、それを俺に否定できるはずもなかった。
「だから決めたの。コイツら全員、アタシと一緒にとことん堕ちてもらおうって。書く時間を減らして、その事を気にやむことすらなくなるくらい、創作への情熱を消してやろうって」
そう話す琴那の顔は笑っていた。そこに俺が知っているものは何もなかった。笑顔ではある。けど、俺と軽口を叩きあっていた頃の笑顔でも、サークルの中心人物として、皆を籠絡してした笑顔でもない。
ただ、悪意のみ。文創に対する憎悪だけが、その笑顔に乗っかっていた。
「笑っちゃったよ。さんざんアタシを貶めてきたや奴もアタシにゲスな事してきた奴も、アタシが手の届くところまで堕ちてきたと確信した途端、手のひら返しちゃってさ。色々あったけど今は仲良しだよね、みたいな顔してやんの!」
コイツの魔性とも言えるコミュ力ならば、そうなるのも当然だった。
「半年もしないうちに文創はアタシの支配下に置かれた。あっけなかったよ。それで準備は整った、藤原世代のね!」
「藤原世代?」
「そ。露川世代の対義語ってところ。あの時代が文創の最盛期だとしたら、アタシらの世代はその逆。歴代文創の恥さらしになるような世代」
「恥さらしって、お前それって……」
「うん。アンタの言葉だよ。あの編集会議で言ったこと。実際、その通りだったんだよ。歴代最低の機関誌を作ることがアタシの最終目標だった」
「はは……俺と真逆のことをしようとしてたって事か」
なんでだ。なんでこんな事になってしまったんだ。同じ方向を見て歩いていたと思っていたのに、気がつけば俺たちは対極の位置で向かい合っていた。
「誤算だったのは匠、アンタだけだった。彼女もサークルも変貌して、もっと早くに見切りをつけると思ってた。新歓に参加したあの3人みたいにさ」
「だって……それでも俺はアイツらを信じてたから。一緒に上目指せるような、そんな文創にできると……」
そういう関係になれた琴那という前例があった。だからこそ俺はしがみついてしまったのかもしれない。けど、それについてはコイツにいうことはできなかった。
「そこからの2年間はさー、アタシとアンタの戦いだったんだよね。世界を良き方向に導こうとする善の神と、堕落させようとする悪の神。まるで古代の神話みたいなさ」
大袈裟な例えのように思えるけど、決してそんなことはない。俺にとっても琴那にとっても、文創は世界そのものと言っていい存在だった。
「で、そのハルマゲドンは俺の敗北で終わったわけだな。あの編集会議で……」
去年の秋に機関誌のために書いていた作品を書き上げて以降、俺は小説を書いていない。何度もキーボードに手を置いてみたけど、何かが萎えてしまい一文字も書けずにいた。ただただ、習慣化したメモだけが増えていく。
機関誌のための短編も、きっと日の目を見ることはないだろう。俺もまた、作家としての自分が終わってしまったのだ。いつの間にかはじまったコイツとの戦争にいつの間にか負け、全てを失った。
「そう。アタシの完全勝利……そう思ったんだけどねー」
不意に琴那は手を伸ばし、部屋の隅に置いていたハンドバッグの柄をつかんだ。
琴那はバッグから一冊の本を取り出した。帯もカバーも付いていない、表紙に絵すら入っていない簡素な製本。使用している紙の色もタイトルのフォントも毎年同じ。毎年のテーマとなるサブタイトルと、vol番号だけが違う。だからすぐにわかった。文芸創作同好会の機関誌だ。
「アンタ、まだ読んでないでしょ。アタシらの代の機関誌」
俺は琴那から本を受け取る。あの編集会議の場で、俺は失ったはずだ。これに作品を載せる権利も、これを読む権利も。
「いいから、読んでみな。匠がやったこと、全部載ってるから」
「え!?」
その言葉に俺は反射的に表紙を開いた。それからパラパラとめくり、目に飛び込んでくる文章を拾っていく。
すべての文に見覚えがあった。当たり前だ。すべて、俺が書いたものなんだから。
「馬鹿な……」
「ね、あたしもビックリした。文創の体たらくにも、アンタにも」
まさか、こんなことになるわけが。
「アタシに毒されて、なけなしの創作意欲すら失った四年生と三年生、10人分の短編。異様に出来が良い。少なくともアイツら本人の文章じゃない。……代筆したのアンタでしょ?」
「……」
俺は返事もせず、呆然と自分の文章を眺めていた。
「いや、代筆というのは正確じゃないね。アイツらがそれを望んだわけじゃなく、アンタが勝手に原稿をすり替えたんだろうから」
「……俺は文創を追い出されたんだぞ。すり替えなんて出来るはずないだろ」
「とぼけても無駄。アンタ、文創にクラウド持ち込んだ本人じゃない」
一年の頃、執筆環境にクラウドを導入しようと提案したのは確かに俺だった。機関誌の編集作業で苦労していた先輩たちを見て、思いついた事だ。
執筆中の原稿を誰かに見られたくないと抵抗感を示した先輩に、これなら入稿ギリギリまで作業できるし、ファイルに鍵さえかけておけば中身は誰にも読まれないと説き伏せて、ようやく導入したのだ。
文創で俺の提案が受け入れられた、数少ない例になるかもしれない。
「発案者なんだから、当然管理用パスワードも持ってるよね? それがあれば、アンタ本人のアカウントが消されていても、原稿を自由にできる。それにさ」
琴那は、自分の傍らに積み重ねられていたクリアホルダーの束をぽんと叩いた。
「このメモが何よりの証拠。この分類されているやつ、機関誌の作品と気持ち悪いくらい合致するじゃない?」
「ここに来たのはそのためだったのか……」
今日のコイツの不可解な行動の全てに、理由がついた。
「アンタがこっそりすり変えた原稿は、ノーチェックで製本まで行っちゃったみたい。誰もゲラに目を通してないでやんの。いやー誤算だったわ。創作意欲もとことんまで減退すると、こんな副作用が発生するなんてね」
誰も自作品に愛着なんて持っていないし、責任感も背負っていない。入稿してしまえば、あとはどうなろうと構わない。そんなところか。
「アンタが手を加えていない一年と二年の3人。あの子たちの作品は、元々ちゃんとしているんだよね。アタシも、当時を知らないあの子たちを毒牙にかけるのは、流石に気がひけたからさ」
今の文創は、三、四年生と一、二年生の間に断絶が起きている。ほとんどの新入生は、俺たちの代のあの3人と同じように、琴那たちの体たらくに失望し去っていった。残った奴らも上級生とは距離を置いてある感がある。
「最悪だった三、四年生たちの作品がちゃんとしちゃったもんだから、この機関誌メチャクチャ出来がよくなっちゃったんだよね。だからアタシの復讐は失敗」
そう言うと、琴那は深くため息をついた。
「サークル潰したアタシも大概イカれてる自覚あるけどさ、アンタのはホンモノの狂気だよ」
敗北宣言をしたにも関わらず、俺にはそう話す琴那が、晴れやかな顔をしているように見えた。少なくともさっきの虚無に満ちた顔や、純粋な悪意のみで構成された笑顔より全然良い。
「君が書いたのは10本の短編小説じゃない。文創の4年間そのもの。クズばかりでどうしようもなく堕落した文創を『ぼくがかんごえたさいきょうのぶんそう』として捏造したの。アタマおかしいって!」
「……最後の意思表示のつもりだったんだ。お前らが真面目にやっていれば、ここまで出来たかもしれない、こんな本が作れたかもしれないっていう」
琴那以外のメンバーのこれまでの作品は全て読んでいる。誰がどんな話を好むか、把握しているつもりだった。そして俺が残し続けてきたメモには、彼らが関わっているものも数多くある。それらをもとに俺は、あり得たかもしれない彼らの作品を書いた。
「ここまでできた、こんな本が作れた。そのお手本がアンタの小説ってこと? ずいぶん傲慢だね」
「そんなことはわかってる。けどそれしか思いつかなかったし、そのくらいしないと届かないと思った」
「ふーん。まあ結局、そこまでしても届かなかったんだけどね」
「だな、まさかコレで発行されるなんて……」
印刷が始まる前に、同級生たちからは激怒の電話が来ると覚悟していた。その時に自分の思いを全て伝えるつもりだった。それが、露川世代に憧れ続けた俺が、最後にできる事だと思っていた。
けど、そんな電話は来ないまま、機関誌が頒布される文化祭当日を迎えてしまった。もはや俺なんて眼中にない存在になった、それだけの事だ。そう思い定め、それ以上考えるのはやめた。
「今日さ、文創の追い出しコンパがあったの。アタシはその帰り」
「ああ、そうだったのか」
「アタシは作品の提出すらしなかったから、当然ゲラチェックもやらなかったの。手元に届いた本を読んで初めて、不自然なクオリティに驚いた。だから今日、彼らにそのこと訊いてみたんだ」
「誰も何も言わなかった、そんなところか?」
「ご名答。みんな少し歯切れ悪そうに、いい本ができたよねーとか言うだけ。誰も自分の作品じゃないなんて言わない」
「まあ、そうだろうな」
発行までされた以上、今更わめいたところで仕方ない。それは自作品に責任を持っていいなかったですと、自白するようなものだ。
「自分の作品は格段に良いものになってる。誰が原稿をすり替えたかわからない。他の人の作品もすり変えられているのか? それすらわからない。だって誰も他人の作品をまともに読んでこなかったから。私がそういうふうに仕向けてきたからね」
指摘すれば、本当の自分の作品がもっとダサいものだったとバレてしまう。その恥を晒してまで、自分の文章を通したいなんて矜持を持っている人間は、もう文創の三、四年生には残っていない。
「そして何より、まさか全員分の内容を書き換えてしまう狂人がいるなんて想像もしていない。そんなカラクリで、おめでとう、君の捏造は正史になったわけ。アタシらの代の文創は、藤原世代じゃない。匠、アンタの世代だよ」
そこまで望んでいたわけではないけど、結果としてそう言う事になってしまったわけだ。俺が在籍したかった、活気あり皆で刺激を与え合う文芸創作同好会は、虚構の中でのみ存在が許されるようになった。
「人の記憶なんていい加減だからね、10年後に部屋の掃除をして、この本を見つけたとする。久しぶり読んでみたら、それがそのまま真実になってるはずだよ。俺たちは文創で輝かしく建設的な青春を送ったって」
十分あり得る話だった。いや、琴那の話す追い出しコンパの様子から考えると、既にそうなりつつあるかもしれない。
「でもそこ匠の名前はない」
「そうかもね」
「本当にそれでいいわけ?」
「いいも何もしかたないだろ」
「ううん、ひとつだけあなたが忘れられない方法がある」
「いいっての、今更文創に未練はないし、俺はもう小説は……」
「いいから聞け!」
今日、一番大きく鋭い声で、琴那は叫ぶように言った。
「聞いて。匠が忘れられず、作家として存在し続けられる方法が、ひとつある。それはね、アンタが露川祠になること」
「はぁ?」
「というか、もう半分くらいなってるんだよ」
何を言っているんだ? 訳がわからない。
「アンタが原稿を捏造したと気づいた時、もうひとつ分かったことあるの」
「もうひとつ? どういう事だよ?」
「露川世代。祠ちゃんだけでなく、がみんなヤバかったって言ってたよね?」
「ああ」
俺の憧れ、目指し、ついぞ届かなかった世代。
「冷静に考えてさ、そんなことある? プロの編集がいるわけでも、職業作家だけが所属してるわけでもないサークルの機関誌。それが揃いも揃って傑作なんておかしくない?」
「おかしいも何も、実際に本が残っているわけで……」
そこまで言って、俺は気づく。違う。機関誌は、そんな世代が存在していたという証拠になんてならない。嘘と虚構にまみれた機関誌が、少なくとも一冊、存在している。
「文創は、祠ちゃん以外にも数人プロ作家を出している。でも掲載作品全てが商業レベルの機関誌なんて、あの一冊だけ。じゃあどうして、露川世代には露川祠以外にプロデビューした人がいないの?」
答えは明白だった。その正解は、去年の秋に俺が解答してしまった。
「『12人の嘘つきの王国』って知ってるよね?」
「もちろん、露川祠が全シナリオを手がけたゲームだ」
12人の主人公全てにマルチエンドが用意されているアドベンチャーゲームで、その12人のシナリオが複雑に絡み合っており、全てを読まないと真相に辿り着けないという大作だ。発売から数年経った今でも、史上最高のアドベンチャーゲームと評価するゲーマーは多い。
そのテキストは、メインシナリオはもちろんアイテムや舞台の設定テキストなど細かいところまで、全て露川祠が手掛けたという。
俺は露川祠の文章に触れたくて、半年以上プレイし続け、全てのエンディングを見た。
「あの作品で祠ちゃんが書いたのはただのストーリーじゃない。あのゲームの世界そのもの」
「その通り。露川祠は世界そのものを作った」
「アタシ、逆だと思ってたんだよね。祠ちゃんは学生時代に小説で伸び悩んだから、別の業界に転身したんだと」
転身の理由は諸説あるが、その中でも有力説のひとつだ。シェヘラザード以降の彼女の数少ない出品作品は、クオリティ面ではともかく、商業的には成功したとは言いづらい。
「でもさ、本職のミステリの傍らで、別の何か巨大なものを作っていて、その楽しさを知ったからゲームシナリオを始めたんだとしたら?」
別の巨大なもの。例えば、文芸創作同好会の虚構の4年間とか……。
「『文創が、今の自分を作った』『文創で培ったものが自分を新天地へ行くように急かす』祠ちゃんの言葉も辻褄が合うんだよね……」
突飛な推理。けど、もはや真相はそれしか考えられなかった。
「そう、露川世代のなんてまやかし。祠ちゃんはアンタと同じことをやってたの」
俺の中で何かが崩れる。露川祠と露川世代に憧れたところからスタートしたはずだった。しかしそのスタート地点は偽物で、たどり着いたゴールにこそ露川祠がいた……?
混乱してきた。俺は4年間何をしていたんだ? 俺がしてきたことは間違いだったのか? けど結果として俺は露川祠と同じ場所に立ってしまった。ならば……。
ならば俺は、これからどうすればいいんだ?
「書き続けなさい」
「え?」
「静岡にいようが就職しようが、書くことはできる。だから書き続けて、また東京に戻ってきて!」
「いや、でも俺はもう小説は……」
辞めた。と言おうとした時、何かが引っかかった。その三文字を口にする抵抗感。ついさっきまでそんなものなかったはずなのに。
「アタシさ、実はまだ就職決まってないんだよね」
「へ? そうだったのか?」
コイツも三年生のある時期、スーツを着てあちこちを駆けまわっていたはずだ。グループLINEで、内定を取ったみたいな話を目にした記憶もある。
「うん。内定もらっている所はあったけど辞退した。就職浪人してでも出版社か編プロに入る。それで絶対に文芸の編集者になる」
「本気か?」
「文芸サークル潰したような奴を、採用してくれるところがあるかはわからないけどね」
琴那は苦笑しながら言った。けどすぐに真剣なまなざしで俺を見つめてくる。
「でも、自分で作品をかけなくなったアタシがあの世界に関わるには、それしかないと思う」
「まだ小説に関わりたいのか?」
「あれだけのことをしておいて、許せない?」
「いや……」
数時間前までなら、許せなかっただろう。けど今となっては、そんなこと言えるはずもない。
「それでね。匠を、絶対に引っ張り上げる。アンタを露川祠にする」
琴那が体を寄せてきた。そして顔が近づき、唇と唇が重なる。
付き合っていたころのような甘さは感じられなかった。若干のアルコール臭と共に、何かが俺の体内に入り込んでくる。そんな感覚のキス。
「だからアンタは書き続けて。もう一度アタシに見つかるようになって」
翌朝、目を覚ますと俺一人だった。雨はやんでいて、窓からは明るい光が差し込んできた。
「琴那?」
返事はない。ハンドバッグは消えている。広げられていた菓子箱やクリアホルダーは、元の場所にきれいにまとめられていた。
あの後、俺たちは他愛無い話を続け、そのままどちらからともなく寝落ちしてしまったようだ。創作論も文創の過去やこれからも、露川祠の話ももうしなかった。
地元の話とか、好物の話とか、そんな本当にくだらない会話。琴那とするのは、不思議と初めてな気がした。
キスの後、色っぽい流れにはならなかった。ふたりともとっくにそんな資格を失っていた事は自覚していたし、お互いにあのキスを特別なものにしたいと言う意識が働いたのかもしれない。
あのキスは俺と琴那にとって、最後であり、全てであり、そして始まりとなった。
廊下に出て玄関を見る。半分濡れた琴那のブーツは無い。
洋間に入る。段ボールが乱雑に積まれている中、ポツンと白いコンビニ袋が置かれていた。
中を覗く。ビールとストロング系の缶酎ハイ、それに乾き物やスナック菓子のパッケージ。結局どれも、昨晩開封することはなかった。
「ったく、引っ越しの準備中だってのに、荷物置いていきやがって……」
袋の中にはもうひとつ、コンビニで買ったと思われる新品のメモ帳が入っていた。俺がいつも持ち歩いているのと同じ露川祠のブログを見て、最初に購入したのもこれと同じものだし、新歓コンパに持って行ったのもこれだった。
「呪い、かけやがって」
けどまあ、それはお互い様だろう。俺もきっと、アイツに呪いをかけてしまったのだ。
テーブルのペン立てからボールペンを一本取り出す。そしてメモ帳の最初のページに書き込む。
【また再び一歩】【露川祠】
そして
【高揚感】と。