ビタッと、窓に何ががぶつかる音がした。風に巻き上げられた落ち葉が和室の窓に張り付いている。春の嵐はいよいよ本格的になっていた。

「掃き溜めに鶴って言葉あるよね? あの鶴、掃き溜めに住んでいる虫やネズミの視点でどう見られているか、想像したことある?」

 外の様子もお構いなしに、琴那は話し始めた。掃き溜めに鶴。シェヘラザードの二次選考通過者が文層でどう見られていたか、と言う話だろう。

「羨望……いや、違うな。……嫉妬」
「ん、正解。簡単すぎたかな?」
「いや、それはまあ……」

 俺がそうだったから。そう言おうと思ったけどやめた。どうせコイツは全て見透かしている。

「じゃあ、その嫉妬はどう言う形で発露されると思う?」

 今度の質問は、答えるのに迷いが生じた。当時の自分の心境や、その時とった行動を振り返るのにはためらいがあった。

「ちなみに、アンタのアレはだいぶマシ。自分の創作を頑張るって方向で嫉妬心を処理していたのは、アンタだけだよ」
「そ、そうか」

 どう反応すればいいか分からず、煮え切らない返事になってしまった。
 自分の創作を頑張る。そう言えば聞こえはいいけど、シェヘラザードの後の俺は、お世辞にも良い彼氏とは言えなかっただろう。
 恋人の名前が選考結果の記事に載ったのは、もちろん嬉しかったし誇らしかった。けど自分のペンネームがそこに無い事への焦りや敗北感のようなものも確かにあった。
 それから二人で会う時間も削って執筆に費やしていた。コイツに対するアタリや言葉遣いもキツくなっていたと思う。

「もちろん彼女として不満が無いわけじゃなかったけどさ。でも、さっきも言った通り、逆の立場だったらアタシも同じような行動とってたハズだから」

 一度言葉を区切り、琴那はフフッと笑った。

「むしろ嬉しかったよ。彼女である前に、書き手としてライバルと思ってくれてるって実感できたから」
「そう言うものなのか? 何にしても、悪かった」

 あの頃の事が鮮明に思い出され、自然と頭を下げていた。

「だーから、謝んなって。アンタは全然マシだった。で、さっきの正解だけどさ……足を引っ張るんだよ。鶴の」

 その声は表情豊かなコイツに似つかわしくない、無機質なものだった。何の感情もこもらない、機械音声のような、ただ事実を伝えるだけの声。

「何か、されていたのか?」
「今となっては他愛のもない事だけどね。サークル部屋の私物が消えたり、飲み会の連絡がアタシにだけ来なかったり、本当にくだらない事」

 琴那の声は、変わらず温度がなく、淡々としている。

「アタシの気のせいかもしれないし、責めても言いがかりだと言われるだけで終わりそうなレベルの嫌がらせだよ。それでも立て続けにやられると、ね……」

 初めて聞く話だ。あの頃のコイツにそんな事をする奴がいたのか。文創のメンバーに。

「あとは、webでの誹謗中傷。作品のコメント欄とか、ツイッターのエゴサ結果とかさ」
「は? いや、でもそんなの気にするお前じゃないだろ?」

 琴那にとって何のダメージにもならないはずだった。大学に入る前からweb小説を投稿していたコイツにとってアンチコメなんて空気みたいなもので、全く相手にしていなかった。タチの悪いコメントならば削除することは出来るし、粘着してくるユーザーはブロックすればいい。

「顔の見えない相手からの誹謗中傷なら何とも思わない。でもさ、アンチコメをしたのが誰だか推測ついちゃうとさ、コレがけっこーキツイんだよね……」
「犯人がわかっていたのか?」
「確証はないけど、99%はそう。そいつの名字を英語に直訳しただけの雑なハンドルネームだったし」

 確かに裏垢にしては雑だ。あるいはコイツに見つかるように、わざとわかりやすい名前にしたのかもしれない。

「それとさ……ううん。これはいいや」

 無機質だった琴那の言葉が突如ゆらめき、歯切れ悪く中断された。
 
「なんだよ?」
「いや、いいって」
「ここまで言っておいて、それはないだろ? 全部受け止めろって言ったのはお前だぞ」
「……」

 琴那は束の間、迷っていた。けど、決意したように顔を上げて俺の目を見つめてきた。

「嫌がらせの中には、彼氏には絶対言えないようなこともあった。……これだけで勘弁して」

 目の前が暗くなった。十分過ぎた。平衡感覚が狂い、4.5畳の和室が歪むような錯覚を覚える。

「お前……なんで、もっと早く……そんなことになる前に……」
「言える訳ないでしょ。アンタはアタシのライバル。彼氏であるのと同時にさ、ライバルだったんだよ?」

 不意に、琴那の目が潤んだ。頬がほのかに薄紅に染まった。

「アンタはライバルにこんな相談出来る? 自分の弱さをさらけ出せる?」

 何も言えなかった。シェヘラザードの選考直後の俺の心境をコイツが言い当てたように、俺もコイツの心境をありありと想像できてしまう。
 コイツはコイツで、俺とのバランスを崩したくなかったんだろう。

「アンタと別れる少し前にさ、アタシが2週間くらい学校休んだの覚えてる?」
「あったな、そんな事」

 ちょうどコロナの流行が始まり、緊急事態宣言が出た頃だったから心配したのを覚えている。コイツには安否確認のLINEを何度も送ったけど「大丈夫」だとか「生きてる」だとか、一言のレスが返ってくるだけだった。
 コイツの部屋に見舞いに行こうとしたが「来ないで」の一点張り。ステイホームのご時世、無理矢理押しかけるわけにもいかず、2週間悶々としていた。

「実はあの時がピークでさ。何もする気力も湧かなくて、ただ寝て過ごして1日をやり過ごすだけだった」
「マジかよ。そんな事になってたのか……」
「うん……でも、あの鬼LINEのおかげかな」

 琴那はくすりと笑う。ほんの一瞬だけ、コイツの表情が安心できるものに変わった。

「急に、アンタの顔が見たくなって、それだけのために学校へ行って、それがきっかけで持ち直したんだ」
「そうか。だからあの時、学食で待ち合わせたのか」

 大学では、いつもサークル部屋で待ち合わせていた。それがあの時に限って、普段は寄り付かない学食に呼び出された。あの時は不思議だったけど、他のサークルメンバーと顔を合わせたくなかったんだとすれば、当然の選択だ。

「でもね、本当の地獄はそこから。文字がさ、読めなくなったんだ」
「は?」
「気晴らしに祠ちゃんの本を読んだんだけど、全然頭に入ってこなかった。目と脳の間にフィルターがあって、意味が濾し取られてるみたいに。メールやLINEみたいな日常生活で使う短文は大丈夫。けど小説は全くダメ。書いてあることはわかるのに、それが文章として入ってこないの。想像できる?」

 できるわけがない。
 琴那や俺のような人種にとって、絶対起きてはならない事態だ。

「当然、書くこともできない。自分が書いた文章が正しいかどうかも分からないんだもん。笑っちゃうでしょ?」
「馬鹿……笑えるわけ、ないだろ……」

 読むことも書くこともできない。
 ストレスによる脳機能の低下? メンタルが脳に及ぼす作用? 医学的なことは推測のしようもない。ただ一つ明らかなのは、そんなのプロ作家志望の人間にとっては死に等しいということだ。
 コイツの絶望感はどれほどのものだっただろう……?

「今も、そうなのか?」
「ううん、2年かけてだいぶマシになった。前より時間はかかっちゃうけど、読むことはできる。でも……書くのはダメだね。作家としてのアタシは二年生の時に終わっちゃったんだと思う」
「そんな……っ!」

 そんなことがあっていいのか?あと一歩でプロ作家になれるだけの実力を持っていた奴が、あの露川祠に師事して何年も物語を紡いできた奴が、そんな目に遭わされるなんて許されるのか?