琴那はバッグから一冊の本を取り出した。帯もカバーも付いていない、表紙に絵すら入っていない簡素な製本。使用している紙の色もタイトルのフォントも毎年同じ。毎年のテーマとなるサブタイトルと、vol番号だけが違う。だからすぐにわかった。文芸創作同好会の機関誌だ。

「アンタ、まだ読んでないでしょ。アタシらの代の機関誌」

 俺は琴那から本を受け取る。あの編集会議の場で、俺は失ったはずだ。これに作品を載せる権利も、これを読む権利も。

「いいから、読んでみな。匠がやったこと、全部載ってるから」
「え!?」

 その言葉に俺は反射的に表紙を開いた。それからパラパラとめくり、目に飛び込んでくる文章を拾っていく。
 すべての文に見覚えがあった。当たり前だ。すべて、俺が書いたものなんだから。

「馬鹿な……」
「ね、あたしもビックリした。文創の体たらくにも、アンタにも」

 まさか、こんなことになるわけが。

「アタシに毒されて、なけなしの創作意欲すら失った四年生と三年生、10人分の短編。異様に出来が良い。少なくともアイツら本人の文章じゃない。……代筆したのアンタでしょ?」
「……」

 俺は返事もせず、呆然と自分の文章を眺めていた。

「いや、代筆というのは正確じゃないね。アイツらがそれを望んだわけじゃなく、アンタが勝手に原稿をすり替えたんだろうから」
「……俺は文創を追い出されたんだぞ。すり替えなんて出来るはずないだろ」
「とぼけても無駄。アンタ、文創にクラウド持ち込んだ本人じゃない」

 一年の頃、執筆環境にクラウドを導入しようと提案したのは確かに俺だった。機関誌の編集作業で苦労していた先輩たちを見て、思いついた事だ。
 執筆中の原稿を誰かに見られたくないと抵抗感を示した先輩に、これなら入稿ギリギリまで作業できるし、ファイルに鍵さえかけておけば中身は誰にも読まれないと説き伏せて、ようやく導入したのだ。
 文創で俺の提案が受け入れられた、数少ない例になるかもしれない。

「発案者なんだから、当然管理用パスワードも持ってるよね? それがあれば、アンタ本人のアカウントが消されていても、原稿を自由にできる。それにさ」

 琴那は、自分の傍らに積み重ねられていたクリアホルダーの束をぽんと叩いた。

「このメモが何よりの証拠。この分類されているやつ、機関誌の作品と気持ち悪いくらい合致するじゃない?」
「ここに来たのはそのためだったのか……」

 今日のコイツの不可解な行動の全てに、理由がついた。

「アンタがこっそりすり変えた原稿は、ノーチェックで製本まで行っちゃったみたい。誰もゲラに目を通してないでやんの。いやー誤算だったわ。創作意欲もとことんまで減退すると、こんな副作用が発生するなんてね」

 誰も自作品に愛着なんて持っていないし、責任感も背負っていない。入稿してしまえば、あとはどうなろうと構わない。そんなところか。

「アンタが手を加えていない一年と二年の3人。あの子たちの作品は、元々ちゃんとしているんだよね。アタシも、当時を知らないあの子たちを毒牙にかけるのは、流石に気がひけたからさ」

 今の文創は、三、四年生と一、二年生の間に断絶が起きている。ほとんどの新入生は、俺たちの代のあの3人と同じように、琴那たちの体たらくに失望し去っていった。残った奴らも上級生とは距離を置いてある感がある。

「最悪だった三、四年生たちの作品がちゃんとしちゃったもんだから、この機関誌メチャクチャ出来がよくなっちゃったんだよね。だからアタシの復讐は失敗」

 そう言うと、琴那は深くため息をついた。

「サークル潰したアタシも大概イカれてる自覚あるけどさ、アンタのはホンモノの狂気だよ」

 敗北宣言をしたにも関わらず、俺にはそう話す琴那が、晴れやかな顔をしているように見えた。少なくともさっきの虚無に満ちた顔や、純粋な悪意のみで構成された笑顔より全然良い。

「君が書いたのは10本の短編小説じゃない。文創の4年間そのもの。クズばかりでどうしようもなく堕落した文創を『ぼくがかんごえたさいきょうのぶんそう』として捏造したの。アタマおかしいって!」
「……最後の意思表示のつもりだったんだ。お前らが真面目にやっていれば、ここまで出来たかもしれない、こんな本が作れたかもしれないっていう」

 琴那以外のメンバーのこれまでの作品は全て読んでいる。誰がどんな話を好むか、把握しているつもりだった。そして俺が残し続けてきたメモには、彼らが関わっているものも数多くある。それらをもとに俺は、あり得たかもしれない彼らの作品を書いた。
 
「ここまでできた、こんな本が作れた。そのお手本がアンタの小説ってこと? ずいぶん傲慢だね」
「そんなことはわかってる。けどそれしか思いつかなかったし、そのくらいしないと届かないと思った」
「ふーん。まあ結局、そこまでしても届かなかったんだけどね」
「だな、まさかコレで発行されるなんて……」

 印刷が始まる前に、同級生たちからは激怒の電話が来ると覚悟していた。その時に自分の思いを全て伝えるつもりだった。それが、露川世代に憧れ続けた俺が、最後にできる事だと思っていた。
 けど、そんな電話は来ないまま、機関誌が頒布される文化祭当日を迎えてしまった。もはや俺なんて眼中にない存在になった、それだけの事だ。そう思い定め、それ以上考えるのはやめた。

「今日さ、文創の追い出しコンパがあったの。アタシはその帰り」
「ああ、そうだったのか」
「アタシは作品の提出すらしなかったから、当然ゲラチェックもやらなかったの。手元に届いた本を読んで初めて、不自然なクオリティに驚いた。だから今日、彼らにそのこと訊いてみたんだ」
「誰も何も言わなかった、そんなところか?」
「ご名答。みんな少し歯切れ悪そうに、いい本ができたよねーとか言うだけ。誰も自分の作品じゃないなんて言わない」
「まあ、そうだろうな」

 発行までされた以上、今更わめいたところで仕方ない。それは自作品に責任を持っていいなかったですと、自白するようなものだ。

「自分の作品は格段に良いものになってる。誰が原稿をすり替えたかわからない。他の人の作品もすり変えられているのか? それすらわからない。だって誰も他人の作品をまともに読んでこなかったから。私がそういうふうに仕向けてきたからね」

 指摘すれば、本当の自分の作品がもっとダサいものだったとバレてしまう。その恥を晒してまで、自分の文章を通したいなんて矜持を持っている人間は、もう文創の三、四年生には残っていない。

「そして何より、まさか全員分の内容を書き換えてしまう狂人がいるなんて想像もしていない。そんなカラクリで、おめでとう、君の捏造は正史になったわけ。アタシらの代の文創は、藤原世代じゃない。匠、アンタの世代だよ」

 そこまで望んでいたわけではないけど、結果としてそう言う事になってしまったわけだ。俺が在籍したかった、活気あり皆で刺激を与え合う文芸創作同好会は、虚構の中でのみ存在が許されるようになった。

「人の記憶なんていい加減だからね、10年後に部屋の掃除をして、この本を見つけたとする。久しぶり読んでみたら、それがそのまま真実になってるはずだよ。俺たちは文創で輝かしく建設的な青春を送ったって」

 十分あり得る話だった。いや、琴那の話す追い出しコンパの様子から考えると、既にそうなりつつあるかもしれない。

「でもそこ匠の名前はない」
「そうかもね」
「本当にそれでいいわけ?」
「いいも何もしかたないだろ」
「ううん、ひとつだけあなたが忘れられない方法がある」
「いいっての、今更文創に未練はないし、俺はもう小説は……」
「いいから聞け!」

 今日、一番大きく鋭い声で、琴那は叫ぶように言った。