警備員との会話が聞こえてくる。まるでコントのようなやり取りに胃が痛んでくるのは、きっと気のせいだろう。周囲ではクスクスと笑い声すらも聞こえてくる。これ以上目立つ前に、早く助けなくては。
(しかし……あれを助け出すのは難易度が高くないか?)
しかも、警備員の言っていることが正論すぎて説得できる気がしない。頼りになるのは、警備員と顔見知りである岡名の存在だが、見回したところまだ来ている様子はなさそうだ。……つまり、必然的にこの事態を収拾出来る人間は限られてくるわけで。
「だから、俺は探偵だ! そしてその依頼主がこの大学にいるんだ!」
「ハイハイ。君、どこの学校? 高校生だよね。親御さんは?」
「うぐっ」
警備員の取り付く島もない言葉に、遂に探偵少年が押し黙る。流石に学校や親を出されるのは、彼でも分が悪いと思うらしい。……よかった。周りを巻き込んでまで強行するような人間ではなくて。
とはいえ、そんな安堵も束の間。徐々に白熱していくやり取りに、ガヤガヤとうるさくなる周囲の声。これ以上騒ぎが大きくなれば、本当に調査どころではなくなってしまう。それじゃあ、本当にただの巻き込まれ損だ。それは困る。もうこれは強行突破するしかないと、僕は意を決して足を踏み出した。
「あれ。あんた、此処で何してんの?」
「げっ」
「えっ?」
ふと聞こえる声に、僕は足を止める。あろうことか、この状況で不審者である少年に話しかけた人物が居たのだ。これには驚きに足も止まってしまう。
だが、突然の登場人物に驚いたのは僕だけではなかったらしい。端正なはずの顔を一気に歪め、しまったと言わんばかりの反応をした探偵少年は、声を掛けて来た女子生徒を見て目元を引き攣らせている。覆面をしているからわからないが、もしかしたら頬まで引き攣っているのかもしれない。
(珍しい反応……)
見た事のない彼の対応に、僕は目を瞠る。しかも、探偵少年は女子生徒を見て僅かに後退っていた。こんな反応をさせる人物がいるのにも驚きだが、それよりも彼がそんな反応をする人物というものに興味が湧いて出てくる。“先輩”という存在にすら臆することなく接してくる彼の、唯一の弱点かもしれないのだ。僕はそっと二歩下がり、野次馬の中に紛れ込む。明らかな好奇心だが、許して欲しい。
「……あんた、その恰好何?」
「あ、えっと」
カツカツと歩み寄る女子生徒にタジタジになる探偵少年。慌てて覆面を外し、後ろに隠すが今更である。
「お、お前こそ、どうしてここに」
「此処、お姉ちゃんの通ってる大学なの。二人で喫茶店でも行こうって話してて、その待ち合わせ。あんたは?」
「い、依頼の調査に来てるだけだ!」
「ふぅん。そんな不審者みたいな恰好で?」
「ぐっ……こ、これは、変装で……」
「へんそぉ?」
不自然に上がるトーンに、探偵少年が視線を逸らす。ダラダラと汗を流しているのが見える。……少しばかり可哀想に見えてきたが、これはこれでいいお灸かもしれない。
板挟みになっているはずの警備員を見れば、突然出て来た知り合いに言及することなく、当然のように仕事を進めている。もうこちらに意識はほとんど向いていない様にも見える。
(あの女子生徒、結構来ているのかもな)
僕はそう思うと、改めて女子生徒を見た。高校生だろうか。制服を着ている。
(……ん? あれって、うちの高校の制服じゃ……)
「そんなんじゃ、憧れのシャーロックホームズにはなれないわよ」
「う、うるさいっ! 僕はまだ子供だから追い付いていないだけだ!」
「少なくとも、シャーロックなら変装で変質者になる事はしないと思うけれど」
「うっ」
(おお……よく言ったな……)
僕は女子生徒の言葉に、内心感嘆の意を吐く。こんなにハッキリものを言う女性は、早々いない。しかも彼のような美男子に、何の躊躇もなく。
(幼馴染か? それともクラスメイトだろうか?)
「君たち、知り合い?」
「いやっ」
「幼馴染です。すみません、知り合いがご迷惑を……」
「いやいや。気にしないでいいよ」
ここぞとばかりに話題に入ってきた警備員にも、彼女は大人の対応をする。……まるで破天荒な探偵少年とは真逆だ。僕は感心するように女子生徒を眺め──バチりと合う視線に僕はハッとする。
(目が、あっ……)
「ねぇ。あの人あんたの先輩じゃないの?」
「ん?」
「げっ」
女子生徒の指が僕のことをさし、探偵少年が振り返る。突然のことに驚いている間に、探偵少年とも目が合う。まずい。
(見てたのがバレた……!?)
盗み見なんて、やっていい事じゃない。僕は慌てて誤魔化すように、引き攣る顔でひらりと手を振った。周囲の人の視線まで刺さっているような気がするが、気のせいだろう。きっと……否、絶対に。
「先輩遅い!」
「ご、ごめん」
はははと苦笑いをしつつ、人の視線がなさそうな場所に少しずつ移動していく。しかしそれも、探偵少年が駆け寄って来たことで意味はなくなってしまった。しかも嬉しそうな顔で駆け寄ってくる彼に、盗み見をしていたことが罪悪感として押し寄せてくる。……帰ろうとしていたなんて言ったら、流石に可哀想だろうか。
「そ、それより、岡名さんは?」
「まだ来てない!」
「そ、そっか」
(見てたことはバレてないらしい。よかったよかった……)
いつもと変わらない様子の彼に、僕はほっと胸を撫で下ろす。……どうやら糾弾されることは無さそうだ。僕は後ろめたさに視線を逸らしていれば、ふと女子生徒と目が合う。にこりと笑みを浮かべる彼女は、どうやら人見知りはしない類の人間らしい。僕とは真逆だ。
「初めまして! アホ探偵の幼馴染やってます」
「なっ! あ、アホ探偵って、俺のことか!?」
「他に誰がいるのさ」
(に、賑やかだ……)
きゃんきゃんと目の前で騒ぐ二人に、僕はクラスで人気者に絡まれた気分を思い出した。
「ははは……仲良いんだね、二人とも」
「「よくない!」」
くわっと振り返り叫ぶ彼らに、僕は息を飲む。二人の大きな目が容赦なく僕を貫く。……怖い。
「そ、そう。それより探偵くん、そろそろ行かないと約束の時間になるよ」
「なんだって!?」
ほら、と腕時計を見せた僕に、食いつくように探偵少年が声を上げる。引き寄せられた腕にバランスを崩しそうになり、慌てて踏ん張る。「まずい!」と叫んだ彼は、そのまま僕の腕を掴み、走り出す。
「ちょっ、おい!」
「早く早く!」
「こらー! 君たち、待ちなさいー!」
警備員の声にも足を止めることなく、探偵少年は走り続ける。僕はといえば、その勢いに必死に着いていくことしか出来ない。驚いた人たちが何事かと振り返るのを、僕は他人事のように流していく。
(目立つの、嫌いなんだけど……っ!)
そんな思いも他所に、僕は緊張の欠けらも無い状態で大学に足を踏み入れてしまった。

「とーちゃくッ!」
「うっぷ……」
ズサササと廊下を横滑りしながら止まったのは、『怪奇現象執筆サークル』と書かれた張り紙がされた教室の前だった。振り回されすぎて混ぜられた胃の中身が一瞬込み上げ、それを必死に抑える。……地図で見た時は入口に近い距離にあったはずなのに、その倍以上を走った気がする。深呼吸をした僕は、後ろを振り返る。追いかけてきていた警備員も振り切ったのか、そこには誰もいなかった。
(……完全に怒られるだろ、これ)
もうこうなったらすべて目の前の男のせいにしよう。そうだ。それがいい。
「ここが事件現場か!」
「いや、事件現場ではない」
「たのもー!」
「おまっ──!」
ガラララッと勢いよく開かれる扉に、心臓が止まるかと思う。
(頼むから落ち着いて行動してくれ……!)
「あれ?」
「ん?」
仁王立ちで教室の前に立つ彼が首を傾げる。どうかしたのかと彼の視線の先を見れば、そこにはがらんとした教室が広がっていた。
「誰も、いない……」
ひゅうっと、どこからともなく風が吹き抜ける。
(教室を間違えた?)
──否。扉に貼られている紙は、間違いなく件のサークル名が掲げられている。
(同じサークルが同じ大学内にあるとは思えないし……)
となると、やはりここが彼女たちのサークルで間違いないはずで。しかし、それではここに人がいない理由が説明できない。……まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。
(……どうするんだろうか)
僕はゆっくりと探偵少年を見る。彼が計画していたものが、一気に崩れ落ちていくのが聞こえる。どうしよう。慰めた方がいいのか、それとも何か案を出した方がいいのか。
(案って、何?)
予想外の出来事に、徐々に焦りが込み上げてくる。思考が纏まらない。解決策のひとつも思い浮かばない。参ったなと内心で小さく呟けば、探偵少年はつかつかと教室内へと足を進めだした。
「お、おいっ」
「……」
「ダメだって! 勝手に入ったら怒られるぞ!」
「……」
「おいっ! 無視すんな!」
無言で室内を突っきる彼に、だんだんとイライラが募っていく。
(何か言えよ、このバカッ!)
引き戻してくるべきか。それとも今度こそ逃げようか。二分される思考に、僕はどうしたらいいのか分からなくなってくる。
探偵少年はゆったりとした足取りでぐるりと室内を回ると、積み上げられていた資料をめくった。パラパラと目を通していくその顔は、俯いていてよく見えない。
「ちょっ、勝手に触るなよっ!」
「新刊か」
「!?」
ボソッと呟かれた言葉に、僕は戦慄する。
(それ、余計見ちゃダメなやつだろっ!)
新刊を勝手に盗み見たなんて知られたら、それこそ怒られてしまう。既に探偵少年の手は離されていたが、僕は怖くてたまらなかった。
(口封じされるかも……!)
新刊は作家にとって命と言っても過言では無いものだ。それを無断で、勝手に見られたなんて知ったら、僕なら卒倒するだろう。盗まれたかもしれないなんて思ったら、続きを書くことすらはばかられる。
「は、早く帰ってこいっ! 今なら許してくれるだろ!」
「もうちょっと」
「おいっ、いい加減にっ!」
「──あった」
静かな教室に、探偵少年の声が響く。思いの外落ち着いた声に、僕は冷水を浴びせられたような気分になった。冷静になっていく思考。──ふと、彼が目にしているものがあることに気がついた。
白い箱のような電化製品。側面の真ん中辺りに切れ込みがあり、ボタンのようなものが付いている。馴染みのないものだったが、僕はその形に心当たりがあった。
「コピー機……!」
別名、複写機。同じものを複製するための機械だ。
(本当にあるなんて……!)
発売されてからそう年月が経っていないそれは、未だ大きな会社や新聞社でしかお目にかかれない代物だ。普通の家庭で過ごしていれば、見る機会もないであろう高級品が、目の前にある。その事実に、興奮が一気に込み上げてくる。
(す、凄い……!)
物珍しさに、思わずまじまじと機材を見てしまう。机に乗るような小さなそれは、確か卓上式のものだったはず。触れるなんて恐れ多い。僕が首を傾げたり顔を近付けたりしながら眺めていれば、ふとコピー機に誰かの手が添えられた。──瞬間、パキリと外れた外装に息を飲む。
「なっ……!?」
(何してるんだこいつは!!)
外装がべろりと外れ、機材の中が見える。その光景にサッと血の気が引いていった。そんな僕の心情も知らず、探偵少年はコピー機を持ち上げたり覗き込んだりと動かし出す。その手はどこか乱雑で心臓がはち切れそうだ。
「お、おまっ! こ、これっ、壊しっ!?」
「? 何を慌ててるんだ?」
「──~っ!」
こてりと首を傾げる探偵少年に、殺意にも似た激情が走る。ガッと探偵少年の胸ぐらを掴み上げ、ガクガクと前後に思い切り揺する。探偵少年が苦しそうにしているが、気にしている余裕は全くない。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! どうすんだこれっ! これっ、これ……どうするんだよ!」
「な、なにがっ……!」
「何って、見てわかるだろ!? 壊しやがって! ほら見ろ、中身見えてるだろーが! 凄い高そうだったのに……直せなかったらお前のせいだからな!?」
「だ、からっ、壊れてな……っ」
「ああああ…………どうするんだよ。僕これ以上小遣い減らされたら本買えなくなる……死活問題だ……」
手元に残っているお金と毎月貰っている僅かな小遣いを思い出し、頭が痛くなる。欲しい本はまだまだたくさんあるというのに。
(お先真っ暗だ……)
絶望に絶望が重なった状況に、涙すら出そうだった。込み上げる感情を必死で押さえ込んでいれば、探偵少年を持ち上げていた手がバシバシと叩かれた。思いの外強いそれに、ハッとした僕は慌てて手を離した。
「くる、し……」
「あっ、ご、ごめん」
手を離せば、どさりと床に落ちる探偵少年。ゲホゲホと盛大に咳き込む彼に、流石に心配になってくる。
「だ、大丈夫か?」
「あ゛ー……ごほっ。うん、大丈夫」
ハッと息を吐いた探偵少年が、苦い顔で笑みを浮かべる。喉を何度か鳴らした彼に持って来た水筒を差し出せば、ごくごくと凄い勢いで中身を飲んでいく。その様子に罪悪感が込み上げてくる。
「ぷは。あー、びっくりした」
「わ、悪い……」
「別にこれくらい平気だ」
にっと笑みを浮かべる探偵少年に、僕はほっと安堵に胸を撫で下ろす。……よかった。あまりの絶望に、人を絞め殺したなんて笑い話にもならない。
(で、でもっ、元はと言えばこいつが先に変なことをするから……!)
「先輩、そんなに心配しなくていいって。こんな事じゃこれは壊れないし」
「で、でも機械ってすぐ壊れるんだろ……?」
「そんなことないって! 先輩、心配しすぎ!」
ケラケラと笑う探偵少年に、僕は顔を顰めた。価値がわかっていないとはいえ、この反応はおかしい。
(機械なんて高いのが当然なのに……)
世間知らずなのか? それとも、ただ茶化しているだけなのか? 僕は得体の知れない違和感に襲われ、こくりと息を飲む。……何故だろうか。圧倒的に噛み合わないところがあるような気がするのは。
(気のせいか、それとも――)
「そもそも、此処はこうやって外れるところなんだ」
「は?」
「ほら」
彼に見せられる結合部に、僕は「本当だ……」と小さく呟いた。――まさか、彼の言う通りだったなんて。
(でも、何でこいつはこんな事知ってるんだ?)
複写機の使い方なんて、普通の人なら知らなくて当然のはず。だってお目にかかる事すら珍しいのだから。
「……こういうの、親から教えて貰うのか?」
「……」
「おい?」
ふと、空気が止まるのを感じる。息をすることも烏滸がましいくらいの静寂に、冷や汗が流れ落ちた。……どうやら自分は、彼の地雷を踏んでしまったらしい。
「……別に、調べればわかる事だろ」
「そ、うだな」
「そんなことより、何で誰も居ねえんだ⁉ 岡名さんは⁉ 依頼主は⁉」
薄く緊張した空気を一蹴するように、彼は声を上げる。ワザとらしいその仕草に――しかし、僕は追及することは出来なかった。
結局、岡名も依頼主も現れる事は無く、僕たちは大学を走り回っただけでその日を終えてしまった。帰り際、見つかった警備員にこっぴどく叱られたが、例の女子生徒が上手く言ってくれていたらしく、お咎めもほどほどに済んだ。
「つっかれた~……」
帰り道。一人で歩く帰路に、僕は心の内からため息を吐いた。
(もうだめだ。疲れて歩く気力もない……)
重い足を必死に動かして、家へと歩いていく。探偵少年はといえば、駅に着いた瞬間何かを思い出したように声を上げ、走り去ってしまった。また学校で、何て言われたけれど、出来ればもう関わり合いたくないのが本心だ。
「見てて飽きない奴といえばそうなんだけどなぁ」
小説にするには、少し自我が強すぎるというか。僕の知っている“人間”の行動を一切してくれないから、毎度毎度戸惑ってしまう。しかもそれが突拍子もない事ばかりだから、面白がる時間もなく、僕はただただ振り回されてしまっている。
「……小説、か」
僕は自身の右手を見つめて、目を細めた。いつもインクの付着した指先。中指にはぼっこりと出たペンだこがあり、爪には取れないインクがこびりついていた。……お金のない僕には無理だとわかっているけれど、やはり捨てきれない夢に縋るように毎日のように握っているペンは、塗装が剥がれ落ちている。
「……はあ」
(僕も、アイツくらい堂々と出来ればいいんだろうか)
自身を神と言い、探偵と名乗る少年。キラキラと輝かしいまでの相貌を持っておきながら、周囲を憚らないその姿勢は一種の尊敬の念すら浮かんでくる。
(普通にしていれば、クラスの人気者だろうに)
明るく、前向きで何事にも真正面からチャレンジするその精神。困った人に手を差し伸べているのを、密かに何度か目撃もしている。
(落とし物なんて放っておけばいいのに)
そう思ったのは、数知れない。しかし、だからこそ彼は真っすぐ自分の言葉通りに生きられているのかもしれない。自分に言い訳も誤魔化しもしていないのだから。
「……情けないな」
年上だから、なんだ。先輩だからなんだ。彼に比べて、僕はこんなにもちっぽけで情けない。
ぐっと握りしめた手に、爪が食い込む。だが、手のひらに広がる痛みなんぞ、心の臓を貫くものに比べたら僅かなものだった。
「……帰ろう」
僕はゆっくりと呟いて、歩き出した。自分の足がどこか他人のもののように思える。どうしようもない現実に、僕は俯いている事しか出来なかった。
――そんな僕を待っていたのは、『招待状』と書かれた一通の手紙だった。


「招待状?」
「うん」
ちゅう秋の言葉に、僕はぺらりと持って来た紙を見せる。そこには僕の名前と『招待状』と書かれた文字だけが書かれていた。
「差出人は岡名さんかい?」
「そうみたい」
「みたい、って……直接貰ったわけじゃないのかい?」
怪訝そうな顔をする彼に、僕はあの時の事を掻い摘んで話した。彼の婚約者がいる大学に行ったこと。しかしそこには彼も依頼主もしなかったこと。そして帰ったらこの封筒がポストに直接入っていたこと。
「また探偵くんと一緒だったんだね。やっぱり仲いいじゃないか」
「そういう訳じゃないって。寧ろ連れ回されているって言って欲しい」
「でも大学までは自分の足で行ったんだろう?」
「……そりゃあ、まあ」
「だったら君も少なからず楽しみにしていたんだろう」
ふふっと笑みを浮かべる彼に、複雑な心境が込み上げてくる。……何故だろう。彼に話せば話すだけボロが出そうだ。僕は広げた宿題に鉛筆を押し当て、ぐりぐりと円を描くように動かす。バツが悪くなって現実逃避をする時の僕の癖だった。
「そんな事はどうだっていいだろ。それより、その招待状、どう思う?」
「はて。どう、とは?」
「わかって言ってるだろ」
「ははっ。すまないすまない、君がこういったものを疑うのは珍しいと思って」
彼の言葉に、僕ははたと全ての動きを止める。
(そう、だろうか)
……確かに。言われてみれば自分はこういったものに疑問を持ったことは、そうなかったかもしれない。約束の日時が書かれた手紙や日頃の感謝の手紙なんかも貰ったことは幾度となくあるが、今回のように違和感を覚えた事はないと記憶している。
僕はじっとちゅう秋の持つ真っ白な封筒を見つめ、眉間に皺を寄せる。……やっぱり、なんか気になる。
「怪しいだろ、なんか」
「それは直感かい?」
「そうかもしれないな」
「理屈屋な君がこれまた珍しい」
「うるさい」
彼の面白いと言わんばかりの声に、とげとげしい声を返す。人の変化を面白がるんじゃない。
僕は構っていられないと彼から封筒を取り上げると、開いている封を再び開け、中身を取り出した。そこには封筒と同じ白い紙に黒いペンで書かれた、綺麗な文字が並んでいる。

『拝啓、ご友人の皆様。
この度、私、岡名と京真偉の結婚が正式に決まりました。その為、友人の皆様には今まで支えてくださったお礼に、ささやかですがパーティーを開催しようと思っています。着きましては、参加の可否を岡名にご一報いただけますと幸いです。連絡先は――』

続く文には岡名のものらしき連絡先と、会場の場所、日時が書かれている。会場はそういった事に明るくない僕でも知っているほど大きな場所で、彼等が上流階級の人間であることをまざまざと見せつけられているような気分になる。
(まあ、そう思う僕がひねくれているだけなんだろうけど)
「凄いな。ここら一帯で一番いい会場じゃないか」
「そうなのか?」
「ああ。俺も一回しか行ったことがない」
(一回でもあるのかよ)
出かけた言葉を、咄嗟に飲み込んだ自分は偉いと思う。少し乱雑に折り目に沿って手紙を戻した僕は、封筒に紙を突っ込むとちゅう秋に差し出した。驚いた顔をする彼に、僕は告げる。
「やる」
「えっ?」
「僕、ドレスコードなんて持ってないから」
そんなにいい会場なら、ドレスコードがあるのは当然のこと。しかしそれが出来るほどの経済力を、僕の家は持っていないのだ。
(スーツも一着もないのに)
大体制服だって、両親の血の滲むような働きのお陰で買えたようなものだ。それに加え、ドレスコードまで用意してくれなんて言えない。
「でも誘われたのは君だろう?」
「今からバイトを詰めたとしても、無理なものは無理なんだ。それに、僕は岡名さんとそんなに仲がいいわけじゃない」
「君ってやつは……」
「いいから、受け取れって!」
何か言いたげにこちらを見つめるちゅう秋の視線を振り切るように、僕は封筒を押し付けた。――そもそも、僕なんかに招待状が来る方が可笑しいのだ。ちょっと話しただけ。探偵少年のように依頼を受けたわけでも、ちゅう秋のように横の繋がりがあるわけでもない。ただただ、彼等に偶然会って巻き込まれているだけの凡人なのだ。そんな自分が行ったところで恥をかくのが関の山。岡名の名誉のためにも、自分よりちゅう秋が行った方がいいだろう。
「……そこまで言うなら、受け取るよ」
「ああ。彼女を誘って一緒に行ってこい」
「そうだね。そうするよ」
押し付けたままの封筒が、ちゅう秋の腕に渡る。それが何だか自分の身分を再確認させられた気分になり——僕は咄嗟に俯いた。
(これで良かったんだ)
そう。これで合っている。そりゃあ、上流階級の人たちが集まるパーティーに興味がないかと言われれば嘘だけれど、それでも遊びで行くような場所ではない事はもう大人である自分には理解できているつもりだ。僕はちゅう秋の視線を振り切るように体を前に向けると、チャイムの音を耳にする。何だ、珍しくタイミングがいいじゃないか。

――そう、思っていたのに。
「なんで僕がここにいるんだ⁉」
「俺が連れてきたからだな」
皺ひとつないスーツに身を包んだちゅう秋が笑う。僕は引き攣る頬で自身の姿を見下ろした。ちゅう秋と同じ、皺ひとつないスーツ。茶系のそれは、どこぞの金持ちが着ていそうな上品な肌触りをしている。黒い靴はつま先までしっかりと磨かれており、髪は前髪から全て後ろへと撫でつけられている。
「どうしてこんな格好……」
「君が言ったんじゃないか。ドレスコードが必要だって」
「それはそうだけど!」
「うん、似合ってるよ」
「ッ!」
ネクタイをきゅっと締めたちゅう秋が、にこりと笑みを浮かべる。……くそ、顔が整っている奴はどんな顔をしていても得だな。