カーテン越しの淡い光に誘われて、目を覚ます。当たり前だけど、隣に君の姿はなかった。
だって君とはもう―—―。
起き上がると私はキッチンに行き、作ったカフェオレをベランダで飲みながらスマホを確認する。
……やっぱり。颯からの「返信」はそこで止まっていた。
半年前の『ごめん』。これが颯からの最後の言葉だった。
突然、家に帰ってこなくなって、「どこ?」って送ったら、今までのどんなメールの返信よりも早く帰ってきた、『ごめん』
「……」
この言葉の真意はつかめないけど、多分、別れようってことだと思う。
……あんなに一緒にいたのに。今でこそ懐かしいけど、颯の笑顔を思い出すと涙が止まらなかった。キッチンの食器棚の奥で置き去られたみたいにずっと放ってあるマグカップが時の流れを思わせた。
隣に置いてある植物も、颯と一緒に育てていたものだ。あの日から時が止まったように成長も止まり、今では枯れ果ててしまった。なんだか、私みたいだ。
部屋の真ん中に置いてあるテーブルも、よく颯が突っ伏してそのまま寝てたな。あのソファだって、一緒に夜な夜な座って二人で映画を見た。さっき寝てたベッドも一人で寝るには大きすぎる。いつもなんだか、左隣が寂しい。
「……」
ここに溢れているのは、颯との幸せの残骸だった。もう、消え去ったっていうのに。きっと、忘れられないのは、私だけだ―—。
ただ、天井を眺めていた。何もない、真っ白な。
「……元気にしてる、かな」
俺は無意識にスマホを開いた。もう開かなくたって分かってるのに。結衣莉とのメールの最後は俺が送った『ごめん』。
もう、終わった、はずなのに。自分で、終わらせた、はずなのに。
どうしても離れない、結衣莉の笑顔が頭から。思い出すと胸が苦しくなる。
コンコン、というノックが聞こえた。一瞬結衣莉ではないか、というどうしようもない期待を抱いたがそんなわけはない。
「おはようございます、今日はお変わりないですか?」
「はい」
入ってきたのはいつもの看護師の人。点滴を変えに来たらしい。結衣莉は、今の俺を見たら、どう思うだろうか。
あの家には、結衣莉との「思い出」がたくさん詰まっていた。だからこそ、俺はこうしたのだ。あんなに思い出が詰まった場所にいると、「さよなら」が言えなくなる。それはいずれ俺だけじゃなくて結衣莉を苦しめてしまうものだった。
だから、俺は『ごめん』って一言残して出て行った。今だから思えることだけど、もっと何かなかったのかなって。
何も直接話さずに『ごめん』だなんて、そっちの方が苦しめたに決まってる。
俺は看護師の人が出て行った後、ベッドから上半身を起こして横に置いていた鏡を持つ。俺は人工的な硬い髪にそっと手を触れる。それ、を外した俺は俺ではなかった―—。




夢、を見た。颯との幸せな「思い出」。それはもう現実には存在しない。
大学から帰ってきた後、今までのメールの履歴を見ていたらいつの間にか寝落ちしたらしい。
色んな光景が脳の奥を映画のエンドロールみたいに、流れていた。付き合う前の甘酸っぱい日々も、初めてのデートに行った日の事も、二人で引っ越した日のことも、颯の誕生日の日の事も。そして最後に映ったのはやっぱり君の笑顔だった。
……ダメだ。このままじゃ。いい加減忘れないと。
私はメールの履歴の画面を閉じて、パーカーのポケットにスマホをしまった。
繋いだ日々とも、お別れしないと。あの涙も君を忘れるためだったんだから。まぁ、忘れられなかったけど。
いつまでも想って仕方がない。だって君とはもう会えないから。辛いのは颯だけじゃないから。もう涙を流すのは終わりだ。
……ありがとう。ばいばい。私はまた一筋涙を流した。きっと、これで最後だ―—。



結衣莉の笑顔が映った。その三秒後、眩しい光を感じて目を開ける。
……夢を見ていた。結衣莉との幸せな「思い出」を遠くから見ているみたいだった。もうあの日には戻れないっていうのに。
俺は唯一家から持ってきていた形となる思い出の欠片を取り出す。それは一冊のアルバムだった。
一ページ、めくるとそこにはさっき見たばかりの君の幸せを感じさせるような笑顔があった。
会いたい、もう一度。会って、本当のことを言わなくちゃ。そうは思うけど、結衣莉にはもう会えないから。
辛いのは結衣莉だけじゃない。俺だって、あれから何回も何回も涙を流した。なんであんな終わり方をしたんだろうって。
でも、こうしたのは結衣莉の幸せを不器用だけど願った結果だから。結衣莉には俺の事なんて忘れて幸せに生きてほしい。
だから、俺だけがずっと彼女のことを覚えていてもしょうがない。俺はアルバムに一つだけ、涙の染みを作った。
きっとこれで涙を流すのは最後だ。
ありがとう―—。さよなら。
俺はさっき取り出した思い出の欠片を棚の中にしまった―—。



『ねえ、元気?』
気付けばメールを開いて、無意識に颯にそう送ろうとしていた。
もしかしたら颯は後悔するかもって思ってたんだけど、どうなのかな。きっとそうだ、自分で言うのもなんだけど。
だって、颯のことをずっと一番近くで見てきたんだし。いつも、ホントに大事なことは言ってくれない。
けど、誰よりも誠実で、こんな終わり方を好む人じゃない。悪いところも、知ってるし、それ以上にいいところも知ってる。
でも…もう好きなんて想いだけじゃ、だめなんだ。颯はきっと、もう私のことなんて、好きじゃないから―—。
この結果は多分、颯が精一杯自分と向き合って出した結果なんだ。だから、私も自分と向き合わないと。今の私に必要なのは、自分と向き合う時間だ。だから、ごめん、ありがとう。ばいばい。
幸せな思い出を大事にしまって、お互い別々に道に進もう。
私は最後の荷造りの段ボールに、君の笑顔の写真が入った額縁をしまった。
この思い出の詰まった家とも、君ともさよならだ―—。