学校の屋上は、どんな天気でも、いつも風が吹いている。 

「新名」

名前を呼ばれて顔を上げると、缶ジュースが弧を描いて飛んできた。膝の上で読んでいた漫画から手を離して、ちょうど顔の前でそれを両手で受け取る。その間、漫画は風に煽られてページが数枚ぱらぱらと捲られた。

「危ないなぁ」

缶が飛んできた方を見て言うと、クラスメイトの田辺史緒は「ごめんごめん」と言った。けれど、その顔は全く悪いと思っていない様子で笑っている。

「今日、バイトは?」

「やっと休み~」

田辺がここに来るのは1週間ぶりで、田辺と私が喋るのも1週間ぶりだった。会話をするのは久々でも、毎日田辺の姿は見ていたし、声も聞いていた。だから、会うこと自体は久々でもなんでもなく、なんならついさっきまで同じ教室にいた。それなのに、私は田辺と話すことに少しだけ緊張している。

その緊張を悟られてしまわないように田辺から投げられた缶ジュースに視線を落とすと、薄ピンクのラベルに“苺ミルクスカッシュ”と書かれていたので、思わず「なにこれ」と呟いた。

「新発売だって」

田辺は背負っていたリュックを下ろして、私の左隣に座り込む。

「新名、好きそうだと思って」

「スカッシュ……炭酸なのに、投げたな」

「あっ、ごめん、つい」

ごめんなんて思っていなそうで、肩をすくめて笑う田辺の左手には、やっぱり赤いラベルの缶コーラがあった。私は、漫画が汚れては大変なので腕を目いっぱい伸ばして缶のプルタブに指に引っかける。プシュッと小気味の良い音が鳴った。 

開いた飲み口から漏れ出す空気とともに、細かい泡がシュワシュワと飛び跳ねて、プルタブに引っかけた指先がほんの少し濡れる。泡が収まったのを確認して、苺ミルクスカッシュをひと口飲んでみると微炭酸でひどく甘ったるい味がした。でも、このキンとした冷たさが、このじんわり熱を帯びている身体には心地良い。

「どう?」

「甘い、美味しい」

「苺の味する?」

「うん。 ありがとう」

「良かった」

田辺は満足そうな頷いてコーラをひと口飲む。いつも同じでよく飽きないなと思うと、こちらを見た田辺と目が合った。

「新名、甘いのばっかり飲んでよく飽きないよね。 昼間も、コーヒー牛乳飲んでなかった?」

「毎日コーラ飲んでる人に言われたくない」

「たしかに」

田辺はまたひと口コーラを飲む。その缶を持つ手の人差し指には、絆創膏が2枚重なって貼られていた。つい、「それどうしたの」と聞く。田辺はえ?と一瞬止まってから、絆創膏が貼られた自分の手に視線を落とすと、昨日のバイトで客が割ったグラスを片付けた時に切ったと言う。

「うわ、痛そう」

「切った時はね。 今はもう痛くないよ」

本当だろうか。ガーゼ部分に血が滲んでいる絆創膏を見てそう思ったけれど、さりげなく田辺は缶を持つ手を変えたので、言わなかった。田辺の指先は、いつも爪がちゃんと切り揃えられていて、少しだけ手荒れしている。バイト先は居酒屋で、学校には内緒で22時以降でもキッチンに入って働いていると以前言っていた。 

「今読んでるのって、貸してたやつ?」

缶を置いて、田辺は私の膝の上に目線を落とす。

「うん、借りてたやつ」

「それなら、ちょうど良かった」

田辺はリュックを開いて、漫画本を2冊取り出した。はいと渡されたそれを受け取ると、私が今読んでいた漫画の続刊だった。

「えっ、持ってきてくれたの?」

「うん」

私と田辺は、ここでお互いの好きな漫画本を貸しあっている。とは言っても、今はスマホアプリで漫画はいくらでも読むことができて、手元にある漫画本は自分が本当にお気に入りの物だけなので、そんなに多くはない。

お気に入りの漫画は紙媒体で持っていたいという感覚は、どうやら田辺も一緒らしかった。そして同じく、持っている漫画はそこまで多くはないらしい。

「ほんとはもっと早く渡そうと思ってたんだけど、タイミング掴めなくてさ。遅くなってごめん」

「いや、そんなの、全然」

昨日まで連日バイトに明け暮れていたのだ。屋上に来る余裕なんて無いのは知っている。だから、謝らないでほしい。

そう思うと当時に、早く渡そうと考えてくれていたのかと思うと、嬉しかった。

「なんか、延命措置受けられた気分」

「なにそれ」

「いま、これが私の生きがいなの」

それを聞いた田辺は「大袈裟すぎ」と言って笑うので、私は大袈裟なつもりはなかったけれど、田辺と同じように笑った。

グラウンドの方から運動部の掛け声が風に乗ってここまでよく聞こえてくる。クラスメイトでお調子者の関口の声はやっぱりよく通るねと話して、また笑った。田辺は、関口と仲が良い。

ここで一人で過ごしていた時は、関口を含め運動部の楽しそうな声を聞くと、なんだか気分がザワザワして、ここに居ても居心地が悪かった。私は全然関係のないことなのに、私には過ごせない時間を過ごしているあの人達を、羨ましい、恨めしいと思ってしまう気がして、でもそんなことを思ってしまう自分自身が嫌で仕方がなかった。

けれど、田辺が来るようになってからはここは確かに私にとって居心地の良い場所になった。 結局私は、ひとりぼっちが寂しかっただけなのかもしれない。 そんな単純は自分は、ただ単に独りぼっちなのが寂しかっただけで、そんな自分は面倒くさい人間だなと心底思う。

「そんな新名に朗報だけど、9巻、明後日発売だから」

えっと目を見開いて驚く私に、田辺は「顔」と言ってまた笑う。その田辺の笑顔を見ると、私はいつもなぜか安心して思わず私の頬も緩む。ここに居る時以外でも、田辺の隣にはいつも誰かしらが居て、田辺の周りにはいつも会話と笑顔が絶えない。私は教室ではいつもそれを少し離れた場所から眺めていて、決して、田辺を囲むその輪には入らない。“入れない”という方が正しいかもしれない。 

だから、私なんかと一緒で田辺は退屈しないだろうかと不安に思うことが、正直ある。私は、話すのが上手じゃないから、こんな私が田辺の隣に居てもきっとつまらないだろうと思う。そう思うのに、田辺はここでも教室にいる時と変わらない様子で過ごすことが多くて、気を遣わせているかもしれないなんて微塵も感じさせないくらいに自然体で、それでいて私にもよく話をして、私の話もよく聞いてくれる。

だから、つい、いつも時間を忘れてしまう。

「向こう、雨降ってんのかな?」

田辺と同じ方に視線を向けると、そこは空の色が灰色に濁っていて山の辺りが霞んでいた。

「ほんとだ。 今日、雨予報なかったのに」

「夕立ちかな」

そう言った後に、田辺が小さく笑ったので「なに、どうしたの」と隣を見る。

「いや、初めてここに来た時のこと思い出しただけ」

「……それ、思い出さなくていいのに」

田辺が初めてここに来たのは、半年前の春。私たちが高校2年生になって少し経った頃だった。私は、その日も今日みたいにここで缶ジュースを飲みながら、鞄に入れていた漫画を広げて読んでいた。普段は生徒が立ち入らないよう施錠されている屋上に私が自由に出入りできるのは、昔に映画で観た、ヘアピンを使って鍵をピッキングをするシーンを見様見真似でやってみたら、解錠できたからだ。

しかも、私はピッキングのセンスがあるのか単に鍵がバカになっているのかは分からないけれど、ヘアピンで施錠まで出来てしまった。 だから、用が済んだら鍵を閉めて証拠隠滅することが出来るので、屋上は私一人だけで過ごせるとっておきの場所になった。

とっておきの場所は、誰にも知られちゃいけないから、ここで過ごす時は必ず内鍵を閉めて過ごしていた。

なのに、あの日はうっかりそれを忘れてしまった。

「あの日も急に雨降ってきてさ、新名とふたりで漫画抱えて走ったよな」

「うん。 びっくりして、すごい必死だった」

ふたりでその時の焦り様を再現して、声を上げて笑う。

「俺、ここに新名がいたのにも、びっくりしたよ」

「まあ……そうだよね」

あの時、てっきり施錠したと思っていた扉が突然開いて、そこにはそれまで話したこともなかった田辺が立っているし、私は鞄いっぱいに詰め込んでた漫画を読み広げているしで、驚きの余り声も出なかったけれど、隠れなきゃと思ってその場で身を縮こませた。

その拍子に缶ジュースが足に当たって溢した私は声を上げて、田辺も咄嗟に“やばい”と思ってくれたようで私のところに駆けつけてくれた。安心したのも束の間で、急に土砂降りの雨が降ってきて、訳も分からないままふたりで走ってびしょびしょになった顔を見合わせて笑った。

その時読んでいた漫画が田辺も好きな漫画で、会話が弾んだ。それまで私と田辺は言葉を交わしたことはなかったけれど、そんなことも関係なく夢中に話し込むには十分なキッカケだった。田辺と私は漫画の他に映画の趣味も同じという共通点があったけれど、映画に関しては同じ趣味の友達が周りにいないことも共通していた。 

私が好きなジャンルは、漫画だと少年漫画、映画ならミステリーやSF。それ等を観ている時間だけが、現実から抜け出せる唯一の方法だった。どのジャンルも、自分の人生の中では絶対にあり得ることのない物語ばかり。 だけど、それを観ているときは、まるで自分も物語の登場人物の一人になったみたいに胸が高鳴って、だからこそ夢中になれた。

だから、そんな話が田辺とできたのが私は嬉しくて、田辺から明日もここに居るのかと聞かれた時、つい私は頷いてしまった。それから、私は屋上の鍵を閉めずに過ごしている。

「それにしても、ピッキングできるのすごいよなぁ」

「まぁね」

「ここ以外で試したことないの?」

「ないよ。 普通に犯罪だし」

「もったいないなぁ。 それにさ、こんなとっておきの場所あるなら、早く教えてくれればよかったのに」

「いや、全然接点なかったじゃん」

「まあ、そうだけどさ」 

この屋上の鍵が開いていることを、田辺は誰にも言わなかった。私はそれがなんだか意外で、なぜかと聞いたことがあった。田辺は、なんてことない表情で“とっておきの場所だから”と、教室では見せないどこか悪戯っ子みたいな顔で笑った。

じゃあ、どうすればこのとっておきの場所を秘密にできるのか。その方法は簡単で、田辺と私がここ以外で会話を交わさなければよいだけだった。普段の日常生活の中では、必要最低限のことしか話さない。それが、誰にも違和感を持たれない、私たちの本来の姿なのだ。

「でもさ、俺はもっと早く、新名と話したかったよ」

田辺の言葉に私はびっくりして、とりあえず「あ、うん」と頷く。

「漫画とか映画の話、なかなか合う人いないもんね」

返事をしながら、この解釈で合ってるだろうかと頭の隅で考えたけれど、「そうそう」と頷く田辺を見てほっとした。

良かった。危うく、変に勘違いするところだった。 そう思いながらも、心臓は正直で、脈は速い。

「そうだ、新名。 これも朗報だと思うんだけど、知ってた?」

田辺がこちらに向けたスマートフォンの画面を見ると、そこにはネットの記事の見出しに『映画“アルビオン”映画館上映!!』と書かれていた。

「えっ……どういうこと」

驚きのあまり並べられた文字の意味を瞬時に理解できず、スマートフォンの画面を凝視する。田辺はそんな私を見てから少し笑って、優しい声色で言う。

「いま、昔の名作をリバイバル上映してるんだって。 これ、新名が一番好きな映画でしょ?」

私は頷く。田辺にアルビオンのことを話したのは、たったの一度だけだった気がするから、それを覚えている田辺にも驚いた。

「上映、いつされるのかな」

「25日」

「……今日って何日?」

「20日」

「もうすぐじゃんっ」

アルビオンは2000年に公開された映画で、私が今まで観た映画の中で一番大好きな映画だ。アルビオンの舞台は、近未来のロンドン。 そこのスラム街の地下の子供ばかり集められた施設で暮らす9歳の少年4人組は、昼間は日雇で劣悪な環境で働き小銭を稼ぐ生活を送っていて、いつかこの地下から抜け出して、夢と理想が詰まった天上の国〈アルビオン〉に行こうと夜な夜な集まって計画を立てる冒険物語。

私がこの映画を初めて見たのは、主人公たちと同じ10歳の頃だった。今思えば彼らが考える脱出計画なんて単純で穴だらけだけど、自分たちの力だけで戦おうとするあの4人は、私にとってヒーローだった。

「大好きな映画なのに、もうずっと観てないや」

「DVD持ってるんじゃなかった?」

「DVDじゃなくて、VHSね。 いま、もう観れないからさ」

家にあったVHSデッキは、世間からVHSが消えかけてきた頃に故障してから、姿を見ていない。多分、知らないうちに処分されたか、家のどこかで埃を被っているのだろう。

「映画館って、一番近くても、電車で2時間はかかるよね」

遠いね、と言葉を続けると、田辺は「うん」と言ってフェンスに寄りかかった。

「やっぱり、映画館で観たいと思う?」

「そりゃあね。 って言っても、映画館には行ったことないんだけど……映画の中でしか、映画館って見たことないかも」

私もフェンスに寄りかかって、空を見上げると怪しい雲が青色を覆い始めていた。

「遠いと、わざわざ行かないもんな」

「うん」

ここから映画館までの距離は、私にとっては程遠い。だけど、私の周りの子たちはみんな映画館は中学生の頃までには既に履修済みで、高校生にもなって映画館に行ったことないなんて、恥ずかしくてあまり言えなかった。

それなのに、田辺が隣にいると本音が口から溢れてしまう。

「……あんな視界いっぱいの大きなスクリーンで映画が観れたら、幸せだろうなぁ」

視線を落として灰色のコンクリートの上に転がる自分の足先を見ながら、自分の家の小さなテレビを思い浮かべる。 

「映画館なら自分だけの席で、誰にも邪魔されずに観られるもんな」

「ポップコーンとか、食べながらね」

「俺、ポップコーンは絶対キャラメル味がいいな」

「えっ意外。 私は絶対塩」

「そっちこそ意外だよ」

横目でお互いに見合わせて、声も出さずに少し笑った。やっぱり、趣味が合うのは漫画や映画だけらしい。

「映画館と言えばさ、あれ観たことある?」

その言葉に、私は「ニュー・シネマ、でしょ」と洋画の名前を言うと、田辺は「うっわ、当たり! なんで分かんの」と嬉しそうに声を上げた。その反応に、私は思わず口の端がにやりと上がる。

「それ以外思い付かないね」

「さすが。 やっぱ、新名とは趣味合うわ」

そう田辺に言われると、私は胸の辺りがくすぐったくて嬉しい気持ちが沸き上がると同時になんだか落ち着かなくなる。けれど、それをはっきりと自覚してはいけない気がして、私は笑って誤魔化す。

こんな風に、馬鹿笑いするわけではなくて、たまにふふっと笑えるくらいの調子でだらだらと話しながら過ごせるのが、私にはちょうど良い。でも、田辺はどう思っているのかは知らない。あの日からなぜ毎日ここに来るようになったのか理由も聞いたことはない。聞きたい気持ちはあるけれど、なぜか今も聞けないままでいる。

私はただ、何も起きず、このゆったりとした時間が続けば、それでいい。だから、余計な詮索はしない方が無難で、安全だ。

それからひとしきり話した頃、田辺は視線を上げて塔屋にある時計を見る。時間は、17時を過ぎようとしていた。下がってしまう気分を自覚する。

「あの時計、時間ズレてるよ」

「そうだった」

田辺はスマホを取り出して画面を見る。今の時間は正確には16:52だった。

「新名は、まだ帰らないの?」

「うん、もう少し」

「そっか」

そういえば、田辺は映画館には行ったことあるのだろうかと今になって思う。最後に聞こうかなと思って隣を見ると、田辺は、アスファルトにぼうっと視線を落としている。風に前髪が揺れて、目元を隠す。

田辺は時々、ほんの一瞬だけ、呼吸を忘れてしまったみたいな、頭の中を空っぽにしたような、感情の読み取れない顔をする。でも、こんな風に思うのは私の気のせいで、ただの勘違いかもしれない。そう思っても、私はなぜか何とも言えない、不安な気持ちになる。

「……田辺」

居心地の悪い沈黙を断ち切りたくて、田辺の名前を呼ぶ。 

「ん?」

田辺は、ふっと呼吸を吹き返したようにしてこちらを見て、いつものように微笑んだ。

「どうした?」

「……ううん、なんでもない」

「そう?」

「うん」

私は沈黙がなくなったことだけに安堵して曖昧に微笑む。きっと私の笑顔は、とてもぎこちないのだろう。

「じゃあ、俺帰るね」

「うん」

田辺は立ち上がってリュックを背負う。田辺の影が落ちている隣のアスファルトを見ながら、映画館のこと聞けなかったなと思う。別に今この瞬間にまた名前を呼んで聞いたっていいくらいのことだけど、なぜか、躊躇してしまうのは、私が臆病だからだろうか。

「新名」

名前を呼ばれて顔を上げると、こちらを見下ろす田辺と目が合う。けれど、その顔は陰っていて、表情がうまく見えない。

「俺さ……」

「え?」

田辺との間に風が通って声が流されてしまい、よく聞き取れず、聞き返す。 

「田辺、なに?」

「……いや、何でもない! 雨降りそうだから、新名も早めに帰ってね」

聞こえて、うん、と頷くと、田辺は声が届いたことに満足したみたいに微笑んで同じように頷いた。

「また、明日」

田辺はさっきよりも大きな声でそう言って、屋上の扉の方へと向かう。私はいつものようにその背中が扉の向こうに消えるまで見送ってから、田辺が貸してくれた漫画に視線を落とした。

……もし、一緒に映画観に行こうなんて言ったら、田辺はどんな反応するだろうか。

多分、やんわり断られるんだろうな。それしか、想像しか出来ない。勝手に想像して、勝手にショックを受けてしまう。よく考えれば、そもそも私は自分から友達を遊びに誘うということをしたことが無いなと思って、自分の根暗さに、思わずため息が溢れた。

立ち上がってフェンスの隙間から校門を見下ろしていると、下校していく生徒の中に、田辺らしき生徒が誰かに手を振りながら校門に向かっていくのが見えた。

やっぱり、“こんなの”とは、全然違う。私は、田辺の隣を歩けない。そんなところを、誰かに見られるのは怖い。 

こんな理由、田辺に言ったら笑われるのだろうか。それか、自意識過剰と思われて、引かれるかもしれない。無意識に顔を俯かせてしまっている事に気が付いて顔を上げると、灰色の雲がもう屋上を覆ってしまいそうなほど近くまで流れ込んでいる。

もう一度校門の方へ視線を落とすと、もうそこには田辺の姿は無かった。

私も学校を出て、自転車に跨って夕方5時半にタイムセールをするスーパーに向かう。この時間帯の店内はいつも混んでいて、今日は水曜日なので安売りする卵をみんな求めているのか、尚更混んでいた。料理は得意じゃないけれど、出来合いの惣菜や湯銭で済むようなレトルト食品ばかりだとどうしても値段が高くついてしまうから、安い食材で済む献立をスマホで検索しながら、陳列された野菜と睨めっこして店内を一周する。 

カゴの中に卵を入れた時、他校の制服を着た女の子が、母親らしき人とスイーツコーナーを眺めていた。その光景を見て、やっぱり制服を着てひとりで買い物してるのは浮くかなぁと今日も思う。鞄からエコバッグを出して、買い物カゴに引っ掛けてレジに並ぶ。この時も、なんだか周りの視線が気になって落ち着かない。

スーパーを出ると、さっきよりも空はどんよりと曇っていて、空気の匂いも湿っぽい青臭いような気がした。ただでさえ、スーパーからの帰り道は荷物が増えるから自転車のペダルが重たいのに、天気のせいで気持ちまで尚更重たい。家に近づくにつれて、足に鉛が絡みついたように重くなる。 

クラスメイトの中に、学校に来て早々に「はやく帰りてえ」なんて言う子がいるけれど、そう言えるのが羨ましい。私は、できるだけ学校の屋上にずっと居たい。

「あっ、紗季ちゃん」

名前を呼ばれて、自転車のブレーキに手を掛ける。顔を上げると、そこはちょうど近所の仲田さんの家の前だった。

「おかえり。 ごめんね、急に呼び止めちゃって」

近所の人から「おかえりなさい」と言われた時、なんて言って返事をするのが正解なのか、やっぱり今日もいまいち分からず、私は「こんばんは……」と言いながら頭を下げた。

「渡したいものがあってね、ちょっと待っててね」

仲田さんは花壇に水を撒いていたホースを置いて、いつも着ている水色のエプロンで手を拭きながら玄関へ小走りで入っていく。私は自転車に跨ったまま片足を地面について、綺麗に手入れされた庭とホースの口から溢れ出る水を交互に眺める。

いつも、仲田さん家の庭は綺麗だ。 帰る家がこんな家だったら、私も、はやく帰りてえ、と思えるのだろうか。

「また、おかず作りすぎちゃったのよ。 良かったら貰ってくれない?」

玄関から戻って来た仲田さんは、小花柄の長方形の保冷バッグを手に下げて持っている。

「あ……いつも、すみません。 ありがとうございます……」

「そんな、うちこそ貰ってくれて有り難いのよ~。 紗季ちゃんは、おつかい?」

カラリと笑って言う仲田さんと同じように私も笑ってみようとするけれど、うまく出来なくて、「まあ、はい」と笑顔を作らないまま頷く。 先週も今日みたいに家に帰っている途中で、仲田さんからおかずをお裾分けしてもらった。その時よりも、仲田さんの背が縮んだような気がして、確かにわたしは背が伸びたのかもしれないと思った。

「偉いわねえ。 紗季ちゃんがそうしてくれると、おばあちゃんも助かるでしょうね。 ……おばあちゃんは、元気にしてる?」

「まあ……はい」

言いながら、なんとも中途半端な返事だなと思う。

「そう……最近、見掛けないからちょっと気になったの、ごめんね。 ……何か、困ったことがあったらいつでも言ってね」

眉尻を下げて言う仲田さんに、私は「ありがとうございます」とだけ言う。ぎこちなくお辞儀をして、受け取った保冷バッグを自転車のカゴに入れて、再びペダルに足を掛けた。

ごめんね、とは、一体何に対しての言葉だろうか。 

仲田さんは昔から祖母と仲が良くて、町内会の行事で行ったらしい旅行の写真には、いつも隣同士で写っていた。それに、仲田さんは私があの家に越して来た頃からとても優しくて、良くしてくれていた。学校から帰ってくると、仲田さんと祖母がお煎餅やお互いが作ったおかずを囲ってお茶会をしていることもよくあって、仲田さんが作る料理の美味しさはその頃から知っている。

だけど、一度祖母が倒れてから、仲田が家に来る頻度は減った。その頃、同時に仲田家にも孫が産まれて、仲田さんもなかなか時間が作れなかったのだと思う。けれど、それからか、仲田さんは夕食を時々お裾分けしてくれるようになった。

とても有難いことだと分かっている。それなのに、なんだかそれが居心地が悪くて、私は仲田さんとどう接して良いのか分からず少しだけ苦手になった。

焦茶色の古い木造の家が見えた時、頬にぽつりと冷たい何かが当たった。ん?と思った時には、また冷たいものが頬にぽつり、手にぽつりと当たって、雨が降ってきたんだと思って自転車を漕ぐ速度を上げる。ペダルを踏みを進めるごとに雨粒の量も大きさもどんどん増していくようだった。幸いあまり濡れることなく家の玄関まで辿り着いて、自転車を停める。エコバッグと保冷バッグを両手に持って、玄関の重たい引き戸は足先で開けた。 

「ただいまー」

そう声を掛けても、誰の返事も返ってこない。

「……おばあちゃん?」

玄関で靴を脱ごうとした時、なんだか異様な雰囲気を感じて、私は靴を脱ぎ捨てて台所へ駆け込む。すると、ガスがついたままの鍋の蓋がカタカタと揺れていて、その隙間からは白い泡がぶくぶくと溢れ出していた。
 
「ちょっと……!」

慌ててガスの火を止めると、鍋は音を立てて蓋の動きは停止した。ガスコンロの天板には、鍋から吹きこぼれた白い液体が溜まっている。

「ねえ!」

すぐ隣の居間に顔を出すと、祖母はソファに座ったまま、少しだけ間を置いてこちらに振り返ると「あら、おかえり」と眠たげな目をして言った。

「ガス、また付けっぱなしだったよ!」

私はテーブルに置かれたテレビのリモコンを掴んで、耳が痛くなる程の大きい声で元気よく喋るリポーターの音量を下げる。 

「やだ、うっかりしてたわ」

祖母はソファからゆっくりな動作で立ち上がると「ごめんごめん」と言って、左足を引き摺りながら私の横を通り過ぎて台所へ向かう。

「今日の夕飯ね、絢が好きなシチューにしたのよ。 あら、鍋が……」

「…………だから……」

私は手に持っていたリモコンをギュッと掴む。でも、湧き上がった感情とその勢いのまま思わず口から滑り落ちそうになった言葉と、溢れそうになるため息をぐっと飲み込んで、小さく深呼吸をする。

……もう、こんなこと何回もあったのに。

そう思ってもイラついてしまう自分に尚更イライラして、結局ため息だけは重たく溢れた。

「絢、シチューいっぱい食べられるでしょう?」

「……普通でいいよ」

リモコンをテーブルに置いて、玄関に戻って放り投げてしまったエコバッグと保冷バッグの中身を覗く。運よく卵は割れていなかったし、保冷バッグの中の容器も蓋が開いたりはしていなかったことに安堵した。容器の蓋を開けるとロールキャベツが入っていた。

仲田さんの作るロールキャベツは、美味しい。

「あとは私がするから、座ってていいよ」

台所に戻って、鍋をお玉で混ぜている祖母に声をかける。

「あら、珍しい。 手伝ってくれるの?」

「…………」

……私、毎日手伝ってるよ。 

そう言おうと思っても、祖母は私のことを自分の娘だと思い込んでいるのだから、私がいくら私自身のことを話しても、祖母は理解してくれない。

祖母に、認知症のような症状が現れたのは昨年の秋だった。はっきり認知症だと断言できないのは、診断を受けたわけではなく、私がネットで祖母の症状を調べただけだからだ。最初は物忘れが増えたくらいに思っていたけれど、ある日から、祖母は私のことを母の名前の“絢”と呼ぶようになった。

初めの頃は、私の名前は“紗季”で、娘ではなく孫だと何度も説明したけれど、祖母は不思議そうな顔をして、寧ろ私がおかしくなったんじゃないかと言って取り合ってはくれなかった。母親なんて、私をここに置き去りにしてから一度も帰ってきていないのに。私と祖母を、あの人は見放したのに。

私の方が、ずっとずっと祖母と仲良く過ごしてきたはずなのに、この家では“紗季”という私は存在しない人間になってしまった。

それでも私は、祖母がその内またふとした拍子に、私の名前を呼んでくれるのではないかといつも期待してしまう。そんな期待をした所で自分が悲しくなるだけなのにと思いながら、鍋とシンクにべっとりと流れ出たシチューをキッチンペーパーで拭き取る。

今日の夕飯は、昨日おばあちゃんがテレビを観ながら「美味しそうねぇ」と呟いていたカレーにしようと思ったんだけどなぁ、と思いながら、カレーに使おうと思ったジャガイモやにんじんが入ったシチューを器に盛り付ける。今日買ってきたカレールウは、棚に仕舞っておいた。

「どう、美味しい?」

食卓について、シチューを一口食べた私に祖母は聞く。 

認知症の症状のひとつに、料理の味付けが変になってしまうことがあるらしい。だけど、祖母が作る料理は変わらない。なんて皮肉だろうと思う。祖母は私のことも私の好物も忘れてしまったというのに、ここにはもういない人の好物を突然思い出したように作って、そして、味はとびきり美味しいだなんて。 

「美味しいよ」

その言葉を聞いた祖母は、「良かった」と目尻のシワを濃くして笑った。

食器洗いを終えて、お風呂も済ませて、祖母が居間から襖一枚で仕切られた寝室に入ったのを見届けてから、二階の自分の部屋に戻る。

日中閉め切られていた部屋は生ぬるい空気が漂っていて、お風呂上がりの火照った身体にはあまりに居心地が悪かった。 窓を開けると、どうやら雨は止んだようで、すうっと涼しい風と夜の匂いが入り込んできて、それが心地よくて、その空気を肺いっぱいに吸い込む。 

この、夜の匂いが好きだ。 あと、空に近い屋上にいる時の匂いも好き。どちらもその時にならないと感じられない空気だから、目いっぱい吸い込んで、その分自分の中に溜まった黒いものを吐き出す。このままずっと、自分の身体の中が綺麗な空気でいっぱいになって、嫌な感情なんて一生芽生えなきゃいいのにと思うけれど、なかなかそうはならない。

窓に背を向けて、田辺から借りた漫画をカバンから取り出してベッドに上がる。 どんどん読み進めて、左側のページ数が少なくなっていくと名残惜しい気持ちになるのに、それでも先が気になってページを捲る指は止まらず、私はあっという間に2冊を読了した。 

展開にハラハラして、心臓が少しだけ高鳴っている気がする。

田辺が貸してくれるものにハズレは一切ない。どうして今まで知らなかったのだろうと悔しくなる程だ。

それに、今読んでいるこれはなんだかアルビオンに雰囲気が似ていて読み進めるのが怖いくらいに面白いし、どうして話題にならないのだろうと不思議に思う。けれど、話題になっていないからこそ、自分たちだけがこの漫画の良さを知っているような気分になって、その優越感みたいなものに浸っているのが何気に幸せだったりする。

しかも、明後日には新刊が発売すると田辺が言っていたのを思い出して、思わず口の端が上がる。

やっと田辺に追いつけた。これで、思う存分この漫画について田辺と話すことができる。

私はたった今読み切った7巻と8巻のそれぞれのお気に入りのシーンを読み返そうかと思ったけれど、時計を見ると時間は0時になろうとしていた。一度ページを開くと結局止まらなくなるので今日のところは我慢して、明日田辺に返す前に読み返すことにして、私は高揚感に包まれたまま部屋の電気を消した。


翌日、学校に行くといつも私より早く教室にいるはずの田辺の姿がなかった。私が早く来すぎたのだろうかと教室の壁掛け時計を確認したけれど、時間はいつもと変わりなくて、教室にいるクラスメイトの顔ぶれもこの時間帯にいる子達だった。

寝坊でもしているのだろうか。珍しい。そう思いながら、私は自分の席についてスマホを操作してイヤホンから流れてくる音楽を変える。そのイヤホン越しに、クラスメイトの一人が「田辺遅くね?」と話している声が聞こえた。田辺と同じクラスになってから、田辺が学校を遅刻する姿は見たことがない。スマホのメッセージアプリを起動して、指をスクロールしながら田辺の名前を探す。

けれど、もうすでに田辺には他の子からメッセージが送られているだろうと思って、私はアプリを閉じてスマホの画面を伏せた。

それから、クラスメイトの結衣や朱理が教室にやって来て、私は耳からイヤホンを外して他愛もない会話をする。その会話は、他のクラスメイトや先輩の誰々が載せたSNSの投稿のことや、動画クリエイターの誰々の話ばかりで、私の興味のある話題とは少し違うけれど、適当にそれっぽい相槌を打つ。いつもの、私の朝の過ごし方だ。

それでも、田辺は来ない。クラスメイトの一人が「田辺、既読になんねーわ」と言っているのが聞こえた。胸の辺りが、少しだけざわつく。でも、そんなのは気のせいだろう。

そう思うのに、田辺が来ないまま朝の予鈴が鳴ってしまった。 教室の、ただ一つ空いている一番前の窓際の席が、教室から異様に浮いている。

「田辺、寝坊?」

また、クラスメイトの一人がそう呟く。

「わからん、今も既読付かん」

「お前も? 俺も昨日から既読つかないんだよね」

「まだ寝てんじゃね」

「だとしたら珍しくない?」

「バイト遅かったんじゃん?」

「あー、居酒屋だもんな」

「俺通話かけてみよっかな」

「ばか、もう相川来るぞ」

「まだいけるって」

皆、不安を共有するみたいに次々と話すので、私も気持ちが変に焦る。 

「田辺くんが休むなんて、珍しいね」

結衣がそう言った後に、朱理が「田辺くん、バイト掛け持ちしてるんだっけ」と言った。

田辺のバイトは、昨日は休みだった。帰ったのも、夕方の5時で決して遅い時間じゃない。じゃあ、寝坊ではないんじゃないか。それなら、風邪でも引いて、今も寝込んでいるのかもしれない。

頭の中で色々考えながら、クラスメイトが田辺に掛けているその通話に、田辺が出てくれればと願う。けれど、その願いも虚しく、田辺が通話に出る前に教室の扉が開いて私を含めたクラスメイトの皆が、教室に入って来た担任の相川先生の真っ赤な顔を見てぎょっとした。いつもメイクはばっちり決めてくるのに、今日はスッピンみたいで、しかも目を腫らして鼻を真っ赤にした顔をしている。

ただ事ではない何かが起こったのだろうと、皆が教室の中のたった一つ空席の田辺の席に視線を向けた。

相川先生は、鼻を啜りながら教壇に立って名簿ファイルをぱたんと置くと、嗚咽の混ざった震えるか細い声で、田辺史緒が死んだことを告げた。死因は、下校途中の交通事故だった。

聞いた瞬間、心拍数が一気に跳ね上がる。視界が、ぐわんと歪んだ気がした。

あるクラスメイトは、驚きのあまりか立ち上がったようで、椅子が床に倒れる音が教室中に響いた。その男子生徒は、田辺と仲が良い関口だった。その他は、ただ茫然とする生徒、わっと泣き出す生徒がいた。

その中で、私は何故か胸の辺りに何か得体の知れないものが込み上げてきて、ただただ吐き気がした。その理由は、分からない。 

驚きのあまり……涙が込み上げてきそうで……告げられた言葉の意味を受け入れられなそうで……。どれも、違う気がする。それでも、込み上げてきたものを我慢する為に私は顔を俯かせて、込み上げてくる何かをぐっと堪えた。

「田辺くんのご家族によると、お葬式は執行わないそうです。 ……もし、田辺くんと最後の挨拶をしたい人は、明日、先生と一緒に斎場に行きましょう」

その日は、私たちのクラスはそのまま放課となった。それでも、すぐに帰宅するような生徒はいなかった。

教室は、異様な雰囲気に包まれていた。田辺と特に仲が良かったクラスメイトたちは嗚咽を漏らしながら泣いていて、担任や他の子達が集まって、肩を摩ってやっていた。

「ねえ、紗季」

後ろの席の結衣が声を掛けてきて、私は振り向いた。結衣は、机に視線を落としていて、なんとも読み取れない表情をしていた。

「明日、一緒に行かない?」

「……斎場に?」

「…………うん」

結衣は、田辺のことが好きだった。私は結衣から視線を逸らして「そうだね」とだけ呟きながら、田辺の空いた席を見て、昨日田辺が帰る間際に言いかけたことはなんだったのだろうと、ぼんやりと思った。


初めて来た斎場は、重々しくて異様な雰囲気だった。クラスの2/3くらいの生徒が斎場まで足を運んだ。予想以上の人数だったようで、相川先生が係員の人に何か一生懸命話していた。

私たちは列になって並んでいた。先頭の方に視線を向けると田辺の遺影が見えた。遺影に写る田辺は笑っていて、今よりもずっと幼いような気がした。 

ここに来てみれば、田辺が死んだことが現実を帯びるだろうかと考えていたけれど、遺影の写真のあどけない笑顔の田辺を見ても、まだ信じられない。

それなら、やっぱりここに来るのは担任とクラスの代表数名で良かったのではとぼんやり考えていると「紗季」と後ろから小声で名前を呼ばれた。振り向くと、結衣が目を真っ赤にして立っていた。手には白いハンカチを持っている。 

「なんかさあ、全然現実味ないよ」 

声を詰まらせ、鼻を啜りながら結衣は言う。私はそれに対して「うん」とだけ返事をした。

「ねえ……あの人って田辺くんのお母さんかな」

結衣が指差す先を見ると、小さな祭壇の横に喪服を着た細身の女の人が立っていた。結衣や他の生徒のようには泣いておらず、特に何も表情は作らないまま足元に視線を落としている。

「……そうなんじゃない」

私は、遺影に写る田辺と細身の女の人を交互に見る。あまりよく見えないけれど、顔はやはり田辺と何処となく似ている。しかし、雰囲気はまるで似つかず、茶髪に染められている伸びた髪は少し雑に後ろで一括りにされていて、喪服のせいもあってかなんだか生気がなく、今にも萎れてしまいそうだ。

でも、子どもを失った母親なら、生気など失ってしまうものなのかもしれない、とも思う。

「なんか……あんまり似てないね」

結衣も同じようなことを思ったのだろう。

「……ねえ、紗季、知ってる?」

「何を?」

結衣は、私の隣にぴったりとくっついて声を潜める。

「田辺くん……自殺、っていう噂もあるみたいで……」

「…………え?」

思わず、身体が硬直する。自分の身体の全身の血の気が、さぁっと引いていく感覚がした。

「田辺くんが自分から道路に飛び出したらしくてさ、それで、トラックに…………ほら、田辺くん、家庭環境もちょっと複雑で……」

結衣の声が、耳の奥で鳴る自分の心臓の鼓動にかき消されて、うまく聞こえない。田辺が、自殺……? なんで、そうなるんだ。 誰だ、そんなことを言ったのは。

そう思った時、どこからか、また「自殺」と言葉が聞こえて、私は思わず振り返った。

自殺? 田辺が? そんなこと、ある訳ない。

田辺は私に、また明日と、言ったんだ。

「……結衣、ごめん。 私、帰る」

「えっ、ちょっと」

私は列に逆行して、集団から抜け出す。 何故かは分からないけれど、無性にイライラして、仕方がない。

どうして、どうしてこんなことになっちゃったんだ。腹が立つ。どうして。私は、一体なにに腹を立てているんだろう。

駐輪場に停めていた自転車に乗って、そのまま学校に向かった。ペダルを漕ぎながら、結衣の言葉が耳から離れてくれなくて、私は思わず眉根を寄せる。

田辺が自殺? そんな馬鹿みたいなことを言った奴はどこの誰だ。 田辺が、自ら道路に飛び出て行ったのを見た人がいるのか。でも、そんなの、田辺がよそ見をしてただけかもしれないのに。

そう思いながらも、なんで私がこんなに苛立っているんだとまた改めて思う。苛立っている理由は、結局、私が田辺のこと何も知らないからだろうか。

思い出す。なぜ、あの夕立が来た日、田辺は屋上に来たのだろう。何をしに、あの屋上に来たのだろう。

学校に着くと、グラウンドでは他学年が体育の授業で馬飛びをしていて、さっきまで私が居たセレモニーとのギャップがなんだか滑稽だった。突っ込むように駐輪場へ自転車を停めて、鍵もかけないまま走って、校内に入って階段を駆け上がる。

呼吸が乱れて、喉が焼けるように熱い。 けれど、そんなのはもうどうでも良かった。

階段を最上階まで登って、私は屋上の扉の前に立つりスカートのポケットからヘアピンを取り出して差し込む。こんな手順今まで何度もしてきたのに、どうしてか今は手が震えて上手くいかない。

こんな所で時間を掛けていたら、揺らいでしまう。迷ってしまう。

ロックの外れる音が小さく聞こえて、重たい扉を力いっぱい押す。その瞬間、風が吹き込んで邪魔な髪の毛が後ろに撫でられて、視界が一気に明るくなる。

フェンスの方へ向かう。頬を撫でる向かい風すらも、今は腹立たしい。胸の高さほどしかないフェンスの手摺りを掴む。簡単に乗り越えられそうだ。

「……なんで……」

思わず、言葉が零れ落ちる。 

なんで? そう聞きたい相手が、今ここにはいない。

もう、ここにも来ない。もう、田辺は……。

「新名」

風音の隙間から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、反射的に私は扉の方を振り向く。そこには誰かが立っていて、風に靡いて視界を遮ろうとする髪を手で抑えて目をよく凝らす。

「たなべ……?」

そこに立つのは確かに田辺で、遺影に写っていたような幼い顔ではなくて、一昨日ここで会ったままの田辺だった。

私は霞む視界を晴らしたくて、目を擦る。その手が震えている。もう一度目を凝らして見ると、やっぱり田辺はそこに立っていた。

「……なんで」

思わず言葉が零れ落ちて、無意識に一歩前に踏み出す。 

「私……さっき田辺の……あの、斎場に……」

「うん、知ってる」

田辺は特に表情も変えないまま頷いた。この状況を全然飲み込めないけれど、いまの私の言葉を肯定してほしくはなかったと頭の片隅で思う。

事実を受け止めるには私には全く余裕がないのに、田辺本人からそう言われてしまったら、それはもうどうしようもない。

少しくらい否定してくれたって、良かったのに。

「……なんで」

自分の声が、風にかき消されてしまう気がする。

「なんで、死んじゃったの」

零れ落ちた言葉は、田辺に届いているか分からないくらい小さかった。もしかしたら、これは全部悪い夢なのかもしれない。それか、私の頭もおかしくなったのかもしれない。可能性は、十二分にある。

でも、いま目の前で起きていること全部が私の頭の中の出来事であるのなら、田辺は私の言葉に答えないでほしい。 

「……ごめん」

田辺はただそう呟いた。その表情は、悲しそうで苦しそうな、初めて見る表情だった。そんな顔を、私がさせてしまった。胸がずきりと鈍い音を立てた気がした。

「新名に、お願いがあって会いにきた」

視線を一瞬揺らして、言うのを少し迷ったような雰囲気で田辺は言う。 

「少し遠くに、行きたい所があるんだ」

「行きたいところ?」

聞き返すと、田辺は頷いた。

「桜の葉公園って分かる?」

「え……うん」

「すぐに帰れるか分からないから……無理にとは言わない。 でも、もし来られそうなら、来て欲しい。 俺、そこで待ってるから」

そう一方的に言うと、田辺は振り返って開いたままの扉の中に入って行ってしまう。

「ちょっと……!」

田辺の後を追いかけるように走って扉に向かったけれど、そこにはもうそこには誰の姿もなかった。

思わず胸を掴む。鼓動が酷くうるさくて、呼吸が乱れる。

再びフェンスの方へと振り返ってみるけれど、やっぱりそこにも誰もいない。

「でも……」

桜の葉公園に行けば、また田辺に会えるのだろうか。 

私は屋上の扉を閉めて、鍵は掛けないまま階段を駆け下りた。幸い、まだ授業中のようで廊下を行き来する生徒や先生は居ない。あまりに走りっぱなしで流石に疲れて、階段の踊り場で膝に手をつくと、私は靴も履き替えずに校内に入って来てしまったのだと今さら気が付いた。

額に滲む汗を拭いながらまた階段を駆け下りて、下駄箱で立ち止まることなくそのまま駐輪場に向かって、自転車に跨がって来た道を戻る。さっきグラウンドで馬跳びをしていた生徒たちは、今はグルグルとグラウンドを走らされていた。

自転車を漕ぎながら、体育の授業で眺めていた田辺の姿を思い出す。  

田辺は、いつもちょうど良かった。

マラソンでも球技でも、一生懸命やり込む訳ではなくて、笑って楽しめるくらいの加減でやっているみたいだった。田辺はクラスの中のみんなにちょうど良く馴染んでいた。みんなを上手く繋いで、クラス全体を馴染ませていた。

だからきっと、私以外の誰にとっても、田辺の存在は大きかったのだと思う。

家に着いて、靴を脱ぎ捨てて自分の部屋に駆け上がった。田辺が言う遠くとは、一体どれくらいだろう。今日のうちに、帰ってこられない程だろうか。

押し入れから、中学の修学旅行の為に祖母が買ってくれたリュックを引っ張り出すと、埃を被っていたようで、それを吸い込んでしまい咽せる。 

……せっかくリュックを買ってくれたのに、祖母が脳梗塞で倒れたのは修学旅行の前日で、結局、修学旅行には行けなかった。そんな時ですら、母親とは連絡がつかなかった。私が、もうこの先一生母親に頼らないと決めたのはその時だった。

ファスナーを開けると、無くしたと思っていた祖母が誕生日にプレゼントしてくれた水色の折りたたみ傘が入っていた。使った回数なんて片手で足りるくらいだから、まだ新品も同然で綺麗な状態だ。

……私が遠くへ行ったら、片足が不自由で、認知症でガスを消し忘れてしまうような、私の名前と存在すら忘れてしまったような祖母が、この家に一人になる。

私は折りたたみ傘をリュックの中に戻した。普通だったら、そんな祖母を置いて田辺のところには行かないだろう。 

それでも、私は迷っている。 罪悪感が入り混じった、大きな不安がよぎる。結局、私もあんな人と一緒なのかもしれない…………。

「絢?」

後ろから祖母の声が聞こえて、咄嗟に振り向いてしまう。祖母は、戸に手を掛けてそこに立っている。

「絢、学校は?」

「…………」

返事をしないまま、視線をリュックに戻して私は再び手を動かす。その名前は、今一番聞きたくなかった。

「絢、その荷物は……」

「……絢じゃない」

「え?」

「私、絢じゃないよ」

もう一度振り返って、祖母の顔を見る。目尻に笑いシワが深く入った、大好きな祖母だ。

「おばあちゃん。 私、紗季だよ。 おばあちゃんの娘の、絢じゃない」

私はリュックから折り畳み傘を取り出す。 

「これ、私の8歳の誕生日に、おばあちゃんが買ってくれたんだよ。 私、クジラが好きだったから……おばあちゃん、わざわざ探して、私の為に、買ってきてくれたんだよ」

傘のケースと、傘本体にワンポイントでクジラのロゴが入っている水色の折り畳み傘。祖母は、それに視線を向ける。

「……さき」

祖母は私の手元から視線を外して、私を見る。

「そんな子、知らないわ」

首を横に振って、祖母は言う。さき、と祖母から呼ばれたその2文字は、まるで初めて口にした言葉みたいにぎこちなかった。

「……そっか」

小さく呟いて、涙が溢れ出してしまう前に立ち上がる。リュックを背負いこもうとした時、通学鞄の中に田辺から借りている漫画を見つけた。私は、それもリュックの中に仕舞い込む。

「ちょっと絢、どこへ行くの。 さきって、誰なの?」

「どいて」

祖母の顔を見ないように顔を下げて、部屋から出る。その時、祖母が私の腕を掴んだ。

「絢、やめなさい。 どこに行くっていうのよ」

「離して」

「そうやって、また勝手に出て行くのなんて許さない!」

「離してってば!!」

掴まれた手を振り払うと、祖母は少し後ろにバランスを崩した。ハッとして咄嗟に顔を上げそうになったけれど、ぎゅっと奥歯を噛んで、私はそのまま階段を駆け下りた。

「絢!」

もう聞きたくない。大嫌いな母親の名前なんて。ずっと祖母を置き去りにしている、あんな女の名前なんて。

スニーカーを履いて玄関の扉を開けると、そこには仲田さんが立っていた。驚いて、私は咄嗟に一歩後ろに下がる。

「紗季ちゃん……」

いま、このタイミングで一番会いたくない人だと思った。扉を閉めようと手に力を込めた時、仲田さんが口を開いた。

「急にごめんね。 紗季ちゃんが急いで帰ってくるのが見えて、何かあったのかと……」

「絢! 戻ってきなさい!」

階段の上から祖母の大きな声が聞こえて、仲田さんは顔をそちらに向ける。反対に、私は顔を下げた。

…………やっぱり、行くのは、やめようか。

こんな祖母を一人にしたら、何が起きるか分からない。またガスをつけたままなのを忘れて過ごすかもしれないし、そのまま眠ってしまうかもしれない。

誰も帰ってこないままの家にいたら、また母親を探しに夜出歩いてしまうかもしれない。

……私の所為で、祖母まで失ってしまうかもしれない。

そうなったら、もう、立ち直れない。本当に死んでしまいたいと思うだろう。

「紗季ちゃん」

名前を呼ばれたけれど、今にも涙が出てしまう気がして、顔を上げられない。

「紗季ちゃん、聞いて」

手に力を込めて視線を上げると、仲田さんは私の腕を引っ張って、後ろの扉をゆっくりと閉めた。

「もう……我慢しないで。 あなたは、もう十分すぎるくらいにひとりで頑張ってるんだから、周りを頼っていいのよ」

私は咄嗟に言葉の意味を理解できず仲田さんの顔を見ると、仲田さんは「ううん」と独り言みたいに呟いて首を横に振った。

「……そうじゃないわね。 今まで、ひとりにして、ごめんなさい」

仲田さんは、私の手をぎゅっと握った。そうされて、幼い頃によく祖母と手を繋いで歩いたことを思い出した。

祖母の手は、いつも温かかった。 

「どこかに、行かなきゃいけないのね?」

そう言われて、私は視線を揺らす。また下を向いて、目元を拭う。感情がぐちゃぐちゃで、まず何から言えばよいのか、うまく言葉が思いつかない。

けれど、ただ一つはっきりしていることは、行かなきゃきっと私は一生後悔するということだ。

「大切な友達が…………事故で…………」

そこまで言って、言葉に詰まって、思わず下を向く。仲田さんに握られた手が震えてしまう。

やっぱり、私はまだこの現実を受け入れられていない。

だけど。

「その人に、最後に……会いに、行きたいんです」

こんな変なこと、理解してもらえるだろうかと不安がよぎるけれど、それでも、この気持ちは事実だった。

「…………そう」

仲田さんはゆっくり頷く。

「絶対に帰ってきます、だから……」

私の言葉を聞き終わる前に仲田さんはもう一度頷いて、また私の手をぎゅっと握った。

「わたしね、紗季ちゃんのおばあちゃんに何度も助けられて、すごくお世話になったのよ。 だから、おばあちゃんのことは、このおばちゃんに任せなさい」

「……でも、迷惑じゃ」

「ううん。 おばちゃんにとっても、紗季ちゃんのおばあちゃんは、大切な友達なの。 だから、大丈夫よ。 大人に、任せなさい」

仲田さんは、眉尻を下げて微笑む。

「だから紗季ちゃんも、その友達に会いに行ってあげて」

その仲田さんの言葉に、我慢していた涙が頬を伝う。私は強く頷いて、目元を拭う。 

「すみません……。 ……お願いします」

「ええ。 でも紗季ちゃん。 心配だから、帰るときでもいいから、連絡はしてちょうだい」

仲田さんは「一応、これを……」と言って、鞄からスケジュール帳と小さなボールペンを取り出すと、番号を書いてページを千切って私に渡す。

「これ、私の電話番号。 邪魔かもしれないけど……」

その言葉に私は首を横に振って、それを受け取る。

「家にかけても……私からの電話はおばあちゃんは混乱すると思うから、仲田さんにしてもいいですか?」

「ええ、いいわよ。 行き先で何か困ったことがあった時でも、いつでも掛けて来て良いからね。 ……紗季ちゃん。 気を付けて、いってらっしゃい」

「……ありがとう、仲田さん」

私は頭を下げて、最後に私から仲田さんの手を握った。



自転車に乗って住宅街を抜けて川沿いにまっすぐ伸びた土手を走って、田辺が言っていた桜の葉公園に向かう。桜の葉公園は、小学生の時に学校帰りの遊び場だった。あの頃は、まだ祖母も元気で楽しかった。

「きっつ……」

普段自転車で一生懸命こんな距離を走ることはないし、何より今日は自転車を漕ぎっぱなしで今まで以上にペダルが酷く重く感じる。桜の葉公園の大きな木が見えて、少し疲れたのでペダルを踏み込む足を止めて車輪の回転に身を任せる。木の下に設置されたブランコに誰かが座っているのが見えた。公園の入り口に行くには土手から橋に出て遠回りしなくちゃならないけれど、そんなことしている気持ちの余裕はないから、私は自転車のブレーキに指を掛けて、そのまま土手の坂を斜めに駆け降りた。 

「わっ、わわ、」

思った以上に急斜面で、地面がデコボコで振動が全身に響いて痛い。足をペダルから外して斜面に踵を擦る。平面に近づいたその瞬間にブレーキを思いっきり引くと、金具同士が当たって甲高い音が鳴った。砂利にハンドルを取られたけれどなんとか自転車が止まって、地面に片足をつく。大きな鼓動の音が耳の奥で鳴り響いているのを感じながら、危うく大事故になるところだったと思う。

「新名?」

名前を呼ばれて顔を上げると、日陰に覆われたブランコに座っている田辺がいた。

「めっちゃ危ないことするね」

田辺は少し目を細めて、笑っているみたいに言う。その田辺があまりに自然で、やっぱり田辺が死んでしまったのは夢で、今も私は夢を見ているのだと……そう思おうと思った。それなのに、私の耳の奥で鳴り響く鼓動の音と様の声と急に噴き出してくる汗の感覚が生々しくて、これが夢ではないのだと裏付ける。でも、これが夢でないのなら、やっぱり私の頭がおかしくなったとかじゃないかと思う。死んだ人間が目の前にいるこんな非現実的な状況は、あまりにも都合が良すぎる。

「あれ? 俺のこと、見えてる?」

田辺はブランコに座ったまま小首を傾げる。 

「……見えてるよ」

「よかった。 新名、もともとこういうの見える人だったの?」

「いや……全然」

だからこそ、さっき屋上で見た光景は信じられなかった。ホラー映画は時々観るけれど、実際私はそういう類のことは否定派だった。

「そうなんだ。 なら、俺のことは見えてよかった」

田辺は「じゃあ行こう」と言って、ブランコから立ち上がると公園の出入り口の方に向かう。私は聞きたいことばかりだけれど、とりあえず自転車から降りて、「どこに行くの」と訊く。

「一旦、俺ん家」

「ええ?」

「すぐ近くなんだ」

田辺はそのまま公園から出て、左に曲がる。そこにはいくつかアパートが建っていて、田辺は「あれ」と古びたアパートを指差した。

「新名、俺の部屋に入って金取ってきてほしいんだ」

「はあ?」

思わず声が大きくなり、咄嗟に口を手で押さえる。 

「か、金?」

「自転車、階段の下に停めて俺と一緒に来て」

説明も一切ないのかと思うけれど、そう言う田辺はどこか焦っているようにも見えたので、私は言われた通りにして田辺と一緒に階段を登る。すると田辺は、階段を登ってすぐ目の前にあった扉の前で立ち止まってこちらを向いた。

「多分鍵空いてると思うから、開けてみて」

「え、私が?」

「俺、こうなってから何も触れなくなっちゃって」

ほら、と田辺はドアノブに手をかざすと、その手は何も掴むことなくスッとドアノブをすり抜けた。

「…………」

「ドン引きじゃん」

「そりゃそうでしょ……」

こんな光景を実際に目の当たりにしたら、驚きのあまり失神でもしちゃうんだろうと思っていた。でも、失神しないってことは、私は少しずつこの状況を受け入れているということなのだろうか。

「ほ、ほんとに入っていいの? 誰もいないんだよね?」

頷く田辺を横目に、私は恐る恐るドアノブを捻ってドアを引くと、キイと軋む音が鳴った。ドアの隙間から室内を見ると、中はカーテンが締め切られているせいか薄暗い。

「奥に俺の部屋があるから」

私は「お邪魔します……」と声を潜めて言いながら、玄関で靴を脱いで部屋に入る。部屋の中は生ぬるい室温で、タバコと、色々な食べ物の匂いがした。ゆっくり部屋の奥への足を進めると、何かが足に当たってカランと音が鳴って私は飛び上がる程驚く。

「ごめんっ、なんか蹴っちゃったかも」

「いいよ、そのままで。 足元、気を付けてって早く言えば良かったね。 あ、そこが俺の部屋だから、入って」

田辺が言う“そこ”の部屋の襖を引くと、その部屋はカーテンが開けっぱなしで眩しくて、思わず目を細める。部屋を見渡してみると、勉強机と畳まれた布団だけが置かれていて、何だか物が少ない部屋だなと思う。

「机の一番上の引き出しごと、出してくれる?」

「え、引き出しごと?」

「うん」

言われるがままに勉強机の一番上の引き出しを全部出してそれを机の上に置くと、田辺はしゃがみこんで引き出しの中を覗き込みながら「新名、ここ」と中を指差す。同じようにしゃがんで田辺が指差す所を覗くと、天板に何かが貼り付いているようだった。

「あれ剥いでくれる?」

「…………」

もう何も言うまいと私は空っぽになったその空間に手を突っ込んで、貼り付いたそれに親指を引っ掛ける。けれど、中々取れず力を込めるとベリリッと音を立てて勢いよく剥がれた。 取り出すと、養生テープが貼り付けられた茶封筒だった。

「……これ、お金?」

「そう。 バイト代、貯めておいたんだ」

どうして、こんな所に。そう言葉にはしなかったけれど、田辺は私の考え事が分かったみたいに「こうしておけば、盗られないからさ」と一言付け加えた。予想もしてなかった言葉に驚いて、思わず聞き返しそうになったけれど、気軽に聞いてはいけないことのような気がして、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。

「うち、変わってるからさ」

田辺は、少しだけ肩をすくめて、冗談っぽく言う。

「知ってるかもだけど、うち母子家庭で、母親は仕事してなくてさ。 バイト代、ほぼ家に入れてるフリして、毎月2万くらいはここに隠してたんだ」

田辺の家庭事情は、去年、1年生だった頃にその時のクラスメイトが噂しているのを聞いたことがある。だけど、そういうことを聞くと、自分の家庭事情もあんな風に噂されているのかもしれないと思うと、不安で、居心地が悪くて、聞かないようにしていた。

どうして、家族の形や在り方が人と違うだけで、噂されないといけないんだろう。

「使わずに、貯金してたの?」

封筒が破けないように、べっとり張り付いた養生テープを慎重に剥がす。

「うん。 目指せ100万と思ってた。 結局、貯まらなかったけど」

じゃあここには、いくら入ってるんだろうなんて思ってしまう。養生テープは、綺麗に剥がすことができた。

「新名さ、着替えって持ってきた?」

「え? いや……持ってきてない」

そういえば、荷物なんてまともに詰めてこられなかった。

「制服のままだと補導されかねないから、適当に俺の服着て」

「えっ」

「男の服なんて嫌かもだけど、新名が警察に連れてかれたら俺も困るし、新名も嫌でしょ? 押し入れに、服あるから」

田辺は「俺、向こういるね」とまた一方的に話して部屋から出てしまった。私が持ってこれた荷物は、財布、スマホの充電器、折り畳み傘と、田辺から借りた漫画だけだ。

とりあえず、さっき田辺が言っていた押し入れ開けようと部屋の左側に視線を移すと、押し入れ扉と勉強机の間に本棚が置かれていた。並べてある漫画は、全部田辺から貸してもらって読んだことのあるものばかり。一番上の段には、いま読んでいる漫画が6巻までが揃っている。そこに、一昨日田辺に返した7巻と8巻が並んでいないことが、田辺がその日からこの部屋に戻っていないことを裏付けるみたいだった。

押し入れの戸を開けると、中には服やジーンズがハンガーに掛かって並んでいた。

「ねえ、ほんとに何着てもいいの」

部屋の向こう側にいる田辺に声を掛けると「いいよ」とすぐに返事が返ってきた。適当に物色して、グレーのスウェットとジーンズを選んで、脱いだ制服はリュックの中に仕舞った。スウェットは大きくても困らないものの、ジーンズはどうしてもウエストのサイズが大きいし裾が長い。もう一度押し入れの中を覗くとベルトを見つけたので、それを腰に巻いて裾は引き摺らないように折り上げた。

「着替えたよ」と声を掛けると、田辺は襖から顔を覗かせて私を見ると、うん、と満足げに頷く。

「似合うね」

「どうも」

「あ、でも一応キャップも……」

田辺は壁のフックに引っ掛かっていたカーキ色のキャップを一瞬掴んだけれど、キャップはそのまま田辺の手をすり抜けて床にボトッと落ちた。私は落ちたキャップと田辺を交互に見ると、田辺は「すげえ、一瞬触れた」と手をぐーぱーしながら言う。

「こういうのを心霊現象って言うんだろうな」

「なるほど……」

何を関心してるのだろうと思いつつ、私はキャップを拾う。

「これ、被ったらいいの?」

「うん」

私は言われる通りにキャップを被る。普段帽子を被ることなんてないから変じゃないだろうかと不安になったけれど、目が合った田辺が「いいね」とどこか満足そうに言うので、ひとまず安心した。

「封筒、リュックに仕舞っててくれる?」

「分かった」

「じゃあ、行こう」

リュックを背負って部屋から出ようとした時、さっきは真っ暗で見えなかった居間の様子が田辺の部屋から照らされた明かりで見えて、私は思わず足を止めた。居間に置かれたテーブルには、ビールの缶と吸殻が溜まった灰皿、そして割り箸が刺さったままのカップ麺が置かれている。床に視線を向けると、多分私が蹴ってしまったものと思う酎ハイの缶が転がっていた。

―――家庭環境も悪かったらしいよ。

結衣の言葉を思い出す。私は思わず振り返って、田辺のこざっぱりとした部屋をもう一度見る。学校で会う田辺は、家庭事情が他の人と変わってることなんて気にならないくらい自然体だった。

でも、たぶん、そうじゃない。

私は、教室にいる時は目立たず、周りと同じような振る舞いをすることだけを考えていた。何か違う行動をしたら、“やっぱり親がいない子は変わってる”と思われてしまいそうで怖かった。

だから、もうあの家には帰りたくなかった。家には、私を捨てた母の名前で私を呼ぶ祖母が待っている。誰も私のことを知らない家は、自分が生きている心地がしない。誰もいない屋上で過ごしている時だけが、自由でいられる気がした。

もしかしたら、田辺も同じだったかもしれない。

……本当に、田辺は、自殺なのだろうか。

「新名?」

ハッとして視線を田辺に向けると「どうした?」と言われて私は首を横に振る。

「ううん、なんでもない」

私は田辺の部屋の襖を閉じて、今度は何も蹴ってしまわないように注意して歩いた。

「さっきキャップ触れたからいけるかと思ったけど、やっぱり無理っぽいや」

ドアノブを見ると、田辺の手はすり抜けて向こう側に消えている。田辺の代わりに扉を開けた。次の行先は駅だと言うので、階段を降りて、リュックを自転車のカゴの中に押し込む。

「後ろ、乗っていい? 多分、軽いと思うんだよね」

「……分かってるよ」

サドルに跨って、田辺も後ろに乗ったことを確認してペダルを踏み込んだ。田辺の言う通り、自転車にはもう一人が乗っているような感覚は全く無くて、一瞬不安になって自分の左後ろを見た。視界の隅に、田辺の足が映っている。それでもやっぱり不安で、「田辺」と後ろに向かって名前を呼んだ。

「なに?」

「駅行くのは分かったけど、そっからどこに行くの」

「んー、内緒」

「え、怖いんだけど」

「大丈夫、大丈夫」

そう言う田辺は後ろに仰け反っているのか、ほんの少しだけ声が遠くなる。

「女子が運転する自転車の後ろに乗るの、初めてだわ」

「そんなの、私もだよ」

「はは、そっか」

他愛もない会話だと思った。屋上で話していた内容と、何ら変わりない。それなのに、田辺は死んで幽霊になっていて、何故か私はそんな田辺と行先の分からない場所に行こうとしている。

これが、田辺が死んでなくて幽霊でも何でもなくて、この自転車にもう一人分の重みがちゃんとあったなら。

こんな非現実的なあり得ない出来事をどんなに否定しようとしても、私以外の全部が現実なのだと突き付けてくる。

私は自転車を漕ぐ力を少しだけ早くして、額に滲む汗を振り切った。


駅に到着し、田辺の後ろをついて切符販売機の前に立った。もう一台切符販売機を挟んだその隣には改札窓口があり、奥に駅員が座っている横顔が見える。

田辺が2人分の切手を買って欲しいと言うので、理由を聞いたら「無賃乗車は抵抗あるから」だった。そういうところが田辺らしい。

「切符は、これ」

値段が高いと思って、いまから行く所はやっぱり遠いのだと実感する。自動券売機の吐き出し口から切符を2枚取り出すと、行き先は私は初めて行く場所だった。田辺はホームの案内板を見ていた。あと10分ほどで到着するらしいのでホームに降りることにした。

改札窓口まで行くと、結構年配に見える駅員はゆっくりと立ち上がったので、切符を1枚差し出す。ありがとうございます、としゃがれた声が聞こえて、駅員は慣れた動作で素早く切符を切った。

1枚で、やっぱりいいんだ。

電車が来る3番線は反対側だった為、階段を上って向かう。階段を踏む足音は私ひとりの音しか聞こえないのに、隣を見ると私とは違うリズムで階段を登っている田辺がいてやっぱり不思議な感覚だ。ホームには誰もいなくて、私と田辺はベンチに腰かけた。

「ねえ」

「ん?」

「一緒に来るの、私で良かったの?」

本当は、もっと別に聞きたいことはあるけれど、どれも田辺が死んでしまったことに関することばかりで、聞きづらい。オブラートに包んで聞けるような器用さも私は持っていない。

でも、一緒に来る相手が私で良かったのかという質問だって、聞くのは正直怖かった。

「……新名なら、俺がこんなことになってても、信じてくれると思ったんだよね」

田辺は自分の手を見る。その手は、漫画や映画みたいに向こう側が透けて見えたりはしていなくて、はっきりと手の輪郭を持っている。

「新名はさ、俺のこと、怖いとか思わないの?」

「怖い?」

咄嗟に聞き返してしまったけれど、そういうことかと理解して「全然」と首を横に振る。 

「死んだ人間が目の前に出てきたら怖くない? 普通に心霊現象じゃん」

「まあ、びっくりはしたけど……でも、田辺は田辺だし」

そう言うと、田辺はきょとんとしたような顔をする。変なこと言ったかなと思ったけれど、田辺はふっと小さく笑った。

「そっか。 新名も、新名って感じだな」

「え、どういう意味」

「そのまんまの意味だよ」

田辺がなんだか嬉しそうに笑うので、まあいいかと思う。結局、田辺が死んでしまったことに触れてしまったけれど、笑顔が見れたことに安堵している自分もいて、それが複雑だった。

「そうだ」

私はリュックを開けて、茶封筒を取り出して「これ、いくら位入ってるの?」と訊く。

「50万くらい。 てか、中身見てないの?」

「えっ、ご、50?! 見てないよ」

「あれ、電車代は? そこから出してないの?」

「出してないよ」

「ええっ。 ごめん、早く言えばよかったな。 全部俺が頼んだことだし、もう使い道のない金だから遠慮しないで使って」

そう言われても、気安くは使えない。

「……このお金、本当は何に使う予定だったの?」

聞くのは、ほんの少し躊躇があった。田辺は「んー」とベンチの背もたれに寄りかかる。

「さっさと家から出たかったからなぁ」

田辺の家と、お母さんの姿が思い浮かんだ。私は、何も言えなかった。

「それに、漫画も買えないし」

そう付け足すみたいに言って、田辺は小さく笑った。

「新名はバイトしてるっけ」

「長期休みの単発だけ」

夏休みになると、スイカ農家とホテルの客室清掃の短期バイトの募集がかかる。どちらも送迎付きで、給料もそこそこ良い。

「でも、あんまり貯金できてない」

そんな話をしているうちに、私たちが待っている電車が到着するアナウンスが鳴った。私と田辺が同時にホーム左側に顔を向けると、3車両の電車はスピードを緩めながらゆっくりと私たちの目の前で停まった。

私は茶封筒をリュックに仕舞い直して、しっかりファスナーを閉める。田辺は3車両目のドアの前で足を止めて、開閉ボタンに人差し指を向けた。

「はは、やっぱ押せないわ」

そう笑う田辺の後ろから私がボタンを押すと、電車の扉は簡単に開く。田辺は「お〜」と呑気に言いながら車内に入ると中を見渡して、「ガラガラだね」と呟いてボックス席に座ると私に手招きをする。リュックを肩から下ろして、田辺の正面に座った。

「疲れてない?」

「うん、平気。 田辺は?」

「俺は全然平気。 全部、新名にしてもらってるから」

そう言って、田辺は窓の外に視線を向ける。車内アナウンスが鳴って、ドアが閉まって電車はゆっくりと進みだした。

「あのさ、なんで新名は、来てくれたの」

改めて聞かれると、どう言ったら良いのか何故か分からず、私は口を結んで考える。その数秒の沈黙の間、電車が揺れる硬い音が一定のリズムで刻まれていく。視界の隅では、景色がどんどん後ろ側に流れていく。

なんでと言われても……。

「友達だから」

そう言葉を口にしてから、私が田辺を友達だなんて呼んで良かっただろうかと、後悔した。田辺の反応を見るのがなんだか怖くて、視線を田辺と車窓の間の謎空間に泳がす。

「そっか。 それなら、よかった。 そう思ってたの俺だけかもとか、思ったりしてた」

田辺は座席の背もたれに寄り掛かる。どこか安心したような、そんな表情。

「新名が俺のことどう思ってるか、ちょっと心配だったんだよね」

「え、田辺が?」

思わず「なんか、意外」と言うと、田辺は「え、意外かな」と小首を傾げた。

「だって、田辺は友達多いし……そういうの気にするような感じには見えなかった」

田辺の周りに人が集まるのはごく自然なことで、私からはその人たちはみんた田辺の友達に見えていた。だから、わざわざ田辺がこんなことで悩むようなタイプには思えなかった。

「ああ~……まあ、うん。 他の人は、気にしたことなかったかもな……」

田辺はひとりで何かを納得したような顔をしている。その時、次の駅に到着するアナウンスが鳴って、私と田辺は同時に反対側の窓の外に視線を向けるとホームには結構人が待っていた。

「新名、俺が話し掛けても喋っちゃダメだからね」

「なら、話し掛けないで」

「それは、分かんない」

ちょっとだけ意地悪く笑っている田辺を睨みつつ、私はリュックを膝の上に乗せる。

どうか他の車両にみんな行ってくれないかと願ったけれど、そんな願いも虚しく、電車が停車してドアが開くとこの3車両目には5、6人ほど入って来た。みんな空いてる場所にそれぞれ座っていくだろうと思っていると、黒いランドセルを背負った男の子がヒョイッと田辺の隣の席に座った。

思いがけない出来事に私はハッと息が止まる。目の前を見ると、田辺も驚いた表情でその男の子を見てから私に視線を向けた。

そして、〈眼〉で“俺のこと見えてないよね?”と語り掛けてくるので、私は“分からない”と首を小さく横に振って、もう一度男の子に視線を向けると、不意にその子と一瞬だけ目が合った気がした。けれどすぐに、男の子は膝の上に抱えたランドセルに顔を埋めた。

気のせいかと思いながら、私はもう一度田辺の方を向いて“大丈夫”と言うように頷いて見せた。電車は再び動き出し、窓の外を見ると映る流れていく景色は少しずつ知らないものになっていく。

高校生にもなって恥ずかしいことかもしれないけど、友達と電車に乗って知らない所に行くのはこれが人生で初めてだ。だからといって、旅行みたいな、行き先に楽しいことが必ず待っているというワクワク感は皆無だけど。

でも、不安な感情はさっきまでよりは薄まってきている気がするのは、たぶん、一緒にいるのが田辺だからだろう。

座席の背もたれに体重を預けて、ふう、と小さく息を吐いて、少しだけぼうっとする。

そういえば、昨日からあまり眠っていない。昨日は屋上にも行かないまま帰って、家に帰ってもなんだかずっと上の空だった。お腹も空かなくて、夕飯を残したら祖母から具合が悪いのかと心配された。その時も、母の名前で私を呼んでいて、友人が死んでしまったこと、気持ちの整理がつかないことなんて、話すことができなかった。それから、シャワーを済ませて、そのままベッドに沈むように倒れ込んだのだけは覚えている。

……いま、おばあちゃんは大丈夫だろうか。

家の階段の上から、母の名前を叫ぶ祖母を思い出す。あんな風に怒らせてしまったのは初めてだった。祖母は、私が仮病を使って学校を休んでも、祖母がお気に入りだったお皿を割ってしまった時でも、怒らなかった。

それに、仲田さんにものすごく迷惑をかけてしまった。仲田さんが、ずっと祖母と私のことを気に掛けてくれていたのは気付いていた。それがお節介だと、自分たちを同情しているのだとばかり思い込み、愛想のない態度ばかり取ってしまっていた。なんて、失礼なことをしていたんだろうと思う。仲田さんの、ごめんね、という言葉を思い出して胸がずきりと痛む。

あの時もっと、お礼を伝えるべきだった。謝らなければならないのは、私の方なのに……。帰ったららおばあちゃんにも、ちゃんと謝らないと…………。

「……な、新名」

目を開けると、私の顔を覗き込んでいる田辺と目が合った。いつの間にか目を瞑って、うたた寝をしてしまっていたらしい。

「ごめん、ここで降りる」

「あっ、うん」

慌てて立ち上がりつつ、リュックを背負って田辺の後を追って電車を降りる。

「新名、改札こっち」

周りを見渡す余裕もないまま田辺に呼ばれて改札へ向かうと、自動改札機を通り過ぎる人を見て、切符を落としたのではと一瞬ヒヤリとしたが、ジーンズのポケットにしっかり仕舞ったのを思い出した。ポケットから切符を1枚取り出して、自動改札機の投入口に差し込むと、切符は勢いよく吸い込まれていった。

ほっと息をつくと、また田辺に名前を呼ばれる。顔を上げると、全く知らない景色が広がっていた。

駅構内から出て階段を降りると、駅前からアーケードが向こう側まで設置されている歩道があったり、広い駐車場に何台かタクシーが停まっていたりして、地元よりほんの少し栄えているのが分かる。

「ここ、どこ」

「俺が前に住んでたとこ」

「えっ、前っていつ」

「小学生までかな」

私は一瞬、あれ?と思う。「中学は、私たち別だよね」と聞くと、田辺は頷いた。

「俺、2回引っ越してるから中学はまた別だよ。 あれ、言ったことなかったっけ?」

「え、どうだったかな」

思い返してみるけれど、“そう言われれば言われたような気もする”くらいしか思い出せない。そもそも、私と田辺は自分たちのことを深く話すようなことはあまりなかった。でも、映画を観るなら必ず夜中という互いの共通点があって、その理由が私は祖母が寝てから、田辺は母親が仕事に行ってからなんていう話と、クラスメイトが噂する話を照らし合わせると、家庭に事情がありそうだなぁと互いに察していたと思う。

今思えば、田辺と私が学校の屋上で話す内容は、何かの物語についてばかりだった。私はそのお陰で、その時だけは、変わらず自分が置かれている環境のことを忘れられた。

「新名、ちょっと休む?」

田辺は私の顔を覗き込むようにして言う。不意に目があった所為で、少しだけ驚いた。

「大丈夫。 でも、何か飲み物買いたいかも」

そう言いながら辺りを見回して自動販売機を探すと、ちょうど業者が入れ替え作業に入っていた。コンビニは駅裏にしかなく、行先の途中でスーパーに立ち寄れるようなので、そこで飲み物を調達することにした。

アーケード通りを歩きながら、私は辺りを見回す。電車の中ではいつの間にか寝てしまったから、ここが地元から何駅離れた場所なのか分からない。ふと今の時刻が気になってジーンズのポケットからスマホを取り出そうとした時、前を歩く田辺が「懐かしー」と呟いた。

田辺が向けている視線を辿ると、アーケードが途切れた先に公園があった。親子連れが何組かいて、子どもたちが遊具でそれぞれ遊んでいる。

「この公園で遊んだりしたの?」

「うん。 あれ、タイヤ飛び無くなってる」

「うっわ、タイヤ飛びとか懐かしい」

それこそ、私も小学生の頃は桜の葉公園でよく遊んでいた。ブランコは残っていたようだけど、あの公園も以前は設置されていた遊具が無くなったりしてるんだろうか。

その時、遊具から少し離れた手前側でボール遊びをしていた男の子がお母さんから転がされたボールを取り損ねて、ボールはそのまま私たちの方へと転がって来た。田辺が咄嗟に屈んだのを見て、私はっと思う。田辺の手では、触れない。

同時に田辺も気付いたようで「あ」と小声で言ったけれど、ボールは田辺の指先に当たったように不自然に一瞬だけ止まって、それからはコロコロと転がって田辺の足元をすり抜けて私の足に当たってピタリと止まった。

「いま、触れた気がした」

こちらに振り向いて言う田辺に私も頷きながらボールを拾うと、ちょうど男の子がこちらに走ってきた。その後ろからお母さんが「すみませーん」と言いながら駆け寄ってくる。男の子は私からボールを受け取ると、お母さんに「ほら、ありがとうって」と声を掛けられ恥ずかしそうに「ありがとう」と呟いた。

私もぎこちない感じで「どういたしまして」とだけ言った。お母さんと目が合うと「ありがとうございました」と会釈をされて、少し慌てて会釈を返す。元居た場所に戻っていく2人の背中を見ながら、ぼんやりと、自分の母親のことを思い出す。

私はあんな風に、公園で母親に遊んでもらった記憶がない。 私が思い出す母親の姿はいつも、暗い部屋の中でテーブルに色の抜けた肌触りの悪そうな金色の髪の毛を広げて、うな垂れている姿だ。

「なんで、一瞬だけ触れる感じがあるんだろう」

田辺は自分の手をぐーぱーしながら、再び歩き出す。

「触った感覚ってあるの?」

「一瞬だけね。 でも、生きてた時とはちょっと違う感じかな」

生きていた時。そんな言葉に、まだ胸がざわっと音を立てる。

スーパーの“マルナカ”に着いて、少し悩んでレモンスカッシュを手に取る。田辺はそれを見て「それ選ぶと思った」と笑った。

「……あのさ、変なこと聞くけど」

私は少し辺りを気にしながら言う。

「なに?」

「田辺は、喉乾かないの?」

「うん。 腹も減るっていう感覚もないかな」

「へえ……」

曖昧に返事をしながら、田辺の前で一人食事をするのも気が引けたので、お腹は空いているけれど食べ物は手に取らずレジに向かう。

「俺、外で待ってるね」

「うん」

セルフレジは故障中なのか規制されていたため、店員さんのいるレジの方に並ぶと、ランドセルを背負った男の子が先客でいた。あれ、この子……。

「1,113円になります」

店員に言われ、男の子は財布の中から千円札を取り出す。けれど「あれ」とどこか焦ったように言う。財布を小さく振ってみている様子から、もしかすると小銭が足りなかったのかもしれないと思った。

「あ、あの、100円、足りなくて……」

それを聞いて、えっ、と思う。そういえば、私も同じ経験をしたことがある。こういう時、ちょっとだけパニックになる。

「これ、落ちてましたよ」

私は咄嗟に自分の財布から100円玉を取り出して、男の子に渡す。 店員と男の子にきょとんとした表情でこちらを見られて、自分の顔がかあっと熱くなるのが分かった。 

「え、落ち……?」

「うん、足元に」

もう後にも引けないので、頷く。男の子は戸惑いながら「ありがとうございます」と言って私から100円玉を受け取って会計を済ませると、エコバッグを持ってそのままレジを立ち去った。私も会計を済ませて出入り口に向かい自動ドアを通って店内から出たとき、さっきの男の子が立っていて思わず「わっ」と声が出た。男の子はまっすぐ私の顔を見る。

「さっき、電車に乗ってましたよね」

「え? あ、はい……」

なんなんだこの子、と私は無遠慮に、戸惑った顔をした。

「じゃあ、あの」

「新名、どうした?」

男の子の真後ろに田辺が立っていて私はまた「わっ」と声を上げる。すると男の子も不思議そうな顔をして振り返ると「あ」と言って、明らかに、田辺を捉えたように視線を向ける。

「この子、さっき電車に居た子?」

「この人もさっきいましたよね」

田辺は私に、男の子は田辺に向かって話しかけている。私は訳が分からず、2人に交互に視線を向けた。

「え、てか俺に話しかけてる?」

田辺もなんだかよく分かっていないようで、次は男の子に顔を向けて話しかけると、その子は頷いた。

「うそ、まじ?」

「ふたりは知り合いなんですか?」

「うん、そう」

「なんだ、そうなんだ」

もう普通に会話し始めているふたりに、私だけ完全に置き去りにされている。背中に、変な汗が流れているのを感じる。 

「じゃあ、いつから……」

男の子は私の方に振り返ってなにか言いかけたけれど、「いや」と首を小さく横に振って言葉を止めた。

「何でもないです。 お金拾ってくれて、ありがとうございました。 それじゃあ」

「え、ちょっと……」

男の子は私の声を聞く間もない速さでお辞儀をして、スタスタと歩いて行ってしまった。い、一体なんだったんだ……。自分以外に田辺のことが見ている人と出会えたことに、驚きを隠せない。

「新名、お金拾ったの?」

「え? あ、うん……」

「へえ、なんか良いことあるといいね」

田辺は特別驚いてもいないようで、「俺らも行こう」と言って、男の子が歩いて行った同じ方向へと足を進める。ランドセルを背負って重たそうなエコバッグを肩に掛けて歩く男の子の後ろにあっという間に追いつくと、その子はこちらに気付いたようで振り返った。

「なんですか」

「俺らも同じ方向なんだよ」

「え? ……そうなんだ」

そう言うと男の子はエコバッグを重たそうに肩に掛け直す。小柄な子供には、この荷物は大変だろうなと思う。

「ねえ、良かったら荷物持つよ」

男の子は私の顔を見上げる。表情は、どこか戸惑っているみたいに見えた。

「同じ方向みたいだし、その次いでに」

田辺の方を見ると、いいよ、と言っているみたいに頷いてくれている。

「でも、これから迎えがあって……」

「迎え?」

田辺が聞き返した言葉に、男の子は「保育園に、弟の」と言った。 

「……いつも、そうなの?」

「うん」

小学生の子が弟の迎えに行くなんて珍しいなと思う。親御さんは、忙しい人なのだろうか。

「保育園って、あおぞら保育園?」

田辺が聞くと「え、なんで知ってるの」と男の子は驚いた顔で言う。

「俺もそこ通ってたんだよ」

「へえ……」

そう言った男の子の表情は、さっきよりも少しだけ緊張が解けたようだった。 

「俺も、久々に保育園見に行きてえな〜」

田辺は私の方を見て言うので、「わ、私も行ってみたいなあ」と男の子に言ってみる。男の子は口を少しだけツンとさせて「そんなに、言うなら……」と小さな声で言う。

「よし、決まりね。 ほら、貸して」

男の子に手を差し出すと、その子は小さくお辞儀をして私にエコバッグを手渡した。3人で歩き出して、私は男の子に「あのさ」と声を掛ける。

「電車に乗ってた時も、田辺のこと見えたんだよね?」

男の子は頷く。今思えば、電車の中でこの子に会った時の何とも言いようのない違和感は、田辺のことが見えていたのなら納得いくものな気がした。

「へえ、じゃあわざわざ俺の隣に座ったってこと?」

「うん。 他の人に潰されちゃ可哀想だから」

「つ、つぶ……?」

男の子の衝撃発言に私は困惑しているのに、田辺は「えっ、俺潰されんの」とまるで他人事のように笑っている。 

「ふたりは、名前なんていうの?」

「田辺史緒」

「新名紗季。 きみは?」

「藤井快人。 紗季さんと史緒は、何歳?」

「おい、なんで俺だけ呼び捨てなんだよ」

「17だよ。 高2」

快人くんは「ふうん」と言う。今後は私が快人くんに何歳なのかと聞くと「11歳」と答えた。

「11……ってことは、小5か。 それにしちゃ、チビだな」

「クラスで、後ろから3番目だし」

「嘘つけ」

ふたりがもう自然にやり取りをしている様子を見て、私は少しほっとする。自分しか田辺のことが見えてないことに、ずっとどこか不安を感じていた。けれど、快人くんのおかげで、これは私の妄想や夢なんかではなくて、ちゃんと現実に起こっている出来事なのだとはっきり理解できた。

「お、懐かしー」

目の前に『あおぞら保育園』という看板が見えて、子供たちの賑やかな声も聞こえてきた。私と田辺は快人くんの後ろをついて、保育園の敷地に入る。

「あ、快人くん」

園児と遊んでいた若い女性の先生がこちらに気付いて笑顔で言う。けれど、快人くんの後ろに立つ私たちを見て、不思議そうに首を傾げる。

「マナミ先生、こんにちは」

「こんにちは……あの、快人くん、後ろの方は……?」

マナミ先生に、あからさまに不審がられていることに今更気付いて「あ、えっと」と言ってみるけれど、次に続く言葉が思い付かない。

「従妹の、紗季ねえちゃん。 一緒に、ご飯の買い物してきたんだ」

快人くんは、ほら、と私が持っているエコバッグを指差すので、私は慌てて「はじめまして」と軽く頭を下げた。

「ああっ、そうだったんですね。 はじめまして」

マナミ先生は快人くんの嘘をすっかり信じたようで、慌てて頭を下げた。警戒が解けたことが分かって安心するとともに、騙してしまったと思うと、居心地は悪かった。マナミ先生は“隼人くん”と呼んでくると言って、保育園の建物の中へと小走りで向かった。

「すげぇ、よく交わしたなあ」

「まあね」

快人くんはほんの少しだけ笑って見せる。その顔がどこか得意げで、ちょっと可愛らしい。私は保育園の外で走り回っている子たちを見ながら、自分があの歳くらいの時はまだ母親と一緒に居たことをぼんやりと思い出す。一緒に、と言っても母親はほぼ家には居なくて、保育園の送り迎えもバスだったから迎えにきてもらったことはない。家に帰ったら、テーブルの上にコンビニ弁当か1000円札が置いてあるだけだった。

「……あのさ、弟は……」

「おにい〜ちゃあ〜ん!!」

何か快人くんが言いかけたとき、建物の方から大きい声が聞こえてそちらを向くと、一人の男の子が両手を広げてこちらに向かって走って来ていた。

「おかぁえり〜!!」

隼人くんはそのまま快人くんに突進すると、快人くんが「おわっ」と後ろによろけた。 私は咄嗟に彼の背中に手を差し出すと田辺の手と重なった。田辺の方が「ごめん」と言ってぱっとそこから手を離す。

「隼人くんー! リュック忘れてるよ〜!!」

マナミ先生も、青いリュックを持ってこちらに走ってくる。 

「隼人、リュック忘れてくるの気を付けてって、いつも言ってるじゃん」

「うん、ごめん!」

2人のやり取りを見ながら、隣で田辺が「そっくりだな」と呟くので、私は思わず頷いた。特にくりりとした大きな目がそっくり。

快人くんは黒のランドセルを背負ってたから初めから男の子だと分かったけれど、隼人くんも少し髪が伸びていて一見すると女の子に間違えそうだ。

隼人くんはマナミ先生からリュックを受け取って背負うと、「ん?」と言って私と田辺の方を見る。

「おねえちゃん、だ――」

「隼人。 今日の夕飯、隼人の好きなオムライスだから、はやく帰ろう」

「えっオムライス!? やったぁー!」

「それじゃあマナミ先生、また明日!」

快人くんは展開についていけずぽかんとしていた私の手を引っ張る。田辺は、呑気に「オムライスかあ、いいなあ」と呑気に一人で喋っている。

「せんせえ、また明日〜!」とこれまた大きな声で言う隼人くんの声に、私は慌てて振り返ってマナミ先生に頭を下げた。

「はっ、そうだ! おねえちゃん、誰?」

園の敷地から出た後で思い出したように言う隼人くんに、「えっと」と言葉に詰まる。 
この子に、従姉妹だという嘘は通用しないだろうし、それに、あれ……?

すると、快人くんが「おねえちゃんは」と口を開いた。

「兄ちゃんを、助けてくれた人」

快人くんはそう言うと、何か気付いたように私と繋いだ手を見るとパッと離して、私と目が合うとどこか気まずそうに視線を前に戻した。

「おい、何照れてんだ」

田辺の言葉に私は「え?」と聞き返すと、隼人くんが「お兄ちゃん、顔赤いね」と言葉を続ける。

「て、照れてない! 赤くもないっ」

「ええ、そうかなあ? でも、そうか! おねえちゃんはおにいちゃんのヒーローだね」

ねっ!とこちらに笑顔を向ける隼人くんに、私は「う、うん?」と頷く。 

100円を渡しただけなのに、「助けてくれた」なんて言ってくれるなんて思ってもみなかった。 それでも、そう快人くんが言ってくれたから、あの時勇気を出して良かったと思う。



「うち、ここ」

快人くんはそう言いながら、道沿いにある2階建てアパートの前で立ち止まる。

「えっ、ここ?」

そう言ったのは田辺で、快人くんはランドセルから鍵を出して「うん」と小さな返事をする。 

すると田辺は、そのアパートの斜め向かいを指さす。 そこには、ブロック塀から木造の家が見えた。

「あそこ、俺のじいちゃん家なんだ」

「えっ?!」

「えっ、なに?!」

快人くんの驚いた声に、隼人くんは「おにいちゃん、どうしたの?!」と辺りを見回す。

その様子を見て、私の疑問はほぼ確信に変わる。 隼人くんは、田辺のこと……。

「ご、ごめん、なんでもない。 隼人、鍵開けて」

「ん? うん、わかった!」

隼人くんは鍵を受け取ると、すぐ目の前にあった部屋の扉に背伸びをして鍵を差し込むと「おねえちゃん、一緒にオムライス食べようね!」と言って、こちらの返事は待たずに部屋に入って行った。

「また適当なことを……」

そうボソリと呟く快人くんを見て、最初は小さな小学生の男の子に見えてたけれど、隼人くんと一緒になってからはお兄ちゃんの表情もしっかりと見えた気がした。




「快人」

「ん?」

「あの子は、見えないんだな」

私の隣で、田辺が呟く。 私は田辺の方を一瞬見てから、快人くんに視線を移す。

「うん。 隼人は、見えない」

快人くんは、隼人くんが入って行ったアパートの扉の方を見つめて言う。 扉の横の郵便受けからは、チラシや封筒がはみ出している。

隼人くんの様子から、私だって薄々そうなんじゃないかと思っていた。 むしろ、見えない方が普通で、何故か私と、そして偶然にも快人くんがたまたま田辺のことが見えただけなのだ。

けれど、田辺のことが見えない人がはっきりと目の前に現れたら……いや、そんな人はいまここに至るまでに何人もいたけれど、それでもその度に、この現実を突き付けられるような気になってしまう。

「そっか、そうだよな。 みんながみんな、見えるなんてあり得ないよな」

田辺は、さっきより明るく言って見せる。 それでも、無理やり笑っているのがありありと分かって、私は胸がキュッと痛む。

……ずっと、自分ばかりが不安に思っていたけれど、もしらしたらそれは田辺だって同じ……いや、田辺の方が何倍も不安なのかもしれない。

それを今の今まで田辺はそれを見せないようにしていただけだったんじゃないか。

そうだとしたら、私はずっと、独りよがりで、田辺の気持ちなんて全然考えていなかった。

「……たな……」

「でも」

私の声よりも、はっきりと力強く、快人くんの声が重なる。 快人くんは、田辺をまっすぐと見上げる。

「史緒のこと、おれと紗季さんはちゃんと見えてるから。 だから、大丈夫だよ」

そう言う快人くんの目があまりにも真っ直ぐで、視線を向けられているのは田辺なのに私がドキリとしてしまう。

私も何か言わなきゃと思って「そうだよ、大丈夫」と田辺を見て声を掛ける。

すると、田辺は「うん」と頷いて、それから「ありがとな」とちょっとだけ小さい声で言葉をつづけた。 そんな田辺を見て、快人くんは口の端を上げて「何照れてんの」と言う。

「照れてねえわ」

「ええー? そうかな」

完全に打ち解けているふたりのやり取りが微笑ましく思えて、私も思わず笑う。 ここに快人くんがいなければ、私はずっと田辺の気持ちに気付かなかったかもしれない。





その時、アパートの扉が開いて隼人くんが隣にやって来て「おねえちゃんっ、来て!」と私の手を引いてアパートに入ろうとする。

「あっ、隼人! 紗季さんたち、用事があるんだから……」

慌てたように快人くんが言うと、田辺が「別に、俺ら急いでないよ」と後ろから言う。

「でも……」

「快人くん、気にしないで。 入ってもいい?」

快人くんの方へ振り向くと、快人くんは控えめに頷いてくれていた。 私は隼人くんに手を引かれるまま玄関に入って「お邪魔しま〜す」と靴を脱ぐ。

「これ見てー! 保育園で作ったの!」

キッチンを通り過ぎて、居間にあるテーブルの上に画用紙をトンボの形に切り取られたものが置かれていた。 よく見てみると、ちゃんと顔や羽の模様が描かれている。

「これ、隼人くんが作ったの?」

「うん! マナミ先生に教えてもらったんだぁ」

隼人くんはそう言いながら、トンボを持つと「ほらっ」と言ってスッと空中に飛ばした。 すると、トンボはスーッと部屋の中を泳いでいく。

「すごいっ、飛ぶんだね」

「うんっ、おねえちゃんもやってみて」

床に落ちたトンボを隼人くんが拾ってくれる。 私は見様見真似で、さっきの隼人くんのようにトンボを飛ばしてみると、今度はくるっと宙返りしながら飛んで行った。 それを見て、隼人くんは嬉しそうに笑っていて、私もつられて頬が緩む。

「おおっ、すげえ。 トンボ?」

「隼人が作ってきたんでしょ」

「そう! お父さんにも見せてあげなきゃ」

また隼人くんは落ちたトンボを拾うと、隣の襖で分けられた部屋に入って行くので、私は(お父さん居るの知らずに入ってきちゃった)と思いつつちょっと緊張しながらその背中を視線で追い掛けると、その部屋には仏壇が置いてあった。

「お父さん、ただいま! 見て、これ僕が作ったんだよ!」

隼人くんは、タンスの上に置かれた小さな仏壇に向かって話し掛けている。 仏壇には、男の人が映った写真が置いてあった。

「……あれ、うちのお父さん。 半年前、交通事故で死んじゃったんだ」

私の隣で、快人くんがランドセルを下ろしながら言う。 私は咄嗟に言葉が出ず、ほんの少しだけ歯を噛み締める。

「おにいちゃんっ、お父さんにただいまって言わなきゃだよ」

「……分かってるよ」

「もうっ、いっつもしないじゃん! おかあさんがさみしがるよ!」

隼人くんは少し怒ったような口調で言って、それを聞きながら快人くんはキュッと口を閉じている。 空気がピンと張り詰める。



「……今日は、お母さん、泊まりになったからいないよ」

快人くんは、隣の部屋から視線を逸らす。 

「ええっ! オムライスどーするの?!」

「兄ちゃんが作るよ」

「えー?! おにいちゃん、また卵まる焦げのぐちゃぐちゃにしちゃうよ!」

「ちょ、ちょっと! 言わないでっ」

快人くんは耳を赤くして、こちらに振り返る。

「ぼ、僕、夕飯作らなきゃだから。 荷物、ありがとうございました」

「う、うん……」

私は持っていたエコバッグを快人くんに渡そうとした手を、思わず止める。

「お母さんが夜勤なら、ふたりはこのままお留守番するの?」

「うん。 お母さん、看護師で、いま人手がなくて忙しいって。 仕方ないんだ」

そう快人くんが言った“仕方ない”は、まるで自分自身に言い聞かせるみたいな言い方で、私はふと、自分が快人くんよりも小さかった頃のことを思い出す。

私は、夜に親のいない家で過ごす心細さを知っている。 その心細さに気付いてしまわないように、“仕方がない”と自分自身に言い聞かせて気を紛らわせないといけないことも、分かる。

「ふたりも、もう行かなきゃでしょ?」

そう快人くんが言ったとき、隼人くんが「えっ」と目を丸くして呟いた。




「おねえちゃん、どこか行っちゃうの?」

私が答える前に、快人くんが「用事があるんだよ」と隼人くんに伝える。 すると、隼人くんは「え~っ」と眉を下げてものすごく不満そうな顔をして私を見た。

「じゃあ、僕も一緒に行くっ」

「はあ!? 隼人、わがままもいい加減に……」

「わがままじゃないもん! 僕、おねえちゃんと一緒に行く!」

「なっ……」

「ふ、ふたりとも落ち着いて……」

こういう時、どうすればよいのか分からないのが情けないと思いつつ、この空気が張り詰めて、ふたりとも何か些細なキッカケがあれば今すぐにでも泣き出してしまいそうな雰囲気には、慣れない。

そもそも、私は自分より小さな子供とまともに接するのは今日が初めてな気がする。

「僕、お姉ちゃんについてくから」

隼人くんは立ち上がって、私にぴったりとくっつく。 俯いた彼の顔を見ると、眉根をギュッと寄せて口がへの字に曲がってて、やっぱり今にも泣き出してしまいそうな顔だった。

ど、どうしよう……。 そう思いつつ、思わず田辺に視線を向けると目が合って、田辺は「……じゃあ」と口を開いた。

「来る? 一緒に」

「……えっ?」

快人くんがびっくりした後、少し遅れて、隼人くんも「……え?」と快人くんと私を交互に見ながら呟いた。

「快人も弟も、一緒に来たら?」

「え……どこに?」

「俺のじいちゃん家」

田辺はそう言いながら、さっき外で見た田辺のおじいちゃんの家がある方向を指さす。



そういえば、電車を降りてから田辺が目指す行き先を聞きそびれていた。 

「田辺が行きたいところって、おじいちゃんのところ?」

「うん。 やっぱり、最後にじいちゃんに会わなきゃと、思って。 ……ごめん、こんなことに付き合わせて」

そう言った田辺は、遠慮がちに笑うので、私は「いいよ、全然」と首を横に振った。

「あ、あのさ……あそこの家、犬いるよね……?」

「犬? そうなの?」

私が田辺に聞くと、田辺が答えようとする前に隼人くんが「おにいちゃん、わんちゃん苦手なの」と教えてくれる。

「近くにね、おっきいわんちゃんがいるお家があってね、ぼく、あのわんちゃんに触ってみたいんだけど、おにいちゃんが怖がってダメなんだ」

「べっ、別に怖がってるわけじゃ……!」

「快人、犬苦手なのか」

「だから、別に苦手なんかじゃ…………別に……」

快人くんは言いながら、語尾が尻すぼみしていくので、本当に犬が苦手なことはありありと分かる。

「ぼくは、わんちゃんだいすき! おねえちゃん、あのお家に行くの?」

「うん」

「えー! じゃあぼくもぜったい一緒に行く!」

「お、おいっ」

快斗くんは手をぎゅっと握り締めて、困ったように隼人くんを見る。

「快人くん、私もね、大きいわんちゃんはちょっと怖いと思っちゃうんだ。 だから、2人に一緒に来てもらえると、心強い」

「ぼく、おねえちゃんと一緒に行くよ! ね、おにいちゃん!」

田辺と、私と、隼人くんの視線を一気に集めた快人くんは「うっ……」と小さく声を漏らす。

「そう言うなら、一緒について行ってあげても……僕は、犬は、ぜんぜん怖くないし」

最後は自分に言い聞かせるみたいに言う快斗くんに、隼人くんは「やったー!」と両手を上げて喜ぶ。

「よし。 じゃあ、行こうか」

私と隼人くんは立ち上がって、玄関に向かう。 私は脱いだ靴を履きながら、後ろにいる快人くんの方へ振り向くと、快人くんは仏壇が置いてある部屋をじっと見ていた。



ふと、私はドキリとする。 もしかして……そこに、“お父さん”が居たりするのだろうか。

「……か、快人くん」

恐る恐る名前を呼ぶと、快人くんはハッとしたように私の方を向いて「うん」と小さく呟いて、テーブルに置かれていた鍵を手に取ってこちらへ来る。

「快人ー、弟、走って行っちゃった」

玄関の外から、田辺が言う。 快人くんは「ええっ」と慌てたように言って、玄関でしゃがんで靴を履く。

「快人くん、私が閉めておくよ」

「う、うん、ありがとう」

鍵を受け取ると、快人くんは駆け出して田辺の隣を横切って隼人くんを追いかける。 私も玄関から出て、振り返る前に一呼吸おく。

何が見えても驚かないように、そう自分に言い聞かせて、ゆっくり振り返って部屋の中を見てみたけれど、そこには誰の姿もなかった。

私はちょっとだけホッとして、扉のドアノブに手をかけた。

「新名」

「ん?」

キイ、と軋む音がなる扉を閉めながら田辺を見ると、田辺と目が合った。

「じいちゃんが俺のこと見えなかったら、じいちゃんに全部、伝えてほしい」

そう言って、田辺は少し俯く。 前髪が目元にかかって、表情がよく見えなくなる。

けれど、田辺の手はぎゅっと硬く握られていて微かに震えているようで、私は、ここで自分が弱音を吐いてはいけないなと思う。

「……わかった」

田辺は、顔を上げて私と目を合わせる。 それから、眉を下げて小さく「ごめん」と呟いた。

「大丈夫だから、謝らないで」

そう言ってみたけれど、自分の声が震えてしまいそうで、それを誤魔化そうとほんの少しだけ笑って見せる。

「……ありがとう」

田辺は眉を下げたまま、私と同じように無理に、微笑んでくれる。

「うん。 行こう、ふたりが待ってるよ」

私はそう言いながら、扉の鍵を閉めた。








「あっ、わんちゃんいる!」

「隼人、しぃーっ」

隼人くんと快人くんは並んで塀の陰に隠れて、家の敷地内を覗いている。 ふたりの頭上にある表札には『大塚』と書かれていた。

私も隼人くんと快人くんの後ろから塀越しに覗いてみると、縁側に緑色の首輪を付けた柴犬が寝ているのが見えた。

「あっ、“まめ太”」

田辺は隼人くんの横に立って、庭を覗く。

「まめ太?」と快人くんが聞くと、田辺は「わんちゃんの名前」と言う。

「あのわんちゃん、まめ太っていうの?」

そのとき、隼人くんの声に反応したように眠っていた柴犬が目を覚まして、こちらを不思議そうに見つめながら起き上がった。

「え、犬起きたよ」

快人くんがそう言うと田辺もそれに気付いて「おお」と嬉しそうに笑う。 まめ太は「わん!」と鳴いて田辺のもとへと駆け寄って来ると、近くにいた隼人くんも「わあっ、近くに来た!」と歓喜の声を上げる。 

てっきりリードで繋がれていたかと思っていたので思わず「わっ」と驚くと、隣にいる快人くんも同じようなリアクションをしていた。




「わはは、すげえ。 俺のこと、見えるのかな」

その場でしゃがみ込んだ田辺のもとに、まめ太はすんすんと鼻を鳴らしながら尻尾を振ってそこにちょこんと座る。 田辺の手は、まめ太の頭を撫でるようになだらかに動いて、まめ太はそれを感じているみたいで、なんだか嬉しそうな顔をしている。

隼人くんもちゃっかりその隣にしゃがみ込んで、自分と同じ背丈になったまめ太の顔を覗き込む。

「おにいちゃん! すっごくかわいいよ!!」

「う、うん……」

その時、玄関の方から「誰だぁ」と声が聞こえて、扉が開いた。 私たちは一斉にそこに視線を送ると、白髪で、目付きの鋭いおじさんが立っていた。 隼人くんは、サッと快人くんの後ろに隠れる。

私は、咄嗟に横目で田辺を見ると、田辺はおじさんをまっすぐ見ていた。

「じいちゃん」

“大塚さん”は、田辺とまめ太が座っている位置を見てから、私と小さなふたりを見る。

「……お前さんら、うちに用か?」

そう言って、大塚さんは私に向かって言う。 

「えっと……」

私は言い淀みながら田辺に視線を向けると、田辺がこちらに振り返った。

「……新名、ごめん」

田辺は、眉を下げたまま、また無理やり笑ったみたいな表情で言う。 

ーー見えないんだ。

私は息を呑んで、手をぎゅっと握って、大塚さんを見る。 

大塚さんには、田辺のことは見えていない。 

だから、私が田辺のことを伝えなきゃならない。

「あ、あの……私、田辺の、田辺史緒くんと、同じ高校の……」

恐る恐る言う私に、大塚さんは「史緒の?」と右側の眉を少し上げて聞き返す。 私は声を出さずに頷く。




「史緒が、来てるのか?」

大塚さんは、玄関から辺りを見回したり、私の後ろ側を見ようとしながら聞く。 

……言わないと。 田辺に頼まれたように、全部、伝えないと。 そう思って、言葉にしようと息を吸い込むのに、声の出し方を忘れてしまったみたいに何も言い出せない。

大塚さんは何も言い出さない私を、眉根を寄せて怪訝そうな表情で見る。

「史緒は、来てないのか」

「…………」

「……史緒が、どうかしたのか!」

余裕のない張り詰めたその声に、私は思わず身を縮こませる。

「じいちゃん……!」

田辺はもう一度大塚さんに呼びかけるけれど、その声は届かないままで、田辺は俯く。 

横目で田辺を見る。 田辺の表情はここからだと見えない。 でも、手が硬く握られていて、微かに震えているようにも見えた。

私は、それがどうしようもなく切なくて、胸が痛んで、涙が込み上げてきそうになる。

「田辺は…………」

言わなきゃと頭では分かっているのに言葉が詰まるのは、私が田辺がいなくなったことを、未だに飲み込めていないからなのかもしれない。 こんな私が、大塚さんに全部を伝えられるはずなんてなかったのかもしれない。

こんな悲しいことからは、逃げ出したい。 私は今も、そう思ってる。 こんな現実は、あんまりだ。

一歩、足が後ろに下がりそうになった時、私の背中に誰かの手が優しくそっと触れた。 

「史緒は、もう、いません」

快人くんは、大塚さんを見て、はっきりとそう言う。 私も、大塚さんも田辺も、小さな彼に視線を向ける。

「でも……でも、史緒はここに、一緒にいます。 紗季さんは……史緒に頼まれて、ここに来たんです」

私は快人くんから、大塚さんに視線を戻した。

「……何言ってんだ。 史緒がもういないって、何なんだ……」

大塚さんは、眉間に深い皺を寄せて困惑しているような表情を浮かべる。

「そもそも、じゃああんたが、史緒に頼まれたってのも、どういう…………」

そう言う大塚さんの姿が、今日屋上で田辺と会った時の自分と重なる。 

私は、震える口元で、すっと息を吸った。

「……田辺は、一昨日……交通事故で、亡くなりました。 今日が、その……お葬式でした」

これが、精一杯だった。 大塚さんは、息を呑んで視線を揺らして手を額に当てる。 その手も、震えている。