学校の屋上は、いつどんな時でも風が吹いている。ここは、本を読むには適していない。

 「新名」

 名前を呼ばれて顔を上げると、缶ジュースが弧を描いて飛んできた。ちょうど胸元でそれを受け取る。その間、膝の上に置いていた小説のページが風に煽られてパラパラと捲られた。

 「危ないな」

 缶が飛んできた方を見て言うと、クラスメイトの田辺史緒は「ごめんごめん」と笑いながら言う。

 「びっくりさせようと思ってさ。 びっくりした?」

 「したよ」

 田辺が屋上に来るのは2週間ぶりで、田辺と私がまともに会話するのも同じくらい久々だった。さっきまで同じ教室には居たけれど、いま私は田辺を目の前にして少しだけ緊張している。それを悟られないよう手に握っている冷たい缶ジュースに視線を落とすと、薄ピンクのラベルには“苺ミルクスカッシュ”とあった。初めて見たので、思わず「なにこれ」と呟く。

 「新発売なんだって。 新名、好きそうだなと思って」

 田辺は背負っていたリュックを下ろして、私の左隣に胡坐で座る。ここに居る時の、いつもの定位置だ。

 「スカッシュ……炭酸なのに、投げたな」

 「あっ、ごめん」

 田辺は言葉とは裏腹にまた楽しそうに笑う。その左手には、今日も赤いラベルの缶コーラがあって、私よりも骨ばった長い指が缶のプルタブに引っかけられると、プシュッと小気味のいい音がなった。

 私も苺ミルクスカッシュのプルタブに人差し指を引っかけると、「噴き出さないように気を付けて」と隣から聞こえてきた。私は横目で田辺を見てから腕を目いっぱい伸ばしてプルタブを引くと、缶コーラよりも勢いの良い音が鳴ると同時に、開いた飲み口から細かい泡がシュワシュワと飛び跳ねた。

 「ひ~」と情けない声を上げると、やっぱり田辺は楽しそうに笑う。あはは、と軽さを持った笑い声を聞くと、私も嬉しくなって、缶を田辺の方に向けてみる。「わぁっ」と驚く田辺がおかしくて、私も声を出して笑った。
 
 泡が収まったのを確認して一口飲んでみると、微炭酸で、確かにイチゴミルクの甘ったるい味がした。

 「どう? 苺の味、する?」

 田辺は私の顔を覗き込むようにして訊く。空一面の光を浴びるその瞳は、私のものよりも茶色がかっていて綺麗な色をしている。

 「うん。 美味しい」

 いちごミルクの濃厚でどこか可愛い甘さの中にピリピリとした刺激が意外とマッチしていて心地よい。もう一口飲む私を見て、田辺は「よかった」と満足そうに頷いてから、またコーラを飲んでいる。

 いつもコーラでよく飽きないな。そう思って見ていると、缶コーラを持つ右手の人差し指に絆創膏が2枚重なって貼られているのが見えた。「それ、どうしたの」と訊くと、田辺は「ん?」と私の視線を辿る。

 「あー、昨日、客が割ったグラスを片付けた時に切った」

 「うわ、痛そう」

 「今は、もう痛くないよ」

 絆創膏のガーゼには、今も血が滲んでいる。もう痛くないというのは、本当だろうか。けれど、田辺は缶コーラを持つ手を左手に変えたので、訊かなかった。訊いた所で、私は絆創膏を持ち歩いていないので、新しい物と交換してやることも出来ない。

 田辺の指先は、いつも爪がちゃんと切り揃えられていて、指先は少し乾燥している。バイト先は駅前の居酒屋で、学校には内緒で22時以降はキッチンに入って閉店時間まで働いていると言っていた。ここ数日、授業中居眠りをしていた田辺の背中を思い出す。

 「新名は? バイト見つかった?」

 「うーん……」

 私も1か月前までは家から自転車で10分程の場所にあるコンビニでバイトをしていた。けれど、ある日店長が売上金を持ち逃げして、次いでに大学生のバイトが2名辞めてしまい、もともと経営困難にあったせいもあり、呆気なく潰れた。それから、私は新しいバイト先を探している。

 「駅前のコンビニがバイト募集してたけど、知り合いに合う率高そうだから考え中。 ちょっと遠いし」

 「俺んとこは? いま募集しているし、色々教えられるよ」

 「んー……できるだけ、時間に融通利かせてもらえる方が良くてさ」

 「それ、また深夜までやろうとしてるだろ」

 図星を突かれて思わず視線を泳がせると、田辺はどこか呆れたように「おい〜」と言う。私がコンビニバイトを選ぶ理由は、24時間営業のおかげで短時間でもシフトに入れてもらえるし、深夜手当が付く時間も長い。あの店長は、私が週末や休日の深夜もシフトに入れて欲しいと何度も頼み込んだら、毎回見せる心底困ったような顔で頭の後ろを掻きながら『オーナーにバレたら俺クビだよ〜』と言いながら、やっと了承してくれた。小説の中で、何かを渋々了承してくれる時の人物の描写には“頭の後ろを掻いきながら”とあるが、本当にそうする人は初めて見たなと思った。

 それに、店長はもしも知り合いが来てもバレないようにと以前辞めた人の名札と伊達メガネとマスクを用意してくれた。おかげで、数回同級生の兄弟や親など顔見知りが来たけれど、一度もバレたことはなかった。

 「コンビニって、深夜はひとりの時とかあるんでしょ?」

 「前の時は店長が休憩室にいたけど……他のところは、そうなのかも」

 あの店長は、『自分のボロアパートよりも休憩室の方が居心地が良いんだ』と冗談ぽく言っていたけれど、今思えば、心配して居てくれたのかもしれない。他のバイトの人からは、気が弱くて使えないなんて言われていたけれど、ただ本当に優しい人だったんじゃないかと思う。そんな人が、売上金を持ち逃げしてどこかに消えてしまうなんてよほどのことがあったんじゃないだろうかと、1か月経った今でもふと考えることがある。小説の読みすぎで、当初はあらぬ想像をしたときもあった。

 だけど、私はあの人のことを何も知らない。

 「まあ、まだ探し中だから。 ……あれ、向こう、雨降ってるかな」

 不意に視線を遠くへ投げた時、隣町の空が灰色に濁って山が白く霞んでいた。

 「ほんとだ。 今日、雨予報なかったのにな」

 「夕立ちかなぁ」

 灰色の空を見たら、変わらず吹いている風に湿気が含まれているような気がしてきた。天気予報を見ようとスマホに手を伸ばしたら、隣から、ふふ、と小さく笑ったみたいな声が聞こえた。見ると、田辺はちょっと恥ずかしそうに笑っている口元を骨ばった手で隠した。