「やっぱりあれは……そうだったとしか思えない」
年若い使用人の疑問に答えるように、年長の使用人――メアリが話し始めた。
聞き耳まで立てておいて何だが、メアリが話に乗って来たのは意外であった。
メアリは、私が生まれる前からここで働いているベテランの使用人である。だが、担当している仕事が炊事場や掃除なので、あまり私とは関わることがない。
しかし、寡黙ではあるが、真面目な働き者という印象は持っている。
そのメアリが、諫めるどころか、自ら口を開いているのだ。
この件に関して、メアリには、何かしら思うところがあるのだろう。
「エリザベート様がお体を悪くして、一年ほど療養で地方に行っていたことがあってね……」
「えっ! そんなにお体が悪かったんですね……今はとってもお元気そうなのに。でも、聖女様が一年も地方に行ってしまって、大丈夫だったんですか?」
「あの頃はまだ先代の聖女様がご存命だったから。でも、聖女様が一年も療養しなければならない大病をしたっていうのに、あまり大騒ぎにはならなかったね。不思議なことに」
「それって……もしかして、病気ではなかったということですか?」
朧気ながら、私にも記憶があった――母が不在だった時の記憶が。
そして、カタリナの年齢を考えると、母が不在だった時期と、カタリナが生まれた時期はちょうど重なるのではないだろうか?
「あっ……。それにしても、どうして今頃……?」
若い使用人――名前をエマと言ったか、エマもメアリが言わんとしていることを理解したらしい。
「先代の聖女様がお亡くなりになられたからだよ」
先代の聖女――私の祖母は、つい最近亡くなった。聖女の座を母に譲り渡していても、実質的な権力は祖母が握っていた。
そのため、祖母が生きている間は、母も好き勝手なことはできなかった。
祖母が亡くなって、母が真っ先にやりたかったこと、それが、カタリナを自分の元に呼び寄せることだったのだ。
「カタリナ様が本当にエリザベート様の実娘だったなんて……聖女は、一人しか娘を産んではいけないはずですよね?」
「……そう。おかしなことにならなきゃいいけど」
メアリは、少し間を置いてから答えた。
「本当に! 今朝なんて、あのお二人と廊下ですれ違ったら、とっても仲良さそうに買い物に行く約束なんてしていたんですよ!」
エマは、国民の手本となるべき聖女が、堂々と違反を犯していることに怒りを感じているようだった。
そして、私は衝撃を受けていた。私は、母と仲良く会話をしたことも、一緒に買い物に行ったこともない。
母にとってカタリナは、私よりも特別な娘、ということなのだろうか?
「でも、これもマリア様が聖女になるまでの辛抱だわ。マリア様だったら理想的な聖女になられるでしょうから!」
「そうだといいけどねえ……」
一体、メアリは何を知っているのだろうか、私はその場から動けなくなっていた。
「聖女だって神様じゃない。感情のある人間だ。もちろん母娘の情だってある」
「そんなの当然じゃないですか! エリザベート様にとって、マリア様もカタリナ様も自分のお腹を痛めて産んだ娘ですもの」
エマは力説するが、メアリはどこか冷めたきった表情をしている。
「自分が産んだ子どもだったら、誰でもかわいいと思う?」
「そりゃそうですよ!」
エマはきっと、家族仲の良い普通の家庭で、何の疑いもなく育ったのだろう。
「父親の違う子でも?」
「どういうことですか?」
「好きになった相手の子と、そうじゃない相手の子を、同じように愛せるかってことだよ」
私はまたしても衝撃を受けた。それも、さっき受けた衝撃とは比にならないくらいの衝撃だ。
聖女にも夫がいる。だが、世間一般の夫婦像とはかなりかけ離れている。
聖女の夫の重要な役割は、ただ一つ、次の聖女を作ることだ。
無事に娘が生まれれば解放されるかと言えば、そういうわけではなく、死ぬまでずっと聖女の夫でい続けなければならない。
しかし、それが不幸かと言えば、決してそういうわけでもない。聖女の夫に選ばれるというのは、大変名誉なことだからだ。
聖女の夫は、生涯窮屈な生活を強いられることになるが、それ相応の特権が本人とその実家に与えられる。
そのため、その特権を濫用しないような、確かな身許の潔癖かつ優秀な人物が聖女の夫として選ばれる。
私の父も〈聖女の夫〉の例に漏れず、名家の出身だ。
そして、父は、〈聖女の夫〉にふさわしい条件を持っているということだけで、〈聖女の夫〉に選ばれた。
母と父との間には、特別な感情は存在しない――父は、次の聖女をこの世に出すためだけに母にあてがわれた。
それでもそれなりに夫婦としての時間を持つことができたのなら、母と父との関係は進展したのかも知れない。
だが、二人にそれは許されなかった。
なぜなら、夫に対し、愛情が芽生えてしまい、夫の支配下に置かれることを避けねばならないからだ。強大な権力を持つ聖女は、特定の誰かに便宜を図ってはならないのだ。それがたとえ身内であっても。
母だけではなく、私だってそうだ。次の聖女である私も、父とは必要以上の接触を持つことを禁じられている。
それもやはり私に、親子の情を持たせないためである。
こうやって、聖女の完全なる中立性は守られてきた。それを母は自ら破壊しようというのか。
確かに、多くの国民が聖女をお飾りだと思っている今、聖女のあり方を考え直してもいいかも知れない。
だが、それにしても母のやり方は早急すぎる。
祖母はもういない。母を止められる人間はもうこの国にはいないのだ。
「マリア様、今度開催されるお茶会の日程が決まりました」
「そう、どうもありがとう」
母は定期的にお茶会を開催する。
お茶会に参加するのは、母と仲の良いご夫人たち。私も一応は参加するが、ただその場にいるだけだ。
お茶会の内容はいつも決まっている。いわゆる噂話や陰口の類だ。
しかし、母は〈聖女様〉なので、そんな下衆な会話には積極的に参加せず、黙って聞いている。
その分他のご夫人たちが、気を利かせて母の気に入りそうな話題を、母の分まで面白おかしく喋ってくれる。それができないご夫人は、次回からお茶会に呼ばれなくなるのだ。
私はそんなお茶会に参加するのが、毎回憂鬱であった。
お茶会当日――。
次期聖女である私は、お茶会の準備と、招待客の出迎えのため、言われた通りの時間よりも早い時間に、お茶会が開かれる部屋に到着した。
部屋の扉を開けると、驚くべき光景が目に飛び込んできた。
母をはじめとする、お茶会の招待客全員がすでに着席していたのだ。しかも、部屋の様子から察するに、お茶会が始まってかなり時間が経過している。
さらに私を驚かせたのは、母の隣にカタリナが座っていたことである――いつも私が座っていたその場所に。
視線が一斉に私の方に向けられた。
「マリア! 一体、どういうことなの、こんなに遅刻をするなんて!」
私が部屋に入るなり、母は私を激しく叱責した。
「あの……私は言われた通りの時間に来ただけですが……」
「言い訳をするなんて、次期聖女としてあるまじき行為ね!」
母は信じられないといった表情をわざと作った――ように私には見えた。
だが、次の瞬間、一気に顔をほころばせ、
「まあ、いいでしょう。あなたの代わりに、カタリナががんばってくれたわ。今日のところはカタリナに免じて大目に見てあげます。わかったら席に着きなさい」
「申し訳ございません……」
私は案内された席に着いた。
そこは、母の隣の席ではなく、一番身分の低い者が座る席であった。
今日のお茶会は、いつも以上に辛かった、いや、屈辱的だった。
母は終始、カタリナがどんなに素晴らしい娘であるかを語っていた。
これで、母が、私とカタリナのどちらを重視しているかを、はっきりと示したことになる。
私がお茶会に呼ばれなくなる日も、そんなに遠い未来ではない。そして、私がいないお茶会では、ご夫人方が、私のことをさぞ面白おかしく話題にしてくれることだろう。
お茶会からの帰り道、私は離れの方角から歩いてくる人影を見た――それは、メアリであった。
(あら……?)
離れに戻った私は、ある小さな変化に気がついた。
建物の周辺がきれいになっていたのだ。
慣れない離れでの暮らしの中で、室内を、何とか日常生活を送れるくらいに整えることに精いっぱいで、建物の外は全く手付かずの状態だった。
ぼうぼうに生えていた雑草が、いくらか刈り取られている。
そう言えば、さっきメアリの姿を見かけた。
きっと、メアリがきれいにしてくれたのだろう。
あの母が、私のことを心配してメアリを寄越すはずはないだろうから、メアリが自主的にやってくれたのだろう。
私にもまだ気にかけてくれる人がいるのだと思ったら、少しうれしくなった。
母に言った通り、私はカタリナと一緒に講義を受けることになった。
カタリナが、どういう環境でどういう教育を受けてきたかは知らないが――酷い有様だった。
聖女について専門的な知識がないのは仕方がないとして、教養やマナーがの酷さは呆れるばかりだった。
特に私が我慢ならなかったのが食事の時だ。
カタリナは、くちゃくちゃと派手に咀嚼音を立てながら食事をした。それだけでも十分不快なのに、食事が口に合わないと、露骨に不味そうな顔をする。
聖女は要人と食事をする機会が多い。母が、カタリナに何をさせようとしているのかは知らないが、こんな状態のカタリナを人前に出すわけにはいかない。
たとえ親しい関係の者だけと食事をするとしても、だ。
だが、母がカタリナに注意しようとする素振りは見えなかった――私が同じことをしようものなら、すぐに注意してくるはずだ。
今日の講義の後、母は私たちに講義している講師たちを招き、教育会議を開催した。
教育会議の目的は、次期聖女の教育方針についての話し合いだ。
この話し合いには、次期聖女である私も毎回出席している。ただし、母はこの教育会議にあまり熱心ではなく、滅多に開催されることはなかった。
私は、どうして今日、母が教育会議を開催するのか不思議でならなかった。
なぜなら、教育会議は、つい先月、開催されたばかりだったからだ。次の教育会議が開催されるのは、前回の教育会議の半年後以降というのが常だ。
お茶会に続き、またもや嫌な予感がした。
「今日は、提出した課題についてのお話があるのでしょう?」
母はいつになく上機嫌であった。
前回までの教育会議において、こんなに上機嫌な、そして積極的な母は見たことがない。
「はい――」
母に促され、一人の講師が立ち上がった。
「まずはカタリナ様の課題ですが……とても素晴らしかったです。私も長いこと、教育に携わる仕事をしておりますが、ここまで完成度の高いものはなかなかお目にかかれません」
私は唖然としてしまった。今回出された課題は、非常に難しかった。私ですら苦労した課題なのだから、私よりも学力や知識が乏しいカタリナが、完璧に仕上げられるはずがないのだ。
「それで……マリアの方はどうなの?」
カタリナへの評価に満足した母は、今度は私の課題に対する評価を求めた。
「マリア様のは……大変努力された跡はうかがえるのですが……」
講師は、ちらちらと私と母を交互に見た。どうやら私たちが、どんな反応をしているのか気になっているみたいだ。そして、その反応によって次の言葉を選んでいるようだった。
「特に目新しいところはなく、平凡な出来といったところでしょうか……」
「あら、そう……マリアはカタリナを見習わなければね」
「課題の件ですが、納得いきません!」
私は講師と二人きりになるタイミングを見計らって、こう切り出した。
「そう言われましても……」
やはり、母に何か言われたのであろう、歯切れが悪く、気まずそうな顔をしている。
「カタリナの課題を見せてください」
私は断られるのを覚悟で、思い切って聞いてみた。
「……わかりました。どうぞ」
案外あっさりと申し出が受け入れられ、私は拍子抜けした。
「……ありがとうございます……」
受け取ったカタリナの課題をペラペラとめくってみる。
「あの、これって……」
震える声で、私が講師に聞くと、『もうこれ以上は何も聞かないでくれ』と言わんばかりに、講師は完全に私から顔を背けた。
「これは盗作ですよね……?」