聖女の夫がいなくなったというのに、誰も騒いだり、慌てている様子はなかった。
おそらく、父が姿を消してくれた方が、母にとっては都合が良かったのだろう。もしくは、母が、父が自発的にいなくなるように仕向けたのかもしれない。
どちらにしろ、父が無事に逃げ果せているといいが……。
父と入れ替わるようにして、ある一団が私たちが住む宮殿やってきた。
その一団を笑顔で出迎えたのは、母とカタリナ。
特に、一人の男性が馬車から降り立つと、母は私や父の前では決して見せたことのない表情になった――カタリナに向ける表情とは、また別種のもののようであった。
だが、母のわかりやすいその表情から、その男性が、カタリナの父――聖女の二番目の夫になる人物だとすぐに理解した。
離れの目の前には、大きな木がある。この木は、ちょうど花の時期が終わりかかっており、枝から落ちた花びらが、地面を覆いつくしていた。
そのため、雪のように積もった花びらを掃除するのが、最近の私の日課であった。
今日もいつものように、私は木の下を掃除していた。
すると突然、大量の花びらが上から降ってきた。そして次の瞬間、私の頭上から人が落ちて来て、私の目の前の地面に叩きつけられた。
体を強打した痛みに必死に耐えている男性に、私は、
「大丈夫……?」
と声をかけた。
見ると、落下するときに木の枝に引っ掛けたのであろう、肌が露出している部分にはたくさんの引っ掻き傷ができていた。
「ちょっと待ってて。薬を持ってくるわ」
木の上から落ちてきた男性は、アベルと名乗った。
見かけない顔だと思っていたら、やはり、カタリナの父と一緒に来た一団の一人で、カタリナの従兄にあたる人物だそうだ。
「あんたがカタリナの姉さん?」
アベルはかなり図々しい人間のようで、初対面にも関わらず、聞いてもいないのに自分の話をしたり、私に質問を浴びせてきた。
アベルが話し続けている間、私は周りが気になって仕方がなかった。
メアリの一件で、私に関わった人間は、不利益を被ることがわかった。だから、私と一緒にいるところを見られたら、アベルもどんな目に遭うかわからない。
「私はこれからやらなきゃいけないことがあるの。あなたも早く帰って。そして、ここにはもう来ない方がいいわ」
私はアベルを追い返した。
昨日、『来るな』と言って追い返したのに、アベルはまた離れにやって来た――余程気に入ったのか、懲りもせず例の木に登っていたのだが。
暇を持て余しているのか、アベルは毎日のようにやってきた。
と言っても、私とは特に関りを持つことはなく、敷地内にある大木に登ったり、木陰で昼寝するくらいだ。
私もずっと建物の中にいるわけではないので、外で会ったときに、軽く目を合わせるくらいだ。
特にこのまま放っておいても問題はない、と私は判断した。
ある晩のこと、私がそろそろ寝ようかと思っていると、扉を叩く音が聞こえた。
(こんな時間に誰……? もしかして、お父様が戻っていらっしゃたのかしら?)
つい先日、別れを告げた父のことを思い浮かべながら扉の前に立つと、
「急用なんだ。扉を開けてくれないか?」
と外から声がした。
(アベル!)
私は、扉を開けようと、反射的に取っ手に手を伸ばしていた。
しかし、指先に取っ手が触れた瞬間、我に返った。
――一体、こんな時間にアベルが私に何の用だろうか?
私が扉を開けることを躊躇している様子が、アベルにも伝わったようだ。
「仲間が怪我をしたんだ。この間の塗り薬を分けてくれないか」
私の不安を取り除くかのように、アベルが訪問の理由を告げた。
その言葉を聞いて、私は不安を取り去った。
「どうぞ入って」
扉を開け、アベルを中に入れた。
「今日、作ったばかりの薬があるから、持ってくるわ。そこで待っていて」
「はい、どうぞ。早く持って行ってあげて」
私はアベルに薬を手渡した。
「どうかしたの……?」
アベルの様子がおかしい。〈急用〉だと言っていたのに、急いで帰る様子がない。
それどころか、扉の前に立ったまま、微動だにしない。
このままでは埒が明かないと判断した私は、自分から行動を起こした。
私は、扉の前に移動し、取っ手に手をかけた状態で、
「もう帰ってちょうだい!」
と叱責するような口調で言った。
すると、アベルは、取っ手に触れている私の手首を強く掴んだ。
「放して!」
ありったけの力で手を振りほどこうとしたが、それ以上の力で手首を掴まれているので、振りほどけない。
離れは、たとえ真っ昼間であっても、滅多に人が近寄らない場所に建っている。大声を出して助けを呼ぼうにも、助けは来ないだろう。
――自分で何とかするしかない。
外に出れば、逃げられるかも知れないと考えた私は、扉を開けようと必死にもがいた。
しかし、より一層強い力で腕を引っ張られ、その衝動で、私は床の上に放り出された。
さらに運の悪いことに、倒れこんだ勢いのまま、私は後頭部を強く床に打ち付けてしまい、そのまま気を失ってしまった。
私の記憶はそこまでだ。
私が目を覚ましたのは床の上だった。
(……痛いっ!)
ピリッとする痛みを後頭部に感じ、手をやってみる。すると、たんこぶができていた。
だが、すぐに私は、たんこぶの痛みを忘れてしまうくらいの衝撃的な事実に直面する。
下半身に違和感を感じ、寝たままの姿勢でおそるおそる下半身を探った。
そして私は、昨晩、自分の身に何が起こったのか、全て理解した。
私は、父が迎えに来たときに、どうして一緒にここを出て行かなかったのか、激しく後悔した。
アベルを私に差し向けたのも、きっと私を陥れるための罠に違いない。
私がまんまと罠に嵌まったことを、母の耳にはもう入っていることだろう。
もうすぐ、母が何らかの行動を起こして来るはずだ。今度こそ私は、どんな目にあわされるかわからない。
どのような目にあわされるにしろ、万が一に備え、私にはやるべきことがあった。
私は体の痛みを堪えながら、本棚の前に立った。
私が手にしたのは、薬学の本だ。
(確かこの辺りに作り方が出ていたはず……あ、あったわ)
そのページを開いたとき、情けなくて涙が出てきた。
まさか、自分がこの薬を使う日が来るとは――私がこれから作ろうとしているのは、堕胎薬だった。
薬を作り終えた私は、荷物をまとめ始めた。
今更ながら、父との約束を実行することになる。
――先ほど作り終えたばかりの薬、今まで書き溜めた薬のレシピ、そして、父と別れるときに渡された紙切れ……。
全てひとまとめにしても、片手で持てるくらいの量しかない。その荷物を私は、離れの外に隠した。
だが、薬のレシピと堕胎薬だけは、肌身離さず洋服の下に隠し持っておくことにした。
こんなに小さな荷物をまとめるだけで、結構な時間を費やしてしまった。
でも、これで、いつでもここを出て行くことができる準備が整った。
私が準備を終えて一息つく間もなく、私は母からの呼び出しを受けた。しかも至急の用事だそうだ。
未だかつて私は、母から急な呼び出しを受けたことはなかった。
母が私を呼び出す理由――それは、昨晩のことに違いない。
しかし、愚かな私は、この期に及んでも、母に対して一縷の望みを抱いていたのである。
――いくら母でも、実の娘の私に対して、あんな酷いことができるだろうかと。
私が母に指定された場所に行くと、その場には母だけではなく、カタリナと国の要職に就く全ての者たちが揃っていた。
この状況を見て、私が母に寄せていた期待は、見事に裏切られることとなった。
「マリア、どうしてここに呼ばれたのかわかっていますか」
母の第一声を聞いて、私が母に抱いていた淡い期待は裏切られた。
「……いいえ」
私は、自分から何も言わないことに決めた。これから私が口にすることは、今後の私の運命に大きく関わってくる。
下手なことを言えば、余計な攻撃材料を与えることになり、更なる窮地に追い込まれることになるのだ。
「そう。それでは仕方ありません」
母はわざとらしくため息をつき、首を左右に大きく振った。
「あなたが素直に非を認めれば……と考えていましたが、そんな気はなさそうね」
「昨晩、あなたが離れにアベルを招き入れたのを見た人がいます。一体、あなたたちは何をしていたの?」
「あれは薬を分けてあげていただけです!」
信じてもらえないとわかっていながら、私は無実を主張していた。
「あら、そう……でも、何人もの人間から、アベルがしょっちゅう離れの方角に歩いて行くのを見たと聞いているけど……。あなたに会いに行ったのではないの?」
「それは……」
言葉に詰まった。そして、母はこの瞬間を待っていたようだ。
「だったら、直接アベルに聞いてみましょう。アベルをここへ呼んできてちょうだい」
「あなたが、こんなにふしだらな娘だったなんて思ってもみなかったわ!」
母の思惑通り、アベルは、私に誘惑され、同意の上で関係を持ったと泣きながら訴えた。でたらめを、さも本当ことのように感情を込めて話す様子は、まさに迫真の演技であった。
アベルに乱暴された私がふしだらなら、夫がいる身で、他の男性と恋に落ち、挙句の果てにその男性の子を産んだ母は何なんだろう?
私は、無意識のうちに、不満を顔に出してしまっていたようだ。それに気がついた母は、こう付け加えた。
「次期聖女の身で異性を連れ込み、破廉恥な行為に及ぶとは……何と言うことでしょう……!」
私にはもう反論する気力はなかった。私が何を言おうと何も変わらない。
しかし、危機的な状況にあるにも関わらず、私は意外と冷静であった。最悪な状況に備え、準備をしておいたからかも知れない。
――早くこの茶番が終わって欲しい。
「マリア、先ほどからずっと黙っているけど、言うことはないの?」
「……」
「黙っているのは、全てを認める、ということね?」
「……」
沈黙こそが、私のせめてもの抵抗であった。
「これであなたが、次期聖女にふさわしくない人物であることがよくわかりました」
母は立ち上がり、その場にいる全員の顔を見渡した。
「マリアをこの国から追放し、カタリナを次期聖女といたします」
かくして私は、次期聖女という高貴な立場から、あっという間に追放者になった。
将来、聖女になる運命の元に生まれ、次の聖女として育てられ、私自身も聖女になることに何一つ疑いを持っていなかった。
それが急になくなった。
私はわずかな硬貨を持たされて、ほとんど着のみ着のままの状態で、生まれ育った場所を追い出された。
私は、宮殿から一番近くにある町にたどり着いた。
――〈聖女〉が私の人生の全てだった。〈聖女〉しか知らない私は、これから先どうやって生きて行けばいいのか?
そんなことを考えながら町中を歩いていると、道行く人と肩がぶつかった。
「これ、あんたの?」
突然背後から声をかけられ、振り向くと、私の硬貨の入った袋を持った少年がいた。
「私ったら、落としてしまっていたのかしら? 拾ってくれてどうもありがとう」
「違うよ。さっき肩をぶつけられただろ? その時に掏られたんだよ」
「そうなの? 全然気が付かなかったわ……」
「あんた、どこかの貴族のお姫様だろ? そんな高そうな服を着て、一人でふらふらしていたら、狙われるに決まってる」
少年に指摘され、私は自分の服と町の人たちの服を見比べてみた。私が来ている服は、特別華美なものではなかったが、それでも町の人たちの服よりははるかに良い素材が使われていることが、一目でわかった。
「今度町に来るときは、もっと庶民的な格好で来なよ!」
少年は、袋から硬貨を何枚か抜き取ると、私に袋を投げて寄越した。
(町の人たちが粗末な服を着ていることも、平気で他人のお金を盗むような人がいることも知らなかったわ……)