この国は、聖女の祈りによって支えられている。



 とは言っても、今では聖女の祈りは形式上のものであって、聖女も単なるお飾りに過ぎない――と多くの国民はそう思っている。



 しかし、聖女が唯一無二の存在であり、崇拝の対象であることは、今も昔も変わらない。









 私が生まれたこの家は、この国の礎を築いたとされたという高名な聖女を先祖に持つ、国一番の旧家である。



 聖女の血を継ぐ者――代々、母から娘へと聖女の座は受け継がれてきた。



 現在、聖女の座に就いているのは、私の母エリザベートである。そして、次期聖女になるのは、現聖女エリザベートの娘である私、マリアだ。









 聖女はただ祈ればいいだけの存在ではない。国民に尊敬される存在でなければならない。



 そのため、祈りの作法や儀式に関することだけではなく、一般教養やマナーも完璧に身に付ける必要があった。



 さらには、自らを厳しく律し、常に国民のことを考え、国民に寄り添うこと――それこそが聖女のあるべき姿だと私は考えている。



 だから、私は何事にも手を抜かなかった。

「妹……」



 そう呟くように言ったきり、私は黙り込んでしまった。だが、頭の中だけは、自分の納得のいく結論を導こうと必死に働かせていた。



 







 生涯において、聖女はたった一人だけ娘を産むことを許されている。



 それは、聖女の血を絶やさぬことと、聖女の力を分散させない――娘を産めば産むほど娘たちの聖女の力が弱まっていくとされているためである。



 しかし、後者の、〈聖女の力を分散させないため〉というのは、あくまで表向きの理由だ。



 本当の理由は、無用な争いを避けることにあった。



 聖女の血を確実に残したければ、娘はたくさんいた方がいいに決まっている。だが、〈たった一人〉と限定しているのには、それ相応の理由がある。



 たった一つの聖女の椅子に、二人以上は座れない。二人以上の人間が一つの椅子に群らがれば、その椅子を巡って争いになるのは目に見えている。



 国と民のために、その身を犠牲にして祈りを捧げる聖女――一見、争いごととは無縁のように思えるが、その実、国王をも凌ぐ権力を持っているのだ。









(養女、ということかしら……?)



 私は一つの結論にたどり着いた。



 聖女は、実子を一人しか持つことができないが、養女を迎えることはできるのである。



 身寄りのない子どもを引き取り、教育を受けさせ、身の回りの世話をさせるのである。



(そうね。そうに決まっている)



 ところが、次に母が発した言葉は、私の予想を裏切るものであった。



「カタリナにもあなたと同じ教育を施します」



「……」



 今度こそ、私は完全に言葉を失った。



 私が今受けている教育――聖女になるための教育は、次期聖女のみが受けられる教育である。それをカタリナが受けるというのはどういうことなのか?



 この時、私は初めてカタリナの顔をちゃんと見た。



 カタリナの顔は、若い時の母に瓜二つだった。

 私は逃げるようにして執務室を後にした。



 あの二人と同じ空間にいたくなかったのだ――自分が異物のように感じられてならなかった。



 それは母のあの目だ。私とカタリナに向けられる母の目は、明らかに違っていた。



 カタリナに向けられる母の目――それは、慈愛に満ちているように見えた。少なくとも、私は生まれてこの方、母にそのような目を向けてもらったことはない。



 







 もともと、私と母の関係性は、一般的な母娘のそれとは違っていたのだと思う。



 私と母には、〈聖女〉しか繋がりがなかった。だからと言って、そのことに不満を持ったことはない。〈聖女〉というのは、そういうものだと思って育ってきたからだ。



 だが、母とカタリナを見て確信した。



 私は母に愛されておらず、カタリナは母に愛されている。









 自室のドアの前に立ったとき、私は異変に気がついた。



 鍵をかけたはずのドアが開いていたのである。おそるおそる中を覗いてみると、身の回りの世話をしてくれる召使いたちが、慌ただしく動いていた。



 彼女たちがやっていることを見て、私は思わず叫んでいた。



「あなたたち、一体、何をしているの!」



 いきなり声をかけられたにもかかわらず、彼女たちは手を休める様子はなかった。



「マリア様、お部屋の移動をお願いします」



「部屋の移動? そんな話は聞いていないわ。誰に言われたの?」



「先ほどエリザベート様が。カタリナ様がお使いになるそうです」



「カタリナ……!」



 私は聖女のモチーフがついたペンダントを思わず握りしめた。



「そう……それで私の新しい部屋はどこ?」



 私は精一杯平静を装った。



「今日から離れで寝泊まりするようにと、エリザベート様が……」

「けほっ、けほっ……」



 ドアを開けた途端、埃が舞い上がり、私の喉を刺激した。



 離れとは名ばかりの、いわゆる物置である。



 実は私は、離れに来る前に、母のところへ寄っていた。どうして愛着のある部屋をカタリナに譲り、離れに移動しなければならないのか、納得できる理由を母の口からちゃんと聞きたかったからだ。



 逃げられると思ったが、意外にも母は直接私に理由を教えてくれた。



 ――聖女はいつ、いかなるときも、民の心を知り、民に寄り添わなければならない。自分一人の力で離れをきれいにし、庶民の生活を知れ。



 母の言い分はこのような感じだった。私は瞬時に嘘だと見破ったが、あえて指摘せず、今回はこのまま引き下がることにした。









 私は生まれてこの方、家事をほとんどやったことがない。



 だからいきなり掃除をしろと言われても、やり方がわからない。そもそも、離れには掃除道具らしきものもなかった。 



(まずは掃除道具を調達しないと)



 私は建物の外に出た。



 外に出てしばらく歩くと、使用人たちの話声が聞こえてきたので、掃除道具のことを尋ねようと声がする方に足を向けた。



「カタリナ様ってどういう方なんですか? その……エリザベート様にそっくりですよね」



 年若い使用人が、年長の使用人に聞いていた。



 今、二人の前に歩み出て、話しかけられる雰囲気ではなくなった。



 いや、正直に言おう。私はこの二人の会話が気になり、物陰に身を潜め、じっと聞き耳を立てていたのだ。
「やっぱりあれは……そうだったとしか思えない」



 年若い使用人の疑問に答えるように、年長の使用人――メアリが話し始めた。



 聞き耳まで立てておいて何だが、メアリが話に乗って来たのは意外であった。



 メアリは、私が生まれる前からここで働いているベテランの使用人である。だが、担当している仕事が炊事場や掃除なので、あまり私とは関わることがない。



 しかし、寡黙ではあるが、真面目な働き者という印象は持っている。



 そのメアリが、諫めるどころか、自ら口を開いているのだ。



 この件に関して、メアリには、何かしら思うところがあるのだろう。









「エリザベート様がお体を悪くして、一年ほど療養で地方に行っていたことがあってね……」



「えっ! そんなにお体が悪かったんですね……今はとってもお元気そうなのに。でも、聖女様が一年も地方に行ってしまって、大丈夫だったんですか?」



「あの頃はまだ先代の聖女様がご存命だったから。でも、聖女様が一年も療養しなければならない大病をしたっていうのに、あまり大騒ぎにはならなかったね。不思議なことに」



「それって……もしかして、病気ではなかったということですか?」



 朧気ながら、私にも記憶があった――母が不在だった時の記憶が。



 そして、カタリナの年齢を考えると、母が不在だった時期と、カタリナが生まれた時期はちょうど重なるのではないだろうか?
「あっ……。それにしても、どうして今頃……?」



 若い使用人――名前をエマと言ったか、エマもメアリが言わんとしていることを理解したらしい。



「先代の聖女様がお亡くなりになられたからだよ」



 先代の聖女――私の祖母は、つい最近亡くなった。聖女の座を母に譲り渡していても、実質的な権力は祖母が握っていた。



 そのため、祖母が生きている間は、母も好き勝手なことはできなかった。



 祖母が亡くなって、母が真っ先にやりたかったこと、それが、カタリナを自分の元に呼び寄せることだったのだ。









「カタリナ様が本当にエリザベート様の実娘だったなんて……聖女は、一人しか娘を産んではいけないはずですよね?」



「……そう。おかしなことにならなきゃいいけど」



 メアリは、少し間を置いてから答えた。



「本当に! 今朝なんて、あのお二人と廊下ですれ違ったら、とっても仲良さそうに買い物に行く約束なんてしていたんですよ!」



 エマは、国民の手本となるべき聖女が、堂々と違反を犯していることに怒りを感じているようだった。



 そして、私は衝撃を受けていた。私は、母と仲良く会話をしたことも、一緒に買い物に行ったこともない。



 母にとってカタリナは、私よりも特別な娘、ということなのだろうか?









「でも、これもマリア様が聖女になるまでの辛抱だわ。マリア様だったら理想的な聖女になられるでしょうから!」



「そうだといいけどねえ……」



 一体、メアリは何を知っているのだろうか、私はその場から動けなくなっていた。