気持ちの変化で、時間の流れる速さは変わるのだと思う。実際そうだった。
後一週間しかない。
部活は今週から期末考査の準備期間に入ったので活動自体ないし、彼女と会うのはバイト中だけだ。逆に言えば、バイトでは会うはずだと信じていた。
月曜日、僕が『Ete Prune』に行き控室に入ると、綾さんの鞄がなかった。そして、バイト開始の時間になっても彼女が現れることはなかった。
間が悪い、そんな言葉で片付けていいのかわからないけど、この世界はそういう風にできているのかもしれない。姉の帰りが遅かった時もそうだ。
不安になり樺さんに聞くと「家のことで忙しいらしいから」と言っていた。その口調は、僕が綾さんの家庭事情を知っていることを理解しているふうだった。
「バイトも有給使えるんだし、芳樹も疲れたりしていたら遠慮せずに休んでいいんだからな」
「ありがとうございます」
言葉通りの優しい表情を浮かべている樺さんにお礼を言う。
「まあ正直、来てくれて助かってるけどな」
彼女がいない分、いつも以上にテキパキと作業をこなす。
帰り道、彼女にメールを送った。
次の日、学校でも綾さんの姿を探していたが、彼女に会うこともなかった。もしかして学校も休んでいるのだろうか。
けど、綾さんとは違い僕は他のクラスに突撃できないので、誰かに確認をとることもできない。柏井が知っているとも思えなかった。
しばらくして彼女からの返信が入っていることに気づき、急いで確認する。
連絡が遅れたことの謝罪と、心配しないで、という 内容だった。
なぜか、そのメールの文面が恐ろしく乾燥し切っているように感じてしまい、一層不安が助長される。
樺さんにも連絡が行ってるのだから、本当におばあちゃんの関係で忙しいいだけなのだろう。しかし、僕の中にはずっと拭えない違和感があった。なんだろう、これは。
心配を抱えたまま日々を過ごすと、時間が一瞬で流れていった。
本当に、一瞬だった。
気づけば一日が始まり、終わる。
父の時と同じように頭の中で残りの日数を毎日考えていて、だから僕の心の中に焦りが出ていた。
落ち着かないまま授業を受け、焦りのような感情を抱えながら寝る。
朝僕を襲う耳鳴りが、いつも以上に大きくなっている気がしていた。
昼休み、まだかすかに残る煩わしい音を咀嚼音でかき消していたら、小テストの用紙を広げながらご飯を食べている出山が顔をこちらに向けた。
「どうしたー、新川。恋煩いでもしてんのか?」
テスト前の出山はいつも死にそうな表情をしている。勉強が苦手なのだ。そんな彼が休息の場を見つけたとばかり、嬉しそうに訊いてきた。
「なに、いきなり」
僕は胡乱な視線を飛ばす。
「なんか変じゃねえ? 新川が宿題やってくるの忘れるのも、英語の授業なのにぼーっとしているのも珍しいじゃん」
今日提出の宿題の存在をてっきり忘れていて、朝礼の前の時間と休み時間を使って急いで終わらせた。
それに僕が好きな英語の授業中、自分が指名されていることに全く気づかず、先生に注意された。
「いや、大丈夫だよ」
「やっぱなんかあるのかよ」
「なんでそうなるの」
「いや、何もないならちゃんと何もないって言うだろ。まして、新川って外野からちょっかいかけられるのとか嫌いだろうし。だから、なんかあるからこそ――なんかあるんだけど「大丈夫」っていう言い方選んだんじゃねえの」
唐揚げを頬張りながら話す出山の聡さに一瞬ひやりとする。けど、彼は相変わらずだった。
「まあ、別になんでもいいんだけどさ、何か面白い話あったら教えろよ」
大して興味がないみたいな空気でそう言ってくれるのは本当に助かる。
「ありがとう」
「おお。て言うか、そんなことよりマジでテスト勉強やべーんだけど」
彼は、視線を横に広げられたプリントに戻す。
テストは明日から始まる。全部見直す時間がないから、小テストだけを復習するつもりらしい。
聡い出山はちゃんとやればいい成績を取れるだろう。「頑張れ」と僕は本心からそう言った。
「新川もなー」
彼の言葉に頷く。
自分の中の感覚は変わってしまっているのに、周りの時間はいつもと変わりなく動いている。
それを証明するかのように、以前言っていた通りバイト先に柏井が現れた。
真面目な柏井がこのテスト直前のタイミングで顔を出したことに驚く。てっきり春休みの話だと思っていた。
「来ました!」
「いらっしゃいませ! ……お、芳樹の友達か?」
突然登場した女子高生に気づいた樺さんが、横から話に入ってくる。
樺さんに笑みを返しながらも、僕の意識は控室に向いていた。まだ綾さんに会えていなかった。
しばらく樺さんと柏井の話を横で聞いていると、控室の扉が開く音が聞こえた。少しして綾さんが入ってくる。
その彼女の表情を見て、僕は違和感を感じずにはいられなかった。何が、とは言えないけれど、彼女の纏う空気が濁っているような気がした。
思わず彼女に話しかけようとすると、
「あ、あかりちゃんだ!」
僕が綾さんに声をかける前に、柏井の姿を認めた綾さんが、表情を咲かせて彼女のもとへと駆け寄る。少し、僕を避けているように感じたのは、僕の思い過ごしだろうか。
彼女と話す綾さんの様子は、やっぱり少しだけ違って映った。多分、僕だけがなんとなく――
その時、樺さんと目があう。
樺さんも心配そうに綾さんの方を眺めていた。月曜日にも浮かんでいた表情だ。
もしかしたら、僕の予感は間違っていないのかもしれない。
柏井を見送りに、店を出る。
「今日はありがとうねー」
日が落ちるのが早いから、あたりはずいぶんと暗かった。
「こちらこそ」
「あの、さ」
彼女の顔が店から漏れた光に照らされる。
「新川くん、もう直ぐバイト終わるんだよね」
「うん、後三十分くらいかな」
「じゃあよかったら一緒に帰らない?」
「ごめん、今日は」
僕も、柏井の気持ちが全くわからないわけではない。
けど、今日は。
綾さんと話さないといけない。
柏井は少し残念そうな顔をしたけど、すぐに気を遣わせない笑顔を見せてくれた。
「そっかぁ、わかった!」
「ごめん」
「ううん、全然。ありがとね。なんか新川くんがバイトしてるの新鮮だった。じゃあ、来週、テストがんばろうね」
「うん、来てくれてありがとう。頑張ろうね」
彼女が一歩前に出て、振り返る。
なぜか神妙な顔つきをしていた。
「……一つ聞いても、いい?」
「なに?」
「新川くん、大丈夫?」
柏井が言い方を探る口調でそう訊いてきた。
「ええと、何が?」
「勘違いだったらごめんなんだけど……なんとなく新川くん最近元気ないように見えるっていうか」
「え、そう?」
「そうだよ。なんか教室でも上の空っていうか」
その話か。
「ありがとう……けど、大丈夫」
言えない、言ってどうにかなる問題じゃない。
「そっか。ならいいんだけど」
「うん、ちょっとテスト勉強で疲れたのかな」
僕は彼女が心配しないようにわざと元気を出して笑う。
「いつも成績いいもんね新川くん」
本当はテスト勉強なんか一つもやっていない。
「柏井はテスト勉強どう?」
誤魔化そうと訊き返す。ただ実際、気にはなった。
彼女はいつもならテスト前の放課後は教室で自習しているはずだ。
「知ってる? 私ね、実は成績いいんだよ」
おどけた様子で彼女が言う。
「知ってるよ」
彼女の成績はクラスでいつも上位だった。何度か順位表で僕と彼女の名前が並んだことがあるから覚えている。
「ほんと!」
「うん」
「そっか、よかった……あ、じゃそろそろ帰るね。引き留めてごめん」
彼女は嬉しそうにそう言うと、手を振って帰っていった。その後ろ姿を見ていると、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
クラスメイトにバイト先に来られるのは嫌だったけれど、思っているほど気にしなくてもよかったのかもしれない。
そう思わせてくれた柏井に少し感謝した。
「お疲れさま」
バイトを終えた後の綾さんは、いつもと変わらない様子で僕に向かって手をあげた。
「お疲れ様です」
バイト中に感じた違和感、彼女の意思を知っている僕だけじゃなく、樺さんも気づいている違和感だったのだから、多分この普通さは彼女が意識して作り出しているものなんだろう。
「綾さん、何かありました?」
僕はいきなり話を振る。
「……」
全く予想していなかったわけじゃない、むしろ話を聞きたかったはずなのに、彼女が動揺したのが見て取れて、正直驚いた。
彼女はすぐに表情を塗り替え、とぼける。
「大丈夫だよー。うん、大丈夫。どうして?」
大丈夫、彼女はそう言った。ああ、そういうことだったのか。出山の聡さ、それを思い出し、身体が震える。
「ああ、もしかして私が休んだから? おばあちゃんの四十九日の話しなくちゃいけなくって休ませてもらっただけだよ」
「それはメールでも聞きました」
「そんなことより、あかりちゃん」
彼女はわかりやすく話を変えてきた。
「なんか仲良さそうだよね、最近」
彼女はなぜか少し嬉しそうにそう言う。
柏井と僕が、という意味だろう。
「そんなことないですよ」
無理やり聞きだすよりいいだろうと思い、話に乗る。
「ほらでも、バイト先にまでわざわざ顔出してくれるっていいじゃん、でしょ?」
少し、彼女の話し方が引っ掛かった。
彼女が何かに焦っているように見えた。
その意味を探ろうと、僕は応える。
「綾さんが仲良くなってバイト先教えちゃったからですよね」
「それはほんとに、ごめん……」
「大丈夫ですよ」
「いやいや、私が悪かったから。ごめんね」
彼女は深々と頭を下げる。何か、その後の僕の反応を考えないような謝罪だった。そこまで謝ったら僕が困ってしまうとわかるはずなのに。彼女らしくない。
彼女の言葉と行動の隅をつついて、そんなことを思うのは彼女が死ぬと知っているからかもしれない。でも、彼女から感じられる不可解な感覚は話せば話すほどはっきりと浮かんでくるようだった。
彼女はその話を続ける。
「あかりちゃん、いい子だよね」
「綾さんもすぐに仲良くなってましたよね」
「だって話しかけてきてくれたから」
「綾さんが話しかけやすいからだと思いますよ」
客観的な事実として「僕がこんなに話する女子は綾さんぐらいなので」と伝えると彼女は「いやいや」と困ったふうに笑った。
「尊敬します」
彼女顔にのせたその困惑の表情のまま首を傾げる。いきなりそんなことを言い出して、戸惑っているらしかった。
やっぱり、おかしい。
今あえて、彼女が困る言い方をした。
だから、彼女が困った表情をしたのは、反応としては間違ってない。
けど、いつもの彼女だったら、もっとうまく躱すか、少なくとも困ってもその表情を隠そうとする。
彼女は「違うよ」と首を横にふった。
「そんなのじゃないの、私は人のことなんか考えてない。いじめられないようにずっと周りの目を見て、周りの人が不快な思いをしないようによく観察して、相手が欲しい反応をできるだけ返すようにしてきただけ。必要なコミュニケーションを取るために、自分の身を守るためにはそうしなきゃ仕様がなかったから――ただの逃げだよ」
彼女はそう言って自嘲気味に笑う。
「言ったでしょ、私のは全部演技なの。染み付いただけの――自分のためだけの演技」
もう一度目を合わせる。
「だから全く、褒められるものじゃないんだよ。あかりちゃんの方が……」
彼女は僕の反応を待っているのか、そこで少しの沈黙を挟んだ。
「いや、けど――」
その彼女の――相手を考えて行動する力というのは、非常に大事なもので、そんな簡単に獲得できるものではないんじゃないだろうか。
直接的ではないにせよ、僕たちが昔から『善いこと』として教えられてきたことなのではないのだろうか。
それを彼女は、ただの逃げだと断言した。
彼女が卑下している理由はわかる。後悔していることに絡みついて離れない自身の性格なんて、単純に良く感じられるわけがない。
母と話している時を頭に浮かべる。先手を打つような話し方は手段としてはいいけど、あまり後味の良いものではない。僕も彼女と同じような経験をしたから、それはわかるし、彼女の話すその感覚は何となく理解できる。
けど、褒められるものじゃないなんて。その行為は時として必要だし、彼女もそれはわかっているはずだ。それを演技だと断言する彼女の吐き捨てたような言葉の間の歪みは、異様に僕の感情にのしかかった。
倒錯したことを言う彼女の言葉が、重く感じられた。
けど。彼女がそう思っていたとしても。僕が彼女の気持ちを理解しているとしても。
そんなことない。人のことを考えて、そのために動いているなんてすごいことだよ。
何かに焦っている彼女にそう言うべきだと思った。
彼女のためにそうフォローする方がいいと思った。
綾さんは大丈夫だ。もっと自由でもいいと思う。その亡くなったという友達のことも、ずっと引きずって生きるより、割り切る方が、いいはずだ。
そう頭の中で考えながらも少しだけ、疑問が胸の中に渦巻いていた。
たぶんこれまで彼女と関わってきて境遇を知って。僕が今まで生活してきて、そのおかげで
持った疑問。
彼女の諦めたような眼差しを見る。その眼差しの先にあるのが死への感情だとわかっていたから、僕は一瞬浮かんだ疑問を無視し、なんとか彼女を肯定しようとした。彼女が正しいのだと伝えようとした。
「でも、すごいですよ」
言った瞬間に、後悔した。周りから音が消える。
徐々に変化する彼女の表情。その奥にはっきりと、沈んだ感情が見て取れた。
取り消したいと思った。けど、その口から出た彼女を傷つける刃物は、まっすぐ彼女に突き刺さってしまった。
彼女の目の奥に映る感情が中学の時の自分のものと重なる。
彼女が求めていたのは、そんな上っ面の言葉じゃなかった。
「ごめ――」
とっさに撤回しようと思って出した声を上塗りするかのように、彼女は言葉を重ねてきた。
「優しいね」
悲しそうな表情で言うその言葉は、彼女からの拒絶に感じられた。
さっき、僕は彼女の気持ちを理解していると考えた。だから彼女の気持ちをわかると。
そんなことを思った自分を恥じる。
似てるから、ってなんだ。わかったつもりになってるだけだった。いや、理解した上での行動なんだから、もっとたちが悪い。
彼女のために、なんて、とんだ思い上がりだ。
後から思えば、自分に似ていると思っている彼女の気持ちもわからない僕は、自分のことだって何もわかってなかったのかもしれない。
彼女の境遇を知っているから、彼女の性格がそうなったのは仕方ないことだと思った。
その上で、彼女の話を聞いて、それでもその彼女の行動がそんなにも悪いものじゃない、そう言うべきだと思った。周りからすればその彼女の立ち回りは正しいのだからそんなに卑下することない、そう思った方が彼女にとってはいいと思った。
正しい彼女は死ぬべきじゃない、なんて。そう思っていた。
――優しいね。
気づく。
それはただの一般解で。
たぶん、心のどこかで彼女のことを、関わっても仕方がない、そんな風に思っていた。他の人がなにを言っても、どうしようもないんだと、割り切っていたのだと思う。
彼女が死ぬべきじゃないと思うことは、それは多分、自殺はよくない、と世間的に言われているそんなありふれた意見と同じで、家族を亡くした少年に対して慰めの言葉をかけるのが正解だとされているから、話しかけたり話を聞いたりする、そんな行動となんら変わらない。
そりゃ、確かに彼女のことを信じられる自分がいたことも確かだ。信じられる人に死んで欲しいと思わないこともそうだ、けど。
ただ、どうしようもないだなんて思っていたから、馬鹿みたいに一般的で無責任な答えを彼女に示した。
何も知らない人が無責任に投げる優しい刃物を、僕も彼女に投げつけてしまったのだ。
それが一番負担になると、痛いほどわかっていたはずなのに。
「……ごめんなさい」
僕は彼女に深く頭を下げた。
「ううん、いいの」
彼女はそう言ってくれたけれど、数秒間、僕と彼女の間に沈黙が生まれた。
彼女は何か迷っているようだった。
やっぱり。
彼女のことを傷つけておきながら、罪悪感と焦りに駆られた頭で、はっきりと、今日の彼女は変だと思った。いつもだったら、僕に気にさせないように、むしろ何の憂いもないように僕に話してくるところだ。
それなのに何故か彼女は静かに首を振って黙ったままだった。こんな状況を作ったのは僕なのに、違和感を拭うことができなかった。
「やっぱりおかしいですよ。本当どうしたんですか」
「……」
彼女は口をつぐんだまま下を向く。気まずい空気の中で、僕もただ彼女の足元を見つめる。彼女は言葉を選んでいるようだった。
「ねえ、芳樹くん?」
その言葉に釣られるようにして彼女の顔を目で捉えた僕の呼吸が止まる。
目の前にいる綾さんは、可哀想なものを見るような表情をしていた。
何、その目は。
彼女は声を絞り出す。
「おかしいって、どっちが……?」
彼女は自分の髪の毛を潰すように握る。
「どっちがっ」
初めて出したその感情の爆発に――僕は。
やっと、本当にやっと気づく。
どうして、それを違和感だと思っていたんだ。
彼女が感情をそのまま出すことの、なにに引っかかった。
違うからだ。普段と異なる彼女の様子に、違和感を感じていた。
やっぱりおかしいですよ、って。
どこが、おかしい、のだろうか。
彼女がこうやって、自分の感情を隠せずに表現していることが、それだけのことが。
何かおかしいのだろうか。
わかっていたんじゃないのか、さっき僕が彼女に謝ったのは、理解したからじゃないのか。
僕が気を使わないように話を進めてくれたり、家族のことを話すときに僕のテンションを尊重してくれたり。
彼女が今までずっとやってきていた行動は、悪意に晒されないために仕方なくやってきたことだ。ならば。
今、彼女が僕に気を使わせないように取り繕っていない、取り繕えない、それだけじゃないのか。
おかしいってなんだ。
感情を隠すことと、感情を隠さないこと。
言葉を選び表情を作って人と接することと、気持ちをそのまま顔や言葉に乗せること。
仕方ないと割り切って過ごすことと、なにも割り切れないままでいること。
考えをまとめる前に、僕は切り出した。考えて、理解してまた間違わないように。
「自殺しないでください」
唐突すぎたかも知れない。僕の言葉を待っていた彼女は、今までで一番驚いた顔をした。
「自殺? 何言ってるの?」
驚愕の表情は崩れなかったが、彼女がとぼけたように首を傾げた。実際、とぼけたのだろう。
僕は何も言わなかった。
「え、どういうこと? なに言い出だすの、芳樹くん」
彼女の驚きの表情は次第に収まり、今度は、自分の意思で取り繕ったのだろう、いきなり変なことを言われて困っている、というような表情に変わっていく。
普通の反応だ、彼女からしたらいきなりそんなことを言ってくる僕の頭の方がどうにかしている。
誰も、自分が死のうと考えていることを、言ってもないのに他の人に知られているとは思わない。姉だって、父だって、亡くなった綾さんの友達だってそうだろう。
みんな、隠してるつもりになってる。
そして大体は、隠せている。
「どうしたの、急に」
彼女はそう言って、訳がわからないというふうに笑う。
僕が憶測でそんなことを言っているのだと思っているのかもしれない。確かに、普通だったら遺書でもない限り彼女の意思なんて証明できない。
だからこそ、今の表情だろう。
彼女は、何も知らないから。
姉が死んでから僕が持つことになってしまったものを、知らないから。
僕は、彼女にはっきりとわかるように口に出した。
「綾さんが、土曜日に死のうしようとしていること、僕は知ってますから」
彼女が絶句する。
そりゃそうだろう、僕に誰にも話していないはずのそれを、知られているんだから。
彼女がこの後どんな反応をするだろうか、頭の中ではそんなことを考えていた。
僕の憶測だと思い込んで白を切るのだろうか。
声のことを言ったら、信じるだろうか、見抜かれたとわかった後なんだから、全く信じないなんてことはないと思うけど。
彼女が思い違いなんてしないよう、もう一度言う。
「綾さんが死のうとしてるって、知ってたんです」
何も言葉を発さない彼女に説明する。
「僕、自殺する人がわかるんです。いつ死ぬか、とか……触れた時に、声が流れてくるんです」
初めて言葉にすると、その内容は全くもって現実味を帯びてなくて、信じられるわけがないと思った。
「え……」
だから、戸惑いを隠せない彼女の様子は、至極当然に見えた。
別に彼女の反応を受け止める準備を怠っていたわけじゃない。彼女の反応に合わせた説明の必要性を感じ、その準備はしていた。
それなのに。
斜め上、なんてもんじゃない。彼女が搾り出した言葉は、僕の思考を完全に置き去りにした。
「なんで芳樹くんも――」
彼女は続ける。
「……芳樹くんこそ死のうとしてるのに」
今度は僕が絶句する番だった。
……え?
彼女は、何を?
芳樹くんこそ、死のうとしてる? はっきりとそう聞こえた。
そう言った彼女は、続く言葉はないとでも言うかのように、口をつぐんでいる。
「は……え」
声にならない声が口からこぼれ落ちる。
何を言っているんだ? 急に何を?
……死のう? そのまんまの意味だとでもいうのだろうか。
彼女はさっき、「なんで芳樹くんも」と言った。
芳樹くん、も。
……も?
何が同じなんだろう。
彼女と同じ、同じって。
何が?
「私も、聞こえるの」
聞こえる……。
聞こえる?
熱を持った脳を動かすが、置き去りにされた僕の脳は、彼女の言葉を理解できない。
何が聞こえるというのだろう。
「私も、芳樹くんと同じなの」
数秒間の沈黙の後、導き出された答えは、僕が何もわかってなかったことを示していた。いや、わかるとかわからないとか以前の問題。
客観的な視点の欠落を意味していた。
――私も「声が」聞こえるの。
――芳樹くんこそ「自殺して」死のうとしてるのに。
「こうでしょ?」
彼女がだらんと垂れた僕の腕をとり、手を握る。
「今、聞こえてるんだよね」
彼女のその言葉に重なって、耳鳴りを想起させるその声は、はっきりと僕の耳に届いていた。
僕の沈黙を肯定と捉えたのか、彼女はなおも続ける。
「私も同じ。今、聞こえてるの。土曜日でしょ? 同じなんだよ。芳樹くんからも、そう聞こえるの」
彼女も。
「だから言ったんだよ、同じだって。ご飯に誘ったあの日からずっと、芳樹くんが辛いの知ってるよ」