姉が飛び降りたことは中学校で結構な話題となった。
小さなコミュニティーだ。ニュースになったりして新聞社などが取材に来たりもしたから、ほとんどの生徒が姉の死を知っていたと思う。
けど、噂になっていると言っても、全校生徒の大半が、姉の死に対して好奇以外のなんの感情も抱いていないわけで。
全く関係のない、今まで話したこともない生徒から、廊下を歩いたりしているときに視線を浴びる、ということも多々あった。
その中に、姉のクラスの奴らもいるのかと思うと気が狂いそうだった。
父も亡くなってから、母に相談して苗字を母方の名前に変えてもらった。
手続きがどれだけ大変なことなのかは分からないけれど、なるべく噂から逃れるために必死だった。
結果、思い通り噂が収まったのかは微妙だったけれど、あとは時間が解決してくれるのを待つしかない、と割り切ることにした。
一方で、クラスでは少し様子が違った。
僕が忌引きで休んでいる間、クラスの担任からどんな話があったのかはわからないけど、クラスのメンバーは気遣いのようなものを見せてくれた。
――大丈夫?
――なんでも話聞くよ。
僕が休み時間座っていると、仲のいい友達はみんな揃って慰めの言葉をかけてくれる。
移動教室毎に、今までだったら適当に各自行くのに、わざわざ僕の所に来て一緒に行こうと誘ってくれた。
また担任の先生も、普段誰に対してもそんなことをしないのに、毎週僕のために放課後に時間を取ってくれて、僕が精神的に参ってしまっていないか気にかけてくれた。普段怖そうな先生の優しい表情がずっと崩れなかったのを覚えている。
みんな、少しでも僕の心が癒されることを望んでくれていたのだ。
それが全て、僕の負担になっているとも知らずに。
みんな、なにも知らないじゃないか。それなのにわかったような顔をして。
大丈夫? そんなわけないだろ。
みんなの心配したような言葉を聞くたびに心の奥の部屋にしまいこんだはずの何かが再燃しそうになった。
仕方ない、わかってる。みんな僕のことを思って色々と声をかけてくれている。好奇心だけで話しかけてくる人はクラスにはいない。頭の中では理解していた。が、だからと言って周りを頼る余裕も、その言葉が自分の負担になっていることを説明するだけの心のゆとりも、その時の僕にはなかった。
放っておいて欲しかった。今まで通り、普通に接してくれればよかった。
けれど、僕の胸中は、心配している側からしたらわからないし、むしろ僕の切羽詰まった様子が伝わり、彼らの心配が増長されてしまうのだろう。
休み時間、あるクラスメイトが僕の机に寄ってきた。
――俺もおじいちゃんが亡くなった時さ。
その子はクラスの委員長で、クラスでも優しいと定評のある彼はもしかすると、そんな状況の僕が悩みを話しやすくするために、彼自身が経験したことを吐露してくれたのかもしれない。
俺もここまで心を開くから、君も開いてよ、心の中にため込んだ辛い気持ちを吐き出していいんだよと。多分、そんな意味を込めたつもりだったんだと思う。
身内の不幸ごとについて話し始めたその優しい彼に、僕の心は大きく動かされた。
彼の思惑とは全く反対に。
おそらくわざとだろう、軽いテンションで話してきた彼の言葉が、僕の疲弊した心を削り取るやすりみたいに思えた。
その時の僕には彼の話し方が、姉や父の死を、忘れるべき対象だと言われているように聞こえたのだ。いや、実際落ち込んでいる僕にそういう意図を持って話しかけてきたのかもしれない。
その瞬間、自分のことを気にかけて話してくる人間全てが、煩わしいものへと変わってしまった。
これ以上は耐えられないと思った。
心の落ち着きのために作った部屋を、壊されるわけにはいかなかった。
もう、刺激を与えないようにするしかどうしようもなかった。
そして僕は、一人で生活をすることを選び、中学での残りの一年間、周りの人を完全に避けるようになった。
姉が目指していた高校に入学してからは、幸いなことに同じ中学から進学した生徒は一人もいなかったから、家族のことは誰にも知られていなかった。
一応心の中も落ち着いてきていたのだろう。
人を避け続けていることを良いことだとは思っていなかったし、このままではだめだという自覚はあったから、高校に入ってからは話しかけてくれた同級生を邪険に扱うことはしなかった。周りの生徒に対する苦手意識はまだはっきりと残っていて、自分から他の人を誘ったり、親しくしたいとは思えなかったけれど、ちゃんと、クラスメイトからの誘いを無下に断るなんてことはしなかった。
友達と呼べる存在も、一人だけどできた。
あれから僕なりに、少し綾さんのことについて考えてみた。
姉と父のことが頭にちらついて集中できたものじゃなかったけど、ネットで調べていると一応、ある程度のことを知ることができた。
『無自覚 自殺』
どういう風に調べようか迷った挙句、そんな単語を並べると、誰かが書いたブログとか、相談ダイアルとか、何十万件ものサイトがヒットした。インターネット上にそのキーワードに関する情報がこんなにも溢れていること、それがどういうことを示すのかは考えないようにしながらスクロールしていく。
いくつかのサイトを調べていると、直前まで分からないのに急に亡くなったという事例についての記事がたくさん見つかった。
その状況に当てはまる多くの人に当てはまるのは、気づかない鬱を抱えていることだ。
それは死を考えるほどに追い込まれている人が、自分自身でそのことに気がつかない、というもので、もし綾さんが自覚していないのだとしたら、ピッタリと当てはまる。
症状が微々たるものだから、自分自身も気づかないパターンと、多少の異常は感じても容易に隠すことのできる症状ばかりだと、進行しているのかどうかわからず、限界に気づくことができないパターンもあるらしい。
結果、病院に行くこともなく自分を追い込んでしまい、最終的に死んでしまうということも少なくないのだという。
途中、見覚えのある本が紹介されてあるのに気付き、目を止める。
数年前のベストセラー本で、気分が落ち込んだ時に読む本、と銘打って発売されていた。
そのイラストがある有名な漫画家によって書かれていることもあり、結構ライトな感じで書かれているから、多くの人が手に取る。
そのイラストは、どこかで見た覚えがあった。正直、ただの自己啓発本にしか見えない。
このイラストと内容は、鬱の人が自分を追い込む原因としてある、自分自身が鬱であることを自覚して「直さないと」と考え過ぎることの対策らしい。でも、しっかりと見極めるべき危険なサインについては書かれているのだという。正直その辺りのバランス、とか実際に鬱の人がどう思うかなどは僕にはわからない。
ただそれでも表紙を見た瞬間にぴんと来るくらいには知っていたし、どのサイトでも紹介されていた。評判も随分といいらしい。気づけば近くの本屋に行って購入していた。
約束の日時は、日曜日の午後だった。彼女は午前中に用事があるらしい。
待ち合わせ場所は、イベントが開催されるホテルの最寄り駅だ。
どうしてだかわからないけど、今日はいつもより耳鳴りがマシだった。
朝起きて、母と僕の分のホットケーキを作る。食欲がない時でも甘いものであれば母も食べやすいと思って、休日は甘いものをよく作っていた。もちろん、取り分けるときは四つの皿に。
ホットケーキミックスがあればホットケーキを、なければフレンチトーストを作る。
今日は後で甘いものを食べるので、ホットケーキにしてツナとサラダと一緒に食べた。
その後自分の部屋を掃除したりして時間を潰し、少し余裕を持って家を出て自分の自転車に
またがる。電車より十分くらい余計にかかるけど、人の密集する乗り物には乗りたくない。
彼女から用事が長引いて遅れるという連絡が届いていたため、ホテルの最寄り駅付近の駐輪場に自転車を止め、近くの喫茶店に入った。店の場所をメールした後、昨日買った本を開く。寒い中自転車を漕いで来たから、室内の暖かい空気が体をほぐしてくれる。
「お待たせ、ごめんね」
しばらくして、綾さんは謝罪の言葉とともに現れた。白のパーカーと黒のパンツの上に青色のコートを羽織り、その袖から少しだけ覗く両手が合わせられている。
いつもと違う雰囲気。化粧をしているからだろうか。今の姿を出山の友達が見たらテンションが跳ね上がると思う。
姉も、高校になったら化粧をしたいと言って色んな雑誌を買っていたのを思いだす。
もし姉も生きていたら、綾さんのように化粧をしていたのだろうか。
「どうしたの?」
「あ、いや。なんでもないです」
「そう? じゃ行こっか」
一度来たことがあるという彼女は、店を出てまっすぐ歩き出すので、僕はそれについて行く。
「前一回来たことあるって言ったでしょ?」
信号待ちをしているときに、彼女が言う。都会だから交通量も多く、信号が変わるのが遅い。
「はい」
「そう、イベントは同じなんだけど、時期によってメインの果物が変わるの。今回のは柑橘系、キウイ、苺とかでしょ」
彼女は空を見上げて何かを思い出す風に言う。
つられて僕も空を見上げる。薄い雲がゆったりと動いていた。
「前行った時は、秋だったから、栗とか、梨のケーキが多かったの。友達と二人で食べた」
彼氏、だったりするのだろうか。出山の友達のせいで余計なことが頭に浮かぶ。
「甘栗好きですもんね」
その思考を振り払うように軽口をたたく。
「そうなの」
今回は彼女も恥ずかしがることなく笑う。
「私の周り栗好きな人多くてね」
「そうなんですか」
「うん」
頷きながら彼女はあくびをする。目元に少しだけクマが見えた。
はっとする。さっき読んでいた本に書いてあったのを見た。うつ病患者の多くが睡眠障害を訴えると。
「寝不足ですか?」
「ん? ああ、そうだね。最近バタバタしてたから」
「そうなんですか」
「そ。おばあちゃん亡くなったでしょ」
彼女の声は単調で、実際どんな感情を持って話しているのか読めない。何を言ったらいいかわからず、とりあえず話の進め方を彼女に委ねるために相槌をうつ。
「私おばあちゃんと一緒に住んでたから、その後のいろいろな作業とかで忙しかったの。だからバイトも長い間休むことになって。代わってくれてありがとね」
「いえいえ」
「今日も朝からその関係で、ね」
それで、昼からにしたのか。
「気づいたら亡くなっちゃうんだね」
彼女はそんな悲しい言葉を口にしながらも微笑んでいた。まるで亡くなった人にその笑顔を見せているかのように。その笑顔に苦しみを感じ取ることはできなかった。
「でも、長生きしたからね。九十歳」
「そうだったんですね」
「だから私はいいの。そんなに疲れてないし。逆に芳樹くんは? ちゃんと眠れてる?」
「僕、ですか?」
「うん」
「眠そうに見えますか?」
「見えない、かな」
「ですよね」
彼女がじんわりと笑みをにじませる。
「何時間くらい寝てるの、毎日」
「五時間半くらいですかね」
「みじかっ、全然寝てないじゃん! 倒れるよ」
「いや、僕は慣れてるので大丈夫です」
高校受験の時に睡眠時間を減らしてからその時間で習慣化されてしまっている。
「眠くないの?」
「夜は結構眠いですけど、朝は勝手に目が覚めるんで。綾さん何時間くらいなんですか?」
「六時間くらい」
「大して変わらないじゃないですか」
「そうなんだけどさ」
そんなことを話していると、目的地であるホテルに到着した。
「そうそう、ここ!」
彼女はエントランスを見て嬉しそうに声を上げる。
大きなホテルの宴会場でイベントが開かれているらしく、入ったところにイベント詳細の立て看板が建てられていた。柔らかな照明に包まれた空間にはどこかからオルゴールのような心地いい音楽が流れていて、なんだか居心地が悪い。こんな豪華なホテルに来るのは初めてだ。場違いではないのだろうか。
対照的に彼女は一度来たからか慣れているのか、ずんずん進んでいく。周りをきょろきょろ見ていたら笑われた。
案内に従ってエレベーターに乗り込むと、目の奥にきらきらとした光が飛び込んでくる。エレベーターの照明がシャンデリアなのだ。
「豪華すぎませんか?」
こんなお洒落なホテルで開催されているイベントだ。調べなかったけれど、もしかしてチケットも相当高いのではないだろうか。
「そうだよー。ほんっとに美味しいケーキばっかり」
彼女はむしろ雰囲気を楽しんでいる様子で、会話に期待が滲み出でいた。
厳かなチャイムの音が鳴り響き、会場の階へと辿り着く。
エレベーターから出ると、その階に一つだけある大きな扉が開け放たれていて、中の様子が目に入ってきた。
「おおぉ」
自然と声が漏れる。華やかな色に彩られた空間に、甘い香りが漂っていた。
匂いにつられて進んでいくと、入り口が綺麗な梅の花で装飾されている。
僕たちが通れるくらい大きなアーチに、鮮やかな赤と真っ白な梅の花びらが散らばっている。
「綺麗」
多分思ったことがそのまま口に出てしまったのだろう、彼女がため息のような声を漏らした。
その声が聞こえたのか、中にいたホテリエが彼女に笑顔を向ける。
華やかなアーチをくぐり、中へと足を踏み入れると、僕たちの様子を見て微笑んでいたホテリエの一人が迎え入れてくれた。
「ご来場ありがとうございます。ご予約のお客様ですか?」
「えっ……と」
予約?
「はい」
僕が一瞬固まると、横から彼女が返事をして、スマホ画面見せる。そして、二枚分のチケットを手渡すと、そのまま中へと案内される。
「綾さん予約してくれたんですか?」
全く知らなかった。確かに、こんなに豪華なイベントだったら予約もいるかもしれないけど。
「ああ、うん。そう、前行った時予約忘れてて、たまたまキャンセルがあったから入れたけど危なかったから」
「ありがとうございます」
「いいえー」
会場内に設置されたテーブルのほとんどが埋まっている。雰囲気がそう思わせるのか、それとも実際吸音の設備が備わっているのか、内部は静かなジャズの音が聞こえるだけで、客の騒がしさは全くなかった。バイト先の空間と全然違う。周りを見ると、一部大学生に見える人もいるけれど、客層も大抵が親世代以上で落ち着いている。やはり場違いな感じは拭えない。
案内された席に座ると、すぐさまメニューが手渡される。
「じゃあ私、キウイデトックスウォータで」
彼女は悩んだ末、お洒落なものを頼む。
「ええと、僕は……」
決まらない。そもそも何なのかわからない名前がずらりと並んでいるのだ。
一流のホテリエは客の様子を見て少しだけ対応を変えるのだろうか。それとも、綾さんのどんな人ともすぐに仲良くなれる力によるものだろうか。メニューを聞きに来てくれたホテリエはしばらくの間彼女との会話に花を咲かせ、僕がメニューをじっくりと見る時間を作ってくれた。
「えっと……ジンジャーエールで」
「かしこまりました」
すぐに運ばれてきたドリンクを受け取ると、彼女が席を立つ。
ビュッフェのような形式で、中にいるシェフに欲しいものを言うとそれが乗ったケーキ皿を提供してくれる。
「見て、美味しそう! 宝石みたい」
並べられている様々なケーキを見て彼女は表情を変化させていく。
僕も好きなケーキをいくつか選び、テーブルに戻る。
異様に渇く喉をジンジャーエールで潤す。炭酸の刺激と生姜の香りが鼻の奥まで入り込んできて、徐々に自分の体がこの空間に馴染んでいってくれるような気がした。
僕が取ったのは二つのケーキで、一つは真っ白なクリームとオレンジのジュレが何層にも重なった四角いケーキ。上には半月状に切られたオレンジが乗せられていた。もう一つは、レモンチーズケーキらしく、小さなタルトチーズケーキが、薄い黄色のスフレに包まれているものだった。
いろんな種類を食べられるようにするためか、一つ一つのケーキはバイト先で売っているケーキより一回りか二回り小さい。彼女も、並べられたケーキを見て「かわいい!」と愛でるような目で叫んでいた。
「美味しい?」
彼女が目を細めながら聞いてくる。
「美味しい……なんですか?」
と思ったら、じいっと僕の目を見つめている。
「いやぁ、ね。なんか、思ってたのと違うな、って思って」
彼女の言っていることがわからなかった。
「どういうことですか」
「一緒に来てくれると思わなかったから」
「そうですか?」
「うん、クラスとかじゃ、みんなとワイワイするタイプじゃないんでしょ?」
僕はそういう彼女に胡乱げな目を送る。
「……なんで知ってるんですか?」
「聞いたの」
「――え?」
「あかりちゃんにね」
「あかりちゃんって――」
「君と同じクラスの柏井あかりちゃん」
僕は頭を抱える。
ああ、あの時か。部活でジャムを作ったあの日、彼女が話している相手が、柏井あかりだっ
た。クラスメイトで唯一、同じ家庭科部に所属している女子だ。
「はぁ。すぐ仲良くなるんですね」
「まあ、それは得意だけど。けどそうじゃなくって、前に購買のところで芳樹くんと話したでしょ。その時、見てたらしくて。「知り合いですかー?」って訊かれて、その時に色々教えてくれたの」
彼女が申し訳なさそうな顔をする。
「でね、ごめん、バイト先教えちゃった」
柏井に、ということか。
僕はため息をつく。
バイトのことは出山しか知らないのだ。バイトをしていると知られてひやかしに来られても嫌だから他のクラスメイトには教えていなかった。
「自分のバイト先訊かれて答えてから、あっ、てなって」
「僕と同じバイトで知り合いだって先に言っていたと」
彼女がごめん、と笑う。
「そう。芳樹くんバイト先とか知られるの嫌だよね」
「そうですね」
彼女からストレートに聞かれ、本心を言う。「ごめん」
彼女が平謝りする。
「いや、いいですけど……」
「ほんとにごめん」
そんなに何度も頭を下げられると、むしろ恐れ多く感じてしまう。いや、正直そんなに怒ってない。それに言ってしまったものはどうしようもない。
「大丈夫です」
途端、彼女が馬鹿みたいに表情を和らげる。瞬間、なぜか不満はきれいに消えていた。
それに、彼女のことだ。バイトのことは別にせよ、柏井が話したことを自分が聞いたみたいに言っている可能性も否定できない。
「ありがとう。芳樹くんのこと全然知らないからさ、訊きたくて」
だからそれがどういう意味かなんて聞かなかった。
「そう……ですか」
「そうなんですよ」
彼女のそのおどけた様子は、何かを隠しているようにも見えた。が、彼女が席を立って新たなケーキを取りに行ったのでわからなかった。
僕も残りの一口を食べ、席を立つ。ケーキをもらって席に戻ると、彼女も席に座っていた。
彼女はキウイが丸ごと詰まったロールケーキと、二種類のキウイが敷き詰められたドーム状のケーキ、果実がごろごろと入ったゼリーのカップを三種類目の前に置いていた。
僕の驚いた目を見てだろう、何も言っていないのに彼女が応える。
「片っ端から食べたいから」
「流石に食べられないと思いますよ」
ケーキだけで二十種類以上はあったと思う。
「頑張る。私、朝抜いてきたから」
「ちゃんと味わえてますか」
さっきも僕が二個食べている間に四つも食べていた。
「もちろん味わってるよー。ケーキ食べられるの最後かもしれない! って気持ちで食べてるもん」
無防備な心を死角から金槌で叩かれたみたいだった。
正直、驚いた。けど、すぐに切り替える。チャンスかもしれない、彼女の考えを聞き出せる。
「えっと……例えですよね」
「何が?」
まさかそんな反応をされると思っていなかったらしい、彼女は困惑の表情を浮かべていた。
「最後と思いながらって」
「ああ、そういうこと。私はいつもそういうスタイルだよ、何事も本気で楽しまなきゃ」
「本気……ですか」
「うん。食事の一番の調味料は気持ち――心構えだよ!」
「誰が言ってたんですかそんなこと」
「わたしー」
ほほほ、と高らかに笑う彼女。
その笑顔の奥に潜む思考は、やっぱりわからなかった。ただ、彼女のおかげで少し空気が軽くなる。
「だってせっかく来たんだよ。お腹はち切れるまでは食べなきゃ。芳樹くんは違うの?」
さっきの彼女の笑い、何かをごまかしているように見えたけど、それは僕の深読みなのかもしれない。彼女は自ら話を続けてきた。
「僕は……そうですね。八分目くらいまでが一番美味しく食べられると思ってるので」
「まだまだ人生に余裕あるって?」
彼女はやけに明るい声を出す。取り留めのない笑い話をするときのような彼女声を聞いていると、質問の繋がりがおかしいのでは、という違和感を超えて自然と返事をしていた。
「いや、別にそういうわけではないですけど」
「まあ、食べ方なんて人それぞれだもんねー。私はもっと食べるー」
手に持ったフォークをそのままぐさりとケーキに突き刺し、口元へと運ぶ。大きな一口。
「あ、そういや芳樹くんはさ、柑橘系のケーキが好きって言ってたよね」
僕の前に並べられたケーキを見て綾さんが言う。
僕が新たにとって来たケーキは三つとも、レモンとかオレンジのケーキだった。
「はい」
「他に好きなケーキないの?」
「うーん、果物多く載ってるタルトとかも好きです」
「あれ、チョコとかモンブランじゃないんだ」
彼女が首を傾げてこちらを向く。
僕は、彼女の選択肢に疑問を持つ。
「何でその二つなんですか?」
「え? だってほら」
彼女は記憶を探るみたいに空中を指差した。
「『Ete Prune』でケーキ貰って帰る時、いつも取ってなかった? チョコケーキとモンブラン」
「……ああ」
いつも、母が好きなショートケーキと、父のチョコレートケーキ、それに栗が好きな姉のためにモンブラン、後、自分がそのときの気分で欲しいものを選んでいた。
「それ僕のじゃないんです」
「え、そうなの? まあ、確かにそんなに持って帰っても食べきれないか。それじゃ、家族の分?」
――家族の、分か。
なんと言えばいいだろうか。
「……そうですね」
困った末、会話の流れに乗ることにした。
「あ、そっか、芳樹くんお姉さんいるんだったよね」
「はい」
「仲良いの?」
高校に入ってから、誰にも言ったことがない。
でも、彼女の反応を見られるのでは、と思った。
「はい。姉がいました」
綾さんは、今のニュアンスに気がついたのだろう。彼女の周りの空気が軽く張り詰めるのがわかった。
「いました……って」
「はい、もう今はいないです」
彼女が息を呑む。
「あと、父も」
僕は、彼女の表情を注意深く観察していた。
正直、予想外だった。
彼女は、中学の時のクラスメイトや、教師、知らない生徒、そのどれでもない表情をした。
何かに怯えたような、そんな様子だった。切羽詰まった表情に圧倒され、そして、やっぱり彼女が何を考えているのか知りたくて僕は聞かれてもないのに勝手に言葉をつなげていた。
「姉は、中学の時のいじめが原因で自殺しました」
瞬間、彼女の眉がピクリと動く。僕はさらに続ける。
「父も、姉の後を追うように。会社で何かあったのかは知らないんですが――」
彼女の痛ましい表情に、ハッとする。
「すみません」
慌てて謝罪する。こんな顔をさせるために言ったんじゃない。
「綾さん――」
彼女の息が荒い気がして、僕は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
額には汗が浮かんでいる。彼女は口を押さえ、何度か咳き込む。
「ごめんね、ちょっとだけトイレ――」
音を立ずに立ち上がった彼女が、会場の外にあるトイレに向かう。その気丈な振る舞いをしている彼女の顔面の蒼白さが、大丈夫じゃないことを物語っていた。どうしたらいいか分からず、近くにいたホテリエさんに席を外すとだけ伝え、僕もトイレに向かう。
数分後。女子トイレから出て来た彼女の顔には、僕が心配しないようにか、無理に作ったような笑顔が貼りついていた。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。」
「こんなとこで出す話じゃなかったです、すいません」
僕は重ねて謝る。
「いやいや。聞いたのこっちだし。こちらこそ嫌なこと思い出させちゃったね」
「いえ、それは大丈夫です」
気を使わせないためなのかもしれないけど、いつもと変わらない彼女の表情を見て安心しながら、同時に僕は、彼女に死の意思があるのだと確信していた。
さっきの、自殺と聞いた時の彼女の表情は、単純な驚きとかではなく、実感を持ったそれだった。感覚的なものかもしれない。けど、その意思をはっきりと感じられた。死ぬ前の姉と彼女が重なった気がしたせいかもしれない。
彼女が僕に向かっていつものように笑いかける。
何かに立ち向かうような、そんな笑顔だった。
「満腹だー」
彼女がお腹をさすりながら満足そうに声をもらす。
あの後、彼女は元気を取り戻し、また様々なケーキを食べていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「そうですね」
受付してくれたホテリエさんがまだ入り口のところにいたのでお礼を言って出ようとすると、引き止められた。そして二枚のチラシを渡される。
今週末と来週末、このホテルが提供している梅まつりが県内で開催されているらしい。今もらったチラシにクーポンが付いていて、そのイベントに割引価格で参加できるというものらしい。
「ねえ」
彼女が振り返ってきた。
僕には、彼女がこれから言うであろうことが予想できた。
また僕を誘おうとしてくれているのだろう。
彼女は祖母の死を完全に受け入れているように見えた。じゃあ、何か。何か他に彼女を死に追い込む原因があるんだろうか。そうだろうな、と思う。僕だって人に言っていないことなんて山ほどある。言えないことの方が多い。当たり前だ。
それを知りたいなら――彼女から聞くしかない。
だから僕は彼女の質問に先回りして答える。
「行きましょう」
彼女は目を少し大きくした後、ゆったりと微笑む。
「来週末でいい?」
「大丈夫です」
「よかった。楽しみ」