数年前に初めて聞こえて以来、綾さんから再度その声が聞こえるまで、一度たりともその不快な声が僕の耳に届くことはなかった。だから正直、その声が聞こえる条件とかルールがあるのとか、僕自身もその声のことについてほとんどと言っていいほど知らない。けど、その声が意味する点だけ正確に理解していればそれで十分なのかもしれない。

 僕はちゃんと、その声が聞こえた人――綾さんが、声の通りに死ぬことをわかっている。
「お待たせーお疲れー」

 だから約束の日、朗らかな笑顔でそう言ってきた綾さんに対し、バイトの時よりも少しだけ高めのテンションの裏に隠れているのであろうものを考えてしまい、こぶしに力が入る。

「……」
「どうしたの?」

 彼女の不思議そうな表情で、力んでいる自分に気づかされ、僕は慌てて表情を戻した。

 何気ない口調で、言う。

「行きましょう」

 彼女の頭に浮かびかけた疑問符が大きくなる前に表情を戻せたおかげで、彼女は特に気にする様子もなく駅の方へと歩き始めた。これから、駅の近くにある小さな定食屋さんで晩ご飯を食べる予定だった。

 僕が先に出て待つ形になったから、急いでくれたのかもしれない。前を歩く彼女の鞄が開いたままになっていて、中に入っている本や財布、お菓子の袋が見えていた。

「開いてますよ」

 後ろから声をかける。

「あ、ほんとだ! ありがとう」

 彼女は焦ったように鞄を閉め、にこりと微笑んだ。

「……見た?」

 彼女がぼそりと呟く。見えたものを思い出し、彼女の表情に繋がる無難なものを言う。

「えっと……お菓子ですか?」
「う、うん。甘栗」
「あれ、甘栗だったんですか」

 さっき見えた袋。

「え、わからなかったの。ああー、言わなかったらよかった。そう、学校で食べてたの……恥ずかしいねぇ」

 彼女は恥ずかしさを誤魔化すように声を出して笑う。
 ああ、そういうことか。

「いや、そんなことないと思いますよ」
「……」

 心にもないことを言っていると思われたのか、彼女はまだ信用していない様子だった。

「姉も好き……なので」

 だった、とは言わなかった。

「そっかー、よかった」

 彼女は安心したように大きくため息をつく。

 死を考えている彼女との会話は、思ったより普通に進んでいく。しばらく歩くと店が見えてきた。

「ここですよね」

 予約をした方がいいか心配していたが、杞憂だったようで、落ち着いた音楽が流れる店内には数人のサラリーマンがいるだけだった。

 キッチンの奥から出てきた店員さんに好きな席に座るように言われ、僕たちは窓から一番離れた席に座る。別に制服で外食をするのが校則で禁止されているわけじゃないけれど、一応、制服だし、二人でいるのを見られたら面倒なので、外から見られないように意識した。

「ありがとうね、ほんと」

 席に着くなり、三度目のお礼を言われてしまう。

 まっすぐな瞳に見つめられ、思わず目を逸らしてしまう。そして「そんなの、大丈夫です」と適当な返しをしてそのまま視線をメニューに移す。

「綾さんは、何食べるんですか?」
「ええっとね、何にしようかなーって――多っ」

 彼女が受け取ったメニューの豊富さに頭を抱える。

「ええぇ、どうしよう」

 無駄な思考かもしれないけれど、彼女がそんな風に悩むのも、特別な理由があるのじゃないか、なんて考えてしまう。

 意識を逸らそうと、店内に張り出されているオススメのメニューを眺めていると、彼女が訊いてきた。

「芳樹くんは何にするか決めたの?」

 何を食べるかは、昨日店のサイトを見た時にすでに決めていた。ただ、すぐに決めたと言うと急かしているように聞こえるかもしれないので、「うーん、迷ってます」と返しておく。

「私昔からこういうの決められないんだー」

 しばらくメニューとにらめっこした後、彼女はお茶を持って来てくれた店員さんにオススメを聞いていた。

 そんな彼女を見て、僕は一人感心していた。

 彼女はバイト中、お客さんと積極的に会話をする。仕事の一環としてやっているのだろうか、と思っていたのだけど、どうやら違うらしい。性格だ。

 僕にはそんなことできない。やろうと思えない。

 結局僕はトンカツ定食を、彼女は無駄に思い詰めた表情でチキン南蛮定食を選んだ。

 店員さんが置いてくれたお茶を一口すすり、彼女は改めて、という感じで僕の方を見た。

「ね、一年くらいバイトで一緒だけどさ、こうやって一緒にご飯食べるのは初めてだね」

 だから、疑問に思ったのだ。彼女は普段から愛想がよく礼儀も正しいので、お客さんに好かれる性格だったし、その点については僕も見習っていた。なので、彼女がお礼をしたいと思って、わざわざご飯に連れて行ってくれること自体には違和感はない。ただ、彼女とシフトを代わったことは以前にもあったから、どうして今回、急に誘われたのだろう、と思わずにはいられなかった。

 しばらくして料理が運ばれてくると、彼女はわかりやすく目を輝かせた。その表情を見て、料理を持ってきてくれた店員のお姉さんの表情も柔らかくなる。

 二人で手を合わせた後、彼女が胸の高鳴りを抑えられない感じで注文したチキン南蛮にかぶりつく。

「ここの料理食べてみたかったんだよねー。あ、美味しい!」

 彼女が大きな声で言ったからか、カウンターの中から見ていたさっきの店員さんが「ありがとうございます」と笑う。

「ほら、芳樹くんも食べなよ」
「……おいしい」
「でしょー」

 美味しかった。さくっと衣がちぎれ、肉の旨味が鼻の奥へと広がる。彼女も満足そうな表情で口を動かしていた。
 しばらく料理を堪能し、その時ばかりは彼女の言葉も「美味しい」以外のものはなかった。

 そして、僕が料理を食べ終えた頃を見計らったように、彼女がまた話を始めた。

「芳樹くん、家庭科部なんだよね?」
「あれ、言ったことありましたっけ?」
「ないよ」

 自信を持って答える彼女に、僕は首を捻る。

 すると、なんだかやけに嬉しげに、彼女は言った。

「いや、実は私もなんだよね」
「ええっ」

 僕は彼女の意外な告白に目を丸める。

 彼女は最後の一口を食べ、

「そんなに驚かなくても。家庭科部ゆるいから私みたいな人多いでしょ?」

 それで彼女が言わんとしていることを理解する。僕たちの通っている学校は部活に所属することが義務付けられていて、その代わりというわけではないが、ゆるい部活には所属だけして参加はしないということが黙認されていた。

 僕の所属している家庭科部の顧問も、自由にやらせてくれるタイプで、だから顔を知らない部員が半分くらいいた。そこに綾さんも入っていたらしい。

「私バイト優先だったから行けなくて」

 それを言われて、納得してしまう。彼女は週五でバイトに入っている。一日あたりのバイト時間はそんなに長くはないけれど、平日毎日だ。どこの部活も最低週二回は必ずあるから、彼女は幽霊部員を許容している部活を探していて、それがたまたま家庭科部だったのだろう。

 その予想は次の瞬間に否定される。

 彼女は左手で湯呑みをくるくる回しながら呟く。

「料理とかお菓子作りしたいなーと思って入ったの」

 てっきり厳しい部活を避けた消去法で決めたのだろう、なんて思っていたから、思わず疑問が口をついて出てしまった。

「じゃあどうして幽霊部員に?」

 途端、彼女の表情に陰りのようなものが滲んだ気がした。まずい質問だったんだろうか。

「ちょっと家の事情でね」

 なんでもないように言ってくれたけれど、それ以上訊かせないような雰囲気があったし、彼女の心に土足で踏み入った気がして謝った。

 どうにか話を戻さなければ、と思ったら、そこは彼女の対話能力の高さだろう、上手く舵を切ってくれた。

「『Ete Prune』でバイトしようと思ったのもケーキ好きだからなの。今日みたいに、余ったケーキ持って帰らせてくれるしね」

 樺さんが、どうせ余っても俺一人じゃ食べきれないから、と言ってケーキの余りをバイト帰りに好きなだけ持って帰らせてくれるのだ。

「そうですね」

 彼女はそのニュアンスに何か思ったのか、僕の隣に置いているケーキの箱を見ながら首を傾げた。中には、さっき貰ったケーキが入っている。

「あれ、芳樹くんはケーキとか好きでカフェを選んだんじゃないの? 時々もらって帰るからてっきりそうなんだと」
「……いや、僕も好きですよ、ケーキ」

 胸の奥にちくりと、棘が引っかかったような気がした。それを誤魔化すように水を飲んでから、「柑橘系のケーキが好きなんです」と事実を述べる。

 彼女は少しだけ首を傾げたように見えたけど、それ以上は何も言ってこなかった。

 帰り、彼女が代金を支払ってくれると言ったが、流石に申し訳ないと思い店を出た後にお金を渡そうとした。

「いいよ、そんなの」
「でも」
「いいって――」

 そう言って、彼女が僕の動きを制止するためか、財布を持った僕の手を握る。あ、と思った時には遅かった。

 また。

 触れた瞬間に気づいて身構えたから、前みたいに呆けることはなかったし、ちゃんと会話を続けることはできたけれど、それでも心臓が跳ねてはいた。

「……申し訳ないですよ」
「……やっぱり……簡単には奢らせてくれないような気はしてたんだけど」

 そう言って彼女は、少し笑った後、切り上げる空気で僕の手の中にある財布を抜き取った。

「――でも、ほんとにいいからいいから。ここはお姉さんに奢られなさい」

 彼女は僕の財布のチャックを閉めて返してくる。

「……ありがとうございます」
「いえいえー」

 僕が折れると、彼女は満足げに頷いて、それから空を見上げて噛みしめるように言う。

「あー楽しかったー」

 彼女は駅の方に顔を向けると、思い出したようにこっちを振り返る。

「あ。芳樹くん、電車じゃないのか」

 首肯する。

「家、近いの?」
「うーん、遠くはないって感じです」

 最寄駅を伝えると、彼女は目を大きくしてさらに聞いてくる。

「まあ、確かに自転車で通えない距離じゃないけど、しんどくない?」

 彼女に改めて言及されて、気づく。

 普通からしたらこの距離は電車を使うのか。最近は慣れて何も考えていなかったけど、人にぶつかって声が聞こえるのを恐れて、入学当初から自転車だった。

「あんまり人混み得意じゃないんです」

 意味は分からないはずなのでそう言うと、彼女はなんだか無駄に納得したような顔をした。

「ああ、そっか。朝とか混んでるもんねえ」

 かすかに嫌そうな表情をする彼女。通学時のラッシュを思い出しているのだろうか。

「身動き取れないですもんね」
「ね。私はそれが嫌で最近は一本早い電車で行ってるからましだけど、時間帯によってはすごいもんね」

 僕が頷くと、彼女はまた駅の方を向きなおした。

「じゃあね、今日はありがとう、芳樹くん」
「ごちそうさまです」
「うん、じゃあまた明日ね」

 彼女は何度も振り返り、手を振りながら改札の奥に消えていく。次のバイトは明後日だけど、と思う一方で、この挨拶が彼女がまだ死なないことの証明のように感じられ、彼女を呆然と見送った。





 母親と僕の現状を知っている親戚は、年忌の時にいつも心が強いだとか偉いだとか言ってくる。

 確かに、父と姉が亡くなって、数日後には普通に学校に行っていたし、今ではちゃんと学校にも通ってバイトもしている。

 けど、それはそうしなければならないからで。後から何か思いつめたところでどうしようもないんだから、そうやって切り替えて過ごす方が上手く生きられるだろうし、そうするべきなんだと思う。程度は違えど身内を亡くした経験のある彼らもみんなそうやってどうにか生活してる。

 だから多分、親戚のその言葉は僕を褒めているというよりは、遠回しに母に忠告しているのだろう。それが嫌だった。家に帰った後に心苦しそうに謝ってくる母の姿なんか、見たくない。親の弱々しい姿は、心の奥深い部分に突き刺さる。

 だから綾さんと別れた後、母に心配をかけないように急ぎ足で家に帰った。玄関の扉を開けて廊下を進むと、リビングの電気が消えていた。母はもう寝てしまったのだろうか、なんて思ったのだけど、奥の部屋から明かりが漏れていることに気づく。

「ただいま」

 リビングの明かりをつけ、奥の部屋の中にいるであろう母が気づくくらいの声量を出すと、しばらくして母が顔を出した。

「ただいま」
「――おかえりなさい」

 うつむきがちに出てきた母の目元が赤い気がして、訊く。

「大丈夫?」
「ええ」
「ご飯食べて来た。はい、これケーキ」

 顔を合わせてすぐ、ちゃんと持って帰ってきたケーキを母に渡すと、母の表情にほんのりと微笑みが浮かぶ。その表情を見て、反射的に訊く。

「お母さん、晩ご飯は?」

 少しの沈黙の後、母が口を開く。

「……なんだか食欲なくて」
「ちょっとでいいから食べた方がいいよ」

 薬を飲まないといけないし。そう口に出すことはできなかった。

 母は姉と父が亡くなってから鬱病だと診断されていた。最近は随分と和らいできたけれど、一時期はひどく、僕が母に病院に行くように頼み、診察して薬をもらっているのだ。胃が荒れるのを防ぐため、服用前に何か口に入れた方がいい。

「ううん、大丈夫よ。ありがとう」

 僕は母に気づかれないくらいのため息とともに訊く。

「お姉ちゃんの分作った時の残りは?」
「あるけど……」
「レンジでチンしようか?」

 母の気を使うような表情。断られる気がした。

 どうしようか。……よし、まだ少しなら食べられる。

「ちょっとだけお腹すいてるから温めて食べるね。お母さんもちょっと食べようよ」

 そう言うと、母はゆっくりと頷く。

 冷蔵庫に残っているおかずを取り出し、机の上に置いたケーキの箱を冷やそうと手に持つ。

「あ、先にそれ渡してくるわね」

 母の指は、冷蔵庫に入れかけたケーキの箱を差している。姉と父に供えてくるということだ。

「ああ。そっか。はい」
「ありがとう」
「……あ、保冷剤まだ大丈夫?」
「ちょっと溶けてるわね」

 念の為、冷凍庫から完全に冷え固まった保冷剤を取り出し、母に渡す。母は受け取った保冷剤と一緒にケーキを皿に並べ、奥の部屋へと持っていった。

 僕はラップをしたおかずの皿をレンジに入れ、タイマーをセットする。

 レンジの音が響くまで、母は奥の部屋から出てこなかった。





 綾さんが言っていたことは、間違いではなかった。ちゃんと「また明日」彼女に会うことになった。

 約五時間の授業時間を終え、家庭科室に向かう。空いたままの扉から家庭科室に入った僕は目を疑う。彼女が今までもずっといましたよ、という空気感で他の部員に混じって談笑していた。一瞬、自然すぎてわからなかった。

 あれ、バイトは? その疑問が、今の状況の不自然さに圧倒され、覆い隠されてしまう。

 確かに、家庭科部は幽霊部員も多いし、顧問の先生もそういう部員に何か注意をすることはない。けど、幽霊部員は名の通り、その場にいないから幽霊なのだ。

 だから、いくら緩い部活だといっても、今まで全くと言っていいほど参加していない人が、毎回のように出席している部員の中に一瞬で溶け込んでいる様子は違和感でしかなかった。同じテーブルを囲む生徒の中に彼女の友達がいたのかどうかはわからないけど、本当にどうしてそんなにコミュニケーション能力が高いのだろうか。

 同時に、そんなふうに簡単に輪の中に入り込んで楽しそうに笑っている彼女が、いったい何に悩んでいるんだろうか、とも思った。

 家庭科部では、グループに分かれて調理する。僕は彼女がいるのとは別のテーブルに着き、他の部員と当たり障りのない話をする。

 既に、テーブルの上には今日使う材料が揃っている。週替わりのローテーションで担当の人が準備をするようになっているのだ。

 作業の合間、綾さんにに話しかけられるのではないかという懸念は、杞憂に終わった。彼女は他のグループの子との調理を楽しんでいるようだった。

 今日はジャムを作る日だった。

 レシピは前のホワイトボードに書かれてある。りんごの皮をむき、いちょう切りにして塩水につける。そして、大量の砂糖と少しのレモン汁を加え、コトコト煮込んでいく。しばらくすると、鍋から甘い香りが広がる。あとは灰汁を取り弱火で長い間煮込めば完成。

 用意されたクラッカーと一緒に食べると、口の中に優しい味が広がる。

 基本的に作ったものは持って帰らせてくれるので、しばらく試食を楽しんだ後、僕たちはあらかじめ煮沸消毒しておいた瓶に出来上がったジャムを詰めた。

 その後洗い物と片付けを済ませ、家庭科室の掃除をする。

 荷物をまとめていると、綾さんが同じグループにいた僕のクラスメイトと楽しげに会話しているのが見えた。

 どうしてそんな早く仲良くなれるんだろうか、そんなことを思いながら、僕は家庭科室を後にした。

 駐輪場で自転車を取り、学校を出て自宅に向かっていると、一つ目の駅が近づいてくる。突然げらげらと大きな笑い声が聞こえて来て、そっちを向く。と、駅前のコンビニに集まってアイスクリームを食べている学生がいた。

 部活帰りなのだろう、みんな大きなバッグを肩から下げていた。

 彼らはスマホをいじりながら時間も忘れたように談笑している。帰る時間なんて、気にしていないんだろうな、と思ってしまう。

 その醜い思考を遮るかのようにポケットに入れていたスマホが振動し、僕は無意識に自転車を止めて眺めていたことに気づく。

 七時を過ぎると母が心配して電話してくるので、いつも十分前にアラームがなるように設定しているのだ。

 早く家へ帰らねばならない、僕はペダルを踏みしめ自転車を加速させた。



 大半のクラスメイトとは基本的に距離がある。中学の時からそれは変わらないけど、そんな僕にも高校では昼ごはんを一緒に食べる友達がいた。前に綾さんが教室に来た時、もし見られていたら、面白がって直接訊いてくるであろうと予想したクラスメイト、出山(いでやま)のことだ。

 出山と初めて話したのは、高校に入学して数週間経った時のことだった。

 中学生活の後半、つまり姉と父が亡くなってから、あることがきっかけで周りと関わろうとしなくなった僕は、高校に入ってからも、自分からは他の人に関わらなかった。

 遊びに誘ってくれたら行くし、話している時も普通に楽しいと思うことはあるけれど、晩ご飯の時間には家に帰っていないといけないから、遊んでも途中で抜けることが多いし、自分から誘ったりすることもないから友達は自然と少なくなる。ある程度は考えて周りを不快にさせないよう振舞ってはいるから、嫌われてはいないけれど、みんな、徐々に僕じゃないもっと付き合いのいい人を誘うようになっていく。

 そんな中、出山だけは違った。

 別に休日にわざわざ会ったりする仲じゃないけれど、教室で時々、休み時間に僕に話しかけてきた。運動部に所属していてクラスの中でも中心にいることが多いから、最初話しかけてきた時、何か別の理由でもあるのかと思った。

 けど、仲良くなってから話を聞くと、どうやら違うらしいとわかった。彼によると「仲良いって別にいつも一緒にいなくちゃならないってわけじゃないだろ。むしろ、一緒にいなくちゃならないって思い始めると疲れる」らしい。

 性格は全く違うけど、人との付き合いに関する方向性が似ているせいか、僕と出山は一年生の冬になった今でも毎日昼食を一緒に食べていた。

 提示してくれた誘いには乗る、そのくらいの距離感が心地よかったのだ。

「ほんと新川いつの間に」

 昼休み食堂で、そんな彼に野次馬を真似た顔で尋問されていた。

 さっきの休み時間の話だ。

 この学校では三時間目と四時間目の間の休み時間から購買でパンや弁当が売り出される。昼休みには人気のないものしか残っていないから、その時間には結構な生徒が購買に殺到する。

 出山はいつもこの休み時間中に何かしら家から持ってきたパンを食べている。本人によると、部活で倒れないように栄養が必要らしい。

 ただ、今日は家に用意したパンを忘れてきたらしく、買いにいかねばならなかったらしい。朝礼前の休み時間、一緒に行こうと誘われていた。

 三時間目、社会の先生の静かな声音のせいで寝ていたはずのクラスメイトは、休み時間になった途端息を吹き返したように購買に向かって走って行く。

 いつもはその様子をただ見ているだけだけど、今日はその流れに乗らなければならない。

 出山もやっぱり食欲が睡眠欲に勝つらしく、終わりの号令の後すぐに財布を手に持って僕のもとへ駆け寄ってきた。

「いこーぜ」
「あ、うん」

 僕も寝起きだったせいで、軽く耳鳴りがする。いつもだ。朝起きた時も、寝起きはキーンと音が耳の奥に響く。

 ただその耳鳴りはすぐ治まってくれて、俊足の出山に遅れを取らずついて行けた。

「僕もなんか買おうかなー」
「お、いいじゃん、新川はもっと食べたほうがいいって」

 急いで購買へと向かうと、購買前にはすでに多くの生徒が集まっていた。途端、あの声を思い出し、僕はふと足を止める。

 先週、数年ぶりに声を聞いてから、僕は中学の時のように敏感に人混みを避けるようになった。教室にいる間はそんなに困らないけど、こんな大人数の間に割って入って行くのは躊躇われた。

「あれ、どした?」

 急に立ち止まった僕を見て、不思議そうに首をかしげる出山。

「買わないの?」
「……なんかこの人混み見たらお腹いっぱいになった」
「なんだそれっ」

 苦し紛れの言い訳に、出山は面白そうに笑ってくれる。こういう時に冗談だと認識して話を進めてくれるのが出山で、だから僕は彼と仲の良い関係を続けられている。

「じゃあ、俺はとりあえず買ってくるな」

 彼はそう言って生徒の塊に突っ込んで行く。僕は人混みから少し離れたところで出山を待つことにした。食料の前で人に揉まれている出山の後頭部を見ていると、やっぱり行かなくてよかった、と思う。声は別にしても、あの中に入ったら潰されてしまう。

 そんなことを考えていたら、ふと後ろから自分の名前が呼ばれた。

 振りかえると、綾さんが近くに立っていた。

「よっ、芳樹くん。芳樹くんも買いに来たの?」
「いや」

 人にぶつかるのを避けて買うのを諦めました、なんて言えない。

「友達の付き添いで」
「そっか。私はお昼ご飯買おうかなって思って」
「急がないと無くなってしまいますよ」

 この様子だと、あと数分で人気のパンや弁当は売り切れてしまうだろう、来た時より既に、広げられた商品の種類が半分ほどに減っている。

「いいの、残ったやつ買うから。それに今行っても押しつぶされるだけだし」
「それはわかります」

 ちょうど、食料の確保を終えた出山が、生還してきた。

「お待たせ、新川――」

 出山が息を呑んだのは、気のせいではないと思う。彼の視線は、明らかに僕の横に向いていた。

「友達?」

 出山とは対照的に、綾さんは落ち着いた雰囲気で僕に質問してくる。

「はい」
「初めまして」

 人当たりの良さそうな空気で出山に挨拶をする綾さん。

「……初め、まして」

 普段からいろんな人に気さくに話しかける出山が戸惑っているのが珍しく、思わず笑いが漏れてしまう。

「ちょちょちょちょ、新川?」

 肩を掴まれ、そのまま数歩引きずられる。掴まれる瞬間、気づいて一瞬焦ったけど、ネタを見つけたと言わんばかりの表情をしている出山は死についてなんて全く考えてないらしい。安心する。

「なんだよ」

 僕が焦りを誤魔化すように言うと、

「なんだよじゃねえって」
「じゃあ、また後でね芳樹くん」

 綾さんはそんな僕たちの様子を見守るような表情を浮かべながら手を振り、人が減ってきた売り場へと向かって行った。

 後、という言葉に反応して、出山の力がさらに強くなった。

 そのせいで、昼休み、ご飯を食べに食堂に行ってからもずっと問い詰められていたのだ。

「――なるほどな」

 声のことは省いてバイトのことなどを説明すると、彼はひとまず興奮を抑えてくれたようで、やっとカツ丼に口をつけさせてくれた。衣が完全に出汁に浸り、全くサクッとしない。

 彼も、さっき購入したまま結局食べられなかったパンをかじり始める。横にはランチの大盛りも置かれていた。よく食べる。

「何事かと思ったわ」
「たまたまバイトが同じだけなんだって。そんなに驚かなくても」
「いや、だってあの吉水先輩だぞ」

 なんとなく、彼の言い方には含意があるように感じた。

「おお、出山じゃん」

 その理由は、横から口を挟んできた生徒に教えられることになる。

「おお、お前が食堂使うの珍しいな」

 出山が軽いノリで声をかけてきた相手に手を上げる。

「いや、弁当食べたんだけどまだお腹すいてたからなんか食べようと思って」

 両手に一つずつパンの袋を持って話しかけてきたのは、高身長で、出山と同じ部活に入っている隣のクラスの生徒。僕と出山が一緒にいるときに何度か話しかけてきたことがあるから、なんとなく覚えていた。

 それにしても、出山もだけど運動部員の胃はどうなっているのだろうか。人混みに近づくだけで満腹になる僕には想像もできない。

「ちょ、それよりさ、出山って吉水先輩と知り合い? 聞いてないぞ」

 吉水、というのは綾さんの名字だ。もしかして。

「いや、そういう訳じゃねえよ」
「さっき話してただろ、購買のとこで」

 見られていたらしい。

「さっきが初対面だって」
「は? なんだよそれ」

 僕の隣でリズムよく会話が進んでいく。

「――ん? あ!」

 彼が僕の顔を見て、指差した。

「君も一緒にいたよね! さっき吉水先輩と話してた?」
「えっと……うん。そうだけど」
「あ、出山じゃなくて君が知り合いってこと?」
「……まあ」

 彼は、わかりやすく驚いた表情を見せた。

「ええっ、なんで? いいな!」
「ええっと――」
 どう返答するべきか考える前に話を重ねられる。

「いいな〜、紹介してよ」
「やめてやれ」

 出山がどんどん加速して行く彼を手で制する。

「ああ、ごめんごめん」

 出山のおかげで彼の熱はおもむろに収束し、そしてそのまま二人は部活の話に切り替わった。僕は心の中で出山に感謝を送る。

 話し終えて教室に帰っていく彼は、去り際、「訊けそうだったら彼氏いるのか訊いといて〜」と、全力の笑顔をこっちに向けた。

「放っといて良いよ。あいつ美人に目がないだけだから」と出山が呆れたようにため息を漏らす。

「なんか、突風みたいな人だね」
「はは、確かに。いつもあんな感じ」
「すごいね……」
「まあ、悪い奴じゃないんだ」
「なんとなく分かるよ」

 ただ思ったことをそのまま口に出すタイプ。僕とは真逆だ。

「綾さんってそんなに人気なの?」
「そりゃ」

 だから、さっき僕が綾さんと話していた時のあの反応か。なるほど、僕がただ女子の先輩と話していることに対しての驚きじゃなかったのか。

「やっぱ知らなかったのか。十月にあった体育祭のリレーでさ、学年別のやつね。あれで俺らの部活のマネージャーも二年のリレー出てたから応援してたんだけど、それに吉水先輩も出てて、その時にみんな名前知った」

 あまり興味がなかったから、出山が出場する回しか意識して見ていなかった。もちろん僕が出場することもなかった。

「で、綺麗な人だからみんな盛り上がっちゃって」
「なるほど」
「二年の中でも結構人気らしいぞ。人当たりよくて」
「まあ……想像はつく」

 出山は僕の肩をとんとんと叩いてにやける。

「だから、気をつけろよ」
「なににだよ」
「だって仲良いんだろ?」
「別にそんなに仲良いって訳じゃないって。ご飯もこの前初めて行っただけで、それもバイト交代したお礼に、って感じだし」
「へーえ」
「そういうことじゃないって、ほんと」

 もっと大きな問題がある。

 ふーん、と興味なさそうに返事したくせに、出山は無理やり不名誉な話のまとめ方をしてきた。

「……そっかー。まあ、いつも周りに興味ないですよー感出してるお前が誰かのことに興味を持ってくれて俺は嬉しい」

 もう一度訂正しようか迷ったが、これ以上反論したら面倒になりそうな気がしたので「親か」とつっこむに留めておいた。

 まあ、仲がいいとかの話は別にしても、出山の僕に対する認識はあながち間違ってはいない。

 出山は僕の性格をよくわかっている。
 理由は何にせよ、確かに彼女と関係を築くことに対して積極的じゃない、とは言えなかった。既に僕は、彼女に対する興味を、それが良いものか悪いものなのかは別にせよ、持ってしまっていたのだ。



 出山の選んだ言葉は言い得て妙だったのだと思う。

 バイトのシフトを終え控え室で荷物をまとめていると、綾さんが背中を伸ばしながら入ってきた。

「疲れたー」
「お疲れ様です」
「腰辛い。しんどー」

 軽くストレッチをしている彼女の表情から、口に出した内容と違い嬉々とした空気感が伝わってきた。

「……どうかしました?」
「これ」

 僕が彼女の矛盾に気づいたことに何かプラスの感情を感じたのか、彼女は一層笑顔を深め、ポケットから何かを取り出した。長方形の紙――チケット?

「ああ、さっきの」

 見覚えがあった。さっき、綾さんがお客さんとの会話に花を咲かせていた時だ。いつもなら彼女がお客さんと会話していても、ああ、また持ち前のコミュニケーション能力を発揮しているな、なんて思って仕事に戻るだけなんだけど、おしゃべりなマダムが彼女に何かを渡しているのが見えた。

 何だろう、と思っていたからすぐにわかった。

「……さっきのって?」
「あいや、さっきなんか渡されてましたよね」

 話が順調に進んでいる感触があったのか、綾さんは「見てたならちょうどいいね」と呟く。

「なんだと思う?」

 書いてある文字は読めないし、パッと見たところで全くわからない。

「えっと――」

 彼女は僕が悩もうとしていなかったことを理解しているのか、大した時間も取らずに答えを示した。

「ホテルのケーキイベントの招待状! 佐々木さんにもらったの!」

 佐々木さんというのは、さっきのマダムだ。彼女のようにお客さんに積極的に話しかけたりしない僕でも名前を覚えているくらい、頻繁に店に足を運んでくれる常連さんだった。

 チケットを見せてもらうと、ここから少し離れた駅近くのホテルで行われている期間限定のイベントらしい。

 ケーキ好きだった姉が中学の時におこずかいを貯めて同じイベントに参加していたことを思い出す。

「私このイベント一回行ったことあって、前にその話を佐々木さんにしたことがあるの。佐々木さんも娘と行こうか迷っていたらしくて、どんな感じだったか聞かれたからまた行きたいくらい楽しかったー、って言ったの。そしたら、それを覚えててくれて、バレンタイン近いからくれるって!」
「いいですね」
「ええ! 反応薄くない?」

 反応が薄いのは姉のことを思い出していたからで。確かに、美味しそうだし、テンションが上がる気持ちはわかる。

「どう? いいでしょ」
「はい。楽しんできてくださいね」

 そう言うと、なぜかムッとした表情をして、彼女はスマホを取り出す。

 ほら見て、とサイトを開いて見せられると、今の時期が旬のミカンやオレンジのケーキがずらりと並んでいた。

「美味しそう」

 僕が思わず出した呟きに、目論見が成功した満足そうな笑みと共にもう一枚ポケットからチケットを取り出す彼女。

「行きたくない?」
「えっと」
「二枚くれて、誰か誘って行ってきてね、って言ってくれたの。これあげるよ」

 何となく流れを作られている気がしたのはそのせいか。

「……悪いですよ。前も奢ってもらったし」
「いいのいいの。バレンタインのプレゼントってことで」

 彼女が不自然に悪い顔を作る。僕に気を使わせないためだろうな、と思った。彼女はそういう人だ。

「来月何かお返ししてくれたらいいからさ」

 来月。つまり、ホワイトデーのお返しということだろう。その言葉が、彼女の置かれている状況と噛み合わず、いやに耳に残る。

 その時彼女は――。

 彼女にはホワイトデーなんか存在しないんじゃないのか。

 そして、それを一番よくわかっているのは彼女自身なんじゃないのか。

 と、そこである一つの考えが頭をかすめる。

 もしかして、もしかしてだけど。

 彼女が知らない、ということもあるのだろうか。

 例えばそう。自覚していないだけで、もう少し後の段階で急に死のうと思い立って、とか。

 自覚ないままに追い詰められていて、気づけば、なんてこともあるのかもしれない。彼女が何を考えているのか、知らなければ何もわからない。

 前向きじゃない。

 そんなものは止めなければならない、とか彼女が自殺をやめてくれればいい、とかそういう殊勝なことを考えているわけではない。

 死という選択をする人が、そんな簡単に意思を変えられるわけがないのだ。姉や父が死んだことも、何かそうせざるを得ない理由があって、二人にとってはそれが一番苦しさから解放される方法だったのかもしれない、そんな風に考えているくらいだ。

 ただ、父や姉と状況としては同じはずなのに、彼女はこんなにも楽しそうに笑っている。

 一ヶ月後にはもうこの世にいないはずの彼女が、楽しそうに毎日を過ごし、いろんな人とコミュニケーションを取ろうとしていることに――そんな彼女に多少なりとも興味と、疑問を持ったんだけなんだと思う。

 せっかく誘ってくれたんだ。

「行っていいですか」

 僕はそう訊いて彼女からチケットを受け取った。