父や姉が死んだ時、こんな気持ちは間違いだと心の中で思いながら、はっきりと心の奥に湧き上がってくる感情があった。
多分、畏敬なんだと思う。
決して死への憧れがあるわけでもないし、自殺なんてそれまで考えたこともなかったはずだけど、自分の知らないレベルで彼らが悩んでいることに、一種の尊びのような気持ちが存在していた。
僕はそれまで、特に波のある生活をしてきた訳じゃないから、父と姉が自殺という道を選ぶほどに苦しんだことに、中学生ながら敵わないと感じてしまった。
だから、話を聞いていたら何か変えられたのだろうかという後悔と同時に、聞いていたところで自分には何もできなかったんだろうと、そう確信していた。
――――――
前のカゴに入れた箱が揺れないように、家へと自転車を走らせていた。進行方向に見える空は、すでに色を変え始めていた。
親にケーキを買うなんて初めてのことだったから、迷って時間がかかってしまった。
ただ、僕も含めバイトをしていない中学生の多くが、親にプレゼントなんて買わないだろう。
だから、その日初めて父親にプレゼントを渡そうと思ったのには、理由があった。
父が姉に続いて死ぬことに薄々気づいていたから。
正確には、なぜかそれを知らされていた。
一ヶ月前、姉が中学で受けていたいじめに耐えられなくなって自殺をした時のことだ。
姉の匂いが色濃く残る家で塞ぎ込んでいる僕を気遣い、両親は祖父母の家に僕を預けてくれた。
慣れない布団と夢の中で、毎晩姉の声が聞こえる悪夢をみていた。毎日が不安に染まり、ずっと耳鳴りが治らなかった。
数日後、学校を欠席していた僕の様子を見にきた父が、僕の頭を撫でた時だった。
安心なんて、させてくれなかった。
少し疲れた様子の父の表情を見て安心し、溢れそうになった涙が、耳に届いた声のせいで一瞬にしてどこかに引っ込んだ。
父の声じゃない。
その声は、耳鳴りの鬱陶しさを最大限まであげたような声音で、それが頭の中に直接響いてくるように聞こえてきて、僕はその内容に耳を疑った。
父が一ヶ月後に自殺をするということを、知らされたのだ。
父を見上げても、もちろん口は動いていない。
その後も声は続いていたけれど、もう、何も頭に入って来なかった。
衝撃的すぎて、訳がわからなかった。
後から考えれば、その時に父に直接事実を伝えていれば良かったのかもしれない。
ただ、姉が亡くなったことで精神的におかしくなっていると自覚していたから、頭に入ってきた声が、幻聴のようなものだと、そう思い込んだ。
それに、ここ最近夢の中でずっと聞いている姉の声や、治らない耳鳴りと変わらないものだと信じ込んで逃げるという道は簡単に摑むことができた。
そう思い込んでいたはずなのにも関わらず、ちょうどその日から一ヶ月後に父にケーキを買って行ったのは、無意識に日にちを数えていて、当日、起きてからずっと感じていた胸騒ぎが時間が経っても収まらなかったからだ。
祖父母の家から自宅に戻ろうと思ったのは、姉が死んでから初めてのことだった。
僕は刻々と大きくなる胸騒ぎを抱えながら自転車を走らせた。
その胸騒ぎは、正しかったらしい。
父は僕が自宅にたどり着く少し前に首を吊った。
人間というものはその身に起きた嫌なこと、後悔すべきことをそのままの濃度で覚えておくことが尽く苦手な生き物なのだろう。
僕も人間だ。だから、父が死んでからその日までの間、記憶の中にあるその声の強烈さが時間の経過と共に薄れてきてしまっていた。
消化できた、と認識していた。
その日までの間、ということは、その日、忘れていたはずの熱さを思い出したということだ。まさか思い出させられるとは、思ってなかった。
「そろそろ上がっていいぞー」
カフェ『Ete Prune』の店長である樺さんの声でシフトの時間が終わったことを知る。この店は、僕が高校生になった時から働かせてもらっているカフェだ。
「お疲れさん、今日もありがとうな」
キッチンで最後のお客さんが頼んだパスタを茹でている樺さんがねぎらいの言葉を送ってくれる。見た目は少し怖くてがっしりしているけど、僕は店長のこういう人柄の良さが好きだった。よく店に来るお客さんと店長の仲がいいのもその人柄のおかげなのだろう。
「あ、綾にも上がっていいって言ってくれるか」
彼にそう言われ、レジ打ちをしているバイト仲間にシフトの終わりを告げにいく。
店内を見渡すとすでに客は減り、ちらほらと晩ご飯を食べている人が残っているくらいだった。
この『Ete Prune』は、内装はアンティーク調で、落ち着いた雰囲気が店内全体を覆っている。全くもって店長の趣味には思えないのだけど、シックにまとまっていて、お客さんからの人気が高い。僕はここで放課後に週三回バイトをしているのだ。
いつも通りの優しげな表情で「気をつけて帰れよー」と言ってくれる樺さんに挨拶を済ま
せ、控室へ向かう。着替えるために先に入っていたバイト仲間と入れ替わりで控室に入る。すれ違いざま、ふわっと甘い香りが僕の鼻をかすめた。あまり意識しないように無表情を崩さずに会釈して、さっさと扉を閉める。
一人になった空間で軽く息を吐き、僕はエプロンと「新川」と書いたネームプレートを外した。
綺麗に畳んだエプロンと引き換えに荷物を回収して裏口から出ると、先に帰ったはずの彼女が、なぜか裏口を出たあたりで佇んでいた。
彼女は吉水綾さんという僕より一つ年上の先輩だ。学校が同じだから、バイト中も時々話をすることがあった。と言っても、彼女から話しかけられて、それに僕が反応することが多いんだけど。
だから僕たちは、バイト後にお互いの帰りを待ち合うような関係ではない。決して。
どうしてなのか分からないけど、扉をあけて顔を出した僕に、彼女は待っていた人を迎える表情をした。
彼女の意図を理解できず、とりあえず当たり障りのない「綾さん、お疲れ様です」を会釈とともに言う。
「お疲れさまー芳樹君」
綺麗な先輩の不可解な行動に戸惑う僕に対し、彼女は明確な意思を持って待っていたらしく、僕の後で扉が閉まるのを待っていたように、話し始めた。
「先週はありがとうね! バイト代わってもらって」
「……いや、全然」
彼女は先週、祖母が亡くなったことによる忌引きでバイトを休んでいた。もともと週五でバイトをしていたから、彼女のシフトの穴を埋めるため、僕のシフトが急遽増えたのだ。
だから彼女の言葉は間違っていないのだけど、僕の反応が少し遅れたのは、シフトに入る前にも一度お礼を言われた覚えがあったからだ。
「ごめんねー」
眉を下げて謝る彼女。わざわざ僕にもう一度それを伝えるために待っていてくれたのだろうか。
確かにバイトを増やした影響で、先週は部活を休むことにはなったけど、別に彼女が謝ることなんてない。身内の誰がいつ死ぬかなんて、普通はわからなくて当たり前だ。
「仕方ないですよ」
その思いをまとめた言葉を送る。彼女は、申し訳なさそうな表情を崩さなかった。
「えっと……それだけですか?」
思わず聞いてしまう。
「いや」
彼女が首を振る。
「今度ご飯行かない?」
「えっと……」
「お礼に奢るから」
「いや、そんなのいいですよ」
「いいや、私が――」
彼女はコミュニケーション能力が高い。バイト中だって、お客さんと会話して盛り上がり、すぐに仲良くなる。それはこんな時にも発揮されるらしい。彼女は、このタイミングで自然に人に触れられる人間だったのだ。
肩に手を置かれていることに気付き、それだけだったら彼女の勢いに負けて思わず首を縦に振っていただけなのかもしれないけど、その時に、僕は忘れかけていた熱を、思い出した。
心臓を、持ち出されたような感覚になった。
しばらく聞いていなかった声が、また、脳に直接入ってくる。
耳鳴りを、極限まで不快にしたような、そんな音。
今度も触れた人――綾さんが、一ヶ月後に自殺をするという内容だった。
僕は耳を塞ぐ。
「……大丈夫?」
彼女の声が、不快音に重なる。
心に穴が空いた感覚の中で、僕は何も声を上げることができなかった。
音が止み、塞いでいた耳を外す。
「えっと……来週の水曜のバイト後とかどう? 空いてたりしない?」
僕の行動に何を思ったのかわからないけれど、彼女は無駄に早口で訊いてきた。いや、実際は普通に訊いただけなのかもしれない。僕が状況に置いてけぼりになっていたことは確かだ。
その強烈な声のせいで、頭が正常に働いていなかった。
目の前にいる彼女がどんな表情をしているのかもわからなかった。すでに肩から手を離されていることはわかったけれど、かと言って、余韻がなくなるなんてことない。
だからたぶん、僕は空っぽのまま、おそらく頷いたのだろう。
「じゃあ。また連絡するから」
彼女がそう言って、立ち去るのを呆然と視界に捉えていた。多分彼女に心配されないように、手は振っていたと思う。
目眩を抑えることができず、僕はしばらくその場でずっと呆けていた。
何分そこにいたかは分からない。ただ樺さんが、裏口から入ってすぐのところにある倉庫で作業を始めたのだろう。その音で我に返ったのはかろうじて覚えている。
その日寝るまでずっと、心臓は戻ってこなかった。
寝ている間に、心臓は元の場所に帰ってきたらしく、混乱した感情も昨日と比べたらずいぶんと治まっていた。
ただそれは、毎朝する耳鳴りに耐性ができたのと同じようなものだ。衝撃に少しずつ慣れてきたというだけで昨日の出来事が頭の中で整理されたというわけではない。
だから母に言ってとりあえず午前中は学校を休むことにした。熱もないのに学校を休むことに母が過剰に反応するかと思ったけれど、昨日家に帰ってきたときの僕の様子を見てだろう、本当に体調が悪いと思ってくれたらしく特に何も追及されなかった。
実際、頭痛といつもよりひどい耳鳴りを感じていた。
普段だったら二度寝したくて堪らないのに不思議と目が冴えてしまい、寝転んだまま天井を眺めていた。
仕方なく分厚い羽毛布団をもう一度肩までかけ、昨日のことを思い出す。
父の生前に聞いてから昨日まで、あの声を聞くことは一度もなかった。
だから、油断していた。
その声が聞こえた事実を父が声の通りに死んでなお疑っていたというわけではない。けど、あれは何かの拍子にたまたま聞こえただけだ、と信じてはいた。
要は、父の時が特殊だと思ってしまっていたのだ。また聞こえるだなんて思っていなかった。だから、父が死んでから中学を卒業するまでの間、人に触れられることを避けていた僕も、高校に入ってからはあまり意識しなくなっていた。
でも、そんなことより。彼女が、死のうとしているなんて。声が聞こえたこともそうだけど、まさかバイト先と学校の先輩である綾さんに触れられた時に聞こえるとは、思わなかった。
普段から、楽しそうにお客さんと会話しているのが彼女の印象だったから、そんな彼女と聞こえてきた「自殺」という言葉をつなげることができなかった。彼女が自殺を考えているなんて、思えない。
それに。
彼女はどうして僕のことをご飯に誘ったのだろうか。
いくらシフトを代わったお礼だとしても、死を考えている人間が昨日みたいに誰かを誘うことなんてあるのだろうか。誘われて行くのならまだしも、自分から進んで、なんて。
もし、自分が同じようなことを考えているとしたら。そのとき僕は誰かとご飯に行こうとするだろうか。ないと思う。
――いや。違う。
別に死を考えていたとしても、周りの人に気づかれないように振る舞うのだ。死のうと考えているしても、僕だって行動を変えることなんてないはずだ。
僕が人を誘わないのは、ただそういう性格だからだ。
ああ、そうか。もう知っていた。姉や父も同じだ。
別に、前兆なんてなくたって、周りに気づかれてなくたって、死のうと考えている人はいる。すでに経験していることだ。
それに、僕はその聞こえてきた内容が嘘ではないことを知っている唯一の人物なのだから。
これ以上考えたところで何かがわかる気はしない。
そもそも、考えたところで、もし本当に死ぬことを選択するまで悩んだ人の気持ちなんか、悩みもない僕にわかるはずがない。
ずっと頭の血管が悲鳴を上げていた。
やめよう。とりあえず、既に行くと言ってしまった彼女の誘いには、何も考えずに乗ればいい。僕は目を瞑って思考と光を遮った。
頭を使わないのは正解だったらしい。僕は知らないうちに眠りについていた。
目覚めた時、ちょうど昼休みが始まる時間だった。頭痛が治まっていたので学校へ行くことにした。
ゆっくりと通学路を自転車で進んでいき、学校へとたどり着く。その後、騒がしい廊下を通って自分の教室へと向かう。
僕が教室内へと足を進めずに空いたままの扉の前で立ち止まったのは、教室が昼休みにしてはなんだか異様に静かだったからだ。
実際、授業中くらいの静寂が教室内に広がっていて、何事かと思ったけれど、原因は一人の女子生徒が僕のクラスにやって来たことらしかった。
弁当を食べているみんなの視線が、その生徒がいる教室後ろの扉に集まっていて、前の扉から入ろうとした僕も自然とそちらを向く。
彼女は誰かを探しているらしく、扉に手をかけて教室内を見渡していた。
目が合う。
彼女はこっちを向いたまま笑顔で手を振る。途端、教室中に波が立つのが分かった。
僕は急いで引き返し、廊下側を通って彼女の所に行く。
僕の動きを追うようにこっちを向いた彼女に「行きましょう」と言い、その彼女が首を縦に振ったのを見ると同時に階段の方に向かった。
立った波はどうにもならないけど、あの空間で話をして更に波を荒げたくはない。他のところに行くことが波を荒げないことになるかは微妙だけど、あの空間で落ち着いて話をする自信はなかった。
階段の踊り場まで来て、振り返る。ついてきた綾さんも立ち止まる。
「どうしたの、重役出勤?」
おどけたような彼女の声がクリアに耳に届く。昼休みの喧騒からこの場所だけが取り残されているみたいだった。
「ちょっと体調悪くて」
「え、大丈夫?」
「はい、寝不足なだけです」
「……そっか」
少し、歯切れが悪そうな彼女の口調。昨日の僕の様子を思い出しているのだろうか。
「でももう大丈夫です」
僕は彼女の思考を断ち切るようにかぶせる。
「……よかった、気をつけないとダメだよ。風邪、流行ってるし」
「はい。それより、どうしたんですか、いきなり教室にくるなんて」
「ああ、そうそう。ごめんね、昨日の帰り、また連絡するとか言っといて、連絡先聞いてなかったなと思って」
バイトは連絡先を交換したりグループを作ったりしなくても樺さんとだけ連絡先を交換していれば十分なので、今まで綾さんと連絡先を交換する機会はなかった。
だとしても。
「それでわざわざ来てくれたんですか」
別に急いで連絡先を交換しなくたって、バイトで同じ時間帯のシフトになった時でいい。それなのに。
「わざわざわざってほどじゃないけどね」
彼女はなぜか、そんな風に変な言い方をした。クラスに突撃してくるのはどうかと思うけど、でも、せっかく来てくれたので素直に感謝するべきだと思い、僕は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「それより、ごめんね、なんか教室に入りづらくなっちゃったりする……かな?」
突撃はしたけど一応今の状況を正確に理解しているのか、彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ああ」
さっき教室を出ていく時に感じた教室中からの視線を思い出す。けど、面白がって直接訊いてくるであろうクラスメイトはいなかった。
「まあ、大丈夫だと思いますよ」
バイトのことはあまり言いたくないし、聞かれたとしても適当にごまかしておけば良い。
「そう? よかった。で、交換、いい?」
「あ、はい」
彼女とスマホを合わせ、連絡先を交換する。
「よーし、芳樹くんの連絡先、ゲット。じゃあ、また明日バイトで」
彼女に手を振った後、すぐに戻ろうとしたけれど、教室の空気を想像し、僕は方向を変える。トイレで時間を潰してからチャイムが鳴るギリギリに教室へと戻ることに決めた。
母は、熱さを忘れられない人間なのだろう。
授業と部活を終えて無事に十九時前に家に帰ると、母はリビングではなく、リビングの奥にある和室にいた。
その和室はもともと姉の部屋で、今は使われていない。が、僕が学校から帰ってきたときに母はよくその部屋で座っていた。僕は姉が亡くなって以来、一度もその部屋の扉を開けていない。
玄関で言った時は反応がなかったから、リビングまで入って二度目の「ただいま」を言うと、母がのそりと和室から出てきて、「おかえりなさい」と返してくる。
「ごめんね、まだ晩ご飯作ってなくて」
母は申し訳なさそうな笑いを浮かべる。週に何度か、こういう母の調子が悪い日がある。
「今から作ろうと思うんだけど……どうする? もうちょっと待てる?」
「うん、じゃあ手伝うよ」
「え、でも――」
「大丈夫だから」
すまなそうな表情をする母に対して被せるように言う。
料理を作りながらの方が話をしやすいし、何か作業しながら聞く方が、母の精神的にもいいと思ったのだ。
「もう体調大丈夫なの?」
「平気。学校に行ったらだいぶ楽になったし」
学校という空間が自分にとっては良いものだという言い方をすると、母の元気のない表情に少しだけ微笑みが浮かぶ。
しばらくは淡々と晩ご飯の準備をし、機をうかがう。
タイミングが大事だと思ったから、母が姉と父の分のおかずを取り分けている時に切り出した。
「来週の水曜なんだけど」
「ん」
目論見通り、母は作業をしながら口だけで返事をした。
「バイトの後さ、晩ご飯食べてきてもいいかなって思って」
もう自分の中では決まっていたけれど、「食べてくるから」というよりは母が許容しやすいと思い、その言葉を選んだ。
案の定、母は眉をひそめてこっちを向いたが「いろいろ教えてもらってる先輩に誘われて」と、お世話になってる先輩からの誘いで断れないという言い方をする。それが免罪符としてうまく作用したのか、母はしぶしぶと言った様子で頷いてくれた。
「バイト終わってすぐに食べるだけだからそんなに遅くならないし」
母が一番懸念していることに念を押すよう言い切ると、心配が少し和らぐのがわかる。よかった、ちゃんと良いタイミングで提示できた。
「後、帰りにケーキ貰って帰ってくるから、お腹開けといてね」
「あら」
今言うか言わずに渡すか考えたのだけど、ここで言っておいて正解だった。母の顔に残った曇りの表情はすぐに柔らかくなる。
「それはお姉ちゃんたち喜ぶわねえ」
食事中も、母はいつもより機嫌が良かったと思う。
母の一番の懸念は、僕の帰りが遅くなりすぎることだ。それをわかっているから僕もさりげなく自分から言ったのだ。
それは、姉が死んだ時間に起因する。
姉が亡くなった日、彼女は晩ご飯の時間になっても帰ってこなかった。
中学に入ってから僕も姉も塾に通っていて、その日は僕も姉も塾の講義がある曜日だった。
僕はどちらかと言うと勉強に不真面目で、塾も親に通わせられていた感覚があったから、自習とかはせずに授業だけ終われば帰っていた。でも姉は違う。僕より一つ年上の姉は勉強に熱心で成績も良く、受験前になると多くの時間を塾で過ごしていたから、家に帰るのが遅くなることが多々あった。
だから、両親もそれに慣れきって、子供が遅く帰ることに対して何も思ってなかったんだと思う。
ただ、母が連絡したらいつも返信があるのだけど、その日は姉からの返信がなかったらしい。それで、先に塾から帰って自分の部屋でごろごろしていた僕に、わざわざ訊きに来たのだ。
でも、母からそれを聞かされた時も僕は全く心配していなかった。姉が塾に残っていると思い切っていたから。
「自習室にまだ残ってたよ」
帰り際、姉がちょうど自習室に入る姿を見かけていた。
窓の外に広がる深い藍色を見ながらそう伝えると、姉の頑張りを理解している母は「勉強の邪魔しても悪いわね」と、リビングへと戻った。
中学校の屋上から姉が飛び降りた、と連絡があったのは、その一時間後だった。
あの時僕も母と同じように心配していたら、何か変わっていたのだろうか。
数年前に初めて聞こえて以来、綾さんから再度その声が聞こえるまで、一度たりともその不快な声が僕の耳に届くことはなかった。だから正直、その声が聞こえる条件とかルールがあるのとか、僕自身もその声のことについてほとんどと言っていいほど知らない。けど、その声が意味する点だけ正確に理解していればそれで十分なのかもしれない。
僕はちゃんと、その声が聞こえた人――綾さんが、声の通りに死ぬことをわかっている。
「お待たせーお疲れー」
だから約束の日、朗らかな笑顔でそう言ってきた綾さんに対し、バイトの時よりも少しだけ高めのテンションの裏に隠れているのであろうものを考えてしまい、こぶしに力が入る。
「……」
「どうしたの?」
彼女の不思議そうな表情で、力んでいる自分に気づかされ、僕は慌てて表情を戻した。
何気ない口調で、言う。
「行きましょう」
彼女の頭に浮かびかけた疑問符が大きくなる前に表情を戻せたおかげで、彼女は特に気にする様子もなく駅の方へと歩き始めた。これから、駅の近くにある小さな定食屋さんで晩ご飯を食べる予定だった。
僕が先に出て待つ形になったから、急いでくれたのかもしれない。前を歩く彼女の鞄が開いたままになっていて、中に入っている本や財布、お菓子の袋が見えていた。
「開いてますよ」
後ろから声をかける。
「あ、ほんとだ! ありがとう」
彼女は焦ったように鞄を閉め、にこりと微笑んだ。
「……見た?」
彼女がぼそりと呟く。見えたものを思い出し、彼女の表情に繋がる無難なものを言う。
「えっと……お菓子ですか?」
「う、うん。甘栗」
「あれ、甘栗だったんですか」
さっき見えた袋。
「え、わからなかったの。ああー、言わなかったらよかった。そう、学校で食べてたの……恥ずかしいねぇ」
彼女は恥ずかしさを誤魔化すように声を出して笑う。
ああ、そういうことか。
「いや、そんなことないと思いますよ」
「……」
心にもないことを言っていると思われたのか、彼女はまだ信用していない様子だった。
「姉も好き……なので」
だった、とは言わなかった。
「そっかー、よかった」
彼女は安心したように大きくため息をつく。
死を考えている彼女との会話は、思ったより普通に進んでいく。しばらく歩くと店が見えてきた。
「ここですよね」
予約をした方がいいか心配していたが、杞憂だったようで、落ち着いた音楽が流れる店内には数人のサラリーマンがいるだけだった。
キッチンの奥から出てきた店員さんに好きな席に座るように言われ、僕たちは窓から一番離れた席に座る。別に制服で外食をするのが校則で禁止されているわけじゃないけれど、一応、制服だし、二人でいるのを見られたら面倒なので、外から見られないように意識した。
「ありがとうね、ほんと」
席に着くなり、三度目のお礼を言われてしまう。
まっすぐな瞳に見つめられ、思わず目を逸らしてしまう。そして「そんなの、大丈夫です」と適当な返しをしてそのまま視線をメニューに移す。
「綾さんは、何食べるんですか?」
「ええっとね、何にしようかなーって――多っ」
彼女が受け取ったメニューの豊富さに頭を抱える。
「ええぇ、どうしよう」
無駄な思考かもしれないけれど、彼女がそんな風に悩むのも、特別な理由があるのじゃないか、なんて考えてしまう。
意識を逸らそうと、店内に張り出されているオススメのメニューを眺めていると、彼女が訊いてきた。
「芳樹くんは何にするか決めたの?」
何を食べるかは、昨日店のサイトを見た時にすでに決めていた。ただ、すぐに決めたと言うと急かしているように聞こえるかもしれないので、「うーん、迷ってます」と返しておく。
「私昔からこういうの決められないんだー」
しばらくメニューとにらめっこした後、彼女はお茶を持って来てくれた店員さんにオススメを聞いていた。
そんな彼女を見て、僕は一人感心していた。
彼女はバイト中、お客さんと積極的に会話をする。仕事の一環としてやっているのだろうか、と思っていたのだけど、どうやら違うらしい。性格だ。
僕にはそんなことできない。やろうと思えない。
結局僕はトンカツ定食を、彼女は無駄に思い詰めた表情でチキン南蛮定食を選んだ。
店員さんが置いてくれたお茶を一口すすり、彼女は改めて、という感じで僕の方を見た。
「ね、一年くらいバイトで一緒だけどさ、こうやって一緒にご飯食べるのは初めてだね」
だから、疑問に思ったのだ。彼女は普段から愛想がよく礼儀も正しいので、お客さんに好かれる性格だったし、その点については僕も見習っていた。なので、彼女がお礼をしたいと思って、わざわざご飯に連れて行ってくれること自体には違和感はない。ただ、彼女とシフトを代わったことは以前にもあったから、どうして今回、急に誘われたのだろう、と思わずにはいられなかった。
しばらくして料理が運ばれてくると、彼女はわかりやすく目を輝かせた。その表情を見て、料理を持ってきてくれた店員のお姉さんの表情も柔らかくなる。
二人で手を合わせた後、彼女が胸の高鳴りを抑えられない感じで注文したチキン南蛮にかぶりつく。
「ここの料理食べてみたかったんだよねー。あ、美味しい!」
彼女が大きな声で言ったからか、カウンターの中から見ていたさっきの店員さんが「ありがとうございます」と笑う。
「ほら、芳樹くんも食べなよ」
「……おいしい」
「でしょー」
美味しかった。さくっと衣がちぎれ、肉の旨味が鼻の奥へと広がる。彼女も満足そうな表情で口を動かしていた。
しばらく料理を堪能し、その時ばかりは彼女の言葉も「美味しい」以外のものはなかった。
そして、僕が料理を食べ終えた頃を見計らったように、彼女がまた話を始めた。
「芳樹くん、家庭科部なんだよね?」
「あれ、言ったことありましたっけ?」
「ないよ」
自信を持って答える彼女に、僕は首を捻る。
すると、なんだかやけに嬉しげに、彼女は言った。
「いや、実は私もなんだよね」
「ええっ」
僕は彼女の意外な告白に目を丸める。
彼女は最後の一口を食べ、
「そんなに驚かなくても。家庭科部ゆるいから私みたいな人多いでしょ?」
それで彼女が言わんとしていることを理解する。僕たちの通っている学校は部活に所属することが義務付けられていて、その代わりというわけではないが、ゆるい部活には所属だけして参加はしないということが黙認されていた。
僕の所属している家庭科部の顧問も、自由にやらせてくれるタイプで、だから顔を知らない部員が半分くらいいた。そこに綾さんも入っていたらしい。
「私バイト優先だったから行けなくて」
それを言われて、納得してしまう。彼女は週五でバイトに入っている。一日あたりのバイト時間はそんなに長くはないけれど、平日毎日だ。どこの部活も最低週二回は必ずあるから、彼女は幽霊部員を許容している部活を探していて、それがたまたま家庭科部だったのだろう。
その予想は次の瞬間に否定される。
彼女は左手で湯呑みをくるくる回しながら呟く。
「料理とかお菓子作りしたいなーと思って入ったの」
てっきり厳しい部活を避けた消去法で決めたのだろう、なんて思っていたから、思わず疑問が口をついて出てしまった。
「じゃあどうして幽霊部員に?」
途端、彼女の表情に陰りのようなものが滲んだ気がした。まずい質問だったんだろうか。
「ちょっと家の事情でね」
なんでもないように言ってくれたけれど、それ以上訊かせないような雰囲気があったし、彼女の心に土足で踏み入った気がして謝った。
どうにか話を戻さなければ、と思ったら、そこは彼女の対話能力の高さだろう、上手く舵を切ってくれた。
「『Ete Prune』でバイトしようと思ったのもケーキ好きだからなの。今日みたいに、余ったケーキ持って帰らせてくれるしね」
樺さんが、どうせ余っても俺一人じゃ食べきれないから、と言ってケーキの余りをバイト帰りに好きなだけ持って帰らせてくれるのだ。
「そうですね」
彼女はそのニュアンスに何か思ったのか、僕の隣に置いているケーキの箱を見ながら首を傾げた。中には、さっき貰ったケーキが入っている。
「あれ、芳樹くんはケーキとか好きでカフェを選んだんじゃないの? 時々もらって帰るからてっきりそうなんだと」
「……いや、僕も好きですよ、ケーキ」
胸の奥にちくりと、棘が引っかかったような気がした。それを誤魔化すように水を飲んでから、「柑橘系のケーキが好きなんです」と事実を述べる。
彼女は少しだけ首を傾げたように見えたけど、それ以上は何も言ってこなかった。
帰り、彼女が代金を支払ってくれると言ったが、流石に申し訳ないと思い店を出た後にお金を渡そうとした。
「いいよ、そんなの」
「でも」
「いいって――」
そう言って、彼女が僕の動きを制止するためか、財布を持った僕の手を握る。あ、と思った時には遅かった。
また。
触れた瞬間に気づいて身構えたから、前みたいに呆けることはなかったし、ちゃんと会話を続けることはできたけれど、それでも心臓が跳ねてはいた。
「……申し訳ないですよ」
「……やっぱり……簡単には奢らせてくれないような気はしてたんだけど」
そう言って彼女は、少し笑った後、切り上げる空気で僕の手の中にある財布を抜き取った。
「――でも、ほんとにいいからいいから。ここはお姉さんに奢られなさい」
彼女は僕の財布のチャックを閉めて返してくる。
「……ありがとうございます」
「いえいえー」
僕が折れると、彼女は満足げに頷いて、それから空を見上げて噛みしめるように言う。
「あー楽しかったー」
彼女は駅の方に顔を向けると、思い出したようにこっちを振り返る。
「あ。芳樹くん、電車じゃないのか」
首肯する。
「家、近いの?」
「うーん、遠くはないって感じです」
最寄駅を伝えると、彼女は目を大きくしてさらに聞いてくる。
「まあ、確かに自転車で通えない距離じゃないけど、しんどくない?」
彼女に改めて言及されて、気づく。
普通からしたらこの距離は電車を使うのか。最近は慣れて何も考えていなかったけど、人にぶつかって声が聞こえるのを恐れて、入学当初から自転車だった。
「あんまり人混み得意じゃないんです」
意味は分からないはずなのでそう言うと、彼女はなんだか無駄に納得したような顔をした。
「ああ、そっか。朝とか混んでるもんねえ」
かすかに嫌そうな表情をする彼女。通学時のラッシュを思い出しているのだろうか。
「身動き取れないですもんね」
「ね。私はそれが嫌で最近は一本早い電車で行ってるからましだけど、時間帯によってはすごいもんね」
僕が頷くと、彼女はまた駅の方を向きなおした。
「じゃあね、今日はありがとう、芳樹くん」
「ごちそうさまです」
「うん、じゃあまた明日ね」
彼女は何度も振り返り、手を振りながら改札の奥に消えていく。次のバイトは明後日だけど、と思う一方で、この挨拶が彼女がまだ死なないことの証明のように感じられ、彼女を呆然と見送った。
母親と僕の現状を知っている親戚は、年忌の時にいつも心が強いだとか偉いだとか言ってくる。
確かに、父と姉が亡くなって、数日後には普通に学校に行っていたし、今ではちゃんと学校にも通ってバイトもしている。
けど、それはそうしなければならないからで。後から何か思いつめたところでどうしようもないんだから、そうやって切り替えて過ごす方が上手く生きられるだろうし、そうするべきなんだと思う。程度は違えど身内を亡くした経験のある彼らもみんなそうやってどうにか生活してる。
だから多分、親戚のその言葉は僕を褒めているというよりは、遠回しに母に忠告しているのだろう。それが嫌だった。家に帰った後に心苦しそうに謝ってくる母の姿なんか、見たくない。親の弱々しい姿は、心の奥深い部分に突き刺さる。
だから綾さんと別れた後、母に心配をかけないように急ぎ足で家に帰った。玄関の扉を開けて廊下を進むと、リビングの電気が消えていた。母はもう寝てしまったのだろうか、なんて思ったのだけど、奥の部屋から明かりが漏れていることに気づく。
「ただいま」
リビングの明かりをつけ、奥の部屋の中にいるであろう母が気づくくらいの声量を出すと、しばらくして母が顔を出した。
「ただいま」
「――おかえりなさい」
うつむきがちに出てきた母の目元が赤い気がして、訊く。
「大丈夫?」
「ええ」
「ご飯食べて来た。はい、これケーキ」
顔を合わせてすぐ、ちゃんと持って帰ってきたケーキを母に渡すと、母の表情にほんのりと微笑みが浮かぶ。その表情を見て、反射的に訊く。
「お母さん、晩ご飯は?」
少しの沈黙の後、母が口を開く。
「……なんだか食欲なくて」
「ちょっとでいいから食べた方がいいよ」
薬を飲まないといけないし。そう口に出すことはできなかった。
母は姉と父が亡くなってから鬱病だと診断されていた。最近は随分と和らいできたけれど、一時期はひどく、僕が母に病院に行くように頼み、診察して薬をもらっているのだ。胃が荒れるのを防ぐため、服用前に何か口に入れた方がいい。
「ううん、大丈夫よ。ありがとう」
僕は母に気づかれないくらいのため息とともに訊く。
「お姉ちゃんの分作った時の残りは?」
「あるけど……」
「レンジでチンしようか?」
母の気を使うような表情。断られる気がした。
どうしようか。……よし、まだ少しなら食べられる。
「ちょっとだけお腹すいてるから温めて食べるね。お母さんもちょっと食べようよ」
そう言うと、母はゆっくりと頷く。
冷蔵庫に残っているおかずを取り出し、机の上に置いたケーキの箱を冷やそうと手に持つ。
「あ、先にそれ渡してくるわね」
母の指は、冷蔵庫に入れかけたケーキの箱を差している。姉と父に供えてくるということだ。
「ああ。そっか。はい」
「ありがとう」
「……あ、保冷剤まだ大丈夫?」
「ちょっと溶けてるわね」
念の為、冷凍庫から完全に冷え固まった保冷剤を取り出し、母に渡す。母は受け取った保冷剤と一緒にケーキを皿に並べ、奥の部屋へと持っていった。
僕はラップをしたおかずの皿をレンジに入れ、タイマーをセットする。
レンジの音が響くまで、母は奥の部屋から出てこなかった。
綾さんが言っていたことは、間違いではなかった。ちゃんと「また明日」彼女に会うことになった。
約五時間の授業時間を終え、家庭科室に向かう。空いたままの扉から家庭科室に入った僕は目を疑う。彼女が今までもずっといましたよ、という空気感で他の部員に混じって談笑していた。一瞬、自然すぎてわからなかった。
あれ、バイトは? その疑問が、今の状況の不自然さに圧倒され、覆い隠されてしまう。
確かに、家庭科部は幽霊部員も多いし、顧問の先生もそういう部員に何か注意をすることはない。けど、幽霊部員は名の通り、その場にいないから幽霊なのだ。
だから、いくら緩い部活だといっても、今まで全くと言っていいほど参加していない人が、毎回のように出席している部員の中に一瞬で溶け込んでいる様子は違和感でしかなかった。同じテーブルを囲む生徒の中に彼女の友達がいたのかどうかはわからないけど、本当にどうしてそんなにコミュニケーション能力が高いのだろうか。
同時に、そんなふうに簡単に輪の中に入り込んで楽しそうに笑っている彼女が、いったい何に悩んでいるんだろうか、とも思った。
家庭科部では、グループに分かれて調理する。僕は彼女がいるのとは別のテーブルに着き、他の部員と当たり障りのない話をする。
既に、テーブルの上には今日使う材料が揃っている。週替わりのローテーションで担当の人が準備をするようになっているのだ。
作業の合間、綾さんにに話しかけられるのではないかという懸念は、杞憂に終わった。彼女は他のグループの子との調理を楽しんでいるようだった。
今日はジャムを作る日だった。
レシピは前のホワイトボードに書かれてある。りんごの皮をむき、いちょう切りにして塩水につける。そして、大量の砂糖と少しのレモン汁を加え、コトコト煮込んでいく。しばらくすると、鍋から甘い香りが広がる。あとは灰汁を取り弱火で長い間煮込めば完成。
用意されたクラッカーと一緒に食べると、口の中に優しい味が広がる。
基本的に作ったものは持って帰らせてくれるので、しばらく試食を楽しんだ後、僕たちはあらかじめ煮沸消毒しておいた瓶に出来上がったジャムを詰めた。
その後洗い物と片付けを済ませ、家庭科室の掃除をする。
荷物をまとめていると、綾さんが同じグループにいた僕のクラスメイトと楽しげに会話しているのが見えた。
どうしてそんな早く仲良くなれるんだろうか、そんなことを思いながら、僕は家庭科室を後にした。
駐輪場で自転車を取り、学校を出て自宅に向かっていると、一つ目の駅が近づいてくる。突然げらげらと大きな笑い声が聞こえて来て、そっちを向く。と、駅前のコンビニに集まってアイスクリームを食べている学生がいた。
部活帰りなのだろう、みんな大きなバッグを肩から下げていた。
彼らはスマホをいじりながら時間も忘れたように談笑している。帰る時間なんて、気にしていないんだろうな、と思ってしまう。
その醜い思考を遮るかのようにポケットに入れていたスマホが振動し、僕は無意識に自転車を止めて眺めていたことに気づく。
七時を過ぎると母が心配して電話してくるので、いつも十分前にアラームがなるように設定しているのだ。
早く家へ帰らねばならない、僕はペダルを踏みしめ自転車を加速させた。
大半のクラスメイトとは基本的に距離がある。中学の時からそれは変わらないけど、そんな僕にも高校では昼ごはんを一緒に食べる友達がいた。前に綾さんが教室に来た時、もし見られていたら、面白がって直接訊いてくるであろうと予想したクラスメイト、出山のことだ。
出山と初めて話したのは、高校に入学して数週間経った時のことだった。
中学生活の後半、つまり姉と父が亡くなってから、あることがきっかけで周りと関わろうとしなくなった僕は、高校に入ってからも、自分からは他の人に関わらなかった。
遊びに誘ってくれたら行くし、話している時も普通に楽しいと思うことはあるけれど、晩ご飯の時間には家に帰っていないといけないから、遊んでも途中で抜けることが多いし、自分から誘ったりすることもないから友達は自然と少なくなる。ある程度は考えて周りを不快にさせないよう振舞ってはいるから、嫌われてはいないけれど、みんな、徐々に僕じゃないもっと付き合いのいい人を誘うようになっていく。
そんな中、出山だけは違った。
別に休日にわざわざ会ったりする仲じゃないけれど、教室で時々、休み時間に僕に話しかけてきた。運動部に所属していてクラスの中でも中心にいることが多いから、最初話しかけてきた時、何か別の理由でもあるのかと思った。
けど、仲良くなってから話を聞くと、どうやら違うらしいとわかった。彼によると「仲良いって別にいつも一緒にいなくちゃならないってわけじゃないだろ。むしろ、一緒にいなくちゃならないって思い始めると疲れる」らしい。
性格は全く違うけど、人との付き合いに関する方向性が似ているせいか、僕と出山は一年生の冬になった今でも毎日昼食を一緒に食べていた。
提示してくれた誘いには乗る、そのくらいの距離感が心地よかったのだ。
「ほんと新川いつの間に」
昼休み食堂で、そんな彼に野次馬を真似た顔で尋問されていた。
さっきの休み時間の話だ。
この学校では三時間目と四時間目の間の休み時間から購買でパンや弁当が売り出される。昼休みには人気のないものしか残っていないから、その時間には結構な生徒が購買に殺到する。
出山はいつもこの休み時間中に何かしら家から持ってきたパンを食べている。本人によると、部活で倒れないように栄養が必要らしい。
ただ、今日は家に用意したパンを忘れてきたらしく、買いにいかねばならなかったらしい。朝礼前の休み時間、一緒に行こうと誘われていた。
三時間目、社会の先生の静かな声音のせいで寝ていたはずのクラスメイトは、休み時間になった途端息を吹き返したように購買に向かって走って行く。
いつもはその様子をただ見ているだけだけど、今日はその流れに乗らなければならない。
出山もやっぱり食欲が睡眠欲に勝つらしく、終わりの号令の後すぐに財布を手に持って僕のもとへ駆け寄ってきた。
「いこーぜ」
「あ、うん」
僕も寝起きだったせいで、軽く耳鳴りがする。いつもだ。朝起きた時も、寝起きはキーンと音が耳の奥に響く。
ただその耳鳴りはすぐ治まってくれて、俊足の出山に遅れを取らずついて行けた。
「僕もなんか買おうかなー」
「お、いいじゃん、新川はもっと食べたほうがいいって」
急いで購買へと向かうと、購買前にはすでに多くの生徒が集まっていた。途端、あの声を思い出し、僕はふと足を止める。
先週、数年ぶりに声を聞いてから、僕は中学の時のように敏感に人混みを避けるようになった。教室にいる間はそんなに困らないけど、こんな大人数の間に割って入って行くのは躊躇われた。
「あれ、どした?」
急に立ち止まった僕を見て、不思議そうに首をかしげる出山。
「買わないの?」
「……なんかこの人混み見たらお腹いっぱいになった」
「なんだそれっ」
苦し紛れの言い訳に、出山は面白そうに笑ってくれる。こういう時に冗談だと認識して話を進めてくれるのが出山で、だから僕は彼と仲の良い関係を続けられている。
「じゃあ、俺はとりあえず買ってくるな」
彼はそう言って生徒の塊に突っ込んで行く。僕は人混みから少し離れたところで出山を待つことにした。食料の前で人に揉まれている出山の後頭部を見ていると、やっぱり行かなくてよかった、と思う。声は別にしても、あの中に入ったら潰されてしまう。
そんなことを考えていたら、ふと後ろから自分の名前が呼ばれた。
振りかえると、綾さんが近くに立っていた。
「よっ、芳樹くん。芳樹くんも買いに来たの?」
「いや」
人にぶつかるのを避けて買うのを諦めました、なんて言えない。
「友達の付き添いで」
「そっか。私はお昼ご飯買おうかなって思って」
「急がないと無くなってしまいますよ」
この様子だと、あと数分で人気のパンや弁当は売り切れてしまうだろう、来た時より既に、広げられた商品の種類が半分ほどに減っている。
「いいの、残ったやつ買うから。それに今行っても押しつぶされるだけだし」
「それはわかります」
ちょうど、食料の確保を終えた出山が、生還してきた。
「お待たせ、新川――」
出山が息を呑んだのは、気のせいではないと思う。彼の視線は、明らかに僕の横に向いていた。
「友達?」
出山とは対照的に、綾さんは落ち着いた雰囲気で僕に質問してくる。
「はい」
「初めまして」
人当たりの良さそうな空気で出山に挨拶をする綾さん。
「……初め、まして」
普段からいろんな人に気さくに話しかける出山が戸惑っているのが珍しく、思わず笑いが漏れてしまう。
「ちょちょちょちょ、新川?」
肩を掴まれ、そのまま数歩引きずられる。掴まれる瞬間、気づいて一瞬焦ったけど、ネタを見つけたと言わんばかりの表情をしている出山は死についてなんて全く考えてないらしい。安心する。
「なんだよ」
僕が焦りを誤魔化すように言うと、
「なんだよじゃねえって」
「じゃあ、また後でね芳樹くん」
綾さんはそんな僕たちの様子を見守るような表情を浮かべながら手を振り、人が減ってきた売り場へと向かって行った。
後、という言葉に反応して、出山の力がさらに強くなった。
そのせいで、昼休み、ご飯を食べに食堂に行ってからもずっと問い詰められていたのだ。
「――なるほどな」
声のことは省いてバイトのことなどを説明すると、彼はひとまず興奮を抑えてくれたようで、やっとカツ丼に口をつけさせてくれた。衣が完全に出汁に浸り、全くサクッとしない。
彼も、さっき購入したまま結局食べられなかったパンをかじり始める。横にはランチの大盛りも置かれていた。よく食べる。
「何事かと思ったわ」
「たまたまバイトが同じだけなんだって。そんなに驚かなくても」
「いや、だってあの吉水先輩だぞ」
なんとなく、彼の言い方には含意があるように感じた。
「おお、出山じゃん」
その理由は、横から口を挟んできた生徒に教えられることになる。
「おお、お前が食堂使うの珍しいな」
出山が軽いノリで声をかけてきた相手に手を上げる。
「いや、弁当食べたんだけどまだお腹すいてたからなんか食べようと思って」
両手に一つずつパンの袋を持って話しかけてきたのは、高身長で、出山と同じ部活に入っている隣のクラスの生徒。僕と出山が一緒にいるときに何度か話しかけてきたことがあるから、なんとなく覚えていた。
それにしても、出山もだけど運動部員の胃はどうなっているのだろうか。人混みに近づくだけで満腹になる僕には想像もできない。
「ちょ、それよりさ、出山って吉水先輩と知り合い? 聞いてないぞ」
吉水、というのは綾さんの名字だ。もしかして。
「いや、そういう訳じゃねえよ」
「さっき話してただろ、購買のとこで」
見られていたらしい。
「さっきが初対面だって」
「は? なんだよそれ」
僕の隣でリズムよく会話が進んでいく。
「――ん? あ!」
彼が僕の顔を見て、指差した。
「君も一緒にいたよね! さっき吉水先輩と話してた?」
「えっと……うん。そうだけど」
「あ、出山じゃなくて君が知り合いってこと?」
「……まあ」
彼は、わかりやすく驚いた表情を見せた。
「ええっ、なんで? いいな!」
「ええっと――」
どう返答するべきか考える前に話を重ねられる。
「いいな〜、紹介してよ」
「やめてやれ」
出山がどんどん加速して行く彼を手で制する。
「ああ、ごめんごめん」
出山のおかげで彼の熱はおもむろに収束し、そしてそのまま二人は部活の話に切り替わった。僕は心の中で出山に感謝を送る。
話し終えて教室に帰っていく彼は、去り際、「訊けそうだったら彼氏いるのか訊いといて〜」と、全力の笑顔をこっちに向けた。
「放っといて良いよ。あいつ美人に目がないだけだから」と出山が呆れたようにため息を漏らす。
「なんか、突風みたいな人だね」
「はは、確かに。いつもあんな感じ」
「すごいね……」
「まあ、悪い奴じゃないんだ」
「なんとなく分かるよ」
ただ思ったことをそのまま口に出すタイプ。僕とは真逆だ。
「綾さんってそんなに人気なの?」
「そりゃ」
だから、さっき僕が綾さんと話していた時のあの反応か。なるほど、僕がただ女子の先輩と話していることに対しての驚きじゃなかったのか。
「やっぱ知らなかったのか。十月にあった体育祭のリレーでさ、学年別のやつね。あれで俺らの部活のマネージャーも二年のリレー出てたから応援してたんだけど、それに吉水先輩も出てて、その時にみんな名前知った」
あまり興味がなかったから、出山が出場する回しか意識して見ていなかった。もちろん僕が出場することもなかった。
「で、綺麗な人だからみんな盛り上がっちゃって」
「なるほど」
「二年の中でも結構人気らしいぞ。人当たりよくて」
「まあ……想像はつく」
出山は僕の肩をとんとんと叩いてにやける。
「だから、気をつけろよ」
「なににだよ」
「だって仲良いんだろ?」
「別にそんなに仲良いって訳じゃないって。ご飯もこの前初めて行っただけで、それもバイト交代したお礼に、って感じだし」
「へーえ」
「そういうことじゃないって、ほんと」
もっと大きな問題がある。
ふーん、と興味なさそうに返事したくせに、出山は無理やり不名誉な話のまとめ方をしてきた。
「……そっかー。まあ、いつも周りに興味ないですよー感出してるお前が誰かのことに興味を持ってくれて俺は嬉しい」
もう一度訂正しようか迷ったが、これ以上反論したら面倒になりそうな気がしたので「親か」とつっこむに留めておいた。
まあ、仲がいいとかの話は別にしても、出山の僕に対する認識はあながち間違ってはいない。
出山は僕の性格をよくわかっている。
理由は何にせよ、確かに彼女と関係を築くことに対して積極的じゃない、とは言えなかった。既に僕は、彼女に対する興味を、それが良いものか悪いものなのかは別にせよ、持ってしまっていたのだ。
出山の選んだ言葉は言い得て妙だったのだと思う。
バイトのシフトを終え控え室で荷物をまとめていると、綾さんが背中を伸ばしながら入ってきた。
「疲れたー」
「お疲れ様です」
「腰辛い。しんどー」
軽くストレッチをしている彼女の表情から、口に出した内容と違い嬉々とした空気感が伝わってきた。
「……どうかしました?」
「これ」
僕が彼女の矛盾に気づいたことに何かプラスの感情を感じたのか、彼女は一層笑顔を深め、ポケットから何かを取り出した。長方形の紙――チケット?
「ああ、さっきの」
見覚えがあった。さっき、綾さんがお客さんとの会話に花を咲かせていた時だ。いつもなら彼女がお客さんと会話していても、ああ、また持ち前のコミュニケーション能力を発揮しているな、なんて思って仕事に戻るだけなんだけど、おしゃべりなマダムが彼女に何かを渡しているのが見えた。
何だろう、と思っていたからすぐにわかった。
「……さっきのって?」
「あいや、さっきなんか渡されてましたよね」
話が順調に進んでいる感触があったのか、綾さんは「見てたならちょうどいいね」と呟く。
「なんだと思う?」
書いてある文字は読めないし、パッと見たところで全くわからない。
「えっと――」
彼女は僕が悩もうとしていなかったことを理解しているのか、大した時間も取らずに答えを示した。
「ホテルのケーキイベントの招待状! 佐々木さんにもらったの!」
佐々木さんというのは、さっきのマダムだ。彼女のようにお客さんに積極的に話しかけたりしない僕でも名前を覚えているくらい、頻繁に店に足を運んでくれる常連さんだった。
チケットを見せてもらうと、ここから少し離れた駅近くのホテルで行われている期間限定のイベントらしい。
ケーキ好きだった姉が中学の時におこずかいを貯めて同じイベントに参加していたことを思い出す。
「私このイベント一回行ったことあって、前にその話を佐々木さんにしたことがあるの。佐々木さんも娘と行こうか迷っていたらしくて、どんな感じだったか聞かれたからまた行きたいくらい楽しかったー、って言ったの。そしたら、それを覚えててくれて、バレンタイン近いからくれるって!」
「いいですね」
「ええ! 反応薄くない?」
反応が薄いのは姉のことを思い出していたからで。確かに、美味しそうだし、テンションが上がる気持ちはわかる。
「どう? いいでしょ」
「はい。楽しんできてくださいね」
そう言うと、なぜかムッとした表情をして、彼女はスマホを取り出す。
ほら見て、とサイトを開いて見せられると、今の時期が旬のミカンやオレンジのケーキがずらりと並んでいた。
「美味しそう」
僕が思わず出した呟きに、目論見が成功した満足そうな笑みと共にもう一枚ポケットからチケットを取り出す彼女。
「行きたくない?」
「えっと」
「二枚くれて、誰か誘って行ってきてね、って言ってくれたの。これあげるよ」
何となく流れを作られている気がしたのはそのせいか。
「……悪いですよ。前も奢ってもらったし」
「いいのいいの。バレンタインのプレゼントってことで」
彼女が不自然に悪い顔を作る。僕に気を使わせないためだろうな、と思った。彼女はそういう人だ。
「来月何かお返ししてくれたらいいからさ」
来月。つまり、ホワイトデーのお返しということだろう。その言葉が、彼女の置かれている状況と噛み合わず、いやに耳に残る。
その時彼女は――。
彼女にはホワイトデーなんか存在しないんじゃないのか。
そして、それを一番よくわかっているのは彼女自身なんじゃないのか。
と、そこである一つの考えが頭をかすめる。
もしかして、もしかしてだけど。
彼女が知らない、ということもあるのだろうか。
例えばそう。自覚していないだけで、もう少し後の段階で急に死のうと思い立って、とか。
自覚ないままに追い詰められていて、気づけば、なんてこともあるのかもしれない。彼女が何を考えているのか、知らなければ何もわからない。
前向きじゃない。
そんなものは止めなければならない、とか彼女が自殺をやめてくれればいい、とかそういう殊勝なことを考えているわけではない。
死という選択をする人が、そんな簡単に意思を変えられるわけがないのだ。姉や父が死んだことも、何かそうせざるを得ない理由があって、二人にとってはそれが一番苦しさから解放される方法だったのかもしれない、そんな風に考えているくらいだ。
ただ、父や姉と状況としては同じはずなのに、彼女はこんなにも楽しそうに笑っている。
一ヶ月後にはもうこの世にいないはずの彼女が、楽しそうに毎日を過ごし、いろんな人とコミュニケーションを取ろうとしていることに――そんな彼女に多少なりとも興味と、疑問を持ったんだけなんだと思う。
せっかく誘ってくれたんだ。
「行っていいですか」
僕はそう訊いて彼女からチケットを受け取った。
姉が飛び降りたことは中学校で結構な話題となった。
小さなコミュニティーだ。ニュースになったりして新聞社などが取材に来たりもしたから、ほとんどの生徒が姉の死を知っていたと思う。
けど、噂になっていると言っても、全校生徒の大半が、姉の死に対して好奇以外のなんの感情も抱いていないわけで。
全く関係のない、今まで話したこともない生徒から、廊下を歩いたりしているときに視線を浴びる、ということも多々あった。
その中に、姉のクラスの奴らもいるのかと思うと気が狂いそうだった。
父も亡くなってから、母に相談して苗字を母方の名前に変えてもらった。
手続きがどれだけ大変なことなのかは分からないけれど、なるべく噂から逃れるために必死だった。
結果、思い通り噂が収まったのかは微妙だったけれど、あとは時間が解決してくれるのを待つしかない、と割り切ることにした。
一方で、クラスでは少し様子が違った。
僕が忌引きで休んでいる間、クラスの担任からどんな話があったのかはわからないけど、クラスのメンバーは気遣いのようなものを見せてくれた。
――大丈夫?
――なんでも話聞くよ。
僕が休み時間座っていると、仲のいい友達はみんな揃って慰めの言葉をかけてくれる。
移動教室毎に、今までだったら適当に各自行くのに、わざわざ僕の所に来て一緒に行こうと誘ってくれた。
また担任の先生も、普段誰に対してもそんなことをしないのに、毎週僕のために放課後に時間を取ってくれて、僕が精神的に参ってしまっていないか気にかけてくれた。普段怖そうな先生の優しい表情がずっと崩れなかったのを覚えている。
みんな、少しでも僕の心が癒されることを望んでくれていたのだ。
それが全て、僕の負担になっているとも知らずに。
みんな、なにも知らないじゃないか。それなのにわかったような顔をして。
大丈夫? そんなわけないだろ。
みんなの心配したような言葉を聞くたびに心の奥の部屋にしまいこんだはずの何かが再燃しそうになった。
仕方ない、わかってる。みんな僕のことを思って色々と声をかけてくれている。好奇心だけで話しかけてくる人はクラスにはいない。頭の中では理解していた。が、だからと言って周りを頼る余裕も、その言葉が自分の負担になっていることを説明するだけの心のゆとりも、その時の僕にはなかった。
放っておいて欲しかった。今まで通り、普通に接してくれればよかった。
けれど、僕の胸中は、心配している側からしたらわからないし、むしろ僕の切羽詰まった様子が伝わり、彼らの心配が増長されてしまうのだろう。
休み時間、あるクラスメイトが僕の机に寄ってきた。
――俺もおじいちゃんが亡くなった時さ。
その子はクラスの委員長で、クラスでも優しいと定評のある彼はもしかすると、そんな状況の僕が悩みを話しやすくするために、彼自身が経験したことを吐露してくれたのかもしれない。
俺もここまで心を開くから、君も開いてよ、心の中にため込んだ辛い気持ちを吐き出していいんだよと。多分、そんな意味を込めたつもりだったんだと思う。
身内の不幸ごとについて話し始めたその優しい彼に、僕の心は大きく動かされた。
彼の思惑とは全く反対に。
おそらくわざとだろう、軽いテンションで話してきた彼の言葉が、僕の疲弊した心を削り取るやすりみたいに思えた。
その時の僕には彼の話し方が、姉や父の死を、忘れるべき対象だと言われているように聞こえたのだ。いや、実際落ち込んでいる僕にそういう意図を持って話しかけてきたのかもしれない。
その瞬間、自分のことを気にかけて話してくる人間全てが、煩わしいものへと変わってしまった。
これ以上は耐えられないと思った。
心の落ち着きのために作った部屋を、壊されるわけにはいかなかった。
もう、刺激を与えないようにするしかどうしようもなかった。
そして僕は、一人で生活をすることを選び、中学での残りの一年間、周りの人を完全に避けるようになった。
姉が目指していた高校に入学してからは、幸いなことに同じ中学から進学した生徒は一人もいなかったから、家族のことは誰にも知られていなかった。
一応心の中も落ち着いてきていたのだろう。
人を避け続けていることを良いことだとは思っていなかったし、このままではだめだという自覚はあったから、高校に入ってからは話しかけてくれた同級生を邪険に扱うことはしなかった。周りの生徒に対する苦手意識はまだはっきりと残っていて、自分から他の人を誘ったり、親しくしたいとは思えなかったけれど、ちゃんと、クラスメイトからの誘いを無下に断るなんてことはしなかった。
友達と呼べる存在も、一人だけどできた。
あれから僕なりに、少し綾さんのことについて考えてみた。
姉と父のことが頭にちらついて集中できたものじゃなかったけど、ネットで調べていると一応、ある程度のことを知ることができた。
『無自覚 自殺』
どういう風に調べようか迷った挙句、そんな単語を並べると、誰かが書いたブログとか、相談ダイアルとか、何十万件ものサイトがヒットした。インターネット上にそのキーワードに関する情報がこんなにも溢れていること、それがどういうことを示すのかは考えないようにしながらスクロールしていく。
いくつかのサイトを調べていると、直前まで分からないのに急に亡くなったという事例についての記事がたくさん見つかった。
その状況に当てはまる多くの人に当てはまるのは、気づかない鬱を抱えていることだ。
それは死を考えるほどに追い込まれている人が、自分自身でそのことに気がつかない、というもので、もし綾さんが自覚していないのだとしたら、ピッタリと当てはまる。
症状が微々たるものだから、自分自身も気づかないパターンと、多少の異常は感じても容易に隠すことのできる症状ばかりだと、進行しているのかどうかわからず、限界に気づくことができないパターンもあるらしい。
結果、病院に行くこともなく自分を追い込んでしまい、最終的に死んでしまうということも少なくないのだという。
途中、見覚えのある本が紹介されてあるのに気付き、目を止める。
数年前のベストセラー本で、気分が落ち込んだ時に読む本、と銘打って発売されていた。
そのイラストがある有名な漫画家によって書かれていることもあり、結構ライトな感じで書かれているから、多くの人が手に取る。
そのイラストは、どこかで見た覚えがあった。正直、ただの自己啓発本にしか見えない。
このイラストと内容は、鬱の人が自分を追い込む原因としてある、自分自身が鬱であることを自覚して「直さないと」と考え過ぎることの対策らしい。でも、しっかりと見極めるべき危険なサインについては書かれているのだという。正直その辺りのバランス、とか実際に鬱の人がどう思うかなどは僕にはわからない。
ただそれでも表紙を見た瞬間にぴんと来るくらいには知っていたし、どのサイトでも紹介されていた。評判も随分といいらしい。気づけば近くの本屋に行って購入していた。
約束の日時は、日曜日の午後だった。彼女は午前中に用事があるらしい。
待ち合わせ場所は、イベントが開催されるホテルの最寄り駅だ。
どうしてだかわからないけど、今日はいつもより耳鳴りがマシだった。
朝起きて、母と僕の分のホットケーキを作る。食欲がない時でも甘いものであれば母も食べやすいと思って、休日は甘いものをよく作っていた。もちろん、取り分けるときは四つの皿に。
ホットケーキミックスがあればホットケーキを、なければフレンチトーストを作る。
今日は後で甘いものを食べるので、ホットケーキにしてツナとサラダと一緒に食べた。
その後自分の部屋を掃除したりして時間を潰し、少し余裕を持って家を出て自分の自転車に
またがる。電車より十分くらい余計にかかるけど、人の密集する乗り物には乗りたくない。
彼女から用事が長引いて遅れるという連絡が届いていたため、ホテルの最寄り駅付近の駐輪場に自転車を止め、近くの喫茶店に入った。店の場所をメールした後、昨日買った本を開く。寒い中自転車を漕いで来たから、室内の暖かい空気が体をほぐしてくれる。
「お待たせ、ごめんね」
しばらくして、綾さんは謝罪の言葉とともに現れた。白のパーカーと黒のパンツの上に青色のコートを羽織り、その袖から少しだけ覗く両手が合わせられている。
いつもと違う雰囲気。化粧をしているからだろうか。今の姿を出山の友達が見たらテンションが跳ね上がると思う。
姉も、高校になったら化粧をしたいと言って色んな雑誌を買っていたのを思いだす。
もし姉も生きていたら、綾さんのように化粧をしていたのだろうか。
「どうしたの?」
「あ、いや。なんでもないです」
「そう? じゃ行こっか」
一度来たことがあるという彼女は、店を出てまっすぐ歩き出すので、僕はそれについて行く。
「前一回来たことあるって言ったでしょ?」
信号待ちをしているときに、彼女が言う。都会だから交通量も多く、信号が変わるのが遅い。
「はい」
「そう、イベントは同じなんだけど、時期によってメインの果物が変わるの。今回のは柑橘系、キウイ、苺とかでしょ」
彼女は空を見上げて何かを思い出す風に言う。
つられて僕も空を見上げる。薄い雲がゆったりと動いていた。
「前行った時は、秋だったから、栗とか、梨のケーキが多かったの。友達と二人で食べた」
彼氏、だったりするのだろうか。出山の友達のせいで余計なことが頭に浮かぶ。
「甘栗好きですもんね」
その思考を振り払うように軽口をたたく。
「そうなの」
今回は彼女も恥ずかしがることなく笑う。
「私の周り栗好きな人多くてね」
「そうなんですか」
「うん」
頷きながら彼女はあくびをする。目元に少しだけクマが見えた。
はっとする。さっき読んでいた本に書いてあったのを見た。うつ病患者の多くが睡眠障害を訴えると。
「寝不足ですか?」
「ん? ああ、そうだね。最近バタバタしてたから」
「そうなんですか」
「そ。おばあちゃん亡くなったでしょ」
彼女の声は単調で、実際どんな感情を持って話しているのか読めない。何を言ったらいいかわからず、とりあえず話の進め方を彼女に委ねるために相槌をうつ。
「私おばあちゃんと一緒に住んでたから、その後のいろいろな作業とかで忙しかったの。だからバイトも長い間休むことになって。代わってくれてありがとね」
「いえいえ」
「今日も朝からその関係で、ね」
それで、昼からにしたのか。
「気づいたら亡くなっちゃうんだね」
彼女はそんな悲しい言葉を口にしながらも微笑んでいた。まるで亡くなった人にその笑顔を見せているかのように。その笑顔に苦しみを感じ取ることはできなかった。
「でも、長生きしたからね。九十歳」
「そうだったんですね」
「だから私はいいの。そんなに疲れてないし。逆に芳樹くんは? ちゃんと眠れてる?」
「僕、ですか?」
「うん」
「眠そうに見えますか?」
「見えない、かな」
「ですよね」
彼女がじんわりと笑みをにじませる。
「何時間くらい寝てるの、毎日」
「五時間半くらいですかね」
「みじかっ、全然寝てないじゃん! 倒れるよ」
「いや、僕は慣れてるので大丈夫です」
高校受験の時に睡眠時間を減らしてからその時間で習慣化されてしまっている。
「眠くないの?」
「夜は結構眠いですけど、朝は勝手に目が覚めるんで。綾さん何時間くらいなんですか?」
「六時間くらい」
「大して変わらないじゃないですか」
「そうなんだけどさ」
そんなことを話していると、目的地であるホテルに到着した。
「そうそう、ここ!」
彼女はエントランスを見て嬉しそうに声を上げる。
大きなホテルの宴会場でイベントが開かれているらしく、入ったところにイベント詳細の立て看板が建てられていた。柔らかな照明に包まれた空間にはどこかからオルゴールのような心地いい音楽が流れていて、なんだか居心地が悪い。こんな豪華なホテルに来るのは初めてだ。場違いではないのだろうか。
対照的に彼女は一度来たからか慣れているのか、ずんずん進んでいく。周りをきょろきょろ見ていたら笑われた。
案内に従ってエレベーターに乗り込むと、目の奥にきらきらとした光が飛び込んでくる。エレベーターの照明がシャンデリアなのだ。
「豪華すぎませんか?」
こんなお洒落なホテルで開催されているイベントだ。調べなかったけれど、もしかしてチケットも相当高いのではないだろうか。
「そうだよー。ほんっとに美味しいケーキばっかり」
彼女はむしろ雰囲気を楽しんでいる様子で、会話に期待が滲み出でいた。
厳かなチャイムの音が鳴り響き、会場の階へと辿り着く。
エレベーターから出ると、その階に一つだけある大きな扉が開け放たれていて、中の様子が目に入ってきた。
「おおぉ」
自然と声が漏れる。華やかな色に彩られた空間に、甘い香りが漂っていた。
匂いにつられて進んでいくと、入り口が綺麗な梅の花で装飾されている。
僕たちが通れるくらい大きなアーチに、鮮やかな赤と真っ白な梅の花びらが散らばっている。
「綺麗」
多分思ったことがそのまま口に出てしまったのだろう、彼女がため息のような声を漏らした。
その声が聞こえたのか、中にいたホテリエが彼女に笑顔を向ける。
華やかなアーチをくぐり、中へと足を踏み入れると、僕たちの様子を見て微笑んでいたホテリエの一人が迎え入れてくれた。
「ご来場ありがとうございます。ご予約のお客様ですか?」
「えっ……と」
予約?
「はい」
僕が一瞬固まると、横から彼女が返事をして、スマホ画面見せる。そして、二枚分のチケットを手渡すと、そのまま中へと案内される。
「綾さん予約してくれたんですか?」
全く知らなかった。確かに、こんなに豪華なイベントだったら予約もいるかもしれないけど。
「ああ、うん。そう、前行った時予約忘れてて、たまたまキャンセルがあったから入れたけど危なかったから」
「ありがとうございます」
「いいえー」
会場内に設置されたテーブルのほとんどが埋まっている。雰囲気がそう思わせるのか、それとも実際吸音の設備が備わっているのか、内部は静かなジャズの音が聞こえるだけで、客の騒がしさは全くなかった。バイト先の空間と全然違う。周りを見ると、一部大学生に見える人もいるけれど、客層も大抵が親世代以上で落ち着いている。やはり場違いな感じは拭えない。
案内された席に座ると、すぐさまメニューが手渡される。
「じゃあ私、キウイデトックスウォータで」
彼女は悩んだ末、お洒落なものを頼む。
「ええと、僕は……」
決まらない。そもそも何なのかわからない名前がずらりと並んでいるのだ。
一流のホテリエは客の様子を見て少しだけ対応を変えるのだろうか。それとも、綾さんのどんな人ともすぐに仲良くなれる力によるものだろうか。メニューを聞きに来てくれたホテリエはしばらくの間彼女との会話に花を咲かせ、僕がメニューをじっくりと見る時間を作ってくれた。
「えっと……ジンジャーエールで」
「かしこまりました」
すぐに運ばれてきたドリンクを受け取ると、彼女が席を立つ。
ビュッフェのような形式で、中にいるシェフに欲しいものを言うとそれが乗ったケーキ皿を提供してくれる。
「見て、美味しそう! 宝石みたい」
並べられている様々なケーキを見て彼女は表情を変化させていく。
僕も好きなケーキをいくつか選び、テーブルに戻る。
異様に渇く喉をジンジャーエールで潤す。炭酸の刺激と生姜の香りが鼻の奥まで入り込んできて、徐々に自分の体がこの空間に馴染んでいってくれるような気がした。
僕が取ったのは二つのケーキで、一つは真っ白なクリームとオレンジのジュレが何層にも重なった四角いケーキ。上には半月状に切られたオレンジが乗せられていた。もう一つは、レモンチーズケーキらしく、小さなタルトチーズケーキが、薄い黄色のスフレに包まれているものだった。
いろんな種類を食べられるようにするためか、一つ一つのケーキはバイト先で売っているケーキより一回りか二回り小さい。彼女も、並べられたケーキを見て「かわいい!」と愛でるような目で叫んでいた。
「美味しい?」
彼女が目を細めながら聞いてくる。
「美味しい……なんですか?」
と思ったら、じいっと僕の目を見つめている。
「いやぁ、ね。なんか、思ってたのと違うな、って思って」
彼女の言っていることがわからなかった。
「どういうことですか」
「一緒に来てくれると思わなかったから」
「そうですか?」
「うん、クラスとかじゃ、みんなとワイワイするタイプじゃないんでしょ?」
僕はそういう彼女に胡乱げな目を送る。
「……なんで知ってるんですか?」
「聞いたの」
「――え?」
「あかりちゃんにね」
「あかりちゃんって――」
「君と同じクラスの柏井あかりちゃん」
僕は頭を抱える。
ああ、あの時か。部活でジャムを作ったあの日、彼女が話している相手が、柏井あかりだっ
た。クラスメイトで唯一、同じ家庭科部に所属している女子だ。
「はぁ。すぐ仲良くなるんですね」
「まあ、それは得意だけど。けどそうじゃなくって、前に購買のところで芳樹くんと話したでしょ。その時、見てたらしくて。「知り合いですかー?」って訊かれて、その時に色々教えてくれたの」
彼女が申し訳なさそうな顔をする。
「でね、ごめん、バイト先教えちゃった」
柏井に、ということか。
僕はため息をつく。
バイトのことは出山しか知らないのだ。バイトをしていると知られてひやかしに来られても嫌だから他のクラスメイトには教えていなかった。
「自分のバイト先訊かれて答えてから、あっ、てなって」
「僕と同じバイトで知り合いだって先に言っていたと」
彼女がごめん、と笑う。
「そう。芳樹くんバイト先とか知られるの嫌だよね」
「そうですね」
彼女からストレートに聞かれ、本心を言う。「ごめん」
彼女が平謝りする。
「いや、いいですけど……」
「ほんとにごめん」
そんなに何度も頭を下げられると、むしろ恐れ多く感じてしまう。いや、正直そんなに怒ってない。それに言ってしまったものはどうしようもない。
「大丈夫です」
途端、彼女が馬鹿みたいに表情を和らげる。瞬間、なぜか不満はきれいに消えていた。
それに、彼女のことだ。バイトのことは別にせよ、柏井が話したことを自分が聞いたみたいに言っている可能性も否定できない。
「ありがとう。芳樹くんのこと全然知らないからさ、訊きたくて」
だからそれがどういう意味かなんて聞かなかった。
「そう……ですか」
「そうなんですよ」
彼女のそのおどけた様子は、何かを隠しているようにも見えた。が、彼女が席を立って新たなケーキを取りに行ったのでわからなかった。
僕も残りの一口を食べ、席を立つ。ケーキをもらって席に戻ると、彼女も席に座っていた。
彼女はキウイが丸ごと詰まったロールケーキと、二種類のキウイが敷き詰められたドーム状のケーキ、果実がごろごろと入ったゼリーのカップを三種類目の前に置いていた。
僕の驚いた目を見てだろう、何も言っていないのに彼女が応える。
「片っ端から食べたいから」
「流石に食べられないと思いますよ」
ケーキだけで二十種類以上はあったと思う。
「頑張る。私、朝抜いてきたから」
「ちゃんと味わえてますか」
さっきも僕が二個食べている間に四つも食べていた。
「もちろん味わってるよー。ケーキ食べられるの最後かもしれない! って気持ちで食べてるもん」
無防備な心を死角から金槌で叩かれたみたいだった。
正直、驚いた。けど、すぐに切り替える。チャンスかもしれない、彼女の考えを聞き出せる。
「えっと……例えですよね」
「何が?」
まさかそんな反応をされると思っていなかったらしい、彼女は困惑の表情を浮かべていた。
「最後と思いながらって」
「ああ、そういうこと。私はいつもそういうスタイルだよ、何事も本気で楽しまなきゃ」
「本気……ですか」
「うん。食事の一番の調味料は気持ち――心構えだよ!」
「誰が言ってたんですかそんなこと」
「わたしー」
ほほほ、と高らかに笑う彼女。
その笑顔の奥に潜む思考は、やっぱりわからなかった。ただ、彼女のおかげで少し空気が軽くなる。
「だってせっかく来たんだよ。お腹はち切れるまでは食べなきゃ。芳樹くんは違うの?」
さっきの彼女の笑い、何かをごまかしているように見えたけど、それは僕の深読みなのかもしれない。彼女は自ら話を続けてきた。
「僕は……そうですね。八分目くらいまでが一番美味しく食べられると思ってるので」
「まだまだ人生に余裕あるって?」
彼女はやけに明るい声を出す。取り留めのない笑い話をするときのような彼女声を聞いていると、質問の繋がりがおかしいのでは、という違和感を超えて自然と返事をしていた。
「いや、別にそういうわけではないですけど」
「まあ、食べ方なんて人それぞれだもんねー。私はもっと食べるー」
手に持ったフォークをそのままぐさりとケーキに突き刺し、口元へと運ぶ。大きな一口。
「あ、そういや芳樹くんはさ、柑橘系のケーキが好きって言ってたよね」
僕の前に並べられたケーキを見て綾さんが言う。
僕が新たにとって来たケーキは三つとも、レモンとかオレンジのケーキだった。
「はい」
「他に好きなケーキないの?」
「うーん、果物多く載ってるタルトとかも好きです」
「あれ、チョコとかモンブランじゃないんだ」
彼女が首を傾げてこちらを向く。
僕は、彼女の選択肢に疑問を持つ。
「何でその二つなんですか?」
「え? だってほら」
彼女は記憶を探るみたいに空中を指差した。
「『Ete Prune』でケーキ貰って帰る時、いつも取ってなかった? チョコケーキとモンブラン」
「……ああ」
いつも、母が好きなショートケーキと、父のチョコレートケーキ、それに栗が好きな姉のためにモンブラン、後、自分がそのときの気分で欲しいものを選んでいた。
「それ僕のじゃないんです」
「え、そうなの? まあ、確かにそんなに持って帰っても食べきれないか。それじゃ、家族の分?」
――家族の、分か。
なんと言えばいいだろうか。
「……そうですね」
困った末、会話の流れに乗ることにした。
「あ、そっか、芳樹くんお姉さんいるんだったよね」
「はい」
「仲良いの?」
高校に入ってから、誰にも言ったことがない。
でも、彼女の反応を見られるのでは、と思った。
「はい。姉がいました」
綾さんは、今のニュアンスに気がついたのだろう。彼女の周りの空気が軽く張り詰めるのがわかった。
「いました……って」
「はい、もう今はいないです」
彼女が息を呑む。
「あと、父も」
僕は、彼女の表情を注意深く観察していた。
正直、予想外だった。
彼女は、中学の時のクラスメイトや、教師、知らない生徒、そのどれでもない表情をした。
何かに怯えたような、そんな様子だった。切羽詰まった表情に圧倒され、そして、やっぱり彼女が何を考えているのか知りたくて僕は聞かれてもないのに勝手に言葉をつなげていた。
「姉は、中学の時のいじめが原因で自殺しました」
瞬間、彼女の眉がピクリと動く。僕はさらに続ける。
「父も、姉の後を追うように。会社で何かあったのかは知らないんですが――」
彼女の痛ましい表情に、ハッとする。
「すみません」
慌てて謝罪する。こんな顔をさせるために言ったんじゃない。
「綾さん――」
彼女の息が荒い気がして、僕は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
額には汗が浮かんでいる。彼女は口を押さえ、何度か咳き込む。
「ごめんね、ちょっとだけトイレ――」
音を立ずに立ち上がった彼女が、会場の外にあるトイレに向かう。その気丈な振る舞いをしている彼女の顔面の蒼白さが、大丈夫じゃないことを物語っていた。どうしたらいいか分からず、近くにいたホテリエさんに席を外すとだけ伝え、僕もトイレに向かう。
数分後。女子トイレから出て来た彼女の顔には、僕が心配しないようにか、無理に作ったような笑顔が貼りついていた。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。」
「こんなとこで出す話じゃなかったです、すいません」
僕は重ねて謝る。
「いやいや。聞いたのこっちだし。こちらこそ嫌なこと思い出させちゃったね」
「いえ、それは大丈夫です」
気を使わせないためなのかもしれないけど、いつもと変わらない彼女の表情を見て安心しながら、同時に僕は、彼女に死の意思があるのだと確信していた。
さっきの、自殺と聞いた時の彼女の表情は、単純な驚きとかではなく、実感を持ったそれだった。感覚的なものかもしれない。けど、その意思をはっきりと感じられた。死ぬ前の姉と彼女が重なった気がしたせいかもしれない。
彼女が僕に向かっていつものように笑いかける。
何かに立ち向かうような、そんな笑顔だった。
「満腹だー」
彼女がお腹をさすりながら満足そうに声をもらす。
あの後、彼女は元気を取り戻し、また様々なケーキを食べていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「そうですね」
受付してくれたホテリエさんがまだ入り口のところにいたのでお礼を言って出ようとすると、引き止められた。そして二枚のチラシを渡される。
今週末と来週末、このホテルが提供している梅まつりが県内で開催されているらしい。今もらったチラシにクーポンが付いていて、そのイベントに割引価格で参加できるというものらしい。
「ねえ」
彼女が振り返ってきた。
僕には、彼女がこれから言うであろうことが予想できた。
また僕を誘おうとしてくれているのだろう。
彼女は祖母の死を完全に受け入れているように見えた。じゃあ、何か。何か他に彼女を死に追い込む原因があるんだろうか。そうだろうな、と思う。僕だって人に言っていないことなんて山ほどある。言えないことの方が多い。当たり前だ。
それを知りたいなら――彼女から聞くしかない。
だから僕は彼女の質問に先回りして答える。
「行きましょう」
彼女は目を少し大きくした後、ゆったりと微笑む。
「来週末でいい?」
「大丈夫です」
「よかった。楽しみ」
終礼後、僕はクラスメイトと一緒に急いで家庭科室に向かっていた。部活の準備をする担当になっていたのだ。
ちょうど先週バレンタインだったということで、今日はチョコレートを使ったお菓子を作ることになっていた。
他の部員が来る前に家庭科室に行き、準備室にあるホワイトボードに書かれている通りに材料を揃える。
冷蔵庫からバターと生クリーム、卵を取り出す。あと――
「新川くん、この上にあるココアパウダー取ってくれない?」
身長の低い柏井は、棚の上まで手が届かない。
「ああ、ごめん気づかなかった」
僕は手を伸ばしてココアパウダーの袋を取る。彼女は少し顔を赤らめて「ありがとう」と笑う。
「全然」
そのための二人担当制だ。
「いいよ、棚から取るのは僕がやるから。柏井はチョコレートの枚数確認して出してくれる?」
そう言うと、彼女は頷いて、冷蔵庫から板チョコを取り出して枚数を数え始める。僕は棚の奥にあるチョコチップとホットケーキミックス、オレンジコンフィの袋を取り出した。
全ての材料が揃ったので、準備室から出てテーブルに分けて置いていく。食器類はみんなで準備するため、僕たちのこれで終わりだ。
準備を終え、正面から見て右側の席に座る。
彼女は僕の正面に座ってきた。
他の部員が来るまでにはまだ時間がある。僕はこの時間が得意じゃなかった。クラスメイトと二人だけで同じ教室にいて、何を話せばいいのかわからない。
だから、柏井が話題を振ってくれるのはありがたかった。柏井も、大概コミュニケーション能力が高い。
「うちの部活バレンタインとかイベントの時豪華になるよね」
彼女の言葉通り、イベントごとに何かしら手の凝ったスイーツを作る。今日はグループで一つのチョコレートケーキと、各自クッキーかオランジェットのどちらか好きな方を作ることになっている。
「そうだよね」
「あ、でも新川くんバイトでもっとすごいケーキ作ってるかー、綾先輩と同じところなんだよね」
綾さんが謝っていたことを思い出す。
「いや、バイト先のケーキは店長が作ってるから」
「そうなんだ」
「そう」
「そっかぁ……。ね、今度バイト先行っていい?」
彼女が目を爛々と輝かせながら訊いてくる。
「……まあ、いいよ」
その訊き方をされて断ることはできない。
「ほんと!」
「今度ね」
「うん、ありがとう! よかったぁ」
しばらく話していると、他の部員がちらほらと現れる。挨拶を交わしていると、綾さんが入ってくるのが見えた。
彼女は笑顔を作り、みんなに話しかけながら近づいてきた。今日は僕たちのグループに入るらしい。今日はこの三人だ。
ふと柏井に目をやると、彼女が少しだけ困ったような表情をしていた。
「二人ともお疲れー、ありがとう」
綾さんは僕たちが準備の担当になっていたことを知っていたのか、彼女が笑いながらそう言ってくれる。
ちらりと前を見ると、柏井の表情はもう元に戻っている。
先輩相手だと気を使わなければならないからだろうか、と思ったけど、少人数で活動している家庭科部では先輩と一緒のグループになることの方が多い。気のせいだろうか。
僕は隣に座ってきた綾さんに聞きそびれていたことを訊く。
「バイト減らしたんですか?」
今まで幽霊部員だった理由は、バイト優先だから、と言っていたはずだ。
「うん、部活は出たいなと思って樺さんにシフト減らしてもらえるように頼んだの」
「お菓子作りしたいって言ってましたもんね」
「そうそう、料理は家でしてるからいいんだけど、お菓子はね。家で作れないこともないけど器具とか持ってないし、せっかく所属してるんだから参加したいなって」
急にそんなことになった理由の方が問題だけど、訊いても仕方ないとわかっていたから訊かなかった。
開始時間になると、みんな少し急ぎ気味でお菓子作りを始める。作るものがいつもより多いので早めにしないといけないのだ。
「芳樹くん、なにそれ上手!」
メレンゲを作っている時、綾さんが大きな声を上げる。自宅でホットケーキを作る時は、フワフワにするために卵白を泡立てる。隔週でやっているので慣れていた。
「私にもやらせて」
僕が彼女にボウルを渡し説明すると、彼女が動かしにくそうに手を回す。
結局、一人では疲れるのでみんなで順番に回してメレンゲを作ることになった。順番に泡立てている間、僕は他の作業を同時進行で進めていた。単純に時間がないのもあるけど、個人的に、部活が長引くことは避けたかった。
「おお、なんか手慣れてるね」
そんな僕の行動を見て、綾さんが感心した声を上げる。
「そんなことないですよ」
一瞬ヒヤリとする。自分のために急いでいると気づかれるのは良くくない。
「なんかいつもやってる感あるよ」
「さすがカフェ店員だね」
柏井が隣からそんなことを呟く。
「いや、関係ないよ、私できないし。芳樹くんがすごいだけ」
綾さんが柏井のその言葉に、手をひらひらさせながら笑う。僕はそんな二人の話を聞きながら、ひたすらチョコレートを溶かしていた。
無事にケーキの準備を終える。型に流してオーブンに入れれば、あとは各自で好きなものを作る時間だ。
「私オレンジの代わりに栗入れようかな」
準備していたら、彼女が僕だけに聞こえる声でそんなことを言う。
「合うんですか栗とチョコって」
「合うでしょ、甘栗なんだから」
「どういう理論ですか」
「何の話ですか?」
僕が笑っていたら、柏井が人の良さそうな顔で話に入ってくる。
「何で甘いものに酸味を混ぜるのかなって」
彼女は準備されたオレンジを指差す。
「けどクッキーじゃなくてそっち選んでるじゃないですか」
「美味しいから不思議なの」
その彼女の言葉に柏井も笑顔を作る。
「吉水先輩面白いね。ね、新川くん」
ただ面白いの一言で片付けていいのかわからなかったから、僕は微笑むだけにとどめておいた。
調理と試食を終えると、片付けの時間になる。
ここ何回かの部活でわかったことだけど、綾さんは率先して片付けをする。
多分、そういうところも、周りの部員の中にスッと溶け込める理由の一つなんだろう。僕たちも、彼女につられて掃除や使った器具の洗い物を始めた。
帰り、駐輪場に行くと、柏井も自転車を取るところだったらしい、自転車のまえでしゃがみこみ、鍵をいじっていた。
駐輪場に設置されたライトが壊れていて、辺りが暗い。だから僕はいつもするようにスマホのライトをつける。とりあえず、彼女がてこずってそうなので、彼女の手元に。
「ありがとう」
彼女のお礼に相槌で返し、今度は自分の自転車にライトを向け、鍵を外す。
荷物を自転車のカゴに詰め、ケーキが傾かないように調整していたら、彼女はまだ自転車に乗らずその場に立っていた。
「新川くん!」
突然、彼女が力を込めた声で僕の名前を呼ぶ。
「うん?」
彼女は持っていたクッキーを目の前に差し出してきた。
「……これ、あげる。バレンタイン、ちょっと遅めだけど」
僕はオランジェットを作っていたので、クッキーをもらえるのはありがたかった。そんなことを思っている僕はまだ、何もわかっていなかった。
「え、いいの?」
「うん」
「ありがとう」
「じゃ、また」
彼女はそう言うと、すぐに自転車にまたがって校門のほうに走り去って行った。
「悪いな、土曜日なのに来てもらって」
樺さんが、キッチンで慌ただしく作業しながら入ってきた僕を迎えてくれる。
普段土曜日は『Ete Prune』は開店していない。でも、今週は金曜日が臨時の休業日だったので、その代わりに土曜日に店を開けていた。
僕たちはその手伝いで出勤していた。
「なんか人多いですね」
扉から見えるテーブルは全て埋まっている。
これだけの人が来るのであれば毎週土曜日も開ければいのに、とはバイトの仕事が増えるので思わなかった。
「そうなんだよ――ちょっと今手離せないから注文行ってきてくれるか」
戦場のように慌ただしく調理をし続ける体格の良い店長が、すがるような目を僕に送ってくる。
「わかりました」
綾さんは一足早くバイトに入ったらしく、すでにレジでお客さんの対応に忙しそうだった。彼女に会釈をして、注文を待っている他のお客さんにオーダーを聞きにいく。
しばらく動きっぱなしの仕事が続き、それでも客足は途絶えなかった。
ちょうどオーダーをとり終えてキッチンに戻ると、鈍い衝撃音と、樺さんの低い呻き声が聞こえた。
彼は、右手をおさえている。
「樺さん!」
駆け寄る。
「大丈夫ですか」
足元にちょうど焦げ目をつけていたフレンチトーストが二枚落ちている。フライパンを落としかけて、鉄板の部分を掴んでしまったらしい。いつもだったらそんなミスありえないのに、この忙しさのせいだ。
「ああ、すまん。大丈夫だ」
彼はしかめっ面のまま僕を制する。
そして、火傷をしていない方の手で落としたトーストをつかみゴミ袋へと押し込む。
その荒々しさが火傷の痛みの表れのように感じられ、僕はとっさに調理を再開しようとした樺さんに言う。
「僕、作りますよ。樺さんは手、冷やしててください」
彼は僕の発言に、驚きと心配両方を混ぜたような顔をする。
「作れる……のか?」
一年程前、母が亡くなった姉と父のために初めてケーキを作ろうとして手に火傷をしたときのことを思い出していた。
あの時も、大変だった。あれ以来、僕は母が料理をする時いつも心配になる。
「大丈夫です。フレンチトーストなら」
家でも作っている。家族が二人になってから何回も。
彼は少しの間逡巡し、僕の目を見た。
「じゃあ任せていいか。作り方は説明する」
「お願いします」
コンロ前から離脱した彼は、蛇口をひねり手を冷やし始める。
僕たちのやりとりを聞いていたのだろう、レジ作業をしていた綾さんが顔を出し「オーダーはこっちでやるので気にしないでください」と気の利いた言葉をくれる。
いつもと少しだけやり方が違い、電子レンジは使わなかったけど、大方スムーズに作れた。樺さんに味を確認してもらって、そのまま僕が客のところまで運んでいく。
「お待たせして申し訳ございません」
頼んでくれたのは、佐々木さんだったらしい。僕が行くと彼女はわかりやすく表情を明るくしてくれる。
「そんなに待ってないわよ、ありがとうねえ。美味しそうだわ」
「ありがとうございます」
頭を下げながら、少し不安があった。言われた通りに作ったし、ちゃんと味見もしてもらっていたはずなのに、目の前で食べられるとなるとやけに心配になった。切り分けたトーストを口に放り込み、表情を柔らかくしながら咀嚼している佐々木さんの姿を見て、安堵のため息が漏れる。
そして、僕は彼女に小声でお礼を言う。貰ったチケットのことだ。
言うと、彼女も口に手を当て、小声で答えてくれた。
「いいのよ」
「美味しかったです」
「よかったわぁ。ふうん……あなたが一緒に行ったのね」
佐々木さんは何か含みのある笑みを作り、僕の腰をたたいた。
「やるわね」
その笑顔にから逃げるように、僕は再度頭を下げて仕事に戻った。
「すまん、お疲れ」
樺さんが、営業後のキッチンで疲れ切って伸びている僕と綾さんにねぎらいの言葉ととケーキを渡してくれる。
あの後、十分ほど流水で冷やして、それ以降はまた樺さんに任せることになった。
「いや、ほんと助かった。ありがとうな二人とも。火傷なんて数年ぶりで驚いた。というか、芳樹料理できたのか。知らなかったわ」
「そうですよ、芳樹くん料理できる系男子ですよ」
「ああ、部活も家庭科部って言ってたなそういや。にしても相当慣れてるだろ」
「ですよね、手際いいですよね!」
僕は何も言えないまま、樺さんと綾さん二人の会話が展開されていく。
「いや……」
「面接の時部活は聞いたけど、ちゃんと料理できますって言ってくれていたらキッチンも任せたのになあ」
「無理ですよ流石に」
話を切りたくて、僕は気になっていたことを訊いてみる。
「それより、たまに土曜日でも営業ってするんですか?」
「ああ、それなぁ。言ってなかったんだけど、昨日命日だったんだ、俺の奥さんの」
店長が、テンションを変えることなく言う。
「あ、嘘。奥さんになる予定だった人の、だな。」
彼は少し笑みを漏らし「嘘ついたら怒られるんだよ」と舌を出す。滑稽に見えるその表情から、生前の彼女に尻に敷かれている様子が見えた気がした。
「で、この店二人の夢だったんだよ。結婚したら始めようって言って資金集めて。大方準備が整って結婚するって時だった。バイクの事故でよ。十五年前だ。十五年前の昨日、居眠り運転してたトラックと正面衝突して亡くなっちまった」
続けて「まあ、これに関してはもうどうしようもない」と淡々と言葉を付け加える。その言い方には、トラックの運転者に怒りが沸かないように自分を制御する、そんな意思が含まれているように見えた。
「この店の雰囲気、俺の趣味とは全然違うだろ。俺と違ってセンスいいからさ、あいつ。あいつの言った通りに内装とか揃えたんだけど、評判良くてな。みんなに褒めてもらって、今でもちゃんと成り立って生活できてる。あいつのおかげだ。だから、平日だとしても毎年あいつの命日だけは絶対に休むようにしてるんだ。ただ、その週だけ一日営業日少なくしたらあいつにめちゃくちゃ怒られそうで命日が平日の年は土曜日も営業してるんだ」
樺さんはずっと「あいつ」と言ったけど、優しさを全身から滲ませていた。
微笑ましそうに彼女の話をし続ける樺さんを見て、僕は、ずっと黙っていた。
多分樺さんのその考えが羨ましかったんだと思う。なんか良いなと、そう思っていた。
亡くなった人への一番の恩返しは、追悼し続けるんじゃなくて、こうやってその人の死を受けてなお幸せそうに、たまに思い出しながらも、以降の日々を楽しんで生きていくことなんだろうな、と。
それが一番理想の形なんだと感じ、そうなり切れてない自分の家の状況を自覚した。
「本当に好きだったんですね」
自然と声が出ると、樺さんは確信を持った表情で頷く。
「ああ。けど、ちょっと違うな」
その空気の質感は、ずっと大切にしたい人を思っているんだと僕に感じさせるには十分で。
「好きだったんじゃなくて、今もずっと好きなんだ――この店の名前あるだろ」
「ええっと。『Ete Prune』ですか?」
「ああ、そうだ。それ、あいつの名前なんだよ。夏梅。夏と梅。それぞれフランス語にしたんだ。あいつに反対されてたけどそれだは譲らなかった。俺の一番大切な店の名前だよ」
綾さんが控え室に戻った後、樺さんが僕を呼び止めた。
「な、芳樹、大丈夫か?」
樺さんの質問の意図はわからない。
大丈夫って、何が? 僕が人の死をを知ってしまうことが?
そんな訳ない。
「……」
樺さんは優しい目を僕に向ける。それは、バイトから帰る時に「気を付けろよ」と言ってくれる時の表情にそっくりで。
中学の時、担任の先生に職員室に呼び出された時のことを思い出す。もし、もっと早く樺さんに会えていたら。
改めて気付く。
やはり僕たちは、何か重大なことを話すときにはお互いに同じような立場に立って話そうとするのだろう。
その人の大きな秘密を知った後だと、ハードルが下がったような感覚になって、自分の奥にしまっていることをその人に話しやすくなる感覚。
こんなこと、あった気がする。ああ、そうか。
中学の時の委員長の気遣いを、今さらのように正しく理解する。
だとしても、もう終わったことだ。
すでに自分の中で割り切ってしまっているのだから掘り返して話すことではない。だからしっかりと首を振った後、そんな表情を向けてくれる店長ならば綾さんのことも、なにかしら心配しているのではないかと思い、質問を返した。
「綾さん、バイト減らしたんですよね?」
「……ああ、そうだな」
「部活に急に顔出し始めたんですけど、何かあった……っていうか、綾さん大丈夫ですかね?」
樺さんが僕のために使ってくれた「大丈夫?」を転用する。
訊くと、彼はなにかしら感じているものがあるのだろう、話すか話すまいか決めあぐねたような間を取ってから、優しそうに微笑んだ。
「最近仲良いだろ、できれば本人に直接聞いてやってくれ」
「わかりました」
「綾もお前も、今日は手伝ってもらってありがたいけど、週末くらいは思う存分遊んどけよ。怪我しない程度に」
「言っておきます」
結局綾さんと一緒に駅まで歩いている途中。僕は自転車を押していて、カゴに自分と彼女の鞄を入れていた。
「樺さん、幸せそうだったね」
彼女が店長の話の余韻が抜けきらない様子で呟く。
「ああいう風に、楽しそうに亡くなった人のこと話せるの良いよね」
さっき僕が思ったのと同じことを話す彼女。
「思いました」
今小さな声で「すごいなあ」と彼女が呟いた気がする。
「え?」
「いや、何も」
何もないならその返答はおかしい。彼女は何を思ったのだろう。けど、訊くより先に彼女に先を越される。
「ね、芳樹くんなんか本持ってたよね?」
「あ、はい」
もしかして前喫茶店で彼女を待っていたときに見られたんだろうか。
「あれってなんの本?」
彼女に見せていいのかどうかわからなかったけど、わからないのだから、仕方ない。どうせ、僕の思惑はわからないだろうし、素直に見せることにした。
カゴに入れた鞄を開け、彼女に本を渡す。
「ああ、やっぱり。これ、私も持ってるよ」
そう言われたときに思い出す。何か見覚えがあったのは、最近見ていたからだったのか。
前、バイト帰りに彼女の鞄の中から覗いていた本。多分同じ本だった。
彼女はしばらく表紙を眺めた後、不意に、
「何か悩みごとあったりしたらお姉さん聞くよ?」
なんておどけた調子で言う。
ああ、そうか。
彼女がこの本を持っている理由というのが、彼女自身が死を考えるほどの悩みを抱えているからで、なるほどだから、僕もそうであると綾さんは思ったわけだ。
それで心配して。先週末話したことを気にしているのかもしれない。まさか僕が死ぬかもしれないなんて心配してたりするんだろうか。いや、そんなわけない、僕じゃないんだから。
わかる。
彼女自身は死のうとしていても、そんなことは別としてただ単純に悩みがあるなら相談に乗ろうと思ってくれただけ。綾さんはそういう人だ。さすがにこれだけ関わっていればもうわかる。
それを理解した上で僕は、やっぱりそんな彼女のことを、知りたいと思った。
梅まつりは家から電車で四十五分、そしてそこからホテルが手配してくれた送迎バスで十五分ほどかかる場所で開催されていた。
バスの中で横に座る彼女から声が聞こえてくることを覚悟していたけれど、バスには空席が結構あって、一番後ろの五席が貸し切り状態だったおかげで一つ開けて座ることができた。彼女が間の座席にトランプを置いてゲームをしようと言ってきたので、快く頷いた。
チラシについていたチケットのおかげで送迎バスと入場料の半分が割引される。
到着後、バスを降りて歩いていくと、大きな看板が僕たちの来場を迎えてくれた。通った途端、目に梅の鮮やかな赤色が映り込んできて思わず足を止めてしまう。
奥に向かう坂に沿うように、道の両側に梅の木が立ち並んでいる。
僕と彼女も含め、同じバスで来た人がみんな驚嘆の声を上げる。
奥へと進むにつれどんどん梅の木が増えていく。
参加者には特典として梅のジュースがついてくるので、道なりに設置されてあるテントで受け取り、それを飲みながら進んでいく。
上の方に向かってとぐろを巻くような形で坂が進んでいくから、進むごとに違った景色が視界に入ってくる。
少し前を歩く彼女が立ち止まり、大きく息を吸う。
「良い匂いですね」
「ね」
ここに来て分かったことは、梅の花の一番の特徴は香りなんじゃないかということだ。
ふわっと風が吹くたび、心地いい香りに包み込まれるような感覚になる。何か、安心感のある、それでいて爽やかな空気。
周りの人も、風に乗って運ばれてくる儚げな香りを味わうようにゆっくりと歩いていた。
先週のイベントでもらったチケットを使って来場している人が多いのか、参加者の多くは僕たちより上の世代がほとんどだ。だから、自然と僕たちが集団の先頭を歩くことになる。
綾さんと並んで傾斜のきつい坂を登っていく。
しばらく歩いて行くと、視界が急に開け、瞬間強い風が頬に当たる。
一番上の広場に着いたらしい。広場の外周を囲うようにたくさんのベンチが並んでいて、数人が座って休憩していた。
彼女について風を感じようと広場の端まで歩いて行く。
息を呑む。雲ひとつない青空と、その手前に見える山、そして自分の足元から一面に梅の花の絨毯が広がっている。
色の対比に圧倒され、周りを包む優しい景色に、一瞬にして春が訪れたみたいだった。
風が吹くとその絨毯がふわりと漣のように揺れ動く。
二人の口からため息が同時に漏れる。
「きもちいいー」
彼女は、手を広げて斜面から吹き上がってくる風を気持ちよさそうに受ける。何か答えようと思い、僕は――
言葉を出すことができなかった。
目を奪われていた。
色素の薄い彼女の瞳と、微笑みを表す顔の動き。
風を感じている彼女とその奥に広がる景色。今このシーンを切り取ったら映画のワンシーンにな理想だな、と、そんな柄でもないことを思った。
出山の言葉が頭の中で聞こえる気がした。
ふっと彼女の表情の色が戻り、振り向く。
「なに?」
「なんでもないです」咄嗟にそう笑うと、
「ね、あそこ何か売ってるよ」
と特に気にした様子も見せず彼女が奥にある小屋を指差す。
「行ってみよ」
彼女の後をついていく。入ると、小さなカフェとお土産屋がくっついたような店になっていた。
店の中が半分ずつカフェとお土産屋さんに分かれていて、カフェ側に設置されたいくつかのイス全てが先客でうまっている。休日ということもあるのだろうけど、予想以上に賑わっているらしい。
逆側には様々なものが売っていた。
梅のジャムから、いろんな種類のお菓子まで。コンビニでも買えそうな文房具なんかも置いてあった。
「ほら見て、可愛い」
僕の認識としてこういうところでその場所でしか買えないお土産は少ないというイメージがあったが、意外にも豊富なお土産揃えられていた。
梅の花をデザインにしたキーホルダーとか、アクセサリーとか。
「すごいね、いっぱいある。ちょっと見てくるね――あ、これ渡しとく」
彼女は僕にホテルでもらったチラシを渡した後、ひとつずつ何かを探しているみたいに眺め始めた。
並べられた商品を、ざっと見ていく。
と、一つの商品が目につく。薄い板が梅の花の形に切り取られたしおりだ。
手に取る。買った本に挟めるしおりをちょうど探していたのだ。
「あ! それ」
彼女が僕の手に持ったしおりに反応する。
「裏見せて、ホテルのロゴ入ってるやつだよね」
言われてしおりを裏返すと、確かに小さくホテルの紋様が焼き付けられている。
その模様が似合っている。
それを見た瞬間、買うことに決める。
「前一回同じイベント行ったって言ってたでしょ」
「ああ」
確か、秋に。
「その時は紅葉狩りの割引券ついててさ。で、友達と一緒にそれのもみじバージョン買ったの。ホテル監修の商品って大体ロゴがでっかく載ってたりするからあまり好きじゃないんだけど、このくらいの大きさだったらむしろ可愛いよね」
彼女は僕の思っていたことを代弁してくれる。
彼女からの称賛も受け、購入することを決める。
「これ買ってきますね」
「はーい」
カフェのレジとお土産を買うところが同じだから、レジ前には客の列ができてしまっている。僕は最後尾に回り込む。急に割り込まれてぶつかられると困る僕は、前の人と少しだけ距離を離して立つ。
数分待った後、やっと僕の番が来る。
商品をカウンターに置くと、店員のお姉さんが営業スマイルを崩さないまま顔を上げて質問してくる。
「ホテルのチラシお持ちではないですか? もし持っていらしたら、店内の商品全て一割引きになるんですが」
そんなことまでしてくれるのか。ああ、それで。
言われた通りに綾さんから預かっていたチラシを彼女に渡すと、五十円引きになった。
購入を終え、綾さんの姿を探そうと思い振り返ると、彼女は僕を待っていたらしく、すぐ声をかけてきた。
「やっぱり私もこれ買う」
手には、僕が今購入したのと同じ栞。
「あれ……」
「……前のは引越しの時に無くしちゃって。最近はずっと本屋で無料でもらえる紙の栞使ってたんだけど、ちゃんとしたやつのほうが読書の時の気分上がるし」
そういうことか。それに、その感覚はなんとなくわかる。あとは、ちゃんとしたブックカバーを被せたり。
「ちょっと待ってて」
それだけ言い残し彼女は列の最後尾に並ぶ。
彼女が並んでいる間、別に他に見たいものもないので、僕は人の動きがなるべく少ない入り口付近で待つことにした。
しばらく見ていると、彼女の番が回ってくる。彼女が持っていた商品を渡して、チラシを手渡し、その後何か店員のお姉さんに話しかけているのが見て取れた。そして、対応していたお姉さんの表情にさっき僕に見せた営業スマイルとは別の自然な笑顔が浮かぶ。
店員さんが笑いながらレジの上に書かれてあるメニュー表を指差す。何か買うのだろうか。
少し待って奥から出てきた店員からカップを受け取る。
スリーブをつけた紙カップを抱えてこちらに歩いてくる綾さんは、相変わらず顔に笑みをたたえていた。
彼女が死ぬ意思を持っていると確信したことで、彼女の行動がなにに基づいているのかがこれまで以上にわからなくなっている。
だからこそ。
目的を再確認する。
彼女から何かを聞き出さなければならない。
最初からそのつもりだ。ただ、なにを切り出せばいいのか全くわからない。
誰かみたいに思ったことをまっすぐ言えればいいのに、と思う。こんな時に人と深く関わってこなかった自分の弱点を思い知らされる。
だからその後、彼女がその笑顔のまま会話を踏み込んだ内容に持っていってくれたことは、少々の驚きと同時に良い機会だと思った。
歩いてきた彼女は両手に持っていたカップのうち一つを僕に見せる。
「あげるね。レモネード飲める?」
もちろんレモネードは好きだ。ただ、前から綾さんからは貰いっぱなしなので、申し訳なかった。
「悪いですって」
言って財布が入った鞄の中に手を入れる。
「いいよこのくらい。あ、じゃあさ――」
彼女はもともと用意していた言葉のようにさらっと言う。
「君のこと教えてよ」
そして、柔らかい笑顔のまま僕のことを見据えた。
「前も言ってくれましたけど、なんでそんなこと―ー」
言いかけて止まる。想像してみても、死を考えている人がどうして他人のことに興味を持つのかわからなかった。それとも、僕が周りの人と不必要に関わらないように過ごしてきたからわからないだけで、彼女のような性格であればそんな風に思うのだろうか。
――いや。
僕は、このタイミングで彼女に乗ろうと思った。
心の中を出せば、彼女の心のハードルも下がるかもしれない。中学の時に話しかけてくれた委員長と樺さんから学んだことだ。
「わかりました。その代わり、綾さんのことも教えてくださいね」
彼女に乗っただけなんだから、別に変じゃないだろう。
彼女は表情に少し驚きをにじませた。そして悪だくみの顔で手に持った紙カップを揺らす。中の液体がたぷんと音を鳴らすのが聞こえた。
「あれ、釣り合わないよ。このジュース分お釣り出ちゃう」
「だから払いますって」
彼女が自然な笑い声をあげる。
「うそうそ。いいよ、飲んで。店員さんが一番美味しいって教えてくれたの。蜂蜜梅レモネード」
「ありがとうございます」
綾さんに続いて僕たちは店の外に出て、並んだベンチに座って休憩することにした。ベンチの脇にも木が植わっていて、陽の光が梅の花に遮られ、肌寒い。
「相変わらず、すぐ人と仲良くなりますね」
「うん、そうしようって決めてるからね」
「そう決めて、その通りになってるのがすごいんですけど……」
「ちゃんとできてるなら良かった」
彼女が本気で安心したようにそう言うのが、僕には意外に思えた。同時に、その言い方に引っかかる。ちゃんと「できてるなら」良かったって。なんか、母を前にしたときの僕みたいだ。
「もしかしたら、私ってすごく話しかけやすいのかも」
そんなことを考えていたから、彼女のおどけたその言葉に微妙な相槌しか打てなかった。
「そうなのかもしれないですよね」
「いや、真面目に返さないでよ恥ずかしい。せっかく冗談言ったのに。ってか、喋りにくくない? 芳樹くん」
「――え?」
何が?
「ほら、そうなのかもしれないですよね、って。違和感。いいよ、そんなに気にしなくて」
彼女はなぜか早口でまくしたてる。
「そんなことないですよ。年上に敬語抜くの得意じゃないので」
「お姉さんと話すときはどうしてた?」
「それは普通ですよ流石に」
「何歳差?」
「一つ上です」
綾さんと一緒です、という言い方はしなかった。
「私も普通でいいよ」
「ありがとうございます、けど、普通がこれです」
「そっかー」
言う割に彼女はあっさりと引き下がる。
「ね、じゃあさ、なんで一緒についてきてくれるの?」
「それ前にも聞かれた気しますけど」
「前よりすんなり来てくれたじゃない」
「それは……」
言葉に詰まる。死のうとしているのがわかってるから、なんて言えない。だから僕は、前言ってた柏井のことの訂正をすることにした。
「前言ってた話ですけど、僕別に誰かと楽しむのは嫌いじゃないですよ」
「うん」
「そりゃみんなとワイワイするのが大好きって感じではないですけど、それでも普通に遊びますし……ただ」
「ただ?」
門限と、自分の気持ちも両方姉の死につながっている。僕は余計なことを考えないために、彼女の相槌にかぶせるように言った。
「僕基本的に夜七時には家に帰ってないといけないってだけで」
「えっと、それは……」
彼女が会話を掘り下げていいのかどうか迷う雰囲気で僕の目を窺う。
空気が重くなるのは僕も嫌なので、軽い口調を意識した。
これを誰かに言うのは初めてだと思う。いつも、クラスメイトには母の体調が悪いから、で通していた。
「母が、すごく心配するんです。部活もバイトも終わるの六時半だから、普通に帰ったら七時には家に着くんですけど、帰るの七時過ぎちゃったら酷くて」
「でも、前一緒にご飯食べに行った時……」
「はい」
「バイトの後だったから家帰るのもっと遅くなったよね」
彼女は少し心配そうに言う。
「あの日は先に言っておいたので大丈夫ですよ」
まあ、ちゃんと上手くしなければいけないけど。
「そっか」
「はい」
「もしかして、それって……」
「姉が亡くなったからですね」
多分彼女も僕に合わせてくれているのだろう。さほど大きな反応をすることなく淡々と頷きを返してくれる。
「姉が亡くなるまでは門限とか一切なくて、連絡も母から来たらそれに返すだけ、みたいな感じだったんですよ。けど、姉が飛び降りた夜は母が送った連絡に何も返事がなくて。で、そのまま死んじゃったので」
僕は努めて明るく言う。
「それがあってから、僕の帰宅時間が遅くなることにすごい敏感になって。前部活で遅くなった時とか、電話鳴りっぱなしでしたよ」
「そっか、それで」
彼女の頷きを見て、言い切ったはずなのに言葉が溢れた。
「あとたぶん、もう一つ大きいのは僕から誘うことがないからだと思います」
「それはどうして?」
「まだ同級生に対して苦手意識が完全には拭えなくて」
中学の時と比べたら随分とおさまっているけど、その意識は高校に入学してからもまだ心のどこかに残っていた。
彼女の相槌に合わせ、僕はその感情に至った経緯を説明する。普段なら絶対に言わないことを、呆れられると分かっているから心の奥の部屋に仕舞い込んでいることを何の躊躇いもなく話してしまっていた。
彼女が、真剣でいて、僕の負担にならないように考えて頷きや相槌を使ってくれているからだろうか。
事実、綾さんはその間、おおよそそんなことを聞いたら大抵の人がすると予想されるような表情をしなかった。つまり、そんなことを言う僕に対して、不快な顔や、幻滅した様子を見せなかった。
「――ずっと苦手なんです」
だから言い方なんて選ぶことなく、そして自分の中にある考えを隠すことなく、安心して全てを彼女にさらけ出した。
「そっか」
彼女は僕の話を受け止めたように、ゆっくりと呟く。
僕がして欲しくない反応がわかっているのかもしれないと、そう思った。
どうして、わかるのだろう、と。
いつも、どうしてそんな風に相手の気持ちをうまく推し量ることができるんだろう、と。
だから全てを話し終えた後、僕はそれを彼女に訊いてみることにした。
彼女は僕の質問に、少しだけ困ったような顔をしてから口を開く。
「私もね、大切な人が死んだの」
そのニュアンスで、おばあちゃんのことを言っているのではないんだとすぐに理解する。
「私ね、昔学校でいじめられてたの。ずっと一人ぼっちで、周りの人がみんな怖くて。そんな時にね、ずっとそばに居てくれた子がいたの」
中学生の頃、私はいつも図書室で勉強していた。
両親は私が幼い頃に亡くなっていたから、おばあちゃんの家に住んでいて、自分で言うのもなんだけど真面目だった。しっかりしなければ、と、そう思っていた。
毎日、学校にも通っていた。
ただ、私は周りの人と仲良くなるのは壊滅的に苦手だった。小学校の時はそれで担任の先生に心配されることも多かったけれど、中学に入ってからは違った。
ちゃんと勉強していたら文句を言われることはないし、友達なんていなくていいと思っていた。
テスト期間だったと思う。私が放課後、図書室で勉強していると、
「ねえ、綾ちゃん」
いきなり女子生徒が話しかけてきた。
話したこともないクラスメイトに下の名前で呼ばれたことに私は目を白黒させる。
「あはは、驚きすぎ」
彼女は何が面白いのか笑っていた。
「…………」
「えっと、わかる? 私のこと」
私の反応の鈍さに気づいたのだろう、話しかけてきた彼女は心配そうに自分の顔を指差した。
「う、うん……わかるよ」
クラスメイトとの関わりは全くと言っていいほどなかったけれど、クラスメイト全員の顔と名前は頭に入っていた。
「最上……葉月さん」
彼女はまた笑う。
「何それ、先生の点呼みたい」
その言葉で入学式の後のホームルームで担任の先生がみんなの名前を呼ぶのにてこずっていたのを思い出す。みんな笑っていた。
「ふふ――」
その笑みが自分の口から漏れたものだと気づき、思わず口を押さえる。
私はその笑いに驚きを隠せなかった。
学校でこんなふうに自分が笑うのを初めて見た気がする。
そんな風に外から自分を観察するくらい、私にとっては驚くべきことだった。
一方で、今の笑いは変ではなかっただろうかとそんなことを考えてしまう自分もいた。
「何、その驚いた顔」
「いや……」
「綾ちゃん面白いねぇ」
彼女はなぜか楽しそうに私のことを見ている。
「……そ、そんなこと、ないよ」
私は恥ずかしくなり首を振る。
「えぇ――」
「こら! 静かにしなさい!」
彼女の返答は司書室から届いた怒鳴り声に遮られる。図書室では大きな声で話すのを禁止されていた。
私たちは同時に顔を見合わせる。
他の生徒の視線が私たちの方に集まっているに気づき、背中に冷たい汗が流れる。
「すみません!」
彼女が控えめに謝り、
「ちょっと外出よう」
そう言う彼女に促されるように一旦図書室の外へと出る。
「怒られたねー」
外に出てすぐにけたけたと笑い始めた彼女の表情を見て、思わず声を出していた。
「最上さんが笑うからだよ」
普段人に言い返すことのない私がそうやって言い返していることに気がつき、さらに驚く。
けど、彼女の微笑みによって会話のハードルが下がったのか、その後も私は普通に彼女と話していた。
「ごめんって」
謝っているのに全然申し訳なさそうに見えない彼女が話しかけてきた理由は、宿題でわからない問題があったかららしい。
「綾ちゃんならわかるかなって思って」
「どうして?」
思わず訊く。
「綾ちゃんが授業で当てられて間違ってるの見たことないもん」
私は返事をすることができなかった。
見てて、くれたんだ。
「これなんだけど、わかる?」
何も含みのない様子でそう続けたあとに彼女が見せてきたそのプリントは先週出た宿題で、私は既に解いていた問題だった。
教えると彼女は目をキラキラさせてお礼を言う。
「すごい! やっぱりすごいね、綾ちゃん」
嬉しかった。
成績の良さで褒められることはあったけれど、彼女のその言葉はもっと純粋でまっすぐなものに感じられて、ただ自分のためにこなして来た――友達付き合いをしないことの言い訳のためとして使っていた勉強がその瞬間、自分の中で存在を認められたみたいだった。
「ありがとう」
「じゃあ、また明日ね」
しばらく図書室で勉強をした後、そう言って彼女とは別れたけれど、少しだけ、心配だった。じゃあ、また明日という言葉。本当に明日も話せるのだろうか、と思った。教室で自分が誰かと今日みたいに話している姿が全く想像できなかった。
楽しいと思ったから、その感情を知ってしまったから、その明日がこない可能性を危惧したのだ。
けれど彼女はその次の日、私が登校すると真っ先に話しかけに来てくれた。
それから私たちは、放課後図書室で宿題をして、その後何処かに出かけて遊ぶようになった。
性格が真逆の私たちは、なぜか馬が合った。
葉月はどんな人にも気さくに話しかける性格で、明るかった。そして、引っ込み思案な私をいろんなところに連れ出してくれた。
私たちは二人とも甘いものが好きだったので、休みの日にはよくカフェを巡っていた。
目指している高校も同じで、一緒にその高校の学園祭に行ったりもした。
出会う前では想像もつかなかった程に毎日が楽しく、葉月と仲良くできるその生活がずっと続けばいい、そう思っていた。
けど、今まで人付き合いをしていなかった私が、そんなことを望んだのが間違いだったのかもしれない。
その生活が壊れるのは葉月と仲良くなってから一年ちょっと経った頃だった。
中学二年生の時、私はクラスでいじめを受けることになる。
きっかけは単純だ。クラスの中で声を張り上げることの許されている女子の好きな人が私に告白したから。
別にその告白に私が断ったことがどうとかいう話じゃない。ただ、いじめる側の主張は「なに調子乗ってるの?」の一言だったから。「なに、色目使ってんの」とも。
中学一年の終わり頃から急激に身長が伸びて、学年が変わりクラス替えの後、周りから向けられる視線が今までと違っていることに気づいた。その時の身長は既に一六○センチメートルを超えていた。
おそらくそれが原因なんだろうけど、中学二年に入ってから数度、同級生や先輩から告白された。
ただ、性格は変わっていなかったから、友達と呼べる存在は葉月しかいなかった。
それはつまり、告白してくる男子の中に誰一人元から仲の良い人はいなかったということだ。そんな男子が私に告白をしてくる理由がわからなかった。少し、怖かった。
だからいつも断っていた。
告白の時、誰も、私のことをどうして好きなのかはっきりと言ってくれる人がいなかったということもある。
今回も、同じだった。
そう思っていた。
なのに、告白があってすぐ、クラスの中で私に対するいじめが始まった。
といっても初めは、聞こえるように嫌味を言われたり、聞きたくもないあだ名をつけられたりしているだけだった。気分は悪かったが、私は何も言わずに無視をし続けていた。
クラスでの居場所がなくても、私には葉月の隣にいることができた。
葉月とは二年生になってクラスが変わってしまったけれど、相変わらず放課後は一緒に勉強したり、遊んでいた。彼女と遊んでいれば学校の中でのストレスなんか自然と消えていく。だから、そんな陰口くらい耐えられた。
変わったのは、一度断った例の男子生徒が私にもう一度告白してきてからのことだった。その情報を何処かから仕入れてきたいじめ主犯格の女子は、我慢ができなくなったのだろう。いじめが一気に加速した。
不幸なことに、その彼を好きな女子生徒はクラスの中での地位が高かった。一方、私は言うまでもなく地位が低い。
気づけば、クラスの中で私は、完全に切り離された存在になっていた。
勉強ばっかりしていた時の一人ぼっち、とは全く違う。
みんなの意思が働いて一人だけ切り離されるというのが、こんなにも異質で気持ちの悪いものなんだと、知らなかった。
今までは一部から睨まれていただけだったのに、教室にいる間ずっと、他の生徒からどこか遠巻きに観察されているような感覚。
酸素が薄くなったみたいな息苦しさを毎日感じていた。
少しでも気に触ることをすれば、彼女らの悪意は私を容赦無く襲ってくる。
私は怯えることしかできないでいた。
正直頭が追いついていなかった。何でいじめをする人はそんな行動ができるのだろう、楽しいのだろうか、ムカつく相手が傷ついているのを見るのが清々しいのだろうか。
声を上げて助けを求めることも、教師に相談することもできなかった。同時に、そんなことしたら、もっといじめが陰湿かつひどいものになると本能的に理解していた。いじめることを楽しんでいるような彼女たちの顔を見ていたら、邪魔が入れば容赦しない人間であることは誰にでもわかる。
だからこそ、おかしいとわかっているはずの周りの人も誰一人として声を上げないのだ。
これまでとの落差に、私は深い崖に突き落とされたような感覚になった。
直接的に向けられる敵意が、私の精神をすり減らす。
正直、疲弊していた。
クラスが違うから知られていないはずだけど、毎日顔を合わせる私の表情の変化に気づいたのだろう、葉月が心配そうな表情で聞いてくれた。
「最近元気ないけど、どうしたの?」
「ううん、大丈夫だよ」
でも、彼女に迷惑をかけてはいけないと思い、私は慌ててごまかした。
いじめを行う人はみんななぜかわかっている。
大人たちが本気で止めに入らないギリギリの限度というものを狡猾に理解している。
だから、私の持ち物が壊されたり隠されたりすることや、授業中にゴミを投げつけられるようなことはあっても、身体にはっきりと傷をつけるレベルの暴力はふるってこなかった。
葉月も、直接的に私が傷つけられたとわかる証拠がないから、私の「大丈夫」の言葉を、納得はせずとも信じてくれていた。
月日が経ち――実際はそれほど経っていないけど、苦痛を強いられる生活は自分にとって一年くらいの長さに感じられ、終業式が近づいたある日、たまたま私のことを汚い言葉で罵ったクラスの女子の言葉を、葉月が聞いてしまった。ちょうど葉月がトイレに行くために私のいる教室の前を通るタイミングと重なってしまったのだ。
それで葉月は、その女子に対して文句を言い、その女子たちと口論になった。
私はずっとその間に挟まれて黙っていることしかできず、葉月が果敢に女子たちと交戦している様子をただその場で佇んで見ていた。
クラスの女子と葉月の口論の末、葉月に手を握られ、私は教室から連れ出される。
「あれ、何?」
彼女が憤りをあらわにする。
「…………」
「いつからあんなこと言われてるの!」
「いや、ちょっと……ちょっと前に、気に触ることしちゃって」
「気に触ること?」
「それは…………」
「綾がなんかした? 本当?」
「…………」
「何をしたっていうの⁉︎」
彼女の剣幕を前に黙っていることもできず、いじめの経緯を説明すると、葉月の怒りが爆発した。
「許せないっ」
「誰にもこの話は言わないで」
私はとっさに言葉を放っていた。そう言わなければ、彼女はこのままの勢いで職員室に突撃するような気がした。
「なんで?」
私は、彼女の言葉に答えられなかった。
「それでいいの?」
彼女は私の言葉を呑み込めない様子でさらに訊く。
「……うん、ちょっとした喧嘩みたいなものだから」
大丈夫。これを言ってしまうと逆に葉月は怒るだろうけど、余計なことをしてあの女子たちの感情を刺激なんかしたら、何が起こるかわからない。そんなリスクのあることはしない方が絶対にいい。
「本当にいいのね?」
繰り返し葉月にお願いすると、彼女は渋々といった感じではあったけれど首を縦に振ってくれた。
教室に戻ると、異様な空気が流れていた。私が入ると教室内の空気が変わる。
その日から、終業式までの間、私に対する悪意が穏やかになったことに気がついた。
たぶん、私に味方がいると理解したからだろう。別に、彼女らは攻撃の手を休めたわけじゃない。おそらく葉月と私の距離感を探っていただけなのだろう。それと、ただのタイミングだ。人をいじめることに慣れた老獪な女子たちからすると、葉月が学校に彼女たちのいじめを報告することで、もうすぐ始まる自分たちの春休みが潰れる可能性を察知し、恐れたのかもしれない。
単なる一瞬の、落ち着きだった。
だからそこからの行動は、完全に自分の責任だ。
葉月に巻き込まれて欲しくないと思っていたにもかかわらず、いじめが少しだけ和らいだ瞬間、私の心の中には確かに安堵が生まれた。
今のうちに逃げ出そう、と思ってしまったのだ。
葉月と仲良くできるその生活がずっと続けばいい、その気持ちを破ったのは自分だった。
祖母に頼み込んで、三年生から違う学校に転校することをきめた。
転校した後はもう、何も考えないようにしていた。
葉月からは、それ以来メールが来なかった。
葉月のことだから、私を守れなかったことに罪悪感を感じていたかもしれない。
馬鹿だ。葉月が巻き込まれないようにと思うなら、もっと早い段階で――葉月がいじめに気づく前に転校してればよかったのに。
葉月を、学校に残してきてしまった。
結果的に、私だけが学校から逃げることで、葉月がいじめのターゲットになってしまっていた。
ずる賢いのは、私だ。
可能性を全く考えなかったわけじゃない。
ただ、葉月なら、すぐに人と仲良くなる彼女なら、うまくいじめから逃れることができるだろう、そんな風に思い込んだ。
自分の気持ちをごまかしている罪悪感があったから、怖くて、何も連絡をしなかった。葉月の存在を、どうにか心の奥に仕舞い込もうとまでしていた。
転校してからは、表情の使い方と、相手に合わせて自分の行動を変化させる術を身につけることに必死になっていた。ただ考えて、考えて相手の空気を読み取り、合わせて、愛想をよくする。
新しい環境が幸いしてか、何とかクラスに馴染めるくらいの形にはなってくれた。
だから、今みんなが褒める私のコミュニケーション能力は、そんな良いものじゃない。
それのおかげでいじめは完全になくなったから、そういった立ち回りが必要ないとは口が裂けても言えないけど、全く誇れるものなんかじゃない。
彼女が死んだと聞いたのは、転校してから随分時間が経ってからだった。結局、転校してから一度も葉月と連絡を取っていなかった。
私のせいでその子は死んだの。綾さんは最後にそう締めくくった。
「前言ったでしょ? 一緒にケーキのイベントに行った子の話」
「はい」
「それが、その子なの」
あの時、彼女は思い出すように天を仰いでいた。
「じゃあ、紅葉狩りも」
「そう、一緒に行った」
「そうなんですか……」
「うん。だから、私も大切な人が死んでるから。少し、ほんの少しかもしれないけど、芳樹くんの気持ちがわかるの――私も、その子が亡くなったって知ったあと、おばあちゃんが私に何も聞かずにいつも通り接してくれたの、随分助かったから」
「同じ……なんですね」
「そうだね」
それを訊くと、彼女の今までの行動が納得できる。
「おばあちゃんがずっと心の拠り所だったんだ」
彼女は、また空を見上げながら、笑う。
僕は思わず口を開く。
「だから――」
死のうと思ったのだろうか。その祖母が亡くなったから。
「だから?」
「……いや」
彼女とご飯の約束をした日。ちょうど声が聞こえたその日は、彼女の祖母の葬式が終わってすぐだった。もし、それがきっかけならば筋は通っている。
「何でもないです」
「気になるなあ……まあ、いいけど。芳樹くんの話は終わり?」
「聞いてくれますか?」
理解していた通り、人間は相手のことをよく知っていればいるほどに自分のことを曝け出すことに抵抗がなくなる。
本来ならばこんなに急速に話が進むなんてこと、よっぽどじゃないとありえないはずだけど、彼女が死にたいと思う原因を知りたい僕の思いと、彼女の人のことを考える能力の高さが合わさるとよっぽどじゃなかったらしい。
その日、僕は高校になって初めて、今まで起こった全てのこと――もちろん声の話は言わないけど、僕の記憶に一生残り続けるはずの記憶を話したんだから、全てのことと言っても過言でないと思う――を彼女に聞いてもらうことになった。
姉が死んだあの日から、誰にもしなかったことを彼女に対して行った。
ただ話をする、とかそんな単純なことじゃない。話すだけなら、中学の担任に対して何度もしている。
熱さと同じで、人のことを信じる感情も、その感覚から離れてしまえば忘れるものなのだと思う。
多分その日、僕がずっと長い間忘れていた、誰かに心を開くということを思い出したんだと思う。
つまるところ、綾さんに対して完全に気を許してしまったのだ。
自分が心を開くことのできる相手が死ぬことを、何とも思わないわけがない。さすがに僕はそんな人でなしじゃない。
だから、話を真剣に聞いてくれる彼女の目を見て、僕はあることを考えた。
彼女は、死ぬべきじゃないと思った。
駅の構内、改札に向かう通路に甘い香りが広がっている。
ホワイトデーが近づいているからか、駅の構内には常に出店している店舗の他、いろんな限定出店があった。三月十四日のイベントを示すボードのはられたスイーツ系の店が多い。
「ちょっと並んでいいですか?」
僕は彼女にそう言ってケーキ屋の列に並ぶ。
「ホワイトデー?」
「違います」
「じゃ、お供え?」
「はい」
「優しいね」
「違いますよ」
僕の行動は、基本的に母親の機嫌をとるためだ。
首を振ると、聡い彼女は僕の感情を理解してくれたらしく、温かい表情のまま続ける。
「違うんだ」
「はい」
「私も、何かお供え買おうかなあ」
「何買うんですか?」
うーん、と周りを見渡していた彼女は、何かを見つけたらしい。
「あれ」
そう言って彼女が一つの店を指差す。その指は、常に出店しているらしい一つの店舗に向いていた。
「甘栗」
「専門店って珍しいですよね」
店舗を構えているのを初めて見た。どちらかと言うと、屋台のイメージが強い。けど、人気店なのか店の前には結構な列ができていた。
「そうなの。結構有名らしいよ。お供えにぴったりでしょ?」
彼女は自信げな表情をする。
「みんな好きだったの、甘栗。と言うか、私が好きになったのは完全におばあちゃんの影響」
「そうだったんですか」
「そう、いつでも家にあったから」
話しているうちに列は減り、僕はケーキを購入する。
そして僕たちは新たな列に並び直した。
彼女と別れた後、晩ご飯の時間まで時間があったので最寄り駅と違う駅で降りて、併設された大きなショッピングモールに寄った。
中に入ると、さっきの駅と同じでホワイトデーのイベントブースが設置されていて、様々な種類のスイーツ店が出店していた。
チョコレートを買うなんて、初めてだったから、なにを買えばいいのかわからなかった。
綾さんに返すチョコレートだ。いつももらってばかりではいけない。それに。
――来月何かお返ししてくれたらいいからさ
彼女にはホワイトデーなんか存在しないんじゃないのか。また浮かびかけた言葉は首を振ってかき消す。
ちゃんと、彼女に渡そうと、そういう気持ちになった。
気持ちの変化で、時間の流れる速さは変わるのだと思う。実際そうだった。
後一週間しかない。
部活は今週から期末考査の準備期間に入ったので活動自体ないし、彼女と会うのはバイト中だけだ。逆に言えば、バイトでは会うはずだと信じていた。
月曜日、僕が『Ete Prune』に行き控室に入ると、綾さんの鞄がなかった。そして、バイト開始の時間になっても彼女が現れることはなかった。
間が悪い、そんな言葉で片付けていいのかわからないけど、この世界はそういう風にできているのかもしれない。姉の帰りが遅かった時もそうだ。
不安になり樺さんに聞くと「家のことで忙しいらしいから」と言っていた。その口調は、僕が綾さんの家庭事情を知っていることを理解しているふうだった。
「バイトも有給使えるんだし、芳樹も疲れたりしていたら遠慮せずに休んでいいんだからな」
「ありがとうございます」
言葉通りの優しい表情を浮かべている樺さんにお礼を言う。
「まあ正直、来てくれて助かってるけどな」
彼女がいない分、いつも以上にテキパキと作業をこなす。
帰り道、彼女にメールを送った。
次の日、学校でも綾さんの姿を探していたが、彼女に会うこともなかった。もしかして学校も休んでいるのだろうか。
けど、綾さんとは違い僕は他のクラスに突撃できないので、誰かに確認をとることもできない。柏井が知っているとも思えなかった。
しばらくして彼女からの返信が入っていることに気づき、急いで確認する。
連絡が遅れたことの謝罪と、心配しないで、という 内容だった。
なぜか、そのメールの文面が恐ろしく乾燥し切っているように感じてしまい、一層不安が助長される。
樺さんにも連絡が行ってるのだから、本当におばあちゃんの関係で忙しいいだけなのだろう。しかし、僕の中にはずっと拭えない違和感があった。なんだろう、これは。
心配を抱えたまま日々を過ごすと、時間が一瞬で流れていった。
本当に、一瞬だった。
気づけば一日が始まり、終わる。
父の時と同じように頭の中で残りの日数を毎日考えていて、だから僕の心の中に焦りが出ていた。
落ち着かないまま授業を受け、焦りのような感情を抱えながら寝る。
朝僕を襲う耳鳴りが、いつも以上に大きくなっている気がしていた。
昼休み、まだかすかに残る煩わしい音を咀嚼音でかき消していたら、小テストの用紙を広げながらご飯を食べている出山が顔をこちらに向けた。
「どうしたー、新川。恋煩いでもしてんのか?」
テスト前の出山はいつも死にそうな表情をしている。勉強が苦手なのだ。そんな彼が休息の場を見つけたとばかり、嬉しそうに訊いてきた。
「なに、いきなり」
僕は胡乱な視線を飛ばす。
「なんか変じゃねえ? 新川が宿題やってくるの忘れるのも、英語の授業なのにぼーっとしているのも珍しいじゃん」
今日提出の宿題の存在をてっきり忘れていて、朝礼の前の時間と休み時間を使って急いで終わらせた。
それに僕が好きな英語の授業中、自分が指名されていることに全く気づかず、先生に注意された。
「いや、大丈夫だよ」
「やっぱなんかあるのかよ」
「なんでそうなるの」
「いや、何もないならちゃんと何もないって言うだろ。まして、新川って外野からちょっかいかけられるのとか嫌いだろうし。だから、なんかあるからこそ――なんかあるんだけど「大丈夫」っていう言い方選んだんじゃねえの」
唐揚げを頬張りながら話す出山の聡さに一瞬ひやりとする。けど、彼は相変わらずだった。
「まあ、別になんでもいいんだけどさ、何か面白い話あったら教えろよ」
大して興味がないみたいな空気でそう言ってくれるのは本当に助かる。
「ありがとう」
「おお。て言うか、そんなことよりマジでテスト勉強やべーんだけど」
彼は、視線を横に広げられたプリントに戻す。
テストは明日から始まる。全部見直す時間がないから、小テストだけを復習するつもりらしい。
聡い出山はちゃんとやればいい成績を取れるだろう。「頑張れ」と僕は本心からそう言った。
「新川もなー」
彼の言葉に頷く。
自分の中の感覚は変わってしまっているのに、周りの時間はいつもと変わりなく動いている。
それを証明するかのように、以前言っていた通りバイト先に柏井が現れた。
真面目な柏井がこのテスト直前のタイミングで顔を出したことに驚く。てっきり春休みの話だと思っていた。
「来ました!」
「いらっしゃいませ! ……お、芳樹の友達か?」
突然登場した女子高生に気づいた樺さんが、横から話に入ってくる。
樺さんに笑みを返しながらも、僕の意識は控室に向いていた。まだ綾さんに会えていなかった。
しばらく樺さんと柏井の話を横で聞いていると、控室の扉が開く音が聞こえた。少しして綾さんが入ってくる。
その彼女の表情を見て、僕は違和感を感じずにはいられなかった。何が、とは言えないけれど、彼女の纏う空気が濁っているような気がした。
思わず彼女に話しかけようとすると、
「あ、あかりちゃんだ!」
僕が綾さんに声をかける前に、柏井の姿を認めた綾さんが、表情を咲かせて彼女のもとへと駆け寄る。少し、僕を避けているように感じたのは、僕の思い過ごしだろうか。
彼女と話す綾さんの様子は、やっぱり少しだけ違って映った。多分、僕だけがなんとなく――
その時、樺さんと目があう。
樺さんも心配そうに綾さんの方を眺めていた。月曜日にも浮かんでいた表情だ。
もしかしたら、僕の予感は間違っていないのかもしれない。
柏井を見送りに、店を出る。
「今日はありがとうねー」
日が落ちるのが早いから、あたりはずいぶんと暗かった。
「こちらこそ」
「あの、さ」
彼女の顔が店から漏れた光に照らされる。
「新川くん、もう直ぐバイト終わるんだよね」
「うん、後三十分くらいかな」
「じゃあよかったら一緒に帰らない?」
「ごめん、今日は」
僕も、柏井の気持ちが全くわからないわけではない。
けど、今日は。
綾さんと話さないといけない。
柏井は少し残念そうな顔をしたけど、すぐに気を遣わせない笑顔を見せてくれた。
「そっかぁ、わかった!」
「ごめん」
「ううん、全然。ありがとね。なんか新川くんがバイトしてるの新鮮だった。じゃあ、来週、テストがんばろうね」
「うん、来てくれてありがとう。頑張ろうね」
彼女が一歩前に出て、振り返る。
なぜか神妙な顔つきをしていた。
「……一つ聞いても、いい?」
「なに?」
「新川くん、大丈夫?」
柏井が言い方を探る口調でそう訊いてきた。
「ええと、何が?」
「勘違いだったらごめんなんだけど……なんとなく新川くん最近元気ないように見えるっていうか」
「え、そう?」
「そうだよ。なんか教室でも上の空っていうか」
その話か。
「ありがとう……けど、大丈夫」
言えない、言ってどうにかなる問題じゃない。
「そっか。ならいいんだけど」
「うん、ちょっとテスト勉強で疲れたのかな」
僕は彼女が心配しないようにわざと元気を出して笑う。
「いつも成績いいもんね新川くん」
本当はテスト勉強なんか一つもやっていない。
「柏井はテスト勉強どう?」
誤魔化そうと訊き返す。ただ実際、気にはなった。
彼女はいつもならテスト前の放課後は教室で自習しているはずだ。
「知ってる? 私ね、実は成績いいんだよ」
おどけた様子で彼女が言う。
「知ってるよ」
彼女の成績はクラスでいつも上位だった。何度か順位表で僕と彼女の名前が並んだことがあるから覚えている。
「ほんと!」
「うん」
「そっか、よかった……あ、じゃそろそろ帰るね。引き留めてごめん」
彼女は嬉しそうにそう言うと、手を振って帰っていった。その後ろ姿を見ていると、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
クラスメイトにバイト先に来られるのは嫌だったけれど、思っているほど気にしなくてもよかったのかもしれない。
そう思わせてくれた柏井に少し感謝した。
「お疲れさま」
バイトを終えた後の綾さんは、いつもと変わらない様子で僕に向かって手をあげた。
「お疲れ様です」
バイト中に感じた違和感、彼女の意思を知っている僕だけじゃなく、樺さんも気づいている違和感だったのだから、多分この普通さは彼女が意識して作り出しているものなんだろう。
「綾さん、何かありました?」
僕はいきなり話を振る。
「……」
全く予想していなかったわけじゃない、むしろ話を聞きたかったはずなのに、彼女が動揺したのが見て取れて、正直驚いた。
彼女はすぐに表情を塗り替え、とぼける。
「大丈夫だよー。うん、大丈夫。どうして?」
大丈夫、彼女はそう言った。ああ、そういうことだったのか。出山の聡さ、それを思い出し、身体が震える。
「ああ、もしかして私が休んだから? おばあちゃんの四十九日の話しなくちゃいけなくって休ませてもらっただけだよ」
「それはメールでも聞きました」
「そんなことより、あかりちゃん」
彼女はわかりやすく話を変えてきた。
「なんか仲良さそうだよね、最近」
彼女はなぜか少し嬉しそうにそう言う。
柏井と僕が、という意味だろう。
「そんなことないですよ」
無理やり聞きだすよりいいだろうと思い、話に乗る。
「ほらでも、バイト先にまでわざわざ顔出してくれるっていいじゃん、でしょ?」
少し、彼女の話し方が引っ掛かった。
彼女が何かに焦っているように見えた。
その意味を探ろうと、僕は応える。
「綾さんが仲良くなってバイト先教えちゃったからですよね」
「それはほんとに、ごめん……」
「大丈夫ですよ」
「いやいや、私が悪かったから。ごめんね」
彼女は深々と頭を下げる。何か、その後の僕の反応を考えないような謝罪だった。そこまで謝ったら僕が困ってしまうとわかるはずなのに。彼女らしくない。
彼女の言葉と行動の隅をつついて、そんなことを思うのは彼女が死ぬと知っているからかもしれない。でも、彼女から感じられる不可解な感覚は話せば話すほどはっきりと浮かんでくるようだった。
彼女はその話を続ける。
「あかりちゃん、いい子だよね」
「綾さんもすぐに仲良くなってましたよね」
「だって話しかけてきてくれたから」
「綾さんが話しかけやすいからだと思いますよ」
客観的な事実として「僕がこんなに話する女子は綾さんぐらいなので」と伝えると彼女は「いやいや」と困ったふうに笑った。
「尊敬します」
彼女顔にのせたその困惑の表情のまま首を傾げる。いきなりそんなことを言い出して、戸惑っているらしかった。
やっぱり、おかしい。
今あえて、彼女が困る言い方をした。
だから、彼女が困った表情をしたのは、反応としては間違ってない。
けど、いつもの彼女だったら、もっとうまく躱すか、少なくとも困ってもその表情を隠そうとする。
彼女は「違うよ」と首を横にふった。
「そんなのじゃないの、私は人のことなんか考えてない。いじめられないようにずっと周りの目を見て、周りの人が不快な思いをしないようによく観察して、相手が欲しい反応をできるだけ返すようにしてきただけ。必要なコミュニケーションを取るために、自分の身を守るためにはそうしなきゃ仕様がなかったから――ただの逃げだよ」
彼女はそう言って自嘲気味に笑う。
「言ったでしょ、私のは全部演技なの。染み付いただけの――自分のためだけの演技」
もう一度目を合わせる。
「だから全く、褒められるものじゃないんだよ。あかりちゃんの方が……」
彼女は僕の反応を待っているのか、そこで少しの沈黙を挟んだ。
「いや、けど――」
その彼女の――相手を考えて行動する力というのは、非常に大事なもので、そんな簡単に獲得できるものではないんじゃないだろうか。
直接的ではないにせよ、僕たちが昔から『善いこと』として教えられてきたことなのではないのだろうか。
それを彼女は、ただの逃げだと断言した。
彼女が卑下している理由はわかる。後悔していることに絡みついて離れない自身の性格なんて、単純に良く感じられるわけがない。
母と話している時を頭に浮かべる。先手を打つような話し方は手段としてはいいけど、あまり後味の良いものではない。僕も彼女と同じような経験をしたから、それはわかるし、彼女の話すその感覚は何となく理解できる。
けど、褒められるものじゃないなんて。その行為は時として必要だし、彼女もそれはわかっているはずだ。それを演技だと断言する彼女の吐き捨てたような言葉の間の歪みは、異様に僕の感情にのしかかった。
倒錯したことを言う彼女の言葉が、重く感じられた。
けど。彼女がそう思っていたとしても。僕が彼女の気持ちを理解しているとしても。
そんなことない。人のことを考えて、そのために動いているなんてすごいことだよ。
何かに焦っている彼女にそう言うべきだと思った。
彼女のためにそうフォローする方がいいと思った。
綾さんは大丈夫だ。もっと自由でもいいと思う。その亡くなったという友達のことも、ずっと引きずって生きるより、割り切る方が、いいはずだ。
そう頭の中で考えながらも少しだけ、疑問が胸の中に渦巻いていた。
たぶんこれまで彼女と関わってきて境遇を知って。僕が今まで生活してきて、そのおかげで
持った疑問。
彼女の諦めたような眼差しを見る。その眼差しの先にあるのが死への感情だとわかっていたから、僕は一瞬浮かんだ疑問を無視し、なんとか彼女を肯定しようとした。彼女が正しいのだと伝えようとした。
「でも、すごいですよ」
言った瞬間に、後悔した。周りから音が消える。
徐々に変化する彼女の表情。その奥にはっきりと、沈んだ感情が見て取れた。
取り消したいと思った。けど、その口から出た彼女を傷つける刃物は、まっすぐ彼女に突き刺さってしまった。
彼女の目の奥に映る感情が中学の時の自分のものと重なる。
彼女が求めていたのは、そんな上っ面の言葉じゃなかった。
「ごめ――」
とっさに撤回しようと思って出した声を上塗りするかのように、彼女は言葉を重ねてきた。
「優しいね」
悲しそうな表情で言うその言葉は、彼女からの拒絶に感じられた。
さっき、僕は彼女の気持ちを理解していると考えた。だから彼女の気持ちをわかると。
そんなことを思った自分を恥じる。
似てるから、ってなんだ。わかったつもりになってるだけだった。いや、理解した上での行動なんだから、もっとたちが悪い。
彼女のために、なんて、とんだ思い上がりだ。
後から思えば、自分に似ていると思っている彼女の気持ちもわからない僕は、自分のことだって何もわかってなかったのかもしれない。
彼女の境遇を知っているから、彼女の性格がそうなったのは仕方ないことだと思った。
その上で、彼女の話を聞いて、それでもその彼女の行動がそんなにも悪いものじゃない、そう言うべきだと思った。周りからすればその彼女の立ち回りは正しいのだからそんなに卑下することない、そう思った方が彼女にとってはいいと思った。
正しい彼女は死ぬべきじゃない、なんて。そう思っていた。
――優しいね。
気づく。
それはただの一般解で。
たぶん、心のどこかで彼女のことを、関わっても仕方がない、そんな風に思っていた。他の人がなにを言っても、どうしようもないんだと、割り切っていたのだと思う。
彼女が死ぬべきじゃないと思うことは、それは多分、自殺はよくない、と世間的に言われているそんなありふれた意見と同じで、家族を亡くした少年に対して慰めの言葉をかけるのが正解だとされているから、話しかけたり話を聞いたりする、そんな行動となんら変わらない。
そりゃ、確かに彼女のことを信じられる自分がいたことも確かだ。信じられる人に死んで欲しいと思わないこともそうだ、けど。
ただ、どうしようもないだなんて思っていたから、馬鹿みたいに一般的で無責任な答えを彼女に示した。
何も知らない人が無責任に投げる優しい刃物を、僕も彼女に投げつけてしまったのだ。
それが一番負担になると、痛いほどわかっていたはずなのに。
「……ごめんなさい」
僕は彼女に深く頭を下げた。
「ううん、いいの」
彼女はそう言ってくれたけれど、数秒間、僕と彼女の間に沈黙が生まれた。
彼女は何か迷っているようだった。
やっぱり。
彼女のことを傷つけておきながら、罪悪感と焦りに駆られた頭で、はっきりと、今日の彼女は変だと思った。いつもだったら、僕に気にさせないように、むしろ何の憂いもないように僕に話してくるところだ。
それなのに何故か彼女は静かに首を振って黙ったままだった。こんな状況を作ったのは僕なのに、違和感を拭うことができなかった。
「やっぱりおかしいですよ。本当どうしたんですか」
「……」
彼女は口をつぐんだまま下を向く。気まずい空気の中で、僕もただ彼女の足元を見つめる。彼女は言葉を選んでいるようだった。
「ねえ、芳樹くん?」
その言葉に釣られるようにして彼女の顔を目で捉えた僕の呼吸が止まる。
目の前にいる綾さんは、可哀想なものを見るような表情をしていた。
何、その目は。
彼女は声を絞り出す。
「おかしいって、どっちが……?」
彼女は自分の髪の毛を潰すように握る。
「どっちがっ」
初めて出したその感情の爆発に――僕は。
やっと、本当にやっと気づく。
どうして、それを違和感だと思っていたんだ。
彼女が感情をそのまま出すことの、なにに引っかかった。
違うからだ。普段と異なる彼女の様子に、違和感を感じていた。
やっぱりおかしいですよ、って。
どこが、おかしい、のだろうか。
彼女がこうやって、自分の感情を隠せずに表現していることが、それだけのことが。
何かおかしいのだろうか。
わかっていたんじゃないのか、さっき僕が彼女に謝ったのは、理解したからじゃないのか。
僕が気を使わないように話を進めてくれたり、家族のことを話すときに僕のテンションを尊重してくれたり。
彼女が今までずっとやってきていた行動は、悪意に晒されないために仕方なくやってきたことだ。ならば。
今、彼女が僕に気を使わせないように取り繕っていない、取り繕えない、それだけじゃないのか。
おかしいってなんだ。
感情を隠すことと、感情を隠さないこと。
言葉を選び表情を作って人と接することと、気持ちをそのまま顔や言葉に乗せること。
仕方ないと割り切って過ごすことと、なにも割り切れないままでいること。
考えをまとめる前に、僕は切り出した。考えて、理解してまた間違わないように。
「自殺しないでください」
唐突すぎたかも知れない。僕の言葉を待っていた彼女は、今までで一番驚いた顔をした。
「自殺? 何言ってるの?」
驚愕の表情は崩れなかったが、彼女がとぼけたように首を傾げた。実際、とぼけたのだろう。
僕は何も言わなかった。
「え、どういうこと? なに言い出だすの、芳樹くん」
彼女の驚きの表情は次第に収まり、今度は、自分の意思で取り繕ったのだろう、いきなり変なことを言われて困っている、というような表情に変わっていく。
普通の反応だ、彼女からしたらいきなりそんなことを言ってくる僕の頭の方がどうにかしている。
誰も、自分が死のうと考えていることを、言ってもないのに他の人に知られているとは思わない。姉だって、父だって、亡くなった綾さんの友達だってそうだろう。
みんな、隠してるつもりになってる。
そして大体は、隠せている。
「どうしたの、急に」
彼女はそう言って、訳がわからないというふうに笑う。
僕が憶測でそんなことを言っているのだと思っているのかもしれない。確かに、普通だったら遺書でもない限り彼女の意思なんて証明できない。
だからこそ、今の表情だろう。
彼女は、何も知らないから。
姉が死んでから僕が持つことになってしまったものを、知らないから。
僕は、彼女にはっきりとわかるように口に出した。
「綾さんが、土曜日に死のうしようとしていること、僕は知ってますから」
彼女が絶句する。
そりゃそうだろう、僕に誰にも話していないはずのそれを、知られているんだから。
彼女がこの後どんな反応をするだろうか、頭の中ではそんなことを考えていた。
僕の憶測だと思い込んで白を切るのだろうか。
声のことを言ったら、信じるだろうか、見抜かれたとわかった後なんだから、全く信じないなんてことはないと思うけど。
彼女が思い違いなんてしないよう、もう一度言う。
「綾さんが死のうとしてるって、知ってたんです」
何も言葉を発さない彼女に説明する。
「僕、自殺する人がわかるんです。いつ死ぬか、とか……触れた時に、声が流れてくるんです」
初めて言葉にすると、その内容は全くもって現実味を帯びてなくて、信じられるわけがないと思った。
「え……」
だから、戸惑いを隠せない彼女の様子は、至極当然に見えた。
別に彼女の反応を受け止める準備を怠っていたわけじゃない。彼女の反応に合わせた説明の必要性を感じ、その準備はしていた。
それなのに。
斜め上、なんてもんじゃない。彼女が搾り出した言葉は、僕の思考を完全に置き去りにした。
「なんで芳樹くんも――」
彼女は続ける。
「……芳樹くんこそ死のうとしてるのに」
今度は僕が絶句する番だった。
……え?
彼女は、何を?
芳樹くんこそ、死のうとしてる? はっきりとそう聞こえた。
そう言った彼女は、続く言葉はないとでも言うかのように、口をつぐんでいる。
「は……え」
声にならない声が口からこぼれ落ちる。
何を言っているんだ? 急に何を?
……死のう? そのまんまの意味だとでもいうのだろうか。
彼女はさっき、「なんで芳樹くんも」と言った。
芳樹くん、も。
……も?
何が同じなんだろう。
彼女と同じ、同じって。
何が?
「私も、聞こえるの」
聞こえる……。
聞こえる?
熱を持った脳を動かすが、置き去りにされた僕の脳は、彼女の言葉を理解できない。
何が聞こえるというのだろう。
「私も、芳樹くんと同じなの」
数秒間の沈黙の後、導き出された答えは、僕が何もわかってなかったことを示していた。いや、わかるとかわからないとか以前の問題。
客観的な視点の欠落を意味していた。
――私も「声が」聞こえるの。
――芳樹くんこそ「自殺して」死のうとしてるのに。
「こうでしょ?」
彼女がだらんと垂れた僕の腕をとり、手を握る。
「今、聞こえてるんだよね」
彼女のその言葉に重なって、耳鳴りを想起させるその声は、はっきりと僕の耳に届いていた。
僕の沈黙を肯定と捉えたのか、彼女はなおも続ける。
「私も同じ。今、聞こえてるの。土曜日でしょ? 同じなんだよ。芳樹くんからも、そう聞こえるの」
彼女も。
「だから言ったんだよ、同じだって。ご飯に誘ったあの日からずっと、芳樹くんが辛いの知ってるよ」
ポケットに入っているスマホから伝わる振動で我に返る。
慌ててポケットに手を突っ込んでスマホを取り出すと、スマホは僕の手から滑り落ち、音が止まる。
ずっと身体の濃度が薄まったみたいな感覚に包まれていた。全身が麻痺してるみたいだ。
自分の置かれている状況を確認しようと周りを見渡すと、そこは見慣れた空間だった。自分の部屋だ。あの後どうやって家に帰ってきたのかはわからない。ただ、どうにか家に帰ってきたことは確かだった。
僕は両手を見る。心なしか震えている。
静かな部屋の中、ずっと耳鳴りがしていた。
音に意識が入っていたから余計にだろう。またけたたましい音が耳に飛び込んできて、僕の皮膚は大きく波打つ。
今度はなんだ。
確認すると、スヌーズ機能で再度アラームが鳴っただけだ。さっきちゃんと解除しなかったから。
ため息をつく。
毎日家に帰らねばならない時間を登録している。もちろん、自分がその時にいる場所は関係なく音が鳴る。
馬鹿みたいに声を上げ続けているスマホを見ていると、無性に腹が立ってきて、停止を押した後すぐにベッドに投げつけた。ばすん、と虚しい音が鳴る。
よくわからなかった。
いつもだったら何も考えず淡々とこなしている作業に苛立つなんて初めてだった。まして、寝起きでもないのに。
自分で言うのもなんだけど、僕は人より怒りにくい、と言うか、多分感情の起伏が小さい。どうしようもないこともすぐに割り切る。だから母より落ち着いて生活できている。
どうしたんだ。
胸の内を冷静に判断なんてできないけれど、全身に張り巡らされた血管の脈動が自身の動揺をはっきりと伝えてくる。
落ち着けるわけがない。
――私も今聞こえてるの
手を握られた感覚はもうすでに消え去ったけれど、その時の彼女の声が僕を追いかけて耳の奥で再生される。
彼女が言っていたことは、本当のことなのだろうか。
僕と同じように、触れた相手が死のうと思っていることに気づけるなんてありえないはずだ。普通はそんな異質な力を持っているはずがない。
何度か、彼女にはそんな力がないんだから、と思ったことがある。ずっと、こんな力は自分だけが持っているものだと思っていた。
なんだよ、くそ。
声にならない唸り声を上げ、頭をかき回す。
本当に、彼女も。
何に、僕はこんなにも苛ついているのだろうか。
今まで考えてきたことが間違いであったと知らされるのが怖いのだろうか。それとも。
けど、状況を受け入れられない自分の中で、彼女の行動に、僕と同じようなことがあることを思い出していた。
彼女も購買の人混みには近づかなかった。
それも、僕と同じ理由だったのではないか。
電車のラッシュが嫌で時間をずらしていると言っていた。それも。
今から考えたら、僕と同じ理由で同じ行動をしていたのかもしれない。
単純なことだ。自分に備わっている奇妙な力が、他の人にも備わっていたとしてもなにもおかしくなんてない。
どうして僕だけだなんて思ってたんだ。
リビングに出ていくと、母はいつも通り姉の部屋にいるらしく、暗いリビングには光が漏れ出していた。
また。
重い足取りで冷蔵庫の前まで歩いてき、開ける。
中には、食材しか入ってなかった。
深いため息が口から漏れる。
仕方ない。
とりあえず母を呼ぼうと思い、奥に向かって声をかける――
寸前、母のすすり泣く声が姉の部屋から聞こえてきて、僕は出しそうになった声を引っ込める。
少し迷って、そのままリビングを後にした。
どうせ何も食べられる気がしない。耳鳴りのせいで何か口に入れたら戻しそうだ。いや、そんなことどうでもいい。じゃあなんで僕はリビングに来たんだ。
大きくため息をつく。
くそ、くそ。
鼓動の治まらない状況の中で、気づく。
そうか、自分がわからないからだ。理解できない自分の感情に恐れて、苛立っている。
あのときみたいだ。父が死んだと聞いて、体と感情が切り離されたみたいになってわからかなくなって。あれに似てる。
彼女が言ったことを半分しか覚えてないとか、そういうわけじゃない。ちゃんと聞こえていたからこそ、その内容を意識的に避けようとしているのだ。自分と対面することが怖くて。
――芳樹くんこそ死のうとしてる
彼女からはっきりと聞こえた言葉。
電気が消えた部屋に入ると、足を何かに引っ掛けて転びそうになる。慌ててバランスをとり、スイッチを押すと、それは床に置かれてある鞄だった。さっき持って帰ってなにも考えずに放置していたからだ。腹の奥が沸騰しないよう、目を瞑って、何度も深く息を整える。
飛び出た持ち物の中、以前購入した本が鞄から覗いているのに気づく。その本に挟まったままの栞はもう、仕事を終えている。
ああ。
僕は、彼女が死ぬくらいまで追い込まれていることを彼女自身が気づいていないんじゃないかと思い、あの本を買った。
自分がそんな理由で購入したにもかかわらず、逆の視点で物事を見ることができていなかった。
彼女が同じ本を持っていたのも、同じなのか。勝手に、彼女自身が悩みを抱えているからだと思っていた。
止まない耳鳴りの中で考える。
でももし、彼女が僕と全く同じことを考えて買ったたのだとしたら。彼女も、僕が追い込まれていることを自分で認識していないかもしれないと思ってあの本にたどり着いたんだとしたら――辻褄があう。
思えば、彼女は自分からその本についての話題を出してきた。もし彼女が本当に悩んでいて、そのことを僕に知られたくないのなら、その行動はおかしい。
彼女の本を購入するときの疑い。
僕が……自殺。
彼女も同じ力を持っていたということ自体はもう疑っていない。
それに、本当に彼女に聞こえていたのだとしたら、その内容が嘘なんてことはない。事実として、僕自身が既に経験していることなのだ。
ただ、そうだとしても、信じられない自分が一方でいた。
ずっと、姉や父のことは仕方がないこととして受け入れられていたはずだ。だからこそ親戚からもしっかりしていると思われる。
周りから見ても、母よりもっと、ちゃんとしているはずなのだ。だから、今更自分が死ぬなんてことは、ありえない。
まだ立ち直っていないなんてことあるはずがないのだ。そういうものだ。だから絶対。
自分に言い聞かせるように口に出した言葉は、考えを一瞬にして砕き去った。
「だから絶対、僕が自殺することなんか――」
頭で考えていたはずの言葉は、後には続かない。
口に出すと、その内容はやけにすんなりと頭に入ってきた。
ずっと悩み続けていた問題に、解答のきっかけとなる何かを与えられた感覚。
それは一気に広がって、全てを理解する。ずっと心の中で渦巻いていた感情を混ぜて平均したら、矢印がその言葉に向かうんだと、気がつく。
ずっと自分の中にあったのだ。
自殺。
他の誰よりも馴染みがあって、でも誰よりも避けていた言葉。
今までずっと、無意識に他の言い方に置き換えていた。その言葉を、遠ざけようとしていた。
自分の心の奥に、綺麗におさまる感覚があった。
『自殺を考えるくらいにまで悩んでいる人のことを、自分が考えたところで何もわからない』
ずっとそう考えていた。
僕は、憧れていたんだと思う。
姉や父が死んでからもずっと、同じ土俵に立って話ができる人になりたかった。
悩んでいないからわからなくて仕方がない、と諦めることで、逃げていたのだ。
本当は、悩んでいないなんてことないのに。
振り返る。
どうして、自分で設定したアラームに苛ついた? コンビニで遅くまで談笑している学生を見て、足を止めていたのは?
アラームが知らせる内容が、僕にとって納得できないものだから。そして、無意識に、そんなアラームに振り回されない彼らの行動を羨ましいと思っていたからじゃないのか。
母からの謝罪を、見ていられないと思い、母の負担にならないように、いつも気をつけて行動しようとしていた。それで、母の行動に不満を感じた時はため息をついて心を落ち着けようとして。
度々心を落ち着けようとするということは。
その度に負担を感じていたということだ。
感情が暴れ出しそうになるのを抑えるため、僕はベッドに潜り、布団を頭からかぶせる。そうすると、この世界に一人になったみたいで、少しは、楽になると思ったからだ。
深呼吸を、重ねる。
自分の息遣いとやまない耳鳴りが聞こえて、気分が悪くなる。
突如、焦りのこもった勢いで扉が叩かれる。
「帰ってるの⁉︎ 芳樹!」
部屋に母が入ってくるのがわかった。
「帰ってきてたなら言ってよ……何、眠いの?」
「うん、ごめん」
「ご飯、今からになるけど……」
「いいや、ちょっと疲れたから寝る」
布団から顔を出し、なるべく平坦な早口でそう伝えた。
「大丈夫? 体調悪いの?」
なのに、揺れ動く感情が声に乗ってしまったのか、母が心配そうに訊いてくる。
「ううん、平気」
そういうと、母はしばしその場にいたが、ゆっくりと扉をしめ、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
次の朝、母の顔を見たくなくて、いつもより早く家を出た。
毎日やっていたことが、全て色褪せてしまったように僕の目には映っている。それを理解したと同時に、これまでと何も見え方が変わっていないことにも気付いていた。ずいぶん前からそうだったはずなのに、今頃気がついた。
自転車で学校に向かっている間も、教室で過ごしている間も、考えることは一つだった。
姉のこと、父のこと。
姉がいじめを受けて急に目の前からいなくなって、父もいなくなって。
仕方ない、訳ない。
本当に仕方ないと、心からそう割り切れているのであれば、あの時受けていたクラスメイトや担任からの厚意を、無下に断ったりすることなんかないはずだ。
自分の中で姉の死を完全に受け入れていたのだとしたら、姉の部屋に入るのを無意識に避けるなんてことはしない、母を呼ぶ時にわざわざリビングから大きい声を出す必要なんかない。
そんなに、物分かりが良いはずがないのだ。
簡単に、姉をいじめていた人を許せるわけがないのだ。
仕方ないと心から思えているのなら、暗示のように何度も何度も仕方ないから、と考えようとなんかしない。
自分が死のうと思っていることを自覚してから一日も経っていないのに、落ち着いている理由は正直わからない。ずっと知らないところで、覚悟ができていたということなのだろうか。
何も解決なんてしていないけど、納得すれば、問題はすり替わる。これから自分はどうすればいいか。
「なあ、新川」
テスト後、出山に話しかけられるまで、ずっと思考が空回りしていた。
「アイス、食べに行こうぜ」
テスト範囲の詰め込みすぎで空気の抜けた出山の表情を見ると、いくらか気分がましになる気がする。
どうせこの後どうするかなんて考えていなかったから、流されるまま頷く。
昼食の時間まではまだ結構時間があるけれど、食堂の席は半分ほど埋まっていた。早めの昼食をとっている生徒もいれば、ただだべっている人もいる。
みんなに共通していることは、明日もテストがあるということだ。学年末テストへのそれぞれの不満が大きな塊となってそこに存在しているみたいだった。
隣の出山もその塊の中にすんなりと溶け込む。
自分だけがこの空間から浮いてるような気がした。
「お、これこれ」
アイスクリームの自販機を眺めていた出山が、硬貨を入れてボタンを押す。
出山が買っている間もずっと考えていたのに、決められなかった。
「珍しいな」
特に欲しいものも決められないのなら適当に押せばいいのに、なぜか手が出ない。柑橘系のアイスもあるのに、なぜかそれを選択することができなかった。理由は、わからないし知りたくもない。
「じゃあ、これでいいんじゃね」
彼は横から、まだ硬貨もいれていない自販機に自身の財布から出した百円玉を二枚入れ、クッキークリームのアイスのボタンを押す。そして受け取り口から取り出したそれを、目の前に差し出してきた。
「ほい、あげるわ」
「……」
「何、これ嫌だった? 交換するか?」
先ほど購入していたサイダーのアイスを出してくる。
「いや、こっちがいい。ありがとう」
その後、席を確保し、二人でアイスを貪った。
「疲れたー」
彼は爽やかなそのアイスで疲弊した集中力を回復させて、テストに対する不満を溶かしていた。僕は、何か回復したのかわからない。
「テストやばいんだけど」
出山は、完全に回復したのか、いつもの調子で呻く。
「新川はどうよ。また余裕?」
「……ん、どうだろ」
「相変わらずだなあ」
彼は大きく息を吸い、アイスで冷えたであろう空気を一気に吐いた。
「なぁ、俺の勝手な意見、聞いてくれるか?」
出山の少しだけ改まったその言い方に、ただゆっくりと頷く。
「新川はさ、基本的に心の中にあることを他の人に言わないところあるだろ? それがまあ、なんていうかな。俺だったら何かあったらすぐ誰かに言って楽になろうとするけど――ほら、ちょうど今みたいに。けど新川の場合、自分で自分のことはこなして、悩みとかも自分自身で受け入れて解決してるのかなって思ってて、だから会った時からすごいなこいつー、とか思ってたんだけどさ」
少しだけ間を置いたのは、恥ずかしさを紛らせるためだろうか。
「たまーにしんどそうな表情してると、心配になる。爆発すんじゃねえかって。まあ、新川が言ってこないならわざわざ聞かないけど。一応何かあるんだったらいつでも聞くからな?」
「ありがとう」
「おう、テスト期間中、勉強以外だったらなんでも大歓迎」
自分が自殺しようとしていることはわかった。正直、そこに関しては、別によかった。ずっと思ってた気持ちを理解できた。
改めて考えると、思う。姉に対するいじめも、父の死に何もできなかった自分も、二人の死自体も、勝手に立ち直ることが正解だと考える人への鬱憤も、何も割り切れてない。でも、割り切れていないことを理解した。それで十分だ。週末、僕がどうなるのかは、考えても無駄だと思った。別に生きることに執着もしていない。
だから、晩ご飯を食べた後、僕は自室でテスト勉強なんかせずに彼女のことを考えていた。
とりあえず、彼女にはもう一度ちゃんと謝らなければならない。自分自身が人との関わりを避けるようになった原因、それと同じことを彼女にしたのだから。
彼女はずっと、周りを見て生きていた。
気を使いながら周りの人と関わってきた。
あれ。ふと何かがひっかかるのを感じた。
ずっと、死のうとしてる彼女が自ら他の人と関わろうとする理由がわからなかった。だから、僕は彼女に対して疑問を持ったのだ。
その疑問は今でも変わらない。死ぬことを理解しているのであれば、関わりを増やす必要は全くない。
消極的な人付き合いに慣れた頭で考えてみる。
人はどういう時に仲良くする?
必要なコミュニケーションを取るために、と言っていた。
必要な時。
彼女の言ったことがその言葉通りの意味なら。
死ぬつもりなのに、必要なコミュニケーションって、なんだ。わざわざ行っていなかった部活にまで参加して人と話す理由って、なんだ。
僕と同じ?
冷たい汗がつつっ、と背中に流れる。
なにか、とんでもない思い違いをしてる予感がおもむろに湧き上がってくる気がした。
ある仮説が浮かぶ。
同じ日に死ぬ、と言っていた。
それなら彼女は――
父の時も彼女の時もちょうど一ヶ月前に聞こえたのだから、彼女が聞こえたのも、初めて僕をご飯に誘ってくれた日なのだろう。
彼女の今までの行動を思い出す。
僕をご飯に誘ってくれた彼女。
帰る前、彼女は財布を持った手を握った。そこで僕は二回目の声を聞いた。彼女も二回目の声を聞いていた。
それ以来、彼女が僕に触れることはなかった。
バスの中では、彼女が席を一つ離すように促した。あれも、遊ぶため以外の理由があるのかもしれない。
それに。
彼女に疑問を持ち始めた頃、ちょうど彼女から誘われたケーキのイベントに行った。何も考えず、せっかく誘ってくれたんだから、と考えていた。チャンスだ、なんて。
その後も、彼女は僕を誘おうとしてくれていた。
思えば毎回彼女が誘ってきた。
いつも、彼女は僕のことを心配していた。
あれだけ人のことを考えて行動する彼女が、他の人から僕の情報を集めることに違和感を感じていた。彼女ならば、それによって僕に及ぶ影響を考えられるだろう。それに、やっぱり彼女の性格なら、なにも考えずバイト先を言うなんてことはないと思う。しかも彼女は、僕が嫌がることを理解しているようだった。
連絡先を聞きにわざわざ教室に来た時もだ。
今から考えたら彼女がする行動には思えない。
そんなにタイミングよく、彼女が誘うなんてことが起こりうるのだろうか。
僕は今までしてきた大きな間違いに気づく。
ずっと、彼女が僕のために関わる機会を作ってくれていたのだとしたら。
僕にとってタイミングが良いのなら、彼女にとってもそうで、その状況は彼女によって作り出されていたなら。
全て、コミュニケーション能力の高さで片付けていた。何も、彼女のことを見ていなかった。
彼女は、僕と同じなんかじゃない。
振り返る。僕はなにをした?
彼女に触れて声が聞こえ、彼女が死ぬとわかった。自殺するはずの彼女が楽しそうにしていることに疑問を持った。それだけ、それだけだ。
彼女のために何もしてしない。
彼女がずっと僕のために動いていてくれたのにもかかわらず、僕は彼女が掴んだチャンスにおんぶに抱っこだった。
父の時と何も変わっていない。
僕は、またみていただけだ。
自分の感情に気づき、背中に怖気が走る。
どうしようもないと思っていた、それ以前の問題だ。
未だなお、本心で彼女のことを救おうとさえ思っていなかった、のだろうか。
身近に人が二人も死んで、目の前で死のうとしている人がいるにも関わらず、彼女が自殺することを、仕方ないとでも思っていたというのか。
ひとでなしだった。
そうか。自分が死ぬから、彼女が死ぬのはダメだとか言いながら、実際は周りなんて、どうでもよかったのだ。
挙げ句の果てに彼女を傷つけた。身をもって体感したはずの鋭利で優しい言葉を、彼女に投げつけた。
遅いけど。もう、絶対に綾さんを傷つけてはいけない。今更かもしれないけど、せめて今からはもっと彼女のことをしっかり見なければならない。
そのために僕はどうすればいい。
周りから正しいと思われる行動が正しくないかもしれないと気づいている今、僕は何をすればいい。
視線をずらせば彼女に渡そうと買ったチョコレートの箱が机に載っている。僕はそれを見えないところにずらした。
その後、部屋を出てゆったりと歩き、リビングに行く。
食事が終わった後はいつも部屋に篭っている僕がリビングに現れたことに驚いたのだろう、ダイニングテーブルについていた母の声は少し上ずっていた。
「どうしたの?」
「ねえ、お母さん。お姉ちゃんは」
テーブルの上に載っているものが視界に入り、僕はそれ以上言えなくなる。
――お姉ちゃんは、死んで幸せになれたのだろうか。傷ついた心を癒すことができたのだろうか。お父さんは、命を絶つことで逃げたい何かからちゃんと解放されたのだろうか。
母は、最初からずっと割り切っていないのだろう。眼下には昔撮ったアルバムが広げられていた。
普段話さない話題に僕が触れたことで、空気が張り詰めているのがわかる。
「お姉ちゃんがどうかしたの?」
「いや……」
「何よ」
「いや、なんでも」
「最近どうしたの。なんか変よ」
それはそうかもしれない。
母は喉をつまらせたように呻く。
「芳樹まで死んでしまったら……」
「やめて」
僕は話を切る。母が目を見張るのがわかった。
「そういうのはやめて」
ただ、そう言い残して部屋に戻った。
彼女を一番傷つけない方法を、僕は慎重に考えなければならない。
「出山、アイス食べよう」
僕が言うと、「おう」と素っ気なく相槌を打ち、後ろをついて来てくれる。
食堂には、昨日より多くの人がいた。みんなテストへの不満をアイスにぶつけでもしているのだろうか。
どうやら僕の予想は当たっていたらしく、自販機のボタン全てに売切の光がついていた。
「うそー、最悪」
大袈裟に嘆いた後、出山が悪い顔をしてこっちを向く。
「抜け出して駅前に買いに行くか? あ、けどバイトあるから時間無理か」
彼がおどけて走るそぶりを見せる。
「いや、まだ時間ある。行こうか」
聞くことが聞くことだからもう少し、落ち着きたい。
「よっし」
二人して自転車で駅に向かう。
自転車を漕ぎ始めてすぐ、後悔する。
「さっむー」
三月に入ったと言っても、外は肌寒く、自転車に乗ると顔に当たる風が痛い。
けど、全身に当たる冷たい風が僕の心の乱れも取り去ってくれる気がした。自然と口が開く。
「聞いていい?」
「勉強の話じゃなけりゃ何でも」
出山は空気が重くならないように促してくれる。
「……大切な人が死ぬほど悩んで、自殺するって決めたらさ、出山ならどうする?」
「ええ! 新川死ぬの!」
そうなるか。彼の驚きを宥めるように僕は言う。
「ああ、違うよ。そうじゃなくて。昔、近くで死んだ人がいて」
嘘は言ってない。
「ああ、そういうこと」
彼はすぐ、何か納得したように頷き「んー」と考えてくれた。僕は駅に向かって足を回しながら、彼の反応を待つ。
「これ、思ったこと正直に言っていいんだよな?」
しばらく考えた後、彼は口を開く。
「もちろん」
「……じゃ、あくまで俺の意見だけど」
彼は自転車のスピードを緩め、話を始める。
「死ぬほど悩んで自殺するってなったんだから、どうしようもないかなって思うかな。自分の大切な人なら話聞いて一回は止めようとするだろうけど、真剣に悩んだ結果なんだったら、納得してしまうかも」
「どうして?」
「……一回痛い目見たからかな」
僕が黙っていると、彼は訥々と話し出した。
「死ぬとかじゃないけど、部活でも同じようなことあったんだよ。ずっと小学生の時から一緒にやってた友達が高校入学してすぐに大怪我して、一年半は運動できないってなってさ。俺も長い間続けてるからなんとなくわかるんだけど、大袈裟じゃなくて部活が全部なわけ。だから、そいつからしたら生きる楽しみ取られたようなものなんだよ。で、そいつがそんなにブランクできるんだったら続けてても意味ない、って言い出して。俺、その時必死になって引き留めようとしたんだよ。結局、溜まってたストレスが爆発して、そのまま喧嘩してそいつ部活も辞めちゃったんだけど、その時に理解したんだよ。俺が一緒に部活やりたいと思ってる気持ちに嘘はないし、けど、それでも怪我もしてない俺がただ続けようって言うのは、そいつにとっては負担でしかないんだって。続けたいのに一年半棒に振ることになって一番絶望してるのそいつなんだから。で、それ以降ずけずけと人の心に入り込もうと思わなくなった」
そう言って「でもまあ」と付け足す。
「ただ、そんな冷静に言ってるけど、実際命がかかってたら勢いで止めてしまうかもな、どうだろ」
「そっか」
「まあ、正解とかはわかんねぇけど」
出山の言ったことは、真っ直ぐに染み込んでくる。
「出山、ありがとうな」
「なんだよ」
僕はもう一度、大切に大切に、今までで一番心を込めてお礼を言った。
昨日の放課後の出来事は、ただ、綾さんに、次の日つまり土曜日にある場所に付き合ってもらう約束をしただけだった。
綾さんも、もう覚悟を決めた様子で頷いた。
その覚悟が、僕と反対を向いているのは知っている。
朝。
姉の部屋に置いておけば、母は読むだろうか。母が起きてくる前に、姉の部屋に忍び込み、読み終えた本を仏壇に立てておいた。
長い間避けていたその部屋に足を踏み入れるのは、意外と難しくなかった。けど、中にいると感情が揺れ動きそうで、少しも埃が見当たらないその部屋から急いで出る。
そっと扉を開け、家を後にした。
今日、墓に行くということは綾さんに伝えていた。
正直、なにも結論は出ていなかった。
二つ返事で首を縦に振った彼女も、何を考えているのかはわからない。僕だって、何をすれば彼女が救われるのかいまだに理解できていないのだ。
彼女の自殺を無理やり止めるとか、そういう単純なことじゃだめなことだけはわかっている。そんなことしたところで、彼女がまた後日自殺を図る可能性は取り除けないのだ。だからひとまず、一ヶ月僕のことを気遣ってくれた彼女に、姉と父に会って欲しかったのだ。会ってもらってから、話をしようと思っていた。何か変わるかどうかもわからない。けど、そうする他にどうしようもないのだ。
そもそも、彼女のためを思うなら、彼女の自殺を認める方がいいのではないかという考えも僕の中に存在していた。
待ち合わせの駅にいた彼女はいつもより心なし控えめな服装をしていた。それが意味するところは、わからない。
「私も昨日、お墓参りしてきたの」
向かう途中、彼女は平坦な口調でそう告げた。
僕はその彼女の発言に無為な詮索をすることなく「そうだったんですか」と相槌を打つ。なぜか心が落ち着いてる自分がいた。ゆったりと流れていく雲を眺めながら訊く。
「言ってた友達、ですか?」
「うん。家の仏壇とおばあちゃんのお墓にもお供えしたの」
言って、鞄の中から真っ赤な甘栗の紙袋を取り出す。
「で、これ」
「相変わらず好きですね」
「うるさいなあ、もう。お墓に供えておいた分は一日晒してるから食べられないけど、仏壇のは一日経ったら食べなきゃ」
彼女はそんな持論を持ち出しながら栗を一つ口に入れる。
「いる?」
僕が素直に手を出すと、栗を持った彼女の手が僕の上に載せられる。
何度目だ。僕は聞こえる声に耳を傾けることなくお礼を言う。
口に入れ、歯で噛み砕くと、ふわりと甘い味が広がる。
「美味しいです」
「でしょ」
そこから僕たちは他愛もないことを話しながら歩いていた。本当に他愛もないことを。別に意識的にそうしていたわけじゃない。けど多分、二人とも話すタイミングを待っていたのだろう。
他愛もないこととは主に、向かっている場所についてで、話していると、彼女の家族も今向かっている場所に納骨されているということを知った。
他にした会話といえばこのくらいだ。
「これなかったら、綾さんとこうやって話してることもなかったんですよね」
手を見ながら言ったから彼女にも何のことか理解できただろう。
「そうかもね、芳樹くんあまり近づくなオーラ出てるし」
「そうですか?」
これでもうまく隠しているつもりだ。
「わかるんだよ、何となく」
「そうなんですか。あ、そういえば」
同じように声が聞こえるなら。
「綾さんも耳鳴りします?」
「そう、毎朝。嫌になっちゃう」
明日になればどうなっているかわからない二人でするなんでもない会話は、すぐに終わりを迎える。到着したのだ。
中へと進む僕の後ろを彼女がついて歩いてくる。
ゴクリと唾を飲み込む。
母に連れて来られる時以外でここにくることはなかった。姉や父の記憶が呼び起こされる場所に自分からは近づかないようにしていたのだ。それに、墓を見て心が動かされるのが嫌だった。そこには、新川ではない苗字が彫られているから。数年前まで毎日のように書いていたその苗字を見ると、心の奥がかき乱されそうになる。今から思えば、その事実に気づきたくないから、ずっと来なかったのだろう。
けど、もうわかっている。
自分が、割り切ることなんかできないと、僕はもう知っている。
「僕、一回中学の時に苗字変わってるんです。姉が死んで、父が死んで、それで。学校で知らない人にも苗字が知られてしんどかったから」
彼女は黙って僕の話を聞いている。沈黙が、ありがたかった。
近寄りづらく今まで命日くらいしか来ていないのに、僕の足は迷うことなく目的の場所へと進んでいく。
今日なら、その墓を見ても大丈夫な気がした。
母だろう。雑草などは全くなく、石碑が日の光を反射している。毎週のように母はこの場所を訪れているのだろう。
『最上家之墓』
そこに書かれている姉と父の名前。
母の旧姓に戻す前の、数年前までは毎日のように書いていたその苗字。
姉と父の顔が頭の中に浮かび、僕は思わず目を瞑る。
ただ耳の奥では、それほど不快に思えない耳鳴りがしているみたいだった。
その音に耳を傾けながら、僕は頭の中に浮かんだ姉にゆっくりと話しかける。少し、姉が微笑んだ気がした。
お姉ちゃん、僕。
気づく。いや、それより先に。
先に紹介すべき人がいる。
僕は父と姉に綾さんのことを紹介しようと、僕は少し後ろで待っている彼女の方を振り向く。
――と、そこには彼女の姿がなかった。
「綾さん?」
え、さっきまでちゃんといたはず。
辺りを見回す。今通ってきた道にも彼女はいない。不意にねっとりと暗闇に取り囲まれたような不安が生まれ、僕はもう一度彼女の名前を呼ぶ。
その呼び声が空気に溶けても、彼女からの返事は返ってこなかった。
ふと、墓石の方へと目をやると、端に赤いなにかが映る。
右端にある小さめの墓石。姉の墓石の足下、そこに赤い紙袋が立てかけられてあった。
――天津甘栗
それを目にした瞬間、全身の毛穴から汗が噴き出すのがわかった。