父や姉が死んだ時、こんな気持ちは間違いだと心の中で思いながら、はっきりと心の奥に湧き上がってくる感情があった。
多分、畏敬なんだと思う。
決して死への憧れがあるわけでもないし、自殺なんてそれまで考えたこともなかったはずだけど、自分の知らないレベルで彼らが悩んでいることに、一種の尊びのような気持ちが存在していた。
僕はそれまで、特に波のある生活をしてきた訳じゃないから、父と姉が自殺という道を選ぶほどに苦しんだことに、中学生ながら敵わないと感じてしまった。
だから、話を聞いていたら何か変えられたのだろうかという後悔と同時に、聞いていたところで自分には何もできなかったんだろうと、そう確信していた。
――――――
前のカゴに入れた箱が揺れないように、家へと自転車を走らせていた。進行方向に見える空は、すでに色を変え始めていた。
親にケーキを買うなんて初めてのことだったから、迷って時間がかかってしまった。
ただ、僕も含めバイトをしていない中学生の多くが、親にプレゼントなんて買わないだろう。
だから、その日初めて父親にプレゼントを渡そうと思ったのには、理由があった。
父が姉に続いて死ぬことに薄々気づいていたから。
正確には、なぜかそれを知らされていた。
一ヶ月前、姉が中学で受けていたいじめに耐えられなくなって自殺をした時のことだ。
姉の匂いが色濃く残る家で塞ぎ込んでいる僕を気遣い、両親は祖父母の家に僕を預けてくれた。
慣れない布団と夢の中で、毎晩姉の声が聞こえる悪夢をみていた。毎日が不安に染まり、ずっと耳鳴りが治らなかった。
数日後、学校を欠席していた僕の様子を見にきた父が、僕の頭を撫でた時だった。
安心なんて、させてくれなかった。
少し疲れた様子の父の表情を見て安心し、溢れそうになった涙が、耳に届いた声のせいで一瞬にしてどこかに引っ込んだ。
父の声じゃない。
その声は、耳鳴りの鬱陶しさを最大限まであげたような声音で、それが頭の中に直接響いてくるように聞こえてきて、僕はその内容に耳を疑った。
父が一ヶ月後に自殺をするということを、知らされたのだ。
父を見上げても、もちろん口は動いていない。
その後も声は続いていたけれど、もう、何も頭に入って来なかった。
衝撃的すぎて、訳がわからなかった。
後から考えれば、その時に父に直接事実を伝えていれば良かったのかもしれない。
ただ、姉が亡くなったことで精神的におかしくなっていると自覚していたから、頭に入ってきた声が、幻聴のようなものだと、そう思い込んだ。
それに、ここ最近夢の中でずっと聞いている姉の声や、治らない耳鳴りと変わらないものだと信じ込んで逃げるという道は簡単に摑むことができた。
そう思い込んでいたはずなのにも関わらず、ちょうどその日から一ヶ月後に父にケーキを買って行ったのは、無意識に日にちを数えていて、当日、起きてからずっと感じていた胸騒ぎが時間が経っても収まらなかったからだ。
祖父母の家から自宅に戻ろうと思ったのは、姉が死んでから初めてのことだった。
僕は刻々と大きくなる胸騒ぎを抱えながら自転車を走らせた。
その胸騒ぎは、正しかったらしい。
父は僕が自宅にたどり着く少し前に首を吊った。
人間というものはその身に起きた嫌なこと、後悔すべきことをそのままの濃度で覚えておくことが尽く苦手な生き物なのだろう。
僕も人間だ。だから、父が死んでからその日までの間、記憶の中にあるその声の強烈さが時間の経過と共に薄れてきてしまっていた。
消化できた、と認識していた。
その日までの間、ということは、その日、忘れていたはずの熱さを思い出したということだ。まさか思い出させられるとは、思ってなかった。
「そろそろ上がっていいぞー」
カフェ『Ete Prune』の店長である樺さんの声でシフトの時間が終わったことを知る。この店は、僕が高校生になった時から働かせてもらっているカフェだ。
「お疲れさん、今日もありがとうな」
キッチンで最後のお客さんが頼んだパスタを茹でている樺さんがねぎらいの言葉を送ってくれる。見た目は少し怖くてがっしりしているけど、僕は店長のこういう人柄の良さが好きだった。よく店に来るお客さんと店長の仲がいいのもその人柄のおかげなのだろう。
「あ、綾にも上がっていいって言ってくれるか」
彼にそう言われ、レジ打ちをしているバイト仲間にシフトの終わりを告げにいく。
店内を見渡すとすでに客は減り、ちらほらと晩ご飯を食べている人が残っているくらいだった。
この『Ete Prune』は、内装はアンティーク調で、落ち着いた雰囲気が店内全体を覆っている。全くもって店長の趣味には思えないのだけど、シックにまとまっていて、お客さんからの人気が高い。僕はここで放課後に週三回バイトをしているのだ。
いつも通りの優しげな表情で「気をつけて帰れよー」と言ってくれる樺さんに挨拶を済ま
せ、控室へ向かう。着替えるために先に入っていたバイト仲間と入れ替わりで控室に入る。すれ違いざま、ふわっと甘い香りが僕の鼻をかすめた。あまり意識しないように無表情を崩さずに会釈して、さっさと扉を閉める。
一人になった空間で軽く息を吐き、僕はエプロンと「新川」と書いたネームプレートを外した。
綺麗に畳んだエプロンと引き換えに荷物を回収して裏口から出ると、先に帰ったはずの彼女が、なぜか裏口を出たあたりで佇んでいた。
彼女は吉水綾さんという僕より一つ年上の先輩だ。学校が同じだから、バイト中も時々話をすることがあった。と言っても、彼女から話しかけられて、それに僕が反応することが多いんだけど。
だから僕たちは、バイト後にお互いの帰りを待ち合うような関係ではない。決して。
どうしてなのか分からないけど、扉をあけて顔を出した僕に、彼女は待っていた人を迎える表情をした。
彼女の意図を理解できず、とりあえず当たり障りのない「綾さん、お疲れ様です」を会釈とともに言う。
「お疲れさまー芳樹君」
綺麗な先輩の不可解な行動に戸惑う僕に対し、彼女は明確な意思を持って待っていたらしく、僕の後で扉が閉まるのを待っていたように、話し始めた。
「先週はありがとうね! バイト代わってもらって」
「……いや、全然」
彼女は先週、祖母が亡くなったことによる忌引きでバイトを休んでいた。もともと週五でバイトをしていたから、彼女のシフトの穴を埋めるため、僕のシフトが急遽増えたのだ。
だから彼女の言葉は間違っていないのだけど、僕の反応が少し遅れたのは、シフトに入る前にも一度お礼を言われた覚えがあったからだ。
「ごめんねー」
眉を下げて謝る彼女。わざわざ僕にもう一度それを伝えるために待っていてくれたのだろうか。
確かにバイトを増やした影響で、先週は部活を休むことにはなったけど、別に彼女が謝ることなんてない。身内の誰がいつ死ぬかなんて、普通はわからなくて当たり前だ。
「仕方ないですよ」
その思いをまとめた言葉を送る。彼女は、申し訳なさそうな表情を崩さなかった。
「えっと……それだけですか?」
思わず聞いてしまう。
「いや」
彼女が首を振る。
「今度ご飯行かない?」
「えっと……」
「お礼に奢るから」
「いや、そんなのいいですよ」
「いいや、私が――」
彼女はコミュニケーション能力が高い。バイト中だって、お客さんと会話して盛り上がり、すぐに仲良くなる。それはこんな時にも発揮されるらしい。彼女は、このタイミングで自然に人に触れられる人間だったのだ。
肩に手を置かれていることに気付き、それだけだったら彼女の勢いに負けて思わず首を縦に振っていただけなのかもしれないけど、その時に、僕は忘れかけていた熱を、思い出した。
心臓を、持ち出されたような感覚になった。
しばらく聞いていなかった声が、また、脳に直接入ってくる。
耳鳴りを、極限まで不快にしたような、そんな音。
今度も触れた人――綾さんが、一ヶ月後に自殺をするという内容だった。
僕は耳を塞ぐ。
「……大丈夫?」
彼女の声が、不快音に重なる。
心に穴が空いた感覚の中で、僕は何も声を上げることができなかった。
音が止み、塞いでいた耳を外す。
「えっと……来週の水曜のバイト後とかどう? 空いてたりしない?」
僕の行動に何を思ったのかわからないけれど、彼女は無駄に早口で訊いてきた。いや、実際は普通に訊いただけなのかもしれない。僕が状況に置いてけぼりになっていたことは確かだ。
その強烈な声のせいで、頭が正常に働いていなかった。
目の前にいる彼女がどんな表情をしているのかもわからなかった。すでに肩から手を離されていることはわかったけれど、かと言って、余韻がなくなるなんてことない。
だからたぶん、僕は空っぽのまま、おそらく頷いたのだろう。
「じゃあ。また連絡するから」
彼女がそう言って、立ち去るのを呆然と視界に捉えていた。多分彼女に心配されないように、手は振っていたと思う。
目眩を抑えることができず、僕はしばらくその場でずっと呆けていた。
何分そこにいたかは分からない。ただ樺さんが、裏口から入ってすぐのところにある倉庫で作業を始めたのだろう。その音で我に返ったのはかろうじて覚えている。
その日寝るまでずっと、心臓は戻ってこなかった。
寝ている間に、心臓は元の場所に帰ってきたらしく、混乱した感情も昨日と比べたらずいぶんと治まっていた。
ただそれは、毎朝する耳鳴りに耐性ができたのと同じようなものだ。衝撃に少しずつ慣れてきたというだけで昨日の出来事が頭の中で整理されたというわけではない。
だから母に言ってとりあえず午前中は学校を休むことにした。熱もないのに学校を休むことに母が過剰に反応するかと思ったけれど、昨日家に帰ってきたときの僕の様子を見てだろう、本当に体調が悪いと思ってくれたらしく特に何も追及されなかった。
実際、頭痛といつもよりひどい耳鳴りを感じていた。
普段だったら二度寝したくて堪らないのに不思議と目が冴えてしまい、寝転んだまま天井を眺めていた。
仕方なく分厚い羽毛布団をもう一度肩までかけ、昨日のことを思い出す。
父の生前に聞いてから昨日まで、あの声を聞くことは一度もなかった。
だから、油断していた。
その声が聞こえた事実を父が声の通りに死んでなお疑っていたというわけではない。けど、あれは何かの拍子にたまたま聞こえただけだ、と信じてはいた。
要は、父の時が特殊だと思ってしまっていたのだ。また聞こえるだなんて思っていなかった。だから、父が死んでから中学を卒業するまでの間、人に触れられることを避けていた僕も、高校に入ってからはあまり意識しなくなっていた。
でも、そんなことより。彼女が、死のうとしているなんて。声が聞こえたこともそうだけど、まさかバイト先と学校の先輩である綾さんに触れられた時に聞こえるとは、思わなかった。
普段から、楽しそうにお客さんと会話しているのが彼女の印象だったから、そんな彼女と聞こえてきた「自殺」という言葉をつなげることができなかった。彼女が自殺を考えているなんて、思えない。
それに。
彼女はどうして僕のことをご飯に誘ったのだろうか。
いくらシフトを代わったお礼だとしても、死を考えている人間が昨日みたいに誰かを誘うことなんてあるのだろうか。誘われて行くのならまだしも、自分から進んで、なんて。
もし、自分が同じようなことを考えているとしたら。そのとき僕は誰かとご飯に行こうとするだろうか。ないと思う。
――いや。違う。
別に死を考えていたとしても、周りの人に気づかれないように振る舞うのだ。死のうと考えているしても、僕だって行動を変えることなんてないはずだ。
僕が人を誘わないのは、ただそういう性格だからだ。
ああ、そうか。もう知っていた。姉や父も同じだ。
別に、前兆なんてなくたって、周りに気づかれてなくたって、死のうと考えている人はいる。すでに経験していることだ。
それに、僕はその聞こえてきた内容が嘘ではないことを知っている唯一の人物なのだから。
これ以上考えたところで何かがわかる気はしない。
そもそも、考えたところで、もし本当に死ぬことを選択するまで悩んだ人の気持ちなんか、悩みもない僕にわかるはずがない。
ずっと頭の血管が悲鳴を上げていた。
やめよう。とりあえず、既に行くと言ってしまった彼女の誘いには、何も考えずに乗ればいい。僕は目を瞑って思考と光を遮った。
頭を使わないのは正解だったらしい。僕は知らないうちに眠りについていた。
目覚めた時、ちょうど昼休みが始まる時間だった。頭痛が治まっていたので学校へ行くことにした。
ゆっくりと通学路を自転車で進んでいき、学校へとたどり着く。その後、騒がしい廊下を通って自分の教室へと向かう。
僕が教室内へと足を進めずに空いたままの扉の前で立ち止まったのは、教室が昼休みにしてはなんだか異様に静かだったからだ。
実際、授業中くらいの静寂が教室内に広がっていて、何事かと思ったけれど、原因は一人の女子生徒が僕のクラスにやって来たことらしかった。
弁当を食べているみんなの視線が、その生徒がいる教室後ろの扉に集まっていて、前の扉から入ろうとした僕も自然とそちらを向く。
彼女は誰かを探しているらしく、扉に手をかけて教室内を見渡していた。
目が合う。
彼女はこっちを向いたまま笑顔で手を振る。途端、教室中に波が立つのが分かった。
僕は急いで引き返し、廊下側を通って彼女の所に行く。
僕の動きを追うようにこっちを向いた彼女に「行きましょう」と言い、その彼女が首を縦に振ったのを見ると同時に階段の方に向かった。
立った波はどうにもならないけど、あの空間で話をして更に波を荒げたくはない。他のところに行くことが波を荒げないことになるかは微妙だけど、あの空間で落ち着いて話をする自信はなかった。
階段の踊り場まで来て、振り返る。ついてきた綾さんも立ち止まる。
「どうしたの、重役出勤?」
おどけたような彼女の声がクリアに耳に届く。昼休みの喧騒からこの場所だけが取り残されているみたいだった。
「ちょっと体調悪くて」
「え、大丈夫?」
「はい、寝不足なだけです」
「……そっか」
少し、歯切れが悪そうな彼女の口調。昨日の僕の様子を思い出しているのだろうか。
「でももう大丈夫です」
僕は彼女の思考を断ち切るようにかぶせる。
「……よかった、気をつけないとダメだよ。風邪、流行ってるし」
「はい。それより、どうしたんですか、いきなり教室にくるなんて」
「ああ、そうそう。ごめんね、昨日の帰り、また連絡するとか言っといて、連絡先聞いてなかったなと思って」
バイトは連絡先を交換したりグループを作ったりしなくても樺さんとだけ連絡先を交換していれば十分なので、今まで綾さんと連絡先を交換する機会はなかった。
だとしても。
「それでわざわざ来てくれたんですか」
別に急いで連絡先を交換しなくたって、バイトで同じ時間帯のシフトになった時でいい。それなのに。
「わざわざわざってほどじゃないけどね」
彼女はなぜか、そんな風に変な言い方をした。クラスに突撃してくるのはどうかと思うけど、でも、せっかく来てくれたので素直に感謝するべきだと思い、僕は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「それより、ごめんね、なんか教室に入りづらくなっちゃったりする……かな?」
突撃はしたけど一応今の状況を正確に理解しているのか、彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ああ」
さっき教室を出ていく時に感じた教室中からの視線を思い出す。けど、面白がって直接訊いてくるであろうクラスメイトはいなかった。
「まあ、大丈夫だと思いますよ」
バイトのことはあまり言いたくないし、聞かれたとしても適当にごまかしておけば良い。
「そう? よかった。で、交換、いい?」
「あ、はい」
彼女とスマホを合わせ、連絡先を交換する。
「よーし、芳樹くんの連絡先、ゲット。じゃあ、また明日バイトで」
彼女に手を振った後、すぐに戻ろうとしたけれど、教室の空気を想像し、僕は方向を変える。トイレで時間を潰してからチャイムが鳴るギリギリに教室へと戻ることに決めた。
母は、熱さを忘れられない人間なのだろう。
授業と部活を終えて無事に十九時前に家に帰ると、母はリビングではなく、リビングの奥にある和室にいた。
その和室はもともと姉の部屋で、今は使われていない。が、僕が学校から帰ってきたときに母はよくその部屋で座っていた。僕は姉が亡くなって以来、一度もその部屋の扉を開けていない。
玄関で言った時は反応がなかったから、リビングまで入って二度目の「ただいま」を言うと、母がのそりと和室から出てきて、「おかえりなさい」と返してくる。
「ごめんね、まだ晩ご飯作ってなくて」
母は申し訳なさそうな笑いを浮かべる。週に何度か、こういう母の調子が悪い日がある。
「今から作ろうと思うんだけど……どうする? もうちょっと待てる?」
「うん、じゃあ手伝うよ」
「え、でも――」
「大丈夫だから」
すまなそうな表情をする母に対して被せるように言う。
料理を作りながらの方が話をしやすいし、何か作業しながら聞く方が、母の精神的にもいいと思ったのだ。
「もう体調大丈夫なの?」
「平気。学校に行ったらだいぶ楽になったし」
学校という空間が自分にとっては良いものだという言い方をすると、母の元気のない表情に少しだけ微笑みが浮かぶ。
しばらくは淡々と晩ご飯の準備をし、機をうかがう。
タイミングが大事だと思ったから、母が姉と父の分のおかずを取り分けている時に切り出した。
「来週の水曜なんだけど」
「ん」
目論見通り、母は作業をしながら口だけで返事をした。
「バイトの後さ、晩ご飯食べてきてもいいかなって思って」
もう自分の中では決まっていたけれど、「食べてくるから」というよりは母が許容しやすいと思い、その言葉を選んだ。
案の定、母は眉をひそめてこっちを向いたが「いろいろ教えてもらってる先輩に誘われて」と、お世話になってる先輩からの誘いで断れないという言い方をする。それが免罪符としてうまく作用したのか、母はしぶしぶと言った様子で頷いてくれた。
「バイト終わってすぐに食べるだけだからそんなに遅くならないし」
母が一番懸念していることに念を押すよう言い切ると、心配が少し和らぐのがわかる。よかった、ちゃんと良いタイミングで提示できた。
「後、帰りにケーキ貰って帰ってくるから、お腹開けといてね」
「あら」
今言うか言わずに渡すか考えたのだけど、ここで言っておいて正解だった。母の顔に残った曇りの表情はすぐに柔らかくなる。
「それはお姉ちゃんたち喜ぶわねえ」
食事中も、母はいつもより機嫌が良かったと思う。
母の一番の懸念は、僕の帰りが遅くなりすぎることだ。それをわかっているから僕もさりげなく自分から言ったのだ。
それは、姉が死んだ時間に起因する。
姉が亡くなった日、彼女は晩ご飯の時間になっても帰ってこなかった。
中学に入ってから僕も姉も塾に通っていて、その日は僕も姉も塾の講義がある曜日だった。
僕はどちらかと言うと勉強に不真面目で、塾も親に通わせられていた感覚があったから、自習とかはせずに授業だけ終われば帰っていた。でも姉は違う。僕より一つ年上の姉は勉強に熱心で成績も良く、受験前になると多くの時間を塾で過ごしていたから、家に帰るのが遅くなることが多々あった。
だから、両親もそれに慣れきって、子供が遅く帰ることに対して何も思ってなかったんだと思う。
ただ、母が連絡したらいつも返信があるのだけど、その日は姉からの返信がなかったらしい。それで、先に塾から帰って自分の部屋でごろごろしていた僕に、わざわざ訊きに来たのだ。
でも、母からそれを聞かされた時も僕は全く心配していなかった。姉が塾に残っていると思い切っていたから。
「自習室にまだ残ってたよ」
帰り際、姉がちょうど自習室に入る姿を見かけていた。
窓の外に広がる深い藍色を見ながらそう伝えると、姉の頑張りを理解している母は「勉強の邪魔しても悪いわね」と、リビングへと戻った。
中学校の屋上から姉が飛び降りた、と連絡があったのは、その一時間後だった。
あの時僕も母と同じように心配していたら、何か変わっていたのだろうか。