*
「春子さんはあなたにこれを伝えてほしいと。そうおっしゃっていましたよ」
「そ……んな」
月野から話を聞いた桜は自分の口元を覆った。
「……春子さんを恨みますか?」
桜はぶるぶると首を横に振る。
「恨むわけないです!! わたし、全然知らなかった。お母さんもおばあちゃんも……そんなことずっと抱えてたなんて知らなかった……」
「これ。春子さんから渡してほしいと頼まれたものです」
月野は白い箱を机に置いた。
「春子さんが自室の引き出しに隠していた秘密の箱だそうです」
「……わたしが開けてもいいんでしょうか」
「ええ」
桜は躊躇いがちに白い箱に手を伸ばす。
ゆっくりと蓋を外すと、中にはたくさんの手紙が入っていた。差出人の名前はないが、今の話を聞いていればそれが誰からのものかすぐに分かる。
「なんだかんだ言ってちゃんと取っておいたんですね。おばあちゃんらしいなぁ……」
一番上に置かれていたひとつだけ色の違う封筒。
それは春子からの手紙だった。月野は静かに微笑んで桜に向かってこくりと頷く。
〝桜へ
この手紙を読んでるってことは、あの色白優男に全部聞いたってことだね。
まず最初に謝るよ。父親のこと、嘘ついててごめん。こっちに来てから色々と考えたんだ。アタシはなんてことしちまったのかってさ。実の父親と生き別れにさせ、その存在も隠して、あげく自分だけ被害者ぶって、桜のことも傷付けて。あの男だってつらかっただろうに。当時のアタシにはそんなこと考える余裕なんてなかった。娘を失った悲しみとあの男に対する憎しみばかりが心を支配していた。アタシの我儘で桜を縛り付けてたんだ。本当に悪いことをしたと思ってる。
縛るものがなくなったんだ。これからあの男と会うも会わないも桜の自由だ。もう自分の好きにしていいんだからね。
さて、ばあちゃんはあの世で美菜にたっぷり怒られてくるよ。まだ会ってないけど怒ってるに決まってるだろうからね。おー怖い。
それじゃあ、元気でやるんだよ。体には気を付けて。出かける時の戸締りはしっかりすること。アンタ忘れっぽいからおばあちゃんは心配だよ。これからは美菜といつでも見守ってるからね。
大木春子
追伸:アルバムに一枚だけ残ってた。見たかったら見ればいい〟
封筒を確認すると、中から一枚の写真が出て来た。どこかに旅行に行ったのだろうか。キラキラと輝く大きな桜の木の下で、母と一緒に写るのは楽しそうに笑う男の人。
「……えっ!? こ、この人っ」
「彼があなたのお父さん。五十嵐輝喜さんです」
桜は目を見開いたままその写真を凝視する。そこに写っていたのはバイト先に来る常連客の一人だった。
月に一度必ず訪れる、ボロくて狭い店にはとても似合わない、高級スーツに身を包んだあの男性。
「この人が……お父……さん」
ボロリ。桜の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。それは次から次へと流れ落ち、床にシミを作る。
あの人が父親だったなら、今までどんな気持ちでお店に来ていたんだろう。どんな気持ちでわたしを見ていたんだろう。
「……バカだなぁ」
あんなボロい店にわざわざ通っちゃってさ。あなたはわたしが娘だって事、知ってたんでしょ? それなのに会話らしい会話なんてしたことないし。ただ見るだけで良かったのかな。ほんと、バカだなぁ。
グスグスと鼻を鳴らしながら目元を拭っていると、青いハンカチが差し出される。
「あ、りがとございま、す」
いつの間にやって来たのか、美人な女性がミルクティーのおかわりを淹れてくれた。
「落ち着くから、飲んで」
優しい声色に涙腺が更に刺激される。こくりと頷くと、彼女が立ち去る気配がした。
それからどのくらい泣いていたのだろう。グシャグシャの顔を上げると、温かい眼差しを向ける月野と目が合った。
「落ち着きましたか?」
「……すみません」
ようやく二杯目のミルクティーに口を付ける。……美味しい。ほどよい甘さが胸の中まで届いたような気がした。
「わたし、ここに来るの怖かったんです。本当のことを知るのが怖かった。でも今は来て良かったなって思います」
桜はグシャグシャの顔で笑みを浮かべる。
「お父さんの事とかまだ正直頭がついていけてないです。でもやっぱり、本当の事が分かって良かったと思う。これからどうするかはもう少し考えてみようと思います。月野さん、ありがとうございました」
月野に向かって頭を下げた。
「大丈夫です。桜さんが選んだ道ならみんな協力しますよ。お母さんの言う通り、会えなくてもみんな繋がってますから。もちろんそれは我々もです。だからいつでも僕たちのこと頼ってくださいね」
「……はい!」
涙で濡れた手紙を握りしめ、桜はもう一度グシャグシャな笑顔を浮かべた。
*
「いただきまーす!」
大きな声で叫ぶと、七尾は大好物のいなり弁当をもぐもぐと食べ始める。
「……よく飽きないわね」
隣で同じように弁当の蓋を開けた宇佐美が言った。
「だってこれ美味しいじゃないッスか!! なんだかんだ宇佐美さんだって食べてるくせに~!」
「それはアンタが毎回私達の分も買ってくるからでしょ? ま、美味しいのは否定しないけどね」
ぱくりと一口かじると、甘辛なお揚げがジュワッと口の中に広がり、宇佐美の顔もほころんだ。
「あ、そうそう! オレ、これ買ったとき桜さんから手紙預かってきました!!」
「桜さんから?」
「いやぁ。実は変化の術で黒髪好青年になってるのすーっかり忘れてて、普通にあれからどうですかって話しかけちゃったんスよね。そしたらあっちも気付いてくれて。月野郵便局の皆さんに手紙を書いたから戻るついでに渡してほしいって頼まれたんスよ」
「相変わらず間抜けね」
「誰にだってミスはあるんですぅ」
言い訳をしながら七尾は月野に手紙を渡した。月野は箸を置くと、すぐにその封を開ける。
〝拝啓
月野郵便局の皆さま、先日は大変お世話になりました。えっと、こういうしっかりとした手紙を書くのは初めてなので少し緊張しています。色々おかしい所があると思いますが、ご了承ください。
さっそく本題に入りますが、先日、五十嵐輝喜さんと直接話をしました。
お弁当を買いに来た時に思い切って話しかけたんです。そしたら五十嵐さんその場で泣いちゃって。ちょっとした騒ぎになって大変でした。
その後近くの喫茶店で話をしました。一緒にいられなくてごめん、育ててあげられなくてごめん、ツライ思いをさせてごめん、生まれてきてくれてありがとう、会ってくれてありがとう。許してくれなんて言わないけど、謝らせてほしいんだ。そう言って引くぐらい何度も謝られて、引くぐらい何度も感謝されました。
そこで初めて知ったのですが、おばあちゃんは天国から五十嵐さんにも手紙を出していたらしいです。今まで悪かった、桜にアンタのこと話したから、あとは好きにすればいいという旨が書かれた手紙を数週間前に受け取ったそうなんです。きっとその手紙も月野さん達が届けたんでしょうね。
五十嵐さんは誰かの悪戯だと思っていたみたいですが、いつものようにお弁当屋に行ったらわたしが話しかけてきて本当に驚いたと言っていました。
そして今度、五十嵐さんと一緒にお母さんとおばあちゃんのお墓参りに行く約束をしました。
なんていうか、初めて家族が揃うので今からちょっとドキドキしてます。
きっとおばあちゃんは五十嵐さんが来るのを文句を言いながら待っていると思いますが、この機会に仲直りしてくれたらいいなと思っています。ついでに、そこでわたしの名前に込めたお母さんの気持ちを五十嵐さんに話す予定です。これ知ったら絶対泣くだろうなぁ。あの人面白いくらい涙腺弱いから(笑)
五十嵐さんとは、これから少しずつ近付いていければいいなって考えてます。やっぱりまだ実感がなくて五十嵐さんとしか呼べないけど、いつかお父さんって呼べる日がくればいいなぁ、なーんて。
では、皆さん体に気を付けて。またお手紙書きますね。
敬具 大木桜
追伸:そういえば五十嵐さん、今度のお墓参りに渡そうと思っていた結婚指輪を持って行くそうです。そして、お母さんにもう一度プロポーズをすると意気込んでいます。その指輪は……お母さんとの結婚を認めてもらうため、海外で事業展開を頑張っていた時、自分でデザインして作った世界にたった一つの指輪なんですって。お母さん、喜んでくれるといいな!
カウンターの中で一緒にいなり弁当を食べていた春子が真っ先に口を開いた。
「なんだいあの男。桜と墓参りに来るなんて図々しい奴だね。それに、墓場でプロポーズなんてやるもんじゃないよまったく」
春子の眉間にはシワが寄っているが、口元の緩みは隠しきれていない。
「ふはっ! 春子さんってば素直じゃないなぁ〜!」
「余計なこと言ってるとその細い目さらに細くするよ!!」
「いやいや目は関係ないっしょ!?」
七尾がすかさず反論する。
「まぁ、いい方向に進んでるみたいで良かったじゃないですか」
「フン。アタシは桜が幸せならそれでいいのさ。今までツライ思いさせちまったからね」
「そんなことはありません。桜さんはあなたとの日々を幸せだと思っていたはずです。じゃなきゃあんなに笑顔の素敵な女性にはなれないでしょう?」
そう言って月野はふんわりと笑った。
「……アンタのその善人顔、本当に腹立たしいね」
「不快に思われたならすみません」
春子は拗ねたようにフイと顔をそむけた。
「これ良かったら食後にどうぞ。天邪鬼ッキーです」
「相変わらず生意気だね。この性悪女め」
「春子様ほどではないですよ」
相変わらず散る、激しい火花。
「まぁまぁ落ち着いて。みんなで美味しく食べてるんだから喧嘩はダメッスよ?」
「……アンタはいるだけでイライラするわね。そのアホ面なんとかなんないの?」
「おや、珍しく同感だ。ほら細目、さっさとその面奥にしまいな」
「二人して酷い!! オレだから許してますけど、今の時代そういうこと言ったらすぐ炎上ッスからね!?」
春子と宇佐美の口撃に文句を言いつつも、七尾は得意げな顔を浮かべた。
「でもオレ知ってるんスよ! 口ではそんなこと言ってても、春子さん、ホントはオレ達のこと結構好きっしょ?」
春子の眉間に深い深いシワが寄った。そのまま七尾を冷めたように見やる。
「何バカなこと言ってるんだいこの細目」
「えっ、違うの!? オレは春子さんと話すの好きなのに!? ちょ、それは傷付く!」
「ほら、さっさと残りの弁当食べな。好物なんだろ」
「うう……宇佐美さん、この傷を慰め合いましょう」
「嫌よ」
「即答!? 月さぁ~ん!! 春子さんと宇佐美さんがオレに冷たいー!」
「はいはい。いなり寿司一個あげるから機嫌直しなよ」
「さすが月さん!! 好き!!」
その様子に耳を傾けながら、春子は宇佐美の淹れたお茶をすする。春子好みの、濃いめに淹れられたお茶だった。
「……まぁ。確かに細目の言う通りなんだけどね」
春子は誰にも聞こえないよう、小さな声で呟いた。騒いでる三人を見るその目は、まるで自分の孫を見るような優しい眼差しである。
「月さぁーん! なんか月さん宛に手紙届いてるッスー!」
配達から帰ってきた七尾が開口一番に言った。
「僕に? 誰から?」
「ええっと……名前は書いてないッスけど、月の都からですね」
ガシャーン!!
大きな音に二人が振り返ると、真っ青な顔をした宇佐美が立っていた。足下には黒いお盆と割れた湯呑み茶碗が散乱していて、中から溢れた緑色のお茶が床を汚していた。
「大丈夫ッスか宇佐美さん!!」
七尾が慌てて駆け寄る。
「怪我は? 服とか汚れてないッスか?」
声を掛けられはっと我にかえった宇佐美が七尾を見て言った。
「……大丈夫よ。ごめんなさい」
宇佐美はいつものようにテキパキと動き出し、掃除用具を取りに行くと後片付けを始めた。七尾はチラチラと様子を伺いながら黙ってそれを手伝う。
「宇佐美くん」
少し遠くから聞こえた月野の声に宇佐美はびくりと肩を跳ね上げた。明らかに動揺している。けっこう長い時間一緒に居たけれど、こんな宇佐美は見たことがなかった。
「大丈夫だから」
その声はいつも通り優しさを含んだ柔らかいものだった。月野の笑顔を見ると、宇佐美も安心したように頷いた。
……なんか面白くないな。七尾の眉間には珍しくシワが刻まれた。
「オイ!!」
室内に怒ったような叫び声が響く。声の主は、不機嫌を具現化したらまさにこんな感じだろう、というような顔と態度をした小学生ぐらいの男の子だった。子供にしておくにはもったいないほどの睨みを効かせながら、ズカズカとこちらに近付いてくる。
「こんばんは。いらっしゃいませ」
月野はその睨みに動じることなく立ち上がると、ニッコリと笑顔を見せる。男の子は不愉快そうに顔をしかめ、それでも勢いよく続けた。
「月野郵便局ってここか!?」
「はい。そうですよ」
答えるや否や、怒りのボルテージがグッと上がった気がした。男の子はポケットからくしゃくしゃになった手紙をバン! と月野の腹に叩きつける。手紙はひらひらと床に落ちていった。
「うぐっ」
「ここからこの手紙が届いた!!」
情けなく呻き声を上げ、腹を抑えながらくの字に腰を曲げた月野に冷たい視線を浴びせながら叫ぶ。
「なぁ、ホントなのかよ!! 死んだ人から手紙が届くなんてホントにありえんのかよ!!」
「げほげほっ、ほ、本当ですよ」
「ホントのホントか? 子供だからってバカにしてるんじゃないだろうな!!」
咳き込んでいた月野は背筋を伸ばすと真剣な表情で言った。
「大人も子供も関係ありません。月野郵便局はどんなモノにでも手紙を届けられます。ですから生きてる方から亡くなった方へ手紙を届けることも出来ますし、逆に亡くなった方から生きてる方へ届けることも出来ます」
「じゃあ……」
男の子はぐっと唇を噛むと、目に涙を浮かべながら叫ぶ。
「じゃあ……これが……こんな手紙がホントに母さんから届いたっていうのかよ!?」
床に落ちた白い封筒をばっと指差す。片方の手は何かを我慢するようにしっかりと拳を握っていた。月野はそれを拾い上げると、男の子と同じ目線になるようしゃがみこんだ。
「この手紙は、君のお母さんから届いたものなんですか?」
「……知らねーよ。でも、あの男がそう言ってた」
「あの男?」
「……残念ながら血の繋がってるオレの父親」
「……そうですか」
向かい合わせの至近距離で、月野はにっこりと笑みを浮かべる。
「ところでね。美味しいジュースとお菓子があるんだ。君、一緒に食べない?」
「は、はぁ!? いらねーよ!」
「まぁまぁ。甘いロールケーキでも食べながらゆっくり話そうよ」
「オレはそんなの、」
「宇佐美くん、悪いけどケーキとジュースお願いしていいかな?」
「はい。すぐにお持ちします」
「待っ、いらねーって言ってんだろ!?」
「さぁほら、こっちこっち!」
「ふざけんな! 離せ!」
半ば引きずるような形で、応接室とは名ばかりの狭い小部屋に入って行った。様子が気になった七尾も二人の後を追って部屋に向かう。
行く途中でチラリと宇佐美を盗み見ると、彼女はテキパキとお茶の準備をしていた。
先ほどの動揺が嘘みたいに、すっかりいつも通りになった背中を気にしながら、七尾は応接室に入って行った。
*
ぶすっとした顔の男の子の前にはグラスとロールケーキがちょこんと置かれている。
「君、名前は?」
「…………」
「おーい! 聞こえてるっしょ? 名前はなんて言うんスか?」
「…………」
男の子はシカトを続けている。反抗期も手伝ってか、なかなか生意気そうな子どもだ。月野は七尾に目配せすると、柔らかく笑って自己紹介を始めた。
「僕はこの郵便局の局長をしている月野十五といいます。隣の彼は七尾くん、今ジュースを運んで来てくれたそこのお姉さんは宇佐美くんと言って、二人とも僕の大切な仲間です。さぁ、次は君の番。まずは名前を教えてくれるかな?」
「…………坂本優也」
「優也くんか。よろしくね。今何年生?」
「……小学五年生」
「そっかそっか。あ、遠慮しないでロールケーキ食べてみて? すごく美味しいんだよ」
優也はその言葉に返事をしなかった。代わりに大人二人がもぐもぐと口を動かす。宇佐美はそれを、いや、七尾を咎めるように冷ややかな視線を送りながら、応接室を後にした。
「この手紙は君のお父さんがお母さんから届いたものだって言ったんだね?」
「そーだって言ってんだろ」
「もし良かったら中を見てもいいかな?」
「いいよ。最初から見せるつもりだったし」
月野は遠慮がちに手紙を広げる。
〝お父さんの再婚を許してあげてね 透子〟
真っ白い紙にはその一文だけが黒のボールペンでハッキリと書かれていた。これはやはり……何か複雑な事情がありそうだ。優也は俯きがちに語り出す。
「母さんがこんなこと書くはずないんだ。父さんは俺が反対するからこんな嘘の手紙まで用意して……クソッ! どこまで最低なんだあのジジイ!!」
感情剥き出しでドンと机を叩く。グラスのジュースがぴちゃりと揺れた。
「その……優也くんのお母さんっていうのは……」
「…………死んだよ。三年前の秋に、病気で」
「そうでしたか……」
「その手紙である程度わかると思うけど、父親は今再婚を考えてるらしい」
「……はい」
「……三年だぞ? たったの三年で心変わりするなんて……そんなのってありえないだろ!?」
優也は二人に訴えるように言うと、今までの勢いはどこへやら、しおれた花のように背中を丸め、しゅんとした態度でぼそぼそと話し出した。
「母さんは元々身体が弱くて、オレを生んでからは更に悪化したらしくて、それで入退院を繰り返してたんだ。あんまり一緒に外には出られなかったけど、でも、オレは優しくて綺麗な母さんが大好きだった。うちの両親は引くぐらい仲が良くてさ、お互い想い合ってるのが目に見えて分かった。だから……母さんが死んだ時オレも父さんもめちゃくちゃ落ち込んだ。父さんは毎日死んだように生きてて、笑い方なんてすっかり忘れたみたいにずっと無表情だった。父さんは泣きながら、母さんのお墓の前で誓ったんだ。透子がこの世からいなくなっても俺たち三人はずっとずっと家族だからって。俺は透子を、家族を一番に愛してるからって。これからは自分が透子の分も優也のこと守るから、向こうでちゃんと見守っててくれって。そしてオレにも言ったんだ。母さんに恥ずかしくないように、これから父さんと二人で生きていこうなって。それなのに……許せねぇ」
小さな身体がふるふると震える。
「父さんはたったの三年でその約束を破った!! 三人はずっと家族だって言ったのに。母さんを、家族を一番愛してるって誓ったくせに。それなのにすぐ違う女を好きになったんだ……!! あんなに母さん一筋だったのに……信じらんねぇ!! こんなの……こんなの母さんに対する裏切りだ!!」
「優也くん……」
月野と七尾は声を詰まらせる。
ぎっと鋭い目付きで、優也は続ける。
「だからオレ言ったんだ。こんなこと知ったら母さん泣くぞって!! 母さん悲しませるようなことすんなって!! そしたらアイツ……母さんから届いた手紙だって、オレにこれを渡して来たんだ。……ありえないだろ? 自分が結婚したいからってこんな嘘までついてさ。あんな奴、とてもじゃないけど父親だとは思えない。だからオレ、嘘つくなって問い詰めた。でもアイツは平然として言ったんだ。月野郵便局っていう特別な場所があるんだって。そこは死んだ人からの手紙も届けられる郵便局で、これはそこから届いた母さんからの手紙だって。ふざけんなって思った。バカにすんなってキレた。でも……やっぱ少し気になって。一応ネットで調べたら何件かそういう話が載ってるサイトもあったし。もう頭ん中そのことだけでぐるぐるだし、胸の中は真っ黒でモヤモヤして。だからオレは探しに来たんだ。この手紙が本当に母さんから届いたものなのか確かめるために!!」
優也は視線を落とすと、口をへの字に曲げてぼそりと呟いた。
「それに……もしその話が本当なら、オレも母さんに……」
たった十一歳の少年がこの小さな身体でこんなにも大きな悩みを抱えているのだと思うと、月野と七尾は胸が張り裂けそうになった。
優也はガタンと椅子を倒しながら立ち上がる。胸ぐらを掴む勢いで身を乗り出すと、さっきよりも更に大きな声を出して言った。
「なぁ、これが本当に母さんからの手紙なのか!? 本当に母さんが父さんの再婚を許せって言ったのか!?」
「優也くん、落ち着いて」
「なぁ、ちゃんと証拠みせろよ!! これが正真正銘母さんが書いたっていう証拠を!!」
「い、今すぐ、というのは難しいかもしれません。こっちでも色々と調べてからお話したいと思うので、今日はもう、」
「ふっざけんな! 言っとくけど証拠見せるまで帰んねぇからな!!」
ギラついた目で睨まれ、月野と七尾は困ったように顔を見合わせる。
「帰らないって……本気かい?」
「本気だよ!! 誰が何と言おうと証拠見せるまでここに居座ってやるからな!!」
「お父さんが心配するよ。それに学校はどうするんだい?」
「明日から四連休だから学校のことは気にしなくていい。つーかあの男がオレの心配なんてするわけねーよ。今日だって……あの男が仕事で遅くなるからって家にあの女を呼んだんだ。オレと仲良くさせるためにな。あの男は最低だよ。あの女も、母親気取りで料理とか作り始めて。それ見てたらなんかイライラしてきて……」
優也は一旦言葉を区切る。
「……家に……帰りたくないんだ」
小さな声でぼそりと言った。
「……わかりました。今日はここに泊まっていって下さい。ただし家に連絡は入れさせてもらうよ。いいね?」
「えっ!」
「それがここに泊まる条件です」
「…………わかった」
苦虫を何匹も噛み潰したような顔をしてようやく了承の返事をする。
「じゃあ七尾くん、宇佐美くんに電話するよう言ってきてくれる?」
「あれ? 月さんがするんじゃないんスか?」
「僕より宇佐美くんが掛けた方が相手は安心するんじゃないかと思ってね。彼女、そういうの上手だし」
確かに、と納得した七尾は宇佐美の元に向かった。
「宇佐美さん」
パソコンに向かって座っていた宇佐美に声を掛けると、後ろを振り返ることすらせずに「何よ」と素っ気ない返事がきた。いつも通りの氷対応である。
「月さんが優也くんの家に連絡してほしいって。今晩うちに泊まるらしいッス」
「泊まる?」
不思議そうに言葉を繰り返す宇佐美に、七尾は優也の状況を説明する。
「分かったわ。住所とか電話番号はさっき調べてたから、すぐ電話するわね」
言いながらカタカタと素早く手を動かす。画面を確認してから立ち上がると、軽く咳払いをして電話をかけ始めた。
「……あ、もしもし。坂本さんのお宅でしょうか? 私優也くんの同級生の……ええ、月野と申します。はい、いつもお世話になっております」
普段よりやわらかい声で話し出した宇佐美を、七尾は驚きと困惑を宿した目で見つめる。
「突然お電話差し上げて申し訳ありません。実はですね、優也くんが今うちに遊びに来てまして。ええ、そうなんです。それでですね、うちの息子が優也くんともっと遊びたいってきかなくて。もし良かったら今晩うちに泊めてもよろしいでしょうか? いいえ、迷惑なんかじゃありませんよ! むしろこっちが迷惑かけちゃって。連絡が遅くなってすみません。心配したでしょう? はい、はい。いいえ、こちらこそいつも良くして頂いてありがとうございます。ええ。はい。では失礼致します」
そのまま通話を終了させると、宇佐美は疲れたように大きく息を吐き出した。
「なんで同級生の母親のフリしたんスか!?」
「……知らない人の家に泊まるっていうより息子の友人の家に泊まるって言った方が信用出来るでしょ。今電話に出た彼女が再婚予定相手なら、優也くんの交友関係もまだちゃんと把握してないだろうし。もし深く突っ込まれても何とでも誤魔化せるわ」
「なるほど。さっすが宇佐美さん!」
応接室から出て来る月野の姿が見えると、二人は話をやめた。
「宇佐美くん、七尾くん。今晩うちに泊まることになった坂本優也くん。色々とよろしくね。挨拶してくれるかい?」
「……坂本優也です。今日はお世話になります」
さっきよりだいぶ大人しくなった優也が礼儀正しく挨拶をすると、軽く頭を下げた。眉間にシワは寄ったままだが、随分な変わり様である。いや、本来の姿に戻ったというべきだろうか。
「そんじゃー、改めまして! オレは七尾ッス! よろしくねゆーやん!」
「宇佐美よ。優也くん、何か食べたいものはある?」
「……特にない」
「そっか。じゃあ好きな食べものは?」
「…………ハンバーグ」
「じゃあ今日の夕食はハンバーグにしましょう」
「マジで!? 宇佐美さんの手作りハンバーグ!? やった! 超嬉しい!」
「アンタが喜んでどうすんのよ」
万歳しながら喜びを露わにする七尾に冷めた視線を送る。
「じゃあ部屋を案内するから。優也くん、行こうか」
月野はニコニコと笑いながら優也の手を引っ張った。カウンター奥の扉を開けると、二人は姿を消した。
心配そうに消えた背中を見つめ続ける宇佐美の視線は、優也の他にも注がれていることに七尾は気づいていた。
「……宇佐美さん、あの。さっきの」
彼女は七尾の言葉を遮るようにパッと動き出す。
「ちょっと買い物に行ってくるわ」
「え? じゃあオレも、」
「アンタは留守番。お客様が来て誰もいなかったら大変でしょ?」
「あー……」
「すぐ戻って来るから。よろしくね」
カツカツとヒールの音を響かせながら、宇佐美は郵便局から出て行った。一人きりになった七尾はぽつりと呟く。
「……少しくらい、頼りにしてくれたっていいのに」
宇佐美さんも、月さんも。あーあ、寂しいなぁ。こぼれ落ちた溜息は局内に消えていった。
*
お皿が並んだテーブルを四人で囲んで手を合わせる。いい具合に焦げ目のついた楕円形のハンバーグの上には、ケチャップを使った宇佐美特製の赤いソースがかかっていた。
「美味いッス!! このジュワッと広がる肉汁がたまらないッス!!」
「うん、白いご飯と相性抜群だね。さすが宇佐美くんだ」
「……ありがとうございます」
宇佐美は照れくさそうに答えると、月野の隣に座る優也の様子をチラリと伺う。優也は何も言わないが、目を輝かせながらぱくぱくと口に運んでいた。これは間違いなく美味しいということだろう。それを確認すると、宇佐美はほっと胸をなでおろした。
「ところで宇佐美さん! このソースで〝ご主人様へハート〟って書いてくれるサービスはないんスか?」
「は?」
「あ、美味しくなるおまじないでもオッケーなんスけど! 昔めっちゃ流行ったじゃないスか! 美味しくなぁれ、萌え萌えキュン☆ 的なやつ!」
「……ああ。アンタもしかしてメイド喫茶に行きたいの? それなら今すぐ逝かせてあげるわよ。本物の冥土喫茶に」
「すいませんでした謝りますからいつにも増したその氷のような視線はやめて下さい!!」
「ぶふっ」
二人のやりとりを見ていた優也が吹き出した。
「ヤバい。なんか今のツボ。いつの時代の話だよそれ。つかハンバーグに文字って! 普通オムライスにケチャップでやるんじゃないの?」
くつくつと笑い続ける優也を見て、三人は驚いたように顔を見合わせる。初めて見た優也の笑顔に、なんだか嬉しくなった。
「ゆーやん! 今日の夜は修学旅行気分で遊びまくろう! 枕投げする? それとも恋バナ?」
「いや、オレ一人で寝るし」
「そんなこと言わずに! 得意のマジックも披露するから!」
「お断りします」
「そんなハッキリ!?」
「うん」
「……なんかゆーやんオレの扱いひどくないッスか?」
「いや、流れ的にこういう方がいいのかなと思って」
「小学生なのに空気読みすぎ!! 恐ろしい子!!」
優也は両腕をさすりながら大げさな反応を見せる七尾を見てケラケラと笑う。
「ごちそーさま! よしゆーやん! とりあえずマジックするから上の部屋に行こう!」
「うわっ、引っ張んなよ! つかそのゆーやんって呼ぶのやめろ!」
「マジですげーから! オレのマジックマジですげーから!」
七尾が優也を無理やり引っ張りながら二階へとへ向かっていく。
残された二人の間にはなんとなくピリピリとした空気が漂っていた。
「……あの、局長」
「ん?」
「さっきの手紙はやはり……」
「ああ、うん。父の遣いの者からだった」
宇佐美はごくりと生唾を飲む。
「では……その……」
「大丈夫。宇佐美くんが気にするようなことは一つもないよ」
「ですが十五様!」
「その呼び方はやめてほしいな」
「……すみません」
困ったような月野の笑顔を見て、宇佐美は思わず俯いた。
「つ……」
「宇佐美さぁ~ん!! 昔マジック用に買ったトランプってどこにやりましたっけ〜? わかります〜?」
七尾の浮き足立った声が、緊張感で張り詰めた空気を切り裂く。
「ほら、呼んでるよ」
月野はにっこりと笑みを浮かべる。宇佐美は不満気な表情を浮かべながらも、「奥の物置! 棚の下!」と叫ぶように言って二階へと向かった。
*
優也が寝た後、三人は局内のカウンターに集まっていた。
「早速だけど宇佐美くん、情報は集められたかい?」
「ええ。とりあえず集められるだけですが」
「さっすが宇佐美さん。お早いお仕事で!」
宇佐美はA4サイズの用紙を二人に手渡す。いくら時代がデジタル化・ペーパーレス化しようとも、郵便局としてはやはり紙文化も捨て難いのだ。
「坂本優也、月森小に通う五年生。性格は真面目でやや捻くれてる所もあるが特に問題はない。父、坂本和也三十三歳。月森高校の教師で担当教科は現代文。優しい雰囲気と丁寧な教え方で生徒からの人気は高い。愛妻家として有名で、妻が亡くなった頃の彼は目も当てられないほど落ち込んだ様子だった。母、坂本透子享年三十歳。持病により若くしてこの世を去る。和也とは学生時代に知り合い、そのまま結婚。明るい性格で近所でも評判の奥さんだった、と」
七尾はその紙を淡々と読み上げる。
「それで……優也くんが持ってきたこの手紙はうちから出されたものだったかな? 正直言って僕は記憶にないんだけど……」
「ええ。あの手紙は少なくともうちの郵便局から出されたものではないと思います」
「じゃあやっぱ優也くんのお父さんが嘘ついてるってことッスか? その女の人と再婚するために?」
「それはわからないわ。天国に手紙を届けるのはうちだけじゃないしね。ただ、うちから出されたものじゃないってことだけは確かよ。記録にも残ってないし」
「なるほど。ところで……」
七尾が躊躇うようにして口を開いた。
「再婚相手の女性については何か分かったんスか?」
「あら……? 渡してなかったかしら。ごめんなさい」
宇佐美は慌ててパソコンに向かうと、プリンターから印刷されたばかりの紙を渡す。
宇佐美らしからぬミスに、七尾は眉をひそめた。
「深沢静香三十一歳。月森高校の図書館司書。和也とは大学の先輩後輩関係。話したことは数回程度だが、図書館でよく見かけるのをきっかけに好きになったらしい。だが、当時から透子と和也はキャンパス内でも有名なカップルだったため想いを伝える事なく諦めた模様。大人しいが芯の通った真っ直ぐな性格の持ち主。数年前、月森高校に学校司書として配属されたことにより和也と再会。仕事柄話すことも多くなり、妻を亡くして落ち込む和也を慰めているうちに蓋をしたはずの恋心が再熱し、学生時代のような後悔はしたくない、と気持ちを伝え続け現在に至る」
調書を読んだ月野が腕組みをしてう~ん、と唸る。
「優也くんのパパって話聞く限りかなりの愛妻家だったみたいッスけど……やっぱ心変わりってするんスかねぇ……」
「それは分かりません。ですが、人の心は天気と同じで変わりやすいですからね。まぁ、それは別に悪いことではないと思うけど」
「女心と秋の空ってやつ? いや、この場合は男心と秋の空か。そういえば、こういうことわざって今の時代男女差別とかになっちゃうんスかね? てか美人に美人って言っちゃダメとかちょっと酷くないッスか? 純粋に褒め言葉として使ってるのに……まったく。古くから生きてる我々には生きづらい世の中ッスよね」
「ていうかね……」
難しい顔をした宇佐美が切り出す。
「この再婚相手の女の人、うちに来たことがあるみたいなの」
「ええっ!?」
「パソコンに記録が残ってたのよ。どうやら手紙の配達みたいね。でも、窓口じゃなくて外のポストに入れてたみたいだから私たちが直接会ったことはないと思うわ」
「その手紙の宛先は?」
「それが……」
宇佐美にしては珍しく言い淀む。一瞬視線を泳がせると、薄い唇を開いた。
「…………坂本透子さん」
「ぅええっ!?」
「それも最近じゃなくて、二年くらい前からやり取りしてるみたいなのよ」
これにはさすがに月野も驚いたようで、目をまん丸くさせていた。
新しく妻になろうとしている女が元妻に手紙を書くなんて……内容がまったく想像出来ない。まさか果たし状とか物騒なものじゃないだろうな。
「うちに来たってことは、彼女には透子さんによっぽど伝えたい何かがあったってことッスよね」
「だろうね。うちはその為に存在してるから」
「あ、そうだ宇佐美さん」
七尾の呼びかけに、どこか一点を見つめ眉根を寄せた状態の宇佐美から返事はない。
「宇佐美さんってば!」
「えっ? あ、な、なに?」
はっとした宇佐美が慌てて返事をする。それを見て七尾はわざとらしく溜息をついた。
「……いい加減にしません?」
我慢ならないとばかりに七尾が言い放つ。
「……今朝の手紙。あれが来てから二人ともおかしいッスよ? 特に宇佐美さん。聞こうとしてもはぐらかすし。仕事中も心ここに在らずって感じだし」
七尾は二人の視線を受けながら続ける。
「月の都って、月さんと宇佐美さんの故郷ですよね?」
「ちょっと!」
「宇佐美くん」
月野が宇佐美を制すると、彼女は大人しく口をつぐんだ。
「……オレ、二人のこと詳しくは知らないし、誰にだって言いたくないことのひとつやふたつはあると思うから、別に無理やり聞こうとか、そういうことはしないッス。ただ、何か困ってるっぽいのになんの力にもなれないことがもどかしくて。結構長い時間一緒に居たのに頼りにならないのかなって、ちょっとさみしくて」
宇佐美はバツが悪そうに視線をそらした。
「そうだよ。月の都は僕たちの故郷だ。でも、僕は理由あって国を追放されている」
「……えっ」
「十五様!!」
「ああ、宇佐美くんは違うよ。彼女は僕について来てくれただけだから」
月野は笑顔で続ける。
「今回来た手紙は父の遣いの者からだった」
「月さんの……お父さん?」
七尾の疑問に宇佐美は溜息を吐きながら答えた。
「……十五様のお父様は月の都の帝様よ」
「み、帝!? ってことは……月さんって皇子様!?」
驚きと動揺を隠せない七尾に月野は苦笑いをこぼす。
「いつか七尾くんにもちゃんと話そうと思ってたんだけど……不安にさせてごめんね。それと、頼りないなんて思ってないよ。七尾くんは僕にとって大切な仲間だから」
「……月さん」
「宇佐美くんも、心配かけて悪かったね」
「いえ、私は……」
「さっきも言ったけど、手紙の内容は大したことじゃないよ。二人が気にする必要は一切ない」
「でも、」
月野は遮るようにパン、とひとつ手を叩いた。
「さて。この件は後で僕からちゃんと話すからさ、今は優也くんの件に集中しよう。いいね?」
「……了解ッス」
「……はい」
二人はしぶしぶと了解の返事をする。
……皇子……国内追放……帝である父からの手紙。
七尾の頭はパンク寸前だった。だが、なんとか思考を切り替え、今頃は夢の中にいるであろう優也の事に気持ちを集中させた。
*
「あ、の!」
ぜえはあと胸を抑えながら、背の高い男性が郵便局に駆け込んで来た。
よれよれになったジャケットを片手に持ち、白いワイシャツの腕を捲ったもう片方の手で額の汗を拭う。
「いらっしゃいませ」
突然の来客には慣れたもので、月野郵便局の面々はいつも通りの対応で受け入れる。
「ここに小学生の男の子、来てませんか? 名前は優也というんですが」
「失礼ですがあなたは?」
「あっ、すみません。俺は坂本優也の父で、坂本和也と申します」
和也は慌てて頭を下げる。そう言われてよく見ると、口元が優也に似ていた。
「実は、連絡を受けていてもたってもいられなくなって。同級生に月野という名字の子はいませんし、友達の中にもいません。だから最初は何か事件にでも巻き込まれたのかと思ったんですが、月野という名前を聞いてもしやと思って……。月野郵便局の噂はネットを通じて知ってましたから。半信半疑でしたが、わずかな可能性にかけて探し歩いていたんです。そしたらここに辿り着きました。優也はこちらに来てますか?」
「……ええ。優也くんは今二階の別室で寝ていますよ」
「じゃあ、ここはやっぱり!」
「はじめまして。僕は月野郵便局、局長の月野十五と申します」
和也の喉がごくりと鳴った。
「どうです? 夜明けまでは少し時間がありますし、優也くんが起きるまでこちらでお茶でもいかがですか?」
「ですが……そちらのご迷惑になるのでは?」
「迷惑なんてとんでもない。さぁどうぞこちらへ」
月野は和也を応接室へと案内した。
*
白いシンプルなカップに口を付ける。宇佐美が淹れてくれたのはカモミールティーだった。時間も時間だし、気分を落ち着かせるにはちょうどいい。
「……ご迷惑をおかけしてすみません」
「いえ、いいんです。気にしないで下さい」
月野の笑顔に少しだけ安堵したようだったが、和也は眉をハの字に下げた困り顔で言った。
「……優也はどんな様子でしたか?」
その問いに月野は躊躇いながらも正直に話しをする。
「そうですね……最初にここに来た時は興奮気味で、怒ったように声を荒げていました。でも、時折悲しそうで。……〝亡くなったお母さんから届いた手紙〟を持って、この手紙が本物なのか知りたいと、そう言っていました」
「そう……ですか」
和也は顔を曇らせる。
「……優也にある程度聞いたかもしれませんが」
そう前置きして、優也はぽつりと話し出した。
「俺は三年前、最愛の妻を亡くしました。そして今、別の女性との再婚を考えています。……妻を亡くしてからたった三年で再婚を考えている俺を、皆さんはやはり薄情な男だと、裏切り者だと思いますか?」
和也は不安や罪悪感や後悔をぐちゃぐちゃに混ぜたような顔で彼らを見ていた。
「いえ。僕は悪いことではないと思います」
「……オレは」
七尾が俯きながら言った。
「正直、オレはちょっと息子さんが怒る気持ちもわかるっていうか……なんか、ショックっていうか」
「……そうですよね」
和也は眉尻を下げる。
「言い訳になりますが……俺も最初は再婚なんてするつもりはありませんでした。というか、誰も好きにならないと思ってた。俺は昔から妻が……透子だけが好きで、透子しか欲しくなかった。もちろん今もその気持ちは変わりません」
「……優也くんが持っていたあの手紙は、本当にうちから届いたものですか?」
「すみません。それは嘘をつきました。優也にはそう言った方がいいかと思って……」
「それって、反対してる息子に再婚を認めさせるためッスか?」
眉間にシワを寄せた七尾が低い声で言った。
「いえ、そうじゃなくて! 勝手にここの名前を出したことは謝ります。……あれは、妻が亡くなる前、俺に宛てた手紙の一部なんです」
「……それはつまり、」
「ええ。あれは生きていた透子が書いた最後の手紙です」
濃紺だった空が薄水色へと変わっていく。もうすぐ夜が明けるらしい。
「透子とは高校の時からの付き合いでした。怪我して行った保健室で初めて会って。身体の弱かった透子はよく保健室に来てたみたいで、その時は体調が良かったのか暇だったのかわからないけど、怪我の手当てしてくれたんです。そこで惚れちゃったんですよね、俺。必死のアピールでやっと振り向いてもらえて。あの時は嬉しくて仕方なかったなぁ。俺は透子が初めての彼女で、ずっとずっと大切にしてきました。大学を卒業する少し前に結婚して、すぐに優也が生まれて、俺は本当に幸せでした。たぶん、あの頃が人生で一番幸せだった」
月野と七尾は黙って話に耳を傾けていた。
「……でも、その幸せは長くは続かなかった。透子の持病が悪化して、入院生活を余儀なくされることになって、」
▲
昼休みや仕事終わりに病室に来るのはもはや日課になっていた。
「よっ!」
ベッドから上半身を起こして静かに文庫本を読んでいた透子がぱっと顔を上げる。
「和くん。今日も来てくれたの?」
「当たり前だろ。透子に会わないなんて無理。透子不足で動けなくなるから」
「あ、エスポワールの紙袋だ! ちょうど甘い物食べたかったのー! さっすが和くん早く開けて!」
「お前……色気より食い気かよ。まぁいいけど」
和也はガサガサと紙袋から箱を取り出す。中身は透子の好きなマドレーヌだ。箱に付いているシールを取ろうと四苦八苦する背中をじっと見つめながら、透子は小さく口を開いた。
「今日の昼間にね、母さんと優也が来てくれたの」
「うん」
「優也、おっきくなったね」
「そうか? 背の順は前から七番目っていう微妙な位置だからもっとデカくなりたいって騒いでるぞ?」
「ううん、おっきくなったよ。ちょっと見ないうちに身長も伸びて、顔つきもなんだか違ってた。子供の成長って早いのね」
「まぁ……確かにな」
「きっとこれからどんどん大きくなって、あっという間に身長も抜かされて、声も低くなって反抗期なんか迎えちゃうんだろうね。そのうち彼女とか出来てさ、家に連れて来ちゃったり。……わたしも、ずっとそばで優也の成長見たかったなぁ」
「……見れるだろ。退院すれば、いくらでも」
和也の言葉に透子は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。和也の背中にひんやりとした汗が流れる。
言い様のない不安がぐるぐると渦巻く中、透子はにこりと笑った。
「ねぇ和くん。わたしがいなくなったら新しい彼女を見つけて幸せになってね」
「はぁ!? おまっ! なに言ってんだよ! そんなこと冗談でも言うなって!」
「冗談じゃないよ。わたし、ずっとそう思ってたの。わたしがいなくなったら、和くんには残りの人生幸せに過ごしてほしいなって」
「透子!」
透子は笑顔のままで言った。
「……ごめんね和くん。わたし、もう長くないみたい」
息が出来なくなった。思考回路もぷっつりと切れてしまい、何も考えられない。透子の言葉だけが真っ黒な脳内をぐるぐると回っている。
「……う、そだ」
ようやく絞り出した声は情けないほど小さくて、かすれていた。
「残念ながら嘘じゃないんだなぁ」
「なん、だよ。いつもより入院長引いてるからか? そんな弱気になんなよ、今までだってちゃんと、」
「ううん、もう限界みたいなの。自分の体のことは自分が一番理解してるつもり」
「ふざけんな! 俺はそんなの信じないからな!!」
「現実逃避は良くないよ和くん。しっかり向き合わなきゃ」
透子は淡々と答える。和也はギリッと奥歯を噛み締めた。
「なんで……なんでお前はそんなに冷静なんだよっ」
「なんでだろうね。死ぬのはもちろん嫌だけど、今までが幸せだったから割と覚悟は出来てるっていうか」
透子は和也の目をじっと見つめる。
「ねぇ、だから約束して。わたしがいなくなったら誰か素敵な女性を見つけるって。それで優也とその人と幸せに過ごすって」
「……そんな人いらない。俺が好きなのは一生透子だけだ。他の奴なんかどうでもいい。俺は透子と優也さえいれば、それで十分だ」
「ふふっ嬉しいなぁ。わたしももちろん和くんだけが好きだよ。和くん以外の人には興味もない」
「なら分かるだろ! 他に好きな奴なんか出来るわけないって! 今までだってずっとそうだった!!」
大声で叫ぶ和也に、透子は言い聞かせるように優しく続ける。
「うん。でもね、わたしがいないのに、わたしを想って一人でいるのはダメだよ。優也だっていつかは離れていくんだから。そしたら和くん一人ぼっちになっちゃうでしょ? たった一人でわたしの思い出だけと過ごすなんて、そんなの心配すぎる。だって、思い出の中のわたしはあなたに何もしてあげられないんだから」
「……透子」
「だから、和くんが生きてるうちは……貴方の支えになってくれる人と一緒になって。残りの人生を幸せに過ごして。これはわたしのお願いよ。和也の残りの人生を自由に、そして幸せに過ごしてほしいの。無理に好きにならなくていい。だけどきっと、和也のこと幸せにしてくれる人がいるはずだから」
透子の目に涙の膜が出来た。それはキラキラと輝いていて、ひどく儚い。
「その代わり、和也が天国に来たら。その時はまたわたしと一緒に居てよ。もちろん夫婦としてさ」
「……そんなの当たり前だろ。今も昔も、いつだって俺たちは結ばれる運命なんだよ」
「ふふっ、和くんありがと!」
出来ることなら透子と離れる日なんて来ませんように。非力な俺は神様に祈ることしか出来なかった。
▲
それから半年後、透子はいなくなった。俺に宛てた手紙を一通だけ残して。
坂本和也様
和くんに手紙を書くのは何年振りかな? 改めて書くとなんだか恥ずかしいね。
さて。わたしが天国へと旅立って、和也も優也もさぞかし悲しんでることでしょう。正直、涙腺ゆるゆるの二人が号泣してる姿が目に浮かんでます(笑)
泣いてくれるのはありがたいけどあんまり泣きすぎちゃダメだよ。悲しみを乗り越えてこそ人間は成長するんだからね。俺の屍を越えて行けってやつです。あれ? ちょっと違う?
あのね、前に和くんに、俺が好きなのは一生透子だけだって言われた時、すごくすごく嬉しかったの。わたし愛されてるなーって。和くんのこと好きになって良かったなーって。心の底から思ったの。ありがとう、わたしを好きになってくれて。幸せにしてくれて、本当にありがとう。
〝わたしじゃない人を好きになって〟なんて。自惚れじゃなければわたし、和くんにとても残酷なこと言ったかもしれない。でもきっと、和くんがわたしの立場なら同じこと言ったと思うんだ。……本音を言えば、和くんのことは誰にも渡したくないよ。だってわたしも和くんが大好きだから。でも、だからこそ。和くんには残りの人生を幸せに過ごしてほしいの。和くんならわたしの気持ち、きっと分かってくれると思います。だからこないだ言ったことちゃんと守ってね。和くんの最期が孤独死なんて絶対に許さないから。和くんと優也が笑顔になれる人と幸せになって。
でもね、一つだけわがままを言わせてもらうと、わたしのことはずっとずっと好きでいてほしいの。あなたの心の片隅でいいから、わたしの居場所を取っておいてほしい。わがままでごめんね。
和也に出会えてわたしは本当に幸せでした。優也のことよろしくね。親子喧嘩はほどほどにね。あと、健康に気を付けてね。夜は早く寝てね。あんまり仕事頑張りすぎないでね。毎日笑って過ごしてね。二人のこと、天国から見守っています。
じゃあ、和也がいつかこっちに来るその日まで。またね。
坂本透子
追伸:和くんが再婚とか言ったらわたしのこと大好きな優也がめちゃくちゃ反対するかもしれないから、一応書いておくね。困ったらこれ見せて。じゃ、今度こそバイバイ。またね。
手紙の最後の一枚には、大きな字で〝お父さんの再婚を許してあげてね 透子〟という文章が書かれていた。
こんなの使うわけないだろ、バカ透子。
俺は静かに涙を流しながら、その手紙を机の引き出しにしまった。
透子への手紙は何十通も書いているのに、届ける術が見つからない。結局それはゴミ箱行きになってしまうのだが、俺は書かずにはいられなかった。
▲
「坂本先輩ですよね?」
彼女にそう話しかけられたのは、しばらく経ってからだった。去年の春にやって来た、学校司書の女性。
抜け殻のような俺の様子に腫れ物扱いしていた周囲とは違い、彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。
「私、深沢静香です。先輩はご存知ないかもしれませんが、同じ大学に通っていて……よく、図書館に居るのを見てました」
そう言われてふとあの頃の記憶が蘇る。図書館にはほぼ毎日通っていた。たまに透子と二人で行ったりもしたけれど、基本は俺一人で行ってたなぁ。そういえば、いつも一番奥の席に座って本を読んでいた女の子がいたっけ。
「もしかして、いっつも一番奥の席に座ってた子?」
俺がそう言うと、彼女の表情が明るくなる。
「そ、そうです! まさか知っててくれたなんて……!」
顔を真っ赤にしながら話す彼女の姿がなんだか可愛く思えて、ほんの少しだけ透子の姿と重なって胸が苦しくなった。
彼女はそんな俺を再び真っ直ぐ見つめると、力強い口調で言った。
「私、先輩のこと大学の時からずっと好きでした」
……は? 驚きすぎて何も反応出来ない。いや、当たり前だろ。
「こんな時に何言ってんだとか、不謹慎だ、非常識だ、弱みに付け込む気か、卑怯者めとか、私を非難する気持ちはわかります。ほとんど初対面の人間にこんなこと言われても迷惑だってこともちゃんと理解してるつもりです」
彼女は淡々と語り出す。
「でも私、もう後悔するの嫌なんです」
その一言にはっと息を呑んだ。
「私、学生時代、ずっと先輩のことが好きでした。でも、先輩にはその頃から彼女がいた。ずっとずっと、私の知らない時からずっと隣には透子先輩がいた。先輩たちは本当にお似合いで、だから私は諦めました。でも、簡単に諦めた事、ずっと後悔してたんです。せめて気持ちだけでも伝えておけばって、何度も何度も思った。透子先輩には……いいえ、奥さんには、当時から敵うわけないってわかってました。だけど私だって、先輩のことこんなに好きなのにって悔しかった。だから、不謹慎だと思われようと、このタイミングを逃したら、私は一生言えない気がするから」
静香は大きく息を吸った。
「坂本和也さん。あなたが好きです」
▲
彼女に初めて告白された時、俺はすぐに断った。そんな俺に彼女、深沢さんは真っ直ぐな目で言った。
「別に先輩とどうこうなろうなんて思ってません。ただ、なんていうか、透子先輩以外の人からも、坂本和也はこんなに大事に想われてるんだってこと、知って欲しかったんです」
そう言うと深沢さんは覚悟を決めたように拳を握った。
「私、簡単には諦めません。いつか必ず、先輩のこと幸せにさせてみせますから。これは宣戦布告です」
彼女は背を向けて歩き出す。諦めないって言われてもなぁ。独りごちて頭をかく。
報われない恋をされても、正直困ってしまう。
俺の気持ちは全部透子のものだし、この先それが揺らぐことは決してないから。
透子には悪いけど、俺は約束を守らず生涯を一人で過ごすつもりだ。だって、どうしたって透子以外は好きになれないのだから。
あの子にはやっぱり諦めてもらうしかないな。
この時の俺は本気でそう思ってたんだ。
▲
彼女から二回目の告白をされたのは、頬をかすめる風が冷たく感じてくる頃だった。
宣戦布告をされたものの、彼女は特に強烈なアピールをしてくるわけでもなく、告白する前と変わらない態度で接してきた。正直ちょっと拍子抜けだ。ただ、ふとした時にそばに居たり、困ったことがあるとすぐに気付いて声をかけてくれたり。変化といえばそれぐらいだった。
「坂本先輩、好きです」
翌日の授業の資料を探しに、図書室で二人になった時だった。下校時刻をとっくに過ぎた校内は本当に静かで、物音一つしない。
「……また君は。突然だね」
「いえ。常々思ってたことですから」
俺はため息をつきたいのをぐっと堪える。
「前にも言った通り、俺は今後誰とも付き合う気はないよ。俺は透子が好きだから」
「そんなこと言われなくても知ってますよ。私が伝えたくなっただけなので気にしないでください」
「……ええと」
「だって先輩、言わなきゃ私のことなんてすぐ忘れちゃうでしょ?」
俺は何も言い返せなかった。悲しさを隠して笑う彼女の顔が、何故か透子と重なって見えた。
▲
気付けば深沢さんがそばにいることに戸惑いを感じなくなった。それどころか、いないと自ら探してしまうほどになっていた。
……これは、まずいな。
自分の気持ちの変化に戸惑いを覚えたのはいつだっただろう。俺は確かに透子が好きだ。一番好きだ。それは本当に変わらない。
でも……目の前で笑顔を見せる彼女が気になっているのも、最低なことに事実なのだ。
告白された回数が両手じゃ足りなくなってきた頃。やけに真剣な顔をした深沢さんが真っ直ぐに俺を見て言った。
「坂本和也さん。あなたが好きです」
いつもならここで終わる告白に、初めて言葉が続けられた。
「私と……私と付き合ってくれませんか?」
泣き出しそうなのをぐっと堪え、彼女は俺を見続ける。ああ、俺は彼女のこの目に弱い。明確な意思を持った、純粋で真っ直ぐなこの目が。
「……透子に言われてたんだ。自分がいなくなったら誰か良い人見付けて幸せになれって」
「……え?」
「でも俺は……どうしたって透子の事が好きだ。俺の心に居るのは今までもこれからも透子以外にはあり得ない。……でも……自分でも驚いてるんだけど、深沢さんに惹かれている部分もある」
「っ!」
「……こんな男でごめんな」
「いいんです。私は最初から一番なんて望んでませんから」
「え?」
「言ったでしょ。私、わかってるんです。先輩の気持ち全部はいらない。いつだって先輩の一番は透子さんのものだから。ただ、その中のほんの少しだけ好きって気持ちを分けてくれれば。私はそれで満足なんです」
すぅ、と小さく息を吸う動きがスローモーションのように見えた。
「好きです。坂本和也さん。だから、あなたの心を少しだけ分けてくれませんか? あなたが透子さんの所に行くまで、その時まででいいですから、私をそばに置いてくれませんか?」
気付けば俺は彼女を抱きしめていた。初めて触れたその体は小さくて柔らかい。当たり前だが、透子とは違う感触だ。
「……君は馬鹿だね。こんな男を何年も好きだなんて、人生を棒に振る気か?」
「先輩と一緒に居られるなら喜んで振ってやりますよ」
「ははっ。無謀っつーか、頼もしいっつーか」
「それより先輩、早く離れて下さい。私、こんなことされたら期待しちゃいますから……」
「うん」
「いや、うんじゃなくて。断るなら離れ、」
「断る気がないなら、離れなくていいんだよね?」
彼女は驚いたように肩を跳ね上げる。
「……先輩じゃなくてさ、名前で呼んでよ」
「い、いいんですか?」
「俺の気が変わらないうちに、早く」
「…………か、ずや、さん」
小さく背中に回された腕が、ずいぶんと温かく感じた。