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ぶすっとした顔の男の子の前にはグラスとロールケーキがちょこんと置かれている。
「君、名前は?」
「…………」
「おーい! 聞こえてるっしょ? 名前はなんて言うんスか?」
「…………」
男の子はシカトを続けている。反抗期も手伝ってか、なかなか生意気そうな子どもだ。月野は七尾に目配せすると、柔らかく笑って自己紹介を始めた。
「僕はこの郵便局の局長をしている月野十五といいます。隣の彼は七尾くん、今ジュースを運んで来てくれたそこのお姉さんは宇佐美くんと言って、二人とも僕の大切な仲間です。さぁ、次は君の番。まずは名前を教えてくれるかな?」
「…………坂本優也」
「優也くんか。よろしくね。今何年生?」
「……小学五年生」
「そっかそっか。あ、遠慮しないでロールケーキ食べてみて? すごく美味しいんだよ」
優也はその言葉に返事をしなかった。代わりに大人二人がもぐもぐと口を動かす。宇佐美はそれを、いや、七尾を咎めるように冷ややかな視線を送りながら、応接室を後にした。
「この手紙は君のお父さんがお母さんから届いたものだって言ったんだね?」
「そーだって言ってんだろ」
「もし良かったら中を見てもいいかな?」
「いいよ。最初から見せるつもりだったし」
月野は遠慮がちに手紙を広げる。
〝お父さんの再婚を許してあげてね 透子〟
真っ白い紙にはその一文だけが黒のボールペンでハッキリと書かれていた。これはやはり……何か複雑な事情がありそうだ。優也は俯きがちに語り出す。
「母さんがこんなこと書くはずないんだ。父さんは俺が反対するからこんな嘘の手紙まで用意して……クソッ! どこまで最低なんだあのジジイ!!」
感情剥き出しでドンと机を叩く。グラスのジュースがぴちゃりと揺れた。
「その……優也くんのお母さんっていうのは……」
「…………死んだよ。三年前の秋に、病気で」
「そうでしたか……」
「その手紙である程度わかると思うけど、父親は今再婚を考えてるらしい」
「……はい」
「……三年だぞ? たったの三年で心変わりするなんて……そんなのってありえないだろ!?」
優也は二人に訴えるように言うと、今までの勢いはどこへやら、しおれた花のように背中を丸め、しゅんとした態度でぼそぼそと話し出した。
「母さんは元々身体が弱くて、オレを生んでからは更に悪化したらしくて、それで入退院を繰り返してたんだ。あんまり一緒に外には出られなかったけど、でも、オレは優しくて綺麗な母さんが大好きだった。うちの両親は引くぐらい仲が良くてさ、お互い想い合ってるのが目に見えて分かった。だから……母さんが死んだ時オレも父さんもめちゃくちゃ落ち込んだ。父さんは毎日死んだように生きてて、笑い方なんてすっかり忘れたみたいにずっと無表情だった。父さんは泣きながら、母さんのお墓の前で誓ったんだ。透子がこの世からいなくなっても俺たち三人はずっとずっと家族だからって。俺は透子を、家族を一番に愛してるからって。これからは自分が透子の分も優也のこと守るから、向こうでちゃんと見守っててくれって。そしてオレにも言ったんだ。母さんに恥ずかしくないように、これから父さんと二人で生きていこうなって。それなのに……許せねぇ」
小さな身体がふるふると震える。
「父さんはたったの三年でその約束を破った!! 三人はずっと家族だって言ったのに。母さんを、家族を一番愛してるって誓ったくせに。それなのにすぐ違う女を好きになったんだ……!! あんなに母さん一筋だったのに……信じらんねぇ!! こんなの……こんなの母さんに対する裏切りだ!!」
「優也くん……」
月野と七尾は声を詰まらせる。
ぎっと鋭い目付きで、優也は続ける。
「だからオレ言ったんだ。こんなこと知ったら母さん泣くぞって!! 母さん悲しませるようなことすんなって!! そしたらアイツ……母さんから届いた手紙だって、オレにこれを渡して来たんだ。……ありえないだろ? 自分が結婚したいからってこんな嘘までついてさ。あんな奴、とてもじゃないけど父親だとは思えない。だからオレ、嘘つくなって問い詰めた。でもアイツは平然として言ったんだ。月野郵便局っていう特別な場所があるんだって。そこは死んだ人からの手紙も届けられる郵便局で、これはそこから届いた母さんからの手紙だって。ふざけんなって思った。バカにすんなってキレた。でも……やっぱ少し気になって。一応ネットで調べたら何件かそういう話が載ってるサイトもあったし。もう頭ん中そのことだけでぐるぐるだし、胸の中は真っ黒でモヤモヤして。だからオレは探しに来たんだ。この手紙が本当に母さんから届いたものなのか確かめるために!!」
優也は視線を落とすと、口をへの字に曲げてぼそりと呟いた。
「それに……もしその話が本当なら、オレも母さんに……」
たった十一歳の少年がこの小さな身体でこんなにも大きな悩みを抱えているのだと思うと、月野と七尾は胸が張り裂けそうになった。
優也はガタンと椅子を倒しながら立ち上がる。胸ぐらを掴む勢いで身を乗り出すと、さっきよりも更に大きな声を出して言った。
「なぁ、これが本当に母さんからの手紙なのか!? 本当に母さんが父さんの再婚を許せって言ったのか!?」
「優也くん、落ち着いて」
「なぁ、ちゃんと証拠みせろよ!! これが正真正銘母さんが書いたっていう証拠を!!」
「い、今すぐ、というのは難しいかもしれません。こっちでも色々と調べてからお話したいと思うので、今日はもう、」
「ふっざけんな! 言っとくけど証拠見せるまで帰んねぇからな!!」
ギラついた目で睨まれ、月野と七尾は困ったように顔を見合わせる。
「帰らないって……本気かい?」
「本気だよ!! 誰が何と言おうと証拠見せるまでここに居座ってやるからな!!」
「お父さんが心配するよ。それに学校はどうするんだい?」
「明日から四連休だから学校のことは気にしなくていい。つーかあの男がオレの心配なんてするわけねーよ。今日だって……あの男が仕事で遅くなるからって家にあの女を呼んだんだ。オレと仲良くさせるためにな。あの男は最低だよ。あの女も、母親気取りで料理とか作り始めて。それ見てたらなんかイライラしてきて……」
優也は一旦言葉を区切る。
「……家に……帰りたくないんだ」
小さな声でぼそりと言った。
「……わかりました。今日はここに泊まっていって下さい。ただし家に連絡は入れさせてもらうよ。いいね?」
「えっ!」
「それがここに泊まる条件です」
「…………わかった」
苦虫を何匹も噛み潰したような顔をしてようやく了承の返事をする。
「じゃあ七尾くん、宇佐美くんに電話するよう言ってきてくれる?」
「あれ? 月さんがするんじゃないんスか?」
「僕より宇佐美くんが掛けた方が相手は安心するんじゃないかと思ってね。彼女、そういうの上手だし」
確かに、と納得した七尾は宇佐美の元に向かった。
「宇佐美さん」
パソコンに向かって座っていた宇佐美に声を掛けると、後ろを振り返ることすらせずに「何よ」と素っ気ない返事がきた。いつも通りの氷対応である。
「月さんが優也くんの家に連絡してほしいって。今晩うちに泊まるらしいッス」
「泊まる?」
不思議そうに言葉を繰り返す宇佐美に、七尾は優也の状況を説明する。
「分かったわ。住所とか電話番号はさっき調べてたから、すぐ電話するわね」
言いながらカタカタと素早く手を動かす。画面を確認してから立ち上がると、軽く咳払いをして電話をかけ始めた。
「……あ、もしもし。坂本さんのお宅でしょうか? 私優也くんの同級生の……ええ、月野と申します。はい、いつもお世話になっております」
普段よりやわらかい声で話し出した宇佐美を、七尾は驚きと困惑を宿した目で見つめる。
「突然お電話差し上げて申し訳ありません。実はですね、優也くんが今うちに遊びに来てまして。ええ、そうなんです。それでですね、うちの息子が優也くんともっと遊びたいってきかなくて。もし良かったら今晩うちに泊めてもよろしいでしょうか? いいえ、迷惑なんかじゃありませんよ! むしろこっちが迷惑かけちゃって。連絡が遅くなってすみません。心配したでしょう? はい、はい。いいえ、こちらこそいつも良くして頂いてありがとうございます。ええ。はい。では失礼致します」
そのまま通話を終了させると、宇佐美は疲れたように大きく息を吐き出した。
「なんで同級生の母親のフリしたんスか!?」
「……知らない人の家に泊まるっていうより息子の友人の家に泊まるって言った方が信用出来るでしょ。今電話に出た彼女が再婚予定相手なら、優也くんの交友関係もまだちゃんと把握してないだろうし。もし深く突っ込まれても何とでも誤魔化せるわ」
「なるほど。さっすが宇佐美さん!」
応接室から出て来る月野の姿が見えると、二人は話をやめた。
「宇佐美くん、七尾くん。今晩うちに泊まることになった坂本優也くん。色々とよろしくね。挨拶してくれるかい?」
「……坂本優也です。今日はお世話になります」
さっきよりだいぶ大人しくなった優也が礼儀正しく挨拶をすると、軽く頭を下げた。眉間にシワは寄ったままだが、随分な変わり様である。いや、本来の姿に戻ったというべきだろうか。
「そんじゃー、改めまして! オレは七尾ッス! よろしくねゆーやん!」
「宇佐美よ。優也くん、何か食べたいものはある?」
「……特にない」
「そっか。じゃあ好きな食べものは?」
「…………ハンバーグ」
「じゃあ今日の夕食はハンバーグにしましょう」
「マジで!? 宇佐美さんの手作りハンバーグ!? やった! 超嬉しい!」
「アンタが喜んでどうすんのよ」
万歳しながら喜びを露わにする七尾に冷めた視線を送る。
「じゃあ部屋を案内するから。優也くん、行こうか」
月野はニコニコと笑いながら優也の手を引っ張った。カウンター奥の扉を開けると、二人は姿を消した。
心配そうに消えた背中を見つめ続ける宇佐美の視線は、優也の他にも注がれていることに七尾は気づいていた。
「……宇佐美さん、あの。さっきの」
彼女は七尾の言葉を遮るようにパッと動き出す。
「ちょっと買い物に行ってくるわ」
「え? じゃあオレも、」
「アンタは留守番。お客様が来て誰もいなかったら大変でしょ?」
「あー……」
「すぐ戻って来るから。よろしくね」
カツカツとヒールの音を響かせながら、宇佐美は郵便局から出て行った。一人きりになった七尾はぽつりと呟く。
「……少しくらい、頼りにしてくれたっていいのに」
宇佐美さんも、月さんも。あーあ、寂しいなぁ。こぼれ落ちた溜息は局内に消えていった。