傷つきたくない私たちは

 朝勤で疲れて帰ってきて、畳の上でそのまま寝入ってしまった。疲れが溜まっていたのかもしれない。
 夜中に目が覚めると、カーテンが開けっ放しになっていた窓から光が差し込んでいた。視線除けのレースのカーテン越しでも、畳に窓の形に陰影がつくほど明るい。月が明るかった。

 まあるい月が夜空にぼんぼりみたいに浮いている。なんだかとても興奮して美紀にメールを打った。
『月がキレイだよ!』
 すぐに返事が返ってくる。
『はいはい。もう寝なさい。おやすみ』

 そう言われてももう目が冴えてしまった。部屋の電気をつけるのが惜しくて由梨はふらりと外に出た。
 お月様を見上げながら歩いていく。毎日通勤で通っている道に出る。お月様を目指して会社とは反対の方向に足を向ける。
 大通りの交差点の歩行者信号は赤だった。

 角のビルに背中をくっつけるように立ち、信号待ちする間にも月を見上げる。車両の流れが停まった気配に信号へと目を向ける。
 まだ赤信号の横断歩道の向こうに、白井がいた。びっくりした顔で由梨を見ている。信号が青になると通りを渡って由梨に駆け寄ってきた。

「何してるんすか?」
「月がキレイだなって」
 白井の頭の上にちょうど浮いている。由梨が笑いかけると白井も笑った。
「オレも、キレイだなって。それで会いたくなったっす」




「それで、付き合うの?」
 こっくり頷くと美紀は呆れた顔になった。仕方ない。自分でだって虫が良すぎると思う。
「あたしはいいと思うけど」
 とりあえず言ってもらって、由梨はほっとしてコーヒーカップを両手で持ち上げた。

 たまには美味しいコーヒーを飲もうと、今日は美紀にコーヒー専門店に連れてこられた。店内は洗練された大人の雰囲気で価格も高くて気後れしたが、無難にオーダーしたオリジナルブレンドは、信じられないくらい良い香りだった。カップだって無粋なファミレスのマグカップと違って上品で美しい。値段分の価値はあるのだ。

「よくこんなお店知ってるね」
 尋ねると美紀は微笑んだ。
「会社の人に教えてもらった」
「吉田さん?」
「もういないよ」
「でもメールしてるって」
 ふたりで食事しているときに、美紀のケータイにメールが届いてそんなふうに説明された。ケータイをあまりいじらない美紀が気にしていたから覚えてる。「気になるなら早く返事しなよ」と促してあげたのは由梨なのだから。

「あれは嘘」
 美紀の言葉に由梨は目を丸くする。
「メールの相手は吉田さんじゃなくてね、男の人」
 いたずらっぽく笑って美紀は由梨の目を見つめ返す。
「結婚してる人なんだ」
 絶句する由梨に更に笑って、美紀は続ける。
「プチ不倫ってやつ?」
「……」
 由梨は言葉もなくカップをソーサーに戻す。高い音が尾を引いて響いた。
 朝食を急いで食べた後、美紀は念入りにメイクをする。やりすぎないようナチュラルメイクに徹してはいるが下地やパウダーでふんわりと肌の質感を強調し、チークやハイライトで陰影をつけて若々しい魅力をアピールできるよう頑張る。

 ひざ丈の清楚なスカートに肌色のストッキングを合わせる。精密電子機器を扱う美紀の作業フロアではストッキングは着用禁止だ。更衣室で脱がなければならない。それでも美紀はストッキングをはく。いろいろ試した結果、このスカート丈にこの色のストッキングがいちばん足がすんなりと見えるのだ。

「自転車なのにまたスカートはいて」
「人の自由でしょ」
 地域で随一の進学校に通う高校生の弟とは家を出る時間が重なる。美紀が気をつけて自転車を引き出す間に、弟は勢いよく住宅街の坂道を下っていく。マイカーを持っている美紀ではあるが、職場ではエコ通勤を奨励しているから仕方ない。これもポイントアップのためだ。

 この坂道を下って国道を渡れば職場はすぐそこだ。正門の向かいに位置する駐輪場に自転車を停め、通門証を首から下げて敷地内に向かう。
 駐車場の方から続々と従業員たちが出勤してくる。美紀はちらちらとそっちを窺いながら歩く。現場の直接の上司の工藤が歩いて来るのを見つけた。美紀は歩く速度を緩めて工藤と合流する。

「おはようございます」
「うん」
 クールな面差しで見ようによっては男前なのに、彼はいつも寝ぐせをつけたまま出勤してくる。理知的な雰囲気なのにフランクな話し方なのも堪らない。
 工藤は同じく行き会った別の男性社員と話しながら建物の方にどんどん行ってしまった。だがこれで満足だ。仕事で化粧が崩れる前に会えた。自慢の足を見てもらえた。

 にまにましながら美紀も建物に向かい女子更衣室に入る。薄い緑色の作業着に着替えるためにストッキングを脱ぐ。
 そうしながら、昨日カミングアウトしたときの由梨のびっくりした顔を思い出した。面白い顔だった。いつもそうだ。由梨は素直で可愛い。良さそうなカレシができて良かったと心から思う。




 美紀と由梨が出会ったのは高校受験の筆記試験会場だった。試験の合間の休み時間、短期スクールで仲良くなった女の子の顔を発見し声をかけると、その子と一緒にいたのが由梨だった。同じ中学の友だちだという。

 試験の再開時間が近づいて受験番号の席に戻ると、前の席に座ったのがやっぱり由梨だった。
「頑張ろうね」
 合間合間に声をかけ合い、
「お互い受かるといいね」
 終わった後にはそう笑い合って別れた。

 そして無事合格できた高校の入学式で、クラスごとの出席番号順で前に座っていたのも由梨だった。そんな縁があったからふたりはすぐに仲良くなった。
 美紀は自分の賢さに自信があった。テストの点数の良し悪しではなく、持って生まれた特質的なものだ。要領の良さ、呑み込みの早さと言ってもいい。
 だから学友たちのことは少なからず下に見ていた。お勉強ができたところで世の中のことがわからないのではしょうがないじゃないか。社会に出てから学ぶものとはいえ、あまりにも皆考え方が幼すぎた。

 男の子は特にそうだ。美紀は中学生の頃、家庭教師の大学生と付き合っていた。付き合うといっても軽くキスをした程度だ。受験が終わればそれきりだった。だがこの経験のせいで美紀の目には同級生の男子など益々子どもに思えた。

 みんな頭が悪い。身勝手で自分のことしか考えていない。話を合わせるのが苦痛だ。そう思う自分だって自分のことしか考えていなかったわけだが、当時の美紀はそのことに気づけなかった。子どもだったのだ。

 由梨は違う。聡明で、頼りなさそうに見えるのに物怖じしない。美紀の賢さが小賢しい類のものであるなら、由梨はそれこそ本質的に物事を見抜く目を持っていた。
 それを悟ったとき、始めは由梨に嫉妬した。彼女のそれは得難い才能のように思えたのだ。自分より上にいる人間なのだと思えて悔しかったのだ。

 だけど由梨の生い立ちを聞いたとき、美紀の意識は百八十度変わった。安心したのだ。育ってきた環境が違いすぎる。才能の有無ではなく、人の能力を決めるのは家庭環境なのではないだろうか。そう思えるくらいに。
 こんな自分だから由梨がわかるのだ。誤解もなく欲もなく、話ができるのだ。本当の友だちだと思った。

 だから由梨がくだらない男子と付き合い始めたときには腹の底から怒りが込み上げた。由梨は自分の価値をわかっていない。だから手作り弁当なんてくれてやったあげくに突き返されるなんて仕打ちを受けた。男の方が由梨に見合う相手じゃなかった。

 なのに由梨は自分が悪いと落ち込んだ。バカな子だ。あんなに聡明なのに自分のことはわかっていない。早々に別れたことは喜ばしかったが、美紀は卒業するまでバスケ部のその男に嫌がらせを繰り返した。これは今でも由梨には内緒の話だ。
 大学受験の話題があがるようになった頃、由梨の進路希望を聞いて驚いた。就職するなどと言うからだ。
「うち、お金ないし」
 お金がないなんて大学に行かない理由にならない。方法はいくらだってあるのだ。
「そりゃあ、行けるなら行きたいなって思うけど」

 わがままを言わない由梨の本当の希望を聞いたとき、美紀は俄然やる気が沸いた。必ず由梨を進学させるのだ。一緒に奨学金について調べ教師にも相談した。
「ありがとうねえ、美紀ちゃん」
 奨学金の目処がついて、由梨は涙ぐんで美紀に抱き着いてきた。可愛いヤツ。大好きだ。

 当の美紀は「これからは福祉だ」という父親の命令で福祉学部に進学した。
 美紀の父はいわゆる九州男児で亭主関白だ。家長の父が絶対。夕食も父が帰宅するまではどんなに時間が遅くなろうと箸を持つことは許されない。子どもの頃からそれが当たり前なので美紀たち姉弟はそれ自体を辛いと思ったことはない。

 一度その夕食の席に、父が職場の女性を伴って帰ってきたことがあった。
「お世話になってる人だから挨拶しなさい」
 よくわからなかったが、美紀と弟もその人に挨拶し一緒に夕食を食べた。かっちりしたスーツ姿のキャリアウーマンという感じの人だった。よくわからなかったが、家庭的な母とは真逆の人種だというのは間違いなかった。

 その人が、父のいわゆる愛人だと知ったのは大分後になってからのことだ。美紀はショックだったが、もっと衝撃だったのは、母が当然の事としてそれを受け入れていたことだ。そこまで父に服従なのかと絶望に近い感慨を抱いたのを覚えている。

 こんな家は出ていきたい。そう考え始めた頃、就職活動の合間に一緒にご飯を食べに行った由梨も言っていた。
「とにかく自立したいんだ。そしたらお母さんも好きにできるだろうから」
 そう話す由梨の澄んだ目を見て、美紀は恥ずかしくなった。そんなふうに家族のことをきちんと考えたことはなかった。
 自分の場合、家を出たいというのは逃げでしかない。中学生というまだナイーブな年頃の弟が、父からのプレッシャーを一手に受けることになるのでは。

 よくよく観察してみれば、母だって精神的に消耗しているのは明らかだった。父は愛人なんて持っているくせに妻を愛していないわけではない。むしろ束縛するきらいがある。そんな父の顔色を窺う生活を長年続けてきて、母もノイローゼ気味になっていたのだ。

「たまにはふたりで出かけようよ」
 そうやってちょくちょく連れ出すようにすると、目に見えて母の表情は明るくなった。
「娘がいて良かった」
 やわらかく微笑んだ母に言われたとき、この家に生まれて良かったと思った。
 父親のコネで一度は就職が決まったが、美紀はそれを蹴って派遣会社の面接に行った。小さな事務所の一角で、美紀の履歴書を二度見した担当者は、申し訳なさそうな顔をして「ちょっとしたテスト」の用紙を取り出した。
「大卒の人には失礼かもしれないけど」
 簡単な漢字の書き取りに、簡単なパズルの問題だった。美紀にはこれになんの意味があるのかわからなかったが真面目にこなした。

 翌日には派遣先企業の面接に連れていかれた。そこで美紀の面接をしてくれたのが工藤だった。やっぱり履歴書を二度見して、美紀の顔を眺めた。
「遂に学卒が来たか、ほんとに就職難だなって思った」
 後になってそう話していた。

 勝手に仕事を決めてきた美紀に父親は当然激怒した。火のように怒っても、今まで手を上げられたことはなかった。さすがに今度は殴られるかもしれない。冷えた頭の片隅で考えた。だが母と弟が美紀を庇ってくれた。
「もう大人なのだから自分で決めたいと思うのは当然じゃないですか」
「働くんだからいいだろ。怒ることないじゃないか」

 父親はここで初めて、自らが孤立した存在であることを悟ったようだった。いざ反旗を翻されたら何もできない御山の大将なのだ。ぶるぶるとこぶしを震わせ青筋を立てやがて「勝手にしろ」と吐き捨てた。

 そうしてしばらくは誰とも口もきかずにいたが、頃合いを見計らった弟が勉強のことを聞きに行くと、何やら嬉しそうに答えていた。男の子は優しいなあと思った。美紀はいまだに父と仲良くする気にはなれない。




 勤務を始めた作業現場では、美紀は自分がいかに短気かを思い知った。手先の器用さが求められる作業で、思うようにできなかった。教えてくれた女性社員は簡単そうにこなすのに、美紀にはできない。
「やってるうちに開眼する瞬間が来るから」
 吉田は笑ってそんなふうに教えてくれたが、美紀にはそれが理解できない。何事も頭で考えてから進む自分には、そもそも工場勤務は合っていないのでは。

「そんなことないよ。誰にだってできる仕事だもの」
 そう励まされたことが負けず嫌いの美紀に火をつけた。それなら自分にできないはずはない。一心不乱に集中すると、吉田の言う「開眼」が訪れた。なんだ、こんなことだったのか。一気にあらゆる回路が繋がった気がした。
「ね? だから言ったでしょ?」
「はい」

 わかってみれば器用なだけなら良いというわけでもない。効率よく作業するためにはやっぱり頭も使わなければならない。吉田はそれがものすごかった。また彼女のすごいところは、どんな作業もできるということ。
 担当の作業員が休んだ場合その穴を埋めるのはいつも吉田で、彼女はフロアの全ての作業をこなせるのだった。
 ふわふわとした雰囲気の奥様なのに仕事はものすごくできる。女性としても素敵だし、先輩としても尊敬し憧れた。吉田さんみたいになりたい。

 間もなく少しずつ新しい作業を教えられるようになった。敷居が高いと思われた半田付けをやらされたときには、少し腰が引けた。それこそ職人技が必要なのではないか。
「ポイントを押さえればあとは慣れだから。美紀ちゃんならできるよ」
 他ならぬ吉田さんに教えてもらえるのが嬉しくて、美紀は張り切った。ところが。

「今日は俺が教えるから」
 吉田が有給を取った日、美紀の教育についたのは工藤だった。はっきり言って工藤の教え方は下手だ。圧倒的に言葉が足りない。イライラする。美紀の気持ちは態度に出てしまっていたらしい。
「あ、こいつ短気だなって思った」
 やっぱり後になってそう言われた。

「昨日はごめんね」
 翌日出勤してきた吉田に臨時教師のダメダメっぷりを訴えると、彼女はしようがないなと微笑んだ。
「工藤くんは人に教えるのがうまくないのだよね。頭は切れるのに」

 尊敬する吉田さんが褒めたものだから、美紀はそれから工藤を意識するようになってしまった。観察してみると工藤は実にマイペースな男だった。人前だろうといつだろうと細いフレームの眼鏡がずり落ちてしまいそうなほど大口を開けてあくびをする。「だりいな」が口癖で長い足を投げ出して斜めに椅子に座る。行儀が悪い。髭が濃いらしく三時の休憩時には青々とし始めた顎をかじって煙草を吸っている。そうしながらパックのイチゴミルクを飲んでいるのを見かけたときには、思わず二度見した。なんてわけのわからない人なんだろう。

 黙ってれば知的で大人な印象なのに。印象に反して言葉遣いは汚いしガサツだ。美紀が見下していた高校男子たちをそのまま大人にしたような。それでいて結婚指輪なんか嵌めている。
 多分工藤を観察しながら美紀は顔をしかめていただろうと思う。それなのに見てしまうのはなぜなのか。そんな当然の疑問にすら思い至らないまま、この職場に来て二年がすぎた。

 美紀は半年ごとに順調に昇給して少しずつ時給を上げてもらえた。仕事自体はできるようになれば楽しく、職場の人たちも吉田を始め大人で優しい人ばかりだったから、ここはとても居心地が良かった。

「時給上げてやれって派遣会社に言っといたからさ」
 工藤に偉そうに報告されたときには「は?」と思ったが、事実であるには違いない。美紀を査定するのは工藤なのだから。だからぐっと怒りを抑えて頭を下げておいた。こいつなんか吉田さんがフォローしないと何もできないくせに。
 その頃、接客業に嫌気がさした由梨も工場勤務を始めた。一人一人が工程の作業を分担する美紀の職場と違い、由梨のところはオートメーションの流れ作業らしい。そのくせ検査という個人の資質を問われる作業内容で、それ自体はいいのだが環境が良くないと由梨はこぼしていた。

 人間関係て大事だな。自分の職場は大人ばかりで良かった。女性が多く若い男性作業員など一人しかいない。だから由梨に「いい人はいないのか」と訊かれても「いない」とすぐに答えた。




「今度のバーベキュー美紀ちゃんも来るでしょ」
 吉田に誘われて戸惑った。会社の納涼祭や、課の忘年会などに美紀は出席したことがない。
「フロアだけの親睦会だもん」
 小首を傾げて吉田は笑った。
「たまにはやるかって、珍しく工藤くんが。だからおいでよ。美紀ちゃんだって同じ職場の仲間なんだから」

 その言葉が素直に嬉しくて、当日おずおずしながら顔を出した。かんかん照りの海岸で、風が少し強かった。吉田に教えてもらっていたから、鍔の広い帽子に日焼け止めを念入りに塗って行った。

 数人いる男の人たちは、タオルを頭に巻いて濃い色のサングラスをかけ鉄板に向かっていた。その周りで女性たちがああだこうだと焼き方を指図している。それだけで楽しそうだった。
「ぎゃあぎゃあうっせえな」
 特にガラが悪いのが工藤だった。黙っていれば知的でクールな顔立ちなのにがっかりだ。

 日差しの強さにやられてお肉を食べる気にはなれなかった。おばさんたちは大きな声で楽しそうにしゃべりながらモリモリ肉をたいらげている。ここに由梨がいたらリスみたいに肉を頬張っていただろうなと思う。

「マシュマロとかバナナも持ってきたよ。焼いてもらう?」
 お茶ばかり飲んでいる美紀に気遣って吉田が声をかけてくれる。
「バナナですか?」
「焼きバナナ。美味しいんだってよ」

 吉田は工藤のところへ行って、網の上に皮のままのバナナとホイルに包んだマシュマロを置いた。そのまま待ちながらトンクを持った工藤と話している。仲の良さそうな様子に美紀はじとっとふたりを見つめる。

 しばらくしてから、吉田は皿の上に真っ黒なバナナととろけたマシュマロを載せて美紀のそばに戻ってきた。
「食べてみよ」
「ありがとうございます」
 バナナはバナナとは思えない形状で、だけどバナナの香りがものすごいクリームみたいになっていた。マシュマロと合わせると濃厚なプリンと生クリームをトッピングしたみたいな感じだ。

「甘いですね」
「うん。アイスコーヒー飲もうか」
 ブラックの缶コーヒーをもらって味わう。高級なデザートを食しているようだ。満足してそのまま吉田と話していたら、年配のおばさんのひとりが美紀に近づいてきた。

「ねえねえ、崎谷くんと話してあげてくれない?」
 缶ビールを飲んでいる男性たちと、鉄板の傍らで、肉を食べている黒縁眼鏡の男の子を指差して言う。四月に入社してきた新入社員だ。今は研修という形で各フロアを転々としている。一週間前からおばさんたちに交って作業していて、あれこれかまわれているようだった。

「若者同士仲良くしてあげて」
 どうしてオバさんオジさんは「若者同士」を引きあわせようとするのだろう。不快に思ったけれどここでそんな態度は出せない。美紀は言われた通り崎谷に近づき話しかけた。

「食べてますか?」
 崎谷は太めの黒いフレームがずれそうな勢いで振り返り、びっくりした様子で頷いた。
「あ、うん……」
「暑いですね」
「うん……」
「……」

 話が続かない。が、話すという任務は実行したのだから良いだろう。後退さりながら適当な言葉を探していた美紀に、またまた余計な声がかかる。
「こいつカノジョもいないひとり者だってよ。仲良くしてやってよ」
 フロア作業員ではないが製品運搬のため頻繁に顔を合わせるオジさん社員が、タバコをふかしながら続ける。
「今度メシでも行ってさ」

 イライラした。
「連絡先交換しときなさいよ」
 オバさん社員がはしゃいでせっつく。自分のことでもないのに。普段の職場とは違う開放的な空気がそうさせるのだろうとは思うが、うざい。だけど大人な美紀はケータイを取り出す。

「いいの?」
 崎谷は目を丸くしている。うるさい。全部こいつのせいじゃないか。教えるだけだ、連絡が来たところで適当に流せばいい。感情を殺している美紀に気づかず崎谷もケータイを取り出して突き合わせる。そこへ、三台目が現れた。

「じゃあ、俺も俺も」
 驚いた。黒いケータイを持っているのは工藤だ。
「なんでアンタがまじんだよ」
 げらげらとおじさんが張り倒したときには赤外線通信で工藤のデータが表示されていた。美紀はとっさに登録を押す。

「いってーな、いいじゃんか」
 酔っているのだろうか。その割には涼しい顔で工藤はケータイをしまって元の場所に座りなおした。次のビールを開けて飲み始める。もう美紀の方は見向きもしない。
「あ、じゃあ。後でメールするから」
 崎谷の言葉は美紀の耳に入っていなかった。



「もー。酔っ払い! 帰るよ」
 女性社員たちが工藤とおじさんの背中を叩いて車に押し込んでいる。大型のバンのトランクに荷物を積むのを手伝った美紀に、吉田が「お疲れさま」と息をついた。
「手伝ってもらってありがとう」
「当然です」
「楽しかった?」
「はい」
 これは本当だ。職場の人たちの普段とは違う姿が拝めたのだから。

「それじゃあ、また会社で」
 バンの運転席から手を振る吉田と、その後に続く軽自動車のおばさんたちに手を振って見送り、美紀も自分のクルマに乗って海岸の駐車場を後にした。

 家に戻ると顔が真っ赤だと母親に驚かれた。帽子をかぶっていたから日焼けはそれほどしていないはずだが。汗をかいたしシャワーを浴びてさっぱりした。
「海岸はそんなに暑かった?」
「だって、遮るものが何もないんだよ」
 リビングで母親が買っておいてくれたアイスクリームを食べているとケータイの着信音が鳴った。

『今日はお疲れさまでした』
 崎谷からだ。かなり悩んだ後、美紀はあたりさわりなく返事を返した。そしてもう一件の新規のアドレスを呼び出す。

『今日は誘って頂いてありがとうございました。ごちそうさまでした』 
 送信ボタンを押すときドキドキした。こんなにドキドキするのは久し振りだ。送信中の表示を見つめながらキャンセルしたい衝動にかられる。送信完了の文字が目に入ったときには、メールを送ったことをもう後悔していた。どうしてメールしたんだろう。こめかみがどくどくしていた。

 自分を落ち着けるようにバニラのアイスクリームを口に運ぶ。焼きバナナの味を思い出す。あれはとても美味しかった。由梨に教えたい。そうだ、連休中に食事に誘わなければ。どうせ暇してるに決まってるんだから。

 明るい気分になってケータイを手に取ったとき、メール受信中の画面になった。息を止めて見つめる。着信音が鳴る前にメールボックスを開く。工藤の名前があった。
『おう。お疲れさん』
 それだけ。返事が来たことが意外で、美紀はその短い文面をしばらく見つめていた。