(1)
 引退をしてからも、日々は目まぐるしく進んでいく。
 季節は移り替わった。
 残暑はまだまだ厳しいが、秋めいた空は夏の終わりを感じさせる。秋の訪れは、わたしたちに現実を突きつけた。

「あー、ダメだ。全然ダメ、本当にこのままじゃダメ」
 七星は頭を抱えて、紙切れを穴が開くんじゃないかというほどに見つめる。それは模試の結果表だった。ちらりと盗み見た成績表には大きく「D」と表記されている。
「まぁ、まだ九月だからね」
「うぅ。ナナ、もっと勉強しておけばよかった。一年の頃の自分に言ってやりたいよ……」
「そんなことできるなら、わたしも言いたいよ」
 成績が芳しくないのは七星だけでない。わたしの成績表にも大きく「C」の文字が印字されていた。第一志望の国立大学、第二志望の公立大学。共にまだまだ遠く、及ばない。
 教師陣が「部活動をしていたやつは最後まで伸びる」とか訳の分からない理屈を並べ立てなくとも、まだまだこれからだということは理解している。それでも、目の前に突きつけられた現実は先の見えない迷路のようだった。しかも、出口のない迷路だ。
「七星はさ、何系に行くの? 学部」
「うーん。ナナは経営学部かなぁって思ってるよ。そういう道、ちょっと興味あったんだよね。なんか格好良くない? それに向いてると思って!」
 短絡な理由にも聞こえるが、彼女は決めた道だ。まっすぐ突き進んでいくのだろう。
「果歩は? 果歩は何系の学部に行くの?」
「まだ迷ってる。でも、栄養系か理学療法かな。どっちにしても、大学じゃなくて専門学校もありなんだけどね。やっぱり、親的には大学に行って欲しいみたい。まぁ、とにかく四大なら公立じゃないと。家計的には……」
 そう言いながら思い浮かべるのは、兄の姿だ。
「あー、果歩はお兄ちゃんもいるもんねぇ」
「うん。お兄ちゃんは大学ももう決まってるからね。スポーツ推薦だから、私立なの」
「果歩ブラザーは私立かぁ。ともなると、果歩はやっぱり気にしちゃうよね」
 ナナは手にしていた成績表をいきなりぐしゃぐしゃに丸めると、それをゴミ箱めがけて放り捨てた。
「まぁ、考えても仕方がないね。とりあえず勉強だぁ」
「それもそうだね。とにかく単語覚えて、数式も覚えないと」
 そう言うと、七星はおもむろに単語帳を取り出して勉強を始めた。手にした単語帳はすでにボロボロだ。付箋がなんども取り外しされて、糊の部分が黒くなってしまっている。
 わたしはつい先ほど彼女が放り捨てた成績表を拾いに歩く。ぐちゃぐちゃに丸められたそれは、ごみ箱には入らずに落ちてしまっていた。なんて縁起が悪いんだろう。
破 れないように開くと、過去の模試との比較表が目に入った。はっきりとした右肩上がり。着実に七星は成績を伸ばしていた。志望校は経営学部としては最も最難関であろう私立大学。国立大学を目指すわたしよりも険しい道になるかもしれない。それでも七星は、合格してみせる気がする。それは単なる希望的な予測に過ぎないが、何よりもわたしがそう信じている。桜井七星はとてつもなく努力家なのだ。どんなことに対しても真っすぐで、人を惹きつける何かがある。経営学部に受かるのはもちろんだが、何よりも、彼女はいつか大きなことを成し遂げる気がしていた。 
 ぐちゃぐちゃになってしまった成績表を手で伸ばし、四つ折りにする。勉強する彼女の机の端にそっと置いておいた。
「ありがと」
「どういたしまして」
 七星は単語帳を閉じて、じっとわたしを見つめる。ふっと口角が緩んだ気がした。
「ねぇ、果歩」
「どうした?」
「ナナね、汚い人間なんだ」
 それは七星らしくない声だった。明るさの中に憂いを帯びた哀しい声だった。
「何言ってるの。七星よりも綺麗な人間、わたしの周りにはいないけど? あ、見た目だけじゃないわよ」
「ほんとに?」
「ほんとよ、ほんと。それに、わたしは汚い人間を親友にしたりしないから」
「ほんと?」
 何度も確認してくる。普段なら面倒だと一蹴してしまうところだが、今日の彼女は真剣だった。
「本当よ。ほんとう」
 嘘偽りは何一つない。わたしにとっての桜井七星は綺麗な人間だ。明るくて優しい、どんなわたしでも受け入れようとしてくれる。他人の心情を図れる優しい子なのだ。
「ふふ、親友? ナナね、果歩のこと大好き。大学が別々でも、ずっと親友でいてくれる?」
「なんだ、そんなこと? 当たり前じゃん。学校が違っても、県が違っても親友だよ。もちろん、浪人しても」
「やだ、縁起悪いからやめてよ!」
 七星は手を叩きながら笑った。ついさっき拾ってあげた成績表をカバンに入れて、代わりに志望大学の赤本を取り出す。それもすでに角は取れて、丸くなってしまっていた。
 桜井七星は、とても綺麗な人間だ。その美貌は先天的に得たものかもしれない。でも、彼女の明るさや優しさは後天的に手に入れたものだ。まっすぐに努力し続ける才。汚いものなんて、何一つとしてない。
「そういえばさ。最近、月見くんどうしてるの?」
「樹くん? 変わらないよ。たまに外周してるところは見るし、あぁ、この間は一緒にハンバーガー食べに行った」
 七星はにんまりと含み笑いを浮かべ、手にしていた赤ペンをくるくると回した。
 ただ、彼女が思い浮かべているようなことは本当に無い。私たちの関係性で変わったことは、わたしが彼を「樹くん」と呼ぶようになったことと、彼がわたしを「果歩先輩」と呼ぶようになったこと。その程度だ。
「月見くんって、ほんとによく走るよねぇ。あんなに速いのにどうして部活入んないんだろう。ナナ勧誘したのに、フラれちゃった。スポーツ経験者って言ってたけど、なんだろうねぇ」
「バレーだよ。バレーボール」
「へぇ、果歩聞いてたんだぁ。なんで入んないの? うち、バレー部あるでしょうに」
「彼…… ううん、それは知らないや」
 わたしは、樹くんがバレーボールを辞めた理由を知っている。でもそれは、彼から聞いたものではない。勝手に知って、勝手に理解したような気になっているだけ。それを七星に伝えてしまうことに躊躇いを感じて、言葉を濁した。
「ふーん。バレーしないんなら、陸上部入ってくれたらよかったのに。今年なんて駅伝の層が薄くて、困ってるんだから」
「今度、言えたら伝えておくよ」
 七星は「よろしく頼んだ」と言って頬を膨らませた。


 一周一キロメートルの外周を、今は通学路としてだけ使っている。辺りはすっかり茜がかり、もう随分と夜が近くなっている。少し肌寒くなった風に吹かれて、そろそろ長袖を着なくちゃいけないと体感させられた。
 視界に映り込むグラウンドを縦横無尽に駆け回る運動部は、なんだかおもちゃのように見えた。壊れて同じ動きを繰り返すゼンマイ仕掛けのおもちゃ。そんなことを言ったら怒られてしまうだろうか。
 左手首に着けた腕時計で時刻を確認すると、すでに六時半を過ぎていた。完全下校の時間を迎えても練習を続ける部活動がこんなにもあるなんて、熱心なことだ。
「果歩せんぱーい!」
 背後から勢いよく声をかけられる、軽い足音と重たい荷物が上下する音が徐々に近づいてくるのがわかった。
 振り返ると、息を切らせて重そうな荷物を整える樹くんがいる。
 彼が息を整えるのを少し待ち、すぐ隣を歩いた。
「樹くんは、今日も外周してたの?」
「うっす、果歩さんは?」
 受験勉強の為に早く帰宅するようになったことを以前に話していたため、少し不思議そうに尋ねられた。
「七星と勉強してたら、ちょっと遅くなっちゃって」
「受験っすもんね。俺も来年はそうなってるんっすかねぇ」
「指定校推薦で決めちゃえばいいんだよ。うちの学校は私立だし、けっこうたくさん推薦来てるんじゃないかな。クラスの子たちも狙ってる子、多かったよ」
 そう言うと彼は嬉しそうに口角を緩め、こぶしを叩いた。
「その手があるのか。評定足りんかったら、やばいっすね」
「足りなかったら、やばいね。やっぱりコツコツ勉強しておきなさい」
「果歩さんは受験組っすもんね、国公立でしたっけ?」
「まだ迷ってるんだけどね、でもとりあえず共通テストは受けるよ」
「まだまだ先は長いっすね」
 彼は苦虫を嚙み潰したように顔を歪める。浪人したらもっと長いよ、とはさすがに言えなかった。言ったら、もっと苦し気に顔を歪めたんだろうか。
「七星も一般受験組だから、一緒に頑張るよ。むしろ七星の方が大変そう。滑り止めとして、いろいろ私立受けるみたいだから」
「桜井先輩も一般受験組なんですか! ますます来年が嫌になってきた……」
「今からコツコツ頑張ってよ、樹くんは意外と頭いいし、割と要領もいい方でしょう」
 ゆっくりと前を歩きながら、「そうっすかね」と渋い顔をした。
 一周一キロメートルの外周を謎に一周して、駅に向かう。それが無駄なことだと分かっていながら、わたしたちは必ずそうした。受験が近づくにつれ会う機会が減ったことがそうさせているのだとは分かっている。一周一キロメートルと駅までの道のりを、たいしたことない無駄話で繋ぐ。そんな時間が好きだった。
 その愛おしい時間も終わりが近づいている。駅前のにぎやかな喧騒を聞くと、いつも決まって終わりを感じて寂しくなる。
「あ、そうだ」
 話の流れを中断させて、声をあげたわたしを樹くんは不思議そうに見る。割と大きな声だったのか、周囲の人もこっちを見ていて恥ずかしくなった。
「七星ね、樹くんを陸上部に勧誘しよう計画、諦めきれてないみたいだよ」
「桜井先輩もめげないっすねー」
 間延びした声は、あまり興味がなさそうだった。
「駅伝の人が足りないんだって。七星も引退してるのに大変だよね、たまに顔出してるみたいだし」
「そりゃ大変っすね。でも、俺じゃ力不足なんで。特に団体競技には出ませんよ」
「そっか、仕方ないね」
 まだそこまで言っていないのに、樹くんは先回りして拒絶した。有無を言わせない圧力のある声だった。部外者がしつこく言うのもなんだか申し訳なくて、わたしもそれ以上は続けなかった。
「あ、樹くん、もう一つだけ」
 樹くんは少し訝し気に首を傾げてこちらを見る。本当に駅伝に出る気はないんだなぁ、としみじみ痛感させられた。
 でも、わたしは今から彼がもっと嫌がることを言う。
 一拍、心を落ち着けるための深呼吸をして、真っすぐ彼の瞳を見据えた。
「来週、バレーボール見にいかない? バレーしてたんならさ、ルールもちゃんと知ってるでしょう? わたしの知り合いが出ててね。でも、一人じゃ行きにくくて」
「あー、バレーボール…… バレーはもういいんっす、俺は遠慮してもいいっすか?」
 やっぱり断られる。それは予想の範疇だった。
「言い方を変えるね。樹くん、行こう。バレーボール、見にいこう。その日が暇なことはしてるよ。付いて来て」
 強く、はっきりとした口調で繰り返した。
 それでも樹くんは首を縦には振ってくれない。一貫して首を横に振り続ける。
 駅の構内に入り、改札はもうすぐそこだ。乗る路線が違うので、いつもここでお別れになる。逃げるように足早になる樹くんの腕を、わたしはしっかり引き留めた。
 強張った表情の樹くんは、泣き出しそうだ。しつこくしている自覚はあるので、怒られても仕方がない。そう覚悟してたので、少し意外だった。優しすぎる、そう思った。
 今からわたしは、彼を傷つける。わたしのエゴで傷つける。
 でも、かつてわたしをエゴで動かしたのは樹くんだから、そうするだけの権利がある。
「ねぇ」
 握りしめたままの腕を、じっと見つめていた樹くんの視線がこちらを向いた。
「樹くんはさ、雲を掴めるって信じてるのに手はのばさないんだね。雲は掴めるって、ずっとわたしに言ってくれてたのに」
 わたしははきっとずるい。こう言ってしまえば彼は断れなくなると知っていて、そう言うのだから。
「行こう、来てくれるよね」
 案の定、樹くんは困ったように眉を下げて、「行くっす」と小さく呟いた。