(9)
桜井先輩に教えてもらった住所は、自宅からそれほどまで遠くない。けれど、市立体育館までの距離が離れていた。夕凪先輩の自宅まで全速力で自転車を漕ぐ。家にいるという確証はなかったが、家にいるだろうな、という予感があった。
あれだけ毎日外周トレーニングをしておいて、最後に頼るのは自転車なのだから笑えてしまう。
風が強い。
走るときよりもずっと、強く身を切るような風だった。
暖かい日でよかった。冷たい風だったなら、こんなにも早く漕ぐことはできなかっただろう。
夕凪先輩はいま、どんな気持ちで部屋にいるんだろう。届かない雲に手を伸ばして、自らを戒めているのだろうか。
それは、嫌だ。俺は夕凪先輩に雲を掴むことを諦めて欲しくない。
俺みたいに諦めないで欲しい。
乗り捨てるように自転車を駐輪させた俺の視界に映り込んだのは、夕凪家の庭だった。庭に転がる青と黄色のボールがひどく懐かしい。
それを横目に、インターホンを押した。
軽快で間抜けなベルの音が響き、誰かの足音が近づいてくる。
しかし、扉が開かれる気配は無い。
もう一度、インターホンを押した。
しかし、誰も出てきてはくれない。
人はいる。確かに、玄関扉の前に誰かがいる。そして、それが夕凪先輩だという確信を持った俺は、玄関の扉の前に足を進めた。緊張で心臓が痛い。
コンコン
軽い音を立てた扉の向こうに、人の呼吸を感じる気がする。聞こえるわけはないが、確かにそこに先輩がいる。
コンコン
もう一度、扉をノックする。
やはり、誰も出てきてはくれない。
諦めてポケットの中のスマートフォンに触れたとき、閉ざされていた重たい玄関の扉がゆっくりと開いた。
「月見くん、しつこいよ。どうしたの? 驚いて居留守しちゃおうかと思ったよ」
「おはようございます、出てきてくれてよかったっす」
夕凪先輩は、視線を逸らして笑った。寝不足なのか、目の下にはクマがあった。
「先輩、今日行かなくてよかったんすか?」
「うん、仕方ないよ。無理して怪我悪くなっちゃったら困るからね。これから受験も控えてるし。うん、仕方ないの」
諦めるための口実を、必死に自分に言いきかせる。そんな口調だった。笑っているその表情の瞳の奥は泣いている。
俺は、先輩のことを本当に少しだけしか知らない。まだ出会って一か月くらいなんだ。それにもかかわらず、俺は失礼で無遠慮で、どうしようもなく愚かな人間だ。
それでも、先輩の背中を強く押してあげたかった。
「夕凪先輩。今から俺、失礼なことを言ってもいいっすか」
「……どうぞ?」
俺は大きく息を吸い込んで、決意が揺らがないうちにはっきりと告げた。
「腕、もう治ってるんですよね」
その言葉を聞いた先輩は一瞬だけ目を大きく見開き、何事もなかったかのように穏やかな表情に戻った。かすかに下がった眉は困っているようにも見える。
「どうしてそう思うの?」
桜井先輩から聞きました、とは言えずに俺は黙り込む。夕凪先輩はそれを感じ取ったのか、優しさを帯びた溜息を一つ零した。
「治った、とは言い切れない。腱鞘炎ってね、けっこう再発しやすいものなの。でも、確かにもう痛みはない」
「じゃあ」
言いかけた俺の言葉を遮るように、夕凪先輩は言葉を重ねる。
「怖いの。怪我を言い訳にできなくなったのも、自分が勝てない現実に打ちのめされて卓球を嫌いになるのも、全部怖い。それならいっそ」
――卓球を辞めてしまおう。
夕凪先輩はそれを言葉にしなかったけど、痛いほどに伝わってくる。逃げ出したい。好きなものを嫌いになることほど、辛く苦しいことはない。それが自分の人生の全てだったと言えるほどに熱量を注いだものならば尚更に。
思い出す、かつての自分の苦しみ。あの苦しみの最中で、夕凪先輩はもがいている。
掴めない雲。
それでもあきらめきれない夢に思いを馳せることは存外、体力を消耗するものだ。そして、それよりも早くすり減るのは己の精神。
逃げることは自分を守る為の最大の手段。それは決して否定しない。夕凪先輩の決断は英断だ。でも、逃げるタイミングは絶対に今じゃない。それが俺のエゴだとしても、夕凪先輩はまだ逃げるべきじゃない。
「夕凪先輩は、卓球が好きでしたか?」
そう問いかけた時、夕凪先輩の瞳が大きく揺れ動いた。
「それは、もちろん。わたしにとって一番大切なもので、これまでの人生の全てだよ」
「じゃあ、やっぱり総体には出場すべきです。辞めるのはそのあとがいいっす、絶対に」
「何それ、意味分かんないよ」
震える声はまるで、許しを乞うているようだった。逃げ出すことを許してほしい、先輩の声がそう訴えかけてくる。
「今辞めたら、夕凪先輩は絶対に一生思い出すと思うんっすよ。あのとき、大会に出ていたらって。あのとき、どうして逃げ出したのかって。諦めるには区切りがいるんっす。これでおしまいっていう明確な区切り」
「総体を区切りにしろ、って言うの? それが例え、不本意で無様な試合になったとしても?」
「うっす」
夕凪先輩は黙って天を仰ぐ。どこまでも青く高い空。夕凪先輩はそれを見つめて、何を思っているのだろう。
しばらく空を見上げていた先輩は、唐突に声をあげて笑い始めた。何かを諦めたような、乾いた笑い声。こちらを向いた夕凪先輩の瞳には、涙の膜が張っている。
「月見くんはさ、エゴイストだね」
震える声に合わせて、夕凪先輩の瞳から一筋の涙が伝った。その線を道しるべにして、次々と涙がしたたり落ちる。
「乗っけてよ、自転車。じゃないと大会に間に合わない」
先輩は俺が乗ってきた自転車を指差して、そう言った。拭いきれなかった涙が、地面に落ちて黒い跡をつける。
「先輩、これ着て」
着ていたジャケットを脱いで手渡す。
夕凪先輩はきょとん、と不思議そうに俺のことを見つめた。
「先輩、学校ジャージっすから。バレたらヤバいでしょ。出場停止になったら笑えないっすよ」
「ありがとう」と言って、ジャケットに袖を通す。大きなリュックサックを背負い直して、深くフードを被らせた。
二人で乗る自転車は、不安定に揺れながら走行する。スピードは徐々に加速して、景色は滑らかに流れ去っていく。
電柱。学校。民家。行きかう人々は、次々に移り変わっていく。差し掛かった商店街で、二人乗りをする俺らを咎める声がした。それを無視して、スピードをあげていく。アーケードを抜けると駅前の道につながる。賑わいをみせる駅前の通りは、カラフルに視界を彩った。
その中で空の青色だけが、いつまでも視界の端を流れ続けていた。
澄み切ったスカイブルーは高く遠い。
そこに浮かぶ白く柔らかな入道雲が、まるで併走しているようだった。
「夕凪先輩。手伸ばして、今日こそ近いっすよ」
少しだけ速度を落として、夕凪先輩に声をかける。
腰に回っていた右腕が緩められて、そのまま高く空に伸ばした。
綺麗な指先が、スカイブルーの空を泳ぐ。
夕凪先輩は、それを黙って見つめていた。
俺は懸命に自転車のペダルに体重を乗せる。白く柔らかな熱を背に、届かない雲に追いつこうと必死に前に進んだ。
遠く青い空。
そこに浮かぶ白い雲を、夕凪先輩はいつか必ず手にかける。
それだけを信じて、ただ必死に前へ進んだ。
大通りに面した正面玄関。そこに俺は停車させる。夕凪先輩は静かに自転車から降り、羽織っていたジャケットを脱いだ。
「ねぇ、月見くん」
「はい」
小さな深呼吸を数回繰り返し、俺の目をまっすぐに見つめる。
「わたし、負けるよ。たぶん、今までの試合で一番ひどいプレーになる。でもね、月見くん。ちゃんと見てて。わたしの卓球人生、本当にこれが最後だから。逃げ出さないように、見張ってて」
「一球たりとも見逃しません。最後まで、見守ります」
真っすぐ見つめる視線はそのままに、夕凪先輩は一度だけ大きく深く頷いた。
駆けて行く背中に、俺は静かに手を伸ばした。
届くことのない先輩の背中は、雲のように軽かった。
体育館はさながら熱帯だった。じりじりと身を焦がすような熱い闘志が、確かにそこには存在していた。
わたしはその熱をすでに失ってしまっている。ひとり冷めた心で、ここに立っている。
諦めた人間がここに立つことは失礼に値するのではないか。
それは恐怖に近しい感情だった。逃げ出したいわたしの、言い訳に等しいされごと。
「ただいまより、第○年度高校総合体育大会地区予選の開会式を開始します。選手並びに監督のみなさまは、アリーナに集合してください。繰り返します……」
人の流れが一斉に同じ方向を向いた。まだ荷物を抱えたままのわたしは、流れをせき止めるように立ち止まっていた。
とりあえず、荷物をどこかに置かないと。
そう分かっているのに、硬直した足は思うように動いてくれない。小刻みに膝が笑っていた。
きょろきょろと視線を動かすと、遠くの方で平田さんと目が合った。彼女は流れに逆らうように、小さな体で人混みをかき分けてこちらに近寄る。
「先輩! 夕凪先輩、こっちです。ここ上がって、一番角の席一体はだいたいうちの高校です。私のカバンに大きなクマのぬいぐるみついてるんでわかると思います」
「あ、ありがとう。置いたらすぐに行くね」
「大丈夫です。ゆっくり準備してきてください。先輩、一回戦の最初の組なんです。私、先生にちゃんと連絡しておくので体動かしておいてください」
手渡されたのは、今日のトーナメント表だった。「夕凪果歩」に蛍光マーカーが引かれている。名が記される位置はちょうど第四シードの上だった。
今大会は珍しく、人数の問題で第一シード以外は不戦勝にならないようだ。
「本当はもっと早く渡しておけばよかったんですけど、ごめんなさい。じゃあ、私は先行ってますね。一回戦、お互いに頑張りましょう」
そう言って流れに沿って小走りにかけて行く平田さんは、わたしと同じでやっぱり芋臭いジャージだった。
淡々と進行するありふれた開会式をバックミュージックにして体を温める。軽く関節を伸ばして、ランニングをした。体育館の通路にはちらほらと観客が点在している。みな、選手の勝利を信じて応援にきたのだろうか。
お父さんとお母さんは、兄の試合の応援に。
部活動に仲間と呼べるほど、切磋琢磨してきた人もいない。
恩師、斎藤穂高は有井小春のベンチだろう。
有井小春の眼中に、もうわたしの姿はない。
自分にとって仲間と呼べる存在は、いつの間にかいなくなってしまっていた。いや、最初からいなかったのかもしれない。
熱い試合会場の中で、たった一人、勝利以外を目的として立つ。それは孤独なことだった。一人ぼっちをより痛感させられる、そんな苦しい世界だった。
身体はどんどんと温まっていくのに、それに反するように心が凍えている。選手宣誓を聞きながら、その温度差に震えてしまいそうだった。
「果歩」
聞きなれた暖かな声は、ここには存在しないはずだった。とうとう幻聴が聞こえ始めたのか、と自分自身に苦笑をこぼす。
すると、もう一度「果歩」と呼びかけられた。
「七星?」
七星はゆっくりと頷く。濃くはっきりとした顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「どうして、ここに?」
「月見くんに誘われちゃってね」
「そっか」
こちらに歩み寄る彼女に、「ごめん」と言おうとした。
忙しい時に、休日に、こんなところにまで、どうせ勝てない試合に来てくれて、ごめん。しかし、先にその言葉を発したのは彼女の方だった。
「果歩、ごめん。ナナがここに来たことも、月見くんに告げ口したことも、怒ってる?」
「ううん、怒ってないよ。びっくりしちゃっただけ」
七星はそれを聞いて「よかった」と零した。少し離れたところから聞こえる開会式が、もう終わりに近づいている。注意事項の説明を始めた。
わたしはジャージを脱ぐ。芋臭く、皮肉めいたジャージを適当に折りたたむ。
「ゼッケンつけなくていいの?」
七星は空のままの背中を指差して、そう尋ねた。
「あ、忘れてた。つけるよ、カバンの中にある」
一番端の座席に放り投げたカバンの中から、ファイルを取り出す。七星はそれを奪い取って、わたしを座席に座らせた。
「ゼッケンつけるから、そのまま座ってて」
「あ、ありがとう」
「今年は自分で書いたんでしょ? ゼッケン」
安全ピンを開きながら、七星はそう呟いた。その声はすこし、寂しそうにも聞こえる。
「うん、七星が去年書いてくれたのをなぞったの」
「言ってくれたら、今年もナナが書いたのに」
背中にゼッケンのわずかな重みがのしかかった。薄い布切れ一枚は感じるほどの重みはないはずなのに、何が重たくさせているんだろう。
「ナナね、果歩のこと大好きだよ。果歩が思ってるよりもずっと。それはね、果歩が卓球を辞めたって絶対に変わらないけど」
ドン、と背中に軽い衝撃が広がった。
振り向くと、七星は穏やかに笑っていた。
「ナナね、果歩が卓球の話してるのがね、すっごく大好きだったの。キラキラしてて、綺麗だった。だからね、今日は一番強い果歩を見せて」
親友が応援してくれることは、心強い。仲間がいないわたしは、それを心の底から欲していた。でも、いまのわたしに七星の期待に応えられる力量は備わっていない。それが、申し訳なかった。
「無理だよ。練習してないもん」
「別にね、勝って欲しいわけじゃないの。ただ、今の果歩にできる全力が見たい」
いつのまにか握りしめていた手には、くっきりとした爪痕が残っていた。七星はそれを柔らかく握りしめ直して、彼女の両手で包み込む。暖かくて、柔らかな手が、不安と罪悪の感情を和らげてくれるような気がした。
「果歩、行ってらっしゃい。二階で見守ってるよ」
『一回戦、一組目の選手は指定されたテーブルについてください』
場内アナウンスがそれを告げる。一組目に振り分けられたわたしは、テーブルに向かっていた。
『なお、一組目の審判は相互審判となっております。トーナメントの上側に名前がある選手の学校からお願いします』
それは忘れていた問題だった。これまではわたし自身にシードが付くことが多かったから、考えたことすらなかった。周囲を見渡すが、同校の生徒は見当たらない。相手校の生徒に頼むしかないのか……
「せーんぱい! もしかして、審判に困ってますぅ? 私がやりますよ、私が、します」
思いつく限りの人間で、最も頼みたくない人物が手をあげている。思わず眉間にしわが寄ったことが、自分でもわかった。
「嫌だなぁ。そんなに露骨に困った顔しないでくださいよ。優しさじゃないですかぁ」
彼女は喜ばし気に口角を上げ、こちらに歩み寄った。真正面に立ちはだかり、顔をしかめたままのわたしを眺める。
あぁ、本当に嫌だ。
「先輩は、私のこと嫌いでしょう。私は、それが嬉しいんです」
性格悪いな、と嫌悪をひどく感じる。
「あ、今、性格悪いと思ったでしょう? いいんですよう、自分でもそう思いますから」
分かってるならかかわってこないでよ。どうせ審判だってする気ないんだから、どっか行ってよ。そう念じながら睨み見る。
有田小春は睨む私を見て、表情を和らげた。
「私は今、嬉しくて仕方ないんです。やっと先輩が有田小春という存在を認識してくれて。どんな形でもいいから、私はカホ先輩の視界に入りたかった」
彼女は一つ、深呼吸をした。
まっすぐ、真剣な瞳がこちらを見つめる。その表情には、何か決意が宿っていた。
「この大会は私が優勝します。絶対に、です。カホ先輩が見てない間に、私は強くなりました。カホ先輩が私を見てくれなくても、私はずっとカホ先輩を追いかけ続けました。だから、先輩、先輩の最後を見守る権利はわたしが持っててもいいじゃないですか」
ずっとわたしの後ろにいた有井小春は、ずっとわたしのことを追いかけて、いつの間にか追い抜いて行った。もう届かないほど前にいるはずの彼女は、いまでもわたしの姿を見ている。
わたしは、彼女の存在に目を向けてこなかった。自分より弱いと思っていたからこそ、クラブチームでも特に意識してこなかった。
それはどれだけ残酷なことだったか。
理解した気になることは簡単だが、もっと深い苦しみが彼女にもあったのかもしれない。いや、実際にあったんだろう。でも、わたしの苦しみも彼女にはわかりやしない。結局、わたしたちはどこまでいっても理解し合えない運命なのだ。
「ね、先輩。私たちは仲間にも好敵手にもなれなかったけど、誰よりもカホ先輩に認めて欲しかった」
有井小春は寂しげにそう言った。
いつも強気で、嫌味ばかりの彼女の声は聞き逃してしまうほど小さかった。
だから、思わず頷いてしまった。
「コハルちゃん、相互審判をお願いします」
(11)
四月の暮れ。
まだ、暑さも控えめで過ごしやすい気候のはずだ。しかし、一歩競技会場に足を踏み入れれば、そこに広がるのは灼熱。アリーナから出てきた選手の頭からは、熱を帯びた湯気が見えるほどだった。
関係者でも何でもない俺は、二階の自由観覧席を目指す。横目で眺め見るアリーナにはたくさんの選手が激闘を繰り広げていた。
その中で夕凪先輩だけが、濃くはっきりと浮かび上がって見える。対戦相手の実力は分からない。でも、正直に言ってしまうと夕凪先輩の勝利は見えなかった。
圧倒的な実力差。攻め込まれて押されているのが、初心者の俺にもわかるほどだった。背に着けられた『夕凪』のゼッケンが揺れるたび、俺は泣きだしたい衝動に駆られる。
俺のエゴで先輩は傷ついているのかもしれない。
でも、俺のエゴがいつか先輩を救うかもしれない。
わからない、わからないけど、先輩がプレーするその姿から目を離したくなかった。
「月見くん、こっち」
桜井先輩が手を振る。ちょうど夕凪先輩がプレーする台を横から眺める形の座席だ。
「さっき、一セット取られちゃった。果歩の調子が悪いとかじゃなくて、相手が強すぎるの。さっきトーナメント見てきたんだけどね、第四シードの子なんだ。果歩、もうまるまる一年くらい試合出てないんだもん」
相手は強豪校の子なのだろうか、攻撃が決まると歓声が上がった。
それに対して、カホ先輩の試合を見ている生徒はたったの一人もいない。俺が知る限りの卓球部、平田は試合中。有井でさえも審判に駆り出されていた。夕凪先輩が点を取っても、誰も声をあげたりはしない。寂しい試合だった。
「桜井先輩、これって点取ったら声出しても大丈夫なんっすよね」
「うん、たぶんだけど。みんな本当に卓球選手みたいに叫ぶんだね」
全国中継される卓球の試合の選手たちは、点を取ると何かを叫ぶ。ただ、卓球をしない俺らにとってそれが何を意味する言葉なのかが分からない。みな、似たような言葉を叫んではいるものの、少しずつ異なり一貫性に乏しい。
どこかの選手が「ナイスボール」と声をあげた。それは、俺にとっても割と馴染みのある言葉だった。意味が分かる、使い方も分かる。
「よし、俺らも声出しましょう。先輩が点取ったら、とりあえず『ナイスボール』でいいっすか?」
「おっけい、『ナイスボール』だね。おっきい声出すよ、二人きりの大応援団だ」
桜井先輩は親指を立てて、いたずらに笑った。それを確認して、また夕凪先輩のコートに視線を移す。
なかなか声を出すタイミングが生まれない。先輩の得点が変化しないからだ。素人が傍から見ていても、相手の実力が上であることは一目瞭然だった。
じっと見守ると、ようやく夕凪先輩のサービスを相手がネットにかけた。
「「ナイスボール」」
二つ隣に腰を掛ける観客が、目を大きく開いてこちらを見ていた。それくらい大きな声が出たということだ。たった二人の応援団は、会場で一番気合の入った声を出している。
夕凪先輩はこちらを向いた。
審判を務める有井もこちらを確認した。
二人して、驚いた顔をしている。そして、夕凪先輩は大きな声で「よーーーし」と声をあげた。審判を務める有井は、もどかし気に頷いた。
ただ、いくら俺らの応援が届いても実力の差は埋まることはない。タイムアウトを挟んでも、相手がサービスミスを冒しても、決して流れがこちらに傾くことはなかった。
着々と、確実に終わりが近寄っていく。
――三対十
その最後のラリー。夕凪先輩の打球は鋭い弾道を描いて……そのまま、ネットを超えることなく夕凪コートに落ちて撥ねた。
相手選手が小さくガッツポーズをして、有井は点数盤を観客席に見えるように動かした。選手二人は礼をして、握手を交わす。対戦相手はそのまま運営席に向かって行った。
試合が、終わった。
先輩の卓球はこれで終わりだ。
俺と桜井先輩は、ただひたすらに拍手を送った。審判を終えた有井も、小さく手を叩いた。
俺は熱すぎる館内の雰囲気に酔ってしまい、気分転換を兼ねて外を歩いていた。
一方で夕凪先輩は敗者審判を終え、クールダウンを兼ねて競技場の外を歩いていたらしい。
適当な段差に腰を掛けて「お疲れ様っす」と言ったきり、会話が進まない。掛けるべき言葉が見つからなかった。
遠くで聞こえる館内の歓声、床を踏み込む大きな足音。それをただ、ぼんやりと聞いている。
その静寂を破ったのは、夕凪先輩だった。
「ねぇ、月見くん。聞いてくれる?」
「うっす」
「わたしね、いつか努力は報われて、そりゃプロになれるだなんて思ってなかったけど、大学のリーグで活躍くらいはできると思ってたの。それが夢だった。わたしは一番努力してる。だから、わたしが一番強くなる。この会場の中で、一番卓球が好き。だから、わたしが勝つんだって」
夕凪先輩は瞳を細めて、過去の自分を懐かしむように笑う。それは、一種の諦めのようにも見えた。
「でも、それは雲を掴むような夢。それもちゃんとわかっていたはずなの」
夕凪先輩は空に手を伸ばす。身を焦がすような日差しが、彼女の腕の輪郭を白く縁取った。
「それでも、雲は掴めるはずだって。いまでもそう思ってるの。わたし、馬鹿だよね」
夕凪先輩が描いた雲。
その夢はきっともう掴むことができない。分かっていてもなお、彼女は手を伸ばすことを辞められない。希望を描くことはきっと、一種の地獄に足を踏み入れることに近い。
俺は思う。先輩が描いた雲は美しく儚いものだ、と。届かない雲。限りなく遠く、漠然としてつかみどころのない夢。
でも、どうしてもはっきりと見えてしまったのだ。夕凪先輩が手を伸ばし、それを掴んで笑う姿がはっきりと鮮明に。
「夕凪先輩は、まだ雲を掴めますよ。描ける雲は一つだけじゃないっすから」
先輩は目を大きく見開いて、ゆっくりと閉じた。雲を掴もうと伸ばした手で、流れ落ちる涙を拭う。そのときに彼女が何を考えていたのか、俺はそれを知ることができない。それでも、もう一度雲に手を伸ばす姿を見て、純粋に綺麗で眩しいと思った。
雲に手を伸ばすことができる人間は、それを掴むことのできる人間だ。
「ありがとう、月見くん。雲はいつか掴めるものね、きっと」
それは言い聞かせるように、優しく穏やかな言葉だった。
心地よい先輩の声を俺は静かに受け取って、流れ落ちた涙を拭った。
(1)
引退をしてからも、日々は目まぐるしく進んでいく。
季節は移り替わった。
残暑はまだまだ厳しいが、秋めいた空は夏の終わりを感じさせる。秋の訪れは、わたしたちに現実を突きつけた。
「あー、ダメだ。全然ダメ、本当にこのままじゃダメ」
七星は頭を抱えて、紙切れを穴が開くんじゃないかというほどに見つめる。それは模試の結果表だった。ちらりと盗み見た成績表には大きく「D」と表記されている。
「まぁ、まだ九月だからね」
「うぅ。ナナ、もっと勉強しておけばよかった。一年の頃の自分に言ってやりたいよ……」
「そんなことできるなら、わたしも言いたいよ」
成績が芳しくないのは七星だけでない。わたしの成績表にも大きく「C」の文字が印字されていた。第一志望の国立大学、第二志望の公立大学。共にまだまだ遠く、及ばない。
教師陣が「部活動をしていたやつは最後まで伸びる」とか訳の分からない理屈を並べ立てなくとも、まだまだこれからだということは理解している。それでも、目の前に突きつけられた現実は先の見えない迷路のようだった。しかも、出口のない迷路だ。
「七星はさ、何系に行くの? 学部」
「うーん。ナナは経営学部かなぁって思ってるよ。そういう道、ちょっと興味あったんだよね。なんか格好良くない? それに向いてると思って!」
短絡な理由にも聞こえるが、彼女は決めた道だ。まっすぐ突き進んでいくのだろう。
「果歩は? 果歩は何系の学部に行くの?」
「まだ迷ってる。でも、栄養系か理学療法かな。どっちにしても、大学じゃなくて専門学校もありなんだけどね。やっぱり、親的には大学に行って欲しいみたい。まぁ、とにかく四大なら公立じゃないと。家計的には……」
そう言いながら思い浮かべるのは、兄の姿だ。
「あー、果歩はお兄ちゃんもいるもんねぇ」
「うん。お兄ちゃんは大学ももう決まってるからね。スポーツ推薦だから、私立なの」
「果歩ブラザーは私立かぁ。ともなると、果歩はやっぱり気にしちゃうよね」
ナナは手にしていた成績表をいきなりぐしゃぐしゃに丸めると、それをゴミ箱めがけて放り捨てた。
「まぁ、考えても仕方がないね。とりあえず勉強だぁ」
「それもそうだね。とにかく単語覚えて、数式も覚えないと」
そう言うと、七星はおもむろに単語帳を取り出して勉強を始めた。手にした単語帳はすでにボロボロだ。付箋がなんども取り外しされて、糊の部分が黒くなってしまっている。
わたしはつい先ほど彼女が放り捨てた成績表を拾いに歩く。ぐちゃぐちゃに丸められたそれは、ごみ箱には入らずに落ちてしまっていた。なんて縁起が悪いんだろう。
破 れないように開くと、過去の模試との比較表が目に入った。はっきりとした右肩上がり。着実に七星は成績を伸ばしていた。志望校は経営学部としては最も最難関であろう私立大学。国立大学を目指すわたしよりも険しい道になるかもしれない。それでも七星は、合格してみせる気がする。それは単なる希望的な予測に過ぎないが、何よりもわたしがそう信じている。桜井七星はとてつもなく努力家なのだ。どんなことに対しても真っすぐで、人を惹きつける何かがある。経営学部に受かるのはもちろんだが、何よりも、彼女はいつか大きなことを成し遂げる気がしていた。
ぐちゃぐちゃになってしまった成績表を手で伸ばし、四つ折りにする。勉強する彼女の机の端にそっと置いておいた。
「ありがと」
「どういたしまして」
七星は単語帳を閉じて、じっとわたしを見つめる。ふっと口角が緩んだ気がした。
「ねぇ、果歩」
「どうした?」
「ナナね、汚い人間なんだ」
それは七星らしくない声だった。明るさの中に憂いを帯びた哀しい声だった。
「何言ってるの。七星よりも綺麗な人間、わたしの周りにはいないけど? あ、見た目だけじゃないわよ」
「ほんとに?」
「ほんとよ、ほんと。それに、わたしは汚い人間を親友にしたりしないから」
「ほんと?」
何度も確認してくる。普段なら面倒だと一蹴してしまうところだが、今日の彼女は真剣だった。
「本当よ。ほんとう」
嘘偽りは何一つない。わたしにとっての桜井七星は綺麗な人間だ。明るくて優しい、どんなわたしでも受け入れようとしてくれる。他人の心情を図れる優しい子なのだ。
「ふふ、親友? ナナね、果歩のこと大好き。大学が別々でも、ずっと親友でいてくれる?」
「なんだ、そんなこと? 当たり前じゃん。学校が違っても、県が違っても親友だよ。もちろん、浪人しても」
「やだ、縁起悪いからやめてよ!」
七星は手を叩きながら笑った。ついさっき拾ってあげた成績表をカバンに入れて、代わりに志望大学の赤本を取り出す。それもすでに角は取れて、丸くなってしまっていた。
桜井七星は、とても綺麗な人間だ。その美貌は先天的に得たものかもしれない。でも、彼女の明るさや優しさは後天的に手に入れたものだ。まっすぐに努力し続ける才。汚いものなんて、何一つとしてない。
「そういえばさ。最近、月見くんどうしてるの?」
「樹くん? 変わらないよ。たまに外周してるところは見るし、あぁ、この間は一緒にハンバーガー食べに行った」
七星はにんまりと含み笑いを浮かべ、手にしていた赤ペンをくるくると回した。
ただ、彼女が思い浮かべているようなことは本当に無い。私たちの関係性で変わったことは、わたしが彼を「樹くん」と呼ぶようになったことと、彼がわたしを「果歩先輩」と呼ぶようになったこと。その程度だ。
「月見くんって、ほんとによく走るよねぇ。あんなに速いのにどうして部活入んないんだろう。ナナ勧誘したのに、フラれちゃった。スポーツ経験者って言ってたけど、なんだろうねぇ」
「バレーだよ。バレーボール」
「へぇ、果歩聞いてたんだぁ。なんで入んないの? うち、バレー部あるでしょうに」
「彼…… ううん、それは知らないや」
わたしは、樹くんがバレーボールを辞めた理由を知っている。でもそれは、彼から聞いたものではない。勝手に知って、勝手に理解したような気になっているだけ。それを七星に伝えてしまうことに躊躇いを感じて、言葉を濁した。
「ふーん。バレーしないんなら、陸上部入ってくれたらよかったのに。今年なんて駅伝の層が薄くて、困ってるんだから」
「今度、言えたら伝えておくよ」
七星は「よろしく頼んだ」と言って頬を膨らませた。
一周一キロメートルの外周を、今は通学路としてだけ使っている。辺りはすっかり茜がかり、もう随分と夜が近くなっている。少し肌寒くなった風に吹かれて、そろそろ長袖を着なくちゃいけないと体感させられた。
視界に映り込むグラウンドを縦横無尽に駆け回る運動部は、なんだかおもちゃのように見えた。壊れて同じ動きを繰り返すゼンマイ仕掛けのおもちゃ。そんなことを言ったら怒られてしまうだろうか。
左手首に着けた腕時計で時刻を確認すると、すでに六時半を過ぎていた。完全下校の時間を迎えても練習を続ける部活動がこんなにもあるなんて、熱心なことだ。
「果歩せんぱーい!」
背後から勢いよく声をかけられる、軽い足音と重たい荷物が上下する音が徐々に近づいてくるのがわかった。
振り返ると、息を切らせて重そうな荷物を整える樹くんがいる。
彼が息を整えるのを少し待ち、すぐ隣を歩いた。
「樹くんは、今日も外周してたの?」
「うっす、果歩さんは?」
受験勉強の為に早く帰宅するようになったことを以前に話していたため、少し不思議そうに尋ねられた。
「七星と勉強してたら、ちょっと遅くなっちゃって」
「受験っすもんね。俺も来年はそうなってるんっすかねぇ」
「指定校推薦で決めちゃえばいいんだよ。うちの学校は私立だし、けっこうたくさん推薦来てるんじゃないかな。クラスの子たちも狙ってる子、多かったよ」
そう言うと彼は嬉しそうに口角を緩め、こぶしを叩いた。
「その手があるのか。評定足りんかったら、やばいっすね」
「足りなかったら、やばいね。やっぱりコツコツ勉強しておきなさい」
「果歩さんは受験組っすもんね、国公立でしたっけ?」
「まだ迷ってるんだけどね、でもとりあえず共通テストは受けるよ」
「まだまだ先は長いっすね」
彼は苦虫を嚙み潰したように顔を歪める。浪人したらもっと長いよ、とはさすがに言えなかった。言ったら、もっと苦し気に顔を歪めたんだろうか。
「七星も一般受験組だから、一緒に頑張るよ。むしろ七星の方が大変そう。滑り止めとして、いろいろ私立受けるみたいだから」
「桜井先輩も一般受験組なんですか! ますます来年が嫌になってきた……」
「今からコツコツ頑張ってよ、樹くんは意外と頭いいし、割と要領もいい方でしょう」
ゆっくりと前を歩きながら、「そうっすかね」と渋い顔をした。
一周一キロメートルの外周を謎に一周して、駅に向かう。それが無駄なことだと分かっていながら、わたしたちは必ずそうした。受験が近づくにつれ会う機会が減ったことがそうさせているのだとは分かっている。一周一キロメートルと駅までの道のりを、たいしたことない無駄話で繋ぐ。そんな時間が好きだった。
その愛おしい時間も終わりが近づいている。駅前のにぎやかな喧騒を聞くと、いつも決まって終わりを感じて寂しくなる。
「あ、そうだ」
話の流れを中断させて、声をあげたわたしを樹くんは不思議そうに見る。割と大きな声だったのか、周囲の人もこっちを見ていて恥ずかしくなった。
「七星ね、樹くんを陸上部に勧誘しよう計画、諦めきれてないみたいだよ」
「桜井先輩もめげないっすねー」
間延びした声は、あまり興味がなさそうだった。
「駅伝の人が足りないんだって。七星も引退してるのに大変だよね、たまに顔出してるみたいだし」
「そりゃ大変っすね。でも、俺じゃ力不足なんで。特に団体競技には出ませんよ」
「そっか、仕方ないね」
まだそこまで言っていないのに、樹くんは先回りして拒絶した。有無を言わせない圧力のある声だった。部外者がしつこく言うのもなんだか申し訳なくて、わたしもそれ以上は続けなかった。
「あ、樹くん、もう一つだけ」
樹くんは少し訝し気に首を傾げてこちらを見る。本当に駅伝に出る気はないんだなぁ、としみじみ痛感させられた。
でも、わたしは今から彼がもっと嫌がることを言う。
一拍、心を落ち着けるための深呼吸をして、真っすぐ彼の瞳を見据えた。
「来週、バレーボール見にいかない? バレーしてたんならさ、ルールもちゃんと知ってるでしょう? わたしの知り合いが出ててね。でも、一人じゃ行きにくくて」
「あー、バレーボール…… バレーはもういいんっす、俺は遠慮してもいいっすか?」
やっぱり断られる。それは予想の範疇だった。
「言い方を変えるね。樹くん、行こう。バレーボール、見にいこう。その日が暇なことはしてるよ。付いて来て」
強く、はっきりとした口調で繰り返した。
それでも樹くんは首を縦には振ってくれない。一貫して首を横に振り続ける。
駅の構内に入り、改札はもうすぐそこだ。乗る路線が違うので、いつもここでお別れになる。逃げるように足早になる樹くんの腕を、わたしはしっかり引き留めた。
強張った表情の樹くんは、泣き出しそうだ。しつこくしている自覚はあるので、怒られても仕方がない。そう覚悟してたので、少し意外だった。優しすぎる、そう思った。
今からわたしは、彼を傷つける。わたしのエゴで傷つける。
でも、かつてわたしをエゴで動かしたのは樹くんだから、そうするだけの権利がある。
「ねぇ」
握りしめたままの腕を、じっと見つめていた樹くんの視線がこちらを向いた。
「樹くんはさ、雲を掴めるって信じてるのに手はのばさないんだね。雲は掴めるって、ずっとわたしに言ってくれてたのに」
わたしははきっとずるい。こう言ってしまえば彼は断れなくなると知っていて、そう言うのだから。
「行こう、来てくれるよね」
案の定、樹くんは困ったように眉を下げて、「行くっす」と小さく呟いた。
(2)
「雲ってさ、届きそうで掴めないよね」
双子の妹が空に手を伸ばして、そう言った。
あれは、もう随分と昔のことだ。
いつもがむしゃらに卓球に向き合い、家の中でもその手の動画を視聴する。何回か試合の応援に行ったこともあるが、その熱は会場の誰にも負けていなかった。俺にも劣らない、負けず嫌いで努力家な妹だった。
そんな妹は、泣き出しそうな顔でそう呟いた。今思えばあれは、独り言だったのかもしれない。あのとき、俺は返事をしなかった。妹は返事を求めることも、それ以上言葉を連ねることもしなかった。
ただ、手を伸ばして、宙をもがく手を眺めていた。
「そろそろ寝ようかな」
窓を閉めて、妹はこちらを向いた。すれ違いざまに「おやすみ」と呟くように残した彼女は、まだ泣きそうな表情だった。
「なぁ。明日、果歩の学校の近く行くから、一緒にクレープ食べん?」
「いいけど、急だね」
「たまにはいいだろ、迎え行くわ」
「うん、ありがと」
妹は泣き出しそうな顔を無理やりに笑顔にした。瞳の端に涙が光っていた。
妹は俺によく似ている。
自分で言うのもどうかと思うが、努力家で負けず嫌い。同じ競技をしていたら、決して良好な関係は築くことができなかっただろう。性別は違えど、たぶん互いを敵視しあった。そんな気がする。
だけど、妹と俺には決定的な違いがあった。妹は俺よりもずっと、心が弱かった。だからこそ、大切な妹を守る兄としての宿命があると自負している。
ただ、最大の問題は彼女の心の痛みが分からないことだ。
高校三年に上がる前の春休み。双子の妹の励ましを兼ねて迎えに行こうと他校へ足を運んだとき、俺は忘れたかった後輩と再会した。
月見樹。明るくて優しすぎる後輩は、バレーボールの世界から逃げ出した。別に俺のせいではない。俺は先輩として、最もそれらしい言葉をかけたはずだ。それなのに、俺の胸に漠然とした靄を残している。
ごめん、樹。リベロとしてのお前のことは大切だったけど、お前の心の痛みを理解しようと思えるほど、俺は優しくないんだ。
自分を客観的に評価するのなら、「薄情」という言葉が一番しっくり当てはまる。それにもかかわらず、他者評価は「情に厚い」だとか「優しさの塊」だとか。俺はそんなにもできた人間ではないのに。
俺はたぶん、人よりも強い。それはバレーボールが、という意味だけでない。俺は他の人よりも他人の痛みに疎いのだと思う。だからこそ、冷静に自分を強く保つことができる。優しすぎる感性は、時に自分の首を絞めることになる。
自分の薄情な強さを強く実感したのは、中学三年生の夏のことだった。
俺が怪我をしたせいで、盤石と思われたチームの全国大会出場を逃してしまった。代理セッターとして出場してくれた周大はひどく落ち込み、苦しそうに顔を歪めて謝罪を繰り返した。
ただ、俺にはわからない。彼の謝罪が罪悪感か責任感によるものであることは、さすがに理解できている。しかし、自分には彼の心の痛みを想像することができなかった。
「この悔しさは、来年に生かせよ。周大」
それなのに、口から溢れ出る言葉は彼の痛みを知っているかのように優しいもので、それがたまらなく気持ちが悪かった。
本心でない優しさ。
偽善。
俺は他人の痛みが分からない。
そりゃ、チームメイトは大切だ。後輩は可愛い。気遣いの精神は忘れてはいけないし、ミスにアドバイスをすることはあっても決して咎めることはしない。でも、それは優しさから生じる行動ではない。だって、俺はそいつの痛みには興味がないから。
「なぁ、樹。お前はどんな気持ちだった?」
誰もいない部屋で、バレーボールに傷つけられたかつての後輩の名前を呟く。写真の中の彼は、周大と共にとても良い笑顔で笑っている。もちろん、俺も。本来ならば、今頃はあいつと一緒にプレーしていたのだろうか。
あいつは優しすぎたのだ、強くそう思う。他人の痛みを知りすぎた。だから、自分の首を知らず知らずに締め上げた。優しさは、自分を弱くする足枷だ。
樹も、妹も。壊れていく人間は、いつも優しさを持ち合わせたやつだった。
(3)
「果歩はさ、後輩が卓球辞めるって言ったら、引き止める?」
双子の兄がそう言ったのは、とても暑い夏の日だった。
冷房は夏バテに繋がるから。そう言って、扇風機で熱さを凌ぐ兄の部屋でのことだった。
「引き留めないよ。わたしなら引き留めない」
たぶん、わたしはそう言った。でも、それは兄の求めていた回答ではなかった。それに気が付いたのは、もう随分とあとになってからだ。
床に転がるバレーボール。部屋に干されたボロボロに使い込まれたシューズとサポーター。机の片隅に置かれているのは、種類豊富なテーピングと湿布だった。枕元には過去のチームメイトたちとの写真が飾られていて、その列の中には有名なプロ選手のサインも置かれている。
いつだって兄の部屋にはバレーボールが溢れていた。小学二年生でバレーボールを始めてから、今に至るまで彼の部屋からバレーボールが消えた日は一度もない。妹の欲目をなしにしても、兄に勝る努力家はいないと思う。
センスがある、努力するだけの忍耐力がある。それから誰よりも、何よりもバレーボールが好きだ。でも、それ以上に大きかったのは、メンタルの強さだった。怒らない、苛立たない、諦めない。言葉で表すより、それはずっと難しいことだ。
「樹、推薦蹴るかもしれないんだって」
「誰、それ?」
兄は部屋に飾られた写真を指さした。中学三年の時の総合体育大会の時の写真だった。中心に囲まれる兄には、痛々しい包帯が巻かれていた。
そういえば、この日も兄は極めて冷静だった。中学生活において最後の大会で怪我をしたのに、兄の感情の起伏は海のように穏やかだった。仕方のないこと、無理はしない。そう割り切っているようにも見えた。
「リベロ、リベロの月見樹。あいつ辞めるんだ」
「ふうん、なんで? その子、お兄ちゃんの学校に推薦で来るんじゃなかったけ?」
「チームメイトとさ。今のセッターのやつなんだけど、ちょっと仲違いしたみたいで、責任感が強くて優しいやつだったから」
写真に写るリベロの月見くんは、確かに優しそうな表情をしていた。二年でリベロの座を射止めていたということは、なかなかの実力者でもあるのだろう。なにより、兄が認めている。それが確固たる証拠だった。
「果歩なら、引き止める?」
兄はもう一度、そう聞いた。その声は、少しだけ震えているようにも聞こえた。
二度目の問いに、わたしはなんて答えたか。それはもう思い出すことができない。あの質問に対する正しい答えがどんなものか、それは今でもわからない。でも、わたしが出した答えが間違っていたことだけは、どうしようもない事実だ。それだけは確かなことだった。
兄の部屋に飾られた総合体育大会の写真が消えたのは、学年が上がるほんの少し前のことだ。推薦で入部が決まった後輩が部活動にいち早く参加を始める、そんな時期だった。
「あいつ。やっぱり、来なかったよ」
唐突に、何の脈略もなく兄は呟いた。
兄は部屋で筋膜リリースの器具を使いながらストレッチをしていて、わたしは兄にテーピングを借りに来ていた。日々、繰り返される日常の光景で、彼の声だけが異質なものだった。声からは感情を読み取ることができない。双子なのに、だ。
「あいつって?」
「俺が引き留めなかった後輩」
「あぁ、リベロの子」
「バレーボール、辞めたんだって」
兄の声は怒っていた。でも、その怒りの矛先はどこにも向いていなかった。
「でもさ、それはお兄ちゃんのせいじゃないでしょう」
「そうだけど、俺が引き留めて置けば。あいつらは、ずっと仲間でいられたかもしれない」
「じゃあ、引き止めればよかったのに」
何の気なしに言った一言だった。わたしも怪我が再発した直後だったから、すこし気が立っていたのかもしれない。言葉にして、「しまった」と自らの発言を後悔した。兄がなかなか返答を返さないのが、更にわたしを焦らせた。
時計の針が進む音が、巻き戻らない時間をわたしに知らしめる。
ほんのわずかな時間が、永遠のように感じた。
「……引き留めたかったよ。でも、わからないんだ。苦しいのも、心が痛いのも、理解できる。だけどそれが、どれくらいなのか、どんな風になのか、自分に当てはめれねぇんだよ」
――わからない
そう言った兄は確かに怒っていた。
酷いことを言ったわたしに対してでも、辞めた月見くんに対してでも、引き止めなかった自分に対してでもない。
――誰も責めることができない
あれはそういう「やるせなさ」に対する怒りだった。
あれから月日は経過して、わたしたち双子は高校三年生を迎えた。四月で卓球を引退したわたしと違い、兄は春の高校バレーまで部活動に参加し続けるそうだ。大学は私立に推薦を貰っているとのことだから、それは当たり前のことなのかもしれない。
兄は強くなった。わたしと違って、雲を掴む人間だと思う。
ただ、そんな兄――克己を一言で合わらすならば、「鈍感」に尽きる。
兄は優しさをもっていないわけではない。他人の心情に対して、少しだけ疎いのだ。チームスポーツで高みを目指す上で、その鈍感さは彼の強さの一端を担っている。しかし、それは兄の最大の弱点でもあった。チームメイトの気持ちはわかるのに、それを自分の心に落とし込むことができない。わからないのだ、その痛みも苦しみも。
きっとその反動なのだろう。兄は身近な人のわからない心情に思いを馳せ、それを悩む傾向にあった。この気持ちがわからないのは、自分だけだと。あぁ、なんて質が悪いのだろうか。
知らないことは幸せかもしれないが、分からないことは苦痛をもたらすのだ。
今でも、あの暑い夏の日の正解は分からない。
だけど、月見くんと知り合った今ならば、樹くんに救われたわたしなら。
(引き留めて。お兄ちゃんの仲間でしょ)
救ってあげたかった。あの日の樹くんを、あの日のお兄ちゃんを。
(4)
二年経った今でも、嫌になるほど鮮明に浮かび上がるチームメイトの絶望に染まった瞳。あいつがバレーボールを辞めたのは、百パーセント僕のせいだった。
知らなかった、は言い訳にすぎない。それを理解できないほど子どもではないが、僕は本当にそれを知らなかった。あいつが死ぬほど欲しがっていた推薦を蹴って、バレーボールを辞めてしまっていたなんて。
ひどく重苦しい胸のつっかえ。
罪悪感は確かにここに存在している。
それに悩み、心が悲鳴を上げることも確かにあった。でも、だからといって僕にできることは、もう何一つ残っていないのだ。
「カバーー!」
怒号にも近い叫び声が、コートに響く。
僕は少し低いサーブレシーブの落下地点に潜り込んだ。
柔らかく、高く。それが基本のセットアップだ。
「寛太さん、ナイスレシーブです」
「周大もナイストス、ナイスカバー」
今のチームのリベロに声をかける。寛太さんは一学年上の先輩で、とてもよくしてくれる。しかし、プレーは安定しているものの、どこか心細さを感じていた。
安定したレシーブをあげることがリベロの最低条件。それをクリアしているはずなのに。
意識がボールから逸れたためか、少しセットアップに乱れが生じた。わずかながらにネットから遠すぎる。
「ナイストス」
それでも彼らはナイストスと言って、僕の背を叩いた。果たして、ナイストスとはどこから言うのか。少なくとも、僕の中で今のトスは賞賛に値しない。
推薦を逃した僕は、公立の強豪校に進学をした。一度は諦めずに克己先輩の高校を受験したが、当然のように不合格だった。現在通っている公立校も偏差値がわずかに届かず、模試では常にボーダーラインだと結果が出されていた。
本来ならば私立高校を滑り止めにするのに、それが叶わなかったお前が公立も攻めるなんて――担任は応援するどころか必死に止めにかかった。それでも諦めずに死に物狂いで勉強して、やっとの思いでつかみ取った公立への切符。不満はないはずだった。大好きなバレーボールもそこそこの水準でやっていけると思ったし、実際にそれは叶っている。
それでも、足りない。
心にぽっかりと穴が開いたような喪失感がいつまでも埋まらない。
ネットを挟んだスパイカーが、高い打点でミートした。しかし、そのコースはリベロの正面だ。カバーではなく、攻めるためのセットアップを脳内で組み立てる。
しかし、上がってきた球はネットに近く、わずかに低いような気がした。
「ナイスです」
寛太さんにそう声をかけたはいいが、やはり僅かにネットに近い。ただ、それは言葉にするほどのミスではなかった。若干。本当に僅かな要望。それを口にすることでチームの士気を下げるくらいなら、僕が少し無理をすればいい。
体勢が崩れるのを堪えながら、オーバーハンドでトスをする。そのトスは少し、ネットに遠すぎた。
「ナイストス」
どんなに些細な要望でも、樹にならば言えただろうか。自分の些細なミスを彼ならば指摘しただろうか。きっと、互いに言えたんだろう。特別だったのだ。月見樹に勝るリベロはいない。そう断言できるほど、彼には光る何かがあった。当時はまだ発達途中だったが、あいつは数年のうちに高校バレー界に君臨する男だと予感していた。
著しい成長曲線。それは僕を置き去りにしてしまうほど、見事に右肩上がりの線を描いていた。
きっと、僕は焦ったんだ。樹に置き去りにされることに。ずっと仲間だった樹に対して、憧れを抱いてしまった自分の心に。
許してほしいとは言わない。
でも、咎めて欲しかった。
誰でもいいから、僕を咎めて欲しかった。
(5)
たまに、思う。
俺はバレーボールを本当に好きだったのか、と。本当は対して好きじゃなかったのではないかと、そう思う。
あの頃を振り返ると、確かにバレーボールは好きだった気はする。そりゃ。もう、めちゃくちゃに好きだったはずだ。三度の飯も睡眠も欠かしたくないけど、その中でバレーボールをしたいという欲も同等に肩を並べていた。それくらい、日常に溶け込んだ大切なものだった。
でも、バレーボールを失った今、手放したことを後悔しているかと問われてしまうと、もうわからない。もう一度バレーボールをするチャンスがあったとして、俺はこの手を伸ばすのか。そう問われれば、きっともう伸ばさない。
その程度のものだった。その程度の好きだった。
たまに思い出すと、苦しくなる。あれだけあった自分の熱量も、夢も、仲間への思いも、それほどまで大したものでなかったのだと、自分のことさえ信じられなくなる。
バレーボールを始めたきっかけは、いったい何だっただろう。
思い返せば、友達が入った小学校のクラブチームについて行った。友達がこれからもずっと続けると言ったから、俺も入団した。そんな大したこともないような子どもじみた理由だった。当たり前のように毎日ある練習はすぐに日常になって、むしろ休みの日の方が不思議な心地だった。
そう、好きだ、とか嫌いだ、とか。そう言う感情よりも先に、慣れが来てしまったのだ。
俺が好きだったのは友達と遊ぶあの時間で、バレーボールはそれに付随してきたもの。その中で、好きと言う気持ちは確かに芽生えて成長したけれど、所詮は後付けの愛だった。
ずっとコートに立っていたい。強くそう願っていた。そのためにレシーブの技術を研き、カバーの技術の向上に努め続けた。リベロがコート上に居続けることはできないけど、せめて必要とされ続けるように。努力すればするほど、技術は洗練されていく。その過程でたくさんの仲間たちに必要とされてきた。尊敬する先輩、共に戦う同級生、信じてついてきてくれた後輩。
あれはきっと、バレーボールが好きだったんじゃない。仲間とバレーボールをする「時間」そのものが好きだったんだ。極論、バレーボールじゃなくてもいいということだ。仲間がいて、それを楽しめるのであればなんだってよかった。野球でも卓球でも、なんなら学習塾だってよかった。たまたまバレーボールがそこにあった。そう、それだけだ。
『お前なんて、仲間じゃない』
そう言った周大はいま、いったい何をしてるんだろう。元気でいるだろうか、新しい仲間を手に入れているのだろうか。好きだったあの時間を一番の仲間として共有してきた彼の笑顔を思い出すことはできない。どれだけ思い返しても、脳裏に浮かぶのは傷ついたあいつだった。そんな顔をさせたのは。俺だった。
仲間を傷つけて、先輩の期待を裏切って、仲間はもうどこにもいない。
ひとりぼっちだ。
――あぁ、寂しい。
俺は寂しかったんだ。
指の隙間から逃げて行った雲は、俺が傷つけた仲間だったから。
『樹くんはさ、雲を掴めるって信じてるのに手はのばさないんだね。雲は掴めるって、ずっとわたしに言ってくれたのに』
果歩先輩は雲に手を伸ばし続けた。あの愛は、純粋でまっすぐな競技への愛だった。手を伸ばす姿は綺麗で、それでも夢に傷つけられた人だった。
俺は、違う。
俺の愛は純粋に競技に向けた愛じゃない。もうどこにもいない仲間に向けた愛だった。
俺は手を伸ばさないんじゃない。もう、伸ばしてはいけないんだ。
見上げた空は、どんよりと濁った曇り模様だ。
手を伸ばそうにも、どこに伸ばしたらいいかもわからない。
そんな重たい雲だった。
(6)
眩しすぎる秋晴れを背景に闊歩する派手な深紅のジャージが悪目立ちしないのは、誰もが知る強豪校であるからだ。
体育館やその周辺道路を集団で歩くときは極力端を通るよう心掛けているが、そうしなくとも皆が避ける。平均身長が高いことに加え、目立ちすぎる赤ジャージ。それがなくとも、自分たちは暴力的なまでに強すぎた。それだけで、近寄りがたい要素は十分に満たしている。
「えーっと、とりあえずお疲れ。言いたいことはいろいろあるが、とりあえず明日に備えてくれ。総評は明日まとめてする。現在進行形で山北と西山の二回戦をしているが、たぶん山北が勝つだろうと私は思ってる。そうなれば、三回戦は公立の中では最も強豪だ。一つのヤマだと思って全力を尽くすように」
爽やかなようで野太い「ありがとうございました」が響きわたり、監督は解散を促した。
春の高校バレー、県予選トーナメント初日。
一回戦と二回戦が行われ、俺たちはそれを見事に勝ち抜いた。いや、誰も負けるとは思っていなかったはずだ。チームメイトも、対戦相手ですらも。
「克己、帰ろうぜ。明日の学校ってさ、お前の後釜がいるとこじゃね? えーっと名前は……」
チームメイトの西田が汗でべたつく身体で肩を組んできた。俺は隠すことなく顔をしかめる。西田はとても鈍い男なので、それに気が付くことはない。気が付いていても、気にとめることはない。
「周大。お前が言ってるの、大西周大のことだろ?」
「あー、そいつそいつ! オレ、あいつにそんな上手いイメージないんだよなぁ。そいつが中坊の頃の試合見たんだけどよ、リベロにパス出してもらえてねぇんだよ。セッターがだぜ? あるかそんなこと」
彼の悪い所は、その発言に悪意がないところだ。テレビで見た面白い話を伝えるかのように、けらけらと大笑いしながら続ける。
「あれ、そういえば、そのリベロは今どこ行ってんだ? えーっと、そう! 月見だ、月見」
「周大も十分うまいよ。その日は特別不調だったんじゃないか? ちなみに月見の方はバレーボールを辞めてるから、もういない」
「もったいねー! そいつさ、うちの推薦も蹴ってるんだろ? 人生損してるなぁ」
「もし樹が来てたら、お前ポジションないけどいいのか?」
そう、西田のポジションは樹と同じでリベロだ。
「え、オレが負けること前提? 夕凪克己はひどい男だなぁ、オレのこと信頼してくれてないのかぁ?」
絶対に傷ついていない様子で、わざとらしく悲しい表情を浮かべる。俺は樹がバレーボールを続けていたら、どうなっているかを想像して答えた。
「あぁ、負ける。西田守は控えだな」
「うわっ、マジで言いやがった」
口を尖らせ、地団太を踏む。西田は十八歳だけど、行動は三歳と変わらなかった。でも、上手い。バレーボールのセンスは断トツだ。動体視力が良いのだろうか、動き出しが速い。腕を出す角度が絶妙で、体力は底なしだった。そして、メンタルが強い。俺が多少暴言を吐いても、厳しい指摘をしても、特別気にする様子はなかった。
むしろ、全てを楽観的に捉えてくれる。変に気を使わなくていいところに好感を持てた。
「でも、俺の仲間は西田守だよ」
「お、最初からそう言えよ。わかりにくい奴だなあ」
「言ったら、お前調子に乗るだろ。あ、そうだ。明日は妹が見に来るんだよ。だからさ、ちょっとでもいい所を見せたいんだけど」
西田は露骨に顔をしかめた。
「マジで? お前、シスコンだっけ?」
「ちげぇよ、馬鹿。妹はさ、俺のために我慢してることもあると思うんだ。わがままを言わない聡い子なんだ。だから、ちゃんと強い所を見せとかないと」
「ふうん、いい兄ちゃんしてんだな」
手のひらを返して、西田は感心したように頷いた。
春高予選のトーナメント表が出たとき、俺はそれを机の上に出したままにしていた。それを目にした果歩は、指をさして尋ねる。
「あのさ、お兄ちゃんが昔に言ってたセッターは今もバレーしてる? あの、リベロと喧嘩した子」
「してるよ。山北に通ってるんじゃないかな」
「じゃあさ、わたし見にいきたい。お兄ちゃんたちは負けないでしょう? 山北が勝つかどうかは分からないけど、三回戦の日に行ってもいい? 目立たないようにするから、お願い」
果歩は珍しく頭を下げてお願いした。妹が頭を下げて頼みごとをしているのに、それを無下にできる兄はいるのだろうか。そもそも、そんなことしなくたって、俺は果歩には甘いのに。
「別に普通に来ていいよ。観覧も自由だし、俺は気にしないよ」
「そっか、ありがとう。友達と行く」
ふと、嫌な予感がした。
果歩が浮かべる嬉しそうな顔の影に、男の気配がする。俺の妹をたぶらかす悪い奴だったらどうしよう、試合どころじゃなくなる……
「男?」
「男の子だけど、お兄ちゃんが思ってるような関係じゃないよ。後輩だし、仲間なんだよね」
「そっか」
少し安心してしまった俺は、やっぱりシスコン気質なのかもしれない。
西田はあまり妹には関心を持たず、すぐに話題を逸らせた。
「オレもさ、山北に後輩いるんだよなー。克己はやりにくいとは思わねぇの?」
「なんで?」
「やっぱりさ、どっちかは絶対に負けるわけじゃん? 元チームメイトとして、なんか心が痛むというか、複雑というか……」
「あんまり思わないんだよなぁ。別に、悪いことしてるわけじゃないし。全力でやった結果だしさ、やりにくいとかは別に」
指先で髪を弄ぶ西田を横目に、俺はぼんやりと想像する。今までに当たったことのある元チームメイトとの試合はどうだっただろうか。これから当たると思われる周大との試合はどうだろうか。
俺は、やっぱり何とも思わない。「あぁ、あいつらだな」その程度だ。
じゃあ、反対は?
あいつらは、俺と当たるときにどう思っているのだろうか。当たりたくない、気まずい、嫌だ。そんなことを考えているのだろうか。
やっぱり、分からない。向こうがどう思っていたとしても、俺にはそれが理解できない。