わたしは件の写真を握り締め、急いで外に出る。どう考えてもあの女は怪しいし、お父さんは話にならない。誰か、もっとまともに話の出来る人が必要だった。
わたしはしばらく考えて、近所に住む幼馴染みの元へと向かうことにした。
普段お互い軽口を叩いてばかりの仲だけど、彼奴ならきっと、話を聞いてくれるはずだ。
少し走って、幼馴染みの住む『梅原』と書かれた表札の一軒家にすぐに到着した。
今日から春休みだ、彼奴はまだ寝ていたりするだろうか。
ほんの一瞬考えるけれど、いてもたってもいられずインターホンを連打すると、すぐに中から返事が聞こえる。
「すみませーん! おはようございます!」
「はぁい、ちょっと待ってね」
「朝早くすみません! 翔くん居ます……、か……?」
「あら、いらっしゃい。ちょっと待っててね。翔~、皐月ちゃんよ!」
何事もなかったかのように梅原家で出迎えてくれたのは、まごうことなく『わたしのお母さん』だった。
「……、お母さん、何やってんの?」
「え?」
「心配したんだからね!? いきなり卒業とか訳わかんないこと言うし! 知らない女は家で朝食作ってるし! 写真は、こんなだし……っ!」
わたしは泣きそうになりながら、玄関先で見慣れぬエプロン姿のお母さんに掴み掛かる。
けれどその声を聞いて二階から降りて来た翔と、出勤前だったのかスーツ姿の翔のお父さんに、あえなく引き剥がされてしまった。
……あれ、待って。翔のお父さんって、もっと冴えない感じじゃなかった? いつの間に、こんなスタイリッシュに……
思わず梅原父を凝視してしまうけれど、わたしの腕を掴む翔の焦ったような困ったような声に、すぐに意識は奪われる。
「皐月! 待てって、この人今日からうちの母さんだからさ!」
「……はあ!?」
「大丈夫か? 母さん」
「ええ、大丈夫よ……あなた。……皐月ちゃん、何かあったなら『おばちゃん』いつでも相談に乗るからね」
昨日卒業式で会った梅原のおばちゃんは、何処へ行ったのだろう。
わたしのお母さんは、どうしてしまったのだろう。
相談に乗って欲しいことは山積みだったのに、聞きたいこともたくさんあったはずなのに。すっかり脳みそはぐちゃぐちゃで、上手く言葉にならなかった。
わたしだけ世界から置いてきぼりになった気がして、今度こそ溢れた涙が止まらなかった。
*****
「落ち着いたか?」
「多少……」
翔の部屋で一通り号泣したわたしは、ずびずびと鼻をすすりながらようやく一息吐く。昨日の卒業式でも泣いたりしなかったのに、この様だ。
いつものように出されたお茶もお茶菓子の甘めのお煎餅も、普段梅原家で良く出てくる物なのに、お茶はうちで飲むお母さんの味がした。
「……で、何でお母さんが、あんたん家のお母さんやってるの? おばちゃんは何処に行ったの?」
「あー……ほら、家族ってさ、色々あるじゃん?」
「……?」
ようやく何か知っていそうな反応と、わたしの疑問に答えてくれる人が現れた。やはり持つべきものは頼れる幼馴染みだ。
わたしは翔の言葉を少しも聞き逃すまいと、耳を傾ける。
「家族って、一番身近で一番密接なコミュニティだから、例えば人間関係のトラブルとかさ、修復が難しいのもあるじゃん?」
「人間関係……」
「簡単な喧嘩や反抗期ならいざしらず、場合によっては暴力とか虐待とか……家庭内に限らず御近所付き合いが~、とか、色々さ」
「そりゃあ、まあ、人間だもんね」
そこそこ過激な反抗期経験者としては、耳が痛かった。何なら寧ろ、年中反抗期だ。
わたしは聞きの姿勢を早くも撤回し、僅かに視線を泳がせる。
「それで余計なトラブルが起きにくいように、家族には『卒業制度』を盛り込んでるんだよ」
「卒業制度……?」
「何ていうか、長期間同じ家族に携わるより、一定期間で卒業して次のステップに行くことで、新鮮な気持ちでより良い家族を作れるように、みたいな?」
「いや、新鮮どころか違和感しかないんだけど。何その制度」
「……授業で習っただろ?」
「いつ!? 知らないし!」
「あー、皐月がインフルエンザで休んでた時かもな」
「はぁ……!?」
説明されても、やはり意味がわからない。いつもの翔の冗談だろうか。
けれどその表情にふざけた様子はなく、気心知れた幼馴染み故に、それが事実だと理解してしまう。
周りの皆が動揺していないのも、それがこの世の中の常識だからなのだろうか。
家族というのは、そんな簡単に、部品交換するみたいに交替出来るものなのだろうか。
「……いや、訳わかんない。何なの、それ」
「……、弥生さん……皐月の前の母さんの場合はさ、皐月の『幼稚園から中学卒業まで』の間の母親で。昨日卒業して次の進学先? っていうのかな、それが偶々うちだったんだよ」
翔が中学のノートの余白ページに、わかりやすく図を描いてくれる。
つまりわたしが中学から高校に行くように、お母さんは牧野家から梅原家に行ってしまったということなのか。
それにしたって、先程のお母さんの態度。そして振る舞い。
うちに来た卯月さんも、今朝お母さんと同じようにしていたけれど、お母さんも完全に梅原のおばちゃんになっていた。
「まって……あの、色々突っ込みたいんだけど、頭が追い付かない……。まず、幼稚園からって、何?」
「皐月の産みの親は他に居るってことだな」
「出生の事実こんなフランクに聞くことある!?」
わたしは握り締めてすっかりぐちゃぐちゃになってしまった写真を開く。
そうなると、赤ん坊のわたしを抱いているこの見知らぬ女性が、本当のわたしのお母さんなのだろうか。
そしてこの人もまた、わたしの母親を『卒業』したのだろうか。
「つまり、もうお母さんは、梅原弥生ってこと? 牧野弥生は、もういないの?」
「まあ、そうなるな……」
「それにしたって、あんな、やることなすこと前のお母さんと同じになんて……」
「まあ、その辺はあれだ。役を徹底することでトラブル回避とかそんな感じの。引き継ぎとかちゃんとあるし」
「役って……引き継ぎって……」
今までわたしを育ててくれたお母さんは、全て決められた役割だったのか。愛情も、思い出も、全て替えの利く偽物だったのか。
確かにいい娘じゃなかったかも知れない。苦労ばかりかけてきたかもしれない。それでも、幼稚園から中学三年生まで育てた娘に、あっさり他人のように振る舞えるなんてあんまりだ。
翔の描いた矢印の動きはシンプルなのに、頭では流れを追いかけられるのに、心はそんな簡単にはいかない。
「でも、そんなのって……」
「……あ、やべ」
「……? どうしたの?」
「悪い皐月、俺もそろそろ『卒業』なんだわ」
「……、は?」
「これから新しいのが来るんだよ。春休みに気ぃ取られてて忘れてた……。明日には引き継ぎ終わって、此処には新しい梅原家の息子が居るはずだからさ! そいつとも良かったら『幼馴染み』してやってな」
「……え、……はっ?」
わたしの知らない内に、わたしの周り……ううん、世界はどんどん組み換わっている。
別れを口にしながら悲しみや名残惜しさ一つ見せない幼馴染みが、最早何を考えているのかわからない。
「……翔も、居なくなるの?」
「まあ、卒業だからな……。皐月、十年間幼馴染みしてくれて、ありがとな!」
「うん……こちらこそ」
おかしいのは、わたしの方なのか。
現にそれで今まで問題なく、滞りなく世界は回っているのだから、きっとそれが正しいのだろう。
受け入れられていないのは、置いてきぼりにされているのは、きっとわたしだけ。
受け入れられず呆然としながらも、わたしは牧野家に帰るしかなかった。
だって、どうしたってわたしの家族はあの家に居る『お父さん』と『お母さん』なのだ。
いつも通り窓から手を振って見送る彼は、明日にはもう、別の誰かになっているのだろう。
*****
「……ただいま」
「おかえり、皐月。何処に行ってたの? 心配したのよ」
「……。ちょっと、翔のところに行ってたの」
「あら、翔くん? 皐月は昔から仲良しだものねぇ、今度うちにも連れて来てね」
「……無理だよ、翔、明日には居ないもん」
わたしはすっかりぐちゃぐちゃになった写真と、翔の描いてくれたノートの切れ端の図を、リビングのゴミ箱に捨てた。
例え中身が違ったとしても、わたしには変わらず『お母さん』と『お父さん』『幼馴染み』が居るのだから、幸せなんだろう。きっと、そうに違いない。
抗いようのない現実を前に、わたしは中学卒業と共に、また一つ大人に近付いた気がした。
そうだ、これはきっと、進路と同じ。小中とずっと仲良しだったみーちゃんやさっちゃんとも、高校が別になってしまったのだ。離れてもずっと友達でいようって、約束した。
お母さんも翔も、それと同じ。お母さんだったことも、幼馴染みだったことも変わらない。思い出も気持ちも、わたしの中にあるものは変わらない。ただ、別々の道に歩み出しただけ。
自分にそう言い聞かせて、息を吐く。今度は後悔しないように、わたしは『お母さん』と向き合うことにした。
「……夕飯、作るの手伝うよ、……お母さん」
「……! 皐月……」
卯月さん……新しいお母さんの嬉しそうな笑みに、これが正解なのだと安心する。
初めて一緒に料理を手伝いながら、前のお母さんとも一度くらいこんな風にすれば良かったなんて思うのは、わたしが精神的に大人になった証拠だろう。
もう大丈夫、のんびり屋のお父さんと、この新しいお母さんと、今度こそ仲睦まじい家族になろう。
きっと、前のお母さんも梅原のおばちゃんとして、わたしの成長を喜んでくれるはずだ。
「あ。そうだわ、皐月」
「……何?」
「来週末ね、お父さんの『卒業式』をすることになったの。その日のお夕飯、何がいい?」
「……。……もう、なんでもいい」
*****