「本当に、信じられないんだけど。ありえない。」
 HRが終わって、教室が慌ただしく1限目授業の準備を始めている頃、彼女が僕の机の目の前で鼻息を荒くして立っている。

 彼女の名前は希空。昨日、人工知能を辞めた人工知能の女の子だ。

 「だから、起きてったら。」そう言って、僕の片方の耳をつねる希空さん。
 乱暴はいけない。ツボに入った、痛い痛い。
 待て待て。何が起きている。どうして、怒ってるんだ。

 「リク君がHR中に寝てるから、私1人で実行委員をやる羽目になったんだけど。」
 僕はやっと自分が希空さんに詰め寄られている理由を知った。
 僕はHRの時間を睡魔に捧げたようだ。
 それは昨日の出来事のせいだ。
 僕はあれから一睡もできなかったから。
 まだ誰も登校していない早朝の学校に着いた途端、殺人的な眠気に襲われた結果が今というわけだ。

 希空はむっくり顔でさらにこちらを睨んだ。
 ガラガラと教室の戸が開いた。
 1限目の合図。
 先生が気だるそうに、背中をかきながら教室に入る。

 彼女はプンスカという擬音が似合う表情で、ずっと僕を睨み付けながら渋々自席に戻った。

 「お前さ、一体何をしでかしたんだよ。彼女と何かあったのか。」
 隣りに座る駿介が僕に声をかけた。
 辺りを見回せば、多くの生徒が僕と希空さんの異質な空気感に、怪訝な表情を向けていた。

 ああ、こうなるよな普通。
 僕は途端に向けられた周囲の視線に身震いしてしまう。
 僕の空っぽな心には、その夥しい視線の数は毒になる。
 やめてくれ。
 僕は心でそう呟くと、次第に僕に向けられる視線は消えていった。

 いつも通り授業が始まってしばらくした頃。
 「おい。一大事だぞ、こりゃ。」
 そう言って駿介は机に突っ伏した僕の顔をグイグイと押し込んだ。
 僕はとりあえずその力に従って、正面を見る。
 斜め左45度の席にはいつも通り、人工知能の希空さんがいる。
 
 彼女はどんな授業のどんな難題でさえも表情ひとつ崩さずに解いてみせる。
 そう、彼女は完璧なのだ。

 「不正解だ。」その言葉は誰に向けられたものか、僕には分からなかった。
 だけど、数学の大学入試問題の解法を求められていた生徒は紛れもなく、目の前で起立する希空さんだったのだ。

 希歩さんが数学の問題を間違えた。
 あるわけがない、そんなこと。
 周囲は視線を彼女に移しては、再びざわつき始めた。
 完璧頭脳を持ったはずの彼女の、敗北がそこにあった。

 結局、数学の問題は誰も解くことができなかった。
 1限目が終わった。
 それから、2限、3限と授業が続いていく。
 現代文、英語と続いたが、希空さんは不正解を連発した。

 下校前のHRとなった。
 教室に戻った担任の先生は、文化祭の出し物を議論してくれと言った。
 文化祭実行委員に就任した希空さんにとって最初の仕事になる。
 
 でも、希空さんはどこか不安げな表情をしていた。無理もない。
 今日は彼女にとって不正解の連続だった。
 彼女自身、その変化を戸惑っているようにも見えた。

 そして、状況を知らない先生は場の取り持ちを希空さんに預ける。
 彼女が全てやってくれる。
 全てうまくまとめてくれる。
 先生は、期待の目を希空さんに向けた。

 先生にとっては文化祭なんてめんどくさい雑務にすぎないのだろう。
 受験戦争にとっては障害物でしかないと思っているのだろう。
 それは他の生徒も同じ気持ちだったりするのだろうか。

 そんな面倒事を嬉々とした少女で引き受けた万能少女。
 さぞかし、先生にとって都合が良かったに違いない。

 僕は何か名状しがたい感情を催した。
 そうじゃない、そういう期待はやめてくれよ。
 希空さんはあんたの神様でも仏様でもないんだ。
 彼女は昨日、人工知能を辞めた。今の彼女はただの。

 思いは詰まる。
 希空さんがただの人間とでも言いたいのか、僕は。

 彼女が人間であると言うならば。
 僕は彼女を助けるべきじゃないのか?
 心の声がした。
 そんなこと、できるわけないだろ。
 僕は自分の弱さを自覚する。そして、不如意に現れた感情に蓋をした。

 「えっと、文化祭の出し物を決めようと、思います。」
 希空さんの声は弱々しく漏れた。
 その言葉には天才らしさも、自信も、覇気もまるで感じられなかった。
 むしろ、迷子になった少女が何をすればいいかもわからず、オドオドしているだけの光景に見えた。

 希空は今、戦っている。
 このクラスと戦っている。
 そして、自分と戦っている。

 昨日の約束。
 僕は安易にもそれを反故にしてしまった。

 僕は考えた。
 考えた。
 僕がここで助け船を出したら、どうなるか。

 うまくいくわけない。
 心が即答する。

 そのとき、1人の女子生徒がわざとらしく机に鞄を広げる。
 小麦色の肌に裾の短いスカート、声量も大きく威厳がある。いわゆる一軍女子に類する生徒だ。

 「あのさ。長くなりそうだから、先に帰るね。」その女子生徒はスクールバッグを背負い込んで、希空さんの横を通過する。
 「いいよね、先生。私、部活あるからさ。」背中で問いかける。
 先生は頷いた。
 
 これにより、ダムは決壊した。
 一軍女子の退場を皮切りに、複数の生徒が帰り支度をそさくさと始める。
 教室は鞄のファスナーや机、椅子をづらす音に満たされた。
 喧噪と忙しない教室の中で、僕は希空さんの立つ教卓からは眼をそらしたまま。
 そして、この状況に対して僕は何もできなかった。
 
 教室には静寂が訪れる。
 まだ教室に残るのは、僕と隣に駿介。タブレットをいじる先生。

 それから、教壇に立つ希空さん。
 彼女は俯いていたから表情は見えない。

 「まあ、そういう行事は積極的にやる部類じゃないから。気にしないで、適当にやってくれれば問題ないさ。」
 先生はそう言って、立ち去った。慰めのつもりか。
 そんな言葉が慰めになるわけがない。
 無意識に腹を立てる僕がいる。
 同時に何もできなかった僕自身への自己嫌悪が深まっていくばかりだ。

 ふと、目の前の教卓を見る。そこには、俯いたままじっとしている希空さんがいた。

 「希空さん。」僕は声をかけた。
 だけど、もう遅かった。
 希空さんは教室を飛び出して走り出した。

 「今日はもう帰ろう。」駿介が帰りの支度を始め、僕に合図する。

 このまま帰ればいつもの平凡な日常に戻るのだろうな。
 ゆるやかな水面でぷかぷかと浮かぶ僕。僕は今までそうしてきた。

 本当にそれでいいのか。
 彼女の友達になった僕に何の責任もないと言うのか。
 きっと、期待してくれたのかもしれない。
 僕が何か助けになってくれると。

 だとしたら、僕は期待を裏切った。彼女に対して何もできなかった。
 このままでいいのか、リク。

 希空さんが昨日見せてくれた笑顔。
 取り出したビッグデータ。
 それらの記憶がフラッシュバックする。

 考えるな。
 考えたら、僕はきっと平穏を選ぶ。
 変わろうとしている彼女に二度と近づくことはない。

 「ごめん、駿介。先に帰っていて。」教室を駆け足で飛び出した。
 足音はまだ聞こえる。早足で階段を上る音がした。
 僕は自分の耳を頼りに、彼女の痕跡を求めていく。

 音は次第に浮上した。そして駆け足になっていく。
 僕は階段を駆け上る。僕が行き着いた先はただの行き止まり。
 いや、ここから先は屋上だ。どうして屋上に。

 僕は嫌な想像をしてしまい、首を左右に振るわせる。
 屋上で飛び降り自殺。そんな馬鹿げたことはあるはずないと思う。
 それでも、一抹の不安はべっとりと僕に張り付く。

 息を上げながら、僕は錆びた鉄のドアノブに手をかける。
 きっと、この扉の先に希空さんはいる。

 僕はここで冷静になる。
 僕は希空さんに会ったとして、彼女に何を話せば良い。

 見て見ぬフリして何もしなかった弱虫のくせに。

 人工知能であった頃の彼女は「孤高」を貫く人に見えた。
 だけど、人工知能を辞めた彼女は「孤独」に見えてしまった。
 僕はあの頃の孤独だった自分と今の彼女を重ね合わせているのだろうか。

 僕って意外とお節介な性格だったんだな。

 僕はドアノブをこじ開けた。
 閃光。瞬き。収束。
 光の束に包まれた僕はたじろいだ。
 生暖かい空気の中に冷たい風が走る。

 そして、目の前には君がいる。
 彼女は何もない屋上に1人立っている。
 それはまるで、この夕日と学校を彼女が独占しているようにも見えた。

 希空は屋上の際に立ち、空に身体を預けている。
 まるで、飛び立つ瞬間を待ち望むひな鳥のように。
 だけど、彼女には翼がない。
 僕は途端に彼女が怖くなった。
 彼女が今にも屋上から飛び降り、自らの命を絶つのではないかと考えてしまった。
 心臓がぐっと掴まれる。背中に嫌な汗が流れる。

 「ちょっと待って。希空さん。」
 喉に力を入れる。僕はか細い声を力一杯絞り出す。
 風に揺れた黒髪が彼女の額を包む。
 希空さんは僕の方を振り返った。

 「死んじゃだめだ!」
 僕は必死で叫んだ。
 希空さんは僕をキョトンと見る。

 「へ、なんの話?」希空さんは首を傾げて、ハテナマークを浮かべる。
 と思ったら、彼女は表情を小悪魔のようなソレに変える。
 何かを悟ったように。
 そして僕の眼を見て、口元をおさえてクスクスと笑い始めた。

 「はははは。リク君さ。私がそんなことするわけないじゃん。さすがに考えすぎだよ。」
 肉体的疲労と精神的疲労が最高潮に達した僕は屋上のアスファルトに倒れ込んで、仰向けになる。

 大の字で寝転び、汗だくになった僕の顔を見る。
 それから、希空さんは微笑しながら、こう言ったのだ。

 「リク君、もしかして私のこと好きなの?」

 こいつ言いやがった。人の心配をコケにしやがった。
 「心配して損した。僕は帰るよ。」捨て台詞を告げた。
 居心地の悪い空間からすぐに立ち去ろうと思った。

 「ごめんね。面倒なことに巻き込んじゃって。」
 それは背中越しに響いた彼女の言葉。
 「昨日の話はなかったことにしていいから。」と言葉は続いた。

 そうか、それは好都合だ。僕も付き合いきれないと思っていたよ。

 「私、昨日はどうかしてたみたい。初めて自分の眼で自分の世界を見ることができたから嬉しかったんだよね、きっと。」
 そうだよ。君は正気じゃなかった。
 僕も夏の残り香にやられて、おかしくなっていたよ。

 だから、戻ろう。いつも通りの日常に。
 君は完璧な人工知能で孤高の天才少女。
 僕は無個性なモブキャラだ。僕らが関わり合うことなんてないんだ。

 そう、これが一番しっくり来るだろう。
 
 「けど、私は諦めないから!」
 途端に、彼女は強い決意を叫んだ。
 「たとえ1人でも、文化祭を最高のものにしてみせる。」
 一体どこからそんな自信が出るんだか。
 今日のHRでは何もできなかったというのに。

 彼女は生まれたての赤ん坊のようだ。
 この世界の陰湿で最悪なところを何も知らないから、そんな綺麗な眼でいられるんだ。
 何かを成すには失敗のリスクが伴うし、失敗したら最悪だ。

 「希空さんは何でもできるし、怖いもの知らずだ。僕の助けなんていらないと思うよ。」
 僕は突き放すようにそう言った。
 希空さんは僕のカッコ悪い捨て台詞を聞くと、言い返すでもなく沈黙した。

 「初めての怖いと思ったの。」
 希空さんは言葉を探した末に、そう答えた。
 その言葉には、さっきまでの調子の良い語調はなかった。

 「ビッグデータを壊した私には、できる事なんて何もなかった。今日の授業を見たでしょ。酷い有様だった。」
 「それに、さっきの話し合いだって。私は自分がダメな子だって気付いた途端、自分の存在意義がなくなったようですごく怖くなった。」

 「存在意義なんて贅沢な人間の悩みだ。僕みたいな凡人は流されるままに生きるだけだよ。」
 僕は済ました顔でそう答える。
 「リク君はさ、それでいいの?」僕を覗き込むように見る希空さん。
 「生きてるだけで御の字なんだよ、人間なんて。」

 僕の答えを聞くと、希空さんはクシャッとした笑顔を浮かべた。
 「やっぱり凄いな、リク君って。」
 人生に崇高な意味なんてない。
 そして、人生は儚くて脆い。
 だから、人生が今もこうして続いていることだけで凄いことだ。
 僕はそんなつまらなくて平凡な人生観を語ったけど、これが不思議と彼女の琴線に触れたようだ。

 「まあ、この言葉は母さんの受け売りなんだけど。」ボソリと呟く。
 「へえ、そうなんだ。良いお母さんじゃん。」希空さんは僕から目を逸らし、遠くを見ながらそう言った。

 僕が人生について考えるきっかけを機会を持ったのは、最初で最後、母さんだけだった。
 周りには、やれ夢だの、価値だの、学歴だのと人生を飾り立てるための道具に躍起になっている奴もいる。
 社会で有利に生きていくには大切なことであると、頭で分かっているけど、僕には考える余裕なんてなかった。
 僕はまるっきり、あの頃から成長していない。

 母さんと別れてからずっと、僕の時計は止まっているような気分だった。
 置いていくのが嫌だった。先に行く自信がなかった。
 生きてるだけで御の字。その言葉が僕の唯一の心の糧であった。
 そして、僕を過去に縛り付けるための鎖でもあった。

 校庭の土の匂いが風の乗って流れる。
 下校する生徒の群れが校庭を埋め尽くしていた。
 希空さんはそれを見下ろし、深く息を吸い込み、吐き出す。
 僕の言葉を受け止めて反芻している彼女。

 「げ、やば。」それから希空さんの呟き。
 どうしたと聞けば、「先生と目が合った。」と彼女は言った。
 屋上に乗っているのがばれた。
 屋上は本来、立ち入り禁止だ。

 希空さんは僕に近づくと、僕の手首を取る。
 「行こう。リク君!」
 ふと感じた暖かい感触。

 同時に校庭から聞こえてくる生徒指導の先生の怒号。
 僕は彼女の行く方向のままに、走り出す。

 「逃げるって、どこに?!」
 手首に伝わる感触を必死に押し殺すように、僕は大声で話した。
 「玄関には先生がいるからダメね。とりあえずこっち、隠れよう。」
 急な方向転換。
 廊下から廊下へ、階段から階段へ。
 縦横無尽に駆ける彼女。
 そして、一反木綿のように彼女に引っ張られる僕。

 彼女は教室へと入り込むと、入口側の壁に身体を密着させながらしゃがみ込む。
 それから、僕に指差で合図する。
 親指を下向きに突き刺す合図。
 それはGo to hellだよ、希空さん。

 多分、お前も隠れろ、と言っているのだろう。
 後でハンドサインには気をつけるように注意しておこう。

 「んな、無茶だ。」と言いながら、僕は彼女の行動を真似て教室の壁に密着するようにしゃがんでみる。

 希空はそんな僕を見ながら、ああじゃないこうじゃないとブツブツ言っていた。
 それから、痺れをきらして僕に言った。
 「リク君、身長でかすぎ。頭隠れてないってば。」

 言っておくが、僕の身長は男子高校生の平均値だ。
 人工知能であればそのくらいの統計データは理解していて欲しいものだ。
 僕は不服そうに希空さんを睨むと、階段からの足音が近づいてくるのを感じた。

 先生がここまで来る。
 「んん。リク君、見つかっちゃうよ。」
 希空は不安げな顔で辺りをきょろきょろ見回す。

 「あっ!あれだ。」何かを見つけたらしい。
 彼女に連れられた先は、教室の後方にあった箒入れロッカー。
 大人が入っても大丈夫な堅牢さと大きさを持つ。
 かくれんぼに最適のギミックではあるのだが。

 だけど、ここに入るのもなんか癪だ。
 僕がそんなことを考えていると、容赦のなく希空さんは僕を両手で押し込んだ。
 無理に押されて身体と箒がぶつかって痛い。

 「身体でかすぎ。ちゃんと入って。」
 希空さんは必死で僕を押し込む、押し込む。
 「バカ。無理に押すなよ。」

 そして、時間は無為に過ぎていく。階段を上る先生の足音が止まった。
 僕らは呼応するように、動きを止める。先生の動向を耳を凝らして観察する。
 すると、足音は平たんな道を歩き始めた。
 音は残念ながら、近づいている。
 隠れるなら今のタイミングしかない。

 「ロッカーはなんとかするから、早く自分のところに隠れて。」
 僕は小声で彼女にそう耳打ちすると、彼女は半開きのロッカーを尻目に自分の持ち場へと戻った。
 僕はロッカーを閉め、上方の通気穴から希空さんを観察した。

 そして、僕は絶望した。何故だって?
 教室の内壁の窓は全てが解放されていたのだ。
 希空さんが内壁に張り付いたとしても、その頭上を先生は容易に視認可能というわけだ。
 まずった。最初にどうして窓を閉めておかなかったんだろう。
 今から、閉めるか。
 それはダメだ。
 窓を閉める音で確実にばれる。

 希空さんも僕と同じことに気付いたようだ。
 彼女はひとりで周りをキョロキョロするばかりだ。

 先生の足音は刻々と近づく。
 他に隠れる場所はあるかと考えた。
 教室の机はどれも隠れる大きさのものはない。
 彼女は右往左往しながらも、僕の隠れるロッカーをちらちらと見ている。

 ちょっと待て、君が見つかったとき、僕も一緒に道連れにする気じゃないだろうな。
 まあ、彼女ならやりかねないだろう。

 女の子と2人きりでいたという謂れのない噂が広まる光景を想像した。
 いや、謂れがないわけじゃないけど、そんなことは御免だ。僕は諦念のため息をつく。

 まず、ロッカーの隙間を目測で計算する。
 1人が入るにはちょうどいい大きさ。でも、2人入ればどうか。
 入れないことはない。
 
 だけど、色々な問題が発生する。
 具体的には言いづらい問題が発生するのだ。色々と。
 僕の思考もオーバーヒートしそうだった。
 でも、彼女が見つかったら確実に僕も見つかる。この状況をどうにかしないと。
 ぐるぐるする脳内、僕はロッカーを開け、希空さんを見た。

 「こっちへ!」僕は必死だった。彼女も必死だった。
 これは僕らの社会的名誉を守るための戦いだ。

♦︎

 「ったく、どこに行ったんだか。」と言いながら、僕らのいる教室を横切る先生。
 その足音が無性にゆっくりに感じた。
 はやくどっか行け!どっか行け!僕は強く念じた。

 「眼、閉じててよ。」
 ほぼ吐息になった声が隣から聞こえた。
 そうだ。今はそういう状況だった。

 「はい。」瞼を強くぎゅっと閉じる。
 光のない世界。僕の視界は当然のことながら奪われる。
 視界がなければ、僕はもう身動きひとつできなくなる。

 思わず、何か触れてはいけないものに触れてしまいそうで怖い。
 そのとき、僕は社会的に死ぬ。僕は校内の注目の的だ、最悪の意味で。

 それから、僕は自分の行動が間違っていることに気づく。

 待ってくれ、これは逆効果だ。
 1秒、また1秒。
 彼女の息づかいが鼓動と同時に伝わる。
 ほのかに感じる暖かい風は全て、希空さんから出されたもので、小刻みに揺れる振動も希空さんのもの。
 そう考えると、僕は全身が灼熱のマグマに貫かれたような感覚に落ちる。
 視界が奪われたことで、嗅覚と触覚、聴覚が過敏になっていく。

 せめて、触れてしまわないように気をつけよう。
 それでも彼女と僕との間に空いた隙間はもう数センチ単位だ。
 例えば腰回り、肩、太ももはあと少しで密着しそうで、彼女の肌から伝わる熱をかすかに感じている。

 神様、僕は何か悪いことをしたでしょうか。
 僕は今までの罪を懺悔した。
 それでも、神は微笑まなかった。

 代わりに、目の前の女の子が微笑んだ。

 「ねえねえ、鼻息荒いよ。大丈夫?」
 今日も厄日だった。

 先生は諦めて職員室へと帰っていったので、僕らはロッカーから出ると、忍び足で昇降口から校庭へと抜け、念のために裏口を通って学校を出た。
 とにかく疲れがどっと出た僕は、学校を出た途端、道端に座り込んでしまった。
 僕を見かねた希空は近くにあった小さい公園へ僕を連れてく。僕はベンチに座る。

 「お疲れ様、リク君。」僕の頬に電撃が走った。
 希空さんが冷たいコーラ缶を僕の頬に押し当てて、勝ち気な笑みを浮かべている。
 僕の疲労なんてお構いなしだ。

 「いやあ、本当に焦ったね。」そう言って彼女は自分のコーラ缶を豪快に飲み干す。
 気持ちいいほどの飲みっぷり。
 「飲めるんだね。」僕のひとことに彼女は振り返る。

 「いや、人工知能もコーラ飲んで大丈夫なんだなって思って。」
 「まあね。最近のはさ、進化しているから。」軽いテンポで話す彼女。
 良い意味でフランクなのだろうが、成績優秀な彼女のイメージが次第に崩れていくのも事実。
 それに、僕にはまだあのときの感触が残っていた。
 彼女から感じる息づかいと鼓動。僕はどうしてアンドロイドに振り回されているんだろう。

 僕は雑念を振り払うように黒い炭酸飲料を無造作に飲み込んだ。
 むせかえる程に強い炭酸が僕の胃の中を突いた。

 「リク君、炭酸苦手なら言ってよ〜。もう。」無邪気な笑みは健在だった。
 「うるさい。別に、苦手じゃないよ。」口を尖らせながら、僕は意地になって黒い液体を胃に流し込む。

 ベンチに座り込む僕。
 隣に座る希空さんは汗ひとつかかずに、涼しい表情で僕を見ている。
 「わたし、まだ根に持ってるからね。」
 口元を緩ませたまま、彼女はそう言った。
 「実行委員のこと?」
 僕がそう聞くと、彼女はぷいっとそっぽを向く。

 「でもさ、どうして文化祭なんだよ。」
 僕は話題の転換を図る。正直、僕は彼女の真意が知りたかった。
 僕は自分が単に踊らされる存在になることにも許容しがたかった。
 知りたかった。どうして僕とこうして一緒にいてくれるのか。
 そして、この不思議な関係にも見切りをつけたかった。

 「それは私にとっての出会いだったから、かな。」
 彼女はそう答えると、黄金に染まる空を見つめた。
 「出会いって。誰かとの出会いとか。」
 僕の問いかけに彼女は首をかしげて考え込む。
 それから、何かを思い出したように微笑む。にっこりと。
 「んー、内緒。」
 希空さんは唇に人差し指を添えてシーのポーズをとる。

 「じゃあ、次はリク君の番だよ。」それは予期せぬ反転攻勢だった。
 僕は重なる彼女の視線に吸い込まれそうになるのを抑えながら、目線を下げる。

 「僕は文化祭に大した思い入れなんてないよ。僕には縁のない世界だ。」
 俯きながら僕はそう答えた。これが僕の本心だった。
 
 彼女が失望するかもしれない。
 それでも、僕は本当の気持ちを言わないといけない。
 これで終わりにすべきだと思ったから。彼女の目標に不釣り合いな僕は必要ない。
 僕みたいな凡人が彼女の役に立つことはできそうにないし、足手まといだ。
 
 僕の明確な否定の意思。
 僕が人生に展望を持てず、目の前の学校行事にさえも夢中になれないつまらない人間だと知れば、きっと希空さんは失望するはずだ。
 そうだ、思う存分失望してほしい。それで良いんだ。

 「じゃあ、ちょうど良いじゃん。」
 聞こえたのは、僕に対する拒絶とは真逆のものだった。

 「私が君にとっての最高の思い出を作る!どうかな、楽しそうじゃん。」
 続いた言葉はまさに傲慢極まりないものだった。
 希空さんはベンチから立ち上がると、力一杯両腕を広げて世界を仰ぎ見た。

 眩しすぎる。彼女は疑いのない瞳で僕を見つめている。
 僕は無力で、自信もなくて日々を平穏に生きることしかできない人間。
 対して、君は自ら荒波に飛び込まんとする勇気ある女の子だ。

 釣り合うわけがない。釣り合うなんてありえないんだ。

 「君と僕は違うんだ。悪いけど、僕は君の力になれない。」

 「え、ちょっと待ってよ。どういうこと。」希空さんは呆然と僕を見つめる。
 その瞳に僕は屈さないように、膝に力を込めて立ち上がる。

 「誰は君みたいに文化祭に思い入れがあるわけじゃないし、僕は君の力になれる程強い人間じゃないんだよ。」
 僕は叫ぶような声で、彼女にそう言い放っていた。ほぼ衝動的に。

 「昨日はやってくれるって約束したじゃない。リク君。」
 希空さんの声も大きくなっていた。

 「約束したわけじゃない。君が強引に来るから、断るタイミングを逸しただけで。」
 最悪の返答だと思った。
 そうやって、自分の弱さを人のせいにするのが僕という人間なのだろう。
 僕の答えを聞いた彼女は沈黙した。
 それでもまだ、透き通るような瞳で僕を見つめ続ける。

 僕はすぐにでも、この場所から立ち去りたくなった。
 こんな僕のことでも、彼女は決して侮蔑の目を向けることはしなかった。
 彼女は今も何か失意と憐憫を併せ持った表情でいるから、僕はもう彼女と一緒にいることが耐えられなくなった。
 逃げ出したくなった。

 「じゃあ、僕は帰るね。」その言葉に、彼女は黙って頷く。

 これでよかったんだろう。
 少なくとも彼女にこれ以上の失望を感じさせずにすむはずだ。
 僕は鞄を持ってきびすを返す。

 「明日、上野駅に10時。」

 突然、彼女はそう言った。
 脈絡なく放たれた言葉。
 彼女の瞳は、今もまだ純粋に僕を見据えていた。

 僕はこの問いかけに答えるべきだろうか。
 僕は今、ひどく気持ち悪い表情をしているに違いない。
 裏切りと罪悪感と諦念で塗り固められた凡人の表情だ。
 僕はそんな表情を最後に希空さんに見せたくはなかった。

 だから、僕はそのまま、彼女のもとを去った。

♦︎

 今日は土曜日。
 最初に言っておくと、僕は基本的に人混みが嫌いだ。
 落ち着かないし、なにより皆が僕を馬鹿にして笑っているような感覚に襲われることもある。

 そもそも、僕は休日に人の多いところに行ったりしない。
 ましてや、都内でも有数の観光施設が建ち並ぶ上野駅に行くことなんて高校生になってからは一度もなかった。

 そして、今日。
 休日の上野駅の改札口に立っている。
 希空さんに会うために。

 どうして来てしまったのだろう。
 僕の心の声が、馬鹿な僕自身を激しく糾弾した。
 昨晩、僕は項垂れるようにベットに入ると、泥のように寝てしまった。

 休日は決まって昼頃まで寝ているのだが、この日は平日用の目覚まし時計がついたままだった。
 僕は7時に眼を覚ました。それから、小一時間、希空さんのことを考えていた。
 流石に昨日の言動は失礼だったと思う。
 だから、今日でキッパリと謝って、それで終わりにする。
 僕は心の中で謝罪の言葉選びをしながら、彼女の到着を待つ。

 「わ!来てくれたんだね。」
 弾むような声がした。僕は下を向いた顔を前に向ける。
 そこには、笑顔で僕を迎える希空さんがいた。

 「希空さん。」
 僕は彼女の表情を凝視する。
 希空さんは頬に大きなえくぼを2つ作ると、そこに一杯の斜陽を溜め込んで笑う。

 「おはよう、リク君!」
 土曜日の太陽はコンクリートジャングルに照りかえり、いつも以上に眩しく感じた。
 僕は失念していた。
 休みの日ということは彼女の服装も当然制服ではないのだ。

 「制服じゃない私がそんなに変かな。」
 にやにや笑いながら、花柄があしらわれた紫色のワンピースをひらひらと揺らす希空さん。
 制服とは違う、少し大人らしい落ち着きのある服装。
 ロング丈のスカートの裾からは白くて細い足首が顔を覗かせている。

 目のやり場に困った。
 なにも露出が多い服装というわけではなかった。
 むしろ今の方が落ち着いた服装であるはずなのに。

 夏の残香を纏わせたような彼女の姿が僕にはくすぐったく感じた。
 そもそも男女で休日に会う経験など皆無に等しかった。
 だから、僕は狼狽えている。
 僕は彼女を見て自然と頬が緩みそうになるのを抑えるために、いつも以上に歯を食いしばってみた。

 「はははは。ちょっと待ってよ、リク君ってば。」
 また、彼女は笑った。大人びた見た目でも、いつもの彼女だ。

 「何で笑うんだよ。」
 僕は途端にいじけた子供のようになってしまう。

 「だってさ。私の私服姿を見て最初の反応がそれなんだもん。そりゃ、似合わないのは分かるけどさ。リク君ひどいなあ。」
 希空さんは目尻に涙を浮かべながら、お腹を抱えて笑った。

 僕は昨日の蛮行から、彼女に対する接し方を考えあぐねていた。
 ぎこちない空気で満たされるのではないかと心配していた。
 けど、僕のじめじめした不安を全て突風で吹き飛ばすかのように、彼女は笑っていた。

 少し安心した。
 直接言ったら、からかわれるだろうから、何も言わないけど。

 「今日はね。君のお気に入りの場所に連れてってよ。」
 希空さんは満面の笑みでそう言った。

 「いや、僕は別に出かけようとは。」
 今日の目的はあくまで昨日の謝罪。僕はそれを伝えようとするけど。

 「さあ、時間は待ってくれないよ。行こう!行こう!」
 希空さんは、またもや強引に僕の手を引っ張る。
 電車の冷房で冷えていた手指に、彼女の暖かい感触が伝わる。
 流されている自分に気がつく。
 だけど、希空さんの手をもう一度振り解くことは気が引けてしまった。
 僕はため息を漏らす。断るタイミングを失った。

 「ねえ、どこでもいいからさ。君の行きたいところに連れてってよ。」
 希空さんはそう言って、握る手をぶらぶらさせている。
 自分から予定しておいて、ノープランだったとは。
 なんだか、断る理由も考えるのがバカらしくなってくる。

 例えば、僕がどうしようもなくつまらない所へ希空さんを案内して、早急に解散する手もあるわけだ。
 悪知恵が働くところは僕の少ない長所のひとつだな、と勝手に感心する。

 「言ったね。どこでも良いって言ったよね。」
 僕がやけくそで行動を開始すると、希空さんは飛び跳ねるように、僕の側へ駆け寄った。

 「よし、望むところだよ!リク君。」
 躍動が長い丈のワンピースに伝わる。紫陽花が咲いたように、僕の視界へと広がる。
 僕は彼女をあまり直視しないように、気をつけながら歩き出した。

 上野駅から歩くこと10分程度。
 彼女は木漏れ日と石畳に囲まれた公園の景色を子供のように楽しんでいる。
 僕が一緒に出かける相手は駿介が殆どで、良い意味で僕と駿介は感受性に似通った面がある。

 僕が面白いと思ったものは大体彼も面白いと思ってくれた。
 だけど、希空さんは違う。
 僕とはまるっきり違う感性を持っている。
 僕が気にも止めなかったお地蔵さんの表情の違いとか、石畳に刻まれた東京都庁の紋様とか、色々な発見を拾ってくる。

 きっと、目が2つ備わっていることは同じでも、そこから見える景色が僕とは違うのだろう。
 彼女の視界に映る僕は一体どんな人物なのだろうか。ふと、そんなことを考える。

 「着いた。」
 僕は息を深く吸い込んだ。そして、一面に広がる蒼を見つめた。

 不忍池。
 そこは周囲2kmを囲む巨大な池。まあ、目新しい遊び場なんてない場所だ。
 だけど、僕はこの池が嫌いじゃない。水と緑の調和、白鷺が蓮の葉を突く音。全てが控えめで、全てが美しい。
 この池の本質は単なる大きさじゃないんだ。

 「うわあ。滅茶苦茶大きいね。すごいや。」情緒を解することができない奴が隣にいた。
 希空さんは両手を広げて、池のど真ん中で歓声をあげている。
 初めて見るのだろうか。彼女はとにかく池の大きさに驚いているようだ。

 僕はそんな彼女を尻目に、自ら悦に浸った。
 ちょうど、大きな橋の近くにはベンチがあったので、僕はそこに腰を下ろして、鳥のさえずりを聞く。

 僕は先ほどまでの喧噪から離れたかった。
 静寂に身を委ねたかった。
 そして、聴覚以外の感覚神経を遮断し、僕は風に身を委ねる。

 「ねえ、リク君。」
 耳元で吐息と一緒に声がした。
 僕の身体中がもぞもぞっと掻き回されたような感覚に襲われて、不意に身震いした。

 「っ?!希空さん。」眼を開けた。
 すると、目と鼻の先には希空さんがいた。またもや、してやられた。
 彼女は再び、僕に勝ち気な笑みを浮かべた。
 もう何度も見た。
 彼女の勝ち誇った顔。
 僕はこの顔を見ると、正直むかつく。

 「邪魔しないでくれるかな。自然を感じてたんだ、僕は。」
 僕は半ば反抗するように言った。
 「感じるって、そしたらどうして眼を瞑るのよ。こんなに綺麗なのに。」
 希空さんは僕の気持ちを考えない。もう慣れていたけど。

 「君には分からないだろうね。この池の真の魅力を分からない君にはね。」
 口を尖らせる僕に、希空さんは頬を丸めて反撃する。
 「ねえ、リク君のお気に入りはここだけなの。もっと他のところ行きたいな。行こうよお。」

 「残念だけど、僕はここしか行くべき場所を知らない。あとはおひとりでご自由にどうぞ。」
 すると、希空さんはさらにむくっと頬を膨らます。
 まるで、ひまわりの種を喉に詰め込むハムスターのようだった。
 可愛いとは言わない、意地でも。

 「ふん。分かった。じゃあ、私1人で行ってやるわ。じゃあね、さようなら。」
 そう言って、希空さんは紫のワンピースを翻した。
 ひとりで大股で歩いている姿がどこかコミカルで滑稽にも見えた。
 僕は彼女の後ろ姿を眺める。遠ざかっていく、彼女の陰。

 曲がり角に行き着いたとき、彼女の陰は止まっていた。
 そして、陰は次第にこちらへと近づいていく。
 カツカツとヒールの足音を立てて、希空さんは僕の方へと再び近づいて来る。
 そして、彼女は既に僕の目の前だ。膨れ顔は相変わらずだった。

 「こういうときは、連れ戻すのが常識じゃん!」

 「えっと、君は最初に言ったよね。今日は僕のお気に入りの場所に行くって。この池が僕のお気に入りなんだから、僕はここから動かないよ。」
 「でもさあ、何時間も池にいたら飽きちゃうよ。せっかく、上野まで来たんだよ。」

 次第に、希空さんは子供のように地団駄を踏み始めた。
 とはいえ、僕は他の観光名所というものを知らない。
 「じゃあ、希空さんが好きな場所に行けば良いじゃないか。」
 僕がそう言うと、彼女は顔を少し俯かせる。

 「だって、今日は君のことを知るための日だし。」
 小声で彼女は何かを言った。けれど、それはうまく聞き取ることができなかった。 
 とにかく、彼女は不忍池に飽きているけど、僕は全くもって飽きていない。お互いの利害関係は完全に不一致だ。
 ここで解散にしよう。僕はそう思った。

 「良いこと思いついた。」
 彼女は突然、日だまりのような表情で僕を見た。
 嫌な予感がする。

 「一応聞くよ。何を思いついたの?」
 「私が君のお気に入りの場所を見つければいいのよ。」
 突飛な言葉に僕は返す言葉を失う。
 彼女は人の話を聞いていないのだろうか。

 「だから、さっきも言ったように、僕はこの池しか知らないんだよ。」
 「ちっ。ちっ。甘いね、リク君は。私がそんな考えなしの人間に見えるかね。」
 希空さんは僕の目の前で人差し指を揺らしながら、得意げな表情を浮かべた。

 「君がこれからお気に入りになる場所を探す。そうね、そうしましょう!」
 それが彼女の提案。
 「これはまた、天才的な発想だね。」
 僕はやや皮肉を込めてそう言ったけど、希空さんはその言葉を真っ向から受け止めた。
 褒められたと勘違いしたのか、彼女は胸を張って、鼻息をならしている。

 「じゃあ、行こう!リク君。」
 そう言って、彼女は両手を大きく振った。
 「えっと、どこに行くの。」
 僕はおそるおそる聞いてみた。
 元気の塊のような声で、彼女は「行けるところ全部行ってみよ。」と言って、僕の右手を引っ張った。
 ベンチから引きずり下ろされ、半ば強制的に僕は彼女と走り出す。
 強い、痛い。希空さんの引っ張る腕の力が結構強い。反抗したら、腕がちぎれるかも。
 そう思ったから、僕は降伏した。

 それからは怒濤の勢いで、上野中の観光名所を回った。
 動物園、神社、美術館に古舗洋食レストラン。
 光のように駆ける彼女に僕は付いていくだけで精一杯だった。

 レストランに僕と彼女はいる。時刻は14時。
 遅めのお昼ご飯を終えて、食後に頼んだメロンソーダがテーブルへと運ばれた。
 それは希空さんの注文だ。
 その弾けるような炭酸と甘いアイスクリームを見た僕は、途端に喉が乾く。
 希空さんは発泡するソーダをストローを使って吸い上げていく。
 それでも、飲み足りないと感じた彼女は直接グラスに口を付けて、それを無造作に喉に流し込む。

 「ぷはあ!!」グラスを片手に持ちながら、満足そうに眼を細めた彼女。
 「飲み会のおっさんかよ。」
 ご満悦の彼女を尻目に、僕は控えめにアイスコーヒーをストローで吸い上げる。

 「だって、このメロンソーダ。すごい美味しいの。」
 「美味しくても、もっと品のある飲み方をしても良いと思うのだけど。」
 「リク君分かってない!分かってないよ。こうやって、ぐいって一気に飲み込んだ方が、おいしさは倍になるのよ。」
 謎理論を振りかざす、希空さん。
 お気に召すままに、と僕は彼女の蛮行をしばらく見守っていた。

 「外、滅茶苦茶暑かったね。」希空さんはそう言って、グラスを空にしては、おかわりを店員に注文している。
 暑さを感じるのだろうか。汗ひとつかかないその人工人体で。
 僕は疑問を心の奥にしまい込んだ。
 彼女の表情が全て作り物だとしても、それをここで作り物だと認めてしまうことに気が引けたのだ。
 それだけ、彼女は今日という日を楽しんでいるように思えた。

 「あのさ。もうちょっと付き合える?」
 希空さんはテーブルに身体を乗り出してそう言った。
 今日の彼女は一段と強引で、積極的だ。
 日が落ちて、少し涼しくなってきたから、僕は彼女にもう少し付き合うことにした。

 彼女と僕はそれから10分程度歩き続けた。到着したのは、ガラス張りの背の高い建物。
 希空さんはそれを見上げると、やや不安げな表情で内部へと進む。
 都営音楽ホール。それは10年前に建設された演奏会場。
 
 広々とした大理石のエントランスはラフな格好でいる僕らには不釣り合いに思えた。
 「どうして、ここに。」
 希空さんは屈託ない表情で答える。
 「リク君に見せたいものがあるからだよ。」

 促されるがままに、奥へと進む。
 希空さんは重厚感のある黒い防音扉を開ける。
 すると、そこには別世界にような仰々しい大ホールがあった。
 「わあ、本当に貸切なんだ。」希空さんは妙な言葉を発した。
 「貸切って、このホールを?」僕が聞き返す。
 見れば、ホールには何百と席が設置されているが、その全てが空席だ。
 
 希空さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
 「ね!凄いでしょ。」
 いやいや、凄いも何も、どういうことなのか僕には理解できない。

 唖然とする僕を尻目に彼女は舞台袖に佇む黒服のスタッフに合図を送る。
 「まあ、良いから。ここに座りなよ。」
 そう言って、舞台の最前列の空席を指さす彼女。僕は渋々席につく。

 講演のブザーが鳴った。もちろん、僕と希空さん以外の観客は誰もいない。
 一瞬の静寂の中、僕は不安に包まれそうになったので、希空さんの横顔を見る。
 「始まるよ!前向いて。」と言っては、彼女は大人しく正面を見据えるので、僕もそれに倣う。

 途端にホールの照明は落とされた。
 暗闇に包まれた世界の中で、舞台に一点の光が照らされた。
 そこに現れたのは、黒いドレスを着た1人の女性だった。
 その女性は瀟洒な佇まいで舞台中央に置かれたグランドピアノに近づく。
 それから、僕と希空さんに軽く一礼した。
 女性はゆっくりと座席に腰を下ろすと、細い指を鍵盤に押し当てる。

 白く細やかな指先からは小川のような音色が奏でられた。
 単調な旋律の中に、アルトとソプラノの調和があった。
 ホールに彼女の旋律が響き渡る。
 悲しい曲調の中に、生命を祝福する賛歌が込められているように感じた。
 僕は終始、考えることも忘れて、旋律に身を委ねる。

 音を聞きながら、自然と歌詞が頭に浮かぶ。
 その曲は元々、昔のJポップ歌手グループが作った楽曲で、卒業式シーズンには定番の曲だ。
 改めてピアノの旋律として聞くと、味わい深いものがある。

 僕はこの曲を知っている。
 そして、この旋律に聞き覚えがある。
 だって、これは母さんが一度、僕のために奏でてくれた曲だから。

 演奏が終わると、黒いドレスの女性は壇上から降りて、僕の目の前まで近づいてきた。
 驚いた。
 遠目では気づかなかったけど、その女性は僕よりもずっと背が低くて、若い。
 中学生くらいに見えた。

 「今日は、来て下さってありがとうございます。」女性は再び僕と希空さんに一礼した。
 そして、少し恥ずかしげのある表情で彼女はこう言った。

 「私は、律子先生の教え子でした。今の曲は私が先生に教わった曲のひとつです。」

 その言葉に僕は思考を停止する。
 律子先生。彼女は確かにそう言った。

 それは、僕の母さんの名前だった。
 
 これは偶然なのか。目の前のピアニストの少女は僕を見た。
 「やっぱり。あなたは律子先生の息子さんなんですね。目元がそっくりです。」

 心臓が掴まれた思いだった。血液が逆流したような気分にもなった。
 僕の母親は、小学校の教師だった。
 そして、目の前にいるピアニストの少女は小学校時代に母からピアノの指導を受けていた生徒だというのか。

 僕は彼女に対してどんな表情をすれば良いのか分からない。
 帰りたくなった。
 僕は途端に踵を返そうとする。
 ピアニストの少女に罪はないけど、僕はここにいるべきではない。

 「待ってください!」
 強い声でピアニストの少女は僕を呼び止める。
 「この曲は、律子先生。いえ、あなたのお母さんから、あなたに聴かせて欲しいと頼まれました。だから、私はここに貴方を呼んだのです。」年下とは思えない決意と覚悟が詰まった声だった。
 僕は言葉を反芻させる。
 母さんが僕に。

 そんなはずはない。
 だって、母さんはもう既にこの世にいないのだ。

 「私はあの時、律子先生が急用があると言って帰るまで、先生のピアノレッスンを受けていました。それは酷く雨が降っていた日でした。」
 やめてくれ。それ以上は言わないでくれ。僕は心が引き絞られていく。呼吸を拒絶する体は硬直して何もできない。

 「律子先生が亡くなったその日まで、私は先生と一緒にいたんですよ。」

♦︎ 4年前
 これは、僕が中学2年生だったの頃の話だ。

 「リクは本当に料理がうまいねえ。」
 僕が適当に作った里芋の煮物とご飯を頬張りながら、嬉しそうに母さんは言った。

 「あ、でも。砂糖がちょっと多いんじゃない? 私、糖尿病まっしぐらなレシピを教えた覚えはないんだけどな。」
 物凄いスピードで里芋を頬張りながら、母さんは僕に苦言を呈する。言動がまるで一致していない。
 
 「だって、母さんのレシピじゃ味が薄くて美味しくないよ。それに、教え方も下手。必要な説明も省くんだもん。」
 母さんは僕の反論を聞いては、「見て覚えるのよ。甘ったれが。」と返答する。

 母さんの職業は小学校の教師だ。
 正直、そういうスタンスで人に物を教える仕事ができているのか、僕は息子の立場ながら変な不安を覚えた。

 「まさか、私がちゃんと先生をやれてないんじゃないかとか思っちゃってるわけ。」
 煮汁を啜りながら、母さんは詰め寄る。
 「リク、あんた母さんを見くびりすぎ。ムカついたから皿洗いよろしく。」
 僕はそんな母さんの要求に渋々頷くと、皿に洗剤をかける。

 「やばい、もうこんな時間。リク、今日もご馳走様ね。じゃあ、行ってきます!」
 母さんはそう言うと、カバンを背負い込んで玄関へと向かった。
 それが、僕らの日常だった。
 人工知能開発のエンジニアをしている父さんは、仕事の関係で出張が多く家にいることは殆どない。
 だから、僕にとっての生活の殆どは母さんと過ごす日々が占めている。

 学校が終わり、下校する僕。
 家に帰るけど、母さんはまだいない。
 小学校の教師というのは何かと忙しく、母さんはいつも夜遅くに帰る。
 だから、食事は殆ど僕が自炊することにしていた。
 生きるため、僕は自然と料理の知識が付いていった。

 僕がいつも通り食器を洗っていると、玄関を開ける音がした。
 母さんが帰ってきた。時刻は22時を回っていた。
 母さんはリビングに入ると、椅子にカバンを置いて僕を一瞥した。

 「おかえり、母さん。」
 僕がそう言うと、母さんの調子はどこか変だった。

 「ねえ、リク。あんた、靴どうしたの?どうして、体育館シューズで帰ってきたのよ。」
 唐突な問いかけだった。僕は心が突かれた気分になる。
 それでも何食わぬ顔をしていたけど。

 「ああ、泥にはまって革靴を汚しちゃってさ。学校で洗って、乾かしておいたままなんだ。」
 僕がそう言うと、母さんはギョロリと僕の目を見る。こわばる僕は顔を俯かせた。

 「先週も革靴汚れちゃったの? その前も、体育館シューズで帰って来てたよね。」
 「その時は軽く運動しててさ。間違えて履きっぱなしで帰っちゃったんだよ。」
 「嘘。あんた帰宅部だし、運動なんてしないでしょ。」
 母さんの言葉が怖い。いつもは優しい母さんなのに、今日の母さんは変だった。

 「あんた、虐められてるの?」
 母さんはただ一言、強くそう言った。

 僕は心臓が飛び出しそうになった。
 僕はこの家で、母さんと2人、平穏な時間を過ごせることが平穏な日常の全てだった。
 だから、僕は勝手な自分の都合でこの空間を壊したくなかった。
 僕が自分が虐めを受けていることを黙っていた理由だ。

 「気にしないでよ、母さん。」
 「それより、ご飯を食べよう。お腹減ったんじゃないの?」
 僕は事態を収集するための策を見出せなかったから、不躾に話題の転換を図る。
 母さんは席に着こうとしない。
 代わりに、手に持ったスマホを思い切り壁に投げつけた。壁に穴が空いた。

 「バカ言ってんじゃないわよ! 親にそんなことを隠したら、一体誰があんたを助けてあげられるの?」
 母さんの怒号が静かな家屋に反響する。こんな大声を聞いたのは初めてだ。
 そして、僕は何も言い返す言葉などなかった。
 
 「ねえ、リク。母さんってそんなに頼りないかな。」
 「最近、リクは母さんに我儘を言わなくなったけど、それは母さんのことを信じていないから、なのかな?」
 感情を衝動的に吐き出した母さんはそのまま床に倒れ込んでは、背中を震わせている。
 
 違う、そうじゃないんだ。
 僕は、母さんが好きだ。
 好きだから、心配をかけさせたくなかった。
 好きだから、日常を壊したくなかった。
 好きだから、我儘はやめた。我慢を貫くと決めた。

 「僕は母さんに迷惑をかけたくないんだ。」
 「あんたが生きているだけでね、私は一生分の幸せをもらってる。人間、健康に生きてるだけで御の字なのよ。だからねリク、私は迷惑だなんて1ミリも思ってないよ。」
 泣き顔を腫らしながら、母さんは僕を見る。
 
 人に迷惑をかけたくないと言っておいて実際のところ、僕は母さんを信じきれていないだけなんだって分かった。
 分かってしまったから、悲しむ母さんを見るのは辛かった。
 僕は何も言わずに、自分の寝室に引きこもって一夜を明かした。
 
 翌朝、母さんは僕が起床するよりも先に家を出た。
 食卓にはラップがかかったハムエッグが置き手紙と一緒に置かれていた。

 「リクが疲れたら、母さんが力の出る料理を作る。作って欲しい時はいつでも言いなさい。」

 ボールペンで書かれた文字をなぞりながら、僕は目尻から溢れる涙を止めることはできなかった。
 母さんに謝りたい。今日は謝ろう。
 僕はそう心に決めて学校を出た。

 昼休み、僕はスマホで母さんに電話をかけてみた。
 「母さん、今大丈夫?」
 「ええ、軽くピアノのレッスン中だけど、休憩中だから気にしないで。どうしたの?」
 僕はふわふわな思いを引き絞って、声を出した。

 「今日は、母さんの料理が食べたいと思って。」
 電話の向こうで一瞬の沈黙が流れる。
 僕は固唾を飲んで返答を待つ。
 母さんを相手に緊張するのも変な感じだった。

 「いや、仕事が忙しいだろうし、無理しないで。」僕がそう言った時、電話の向こうで衝撃音がした。

 「絶対作るから! 今日は早めに帰るから、家で待ってて!」
 母さんの声は大きかった。
 まるで、この機を逃さんとするかのように、僕の譲歩を遮った。

 電話を切ると、ホッとする僕がいた。
 一緒に夕食を食べるのも久しぶりだ。
 昨日のことも、今夜、面と向かって謝ろう。
 僕は午後の授業がいつも以上に焦ったく感じた。

 昼から土砂降りの雨が降っていた。僕がなんとか家に帰ってからも、雨は続いた。
 僕は雨音を聞きながら、母さんが玄関を開ける音を待った。
 ただいまという声を待っていた。
 
 午後8時を過ぎた時、電話が入った。
 それは警察からの連絡だった。
 
 大型トラックの運転手が居眠り運転によって信号無視し、母さんの乗る軽自動車に衝突した。大きな事故だった。
 そして、警察の人はハッキリと僕に言った。

 母さんが搬送先の病院で息を引き取ったということを。

♦︎

 「そうか、君があの日に母さんのレッスンを受けていたんだね。」ピアニストの少女は静かに頷く。
 「律子先生は言っていました。先生には自分よりもよっぽど頭のいい息子がいて、いつも自分を馬鹿にしてくるんだって。」
 ピアニストの少女は少し頬を緩める。彼女にとっては懐かしい思い出なのだろう。

 「先生が立派に指導をしているところをアピールしてはどうですかと私は律子先生に提案してみました。」
 「すると、先生は私のピアノ演奏をその息子さんにも聴かせようかしらって冗談まじりに提案したんです。」

 僕はピアニストの少女の笑みを受け止める。
 僕の知らない、母さんの人生がそこにあった。
 教師としての母さん。母親としての母さん。それら全てが満点ではなかったかもしれないけれど、それでも懸命に自分の人生を全うするために行動していた。
 どうして、今更になってそんなことに気づくんだろう。僕は。

 「最後に見た母さんの様子とか、覚えていたら教えてくれませんか。」僕は聞いてみる。
 「放課後のレッスンはいつもより早く終わりました。律子先生は大事な用があるからと言って、駆け足で帰って行ったんです。」
 「その時の母さん、悲しい顔をしてませんでした?」
 「むしろ逆です。なんだか、遠足を前日に控えた子供みたいに楽しそうで、スキップで廊下を歩いたりしてたんです。いつも厳しい律子先生と同じ人には見えませんでした。きっと、大切な用事があったんだと思いますよ。」

 僕は、彼女の言った最後の母さんを少し想像する。
 最後の瞬間まで母さんが幸せだったかなんて、考えても仕方ない。
 それでも、僕にとっての救いがここにはあった。

 僕は、母さんが死んでしまう日まで、母さんと喧嘩をしていたことをずっと後悔していた。
 好きだった。好きだったが故に、母さんを信じる覚悟を持てなかった自分をずっと責めていた。
 この4年間は、そんな後悔に苦しめられる日々だった。

 「ちゃんと、約束果たしましたよ。律子先生。」
 ピアニストの少女は晴々とした顔で舞台を見上げてそう言った。

 僕の瞼に大粒の水が溢れる。僕はそれを止める自信はなかった。
 別に後悔が晴れたわけじゃない。自分に罪がないなんて思わない。
 母さんが過去に縛られた僕を見て、泣いていいと言ってくれた気がした。

 ピアニストの少女が心配そうにこちらを見る。
 僕は構わず泣いた。流れる無尽蔵の涙を流し続けた。
 
 その時、軽快な旋律が再び、館内に響き渡った。誰の演奏だろう。
 僕は隣を見る。
 驚くことに、希空さんはどこにも見えなかった。
 どこに行ったのだろうか。

 「ああ、結構お上手なんですね。」ピアニストの少女は微笑みながら、舞台上のグランドピアノを見た。
 僕は目を疑う。
 そこに座って、鍵盤を叩いていたのは希空さんだったのだ。

 希空さんの伴奏は決して少女に並ぶものではなかった。
 転調には失敗してるし、音にもムラがあって纏りがない。
 それでも、ピアノを前にして一生懸命に弾く姿は、なんだかとても。

 「格好いいですよね。」隣に座るピアニストの少女はそう言った。

 「大切な人のために、ピアノを弾けるようになりたい。そう言って、彼女は1人で練習していたんですよ。」
 ピアニストの少女は希空さんのピアノ練習をサポートしていたこともあったらしい。
 僕は希空さんの違った一面を知った。

♦︎

 帰り道。希空さんはゆっくり歩く僕の隣を追い抜かすことなく歩いた。
 「ねえ、ビックリしたでしょ。私の演奏。」
 得意げな表情で僕を見る。

 「めちゃくちゃ下手だった。」
 僕がそう言うと、やはり希空さんはむくれ顔になって僕を睨む。

 「うう、リク君。もしかして、お母さんと比べてない? 私、いくら万能でも君のママにはならないからね!」
 悪戯好きの啄木鳥に突かれたような気分になる。

 「君にそんな役割は期待していないよ。それに、今じゃもうポンコツAIじゃないか。」
 言ったな!と迫るような勢いで、僕の肩をポンポンと叩く希空さん。
 僕は途端に走り出して、希空さんを置いて行く。
 希空さんも負けじと、僕を追いかける。

 希空さんは追いかけざまに、僕の顔にスマホを向けた。
 それから数刻後、カシャという機械音とともに、僕の視界に閃光が走った。

 「ベストな表情いただき!」顔をくしゃくしゃにしながら笑う希空さん。
 僕の顔を撮ってどうしたいのか。

 「リク君の自然な笑顔、やっと見れた気がするよ。」
 そう言って、希空さんは撮った写真を満足そうに眺めた。

 「なんていうかな、普段は仏頂面なんだけど、合間に見せるフワッてしたやつ。それが君の本物の笑顔なんだと思う。」

 本物。
 確かに僕は学校ではいかに波風を立てないようにということに注力して生きてきた。
 その結果、僕は何時の日か、愛想笑いを愛想笑いとも疑わなくなっていった。

 「私、好きだよ。」

 途端に耳に入った言葉。
 全ての文脈が抜けている。僕は一瞬頭が真っ白になる。

 「だからさ、リク君のその自然な笑顔がね、私は好きなんだよ。」

♦︎

 僕は微睡みの中から身体を起こす。どうやら、寝てしまったらしい。
 今日は色々なことがあった。
 すると、僕のスマホに軽快な電子音が鳴った。僕はスマホを取ると、そこには希空さんからのメッセージがあった。

 【今日はお疲れ様。ちゃんと家に着いた?】
 まるで、余計な心配をする母親のようだ。

 【うん、帰ったよ】
 僕は淡泊すぎるかなと思いつつも、文字をチャットに入力した。
 僕が送信ボタンを押してから、返信が来るまでは30秒もかからなかった。

 【今日は付き合ってくれてありがとね】それから20秒の空白、それからの連投。

 【今日のピアノコンサート、私がどうやって手配したとかあまり気にならない?】
 突然の問いかけに僕は返事に迷った。
 きっと、今日の巡り合わせは偶然ではない。希空さんが事前に仕組んだのは想定できる。

 【君は万能な人工知能だから、たいして驚かないよ。それに、僕を思ってやったことなのは伝わったから。】
  僕は皮肉と少しの感謝を込める。

 【今日はありがとう。明日からもよろしくね。】彼女からの返信。
 明日からもよろしく。その言葉は僕の心に深く反響した。
 この関係性がどこに行き着くかは分からない。
 彼女は僕とまだ友達でいてくれることが分かった。それだけでも僕は嬉しかった。

 【今度こそ、文化祭の打合せするからね。絶対に!居眠りしないこと!それじゃあ、また学校でね。おやすみなさい。】
 今日の最後に彼女がくれたメッセージ。
 そうだ、彼女にはやるべきことがある。
 ひたむきに取り組む彼女のために、少しくらい何か手伝ってもいいのではないだろうか。

 これは等価交換。
 今日は僕の背中を押してくれたのだから、今度は彼女の背中を僕が押すべきだ。

 僕は心の中に小さな決心を秘めたまま、スマホを眺める。今できることを考える。
 とりあえず、直近の寝不足を今日中に解消することが僕にとっての急務だったので、僕は足早に入浴を済ませて、ベッドに包まった。

♦︎

 翌日。クラスの朝HRが終わった。
 教壇から下りる僕。
 そして、隣には憎たらしい笑みを浮かべる希空さんの姿。

 土曜日のこと。僕は彼女にお礼をしようと思った。
 だけど、それは撤回する。前言撤回だ。

 「リク君。これからもよろしくね。」
 皮肉まじりのお礼を言った希空さんは肘で僕の脇腹を小突く。

 よろしくね、その言葉の意味を僕は誤って認識していた。
 「まったく、全てはお膳立てされていたとはね。」
 僕は諦念に満ちた表情で彼女を見る。
 「そういう言い方はやめてよ。私はリク君の実力を買ったんだよ。リク君には文化祭実行員になる資質があるって思ったの。」
 笑みを崩さない希空さんは誇らしげに僕にグッドサインを送る。

 「秘密裏に僕を実行委員に推薦だなんて、横暴すぎる。」
 「まあ、1人でやるわけじゃないんだし、別にいいでしょ。」
 「議論の進行、書記の仕事、君はどれかひとつでもやってくれたかい?」
 僕の冷ややかな視線を受けて、希空さんは深々とお辞儀をした。

 「いやはや、その節は誠に感謝しておりま~す。」
 希空さんは目の前で手を合わせて僕にお辞儀する。
 「一応言っとくけど、君の仏様になった覚えはないからね。」
 そう言うと、希空さんは目をウルウルさせながら、僕を見る。

 「企画書の提出期限が迫ってるんだもん。早めにお願い。」再び僕に手を合わせた。
 僕は溜息をつく。
 ただでさえ、クラスの雰囲気がまとまらない状況で、企画書など作れるわけがない。

 「まずは、何をするか決めないと。」
 僕の真っ当な提案に、彼女はむむむと考え込む。
 「希空さんは文化祭でどんなことをしたいの?」
 一限目授業まであと5分。希空さんに聞いてみる。
 「うう。そう言われると難しいのよね。とにかく可愛くて楽しい!ってことがしたい。」
 抽象的なイメージしか語れないのは、危機感がないからだ。希空さんはもっと焦るべきだ。

 「企画書を書くには放課後のHRまでに結論を出さないと間に合わない。間に合わなければ、企画は中止だね。」
 呆けている彼女に僕は現実を突きつけた。
 僕を強引に実行委員にした以上、僕も言うべきことは言うさ。

 「うう、分かってるよ、もう。」
 膨れ顔で腕を組んだ希空さん。
 そのまま不服そうな顔を崩さずに、彼女は僕に一冊のノートを差し出す。

 「これは?」
 きょとんとする僕に、突きつけるそれ。

 希空さんは「それから、もうひとつお願いなんだけど」と言って、僕にノートを見せる。
 嫌な予感、どうやら彼女に等価交換とか貸し借りという言葉はないらしい。

 「宿題、分からなかったんだ!」
 「だから。」
 僕はあえてぶしつけに対応してみる。
 「見て見て!私ともあろう超絶有能AIがこの白紙よ!誰か助けてくれる優しい人いないかな。」
 彼女が見せたノートには、問題文が書いてあるだけのもの。
 答えは何も埋まっていなかった。

 そして、ノートの左下の欄外には苦悩の叫びがごとく、「SOS」の文字が鉛筆書きされている。

 「ほら、ちゃんと答えられてるじゃないか。」僕はそのSOSの文字を指さしてそう言う。

 希空さんは「それは答えじゃない!お手上げってことよ。」と僕にツッコミを入れる。
 ツッコミしたいのは僕のほうなんだけど。

 「いい加減、普通の人間になりたいってなら、自分で頑張ってみたらどうよ。」
 「自分で考えて分からないから、聞いてるのよ。」
 「じゃあ、他に教えてもらえる友達でも見つけることだな。」

 希空さんの変わりぶりは多くの生徒の注目の的だ。
 だからといって、彼女の周りに多くの友達がいるわけでもない。
 相変わらず、彼女の話し相手は僕しかいない。
 僕は少し心配になった。
 余計なお世話かもしれないが、女友達の1人でもいたほうが、高校生活がぐんと楽になると思う。
 特に、女子の学校社会は陰湿だ。
 男友達しかいない女子なんてのは、女子軍団から陰口や嘲笑の対象となる。
 今の彼女はその一歩手前。今の段階で手を打つべきだろう。

 「私に友達なんてリク君しかいないもん。助けてよ!」
 馬鹿正直な返答をしてきた希空さん。
 友達扱いしてくれたことに少しの嬉しさがこみ上げてくるのをぐっとこらえながら、彼女の発言に辟易する。

 「だったら、今から作れば良いじゃない。友達をさ。」
 文化祭を頑張るにしろ、希空さんにはクラスからの信頼を勝ち取る必要がある。
 そのための一歩、まずは1人の友達を作ることだ。

 「それって絶対しないと、ダメかな。」泣きそうな瞳で聞いてくる。
 これくらいでそんな顔するんじゃない。 

 「文化祭を成功させたいなら、まずは話せる友達を増やしてみなよ。」
 「うう、分かった。分かったよう。」涙目のまま彼女のは自席に戻る。

 休み時間はあと3分ある。ちょっと、彼女の様子を観察してみた。
 希空さんの隣りに座る女子高生は園田恵。眼鏡姿が特徴的な真面目な人だ。
 正直言って、今の快活な希空さんとの相性は良くなさそうだな。
 僕は幸先が好転することを祈りながら、希空さんの後ろ姿を見守る。
 すると、希空さんはちらっと僕の方を振り向いた。
 どうすればいいか分からない。そんな顔をしてこっちを見ている。

 安心しろ。僕も女友達の作り方なんて分からないよ。
 僕はとりあえず不安げな彼女に親指を上げてグッドサインを送った。
 受け取った彼女は舌打ちするように僕からそっぽを向いた。

 「き、今日も良い天気だね。えへへ。」
 なんと、希空さんのほうから声をかけた。彼女の声は少し震えていたけど、まずは第一関門クリアだ。
 園田さんは驚いたような顔で隣の希空さんを見る。
 そりゃそうだ、隣の席になって3ヶ月、禄に話してないんだから。

 「希空さん、どうしたの?」
 園田さんは、続く言葉もなくゴモゴモしている希空さんを目の前にし、困惑の表情を浮かべ始めた。
 雲行きが良くない。
 このままでは、希空さんはコミュ障によくある天気の話題にだけ明るい奴になってしまう。
 早く、早く話題を振れ!

 僕は静かなる念を彼女に送る。手の平を彼女の方に向けてハンドパワー。

 「何してんだ、お前。」僕の隣であきれ顔の駿介がそう言った。

 僕の念もむなしく希空さんは何も喋らない。
 だけど、最後に頑張った。希空さんは決死で力を振り絞って、宿題ノートを園田さんに突き出す。
 声をかけられないなら、物で示す戦法に出たというわけか。意外と考えるじゃないか。

 園田さんはノートをまじまじと見つめる。
 きっと、ノートの白紙状態を見れば、彼女が宿題の内容を教えて欲しいという意図は伝わるはずだ。
 すると、園田さんは予想に反する行動をとった。

 園田さんは口元をおさえて、困惑を浮かべる。
 「ごめんね、気付いてあげられなくて。」
 そう言って、園田さんは希空さんの袖口を持ち、彼女を教室外へと連れ出した。

 授業は同時に始まった。
 教室から抜け出した2人を呆然と見つめる先生。
 何が起こったのか僕には理解できない。
 10分くらい経ったころ、園田さんが帰ってきた。
 希空さんはいなかった。

 「どうかしたのか。」先生が問う。
 「希空さんが体調不良だったので、保健室へ連れて行きました。」

 初耳だった。少なくとも、僕と話していた時の希空さんに不自然な様子はなかった。
 それだけに、何か突発的な異変があったのではと懸念する。
 例えば、ビッグデータを壊したことにより、なんらかの不具合が発生したのではないか。

 授業が終わった後、園田さんは僕に声をかけてきた。
 「リク君って、希空さんの、えっと友達、だよね。」その問いかけに僕は首肯する。

 「保健室にいるから、迎え行ってあげて。」と、園田さん。彼女は結構優しい子なのだろう。
 「ところで、希空さんが体調不良だって、どうして分かったの。」僕は聞いてみた。
 「だって彼女、ノートに大きな文字でSOSって書いてたんだもの。しかも顔色も悪い気がしたし。」
 あちゃあ、そういうことか。行動が裏目に出た。ドンマイ、希空さん。

 「実はね、園田さん。」僕はここまでの彼女の経緯を話す。
 彼女が友達を欲しがっていることを説明した。
 「そういうことだったのね。」呆気にとられる園田さん。

 「顔色悪くてSOSメッセージ送っている奴の真意が友達募集中だなんて、誰も気がつかない。そう気に病まないでほしい。」
 僕はそう言って、園田さんをフォローするけど、園田さんは何か落ち込んでいるように見えた。
 「私、彼女に悪いことしちゃったかな。」
 心配そうな表情でそう言う園田さん。
 僕は微かに笑う。
 「大丈夫。こんなことでへこたれる希空さんじゃないしね。次会ったときに、一声かけてあげて。」

 僕は保健室にいる彼女を迎えに行く。
 ガラガラと引き戸を開けると、消毒液の匂いに鼻腔が包まれた。
 保健室の隅、希空さんが白い毛布に包まれてベッドにいた。

 「おつかれさん。体調はどう。」僕はとりあえず聞いてみる。
 「災難よ、どうしてこうなっちゃうのよぉ。」ベッドでうだうだしているのを僕は見下ろす。

 「2限が始まるから、帰るよ。」
 「園田さん、私のこと、変な子だと思ってるわ。きっと。」
 肩を落とす希空さん。

 「そうでもないよ。とりあえず、今度はちゃんと言葉で話しかけてみてよ。」
 僕の言葉に頷く希空さん。
 正直、園田さんがこの不器用な希空さんのことを嘲笑ったりしないだろうか心配だった。
 しかし、園田さんは本気で彼女を心配してくれていたし、彼女の真意を知ったときも、嬉しさと謝罪の入り混じる表情をしていた。園田さんは信頼できる。彼女の良い友達になってくれるかもしれない。
 僕はそっと胸をなで下ろした。

 昼休みに入る頃には、2人は普通に日常会話ができるようになるまで打ち解けていた。
 女子の適応能力って本当に高いよな、なんて思いながら僕は駿介と机を並べて弁当を食べている。

 「ところでさ、先週はあの子とちゃんと話せたのか。」話題を振ったのは駿介だった。
 先週の金曜日を思い出す。放課前のHRは空中分解して、取り残された僕と希空さん。
 僕は駿介を置いて、走り出た希空さんを追いかけたんだったっけ。

 「まあ、お前の顔見てれば分かるよ。上手くいったそうでなによりだ。」
 駿介はオレンジジュースをストローで吸い上げながら、僕の顔をまじまじと見る。

 「上手くいったって、何がだよ。」
 ふふーんと笑う駿介。
「何がって、お前ら付き合ってるんじゃないのか?」

 「「んなわけないでしょ!!」」2つの声が被った。

 「おっと、知らないうちに仲良くなりやがって。」にやけ面が止まらない駿介。
 僕は隣りに来た希空さんと目を合わせる。そして、また目をそらす。

 「えっと、何か用?」
 僕はご飯を掻き込みながら、視線を向けた。

 「緊急事態が発生したの。昼食後に屋上に来て。」
 彼女はそう言って僕の返答を待たずして、自席に戻った。 
 「ほら、早く行けよ。」僕を急かす駿介。
 「言っておくけど、僕らはそういう関係じゃないんだ。」誤解を解くよう努める僕。
 駿介は顔色ひとつ変えないで、「"今は”だろ」と僕の弁解を一蹴する。

 僕と彼女。少なくとも僕はそういう関係を意識していないだろう。
 変わりたい彼女。そんな彼女を見届けたいと思った。ただそれだけだ。

 僕は昼食を食べ終えて、屋上へと移動した。
 ドアを開けると、身体を揺らして楽しげな希空さん。
 秋の微風が彼女の袖口とスカートの裾を揺らしたので、僕はふと目を背ける。
 希空さんはニヒヒと歯を見せながら、スカートを抑える。何も見ていないぞ、僕は。

 「大丈夫だよ。スパッツだから。」
 「知らんがな。」僕は咄嗟にかぶりをふる。

 「ほら。」くいっとスカートをあげる。希空さんの言うとおり、その中には黒色の短パンがあった。
 「やっぱ、見たかったんだ。」そう言って、希空さんは口元を抑えて笑う。

 違う、違う。これは罠だ。
 僕は恥じらいと困惑と怒りの感情をミックスさせた。

 「希空さん、用がないなら帰るね。」僕は踵を返そうと、彼女に背を向ける。

 「からかってごめんってば。」
 今度は遊びたがりの子猫のように僕の手を引っ張る。
 僕は、嫌みな表情で振り向くと、そこには希空さんではない人影が見えた。

 「めぐみん。こっちにおいで。」
 希空さんはそう言って、屋上の貯水タンクの陰に隠れる女子生徒を呼んだ。
 現れたのは、園田恵。希空さんの友達第2号となった女子生徒だ。

 彼女はどこかバツの悪い顔で、手には大きめの紙袋をさげていた。 

 「私ね、びびっときちゃったの!」
 開口一番、理性が興奮に追いついていない様子の希空さん。
 すると、園田さんは紙袋を希空さんに預ける。
 彼女が険しい顔をする原因は一体何なのか。
 原因の殆どは、脳天気なロボット女子高生にあるようだが。

 「見て! これ!」
 そう言って、希空さんは袋の中を取り出した。
 園田さんは目を覆った。

 「じゃじゃん!」という即席のBGMを言いながら、希空さんはソレを僕に見せた。

 目の前にあるのは、黒い下地に白いレースがあしらわれた洒落た洋服だ。
 とにかくヒラヒラが多くて、希空さんには似合わない服だろうなと思った。

 「ねえ、ちゃんと分かってるの? この服が。」迫るように希空さんは僕に詰め寄る。
 ヒラヒラが多い服。僕はそれ以上の感想をひねり出せないし、ただ黙っていた。

 「メ・イ・ド・服だよ! リク君。」やや興奮気味に鼻息を荒くする希空さん。
 続いて出た言葉に僕は顎が外れるかと思った。

 「今年の文化祭はメイド喫茶に決めたわ!」