ひまりたちは一度家に帰ってから、再びあの児童公園を訪れていた。
凛が「星を見よう」と言ったのだ。
湿った熱気が肌に張り付く。ギィギィと、夜にだけ鳴く虫の声と、蝉の声が入り混じっている。夏の夜を感じさせた。
空は雲が疎らに散っていて、晴れてはいるが、以前見たような美しい星空には届かない。それでも雲の隙間から、星がいくつか顔を出している。
そして何より、いつもと違うのは美桜がいること。ひまりの腕の中には、一日出かけて疲れ果てた美桜が、寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。
家族三人だ。幸せの時間。
それはひまりにとって、何よりも大切なもので、最も愛おしく感じるものだ。
それを味わうように、凛に肩を寄せた。
「あれがベガ、デネブ、アルタイルなんだ」突然口を開いた凛は、空を差しながら言った。
「また星座の話?」
少し面倒くさそうに、でも優しく言う。
「それが夏の大三角形なんだってさ」
知らなかったと、ひまりは相槌を打った。
空に大三角形を見つけ、眺めていると、横から流れてきた雲が星を隠した。デネブが隠れて、アルタイルとベガが取り残される。取り残されてしまったものだから、「私たちみたいだね」という言葉は喉奥に留めておくことにした。
「どれか一つでも欠けたら、大三角じゃあなくなっちゃうのかな?」
「どうだろう。よく分かんない。でも、少なくとも俺は、そうは思わないな」
「どうして?」
「そりゃ名目的には三つ揃って初めて大三角だけどさ、『離れてても心は一つ』みたいなやつがあると思うんだよ。だからもしアルタイルが消えても、あれは夏の大三角形に変わりはないんだ。ベガでもデネブでも同じ」
すると雲が流れ、デネブが顔を出した。
そうしてようやく言うことができた。
「私たちみたいだね」そう言ったあとに、夏の大三角が、と付け加える。
「そうだな」
凛は視線を空に向けたまま、頷いた。
たとえ離れ離れになることがあろうとも、三人は家族だ。それには変わりない。
「明日から仕事だから、帰ろうか」
「そうだね」
そう言って二人は立ち上がった。
美桜はまだ眠っていた。よほど疲れたのだろう。星空を見せてやりたかったなと思った。
惜しいけれど、また来ればいい。時間は貴重なもので、すぐに消え去ってしまうけれど、家族の絆は消えないのだから。
「また来ようね」
ひまりの言葉に、凛は目を細めて頷いた。
夜の闇の中でも輝いて見える、ひまりにとってのとびっきりの笑顔だった。
ありきたりな日常。いつもと変わらない日常。
それは手にある時には気づくことのできない奇跡の連続で、今という時間は更新され続ける奇跡の最先端に位置するものだ。
それゆえに気づかない。
だから当たり前を思わせる、日常なんて言葉を使ってしまう。奇跡であることに気づくことのできる人間は、それを失った人間のみだ。
やがて、私は絶望した。
美桜が熱を出した。
昨日歩き回った疲れからだろうか。聞いたこともないほど苦しそうな泣き声をあげたため、美桜の身体に異変が起きていると察知した。頭と頭を付けてみると、自分の体温の数倍もあるのではないかと思うくらいに熱かった。
「大丈夫そう?」
心配そうに凛が訊いた。
「まずそう。病院連れて行かないとかも」
「そんな酷いのか」
凛は心配そうな表情で、美桜の額に手を当てた。「本当だな」と頷く。
「どうしようか。私のママにお願いするのは……」
「ダメなのか?」
「ダメってことはないだろうけど、私の家族のことで巻き込むのが申し訳なくて」
「なら、俺が病院連れていくよ」
「え、大丈夫なの?」
「今日は特に楽な日なんだ。午前休んだところで問題ない」
「お願いできる?」
「頼ってくれ」と、凛は自信ありげに言った。
そんなこと言わなくても、いつも頼っているのに。ひまりは心の中でそう呟いた。
熱こそあるけれど、咳や嘔吐などの症状は見られない。熱中症ではないだろう。恐らくは水族館で風邪を貰ったか、疲労による発熱か。
しかしまだ二歳にも満たない子供が熱を出しているというのに、大丈夫だと家に置いておけるほどひまりは薄情ではない。大切な家族の一員なのだ。限りなく可能性は低いが、大病だったらどうする。
考え始めたらきりがない。
そんな心配を察知したのか、凛が「俺に任せて、仕事に行ってきなよ」と言う。
だから甘えて、というよりは信頼して、ひまりは職場に向かった。
その連絡が入ったのは、お昼寝の時間だった。
午後一時、昼食を取り終えた子供たちは一斉に眠りにつく。その頃に、ひまりはようやく昼食にありつけた。泣きわめく子供を抑えているうちに、昼食の時間が終わってしまい、食べることが出来なかったのだ。
午前に凛からのメールで、『美桜は何ともなかった』と知らされていたので、心置きなく仕事に集中することができた。
事務室に入り、自分のデスクに座る。隣には瑞穂先生もいて、弁当を食べていた。ひまりと一緒に、泣きわめく子供の相手をしていたのだ。
「お疲れ様です」
ひまりの言葉に、瑞穂先生は疲れたように会釈をした。
「いやぁ、大変だったね」
「ほんとですね」
「久々にあそこまでの相手した気がしたよ」
「私は初めてかもしれないです」笑って言った。
昼間泣きわめいていた子供は、結局、一時間ほど暴れまわっていた。子供とはいえ、大人が一人で抑えられるようなものではなかった。瑞穂先生と二人がかりで、ようやく止めることができた。子供の力も侮れない。
「でもまぁ、あそこまで元気だと逆に安心しますよね」
「泣かなかったり、怒んなかったり、喋んなかったりする子もいるしね。でも心を開いてもらってるって思えば、先生として嬉しいけどね。あぁ、ひまり先生のところの子供はどう?」
「まだ一歳過ぎだから、何とも言えませんけど。まぁよく泣きますね」
「うちの子供は、産まれた時に泣かなくて焦ったなぁ」
空を見て、思い返すように言った。
「あの時は私の心臓が止まるかと思ったよ」
その話を聞けば、美桜は健康に産まれてきたのかもしれない。出産のときに苦労することはなかったし、疾病を抱えることもなかった。大きなアレルギーの一つすら持たずに産まれたのだから、美桜は幸運だったのだろう。
瑞穂先生のような苦労話が思いつかなくて、少し申し訳ない気持ちになる。
「今はお子さん、どんなですか?」
「もうすぐ小五になるけど、クソ生意気だよ」
言動とは裏腹に、楽しそうに笑った。
「私のことは蹴るし、テストは見せてくれないし、そのくせいっちょ前に彼女だけは作っちゃって。心配だよ」
「反抗期ですね」
少し羨ましく思う。自分に反抗期が無かったため、その存在をよく知らない。しかし反抗期は成長の証でもある。いつか美桜が大きくなったときに、ほんの少しでもいいから反抗してほしい。ささやかなひまりの夢だった。
「でも、反抗期が来ると、なんか悲し――」
瑞穂先生の言葉を遮るように、ひまりのスマートフォンが鳴った。手に取ってみると、そこには『高木文乃』と書かれていた。母親からの着信だった。
誰も何も言っていないのに、何だか嫌な予感がした。何か、普通でない、と言っているようだった。
そもそも、ひまりが仕事をしている時間帯に電話をかけてくる時点で、緊急を要することは明らかだった。しかしスマートフォンの画面をスライドするのが怖くて、そのままデスクに伏せた。
「電話、いいの?」瑞穂先生が訊いた。
「今、仕事は特にないし、出なよ」
「……じゃあそうさせてもらいます」
その電話のマークを横にスライドすることで、憶測が事実になる気がして、怖かった。しかし瑞穂先生に言われた手前、着信拒否するわけにはいかなかった。
恐る恐る、電話のマークを右にスライドする。
「もしもし……?」
『あ、やっと出た』
電話越しの母親の声は、着信を鳴らし続けた割には酷く落ち着いていて、それが逆に不気味に思えた。まるで、現実ではないような。
「何かあった?」
『落ち着いて聞いてね。……凛くんと美桜が事故に遭って――』
その事実を聞いても、落ち着いていられる自分が怖かった。
*
――二○二四年、八月十一日
享年二十三歳、齋藤凛はこの世を去った。
享年一歳、齋藤美桜はこの世を去った。
それからはあっという間に進んでいった。
葬式は気づかないうちに終わっていた。
参列者は知らない人ばかりだった。きっと凛の知り合いだろう。喪主は必然とひまりが請け負ったが、まるで普段の仕事のように事をこなし、普通の人なら憔悴して手間取る作業も手早く済ませた。
その結果、参列した人のほぼ全員から、「旦那と娘が死んでも一切悲しまない、薄情な女」と呼ばれた。
本当に何も思わなかった。
凛と美桜が二人で少し遠くに出かけているような感覚で、数日後にはふらっと帰ってくる、そういった根拠のない確信があった。だから平然としてられた。
そうして葬儀は終わった。
ひまりは薄情な人間とラベリングされたが、そんなことは別に気にならない。誰から何と言われようと、どうだっていい。慣れたことだ。
そうして凛と美桜の死を悼む日は終わった。
凛と美桜のいない日常が訪れた。だというのにやはり、ひまりは何も感じなかった。いつも通りという言葉が最も似合う。
しかし、死後の手続きなどの影響で、一旦保育園は休職させてもらうことにした。
手続きというものは想像以上に面倒で、よく分からない書類に適当に幾つもハンコを押して、さらに別の業者から似たような話を聞く、といったことを繰り返す。仕事をする暇もないほど手続きが多いため、母親にも手伝ってもらった。
保険だとか、相続だとか、裁判だとか、正直知らない。そんなものはどうだっていい。
しかしハンコを押さなければ、終わらないと言う。だから仕方なくハンコを押すと、業者は満足げな表情で家を出ていく。
彼らは遺族に寄りそう気なんてさらさら無く、ただ業務ノルマを達成したいだけなのだろう。でなければ、こんな強引に話を進めたりしない。
諸々の手続きが終わった頃には、一か月が経過していた。
寂しくはあるけれど、未だ凛と美桜がいなくなったことを信じられない。明日の朝にでも、「ただいま」と元気よく帰ってきそうな雰囲気があった。
夕暮れ。適度に温かい気温が、夏の終わりを感じさせる。
路傍にひっくり返って鳴いている蝉が、ひどく耳障りだった。聞こえないふりをするように、早足でその場を立ち去る。
買い物袋を片手に、帰路に就く。
十分ほど歩くとアパートが見えた。錆びた階段を登り、額に汗を滲ませて玄関の戸を開ける。
「ただいま」
自分の声だけが響く。
あぁ、そっか。二人は死んじゃったんだ、と思い出す。
「余計に買ってきちゃったな」
乾いた笑みで、一人きりの部屋に呟いた。
カーテンを閉め切り、真っ暗な部屋は玄関から入り込んだ夕陽によって照らされる。そこには散乱した郵便物と、結んだゴミ袋が幾つもあった。心なしか生ごみのような匂いもする。
ひまりはしゃがんで、散らばったスニーカーを揃えながら言う。
「仕方ないよね、買い過ぎて腐っちゃうんだから」
そう、これはいつものこと。
これが日常。
玄関の戸を閉じた。そうしてひまりは、再び三〇五号室へと入っていく。
ここはかつての聖域のようなものではないけれど、ひまりにはこの部屋が心地よく思えた。だってここは、家族三人の住まいだから。
それを嫌に思うなんてことは、反抗期によくある、一時の気の迷いのようなものだろう。
作りすぎた料理を処理していると、机の上のスマートフォンが鳴った。
皿を置き、揺れるスマートフォンを手に取る。母親からの着信だった。
十分近く他愛のない話をした。きっと自分を心配してくれたのだろう。「家に帰ってきていいよ」と言ってくれた。しかし今のところ、特に困ったこともないし、一人でいた方が時間も自由に使えると考え、その提案を断った。
「本当に大丈夫なの?」と念を押されて訊かれたが、同じように念を押して「本当に大丈夫だよ」と返した。すると母親は心配しつつも「そっか」と言って笑った。
『辛くなったら頼ってもいいんだよ。私はひまりのママなんだからね』
電話を切る直前の母親の言葉が、残響のように頭の中に残っていた。
復職は先送りにして、家で引きこもりのような生活をしていた。
数日に一回、食料や必需品を購入するために家の外に出る。それ以外はずっと家の中に籠ったまま。特に何をやるわけでもない。
それは奇しくも、生前の秋村翔太と同じような生活だった。
一体なぜだろう。今までの人生の経験から、それは社会的に良くないことであるのは分かっている。それでも、前に進もうという気が起きないのだ。
それはきっと、まだ二人がいなくなったことを実感できていないからなのだろう。
目を覚ますとすぐそばにいるような気がして、家でだらけた生活をしていると、高校の時みたいに凛が手を差し伸べに来てくれる気がして、美桜が構ってと泣き声を上げてくれる気がして。そんなありきたりな日常をありきたりのままにしたくて、
目を背けるように眠る。
時間が経過し、少しずつ、受け入れざるを得なくなっているのだ。
夢の中で、声がした。
ひまりは声を発することができなくて、視点がまるで神様のようにふわふわと浮いていた。
見える景色が黒一色だったから、初めはそれを悪夢と勘違いした。しかし目を凝らしてみると、まるで壇上の幕が上がったかのように一面に恒星が煌めいたから、それが悪夢ではないと理解した。
夢は自分の内面を映し出すという。なら、この景色は、何を伝えたいのだろう。
しばらくその夜空を見つめていると、見知った星があった。それは一つでは成り立たない星で、三つ揃って初めて名乗れる。ひまりのよく知る星だ。
『あれがベガ、アルタイル、デネブなんだ』
声がして、その方向を見ると、小さな児童公園のベンチに肩を寄せ合って座る夫婦と、抱きかかえられた子供の姿があった。ここからでは顔を視認することができないが、その三人が少し前自分たちであることはよく覚えていた。
そしてその答えも。夏の大三角形だ。
しばらくして、その女は考える。夏の大三角はまるで自分たち家族のようだと。
雲が星を覆った。アルタイルだけが、夜空に取り残されてしまったように見える。強烈な寂しさを覚えて、ひまりは雲に隠れたベガとデネブを線で繋いだ。それから、取り残されたアルタイルとも線を繋ぐ。
そうして夜空には、大三角が形成された。
そこで、夢は途切れた。
勢いよく布団を剥ぐ。カーテンの向こうから漏れる光は、今が朝であると示していた。
夢を見るなんて、いつぶりだろう。どんな夢だったかはよく覚えていないが、嫌な夢ではなかったことは確かだ。
突然、強烈な空腹感を覚えて、身体を強引に起こす。
冷蔵庫は空で、シンク下にもカップラーメンは入っていない。
スマートフォンに手を伸ばして、時間を確認してみると午前九時四十五分。ここからスーパーは徒歩二十分ほどなので、今から出れば丁度いい。
平日だし、どうせ空いている。乾いた喉をそのままに、ひまりは寝間着姿のまま、町へと繰り出した。
秋の町は一見すると、夏の風景とは変わらないように見える。しかし夏とは違った快適な気温が、どこか寂しさを感じさせ、それが秋の到来を告げる。
平日の午前。すれ違う人は老人ばかりで、彼らからは訝しげな眼を向けられた。この服装のせいだろう。無視して足を進めていく。
スーパーでは、カップラーメンではなく袋麺を購入した。その方が買い物に出かける周期を伸ばすことができると考えたからだ。
エコバッグに詰められる分だけ購入して、スーパーを後にする。
帰り道は少しだけ、家が遠く感じた。
今日はやけに周囲の音が耳に入って、思わず足を止めてしまいそうになる。公園で遊ぶ子供の声と、それを窘める母親の声と、それを見てにこやかに笑う老婆。
幸せそうだなと、思ってしまった。
少しだけ眺めてから、その場を後にする。
丁度一軒家の間からアパートの姿が見えたとき、すれ違った親子の楽しそうな声が耳を突き抜けた。母親がまだ一歳に満たない子供をベビーカーに乗せて歩いている。そんな何気ない姿に思わず見入ってしまう。
「あ、あの。どうかしましたか?」
その人物は、困ったように笑って言った。
ひまりは小さく「ごめんないさい」と言って、逃げるようにアパートまで走った。
少し前までの自分は、そんな風に幸せそうな表情をしていたのだろうか。
暗い部屋は少し熱が籠っていた。汗を滲ませて部屋に戻ったひまりは、袋麺で詰まったエコバッグを適当に投げ捨て、そのまま布団に正座した。
そしてポケットからスマートフォンを取り出した。ロックを解除して、写真のアプリを起動する。
写真フォルダーを一番上までスクロールして、一枚一枚写真を見ていく。
途端、涙が溢れて止まらなくなった。
そこには家族の思い出が溢れていて、
確かに家族がいた記録が残っていて、
楽しかった、辛かった、大変だった、苦しかった、でもやっぱり楽しかった記憶を思い出させた。
文化祭の写真、バイト先での写真、ぶれたツーショット写真、大学の入学式の写真、短大の入学式の写真、一緒に買い物に行った時の写真、母親と凛の写真、初めて入居したときの写真、料理をするひまりの後ろ姿の写真、初めて凛が作ったベタベタな炒飯の写真、ひまりの寝顔の写真、妊娠を知らせたメールのスクリーンショット、お腹が膨らんだひまりの写真、産まれたばかりの美桜の写真、病院で撮った二人の家族と美桜の写真、美桜が心地よさそうに眠る写真、美桜が初めて立った時の少しぶれた写真、美桜が「ママ」と言う映像、クッションに顔を挟める美桜の写真、それを真似する凛の写真、口に米を付けた美桜の写真、水族館に向かう凛の運転姿の写真。そして、
「あれ、こんなのも撮ってたんだ……」
写真フォルダの最後の一枚は、水族館でペンギンを見るひまりと美桜の写真だった。凛がこっそりと撮ってくれたのだろう。そこに映るひまりは幸せそうに笑っていて、美桜も同じように笑っていた。それを撮った人のことも想像する。
涙で視界が滲み、やがて堪えきれなくなって、布団に顔をうずめた。
「うあ、あぁぁぁぁぁ、っあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
どうしようもない感情を吐き出すために、全力で叫んだ。叫んだ。叫んだ。
もう戻らない。
もう二人はいない。
もう返ってこない。
もう――どうにでもなれ。
呼び鈴が鳴る。しかし応答はない。もう一度呼び鈴を押す。それでも応答はない。
やはり何かあったのではないかと、思案を巡らせる。葬式で平気そうにしていたときから、どこか異変を感じていたのだ。ひまりは大丈夫だと言ったが、それでも心配なものは心配だ。
母親として、娘が苦しんでいたら手を差し伸べなくてはならない。
もし何もないならそれでいい。それが一番だ。しかし何かあってからでは手遅れなのだ。
もう一度呼び鈴を押しても何もない。扉をドンドンと叩く。
「ひまり? いたら返事して?」
その声にも応答がない。時刻は午後七時を回ったところ。買い物に行っている時間帯でもないだろうし、仕事を休んでいるひまりなら、今の時間は家にいるだろうと予想してアパートを訪れた。
何度も呼び鈴を鳴らすが、それでも応答がないので、やはり何かあったのではないかと思ってしまう。
ポケットから合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。思っていたより焦っていたらしく、鍵を差し込むのにも苦労した。そうしてひまりの部屋へと入っていく。
今は一人暮らしのはずなのに、玄関の靴は綺麗に三人分用意されていて、それが妙に不気味に思えた。部屋にはごみが散乱している。ほんの少し生ごみの香りがして、思わず顔をしかめた。
「ひまり、いるの?」
手探りで電気を付けた。しかしひまりの姿はどこにも見当たらない。やはりどこかに出かけているのではないかと、一瞬安心したが、三人分の靴があるということは家の中にいるのだろう。
あと考えられる場所は、トイレか風呂の二択だ。
ふと、空気が湿っていることに気づいた。それだけではない。どこか鉄臭いような、いいや、それは血の匂いだ。
嫌な予感がした。風呂場の扉は閉まっていた。
「ひまり!」
勢いよく開ける。風呂場には水が張られており、その水は赤く変色している。床には包丁が落ちている。そしてひまりが浴槽に倒れこむようにして、力なくもたれかかっていた。
急いで駆け寄る。足元は水に濡れていて、靴下が染みた。
「マ、マ……」消え入りそうな声で言う。
少し笑った。薄っすらと開いた目が、こちらを見ていた。表情からは感情を読み取れない。
「何してるの!」
ひまりの身体を、浴槽から引き揚げる。左手首には横に赤い線ができていて、ひまりが何をしようとしたかを物語っていた。
水を含んで重たくなったひまりを、五十代近い女性一人で持ち上げるなんて、少し無理があった。それでもひまりは大切な娘だ。力を振り絞って、どうにか洗面所まで運んで、小さな子供のように介抱して横にした。
ひまりは「ごめんなさい」と、何度も謝った。
「やっぱり、死にたくない」
涙を流して言う。
今まで寂しさや悲しさを感じることのできなかった分、何かの拍子で一気に襲い掛かってきたのだろう。ひまりには耐え切れなかったのだ。
それから救急車を呼んだ。
幸い傷は浅く、致命傷に至るほどではなかった。しかし跡は残るらしい。可愛い我が子に一生の傷が残るのは嫌だったが、ひまりの命が助かっただけで十分だ。
今は大切な娘の無事に感謝をしよう。
「頼れなくてごめん。迷惑かけたくなかったの……」
ひまりは母親に、口をほとんど開けずにそう言った。俯いて髪が垂れ下がり、表情を隠している。しかし今のひまりがどんな気持ちか、言葉にしなくても、誰が見ても分かる。
自殺未遂をしたひまりは、母親の手によって実家に連れていかれた。馬鹿なことをしたと思う。あの時、写真を見てしまって、どうしようもなく現実を叩きつけられて、逃げ出したくなった。
自分でも制御できなくなって、自殺未遂のところまで到達してしまった。でも、本音では死にたくなかったから、包丁を深くは刺さなかったのだろう。しかし、あのまま一日水に浸しておけば死んでいたかもしれない。母親が来てくれて、本当に命を助けられた。
懐かしい家のリビングで二人きり、内山さんと灯花は仕事と学校で家にはいない。それがまるで、引きこもっていた頃の自分を思わせた。
昼下がりの家は太陽の影になり、少し薄暗い。一番気温が上がる時間帯なのに、少し肌寒さを感じた。本格的に季節が移ろうとしているのだろう。
長い沈黙の後、母親は言葉を選んで語りだした。
「頼るとか頼らないとか、そんなのはどうだっていいんだよ」
その声色はひどく落ち着いていて、ひまりは母親には愚行を咎める気はないのだと悟る。命があってよかったと、心底思っていることが伝わってきた。
「ママはね、ママだから娘の幸せを願うのが当たり前だと思ってた。でも、それが当たり前じゃないんだって気づいた。だってそれは未来が保証された前提の話だから、失うことを考えてない。娘の幸せを願うことができることは奇跡で、それが更新され続けているのが日常なんだね。五十も近いけど、ママもようやく気付いたよ」
ひまりは俯いた顔を少し上げ、重たい口を開いた。
「ママでも、知らないことあるんだ……」
「ママをなんだと思ってるの」
母親は今日、初めて笑顔を見せた。
「ママも一人の人間だから、知らないこといっぱいだよ。こうしてひまりに教えてもらうことばっかりだし」
「そっか、そうなんだ」
家族がいる幸せを理解していたつもりだった。でも、自殺をしようとして、母親からも幸せを奪ってしまうところだった。そう考えると、さらに申し訳なさが増してくる。
「ママは、ひまりがいてよかったと思ってるよ」
テーブルの向こうから手を伸ばして、ひまりの手を包み込んだ。
「大変かもしれないけど、また一から歩き出そう。ママがいるから」
自分はとんでもない親不孝者だ。こんなにも自分を想ってくれる人がいるのに、その人を裏切ろうとしたのだ。子供の頃からずっと、自分のせいで母親は幸せを損してきた。
三歳の頃に離婚して、シングルマザーの負担をかけさせた。人との関わり方が分からなくて、余計な心配をかけた。引きこもって、過度に心配させた。負担を増やしてしまった。それは全て、自分のせいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。昔からずっと、迷惑ばっかりかけて……」
「それが子供だよ。親にとって、子供は迷惑かけてなんぼなんだよ。逆にひまりは昔から、一人で何でもできちゃったし、ママの手なんか要らないくらい立派だった。それに、ひまりが思うほど悪いことばかりじゃないよ。ひまりのおかげでママは幸せになれた。考えてみてよ。ひまりがいなきゃ灯花はいないし、内山さんもいない。ひまりが保育士を目指すことも無かっただろうし、もしかすると凛くんとも出会わなかったかもしれない。言い出したらきりがないけど、少なくともひまりのせいで悪いことが起きたなんてことは、一度もないんだよ」
「……じゃあ、三歳の頃に離婚したことは? シングルマザーになっちゃったことは? 私のせいだよね?」
ひまりの問い詰めるような視線に、母親は黙って首を横に振った。そして何かを決意したように深く息を吐いてから、口を開いた。
「実はね、ママはデキ婚だったの。だから離婚するのも当然だったというか、あの人の顔ももう覚えてないしね」
と笑顔で言う。
「ママは大抵の人の考えてることは、何となく分かるんだ。でも、たった一人、それが通じない人がいた。それは高木ひまりっていう子なんだけどね、本当に何を考えてるか分からなかった。だから人として、親として、どう振舞えばいいか分からなかった。どうしようか考えてるうちに、どんどん遠のいていっちゃって、親失格だと思った。何もしてやれなくて、物理的に支えてあげることくらいしかできなかった。そんな私でも、ひまりのことは大好きだった。私がこんなだから、ひまりは心を開き切ってくれないんだろうな。でもいつか『家族』になれたらいいなって思った。私のせいで、この子が不幸になることだけはあっちゃいけないと思ったの」
そこまで聞いて、ようやく気づいた。自分たちは互いを大切に思っていたのに、大切な何かを忘れて、気持ちが行き違っていた。たった一言、言葉を伝えればそんなにまで考え込む必要も無かったかもしれないのに。
それから続いた母親の言葉は、どこか謝罪めいていた。
親らしいことを何もしてあげられなくてごめんなさい。引きこもっていたとき、寄り添ってあげられなくてごめんなさい。――何かを隠していることは知っていたけれど、それで苦しんでいることは誰よりも知っていたけれど、何もできなくて、本当にごめんなさい。
ひまりは母親を、完璧な人だと思っていた。しかし違った。完璧でなんかなくて、ずっと悩んでいる普通の人だった。でも娘のことを第一に考えてくれる、最高の親に違いない。
だから――私はあなたに憧れたのだろう。
立ち上がって、母親の背中に手を回して抱き合った。
ごめんなさいとありがとうが混ざり合った涙が、ぽろぽろと零れる。
「少しずつ、一緒に前を向こう」
母親の言葉に、大きくうんと頷いた。
――すぐにでも、自分についてを語るべきなのだろう。
でも今だけは、理解し合えた喜びに浸っていたかった。