鳴りやまない蝉たちの演奏と、うだるような暑さが夏の到来を知らせた。
家の外に出れば汗が一瞬にして吹き出る。引きこもりでいたい季節だ。
しかし今日に限っては、引きこもっていたくはない。計画をしたときからずっと、この日を待ち遠しく思っていた。
玄関で先に靴を履いて待っているひまりは、ふと、何か忘れ物をしている気がして、必要なものを頭の中で数え始める。
「えーっと、哺乳瓶は持った?」
凛は靴を履きながら、空いた手を鞄の中に入れて探った。うんと頷いたから、きちんと入っているのだろう。
ひまりの手元にはベビーカーがあり、美桜がすっぽりとはまっている。いつもの日々とは違う状況に、心なしか美桜の表情には期待が見えた気がした。
今日は待ちに待ったお出かけの日だ。家族三人で水族館に行く。それは二人がずっと前から願っていたことだ。一年も経過して育児にも慣れ、ある程度落ち着いた。
家族で出かけるには丁度いい時期だと考えたのだ。
凛が靴を履き終える頃、玄関の扉を開いた。
抑えられていた夏の香りが、一気に玄関に入り込んできた。その暑さと眩しさに、思わず目を細める。外は見るからに暑くて、玄関から一歩先へと進むのを一瞬、躊躇わせた。しかしその苦労の先の時間を考えれば、その足は驚くほど軽やかに進む。
「さ、行こっか」
ひまりが先導して玄関を出た。
水族館は涼しいといいねと、ベビーカーに乗った美桜に呟いた。
凛が社会人になるにあたり、車を購入した。中古車で、それなりに走行距離も少ないが、安く購入できた。
都市部でもない限り車は必須だ。田舎では公共機関は基本的に意味をなさない。一時間に一本しか走らないバスを利用するくらいだったら、徒歩でいい。二時間に一本の電車にお金を払うのであれば、車を購入したほうが早く到着できるし、将来的に安く済む。
そうして購入した車は、青の四人乗り軽自動車だ。家族以外に特に乗せる人もいないし、大荷物を載せることもないだろう。ひまりたち三人家族には最適といえる。もっとも、この先この車では、家族全員が入りきらなくなる可能性もあるが。
高速道路を利用して、水族館までは大体一時間程度。
渋滞もあり二時間弱で辿り着いた水族館は、つい最近改修工事を終えたばかりらしく、ガラスのみの壁と、屋根には全てソーラーパネルが敷かれていた。地方には似合わない近代的なフォルムだ。
その上に先鋭的なモニュメントが幾つも立っている。
目を奪われつつ、水族館内部へと入っていく。
水族館なのだから、多分、凄いのはここからなのだろう。
水族館は地下にあった。外観は全て飾りでしかなかったらしい。地下なだけあって、外の暑さを忘れさせるくらいひんやりとしており、肌寒いくらいだった。
入館料は大人一人一五○○円、三歳までの乳児は無料とのことだった。
以前のひまりは、どうしてお金を払ってまで魚を見たいのだろうかと疑問に思っていた。魚群鑑賞が趣味の人にしては多い気がする。しかし家族を持ってようやく理解できた。そういう人もいるだろうが、別に魚を見たくて水族館に来ているわけではない。
つまりそれは、ひまりの大好きだった『非日常』なのだ。
穏やかな水族館は非日常で、日々の苦しいこと、辛いことを少しの間、忘れさせてくれる。そんな非日常の場所だから、人が多く訪れる。ひまりたちだって、家族で出かけるという非日常の時間を求めて水族館まで来たのだ。
だから今では、時間にお金を費やすことを無駄とは思わなくなった。
チケットを千切ってもらい、水族館の奥へと踏み入れる。
互いの表情すら曖昧にする薄暗い空間は、数種類もの魚群に囲まれており、幻想的だった。思わず感嘆の声が漏れる。ふと、美桜を見てみる。美桜は空に手を伸ばし、頭上の魚に触れようとしていた。
その手の先を視線で追うと、凛と目が合った。少しの間見つめ合って、小さく笑いあう。
表情は見えないけれど、ひまりたちが笑顔なのは間違いない。
道の両脇に巨大なカニや海外の小魚がいた。
「ねぇ見て」
水槽を指差して凛に声を掛けた。
美桜にも見えるように抱きかかえてから、凛は水槽に目をやる。
「ヒトデだ」と言うと、視線を水槽の下に移した。
「アカヒトデっていうらしいよ」
凛がヒトデに言及して、初めて存在に気づいた。
真っ赤なヒトデは水槽の底に張り付いて動かない。五つに分かれた身体は、五芒星を思わせる。ヒトデと言われたら、皆がこの形を思い浮かべるだろう。アカヒトデは、ヒトデのステレオタイプともいえる。
「本当に星みたいだね」
「そりゃ、スターフィッシュって言われるくらいだからね」
「へぇ、ヒトデって魚なんだ」
「いいや違うよ。何かって言われたら分からないけど」
水槽の下の紹介文に目を移す。そこにはヒトデについての基礎知識が書かれていた。
『アカヒトデ・棘皮(きょくひ)動物門ヒトデ綱』
ひまりには読み方が分からなかったが、とりあえず魚ではないことだけは理解できた。そんなことを知っていた凛が物知りに思えた。
それぞれの水槽をじっくりと時間をかけて見ていく。そうして進んでいくと、突然通路が開けた。
大水槽と呼ばれる、水族館を想像する時に一番に思い浮かべる、巨大な水槽が目の前にあった。エイやシマダイなどの大きな魚が優雅に泳いでいる。どこを見渡しても、魚がいないということはない。
そこは自分の知らない世界だった。さらに海は、ずっと深くまで未知の世界が広がっていると思うと、胸が高鳴った。
凄い、と自然と口から出た。
ゆっくりと味わって、たった百メートルの海中を進んでいく。
凛と美桜とひまりの三人で、静かな時間を過ごした。
大水槽エリアを抜けると地上へと繋がっていた。外にも展示があるのだろう。自動ドアが開くと、むわっとする暑さが入り込んでくるとともに、乾いた磯の匂いがした。
肌に纏わりつくような不快な暑さを堪えながら、外に出る。
通路に従って進むと、そこにはペンギンがいた。
まだ幼いペンギンは母親ペンギンの隣で、気持ちよさそうに眠っており、その様子を見守るように岩の上から覗き込むペンギンがいた。恐らく父親ペンギンだろう。
その姿が今の自分たちの姿と重なって、微笑ましい気持ちになる。
「私たちみたいだね」
美桜を抱きかかえて、ペンギンを見せている凛に声を掛けた。
「はみ出てるところが?」
凛は別なペンギンを見ていた。
ひまりたちは別にはみ出し者なんかではないはずなのだが、どうやら凛には違って見えていたらしい。
「私たちってはみ出し者なの?」
「いいや、昔の話。俺は不良の真似事みたいなことをしてたし、ひまりは……ほら」
「引きこもりだってこと?」
「うん」と、少し申し訳なさそうに笑った。
「昔の話だけどね。まぁ確かに、私たちはみ出し者同士だからこそ、仲良くなれたってのはあるかもね」
そう考えたら、何だか自分たちは出会うべくして出会ったように思えた。
そうしてここに美桜もいるのだから、それは運命の出会いに違いない。
生前も合わせた人生の中で、今が最も幸せな瞬間だ。そしてそれは未来にかけて、更新され続ける。ずっと、未来まで。
幸せは途切れることなく積みあがっていく。
かつて求めていた家族からの愛とは、そういうものなのだろう。
すると今まで当たり前に思えていた三人の家族が、奇跡であることに気づいた。
今がどれだけ幸せな環境であるかも。
出かけた言葉は喉で止まった。だって「今、幸せだね」なんて恥ずかしくて言えないから。
代わりに凛の手を優しく握った。
家族三人で見る景色は、たとえそれが世界の終わりだとしても、この目には美しく映るだろう。
家の外に出れば汗が一瞬にして吹き出る。引きこもりでいたい季節だ。
しかし今日に限っては、引きこもっていたくはない。計画をしたときからずっと、この日を待ち遠しく思っていた。
玄関で先に靴を履いて待っているひまりは、ふと、何か忘れ物をしている気がして、必要なものを頭の中で数え始める。
「えーっと、哺乳瓶は持った?」
凛は靴を履きながら、空いた手を鞄の中に入れて探った。うんと頷いたから、きちんと入っているのだろう。
ひまりの手元にはベビーカーがあり、美桜がすっぽりとはまっている。いつもの日々とは違う状況に、心なしか美桜の表情には期待が見えた気がした。
今日は待ちに待ったお出かけの日だ。家族三人で水族館に行く。それは二人がずっと前から願っていたことだ。一年も経過して育児にも慣れ、ある程度落ち着いた。
家族で出かけるには丁度いい時期だと考えたのだ。
凛が靴を履き終える頃、玄関の扉を開いた。
抑えられていた夏の香りが、一気に玄関に入り込んできた。その暑さと眩しさに、思わず目を細める。外は見るからに暑くて、玄関から一歩先へと進むのを一瞬、躊躇わせた。しかしその苦労の先の時間を考えれば、その足は驚くほど軽やかに進む。
「さ、行こっか」
ひまりが先導して玄関を出た。
水族館は涼しいといいねと、ベビーカーに乗った美桜に呟いた。
凛が社会人になるにあたり、車を購入した。中古車で、それなりに走行距離も少ないが、安く購入できた。
都市部でもない限り車は必須だ。田舎では公共機関は基本的に意味をなさない。一時間に一本しか走らないバスを利用するくらいだったら、徒歩でいい。二時間に一本の電車にお金を払うのであれば、車を購入したほうが早く到着できるし、将来的に安く済む。
そうして購入した車は、青の四人乗り軽自動車だ。家族以外に特に乗せる人もいないし、大荷物を載せることもないだろう。ひまりたち三人家族には最適といえる。もっとも、この先この車では、家族全員が入りきらなくなる可能性もあるが。
高速道路を利用して、水族館までは大体一時間程度。
渋滞もあり二時間弱で辿り着いた水族館は、つい最近改修工事を終えたばかりらしく、ガラスのみの壁と、屋根には全てソーラーパネルが敷かれていた。地方には似合わない近代的なフォルムだ。
その上に先鋭的なモニュメントが幾つも立っている。
目を奪われつつ、水族館内部へと入っていく。
水族館なのだから、多分、凄いのはここからなのだろう。
水族館は地下にあった。外観は全て飾りでしかなかったらしい。地下なだけあって、外の暑さを忘れさせるくらいひんやりとしており、肌寒いくらいだった。
入館料は大人一人一五○○円、三歳までの乳児は無料とのことだった。
以前のひまりは、どうしてお金を払ってまで魚を見たいのだろうかと疑問に思っていた。魚群鑑賞が趣味の人にしては多い気がする。しかし家族を持ってようやく理解できた。そういう人もいるだろうが、別に魚を見たくて水族館に来ているわけではない。
つまりそれは、ひまりの大好きだった『非日常』なのだ。
穏やかな水族館は非日常で、日々の苦しいこと、辛いことを少しの間、忘れさせてくれる。そんな非日常の場所だから、人が多く訪れる。ひまりたちだって、家族で出かけるという非日常の時間を求めて水族館まで来たのだ。
だから今では、時間にお金を費やすことを無駄とは思わなくなった。
チケットを千切ってもらい、水族館の奥へと踏み入れる。
互いの表情すら曖昧にする薄暗い空間は、数種類もの魚群に囲まれており、幻想的だった。思わず感嘆の声が漏れる。ふと、美桜を見てみる。美桜は空に手を伸ばし、頭上の魚に触れようとしていた。
その手の先を視線で追うと、凛と目が合った。少しの間見つめ合って、小さく笑いあう。
表情は見えないけれど、ひまりたちが笑顔なのは間違いない。
道の両脇に巨大なカニや海外の小魚がいた。
「ねぇ見て」
水槽を指差して凛に声を掛けた。
美桜にも見えるように抱きかかえてから、凛は水槽に目をやる。
「ヒトデだ」と言うと、視線を水槽の下に移した。
「アカヒトデっていうらしいよ」
凛がヒトデに言及して、初めて存在に気づいた。
真っ赤なヒトデは水槽の底に張り付いて動かない。五つに分かれた身体は、五芒星を思わせる。ヒトデと言われたら、皆がこの形を思い浮かべるだろう。アカヒトデは、ヒトデのステレオタイプともいえる。
「本当に星みたいだね」
「そりゃ、スターフィッシュって言われるくらいだからね」
「へぇ、ヒトデって魚なんだ」
「いいや違うよ。何かって言われたら分からないけど」
水槽の下の紹介文に目を移す。そこにはヒトデについての基礎知識が書かれていた。
『アカヒトデ・棘皮(きょくひ)動物門ヒトデ綱』
ひまりには読み方が分からなかったが、とりあえず魚ではないことだけは理解できた。そんなことを知っていた凛が物知りに思えた。
それぞれの水槽をじっくりと時間をかけて見ていく。そうして進んでいくと、突然通路が開けた。
大水槽と呼ばれる、水族館を想像する時に一番に思い浮かべる、巨大な水槽が目の前にあった。エイやシマダイなどの大きな魚が優雅に泳いでいる。どこを見渡しても、魚がいないということはない。
そこは自分の知らない世界だった。さらに海は、ずっと深くまで未知の世界が広がっていると思うと、胸が高鳴った。
凄い、と自然と口から出た。
ゆっくりと味わって、たった百メートルの海中を進んでいく。
凛と美桜とひまりの三人で、静かな時間を過ごした。
大水槽エリアを抜けると地上へと繋がっていた。外にも展示があるのだろう。自動ドアが開くと、むわっとする暑さが入り込んでくるとともに、乾いた磯の匂いがした。
肌に纏わりつくような不快な暑さを堪えながら、外に出る。
通路に従って進むと、そこにはペンギンがいた。
まだ幼いペンギンは母親ペンギンの隣で、気持ちよさそうに眠っており、その様子を見守るように岩の上から覗き込むペンギンがいた。恐らく父親ペンギンだろう。
その姿が今の自分たちの姿と重なって、微笑ましい気持ちになる。
「私たちみたいだね」
美桜を抱きかかえて、ペンギンを見せている凛に声を掛けた。
「はみ出てるところが?」
凛は別なペンギンを見ていた。
ひまりたちは別にはみ出し者なんかではないはずなのだが、どうやら凛には違って見えていたらしい。
「私たちってはみ出し者なの?」
「いいや、昔の話。俺は不良の真似事みたいなことをしてたし、ひまりは……ほら」
「引きこもりだってこと?」
「うん」と、少し申し訳なさそうに笑った。
「昔の話だけどね。まぁ確かに、私たちはみ出し者同士だからこそ、仲良くなれたってのはあるかもね」
そう考えたら、何だか自分たちは出会うべくして出会ったように思えた。
そうしてここに美桜もいるのだから、それは運命の出会いに違いない。
生前も合わせた人生の中で、今が最も幸せな瞬間だ。そしてそれは未来にかけて、更新され続ける。ずっと、未来まで。
幸せは途切れることなく積みあがっていく。
かつて求めていた家族からの愛とは、そういうものなのだろう。
すると今まで当たり前に思えていた三人の家族が、奇跡であることに気づいた。
今がどれだけ幸せな環境であるかも。
出かけた言葉は喉で止まった。だって「今、幸せだね」なんて恥ずかしくて言えないから。
代わりに凛の手を優しく握った。
家族三人で見る景色は、たとえそれが世界の終わりだとしても、この目には美しく映るだろう。