美桜は本当に可愛い。
まだ言葉を話すことはできないけれど、言葉に似た何かなら発することができる。「あうあう」と泣き声を上げて、短い手を懸命に上げて甘えようとする姿は愛おしい。
ひまりが抱きかかえると、おっぱいを欲して胸に顔をうずめる。美桜がどんな行動をしても、今のひまりには可愛く見える。
美桜はよく泣く子だけれども、普段保育園でそういう子を相手にしているから平気だった。むしろもっと泣いて感情表現を沢山して欲しいとも思う。
泣くときは決まっていて、嫌に思うことがあったときと、凛に抱かれたときだ。
どうやら凛は抱くのが下手らしく、腕に乗るやいなやすぐに泣いてしまう。しかしじゃれて遊ぶときにはそんな素振は一切見せないのだから、嫌われているわけではないのだろう。男性の腕がごつごつしているから不快に思っているのだろうか。
残念だけど美桜の気持ちはひまりには分からない。
育児は大変だけれど、嫌ではない。楽しいとは少し違う。思い通りにいかず、大変な事ばかりでお世辞にも楽しいとは言えないのが育児というものだと思う。けれども将来の美桜のことを思えば、何だってやろうと思えたし、何よりも美桜の笑顔を見た時には有頂天になれた。
思い通りにはいかなくても、美桜が健やかに育ってくれさえすれば、それでいい。
そしていつか、家族三人で出かける日がくるといいなと願う。
産休は出産後八週間まで適応される。
それまでには育児にも少しは慣れた。そこからさらに十か月の育休を貰った。
本当は人手が足りず、長期間の育休を取るのは躊躇われたのだが、瑞穂先生や園長がこれからの若手のためだったら何だってすると、半ば強引気味に育休を取らせてもらった。本当にありがたかった。園側としても育休が取れる職場として実績が欲しかったらしく、ひまりは園長から感謝された。
凛は大学の単位をほとんど取得し、他の時間は育児と就職活動に注力している。家にいないことも多いため、母親や凛とも相談し、昼間は実家の方に身を置くことにした。
ふと思い返してみれば、母親と内山さんに美桜の顔を見せるのは、出産したとき以来だった。灯花に至っては、顔を見せること自体が初めてだ。どんな反応をするのだろうかと、わくわくした気持ちで、開け慣れた実家の玄関の戸を開く。
玄関から見える何度も見た景色に向かって「ただいま」と言うのは少し恥ずかしかった。
出迎えてくれた母親の「おかえり」の声もまるで数十年前の出来事のように懐かしい。
大人になったのを感じる一方で、ここが我が家ではなくなったのだと思う。
母親は腕に抱えられた美桜を見ると、目を潤ませて微笑んだ。そして感慨深げに言った。
「おばあちゃんになっちゃったかぁ」
「ママになっちゃったね」
そんな短いなやり取りのうちに、二人の目には涙が浮かんでいた。
新たな命の喜びを感じるとともに、独り立ちをした寂しさを感じた。するとセンチメンタルなひまりを慰めるように、美桜は短い手を伸ばして笑った。
ひまりは不思議そうな表情をして母親と目を合わせる。
そして、祖母と母親、孫の三人で、感情を共有するように笑いあった。
リビングに入ると、そこには懐かしい景色があった。いつも寝転んでいたソファに、三人で見るには少し小さなテレビ。冷蔵庫は新しいものに変えられていたが、色は同じ白で、かつての面影を感じさせた。
しかし灯花の姿が見当たらなかった。
「灯花は?」
「学校よ」
「あぁ、灯花ももうそんな歳なのか」
この冬にはひまりだって二十二歳になるのだ。ひまりが十三歳の頃に産まれた灯花はもう七歳になる。出産で意識が向かなかったが、今年小学校に入学したのだ。何かお祝いでも渡そうかと考える。
「寂しくなるね」
「いいや、美桜がいるからね。私も頑張らないと」
母親は腕を捲りながら言った。本当に頼りになる。
先に連絡して用意してもらったベビーベッドに美桜を寝かせる。
「あ、これ。懐かしい。灯花のやつでしょ?」
「そうよ。引っ張り出して来たんだから」
もう何年も使っていないのに、カビやほこりの臭いは一つもしなかった。恐らく母親が一度拭いてくれたのだろう。流石二度も育児を経験しただけのことはある。新生児への気遣いは抜かりなかった。
美桜は慣れない環境に初めは嫌がり泣いていたたが、母親と遊んでいるうちに笑うようになった。経験値が違った。
昔と同じように、ソファで寝ころびながら二人の様子を見ていると、いつの間にか眠ってしまった。次に目を開けたときには窓の外の色が薄くなり始めていた。
「起きた?」
椅子に腰かけていた母親が、微笑みながら訊いた。
その声で、意識も現実に引き戻される。
どうやら自分でも気づかないうちに随分と疲れが溜まっていたらしい。時計の針は四を指していた。少なくとも四時間以上は眠っていたことになる。
「ごめん、寝ちゃってた」
「いいのよ」と、よく見た笑顔を向けてくれる。
身体を起こすと、ソファのすぐそばにベビーベッドが移動していた。どうやら美桜が母親の隣で眠れるように、気を遣ってくれたらしい。
まだ眠っている身体でベビーベッドを覗いてみると、美桜はまだすやすやと眠っていた。
椅子に座る母親が、口元に人差し指をあてて「静かに」と伝える。ひまりは母親の気遣いに感謝して頷いた。
それから立ち上がり、水道からコップに水を注ぎ、口に流し込んだ。乾いた喉を潤した後、母親の対面に座った。この椅子も、ここから見る母親の姿も、何だか懐かしく思える。
美桜を起こさないよう注意して、母親は小さな声でひまりに話しかける。
「なんか美桜、昔のひまりを見てるみたいだったなぁ」
「引きこもりの匂いがした?」
笑って冗談を言う。
「そうじゃないよ。なんか優しい感じが似てたの」
「優しい感じ?」
「そう、優しい感じ」と繰り返す。
そう言って母親は顎を手のひらに乗せ、両肘をテーブルに置いた。
「子供のくせに、誰かのことを心配しちゃってね。ママには分かってたのよ」
ひまりをの目を見てにやりと笑った。それから思いついたように視線を外す。
「あ、ママじゃないのか。ババ? ばあちゃん? いや、ママなのか?」
「私は自分の事ママって呼ばなきゃなんだよね」
「ママはばあちゃんか……ってなんか変だね」
「そうだよ。どっちがママなのか、訳わからなくなる」
そうして談笑していると、玄関の戸が開いた音とそのあとすぐに、元気な「ただいま」が聞こえた。ひまりは椅子から立ち上がって、「おかえり」を返した。
灯花だろう。玄関へと出迎えに行く。
「え、お姉ちゃんいるの」
靴を脱いで、振り返った灯花と目が合った。動きを止めて目を見開いて驚いていた。
「いるよ」
ひまりがそう言うと、灯花はランドセルを投げ捨ててひまりに抱きついた。
「おかえり」灯花は高い声色で、喜びを表現する。
「ただいま」
灯花の小さな頭を優しく撫でながら言った。
もう少ししたら帰るつもりなのだが、それは言わないでおいた。
「どうしているの?」
「灯花に美桜を見せに来たんだよ」
「ほんと? やった!」
はしゃいでひまりよりも先に、リビングへと走っていった。
騒がしい灯花のせいで、美桜が目を覚ましてしまったらしい。ひまりがリビングへ戻ろうとすると、泣きわめく声が聞こえてきた。ひまりは急いで駆け寄る。
美桜が横になっているベビーベッドの周りには母親がいた。抱き上げてよしよしと揺らして、泣き止ませようとしているが、泣き声は大きくなるばかりだ。
ひまりが交代して、美桜を抱いた。リズミカルに身体を揺らし、右手で頭を撫でてみる。いつもならばこうすると、大抵の場合は泣き止んでくれるのだが、今に限ってはそんな簡単にはいかなかった。
泣くのはいつものことではあるが、泣き止まないのはいつもらしくない。
どうすればいいかと困っていると、灯花が寄ってきて腕の中にいる美桜を、興味深そうに見つめている。それから優しく頬を突っついた。
するとぴたりと泣き止んだ。泣き声は笑い声に変わった。
どうやら灯花と美桜の相性はいいらしい。懐いているのが分かったので、帰るのはあもう少しとにして、そのまま灯花に遊ばせることにした。
しばらくそうしていると、内山さんも帰ってきた。
内山さんは美桜の顔を見ると、すぐに抱きかかえた。しかし今までにないくらい大きな声で泣きわめき、内山さんも涙目になっていた。
そんな幸せな時間を過ごしていると、凛から連絡が入った。あと一時間くらいしたら駅に着くらしい。帰る時間が来た。
玄関で見送る灯花が寂しそうにしていたが、また二人で来るよと言ったら喜んで送り出してくれた。子供らしいところは子供らしく、しかし妙に大人らしい部分も持ち合わせた子だ。
きっと灯花は、ひまりとは違って皆から愛されるような人間になるのだろう。今更ながら、ほんの少しだけれど嫉妬してしまった。
しかし腕の中に抱かれた美桜の表情を見れば、そんな感情はすぐにどこかへ吹き飛んだ。
それから家の扉を開けて、高木家を後にする。
すると、久しく見ていなかった顔を目にした。
家の前に、たばこを吸う生前の親父の姿が見えた。
彼は生前と同じ道を辿っているようで、夜の闇の中でも見えるほど皴が顔にあり、頬は痩せこけていた。髪は白髪交じりで、年齢以上に歳をとっているように感じさせる。
秋村家のことを忘れていたわけではなかったが、こんなにも疲れ果てた表情をしていたのだと、改めて思う。
親父はひまりの顔を見ると、一瞬目を細めた。しかしすぐに誰かを認識したようで、にこりと微笑みかけた。
もう二十年も前のことだ。しかしその罪が晴れたわけではない。あと二年もしたら、目の前の家の二階に住む青年は、彼を殺す。
自分自身が殺してしまった本人ではあるけれど、もしも今、秋村翔太と心が入れ替わるとしたら、怒りのままに気が飛ぶまで包丁を振り回すことはしない。そうなる前に、話し合うことを選択する。
それはひまりの二十一年の人生で学んだことだ。
彼の苦しみも、今ならば何となく分かる気がした。
だからひまりは、真似をするように微笑み返した。
夏の匂い漂い始めたある日の事、内定も貰って安心しきっている凛と美桜を家に置いて、ひまりは一人で買い物に出かけた。いつも凛にサポートをしてもらっているのだ。たまには家でゆっくり休んでもらおうという、ひまりなりの気遣いだった。
買い物といっても特に遠くに出かけるわけでもない。ただ、足りなくなった日用品や、今日の晩御飯の材料を買うくらいだ。
久々にひまりが晩御飯を作ろうかと思った。スーパーの食品コーナーを一通り見て回って、どんな料理にしようかと考える。
今日は特売でトマトが安いらしい。夏が旬だからだろう。トマトを使った料理と言えば、スパゲティやトマトスープなど色々考えられる。とりあえず籠に入れて、他の物も見てみる。
すると二割引きの鶏むね肉を見つけた。チーズも加えて、トマトの鶏肉煮込みなんかどうだろうか。確か家に玉ねぎもあったから、それもいれよう。
他にサラダなどを購入し、そうして晩御飯は決まった。
重たいエコバッグを引きずりそうになりながら、歩いてアパートまで戻る。徒歩十五分とはいえ、荷物があり、更に日射しが体力を奪う。十五分が倍に思えた。
大変な思いをして帰路に就いた。
アパートの扉の前に立ったときには、服の下は汗まみれになり、脱水気味なのだろうか、ほんの少しだけ眩暈がした。
「ただいま」と扉を開く。
外に流れ込んできた冷気が、火照ったひまりの身体を一瞬で冷やした。
扉を足で抑え、エコバッグの重さに振られながら部屋に入る。
部屋がやけに静かだった。いつもと違う雰囲気に、思わず妙なことを考えてしまう。
まさか……。
不安に思って玄関にエコバッグを床に投げ捨てて、部屋の中へ入っていった。
そしてそれを見た。
声は出なかった。
ひまりは、その場に膝からゆっくりと崩れ、尻もちをついた。
そこには、赤ちゃん用の小さな布団に気持ちよさそうに眠る美桜の姿と、きっとあやしていたのだろう、美桜の身体に手を置いたまま、隣でうつ伏せになったまま寝息を立てている凛の姿があった。
「……よかった」
小さな声で言った。
何かあったのかと思って、焦って走った自分が馬鹿みたいに思えた。凛が付いているのだから、そんなことは起きるはずがないではないか。
胸を撫で下ろした。ふぅと、息を吐く。
安堵のあまり、しばらくその場から立ち上がれそうになかった。
何もなくて、本当によかった。
その日の晩御飯は、凛が唸るくらいに会心の出来だったが、作りすぎてしまった。昼間の出来事を通じて、家族でいられることに幸せを感じていたからだろう。
トマト煮込みということで、弁当にできるものではない。明日は三食全て、トマトで染まってしまいそうだ。
でも、たまにはそんな日があってもいいなと思う。
それは取り留めのない、しかし忘れることのない思い出になるだろうから。
やがて二人が歳をとって、老後にのんびりと暮らすようになったとき、思い返すための思い出は幾つあってもいいのだ。
美桜が一歳を迎えた。
世界一可愛い我が子は、どうやら天才だったようだ。
誕生日を境に美桜は突然歩くようになり、また途切れ途切れではあるが、言葉も発するようになった。一歳で話すことができて、かつ歩くこともできる赤ちゃんはきっと天才に違いない。
と、凛は言っていた。
親ばかだ、と凛を笑いつつも、ひまりもどこかで天才とは言わずとも、同年代の中では優秀な子供になるのかもしれないと思っていた。
出産から一年が経過したころには育休も終わり、ひまりは仕事に復帰した。
改めて仕事の大変さと、お金を稼ぐことの意味を再認識した一方で、保育士という職業の認識が変化した。
担当する子供たちのことを親目線で考えられるようになったため、どんなことが心配か、どんなことを希望しているのかが全て分かった。
さらに子供一人一人のために働くことができるようになった。
その結果、ひまりは子供たちに「ママ」と言い間違えられることが増えた。恥ずかしいことではあるが、親として思ってくれているのだから、悪いことではないと思う。
そして「ひまり先生」は、「瑞穂先生」とも並ぶ、親の中でも人気の先生となった。
一方、凛はというと銀行マンになった。
実際は労働金庫であり、厳密にいえば銀行とは異なるのだが、営利を求めない金融機関というだけで、一般的には銀行と同じように見られているため、一応は銀行マンといえる。
実は学生結婚をしたことで、一度出されかけた内定を取り消されたらしい。
とある企業で、最終面接に現われた社長が古い認識の持ち主だったらしく、こんな若いうちに結婚しているのだから、遊んだり、不倫をしたりするのだろう。どうせデキ婚だと、偏見をそのまま目の前で語られたと言っていた。
そんなときに受けたのが労働金庫で、採用官が、きっとあなたは責任感の持つことのできる素晴らしい人材だと、学生結婚を受け入れてくれたらしい。
そんな経緯があって、凛はそこに決めたと言っていた。
初めてでよく分からないことが多いだろうけれど、家族のためと、毎日頑張ってくれている。それは疲れ果てて帰ってくる凛の姿を見ればすぐに分かる。
ひまりは仕事にも慣れ、育児を経験して体力がついたため、凛をサポートする側に回っていた。
こうして互いを支え合っていると、家族を感じた。
暖かな家庭が築かれて、これから色んな記憶を刻んでいくのだろう。
今という一瞬を積み重ねて、やがて家族の絆となる。一年後にはどんな暮らしをしているだろうか。美桜はいつ彼氏ができるだろうか。反抗期はいつ来るだろうか。反抗期が来たらやっぱり少し悲しいのかもしれない。まぁそれは、体験してみないと分からないのだろうけど。
そんなありきたりな、ひまりにとっての最高級の幸せを想像した。
鳴りやまない蝉たちの演奏と、うだるような暑さが夏の到来を知らせた。
家の外に出れば汗が一瞬にして吹き出る。引きこもりでいたい季節だ。
しかし今日に限っては、引きこもっていたくはない。計画をしたときからずっと、この日を待ち遠しく思っていた。
玄関で先に靴を履いて待っているひまりは、ふと、何か忘れ物をしている気がして、必要なものを頭の中で数え始める。
「えーっと、哺乳瓶は持った?」
凛は靴を履きながら、空いた手を鞄の中に入れて探った。うんと頷いたから、きちんと入っているのだろう。
ひまりの手元にはベビーカーがあり、美桜がすっぽりとはまっている。いつもの日々とは違う状況に、心なしか美桜の表情には期待が見えた気がした。
今日は待ちに待ったお出かけの日だ。家族三人で水族館に行く。それは二人がずっと前から願っていたことだ。一年も経過して育児にも慣れ、ある程度落ち着いた。
家族で出かけるには丁度いい時期だと考えたのだ。
凛が靴を履き終える頃、玄関の扉を開いた。
抑えられていた夏の香りが、一気に玄関に入り込んできた。その暑さと眩しさに、思わず目を細める。外は見るからに暑くて、玄関から一歩先へと進むのを一瞬、躊躇わせた。しかしその苦労の先の時間を考えれば、その足は驚くほど軽やかに進む。
「さ、行こっか」
ひまりが先導して玄関を出た。
水族館は涼しいといいねと、ベビーカーに乗った美桜に呟いた。
凛が社会人になるにあたり、車を購入した。中古車で、それなりに走行距離も少ないが、安く購入できた。
都市部でもない限り車は必須だ。田舎では公共機関は基本的に意味をなさない。一時間に一本しか走らないバスを利用するくらいだったら、徒歩でいい。二時間に一本の電車にお金を払うのであれば、車を購入したほうが早く到着できるし、将来的に安く済む。
そうして購入した車は、青の四人乗り軽自動車だ。家族以外に特に乗せる人もいないし、大荷物を載せることもないだろう。ひまりたち三人家族には最適といえる。もっとも、この先この車では、家族全員が入りきらなくなる可能性もあるが。
高速道路を利用して、水族館までは大体一時間程度。
渋滞もあり二時間弱で辿り着いた水族館は、つい最近改修工事を終えたばかりらしく、ガラスのみの壁と、屋根には全てソーラーパネルが敷かれていた。地方には似合わない近代的なフォルムだ。
その上に先鋭的なモニュメントが幾つも立っている。
目を奪われつつ、水族館内部へと入っていく。
水族館なのだから、多分、凄いのはここからなのだろう。
水族館は地下にあった。外観は全て飾りでしかなかったらしい。地下なだけあって、外の暑さを忘れさせるくらいひんやりとしており、肌寒いくらいだった。
入館料は大人一人一五○○円、三歳までの乳児は無料とのことだった。
以前のひまりは、どうしてお金を払ってまで魚を見たいのだろうかと疑問に思っていた。魚群鑑賞が趣味の人にしては多い気がする。しかし家族を持ってようやく理解できた。そういう人もいるだろうが、別に魚を見たくて水族館に来ているわけではない。
つまりそれは、ひまりの大好きだった『非日常』なのだ。
穏やかな水族館は非日常で、日々の苦しいこと、辛いことを少しの間、忘れさせてくれる。そんな非日常の場所だから、人が多く訪れる。ひまりたちだって、家族で出かけるという非日常の時間を求めて水族館まで来たのだ。
だから今では、時間にお金を費やすことを無駄とは思わなくなった。
チケットを千切ってもらい、水族館の奥へと踏み入れる。
互いの表情すら曖昧にする薄暗い空間は、数種類もの魚群に囲まれており、幻想的だった。思わず感嘆の声が漏れる。ふと、美桜を見てみる。美桜は空に手を伸ばし、頭上の魚に触れようとしていた。
その手の先を視線で追うと、凛と目が合った。少しの間見つめ合って、小さく笑いあう。
表情は見えないけれど、ひまりたちが笑顔なのは間違いない。
道の両脇に巨大なカニや海外の小魚がいた。
「ねぇ見て」
水槽を指差して凛に声を掛けた。
美桜にも見えるように抱きかかえてから、凛は水槽に目をやる。
「ヒトデだ」と言うと、視線を水槽の下に移した。
「アカヒトデっていうらしいよ」
凛がヒトデに言及して、初めて存在に気づいた。
真っ赤なヒトデは水槽の底に張り付いて動かない。五つに分かれた身体は、五芒星を思わせる。ヒトデと言われたら、皆がこの形を思い浮かべるだろう。アカヒトデは、ヒトデのステレオタイプともいえる。
「本当に星みたいだね」
「そりゃ、スターフィッシュって言われるくらいだからね」
「へぇ、ヒトデって魚なんだ」
「いいや違うよ。何かって言われたら分からないけど」
水槽の下の紹介文に目を移す。そこにはヒトデについての基礎知識が書かれていた。
『アカヒトデ・棘皮(きょくひ)動物門ヒトデ綱』
ひまりには読み方が分からなかったが、とりあえず魚ではないことだけは理解できた。そんなことを知っていた凛が物知りに思えた。
それぞれの水槽をじっくりと時間をかけて見ていく。そうして進んでいくと、突然通路が開けた。
大水槽と呼ばれる、水族館を想像する時に一番に思い浮かべる、巨大な水槽が目の前にあった。エイやシマダイなどの大きな魚が優雅に泳いでいる。どこを見渡しても、魚がいないということはない。
そこは自分の知らない世界だった。さらに海は、ずっと深くまで未知の世界が広がっていると思うと、胸が高鳴った。
凄い、と自然と口から出た。
ゆっくりと味わって、たった百メートルの海中を進んでいく。
凛と美桜とひまりの三人で、静かな時間を過ごした。
大水槽エリアを抜けると地上へと繋がっていた。外にも展示があるのだろう。自動ドアが開くと、むわっとする暑さが入り込んでくるとともに、乾いた磯の匂いがした。
肌に纏わりつくような不快な暑さを堪えながら、外に出る。
通路に従って進むと、そこにはペンギンがいた。
まだ幼いペンギンは母親ペンギンの隣で、気持ちよさそうに眠っており、その様子を見守るように岩の上から覗き込むペンギンがいた。恐らく父親ペンギンだろう。
その姿が今の自分たちの姿と重なって、微笑ましい気持ちになる。
「私たちみたいだね」
美桜を抱きかかえて、ペンギンを見せている凛に声を掛けた。
「はみ出てるところが?」
凛は別なペンギンを見ていた。
ひまりたちは別にはみ出し者なんかではないはずなのだが、どうやら凛には違って見えていたらしい。
「私たちってはみ出し者なの?」
「いいや、昔の話。俺は不良の真似事みたいなことをしてたし、ひまりは……ほら」
「引きこもりだってこと?」
「うん」と、少し申し訳なさそうに笑った。
「昔の話だけどね。まぁ確かに、私たちはみ出し者同士だからこそ、仲良くなれたってのはあるかもね」
そう考えたら、何だか自分たちは出会うべくして出会ったように思えた。
そうしてここに美桜もいるのだから、それは運命の出会いに違いない。
生前も合わせた人生の中で、今が最も幸せな瞬間だ。そしてそれは未来にかけて、更新され続ける。ずっと、未来まで。
幸せは途切れることなく積みあがっていく。
かつて求めていた家族からの愛とは、そういうものなのだろう。
すると今まで当たり前に思えていた三人の家族が、奇跡であることに気づいた。
今がどれだけ幸せな環境であるかも。
出かけた言葉は喉で止まった。だって「今、幸せだね」なんて恥ずかしくて言えないから。
代わりに凛の手を優しく握った。
家族三人で見る景色は、たとえそれが世界の終わりだとしても、この目には美しく映るだろう。
ひまりたちは一度家に帰ってから、再びあの児童公園を訪れていた。
凛が「星を見よう」と言ったのだ。
湿った熱気が肌に張り付く。ギィギィと、夜にだけ鳴く虫の声と、蝉の声が入り混じっている。夏の夜を感じさせた。
空は雲が疎らに散っていて、晴れてはいるが、以前見たような美しい星空には届かない。それでも雲の隙間から、星がいくつか顔を出している。
そして何より、いつもと違うのは美桜がいること。ひまりの腕の中には、一日出かけて疲れ果てた美桜が、寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。
家族三人だ。幸せの時間。
それはひまりにとって、何よりも大切なもので、最も愛おしく感じるものだ。
それを味わうように、凛に肩を寄せた。
「あれがベガ、デネブ、アルタイルなんだ」突然口を開いた凛は、空を差しながら言った。
「また星座の話?」
少し面倒くさそうに、でも優しく言う。
「それが夏の大三角形なんだってさ」
知らなかったと、ひまりは相槌を打った。
空に大三角形を見つけ、眺めていると、横から流れてきた雲が星を隠した。デネブが隠れて、アルタイルとベガが取り残される。取り残されてしまったものだから、「私たちみたいだね」という言葉は喉奥に留めておくことにした。
「どれか一つでも欠けたら、大三角じゃあなくなっちゃうのかな?」
「どうだろう。よく分かんない。でも、少なくとも俺は、そうは思わないな」
「どうして?」
「そりゃ名目的には三つ揃って初めて大三角だけどさ、『離れてても心は一つ』みたいなやつがあると思うんだよ。だからもしアルタイルが消えても、あれは夏の大三角形に変わりはないんだ。ベガでもデネブでも同じ」
すると雲が流れ、デネブが顔を出した。
そうしてようやく言うことができた。
「私たちみたいだね」そう言ったあとに、夏の大三角が、と付け加える。
「そうだな」
凛は視線を空に向けたまま、頷いた。
たとえ離れ離れになることがあろうとも、三人は家族だ。それには変わりない。
「明日から仕事だから、帰ろうか」
「そうだね」
そう言って二人は立ち上がった。
美桜はまだ眠っていた。よほど疲れたのだろう。星空を見せてやりたかったなと思った。
惜しいけれど、また来ればいい。時間は貴重なもので、すぐに消え去ってしまうけれど、家族の絆は消えないのだから。
「また来ようね」
ひまりの言葉に、凛は目を細めて頷いた。
夜の闇の中でも輝いて見える、ひまりにとってのとびっきりの笑顔だった。
ありきたりな日常。いつもと変わらない日常。
それは手にある時には気づくことのできない奇跡の連続で、今という時間は更新され続ける奇跡の最先端に位置するものだ。
それゆえに気づかない。
だから当たり前を思わせる、日常なんて言葉を使ってしまう。奇跡であることに気づくことのできる人間は、それを失った人間のみだ。
やがて、私は絶望した。
美桜が熱を出した。
昨日歩き回った疲れからだろうか。聞いたこともないほど苦しそうな泣き声をあげたため、美桜の身体に異変が起きていると察知した。頭と頭を付けてみると、自分の体温の数倍もあるのではないかと思うくらいに熱かった。
「大丈夫そう?」
心配そうに凛が訊いた。
「まずそう。病院連れて行かないとかも」
「そんな酷いのか」
凛は心配そうな表情で、美桜の額に手を当てた。「本当だな」と頷く。
「どうしようか。私のママにお願いするのは……」
「ダメなのか?」
「ダメってことはないだろうけど、私の家族のことで巻き込むのが申し訳なくて」
「なら、俺が病院連れていくよ」
「え、大丈夫なの?」
「今日は特に楽な日なんだ。午前休んだところで問題ない」
「お願いできる?」
「頼ってくれ」と、凛は自信ありげに言った。
そんなこと言わなくても、いつも頼っているのに。ひまりは心の中でそう呟いた。
熱こそあるけれど、咳や嘔吐などの症状は見られない。熱中症ではないだろう。恐らくは水族館で風邪を貰ったか、疲労による発熱か。
しかしまだ二歳にも満たない子供が熱を出しているというのに、大丈夫だと家に置いておけるほどひまりは薄情ではない。大切な家族の一員なのだ。限りなく可能性は低いが、大病だったらどうする。
考え始めたらきりがない。
そんな心配を察知したのか、凛が「俺に任せて、仕事に行ってきなよ」と言う。
だから甘えて、というよりは信頼して、ひまりは職場に向かった。
その連絡が入ったのは、お昼寝の時間だった。
午後一時、昼食を取り終えた子供たちは一斉に眠りにつく。その頃に、ひまりはようやく昼食にありつけた。泣きわめく子供を抑えているうちに、昼食の時間が終わってしまい、食べることが出来なかったのだ。
午前に凛からのメールで、『美桜は何ともなかった』と知らされていたので、心置きなく仕事に集中することができた。
事務室に入り、自分のデスクに座る。隣には瑞穂先生もいて、弁当を食べていた。ひまりと一緒に、泣きわめく子供の相手をしていたのだ。
「お疲れ様です」
ひまりの言葉に、瑞穂先生は疲れたように会釈をした。
「いやぁ、大変だったね」
「ほんとですね」
「久々にあそこまでの相手した気がしたよ」
「私は初めてかもしれないです」笑って言った。
昼間泣きわめいていた子供は、結局、一時間ほど暴れまわっていた。子供とはいえ、大人が一人で抑えられるようなものではなかった。瑞穂先生と二人がかりで、ようやく止めることができた。子供の力も侮れない。
「でもまぁ、あそこまで元気だと逆に安心しますよね」
「泣かなかったり、怒んなかったり、喋んなかったりする子もいるしね。でも心を開いてもらってるって思えば、先生として嬉しいけどね。あぁ、ひまり先生のところの子供はどう?」
「まだ一歳過ぎだから、何とも言えませんけど。まぁよく泣きますね」
「うちの子供は、産まれた時に泣かなくて焦ったなぁ」
空を見て、思い返すように言った。
「あの時は私の心臓が止まるかと思ったよ」
その話を聞けば、美桜は健康に産まれてきたのかもしれない。出産のときに苦労することはなかったし、疾病を抱えることもなかった。大きなアレルギーの一つすら持たずに産まれたのだから、美桜は幸運だったのだろう。
瑞穂先生のような苦労話が思いつかなくて、少し申し訳ない気持ちになる。
「今はお子さん、どんなですか?」
「もうすぐ小五になるけど、クソ生意気だよ」
言動とは裏腹に、楽しそうに笑った。
「私のことは蹴るし、テストは見せてくれないし、そのくせいっちょ前に彼女だけは作っちゃって。心配だよ」
「反抗期ですね」
少し羨ましく思う。自分に反抗期が無かったため、その存在をよく知らない。しかし反抗期は成長の証でもある。いつか美桜が大きくなったときに、ほんの少しでもいいから反抗してほしい。ささやかなひまりの夢だった。
「でも、反抗期が来ると、なんか悲し――」
瑞穂先生の言葉を遮るように、ひまりのスマートフォンが鳴った。手に取ってみると、そこには『高木文乃』と書かれていた。母親からの着信だった。
誰も何も言っていないのに、何だか嫌な予感がした。何か、普通でない、と言っているようだった。
そもそも、ひまりが仕事をしている時間帯に電話をかけてくる時点で、緊急を要することは明らかだった。しかしスマートフォンの画面をスライドするのが怖くて、そのままデスクに伏せた。
「電話、いいの?」瑞穂先生が訊いた。
「今、仕事は特にないし、出なよ」
「……じゃあそうさせてもらいます」
その電話のマークを横にスライドすることで、憶測が事実になる気がして、怖かった。しかし瑞穂先生に言われた手前、着信拒否するわけにはいかなかった。
恐る恐る、電話のマークを右にスライドする。
「もしもし……?」
『あ、やっと出た』
電話越しの母親の声は、着信を鳴らし続けた割には酷く落ち着いていて、それが逆に不気味に思えた。まるで、現実ではないような。
「何かあった?」
『落ち着いて聞いてね。……凛くんと美桜が事故に遭って――』
その事実を聞いても、落ち着いていられる自分が怖かった。
*
――二○二四年、八月十一日
享年二十三歳、齋藤凛はこの世を去った。
享年一歳、齋藤美桜はこの世を去った。