保健室で制服を借りてから、ひまりは数週間ぶりに自教室の前に立つ。
 中からは賑やかな声が漏れ聞こえて、ひまりがその扉を開けるのを躊躇わせた。
 どれだけ待ってもその声が止むことはなく、引き返そうかと思っていると、唐突に肩を優しく叩かれた。
 驚いて身体を跳ねさせて、振り返った。
 そこには学級委員がいた。
「ひまりちゃん、今日いたんだ」
「あ、うん……」
 文化祭委員であるにも関わらず、無断欠席を続けたひまりを咎める様子はなかった。
 少しの沈黙が降りた。教室の中では皆が盛り上がっている。隣のクラスからははしゃぎすぎたのだろうか、微かに叱責の声が聞こえてきた。
「ごめんね」
 学級委員の声はほんの少し震えていた。
「私、あの時どうすればいいか分からなかった。嫌がってたのに、背中押しちゃったなって思って。ひまりちゃんは学校来なくなっちゃうし、凄く申し訳なかった。ごめん」
 深々と頭を下げた。背中まで伸びている長い髪が、だらんと垂れる。
「顔上げてよ」髪が垂れ、つむじが顔を出している頭に言った。「別に気にしてないよ。私が悪いんだから」
 学級委員は顔を上げて、いやいやと首を横に振って否定した。
「私が悪いの」
「私が悪かったんだよ」
 しばらく互いに謝り合ったが、埒が明かず、一旦話を置いておくことにする。
「私、これまでずっと何もしてこなかったから、片付けくらいは手伝いたい。何かできることはない?」
「そうだね。お化け屋敷の外装は剥がし終わって、段ボールが数学準備室に置いてあるから、それを持って行ってもらえると助かるかな」
「うん、分かった。ありがとう」
「ありがとうは私の方だよ」学級委員は微笑んだ。
 ひまりは数学準備室へと向かった。
 全てが良い方向へと向かっている気がした。

 数学準備室には、部屋を埋め尽くすほどの段ボールの山があった。
 重ねられておらず、乱雑に捨てられている。それらを一枚ずつ取り出し、七枚ほど重ねると丁度よさそうな量になった。
 段ボールは校舎裏の特殊ゴミ捨て場まで持って行かなければならない。
 一度外履きに履き替えなければならないため、多少面倒だが、自分から言い出したことであるため、面倒でもやり通す。
 初めは重たく感じていた段ボールも、持っているうちに慣れてきて、四往復したころにはスムーズに運び出しをできるようになった。
 そうして運んでいた時だった。
 校舎裏の特殊ゴミ捨て場で、段ボールを積み重ねていると、後ろに誰かの気配を感じた。
 ぞわりと肌を舐めまわされる感覚を、ひまりは良く知っている。
 恐る恐る振り返ると、そこには文化祭のために髪をセットした、自分に酔った表情をする船山がいた。
 途端、心音がドクンドクンと鳴り出す。
 気温によるものではない、嫌な寒気を感じて鳥肌が立った。
「ひまりちゃん、久しぶり」
 妙に生温い声で言った。
「ひ、久しぶりです……」
 船山はどんどんと近づいてくる。
 閉会式のスピーチが余程上手くいったのだろうか、自分に酔いしれているように見える。そんな彼を見ると、更に鳥肌が立つ。
 嫌がるひまりには目もくれず、ひまりの外面だけを見て近づいてくる。
「最近見なかったね。どうしたの? ゲロ吐いちゃったから、気まずかった?」
「い、いえ」
 ひまりは後退りをする。
 靴のかかとが積み重ねられた段ボールに当たり、一枚一枚が雪崩のように滑り落ちていった。
 地面には虚しく段ボールが広がる。
「どうしてそんなに後ろに下がるの?」
「それは……」
 ひまりの後退と、船山の一歩には大きく差があった。
 どれだけ後ろに下がろうとも、船山との距離は縮まる。
 やがてその手が互いに触れられる距離まで近づく。
 そして肩に、ゆっくりと船山の手が伸びてきた。
「――やめて!」
 その手を掃う。
 校内に声が響き渡った。
 やまびこのように、数回に分けて遠くから自分の声がした。
「……何だよ、それ」
 船山は初めて不機嫌を態度に出した。しかしそれは今までのどんな船山よりもずっと似合っていて、これこそが彼の本性なのだと悟る。
「どういうことだよ?」
 先程までの生温い声はなく、代わって現れたのは恫喝じみた、どすの効いた声だった。
 ひまりの身体は恐怖によって小刻みに震えていた。彼のどこに恐怖を感じているか分からないが、間違いなく言えるのはひまりは船山を恐れていること。
 生徒会長という立場上、暴力を振られないと分かっていても、怖いものは怖い。
 どうしても彼が恐ろしくて堪らない。
 一歩、また一歩と後退りをする。
 少しずつ、少しずつ。
 しかしそれにも限界が来た。
 背中には校舎壁があり、逃げる場所はもうない。戸惑っている間にも、船山はどんどんと近づいてくる。
 怖い。どうしよう。
 どうすればいい。
 彼が何か声を荒げて言っているが、ひまりにはもう聞き取る余裕なんてない。
 どうしようもなく彼が怖い。
 怖くて、怖くて堪らない。
 その場にしゃがみ込んで、耳を塞いだ。
 全てを遠ざけるように、その小さな腕で全身を覆った。
 視界が真っ暗になる。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 …………ねぇ。
 ……ねぇ。
 ねぇ!

「―――助けてよ!」

 甲高い声がした。
 最後の方は声が掠れて上手く出せなかった。
 先程とは異なり、やまびこは返ってこない。心からの声は虚しく、しゃがれてしまって声が遠くに届かなかった。
 恐怖と絶望で頭がいっぱいになり、何も考えられない。怖くて仕方がない。
 しかし、声は出ずとも、心の声は届いた。
「おい! 入ってくんじゃねぇよ!」
 船山の乱暴な声がした。それは誰かに向けての言葉だったのだが、返事は聞こえなかった。
 返事の代わりに感じたのは、温もり。
 決して他人を貶めるような悪意ではなく、誰かを支配しようとする我欲ではなく、確かに守ろうとする、大切に想う愛の温もり。
 その大きな身体からの温もりが、恐怖に怯え切ったひまりの身体を暖め、自らを守ろうとして作った氷を溶かしていく。
 恐怖で真っ暗になった視界は、次第に白みはじめる。
 やがて視界は開ける。
 そこも真っ暗だった。
 しかし異なるのは、確かな愛を感じるということ。
 彼の胸の中だった。
「不安にさせてごめんな」
 声が出ないのも同じだ。
 でも、恐怖と安心では、理由は正反対だ。
 安心して、声を出せなかった。
 でも、いいんだ。
 瞳に暖かなものを感じる。
 閉じた瞳からぽろぽろと溢れるのは、「ありがとう」。
「ありがとう」が溢れて止まらない。
 直前まで身体を支配していた恐怖は感謝へと変わり、ひまりの身体をそこに留めさせた。
 すると、視界が一気に明るくなる。
 そこには立ち上がって、手を差し伸べる凛の姿があった。
「さぁ、行こう」
 凛はいつになく屈託のない笑顔で言った。
 だからひまりも涙を拭って、これまでの人生のどんな時よりも屈託のない笑顔で、彼の手を取った。
 ひまりの身体は軽く、するりと引き上げられる。
 そして手を繋いだまま、凛とひまりは走り出した。
 顔に当たる風が気持ちいい。
 流れる涙を、風景を、嫌なことを全て置き去りにするように、ひまりたちは走った。
 野次馬の生徒たちからは、歓声や罵倒の声も聞こえた。
 そのさらに後ろからは、追いかけてきている船山の声も聞こえた。
 でも、そんなものはもう気にならなかった。
「ねぇ、凛!」
「何!」
「私たち、浮いちゃうことしちゃったね!」
「別にもういいだろ!」
「確かに。それはそうだね!」
 楽しそうに笑った。
 肺が痛い。
 痛くて堪らない。
 喉に空気が入り込んで、ひゅうひゅうと、聞いたことのない音を奏でている。
 きっともう彼らは追っては来てはいないだろう。
 でも、ひまりたちは走った。
 走りたかった。
「何か『青春』って感じだね!」
「何言ってんだよ!」
 凛は視線を向こうの空に向けた。
「まぁ、分からなくもないけどさ!」
 ふと、顔を見合わせる。
 二人の顔は、風の抵抗と疲労から見たこともないほど不細工になって、汗にまみれていた。折角の顔が台無しだった。
 でもそんな顔を、互いに笑い合った。
 やがて疲れて動けなくなっても、互いに笑い合った。

 しばらく走り、誰もいない児童公園に辿り着く。
 へとへとになりながら、何とか脆いベンチに腰かけた。座るとベンチが軋んだ。
 そうして二人で、傾き始めた秋の空を眺める。
 口は結んだまま、じんわりと時間は過ぎていく。
 まぁ、そんな時間も悪くはない。