学校に近づくと、まるで何かの野次馬かと思う騒音がした。
それは校内に流れている流行りの曲のメドレーで、それが校外にまで漏れ出ていたのだった。学校の敷地に入り、ようやくそれが文化祭によるものだと理解したが、その曲はひまりの知らないものばかりだった。
まるで他校を訪れたような感覚で校門を通る。
アニメやドラマで見るような、校庭に出し物がある派手な文化祭ではなく、校内だけに留まった、公立高校らしい文化祭だ。
それでも初めて見るひまりの目には、それらは全て新鮮に映った。
申し訳程度に風船で装飾された玄関を、二人でくぐる。その頃には二人の手は離れていた。
各々の下駄箱に向かい、うち履きに履き替えてから再び合流する。
校内は華やかに装飾されており、玄関前の掲示板には外部の来客用に、催し物の案内地図が掲載されていた。
二人はその前に立って、どんなものが出店されているかを見る。
「どれにしようか」
目線を地図に向けたまま、凛に訊いた。
地図にはクラスの催し物と、どこで開かれているのかが書かれている。ひまりのクラスが出しているお化け屋敷の他、クレープ屋、金魚すくい。スナックといった、無難なものから趣向を凝らしたものまで、様々だ。
「これなんかいいんじゃないか?」
「え、どれ?」
ひまりは無邪気な子供のように、身を乗り出して訊いた。
「これだよ、これ」と、凛は指を差して示した。
指先は体育館を差していて、そこは個人が申し出て見せ物をする、いわゆる文化祭のメインステージだった。
ひまりは密かにそれを見ることに、憧れを持っていたのだ。
「私、教えたっけ?」
「何が?」振り向いて言った。「何となく好きそうだから。だって結構そういう動画見てたじゃん」
「え、いつ?」
「バイトの休憩中さ、文化祭でダンス踊ってる高校生の動画、見てたよね?」
「見てる私を見てたの?」
「まぁ、そうかな」
「えぇ」
とは言いつつも、内心気遣って体育館に行こうと言ってくれたことに、喜びを感じた。
「さ、行くぞ」
凛は話を強引に打ち切って、ずかずかと手を引いて歩いた。
途中、クラスメイトとすれ違ったが彼女らはひまりには目もくれず、文化祭を楽しんでいた。記憶違いでなければ、ひまりが教室で嘔吐したとき、悪口を言っていた生徒のはずだが、ひ
まりには目もくれずに通り過ぎていった。
人目を気にしながら、手を握って歩く。
カップルだと羨ましそうに見つめる女子生徒や、青春だねぇと懐かしむどこかの中年女性の姿が見えた。
ひまりが思ったよりも、侮蔑の目は向けられていないことに気づく。
そうして辿り着いた体育館は、カーテンが閉め切られており、互いの顔がぼやけて見えるほど真っ暗だった。ステージだけがスポットライトのように照らされており、辛うじて足場が見えた。
人の隙間を縫って歩き、ようやく座ることができた。
ステージではどこかのクラスのお調子者が二人揃って、テレビで見たことのある漫才をしており、体育館は笑いに包まれていた。
テレビで見るその漫才は面白いと思うのに、彼らがする同じ漫才は、はっきり言って面白くはなかった。しかしこの会場には笑わせる何かがあるのだろう。
面白いとは思わなくても、「さぁ、壇上から笑ってください」という雰囲気を感じると、会場は笑いの渦に包まれた。
面白くなかったが、釣られて笑ってしまう。
これが文化祭なのだと感じ、ひまりは楽しんで心から笑うのだった。
実際に来てみればなんてことない。
しかし一人では絶対に来ることはできなかっただろう。
彼だからこそ、ひまりは立ち直ることができたのだ。
家族ではない、誰かの手が必要だった。
「秋村翔太」という、ひまりの根底にある人格は、誰かの手を借りなければ治療不可能なくらいに歪んでいた。
その根底にあったのは「人間不信」で、人を信じることができないからこそ、自分一人で抱え込んでしまう。挙句の果てに塞ぎこんでしまう。
両親の愛を知らずに育ったこの人格は、愛を受容する方法を知らなかった。
「高木ひまり」として生まれ変わることによって、暖かな家族の愛を知った。少しずつ、愛を受容する方法を知っていった。
しかし家族とは心の支えであっても、家族だからこそ届かないところがある。
それを外から支えてくれたのが齋藤凛だった。
だから今のひまりにとって、凛はまるで運命の人のように見えていたのだ。
いいや、もしかすると実際そうなのかもしれない。
運命なんて誰も知らない。知らないがゆえに、自分がそれだと思った相手を探そうとする。もしも彼が運命の定めた相手ではないとしても、ひまりとっての運命の人はひまりが決める。
彼をそんな風に思えるくらいには、ひまりは凛に感謝をしていた。
だって、こんな素晴らしい世界を見せてくれたのだから。彼といるだけで世界が広がっていくのだから。
それが運命の人でないというのなら、どうやって言葉にしようか。
まさか「好き」とでも言えというのだろうか。
もしそう言ったのなら、彼はどんな反応をするのだろう。
でも、それは言えない。
だってひまりは人殺しなのだから。
凛に知られたくない。知られる前に、どうにかしたい。
ひまりにはそんな秘密があるから。
文化祭を二人で回りつくした。
その頃には文化祭も終わろうとしていて、飲食系の店は撤退を始めていた。
二人は空き教室で休みつつ、文化祭の終わりのアナウンスを待っていた。
ややあって、生徒会によるアナウンスが入る。
『生徒会長の船山です。文化祭の閉会式を行いますので、午後三時に体育館に集合してください。服装は自由で構いませんが、スマートフォンなどの貴重品、電子機器類は窃盗の危険性があるため、必ず持参するようお願いします』
その声にひまりは身体を震わせた。
彼に対して、大きなトラウマを持っていた。
物音全てが遠く感じる。視界の端が歪み始める。身体の中を、ぐちゃぐちゃに搔きまわされる。心臓の鼓動が不規則に、しかし素早く刻まれていく。
「俺の手を握れ」
凛はひまりの両手を手繰り寄せ、胸の前で包み込んでいることをひまりに見せた。
「大丈夫。俺がいるから。安心しろ」
余計なことは言わずに、ただじっと、手を握っていてくれた。
しばらくそうしていると、心音が穏やかになっていき、呼吸も正常に戻っていった。視界も正常になり、身体の震えも収まっていく。
「大丈夫か?」
覗き込むように訊いた。
「うん、本当にありがとう」
「いいんだよ。これくらい」
その手は握られたままだった。
大きくて、少し乾燥していて、しかし確かに温もりの感じる彼の手。
もう少し具合の悪いままでいようかな。
文化祭の閉会式には出席しなかった。
別に出席をしなくても、恐らくは見つからない。二人は空き教室で、あのまま過ごしていた。
しばらくそうしていると、体育館の方から拍手が聞こえてきた。
この高校には、毎年文化祭の閉会式に、生徒会長によるスピーチがある。きっとそれが素晴らしかったのだろう。船山の人望は凄まじいものだ。
スピーチが終わると閉会宣言をし、そのまま文化祭の片づけが始まる。
凛はクラスの片づけに戻らなければならなかった。
「ひまりはここで待ってる?」
「どうしようかな。文化祭委員なのに休んだの申し訳ないから、本当は少しくらいは片付け手伝いたいんだけど、この格好じゃあね」羽織った緑のカーディガンを引っ張って言う。
「保健室行けば借りれるかも」
「そうなの?」
「確かあったはず。前借りたことあったから、女子のもあるんじゃないかな」
「分かった。行ってみる」
「大丈夫なのか?」
「多分ね。凛がそばにいると思えば怖くないよ」
凛は照れて顔をほんのりと朱色に染めた。
「まぁ、何かあったら二組に来いよ。俺のクラスは喫茶店だから、片付けすぐ終わるだろうし」
「うん、ありがとう」
保健室で制服を借りてから、ひまりは数週間ぶりに自教室の前に立つ。
中からは賑やかな声が漏れ聞こえて、ひまりがその扉を開けるのを躊躇わせた。
どれだけ待ってもその声が止むことはなく、引き返そうかと思っていると、唐突に肩を優しく叩かれた。
驚いて身体を跳ねさせて、振り返った。
そこには学級委員がいた。
「ひまりちゃん、今日いたんだ」
「あ、うん……」
文化祭委員であるにも関わらず、無断欠席を続けたひまりを咎める様子はなかった。
少しの沈黙が降りた。教室の中では皆が盛り上がっている。隣のクラスからははしゃぎすぎたのだろうか、微かに叱責の声が聞こえてきた。
「ごめんね」
学級委員の声はほんの少し震えていた。
「私、あの時どうすればいいか分からなかった。嫌がってたのに、背中押しちゃったなって思って。ひまりちゃんは学校来なくなっちゃうし、凄く申し訳なかった。ごめん」
深々と頭を下げた。背中まで伸びている長い髪が、だらんと垂れる。
「顔上げてよ」髪が垂れ、つむじが顔を出している頭に言った。「別に気にしてないよ。私が悪いんだから」
学級委員は顔を上げて、いやいやと首を横に振って否定した。
「私が悪いの」
「私が悪かったんだよ」
しばらく互いに謝り合ったが、埒が明かず、一旦話を置いておくことにする。
「私、これまでずっと何もしてこなかったから、片付けくらいは手伝いたい。何かできることはない?」
「そうだね。お化け屋敷の外装は剥がし終わって、段ボールが数学準備室に置いてあるから、それを持って行ってもらえると助かるかな」
「うん、分かった。ありがとう」
「ありがとうは私の方だよ」学級委員は微笑んだ。
ひまりは数学準備室へと向かった。
全てが良い方向へと向かっている気がした。
数学準備室には、部屋を埋め尽くすほどの段ボールの山があった。
重ねられておらず、乱雑に捨てられている。それらを一枚ずつ取り出し、七枚ほど重ねると丁度よさそうな量になった。
段ボールは校舎裏の特殊ゴミ捨て場まで持って行かなければならない。
一度外履きに履き替えなければならないため、多少面倒だが、自分から言い出したことであるため、面倒でもやり通す。
初めは重たく感じていた段ボールも、持っているうちに慣れてきて、四往復したころにはスムーズに運び出しをできるようになった。
そうして運んでいた時だった。
校舎裏の特殊ゴミ捨て場で、段ボールを積み重ねていると、後ろに誰かの気配を感じた。
ぞわりと肌を舐めまわされる感覚を、ひまりは良く知っている。
恐る恐る振り返ると、そこには文化祭のために髪をセットした、自分に酔った表情をする船山がいた。
途端、心音がドクンドクンと鳴り出す。
気温によるものではない、嫌な寒気を感じて鳥肌が立った。
「ひまりちゃん、久しぶり」
妙に生温い声で言った。
「ひ、久しぶりです……」
船山はどんどんと近づいてくる。
閉会式のスピーチが余程上手くいったのだろうか、自分に酔いしれているように見える。そんな彼を見ると、更に鳥肌が立つ。
嫌がるひまりには目もくれず、ひまりの外面だけを見て近づいてくる。
「最近見なかったね。どうしたの? ゲロ吐いちゃったから、気まずかった?」
「い、いえ」
ひまりは後退りをする。
靴のかかとが積み重ねられた段ボールに当たり、一枚一枚が雪崩のように滑り落ちていった。
地面には虚しく段ボールが広がる。
「どうしてそんなに後ろに下がるの?」
「それは……」
ひまりの後退と、船山の一歩には大きく差があった。
どれだけ後ろに下がろうとも、船山との距離は縮まる。
やがてその手が互いに触れられる距離まで近づく。
そして肩に、ゆっくりと船山の手が伸びてきた。
「――やめて!」
その手を掃う。
校内に声が響き渡った。
やまびこのように、数回に分けて遠くから自分の声がした。
「……何だよ、それ」
船山は初めて不機嫌を態度に出した。しかしそれは今までのどんな船山よりもずっと似合っていて、これこそが彼の本性なのだと悟る。
「どういうことだよ?」
先程までの生温い声はなく、代わって現れたのは恫喝じみた、どすの効いた声だった。
ひまりの身体は恐怖によって小刻みに震えていた。彼のどこに恐怖を感じているか分からないが、間違いなく言えるのはひまりは船山を恐れていること。
生徒会長という立場上、暴力を振られないと分かっていても、怖いものは怖い。
どうしても彼が恐ろしくて堪らない。
一歩、また一歩と後退りをする。
少しずつ、少しずつ。
しかしそれにも限界が来た。
背中には校舎壁があり、逃げる場所はもうない。戸惑っている間にも、船山はどんどんと近づいてくる。
怖い。どうしよう。
どうすればいい。
彼が何か声を荒げて言っているが、ひまりにはもう聞き取る余裕なんてない。
どうしようもなく彼が怖い。
怖くて、怖くて堪らない。
その場にしゃがみ込んで、耳を塞いだ。
全てを遠ざけるように、その小さな腕で全身を覆った。
視界が真っ暗になる。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
…………ねぇ。
……ねぇ。
ねぇ!
「―――助けてよ!」
甲高い声がした。
最後の方は声が掠れて上手く出せなかった。
先程とは異なり、やまびこは返ってこない。心からの声は虚しく、しゃがれてしまって声が遠くに届かなかった。
恐怖と絶望で頭がいっぱいになり、何も考えられない。怖くて仕方がない。
しかし、声は出ずとも、心の声は届いた。
「おい! 入ってくんじゃねぇよ!」
船山の乱暴な声がした。それは誰かに向けての言葉だったのだが、返事は聞こえなかった。
返事の代わりに感じたのは、温もり。
決して他人を貶めるような悪意ではなく、誰かを支配しようとする我欲ではなく、確かに守ろうとする、大切に想う愛の温もり。
その大きな身体からの温もりが、恐怖に怯え切ったひまりの身体を暖め、自らを守ろうとして作った氷を溶かしていく。
恐怖で真っ暗になった視界は、次第に白みはじめる。
やがて視界は開ける。
そこも真っ暗だった。
しかし異なるのは、確かな愛を感じるということ。
彼の胸の中だった。
「不安にさせてごめんな」
声が出ないのも同じだ。
でも、恐怖と安心では、理由は正反対だ。
安心して、声を出せなかった。
でも、いいんだ。
瞳に暖かなものを感じる。
閉じた瞳からぽろぽろと溢れるのは、「ありがとう」。
「ありがとう」が溢れて止まらない。
直前まで身体を支配していた恐怖は感謝へと変わり、ひまりの身体をそこに留めさせた。
すると、視界が一気に明るくなる。
そこには立ち上がって、手を差し伸べる凛の姿があった。
「さぁ、行こう」
凛はいつになく屈託のない笑顔で言った。
だからひまりも涙を拭って、これまでの人生のどんな時よりも屈託のない笑顔で、彼の手を取った。
ひまりの身体は軽く、するりと引き上げられる。
そして手を繋いだまま、凛とひまりは走り出した。
顔に当たる風が気持ちいい。
流れる涙を、風景を、嫌なことを全て置き去りにするように、ひまりたちは走った。
野次馬の生徒たちからは、歓声や罵倒の声も聞こえた。
そのさらに後ろからは、追いかけてきている船山の声も聞こえた。
でも、そんなものはもう気にならなかった。
「ねぇ、凛!」
「何!」
「私たち、浮いちゃうことしちゃったね!」
「別にもういいだろ!」
「確かに。それはそうだね!」
楽しそうに笑った。
肺が痛い。
痛くて堪らない。
喉に空気が入り込んで、ひゅうひゅうと、聞いたことのない音を奏でている。
きっともう彼らは追っては来てはいないだろう。
でも、ひまりたちは走った。
走りたかった。
「何か『青春』って感じだね!」
「何言ってんだよ!」
凛は視線を向こうの空に向けた。
「まぁ、分からなくもないけどさ!」
ふと、顔を見合わせる。
二人の顔は、風の抵抗と疲労から見たこともないほど不細工になって、汗にまみれていた。折角の顔が台無しだった。
でもそんな顔を、互いに笑い合った。
やがて疲れて動けなくなっても、互いに笑い合った。
しばらく走り、誰もいない児童公園に辿り着く。
へとへとになりながら、何とか脆いベンチに腰かけた。座るとベンチが軋んだ。
そうして二人で、傾き始めた秋の空を眺める。
口は結んだまま、じんわりと時間は過ぎていく。
まぁ、そんな時間も悪くはない。
日が沈みきった。
月は欠け、普段とは異なる夜だった。服の上に一枚羽織りたいくらいには肌寒いが、昼間は雲一つなかったため、空一面に星々が煌めいている。これ以上ない星月夜だった。
すると今まで黙っていた凛が、口を開いた。
「あれが夏の大三角形なのかな」
西の空を指差して言う。
「夏の大三角形って、夏にしか見えないんじゃないの?」
「でもさ、ほら。見てみろよ」
「どれのこと?」
ほらと指を差されてても、その先には幾つもの星が輝いていて、どれのことを言っているのか分からない。
「あそこと、あそこと、あそこ。ほら、夏の大三角形」
指で空に描いて説明したが伝わらない。三角形は彼の頭の中だけに形成されていた。
「星なんてどれも一緒だよ。夏の大三角形なんてこじつけだと思うな」
「そんなこと言ったら星座全部こじつけになるぞ」
「そうだよ。星座なんて全部こじつけだよ」
「夢ねぇな」と、小さく笑う。
そして凛は一度、ベンチに座りなおした。咳払いをし、背筋を伸ばして、制服の皴を整えた。これから何かをしようというのが分かる。
「……なぁ、ひまり。話があるんだ」
わざわざ顔を向けて言ったからには、言うべきことがあるのだろう。その表情はいつになく真剣で、心なしか身体が少し震えているように見えた。
凛が何を考えているか、ひまりにはよく分かった。
ひまりも、同じことを考えていたから、
「俺と――」
「――ねぇ、凛」
だからこそ、彼よりも大きな声でその先の言葉を遮った。もし聞いてしまったら、もう二度と戻ることが出来ないと思ったから。
「凛、本当に聞いて欲しい話があるの」
凛は驚いた表情を見せた後、すぐに真剣な表情へと変えた。
それは同じ告白だ。
しかし罪の。
「今から話すことは全て本当の話。私は凛に絶対に嘘をつかない。嘘も誇張もなしに、ありのままの体験を話す。……聞いてくれる?」
「……それくらい大事な事なんだろ?」
うん、と頷いた。
どうして彼に言おうと思ったのだろう。それはきっと、彼だからだ。
生まれ変わってもう十六年が経過しようとしているが、今まで誰にも言ってこなかった。勿論、家族にも。一人の時だって、一言たりとも口に出したことは無い。
ずっと、抱え込んできた。
でももう、いいんじゃないか。そう思った。
だってひまりにはこんなに素敵な人がいるから。これから話すことを受け止めてくれるか分からないけれど、これ以上ないほど惹かれてしまった。
彼にはひまりという人物を知っていて欲しい。
彼だから、知っていて欲しい。
本当の私を。
「私ね、人を殺したことがあるの――」
*
そんな衝撃的な話の始まりにも、口を挟むことなく聞いてくれた。
自分が「秋村翔太」だということ。親父はどうしようもないクズだったこと。そのクズを殺めてしまったこと。引きこもっていたのは人殺しによる罪悪感からだということ、それを言い訳にして、自分は何も出来ない人間だと思い込んでいたこと。
他、その全てを伝えた。全部、余すことなく。
「……そ、そのうえで、さっきの言葉の続き、言える?」
自分でも驚くほど、その言葉を言うのが躊躇われた。それはきっと凛に嫌われたくないという心の表れなのだろう。
そして凛がすぐに言葉を紡がなかったから、つまり拒否されたのだと、ひまりは諦めたように微笑んだ。しかし、
「……それでも。俺は、凛が好きなんだ。だからさ、俺と、俺と付き合ってください!」
頭を下げて、手を差し出しながら言った。
想定外だった。あまりにも流れるように言うものだから、ひまりの頬は紅潮していく。自分でも分かるくらいに頬が熱い。そんな真っ赤になった頬を、夜の闇が隠した。
顔を下に向けている凛も、顔を真っ赤にしているのだろうか。
「付き合う……こんな人殺しの私と? 一人じゃ何もできない私と? 家から出られない私と?」
「そうだ。俺はひまりと付き合いたい」
「どうして?」
「好きだから」
「……何で好きなの?」
「そりゃ、惹かれたから」
「なんで惹かれたの?」
「……ひまりはもしかして、付き合いたくないの?」
しばらく黙った。
遠くの方で鳥が鳴いた。公園の後ろの道を、原付が通り過ぎる。
「…………付き合いたい」俯いて、小さく呟いた。「ずるい」と小さく付け加える。意地悪、とも。
すると身体を、文化祭の時に感じた温もりが包み込んだ。ひまりもゆっくりと、凛の背中へと手を回す。そのままじっと動かない。
「……俺たち、カップル成立だな」
「普通のカップルは、絶対にそんな事言わない」
顔を見て、笑いあった。
「あーあ。折角のロマンチックな雰囲気が、凛のせいで台無し」
「別にいいじゃん。これから先があるんだし。そういうのはこれから作ってけばいいんだよ」
「まぁそうだね」
抱擁を解く。
そして再びベンチに、並ぶように座る。
どちらからでもなく、互いから手を握ろうとした。視線は空に向けたまま、しばらく指でじゃれあった後、ゆっくりと手を繋いだ。
「これからゆっくりと時間をかけて、二人で過ごしていけばいいんだよ」
確かにそうだと、心の中で頷く。
凛の瞳は、未来を見据えていた。
真似するようにひまりも、凛との未来を描いてみる。幸せな未来。
「……なんか、いいね」
彼にはきっと、この言葉の意図は伝わっていない。
けれど夜空を見たまま、幸せそうに笑うのだから、凛との未来はきっといいものになると思えた。
あぁ、そうだ。きっといいものになるに違いない。
ひまりはその手を、ぎゅっと握りしめた。
彼もまた、ひまりの手をぎゅっと握り返した。
以前、人生の幸福の形は何かと、短大の講義で問われたことがある。
その講義は多くの学生が受講していて、ひまりが回答をする機会は回ってこなかったが、自分の回答を思いつかなかったため、当時のひまりは喜んだ。
当てられた生徒は皆、「結婚」や「自由」など、当たり障りのないことばかりをずらずらと並べた。そんな様子を見て、さらにひまりは頭の中で回答に悩むことになる。
幸福の形は皆が同じはずはない。しかし、明確な答えがあるとも思えない。
一体、自分にとって「人生の幸福」とは何なのだろうか。
あれから二年ほどが経過した今も、ひまりには答えらしい答えが思いつかなかった。
二〇一八年、三月。ひまりは高校を卒業した。
同年、四月。ひまりは短期大学へと進学した。
二〇二○年、三月。ひまりは短期大学を卒業した。
ひまりは私立保育園に就職した。
「おはようございます」
元気のいい挨拶とともに、事務室の扉を開く。
ひまりの挨拶に反応するように、挨拶が返ってくる。元気だったり気だるげだったり、多種多様だ。
ひまりは自分のロッカーを開け、鞄を収納し、ハンガーにコートをかける。春になったとはいえ、帰宅する頃には外は冷えている。コートはまだまだ必要だ。コートの下には制服を着ており、着替える必要はない。そのまま自分のデスクへと向かい、腰を掛ける。
「おはようございます」
隣に座っていた瑞穂先生が改めて挨拶をした。ひまりも同じように返す。
「仕事には慣れた?」
「まぁまぁですね」
「そっか」と、瑞穂先生はコーヒーをひまりに手渡しながら言った。
瑞穂先生は、新卒採用でまだ右も左も分からないひまりに対して色々なことを教えてくれる優しい先生だ。そのためひまりも瑞穂先生のことを好意的に思っている。
時間は午前七時過ぎ。まだ子供たちの来る時間ではない。
しかし先生には朝早くからやることが多い。清掃から掲示物の作成や、プリントの作成など、事務的なものから実用的なものまでを全て保育園の先生がこなす。
よく保育業界はブラックだと聞くが、実際に自らも入ってみて、本当にその通りだと思う。しかしやりがいがある。好きだからこそやっていけるのだろう。
ひまりが保育士になろうと思ったのは、灯花の影響だ。
高校三年の時、進路を定めなければならなくなった。今までの人生は引きこもってばかりで、将来のことは考えたことはあっても、具体的な進路を考えたことはなかった。
困ったことに専門学校の生徒が進学が決定し始める八月になっても、進学か就職か、おおよその進路先すら決まらなかった。
時間は流れて、皆は進路を決めていく。内山さんの勧めもあって、一応進学することにはしたのだが、将来の指針がおおよそでも決まっていなければどうしようもなく、ひまりは一向に受験に専念することができなかった。
とはいえ、所詮ひまりの学力では受験できる大学は限られており、今から勉強をして間に合うほど、大学受験は甘くない。
そうして進路に悩んでいたとき、その悩みを忘れたくて灯花とじゃれて遊んでいた。ふと、この子は将来こんな風に悩むのだろうかと思った。その時、ひまりの中で何かがはまった感覚があった。
自分のような人生を辿ってほしくない。かつての自分のようにどうしようもない寂しさを抱える子がいても、家族ではない誰かが支えてあげればいいのではと思った。
高校や中学、小学校の教員を目指さなかったのは、学力のためだ。
ひまりが進路を決めたのは、十二月。その頃にはもう大学進学志望の中でも、クラスで数人が推薦によって進路を決めていた。
しかし何となく進路を決めたわけではなく、心の底から保育士になりたいと思ったため、自分でも驚くくらいに受験勉強に打ち込めた。
たった数か月ではあるが、毎日が勉強漬けになった。その結果、最後の最後、後期入試で合格できた。
そんな誰よりも濃密な時間を経ての今がある。
瑞穂先生はそんなひまりの経歴を聞いて、今の時代にこんなにもやる気のある人に出会えて嬉しいと、ひまりを可愛がってくれるようになった。
「そういえばさ、大学生の彼とはいい感じ?」
瑞穂先生はにやにやと口角を上げて訊いた。
その問いに釣られてもう一人の中年の先生も、棚の向こうから顔を覗かせる。
「特に変わってないです。週に数回、休日とかに会う程度ですよ」
するとさらに隣のデスクの先生が、会話に入るように「それはハラスメントじゃないですかー?」と言う。
確かに瑞穂先生のしていることは、世間でいう一種のハラスメントにあたるのかもしれない。近年の風潮的には良くないことだろう。しかし友人がほとんどいないひまりにとって、寂しいことではあるが、唯一の惚気る機会になっている。
本人が大丈夫と言えば大丈夫なのだ。
「私が好んでやっていることなんで大丈夫ですよ」
しかし彼女は「いや、ハラスメントはハラスメントなんです。大体の人がそう言うんです」と、ひまりの言うことを頑なに信じようとしない。
社会にはこういう人もいるのだと、いい勉強になる。
決して口に出すことはないが、ひまりは彼女のことが嫌いだ。秘密は得意なので、きっと漏らすことはないだろう。
すると更に年上の先生が現れて、仕切るように手を叩いた。
「おはようございます!」皆と同じように、ひまりも挨拶を返す。
今日も一日が始まる。
職場の保育園は、家から徒歩二十分ほどの場所にある。
車で通勤するには近すぎる距離ではあるが、徒歩で通勤するには少し遠い。悩んだ末に結局徒歩で通勤することにした。健康のために歩くのも悪くないと思ったからだ。
街灯が切れかかっている夜道を歩く。お化けが出そうで怖い。
徒歩二十分の帰路は一時間に感じる。疲労で足取りが重たくなっているのもあるが、それよりも夜道が怖いのだ。
すぐそこの電柱から得体の知れぬものが現れてもおかしくない。背後から誰かが覗いていてもおかしくない。自分の足音にさえ恐怖を抱く。
そうして家に到着する頃には、仕事で減らされた体力とは別の体力が削られている。
玄関の扉を開くと「おかえり!」と灯花が出迎えてくれた。頭を撫でて「おかえり」と言うと、えへへと嬉しそうに笑う。
今年で七歳になり、小学校の入学を考え始める頃だ。毎日見ているのに、大きくなったなぁと感慨深く思う。
それから母親の作った料理を頂く。その頃に丁度内山さんが帰宅をする。
今まで感じなかった、家に帰るとご飯があるありがたさと、毎日懸命にお金を稼いでくれた内山さんの苦労が、今頃になってようやく理解できた。
つまり、社会人とはこういうことなのだと。
これから振り込まれるであろう初任給の額を見て、内山さんの凄さが身に染みて分かる。それと同時に、母親がこの人と再婚して良かったなとも思う。
本当に恵まれた。
だからこそ恩返しをしたい。
どんな形であれ、これまで育ててくれた二人に。
働くようになってそう常々思うようになった。
そんな風に考えていると、一日が終わる。毎日が充実していて、家に引きこもっていたあの頃には、絶対に感じることのできない喜びだ。
ふと、あの問いのことを思い出す。人生の幸福の形は様々で、まだその答えが分からないが、少なくとも今の生活に幸福を感じているのは確かだ。
誰かのために生きていくことが、私にとっての人生の幸福の形かもしれないと、ひまりは思い始めていた。
春は新たな季節の到来を感じさせる。
先週まで満開だった桜が散り始め、風が花びらをどこかへ運ぶ。地面の半分を桃色の花びらが覆っている。そこを歩くと、花びらが少し動き、今まで隠れていた地面がひょいと顔を出す。
そんな光景に春を感じながら、ひまりは駅を目指していた。
一時間に一本のバスに乗り、揺られること二十分。数年前に改装したばかりの綺麗な駅に到着した。その向こうには、現在建設中の病院が見える。
せわしなく聞こえる重機の音で、あの高い建造物は人間の手で作られているのだと実感する。
駅の時計を見て、時間を確認する。『九時二十八分』。待ち合わせより十二分前に到着したらしい。まだ彼の姿は見えないので、時間を潰そうとコンビニへ向かう。
並んでいるペットボトルから吟味して、お茶を手に取る。そして同じものをもう一本、手に取った。これは彼の分だ。
電子決済を済ませ、駅の小さなホームに戻ると、丁度向こうから歩いてくる凛の姿を発見した。ひまりは笑って手を振り、凛に近づく。
すると凛も気づいたようで、小さく格好つけたように小さく手を挙げて、ひまりのもとへと向かってきた。
「おはよう」
「おはよう。悪い、待たせたか?」少しばかり申し訳なさそうな表情をする。
「ううん、今来たとこ」
少し嘘をついてみた。ほんの少しの気遣いだった。
「よかった」
申し訳なさそうな表情は、安堵の表情へと変わった。
「さ、行こっか」と言って手を繋ぐ。
どうやら今日は、ひまりが先導する日らしい。
一時間ほど電車に揺られて到着したのは、百貨店や服屋などが幾つも立ち並ぶ商業施設だ。
そんなところに何をしに来たかと言えば、デートだ。
付き合ったのが高校一年の秋で、今が二十歳の春。およそ四年の付き合いだ。毎週のように顔を合わせている二人だが、どこかへ出かけるということはあまりしない。
ひまりは顔を合わせるだけでも十分良かったのだが、凛がカップルらしいことをやりたいと言うので今日はここに来た。
初めに映画を見て、それから互いの服を購入した。
一般的なカップルがどんなデートをしているかはよく分からないが、見かけたカップルは皆腕を組み、幸せそうな表情をしていたので二人も真似をして腕を組んで歩いてみた。
四年が経過しても、まだまだ初々しい。
腕を伝って彼の心臓の鼓動が聞こえる気がした。それと同時に、自分の心音も彼に伝わっているのではないかと不安になる。
恥ずかしさのあまり、気づけば二人は黙って歩いていた。
ひまりたちはきっとどんなカップルよりも仲はいいが、それ以上先には進んでいない。だからこその初々しさではあるのだろう。
あまりにも初々し過ぎるのは、自覚していた。
デートは終始緊張して、よく覚えていない。しかし楽しかったことだけは覚えている。
両手いっぱいの荷物を持ち、再び電車に一時間ほど揺られて帰宅する。
その頃には空は真っ暗になっていた。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
暗い夜道を二人で歩いた。
仕事帰りの夜道は怖いのに、二人でいれば怖くない。黙っている時間でも、そんな時間こそが愛おしく感じた。
「そうだ、少し寄って行かないか?」
「別にいいけど、どこに行くの?」
「大丈夫。変な所には連れて行かないから」
「なら、大丈夫かな」
そうして連れていかれたのは、見覚えのある児童公園だった。
あの時よりも随分と色褪せてしまったように見える。しかし置かれている遊具やベンチは今も変わらずにそこにある。
ここはひまりが、凛から告白の受けた公園だ。
ひまりたちはあの日のように、ベンチに腰を下ろした。そこから見える風景も、何一つとして変わりない。町は変わっていない。
しかし自分たちだけは変わってしまったのだと、否応なしに叩きつけられた。
ひまりは保育士になり、凛は大学三年生になった。自分たちはもう子供ではなく、大人にならなければならない。
空を見上げる。
昼間とは異なり、空は雲一つ見えない。月の大きな夜だった。
「大三角形は見えるかな?」凛が訊いた。
「夏のやつは流石に見えないでしょ」
「そっか」と、空を見たまま笑った。
「北斗七星とか見えるんじゃない?」
「あれは冬の星座だよ」
へぇと頷いた。
それから知りもしない星座について語り合った。
しばらくそうしていて、時間はあっという間に過ぎていく。
「ねぇ、凛」
「どうした?」
「提案なんだけどさ」そう前置きしたうえで、ひまりは言った。
「――私たち、結婚しようか」
風が吹く。
たった一つの電灯に照らされた桜の花びらが、ひらりと膝元に舞い落ちた。
「お金は二人合わせればどうにかなる。結婚式は挙げなくてもいい。私は凛と、もっと同じ時間を過ごしたい。二人でずっといたい」
向こうの景色を見たまま言った。
そこにはおどけた雰囲気なんて一切なく、真剣なひまりの表情は未来を見据えていた。彼との二人の未来を。
「ねぇ、駄目かな」
「……正直言って、めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいけど、でもまだ俺たちにはまだ早いんじゃないか」
「そうかな。結婚すれば二人の時間も増えると思う。私は凛と、これからもずっと一緒にいたい。二人だけの帰る場所が欲しい。帰ってきて、『おかえり』って言って欲しい」
凛は空を見上げた顔を下ろして、視線を地面にやった。
「俺はさ。これから先の人生でひまり以上の人には出会えないと思う。だからこそ、大切にしたい。もっと時間をかけてもいいんじゃないか」
それはそうかもしれない。ひまりは結婚を急いでいるのかもしれない。
しかし結婚相手は彼以外に考えられないし。それは未来でも変わらないだろう。それならば今結婚したところで別に構わないではないか。
そして何より、結婚することで親を安心させたいと思っていた。
「凛は、私意外と結婚するつもりは無いんだよね。お金の事とかは分かっている。でも、結婚したいの」
「俺たち二人じゃあまだ何もできないんじゃないか」
「それでも私は、凛と二人でいたい。家族になりたいの!」
少し張り上げた声が、児童公園にこだました。
「俺たちは世間からみればまだまだ子供だ。俺は責任を取れる自信がまだ芽生えてない。それに家族を養えていける自信がない」
少し沈黙が降りた。そしてひまりがねぇ、と強気に言った。
「ちょっと待ってよ。凛だけが責任を負わなくちゃいけないと思ってない?」
え、と言う凛に更に言葉を重ねる。
「責任ってのはさ、私たちが二人で分け合うもんじゃないの? 養うとか養えないとかじゃない。男だからとかいい。女だからとかはいい。関係ない。確かに結婚は大変だよ? でも責任が凛だけに掛かると思ってない? 私は凛と二人で人生を歩んでいきたい。責任も幸せも、ずっとずっと半分こにしたいの」
想いを伝えると、凛は時間をくれと言って、黙った。そしてわかった、と言った。
「確かにその通りだ。責任は俺だけが負うものじゃない。それに俺はひまりと生きていきたい。これから先も。好きになる人はたった一人だろうな」
だから、と言う。
「うん。結婚しようか」
ひまりは口に手を当てて、目を潤ませる。
「ありがとう」
ひまりは心の底から言った。
学生結婚をするということ、遊ぶことが出来なくなるというのに、それに目もくれず首肯した凛は、ひまりに一途なのだと理解した。
「プロポーズとか指輪とか。改めて俺からやらせてくれ。男なんだからさ」
「そんな時代遅れな事言わなくていいよ。それに、私は凛と一緒にいたいだけなんだから。指輪とかはあってもなくてもいいよ。二人でいられるならさ」
ひまりの部屋と同じような六畳半くらいの部屋で、二人で暮らす。きっと想像したよりもずっと不便ではあるだろうが、そんな切り詰める生活も悪くない。
顔を見合って、微笑んだ。凛も微笑み返す。
それから付き合った日のように、互いの手に手を重ね合って、それから指を絡ませた。
自分たちは大人になった。けれど町の風景は変わらない。
それは当たり前のことで、皆が経験することだ。きっと自分たちの身体だけは大人になっても、しかし心はまだまだ若い。
四年が経過した今でも二人の愛の新鮮さは色褪せない。
大人にならなければならないのに、心はいつまでも若いままで。
しかし歳だけは勝手に重なっていく。
だけどそれはそれで、二人にとってはいいことなのかもしれない。
こんなにも愛し合うことができているのだから。
目と目が合った。一瞬、恥ずかしそうに視線を外したのを、ひまりは見逃さなかった。
触れられる距離まで、顔を近づける。
体温や息遣いが肌で感じられるほど、彼は目の前にいる。
瞳を閉じた。
ひまりの唇に優しく、彼の唇が触れる。
その日、二人は初めて唇を重ねた。
どんなキスよりも忘れられないものになると、この幸福感が告げていた。