次の日も、その次の日も凛は家に来た。
彼は学校を休んでくる日もあれば、放課後に来る日もあった。
鈍感なふりをせずにはっきり言うと、凛はきっと自分のことが好きなのだと思う。だからこうして連日家に訪れてくれるのだろう。
ひまりは別に凛に好意を抱いているつもりは無かった。しかし彼といる時間は心地いいし、家族とは異なる気楽さがある。
きっとはみ出し者同士、心が通じるのだろう。
そんなある日のこと、秋雨が降る日だった。
妙に冷えて冬を近くに感じていると、いつもよりも少し遅い時間にインターホンが鳴った。家主の返答が来る前に玄関を開け、「こんにちは」と大きな声で言う。
ひまりはリビングにいたが、その声を聞くとすぐに玄関へと向かった。
初めはどこかうっとおしく思っていたが、今では凛が来ることを一つの楽しみとしていた。引きこもりのひまりにとっては、話し相手になってくれる凛がありがたかった。
玄関に行き、慣れたように「お疲れ」と言う。
凛もまた、慣れたように「お疲れ」と返した。
凛はびしょ濡れの傘を畳んで、高木家の傘と混同しないように靴棚に立てかけた。それから、いつものように「お邪魔します」と言って、そのままひまりの部屋へと向かう。
少し遅れて「どうぞー」と母親の声がしたが、その時にはもう階段を登り終えていて凛には声が届かなかった。
そんな彼の後を追って、ひまりも自室へと向かう。
部屋に入った凛は、まるで自分の家のように横になってくつろいでいる。凛が家に来るようになってから二週間ほどしか経過してないが、まるでずっと前から暮らしていたようだ。
ひまりはいつものようにベッドに腰かける。後ろに手をつき、体重をかけて楽な姿勢を取る。
しばらくいつものように、他愛のない話で盛り上がった。
その後、凛が姿勢を正した。ひまりは何かするのではないかと身構えたが、彼が告げたのは全くもって単純な事だった。
「月末、一緒に文化祭回らないか?」
もうそんな時期かと思った。文化祭委員はどうなっているだろうか。
正直言って回りたい。しかし今の自分にはそれができないだけの理由がある。
凛にはひまりの拒絶反応について言ったことはなかったが、しかし今までの会話から、何となく察していてもおかしくはない。
それなのに誘ってくれた。一体凛は何を考えているのだろうかと、不思議に思った。そんな彼が次第におかしく思えてきて、思わず吹き出してしまった。
「何だよ。おかしなことでも言ったか?」
ひまりは笑いの余韻を残して言う。
「いや、本当にデリカシーない人だなって」
「うるせぇ、何も考えつかなかったんだよ」
視線を逸らし、口を尖らせて言う。
「別にいいんだけどね」と、彼に合わせて笑いながら言った。
「まぁ、その誘いは嬉しかったよ。でも外出るの怖いしさ、一人で楽しんできてよ」
「いいや。俺は当日迎えに来る。行かないって言っても、無理やり連れていく」
「それは困るなぁ」と、笑って言った。
本当にそれをされたら困ったどころの話ではない。最悪の場合、文化祭色で染められた校舎を、ひまりの吐瀉物で汚してしまう可能性がある。船山に触れられたときのように。
どれだけ見たいものがあろうと、その可能性がある限りは学校に行くのは怖い。
ただ少し、灯花の年頃の少女のように、淡い期待を抱いた。
文化祭当日に凛が現れて、自分を学校まで手を引いて連れて行ってくれる。彼が連れ出したことによって、ひまりは恐怖を抱かなくなる。それは魔法のような夢だ。
でも少しくらい、魔法に期待してもいいのではないか。
どうせただの取るに足らない妄想だ。
どんなに壮大な妄想を広げても、誰も咎めやしないのだから。
文化祭の日がやってきた。
気づかなかったのだが、どうやら思った以上に自分は凛が来てくれることに期待しているらしい。心の奥に、むず痒い感覚を覚えた。
いつもよりも一時間ほど早く目覚めたひまりは、カーテンの向こうから漏れる光から、まだ空に日が昇りきっていないことに気づいた。
軋むベッドから身体を起こし、久しぶりにカーテンの向こうを覗いてみる。右に見える秋村家は視界に入らないよう、左の空を見た。
淡い水色と朱色が混ざった空は、今が早朝だということを示している。今日の文化祭は雨が降らなそうだ。自分には関係ないことのはずなのに、どこか安堵を覚えた。
少しだけ開いたカーテンを再び閉める。
それからベッドに入り、また眠りにつこうとしたが、意識はずっと現実にいたままだった。
身体が眠ろうとはしてくれず、そのままベッドから立ち上がった。
まだ皆が眠っている家を一人で歩いてみる。今までずっと引きこもり生活を続けてきたが、夜中に目覚めることはあっても、早朝に目覚めることはあまりなかった。
階段を下ると、家の中ではあるが早朝の新鮮な空気を感じる。
そのすぐ先には玄関がある。
もしも今日、八時頃に彼が来て、この手を取って文化祭に連れて言ってくれるのなら、きっと自分は嬉しさに舞い上がってしまうだろう。
この玄関の向こうに連れて行ってくれるのなら。
少し浮き立つ心を抑えて、リビングへと向かった。そしてそのままソファに寝転んだ。
自分は平常心であると言い聞かせるため、いつも家で過ごしている時間と変わらない動きをした。つもりだったが、早く目覚めたことが何より期待している証拠だと言うことに、ひまりは気づかなかった。
騒がしい声で目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしく、家族の声がした。今日は休日だから、父親の声もした。
体を起こして、家族におはようと言う。両親からはおはようと返ってきて、灯花からは元気のいい「こんにちは」が返ってきた。
「朝だから『おはよう』だよ」
朝だからとは言ったものの、今の時間がよく分からない。
テレビから朝のバラエティ番組の音声が聞こえていたので、そちらに目を向ける。そこにはタレントが食レポをする姿が映し出されており、その上には『八時四十分』と表記されていた。
……今の時間が「おはよう」かどうだとか、どうでもよくなった。
その時間はホームルームが終わる時間で、一限の準備の時間でもある。今日に限っては詳しく知らないが、始業の時間が遅くなることは決してないだろう。
つまり、ひまりは凛に嘘をつかれたのだ。
「ねぇねぇ」と健気に身体を揺する灯花がうっとおしく思えて、ソファの背もたれ側に向けて、再び身体を倒した。
「朝ごはん、食べないの?」と言う母親にも、「要らない」と、冷たく言った。
裏切られた気分だった。
いや、初めから凛は冗談を言っていたのかもしれないが、それでも少しくらい自分に都合のいい夢を見てみたかった。
しかし凛は来なかった。
そんな現実から目を背けるように、ひまりは再び目を瞑る。
眠りになんて、つけるはずがなかった。
眠ったふりをしていると、インターホンが聞こえた。
あの音は否応なしに意識が向けられてしまうため嫌いだった。インターホンに応じるため、内山さんが玄関に向かう。
目を開いた一瞬を逃すまいと、灯花が耳元までやってきて、大きな声で「おはよう!」と言う。目を覚まさざるを得なくなり、ひまりは煩わしそうに身体を起こした。
テレビ番組は先程と同じように流れており、時間表示を見てみれば『九時三十二分』と表記されていた。
今頃は文化祭が始まっているだろう。しかし自分には関係のないことだ。
不満をぶつけるように、手前にいた灯花の髪をくしゃくしゃにしてやると、灯花はいつも以上に喜んだ。
遅めの朝ご飯でも食べようかと、母親のいるキッチンへと向かおうとすると、リビングの入口から顔を覗かせる内山さんに呼び止められた。
「ひまりちゃんにお客さんだってさ」
「えっ?」
想定外の一言に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
もしもクラスメイトだったら断ってもらおう。いいや、そもそも学校の生徒がこの時間に来るはずがない。なにせ今は文化祭が催されているのだから。
そうなると尚更、来客者に心当たりがなかった。
「その人って、どんな人?」
「齋藤君って言ってたよ」
その言葉の意味を理解できないまま、ひまりは玄関へと向かった。
そこにいたのは、アルバイト先でよく見る男の子で、ひまりが引きこもっていた間、唯一心配をしてくれて、家まで来てくれた男の子だった。
「よ」と、凛はいつも通り軽い挨拶をした。
ひまりは挨拶を返さずに、そのまま凛の元へと向かう。
「なんでいるの?」
「そりゃあ約束したし」
「でも今の時間って、文化祭始まってるんじゃ」
「だから迎えに来たんだよ」
その言葉の意味が理解できず、ひまりは言葉を発することを忘れてしまった。
「俺はひまりと二人で文化祭を回りたいんだ」
そう言って、凛はひまりに手を差し伸べた。その姿はまるで舞踏会にて「一緒に踊りませんか」と誘う王子様のように見えた。
ひまりは驚いて言葉を失いながらも、その手をゆっくりと掴む。
掴んだ手を握られ、ひまりは凛の顔を見た。彼が顔を真っ赤にして恥ずかしそうな顔をしていたから、急に今の状況が恥ずかしいものだと感じてしまい、自分の顔まで真っ赤になる。
「あ、その格好じゃ文化祭行けないから、着替えてきて」
折角のロマンチックな雰囲気をぶち壊す凛の言葉にきょとんとしながらも、その言葉が何だか馬鹿らしく思えて、ひまりは声に出して笑った。
そんなひまりを見て、凛も同じように笑う。
緊張が解けて、凛はお客様として誘ってくれたのだと気づく。
そして、自分は心の支柱が欲しかったのだと気づいた。家族以外の誰かを欲していたのだ。学校という社会で一人ぼっちで頑張ってきた。でも、もう見栄を張るのは限界だった。
彼と一緒なら、そのままの自分を曝け出せる気がする。
もしも自分の罪を問われている感覚に陥り、自らを拒絶してしまっても、彼がいるだけで「大丈夫」と支えてもらえる気がする。
彼と一緒なら、私は決して取り繕わない、「高木ひまり」として生きていける気がする。
彼と一緒なら、私は私であれる気がする。
彼と一緒なら、私はこの先の人生を真っ当に生きていける気がする。
随分と使い古された表現だけれども――彼こそが運命の人だと思った。
秋晴れの町を、手を繋いで歩いた。
休日に凛は制服で、ひまりは私服で歩いていたから異質に見えたのだろう。すれ違う人の大半はひまりたちのことを横目で見たり、場合によっては二度見をしたりした。
その中には恐らく偏見によって蔑みの目を向けている人もいたが、凛が傍にいると思うと、不思議と平気だった。拒絶反応を起こすことは無かった。
隣にいる凛が、まさに心の支えとなってくれた。
しばらく歩いていると、視線を向けられることにも慣れてきた。
周囲の細かな所に注目できるようになって、自分たちが手を繋いでいたことに気づいた。
まるで恋人のようではないか。
そう思うと、顔に血が昇っていくのが分かった。自分では見えないが、きっと顔は真っ赤になっているだろう。
隣にいる凛に顔を見せることができない。こっそりと横目で彼を見る。
凛もひまりと同じで恥ずかしそうにして、しかしそれを隠そうとして表情を取り繕っていた。無駄に真面目そうな顔をする彼が、いつもの彼らしくなくて何だか笑えた。
「ん、どうした?」
ひまりが笑うと、凛がようやく顔を向けてくれた。
「いや、何か私たち、恋人みたいだねって思った」笑いながら言った。
「確かに。そう見えるかもな」
「そう見えるのも悪くないんじゃない?」からかうように言ってみた。
ひまりとしては、普段、強気な凛へのドッキリみたいなものだった。
しかし凛が急に黙ってしまうものだから、その言葉を肯定しているように感じてしまう。
「……まぁ、それもそうかもね」
顔を逸らして、呟くように言った。
二人はまた、黙ってしまう。気まずい空気が流れる。
学校への道のりはまだ遠い。しかしその時間が短く感じた。
秋の町に落ち葉が舞う。青春の香りがした。
学校に近づくと、まるで何かの野次馬かと思う騒音がした。
それは校内に流れている流行りの曲のメドレーで、それが校外にまで漏れ出ていたのだった。学校の敷地に入り、ようやくそれが文化祭によるものだと理解したが、その曲はひまりの知らないものばかりだった。
まるで他校を訪れたような感覚で校門を通る。
アニメやドラマで見るような、校庭に出し物がある派手な文化祭ではなく、校内だけに留まった、公立高校らしい文化祭だ。
それでも初めて見るひまりの目には、それらは全て新鮮に映った。
申し訳程度に風船で装飾された玄関を、二人でくぐる。その頃には二人の手は離れていた。
各々の下駄箱に向かい、うち履きに履き替えてから再び合流する。
校内は華やかに装飾されており、玄関前の掲示板には外部の来客用に、催し物の案内地図が掲載されていた。
二人はその前に立って、どんなものが出店されているかを見る。
「どれにしようか」
目線を地図に向けたまま、凛に訊いた。
地図にはクラスの催し物と、どこで開かれているのかが書かれている。ひまりのクラスが出しているお化け屋敷の他、クレープ屋、金魚すくい。スナックといった、無難なものから趣向を凝らしたものまで、様々だ。
「これなんかいいんじゃないか?」
「え、どれ?」
ひまりは無邪気な子供のように、身を乗り出して訊いた。
「これだよ、これ」と、凛は指を差して示した。
指先は体育館を差していて、そこは個人が申し出て見せ物をする、いわゆる文化祭のメインステージだった。
ひまりは密かにそれを見ることに、憧れを持っていたのだ。
「私、教えたっけ?」
「何が?」振り向いて言った。「何となく好きそうだから。だって結構そういう動画見てたじゃん」
「え、いつ?」
「バイトの休憩中さ、文化祭でダンス踊ってる高校生の動画、見てたよね?」
「見てる私を見てたの?」
「まぁ、そうかな」
「えぇ」
とは言いつつも、内心気遣って体育館に行こうと言ってくれたことに、喜びを感じた。
「さ、行くぞ」
凛は話を強引に打ち切って、ずかずかと手を引いて歩いた。
途中、クラスメイトとすれ違ったが彼女らはひまりには目もくれず、文化祭を楽しんでいた。記憶違いでなければ、ひまりが教室で嘔吐したとき、悪口を言っていた生徒のはずだが、ひ
まりには目もくれずに通り過ぎていった。
人目を気にしながら、手を握って歩く。
カップルだと羨ましそうに見つめる女子生徒や、青春だねぇと懐かしむどこかの中年女性の姿が見えた。
ひまりが思ったよりも、侮蔑の目は向けられていないことに気づく。
そうして辿り着いた体育館は、カーテンが閉め切られており、互いの顔がぼやけて見えるほど真っ暗だった。ステージだけがスポットライトのように照らされており、辛うじて足場が見えた。
人の隙間を縫って歩き、ようやく座ることができた。
ステージではどこかのクラスのお調子者が二人揃って、テレビで見たことのある漫才をしており、体育館は笑いに包まれていた。
テレビで見るその漫才は面白いと思うのに、彼らがする同じ漫才は、はっきり言って面白くはなかった。しかしこの会場には笑わせる何かがあるのだろう。
面白いとは思わなくても、「さぁ、壇上から笑ってください」という雰囲気を感じると、会場は笑いの渦に包まれた。
面白くなかったが、釣られて笑ってしまう。
これが文化祭なのだと感じ、ひまりは楽しんで心から笑うのだった。
実際に来てみればなんてことない。
しかし一人では絶対に来ることはできなかっただろう。
彼だからこそ、ひまりは立ち直ることができたのだ。
家族ではない、誰かの手が必要だった。
「秋村翔太」という、ひまりの根底にある人格は、誰かの手を借りなければ治療不可能なくらいに歪んでいた。
その根底にあったのは「人間不信」で、人を信じることができないからこそ、自分一人で抱え込んでしまう。挙句の果てに塞ぎこんでしまう。
両親の愛を知らずに育ったこの人格は、愛を受容する方法を知らなかった。
「高木ひまり」として生まれ変わることによって、暖かな家族の愛を知った。少しずつ、愛を受容する方法を知っていった。
しかし家族とは心の支えであっても、家族だからこそ届かないところがある。
それを外から支えてくれたのが齋藤凛だった。
だから今のひまりにとって、凛はまるで運命の人のように見えていたのだ。
いいや、もしかすると実際そうなのかもしれない。
運命なんて誰も知らない。知らないがゆえに、自分がそれだと思った相手を探そうとする。もしも彼が運命の定めた相手ではないとしても、ひまりとっての運命の人はひまりが決める。
彼をそんな風に思えるくらいには、ひまりは凛に感謝をしていた。
だって、こんな素晴らしい世界を見せてくれたのだから。彼といるだけで世界が広がっていくのだから。
それが運命の人でないというのなら、どうやって言葉にしようか。
まさか「好き」とでも言えというのだろうか。
もしそう言ったのなら、彼はどんな反応をするのだろう。
でも、それは言えない。
だってひまりは人殺しなのだから。
凛に知られたくない。知られる前に、どうにかしたい。
ひまりにはそんな秘密があるから。
文化祭を二人で回りつくした。
その頃には文化祭も終わろうとしていて、飲食系の店は撤退を始めていた。
二人は空き教室で休みつつ、文化祭の終わりのアナウンスを待っていた。
ややあって、生徒会によるアナウンスが入る。
『生徒会長の船山です。文化祭の閉会式を行いますので、午後三時に体育館に集合してください。服装は自由で構いませんが、スマートフォンなどの貴重品、電子機器類は窃盗の危険性があるため、必ず持参するようお願いします』
その声にひまりは身体を震わせた。
彼に対して、大きなトラウマを持っていた。
物音全てが遠く感じる。視界の端が歪み始める。身体の中を、ぐちゃぐちゃに搔きまわされる。心臓の鼓動が不規則に、しかし素早く刻まれていく。
「俺の手を握れ」
凛はひまりの両手を手繰り寄せ、胸の前で包み込んでいることをひまりに見せた。
「大丈夫。俺がいるから。安心しろ」
余計なことは言わずに、ただじっと、手を握っていてくれた。
しばらくそうしていると、心音が穏やかになっていき、呼吸も正常に戻っていった。視界も正常になり、身体の震えも収まっていく。
「大丈夫か?」
覗き込むように訊いた。
「うん、本当にありがとう」
「いいんだよ。これくらい」
その手は握られたままだった。
大きくて、少し乾燥していて、しかし確かに温もりの感じる彼の手。
もう少し具合の悪いままでいようかな。
文化祭の閉会式には出席しなかった。
別に出席をしなくても、恐らくは見つからない。二人は空き教室で、あのまま過ごしていた。
しばらくそうしていると、体育館の方から拍手が聞こえてきた。
この高校には、毎年文化祭の閉会式に、生徒会長によるスピーチがある。きっとそれが素晴らしかったのだろう。船山の人望は凄まじいものだ。
スピーチが終わると閉会宣言をし、そのまま文化祭の片づけが始まる。
凛はクラスの片づけに戻らなければならなかった。
「ひまりはここで待ってる?」
「どうしようかな。文化祭委員なのに休んだの申し訳ないから、本当は少しくらいは片付け手伝いたいんだけど、この格好じゃあね」羽織った緑のカーディガンを引っ張って言う。
「保健室行けば借りれるかも」
「そうなの?」
「確かあったはず。前借りたことあったから、女子のもあるんじゃないかな」
「分かった。行ってみる」
「大丈夫なのか?」
「多分ね。凛がそばにいると思えば怖くないよ」
凛は照れて顔をほんのりと朱色に染めた。
「まぁ、何かあったら二組に来いよ。俺のクラスは喫茶店だから、片付けすぐ終わるだろうし」
「うん、ありがとう」
保健室で制服を借りてから、ひまりは数週間ぶりに自教室の前に立つ。
中からは賑やかな声が漏れ聞こえて、ひまりがその扉を開けるのを躊躇わせた。
どれだけ待ってもその声が止むことはなく、引き返そうかと思っていると、唐突に肩を優しく叩かれた。
驚いて身体を跳ねさせて、振り返った。
そこには学級委員がいた。
「ひまりちゃん、今日いたんだ」
「あ、うん……」
文化祭委員であるにも関わらず、無断欠席を続けたひまりを咎める様子はなかった。
少しの沈黙が降りた。教室の中では皆が盛り上がっている。隣のクラスからははしゃぎすぎたのだろうか、微かに叱責の声が聞こえてきた。
「ごめんね」
学級委員の声はほんの少し震えていた。
「私、あの時どうすればいいか分からなかった。嫌がってたのに、背中押しちゃったなって思って。ひまりちゃんは学校来なくなっちゃうし、凄く申し訳なかった。ごめん」
深々と頭を下げた。背中まで伸びている長い髪が、だらんと垂れる。
「顔上げてよ」髪が垂れ、つむじが顔を出している頭に言った。「別に気にしてないよ。私が悪いんだから」
学級委員は顔を上げて、いやいやと首を横に振って否定した。
「私が悪いの」
「私が悪かったんだよ」
しばらく互いに謝り合ったが、埒が明かず、一旦話を置いておくことにする。
「私、これまでずっと何もしてこなかったから、片付けくらいは手伝いたい。何かできることはない?」
「そうだね。お化け屋敷の外装は剥がし終わって、段ボールが数学準備室に置いてあるから、それを持って行ってもらえると助かるかな」
「うん、分かった。ありがとう」
「ありがとうは私の方だよ」学級委員は微笑んだ。
ひまりは数学準備室へと向かった。
全てが良い方向へと向かっている気がした。
数学準備室には、部屋を埋め尽くすほどの段ボールの山があった。
重ねられておらず、乱雑に捨てられている。それらを一枚ずつ取り出し、七枚ほど重ねると丁度よさそうな量になった。
段ボールは校舎裏の特殊ゴミ捨て場まで持って行かなければならない。
一度外履きに履き替えなければならないため、多少面倒だが、自分から言い出したことであるため、面倒でもやり通す。
初めは重たく感じていた段ボールも、持っているうちに慣れてきて、四往復したころにはスムーズに運び出しをできるようになった。
そうして運んでいた時だった。
校舎裏の特殊ゴミ捨て場で、段ボールを積み重ねていると、後ろに誰かの気配を感じた。
ぞわりと肌を舐めまわされる感覚を、ひまりは良く知っている。
恐る恐る振り返ると、そこには文化祭のために髪をセットした、自分に酔った表情をする船山がいた。
途端、心音がドクンドクンと鳴り出す。
気温によるものではない、嫌な寒気を感じて鳥肌が立った。
「ひまりちゃん、久しぶり」
妙に生温い声で言った。
「ひ、久しぶりです……」
船山はどんどんと近づいてくる。
閉会式のスピーチが余程上手くいったのだろうか、自分に酔いしれているように見える。そんな彼を見ると、更に鳥肌が立つ。
嫌がるひまりには目もくれず、ひまりの外面だけを見て近づいてくる。
「最近見なかったね。どうしたの? ゲロ吐いちゃったから、気まずかった?」
「い、いえ」
ひまりは後退りをする。
靴のかかとが積み重ねられた段ボールに当たり、一枚一枚が雪崩のように滑り落ちていった。
地面には虚しく段ボールが広がる。
「どうしてそんなに後ろに下がるの?」
「それは……」
ひまりの後退と、船山の一歩には大きく差があった。
どれだけ後ろに下がろうとも、船山との距離は縮まる。
やがてその手が互いに触れられる距離まで近づく。
そして肩に、ゆっくりと船山の手が伸びてきた。
「――やめて!」
その手を掃う。
校内に声が響き渡った。
やまびこのように、数回に分けて遠くから自分の声がした。
「……何だよ、それ」
船山は初めて不機嫌を態度に出した。しかしそれは今までのどんな船山よりもずっと似合っていて、これこそが彼の本性なのだと悟る。
「どういうことだよ?」
先程までの生温い声はなく、代わって現れたのは恫喝じみた、どすの効いた声だった。
ひまりの身体は恐怖によって小刻みに震えていた。彼のどこに恐怖を感じているか分からないが、間違いなく言えるのはひまりは船山を恐れていること。
生徒会長という立場上、暴力を振られないと分かっていても、怖いものは怖い。
どうしても彼が恐ろしくて堪らない。
一歩、また一歩と後退りをする。
少しずつ、少しずつ。
しかしそれにも限界が来た。
背中には校舎壁があり、逃げる場所はもうない。戸惑っている間にも、船山はどんどんと近づいてくる。
怖い。どうしよう。
どうすればいい。
彼が何か声を荒げて言っているが、ひまりにはもう聞き取る余裕なんてない。
どうしようもなく彼が怖い。
怖くて、怖くて堪らない。
その場にしゃがみ込んで、耳を塞いだ。
全てを遠ざけるように、その小さな腕で全身を覆った。
視界が真っ暗になる。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
…………ねぇ。
……ねぇ。
ねぇ!
「―――助けてよ!」
甲高い声がした。
最後の方は声が掠れて上手く出せなかった。
先程とは異なり、やまびこは返ってこない。心からの声は虚しく、しゃがれてしまって声が遠くに届かなかった。
恐怖と絶望で頭がいっぱいになり、何も考えられない。怖くて仕方がない。
しかし、声は出ずとも、心の声は届いた。
「おい! 入ってくんじゃねぇよ!」
船山の乱暴な声がした。それは誰かに向けての言葉だったのだが、返事は聞こえなかった。
返事の代わりに感じたのは、温もり。
決して他人を貶めるような悪意ではなく、誰かを支配しようとする我欲ではなく、確かに守ろうとする、大切に想う愛の温もり。
その大きな身体からの温もりが、恐怖に怯え切ったひまりの身体を暖め、自らを守ろうとして作った氷を溶かしていく。
恐怖で真っ暗になった視界は、次第に白みはじめる。
やがて視界は開ける。
そこも真っ暗だった。
しかし異なるのは、確かな愛を感じるということ。
彼の胸の中だった。
「不安にさせてごめんな」
声が出ないのも同じだ。
でも、恐怖と安心では、理由は正反対だ。
安心して、声を出せなかった。
でも、いいんだ。
瞳に暖かなものを感じる。
閉じた瞳からぽろぽろと溢れるのは、「ありがとう」。
「ありがとう」が溢れて止まらない。
直前まで身体を支配していた恐怖は感謝へと変わり、ひまりの身体をそこに留めさせた。
すると、視界が一気に明るくなる。
そこには立ち上がって、手を差し伸べる凛の姿があった。
「さぁ、行こう」
凛はいつになく屈託のない笑顔で言った。
だからひまりも涙を拭って、これまでの人生のどんな時よりも屈託のない笑顔で、彼の手を取った。
ひまりの身体は軽く、するりと引き上げられる。
そして手を繋いだまま、凛とひまりは走り出した。
顔に当たる風が気持ちいい。
流れる涙を、風景を、嫌なことを全て置き去りにするように、ひまりたちは走った。
野次馬の生徒たちからは、歓声や罵倒の声も聞こえた。
そのさらに後ろからは、追いかけてきている船山の声も聞こえた。
でも、そんなものはもう気にならなかった。
「ねぇ、凛!」
「何!」
「私たち、浮いちゃうことしちゃったね!」
「別にもういいだろ!」
「確かに。それはそうだね!」
楽しそうに笑った。
肺が痛い。
痛くて堪らない。
喉に空気が入り込んで、ひゅうひゅうと、聞いたことのない音を奏でている。
きっともう彼らは追っては来てはいないだろう。
でも、ひまりたちは走った。
走りたかった。
「何か『青春』って感じだね!」
「何言ってんだよ!」
凛は視線を向こうの空に向けた。
「まぁ、分からなくもないけどさ!」
ふと、顔を見合わせる。
二人の顔は、風の抵抗と疲労から見たこともないほど不細工になって、汗にまみれていた。折角の顔が台無しだった。
でもそんな顔を、互いに笑い合った。
やがて疲れて動けなくなっても、互いに笑い合った。
しばらく走り、誰もいない児童公園に辿り着く。
へとへとになりながら、何とか脆いベンチに腰かけた。座るとベンチが軋んだ。
そうして二人で、傾き始めた秋の空を眺める。
口は結んだまま、じんわりと時間は過ぎていく。
まぁ、そんな時間も悪くはない。
日が沈みきった。
月は欠け、普段とは異なる夜だった。服の上に一枚羽織りたいくらいには肌寒いが、昼間は雲一つなかったため、空一面に星々が煌めいている。これ以上ない星月夜だった。
すると今まで黙っていた凛が、口を開いた。
「あれが夏の大三角形なのかな」
西の空を指差して言う。
「夏の大三角形って、夏にしか見えないんじゃないの?」
「でもさ、ほら。見てみろよ」
「どれのこと?」
ほらと指を差されてても、その先には幾つもの星が輝いていて、どれのことを言っているのか分からない。
「あそこと、あそこと、あそこ。ほら、夏の大三角形」
指で空に描いて説明したが伝わらない。三角形は彼の頭の中だけに形成されていた。
「星なんてどれも一緒だよ。夏の大三角形なんてこじつけだと思うな」
「そんなこと言ったら星座全部こじつけになるぞ」
「そうだよ。星座なんて全部こじつけだよ」
「夢ねぇな」と、小さく笑う。
そして凛は一度、ベンチに座りなおした。咳払いをし、背筋を伸ばして、制服の皴を整えた。これから何かをしようというのが分かる。
「……なぁ、ひまり。話があるんだ」
わざわざ顔を向けて言ったからには、言うべきことがあるのだろう。その表情はいつになく真剣で、心なしか身体が少し震えているように見えた。
凛が何を考えているか、ひまりにはよく分かった。
ひまりも、同じことを考えていたから、
「俺と――」
「――ねぇ、凛」
だからこそ、彼よりも大きな声でその先の言葉を遮った。もし聞いてしまったら、もう二度と戻ることが出来ないと思ったから。
「凛、本当に聞いて欲しい話があるの」
凛は驚いた表情を見せた後、すぐに真剣な表情へと変えた。
それは同じ告白だ。
しかし罪の。
「今から話すことは全て本当の話。私は凛に絶対に嘘をつかない。嘘も誇張もなしに、ありのままの体験を話す。……聞いてくれる?」
「……それくらい大事な事なんだろ?」
うん、と頷いた。
どうして彼に言おうと思ったのだろう。それはきっと、彼だからだ。
生まれ変わってもう十六年が経過しようとしているが、今まで誰にも言ってこなかった。勿論、家族にも。一人の時だって、一言たりとも口に出したことは無い。
ずっと、抱え込んできた。
でももう、いいんじゃないか。そう思った。
だってひまりにはこんなに素敵な人がいるから。これから話すことを受け止めてくれるか分からないけれど、これ以上ないほど惹かれてしまった。
彼にはひまりという人物を知っていて欲しい。
彼だから、知っていて欲しい。
本当の私を。
「私ね、人を殺したことがあるの――」
*
そんな衝撃的な話の始まりにも、口を挟むことなく聞いてくれた。
自分が「秋村翔太」だということ。親父はどうしようもないクズだったこと。そのクズを殺めてしまったこと。引きこもっていたのは人殺しによる罪悪感からだということ、それを言い訳にして、自分は何も出来ない人間だと思い込んでいたこと。
他、その全てを伝えた。全部、余すことなく。
「……そ、そのうえで、さっきの言葉の続き、言える?」
自分でも驚くほど、その言葉を言うのが躊躇われた。それはきっと凛に嫌われたくないという心の表れなのだろう。
そして凛がすぐに言葉を紡がなかったから、つまり拒否されたのだと、ひまりは諦めたように微笑んだ。しかし、
「……それでも。俺は、凛が好きなんだ。だからさ、俺と、俺と付き合ってください!」
頭を下げて、手を差し出しながら言った。
想定外だった。あまりにも流れるように言うものだから、ひまりの頬は紅潮していく。自分でも分かるくらいに頬が熱い。そんな真っ赤になった頬を、夜の闇が隠した。
顔を下に向けている凛も、顔を真っ赤にしているのだろうか。
「付き合う……こんな人殺しの私と? 一人じゃ何もできない私と? 家から出られない私と?」
「そうだ。俺はひまりと付き合いたい」
「どうして?」
「好きだから」
「……何で好きなの?」
「そりゃ、惹かれたから」
「なんで惹かれたの?」
「……ひまりはもしかして、付き合いたくないの?」
しばらく黙った。
遠くの方で鳥が鳴いた。公園の後ろの道を、原付が通り過ぎる。
「…………付き合いたい」俯いて、小さく呟いた。「ずるい」と小さく付け加える。意地悪、とも。
すると身体を、文化祭の時に感じた温もりが包み込んだ。ひまりもゆっくりと、凛の背中へと手を回す。そのままじっと動かない。
「……俺たち、カップル成立だな」
「普通のカップルは、絶対にそんな事言わない」
顔を見て、笑いあった。
「あーあ。折角のロマンチックな雰囲気が、凛のせいで台無し」
「別にいいじゃん。これから先があるんだし。そういうのはこれから作ってけばいいんだよ」
「まぁそうだね」
抱擁を解く。
そして再びベンチに、並ぶように座る。
どちらからでもなく、互いから手を握ろうとした。視線は空に向けたまま、しばらく指でじゃれあった後、ゆっくりと手を繋いだ。
「これからゆっくりと時間をかけて、二人で過ごしていけばいいんだよ」
確かにそうだと、心の中で頷く。
凛の瞳は、未来を見据えていた。
真似するようにひまりも、凛との未来を描いてみる。幸せな未来。
「……なんか、いいね」
彼にはきっと、この言葉の意図は伝わっていない。
けれど夜空を見たまま、幸せそうに笑うのだから、凛との未来はきっといいものになると思えた。
あぁ、そうだ。きっといいものになるに違いない。
ひまりはその手を、ぎゅっと握りしめた。
彼もまた、ひまりの手をぎゅっと握り返した。
以前、人生の幸福の形は何かと、短大の講義で問われたことがある。
その講義は多くの学生が受講していて、ひまりが回答をする機会は回ってこなかったが、自分の回答を思いつかなかったため、当時のひまりは喜んだ。
当てられた生徒は皆、「結婚」や「自由」など、当たり障りのないことばかりをずらずらと並べた。そんな様子を見て、さらにひまりは頭の中で回答に悩むことになる。
幸福の形は皆が同じはずはない。しかし、明確な答えがあるとも思えない。
一体、自分にとって「人生の幸福」とは何なのだろうか。
あれから二年ほどが経過した今も、ひまりには答えらしい答えが思いつかなかった。
二〇一八年、三月。ひまりは高校を卒業した。
同年、四月。ひまりは短期大学へと進学した。
二〇二○年、三月。ひまりは短期大学を卒業した。
ひまりは私立保育園に就職した。