簡単な事ではなかった。
たった一枚壁を隔てた向こう側に、つい二日前まで自分はいた。
しかし今は、その壁の向こうが怖い。カーテンを開ければ誰かが見ている気がして、どうしようもなく不安に襲われる。
自分でもどうしてこうなるのか分からない。だからこそ怖い。自分が変わる瞬間を知ってしまったから、何も考えていなかった時間にはもう戻れないのだと思ってしまう。
アルバイト先には母親に頼んで、長期の休暇を取ってもらった。彼らは皆優しい人で、負担を増やしてしまうことは物凄く申し訳なかったが、今の自分と触れ合うことで彼らを傷つけるよりはましだと考えた。
中学時代、家に引きこもっていた時は読書ばかりをして時間を潰していた。
しかし今はそんな気も起きない。ただ受け身になって観ることのできる、テレビ番組や動画サイトしか視界に入れられなかった。もっとも、その情報は一切頭に入ってくることはないのだが。
家には母親と灯花がいたから、一人ぼっちで寂しさを感じることは少なかった。それでもどこかへ出かける時は、ひまりは人に恐怖を抱いているため、家に取り残される。そうすると、孤独感に襲われる。
今もそうだった。一人の時間が早く終わるように願って、ひまりはソファでテレビ番組に目線を向けていた。しかし耳はその音を取り入れていない。
ただ流れる映像をその瞳に移しているだけ。
もし画面の向こうにいるタレントが唐突に家に来たのなら、自分はまたあの時のように吐いてしまうのだろうか。なんて番組とは全く関係ない不思議なことを考えている。
すると玄関の扉が開いた。母親たちが帰ってきたのだろう。ソファから起き上がらなかったが、内心喜んだ。
ややあって、どたどたと足音が家中に響いた。そのあとに、母親の窘めるような声が聞こえた。そんな二人の姿を音から想像して、ひまりは微笑んだ。
すると足音がどんどん近づいてきた。十秒もしないうちに、寝転がっていたひまりの上には、灯花が乗っていた。
「お姉ちゃん!」
「おかえり」
「ただいま!」
灯花は元気よく言った。
二歳と半年が経過して、随分と大きくなった。日々お腹の上に乗る灯花の体重も増加しているのが分かる。少しだが重たく感じた。
ひまりは灯花のことを持ち上げると、そのまま体を起こしてソファに座った。そして灯花をたかいたかいしてあげる。
灯花は笑って喜んだ。五回ほどして二の腕の筋肉がぴりぴりと痛んできたので、灯花をソファの上に降ろす。
「えー、もっとやってよー」
「腕が痛いからまた後でね」
「前はもっとやってくれたじゃん」
「灯花が重くなったからだよ」
「えー」
口を膨らませて不満を露わにする。そんな愛らしい表情を見ていると、もう一度たかいたかいをしてあげたくなってしまう。しかし二の腕が悲鳴を上げていて、どう頑張っても出来そうにはない。
「ごめんね」と頭を撫でる。すると灯花の膨らんだ頬からは空気が抜け、目を細めてにこっと笑った。心が癒されていくようだった。
灯花は何も言わずに走ってリビングを出ていった。数秒ほどして、両手が塞がるほどの買い物袋を持った母親と共にリビングに戻ってきた。
そしてまたひまりの元へと来て、「たかいたかいして!」と言う。
「また後でね」と言って、ひまりはソファから立ち上がった。隣で拗ねる灯花をよそに、ひまりは母親の元へと向かう。
「ママ、おかえり」
「ただいま」
「重そうだね。手伝おうか?」
「頼める? これ、冷蔵庫入れておいて」
「分かった」
ひまりは灯花の体重くらいある買い物袋を受け取った。母親の支えが無くなった途端、買い物袋は重みを増して、重力に負けて身体ごと倒れこみそうになった。
中のものを傷つけないようにゆっくりと地面に買い物袋を置くと、たかいかたいで使った筋肉が更に痛めつけられた。後ですると言ったものの、だいぶ先の話になりそうだ。
冷蔵庫を開けて、果物や野菜を入れる。大量に買い貯めをしたためか、買い物袋の底には穴が開いていた。
すると足元に何かが触れた。灯花だった。
「わたしもやりたい!」
小さな灯花には冷蔵室は手が届かない。そのため、どうにかしてやらせてあげる方法でもないかと考えながら作業を進めていく。
その時、ひんやりとした感触が手の甲に触れた。見てみると、アイスクリームだった。
「じゃあ、アイスを入れよっか」
「うん!」
灯花は元気よく言った。
アイスクリームは溶けてしまうため、一番に入れなければならなかっただろうが、ひまりは気づかずに野菜から入れてしまった。カップアイスは汗をかいたように水滴が付着していた。
しかし灯花が入れるには丁度いい。冷凍室は冷蔵庫の一番下にあるため、灯花であっても手が届くからだ。
灯花はアイスクリームの入った袋を床にひっくり返すと、カップアイスはころころとリビングの方へと転がっていった。それを灯花が取りに行く。
冷蔵庫前には幾つかのカップアイスとスティックアイスとひまりが残された。
ひまりはそれを拾い上げて、再び袋の中にしまう。冷凍庫に入れてしまえば、灯花のことだから駄々をこねるだろうと考えたのだ。
少しして灯花が戻ってくる。その手には転がっていったカップアイスが握られており、歩くたびにアイスクリームがかいた汗が部屋中に飛び散った。
ひまりは冷凍室を開く。
「はい、入れて。ここだよ」
「分かるもん」
ぽいと投げ捨てるように入れた。それをひまりは拾い上げて、もう一度灯花に手渡す。
「投げちゃだめだよ。もう一回」
「はーい」
今度は丁寧に置いた。冷気が顔に当たって楽しそうに笑っている。
そして床に置かれているアイスクリームの入った袋を拾い上げた。先程まで置かれていた場所はじわりと湿り気を含んでいた。
灯花は次々とアイスクリームを入れていく。その手つきは随分と手慣れていた。いつもやっているのだろう。
そうして素早く入れていると、灯花の手が止まった。袋の中からアイスクリームを取り出すと、そのパッケージをひまりに見せつけた。
「これ、わたしの!」
それは小さな木の実のようなアイスクリームが十個ほど入ったものだった。いくつか味があるようで、パッケージには様々な果実の絵が描かれていた。
「買って貰えてよかったね」
目線を合わせて微笑みかける。すると、灯花はひまりにアイスクリームの入った袋を「はい」と手渡した。
「あとはやっておいて!」
ひまりは「待って」と声を掛けたが、その時には灯花は自分勝手に走り出して、ソファに勢いよく飛び込んでいた。そしてアイスクリームを一つずつ、丁寧に口に入れては幸せそうな顔をしている。
ひまりは受け取った袋をひっくり返して冷凍室に入れた。冷凍室はアイスクリームで溢れた。
やれやれとは内心思いつつも、表情は緩んでいた。
そんなひまりと灯花のやりとりを、端で見ていた母親も表情を緩ませる。
ゆったりとした時間が流れていた。やはり家族はいいものだと思う。現実を忘れて、この時間がずっと続けばいいのにと願った。
母親はいつものことながら、ひまりが学校に行かなくなったことを無理に咎めようとはしなかった。それは父親である内山さんも同じだった。
きっと母親が裏で手を回してくれたのだろう。おかげで学校のことや、外に出ることに関して考えなくて済んだ。気が楽だった。
つくづくいい家庭に恵まれたと思う。
「高木ひまり」は栄光の道を進んでいたが、あの時の自分は違った。たった数メートルの違いで、まるで天と地のように正反対の人生を歩んで、自分は劣等感に苛まれた。そうして学校に通うことが出来なくなった。
状況だけならあの時と同じだが、しかし理由が違う。
何か欠けたものを求めて閉じこもっていたときよりも、人が怖くて閉じこもっている今の方が幾分かましだ。
きっと自分は一生この症状と付き合っていくのだろう。船山に触れられて、「人殺し」と言われて、気が付いた。やはりあの光景がトラウマになっているのだと。あの瞬間に、一瞬だけだが横たわる血まみれの親父の姿がフラッシュバックした。
今、道路を挟んだ向こうの家では秋村翔太が引きこもっているだろう。過去の自分と比較してみて、少しは成長できたように思える。
しかし引きこもっていることには違いない。
他人から見れば理由なんて関係なく、目に見える「引きこもり」という情報だけで「高木ひまり」の人物像を塗り固めていく。
自分の知る「高木ひまり」は引きこもらなかったし、もっと可愛かったし、運動も一番だったし、誰よりも頭が良かった。
でも船山と付き合っていた時期があったのだから、少なからず悩みはあったのだと思う。「高木ひまり」という人物は、恵まれていたからこその苦悩があったのかもしれない。
苦労の種は違えど、苦労していたことに気づき、今更ながら親近感を覚えた。
本当に今更。
*
もしかしたら家から出られるのではないかと思った。
以前、引きこもっていた時は玄関の扉を見る度に、心臓が跳ねた。それでも一度は恐怖を押し殺し、外に出ることが出来た。
なら、今も同じ過程を踏めば外に出ることが出来るのではないか。
ふと、そう思った。
灯花と母親は昼寝をしていた。
昼下がりの家は異様に静かで、彼女らの寝息が家のどこにいても聞こえた。しかしそれは荒いいびきのようなものではなく、穏やかな息遣いそのもの。静かすぎるこの家が、音に対して過敏にさせた。
今しかない。ひまりは思い立って、玄関の前に立つ。
その扉はまるで城門の如く巨大に見えて、また異様な雰囲気を放っていた。
つい一週間前まではそこから外界との出入りをしていた。しかし今は自分を遠ざける、敵意を含んだ何かに見える。扉の向こうには悪いものがあるから近寄るなと言われているようだった。
しかしひまりは、その先を知っている。
先に行かなければならないことを知っている。家族のため、そして自分のため。
外の世界はひまりにだけ牙を剥く。自分を理解してくれる人は外にはおらず、家族とは離れて生きていくため、外の世界は孤独だ。どうしようもなく苦しい。一人ぼっちだ。
それでも耐えて生きてきた過去の自分を知っている。
自分には経験があるのだ。その扉の向こうに踏み出すだけで、一歩近づける。昔の自分に戻るのではなく、未来の自分に近づくのだ。
靴下のまま、土間に降りた。そしてドアノブに手を掛けた。
不思議と手は震えなかった。以前とは何かが変わっていると分かり、勇気が湧いた。そしてドアノブを下げて、そのまま力強く前に押した。
世界が広がった。
実際にやってみれば、なんて容易いことだったのだろう。どうして家に閉じこもっていたかが分からないほど、世界が澄んで見えた。
秋の冷たい空気を目一杯吸い込んでみる。久しぶりの新鮮な空気は味がした。裸足のままさらに外に出てみる。
目の前を、高校生が横切った。
ひまりの頭の中には船山が浮かび上がり、親父がクリームと血にまみれて横たわっている光景を連想させた。
いつかの景色と同じだ。
あぁ、分かった。外の世界が怖いのではなく、学生という存在が船山を連想させ、そこから更にあの日を思い出させるからなのだ。
また、自分が人殺しと言われている気がした。
次の瞬間にはひまりは家の中に戻っていた。呼吸は酷く荒れていた。まるでマラソン終わりのランナーのように汗をかき、はぁはぁとリズミカルに身体を膨らませている。
込み上げる胃液を抑えつつ、トイレへ向かった。
自分はどうしても社会に適合できない人間だと、叩きつけられた気がした。
数日が経って、ひまりは家にいることに違和感を覚えなくなった。
いつものようにソファで横になり、惰性でテレビ番組を眺めていると、灯花が足を叩いた。応じるように体を起こす。
「ん、どうした?」
「あそぼ」
その言葉が幼稚園時代の嫌な記憶を思い出させたが、表情に出すことは無かった。
「何して遊びたい?」
「でんしゃごっこ」
和室で編み物をしていた母親が「何それ」と笑った。
「電車ごっこって何するの?」
「ぶーぶーのまねするの」
「それ電車じゃないんじゃない? 車じゃない?」
「ぶーぶーはぶーぶーだもん」
そんな風に一見すると意味の分からない会話をしていると、遮るようにバイブレーションが鳴った。ひまりのスマホだった。
手に取ってみると、ひまりにしては珍しい電話だった。「齋藤凛」と書かれている。学校は休んだのだろうか。
「少し待っててね」と灯花に言い、その間に母親に相手をしてもらう。
ひまりはリビングを出て、すぐに電話に出た。歩きながら二階の自室へと向かう。
「もしもし?」
『あ、出た。ひまりだよな』
電話越しで機械音のようではあるが、その声は確かに凛のものだった。
「そうだけど。何かあった?」
『わざわざ心配してやったんよ。死んだかと思ったわ』
一度死んだひまりにとって、本当に笑えない冗談だった。しかし鼻で笑い飛ばす。
「ありがと。それで、なんで今電話かけて来たの? もしかして学校休んだ?」
『一日くらいいいかって。まぁ何より元気そうで良かったわ――』
「え、あ……」
そうして凛の勝手な都合で、電話は一方的に切られた。
一体何だったのだろうとは思いつつも、こんな自分を心配してくれた人間がいたことに、微かに喜びを覚えた。
ひまりが昼寝をしていると、インターホンが鳴った。
眠りを妨げた主に怒りを覚えつつも、わざわざ玄関まで行って様子を見ることは躊躇われた。訪問者の対応は母親に任せて、同じく昼寝をしていた灯花と共に、再び眠りにつこうとする。
しばらく目を瞑っていたが、今度は母親に睡眠を妨げられた。
「ひまり、凛くんって子知ってる?」
リビングの入口から母親が顔を覗かせて訊いた。閉じた瞼を再び開く。寝ぼけて曖昧な頭では、その言葉が何を意味するかを理解するのに五秒も要した。
「……え、凛来てるの?」
「そうよ。かっこいい男の子よね?」
「うん」なんて言えない。返答に困っていると、玄関の方から「何言ってるんですか、お母さん」と照れを隠したような言葉が聞こえてきた。その声は間違いなく、ひまりの知る凛のものだった。
ひまりはまだ眠っていたいと主張する身体を強引に起こして、リビングの入口から先程の母親のように玄関に顔を覗かせた。
凛と目が合うと「よ」と、凛は軽く手を挙げた。
彼は私服を着ており、言葉で言わずとも学校を休んだと分かる。
「何しに来たの?」
「お見舞い」
「別に具合悪いわけじゃないんだけど」
「ゲロ吐いたんでしょ? 大丈夫かなって思ってさ」
そうして話していると、母親が口を挟んだ。
「ひまり。凛くん家に上げないの?」
「別に――」
そこまで言って気づいた。自分が凛に対しては何の躊躇いもなく話せていると言うことに。
「『別に』って上げていいの?」
「あ、うん」そう言ってしまう。
ずけずけと家に上がり込む凛の姿を見ても、ひまりは何とも思わなかった。
そんなひまりを、母親は不思議そうな表情で見ていた。それから考える表情を見せて、最後に何かを察したような笑みを作ってひまりを見つめた。
「いや、別にそんなんじゃないけど」
「いいのよ。若いうちに恋をしなさいって」
そう言って母親はひまりの背中を強く押した。母親の声がどこか浮ついたように感じたのは気のせいではないだろう。
凛を自室へと呼び、二人きりになった。
いつも何の気なしに話していたが、先程の母親の余計な態度も相まって、自分が凛を意識している錯覚に陥る。そうすると途端、彼がかっこよく見えた。
凛は部屋の壁に背をもたれて座っている。手持ち無沙汰なようで、フローリングの繋ぎ目をなぞって遊んでいる。
カーテンの閉まった部屋は、電気をつけてもどこか暗く感じた。部屋を見られることには抵抗はなかったが、陰気な部屋だとは思われたくなかった。そのため、カーテンを開けようとしたのだが、向かいの家のことを思い出すとやはりカーテンは閉じたままがいいと思った。
ベッドに腰かけ、口を結んだまま暇そうにしている凛に話しかける。
「よく家が分かったね」
「久保田先輩に教えてもらったんだ」
以前、バイト先の大学生の先輩に家だけを教えたことがあったと思い出す。その久保田先輩はよく家の住所を忘れずに覚えていたものだと感心した。
「それで何しに来たの?」
「元気かなって」
「元気じゃないからこうして家に引きこもってるんだよ」
「でも元気そうじゃんか」
「家にいる分には大丈夫なの」
「引きこもりだからな」と、凛は笑った。
凛は咳払いを挟んだ。そして真剣な面持ちを作ってから、ひまりを見つめて言う。
「本当に大丈夫なのか?」
どうして引きこもっているのかと、無責任に理由を聞いてこなかったのが、本当に心配をしてくれているのだと分かって嬉しかった。
「大丈夫じゃないかもね」
「まぁ学校に行けるようになったら行けばいいさ。バイト先のみんなもずっと待ってるしな。俺は学校でもバイト先でも待ってるけどな」
「ありがと」
恥ずかし気に小さく呟いた。
そんな風に会話して、一時間ほど経過すると凛は帰宅した。
家族以外との会話は久々だった。他の人ともこんな風にして話すことができたらな、と思った。
次の日も、その次の日も凛は家に来た。
彼は学校を休んでくる日もあれば、放課後に来る日もあった。
鈍感なふりをせずにはっきり言うと、凛はきっと自分のことが好きなのだと思う。だからこうして連日家に訪れてくれるのだろう。
ひまりは別に凛に好意を抱いているつもりは無かった。しかし彼といる時間は心地いいし、家族とは異なる気楽さがある。
きっとはみ出し者同士、心が通じるのだろう。
そんなある日のこと、秋雨が降る日だった。
妙に冷えて冬を近くに感じていると、いつもよりも少し遅い時間にインターホンが鳴った。家主の返答が来る前に玄関を開け、「こんにちは」と大きな声で言う。
ひまりはリビングにいたが、その声を聞くとすぐに玄関へと向かった。
初めはどこかうっとおしく思っていたが、今では凛が来ることを一つの楽しみとしていた。引きこもりのひまりにとっては、話し相手になってくれる凛がありがたかった。
玄関に行き、慣れたように「お疲れ」と言う。
凛もまた、慣れたように「お疲れ」と返した。
凛はびしょ濡れの傘を畳んで、高木家の傘と混同しないように靴棚に立てかけた。それから、いつものように「お邪魔します」と言って、そのままひまりの部屋へと向かう。
少し遅れて「どうぞー」と母親の声がしたが、その時にはもう階段を登り終えていて凛には声が届かなかった。
そんな彼の後を追って、ひまりも自室へと向かう。
部屋に入った凛は、まるで自分の家のように横になってくつろいでいる。凛が家に来るようになってから二週間ほどしか経過してないが、まるでずっと前から暮らしていたようだ。
ひまりはいつものようにベッドに腰かける。後ろに手をつき、体重をかけて楽な姿勢を取る。
しばらくいつものように、他愛のない話で盛り上がった。
その後、凛が姿勢を正した。ひまりは何かするのではないかと身構えたが、彼が告げたのは全くもって単純な事だった。
「月末、一緒に文化祭回らないか?」
もうそんな時期かと思った。文化祭委員はどうなっているだろうか。
正直言って回りたい。しかし今の自分にはそれができないだけの理由がある。
凛にはひまりの拒絶反応について言ったことはなかったが、しかし今までの会話から、何となく察していてもおかしくはない。
それなのに誘ってくれた。一体凛は何を考えているのだろうかと、不思議に思った。そんな彼が次第におかしく思えてきて、思わず吹き出してしまった。
「何だよ。おかしなことでも言ったか?」
ひまりは笑いの余韻を残して言う。
「いや、本当にデリカシーない人だなって」
「うるせぇ、何も考えつかなかったんだよ」
視線を逸らし、口を尖らせて言う。
「別にいいんだけどね」と、彼に合わせて笑いながら言った。
「まぁ、その誘いは嬉しかったよ。でも外出るの怖いしさ、一人で楽しんできてよ」
「いいや。俺は当日迎えに来る。行かないって言っても、無理やり連れていく」
「それは困るなぁ」と、笑って言った。
本当にそれをされたら困ったどころの話ではない。最悪の場合、文化祭色で染められた校舎を、ひまりの吐瀉物で汚してしまう可能性がある。船山に触れられたときのように。
どれだけ見たいものがあろうと、その可能性がある限りは学校に行くのは怖い。
ただ少し、灯花の年頃の少女のように、淡い期待を抱いた。
文化祭当日に凛が現れて、自分を学校まで手を引いて連れて行ってくれる。彼が連れ出したことによって、ひまりは恐怖を抱かなくなる。それは魔法のような夢だ。
でも少しくらい、魔法に期待してもいいのではないか。
どうせただの取るに足らない妄想だ。
どんなに壮大な妄想を広げても、誰も咎めやしないのだから。
文化祭の日がやってきた。
気づかなかったのだが、どうやら思った以上に自分は凛が来てくれることに期待しているらしい。心の奥に、むず痒い感覚を覚えた。
いつもよりも一時間ほど早く目覚めたひまりは、カーテンの向こうから漏れる光から、まだ空に日が昇りきっていないことに気づいた。
軋むベッドから身体を起こし、久しぶりにカーテンの向こうを覗いてみる。右に見える秋村家は視界に入らないよう、左の空を見た。
淡い水色と朱色が混ざった空は、今が早朝だということを示している。今日の文化祭は雨が降らなそうだ。自分には関係ないことのはずなのに、どこか安堵を覚えた。
少しだけ開いたカーテンを再び閉める。
それからベッドに入り、また眠りにつこうとしたが、意識はずっと現実にいたままだった。
身体が眠ろうとはしてくれず、そのままベッドから立ち上がった。
まだ皆が眠っている家を一人で歩いてみる。今までずっと引きこもり生活を続けてきたが、夜中に目覚めることはあっても、早朝に目覚めることはあまりなかった。
階段を下ると、家の中ではあるが早朝の新鮮な空気を感じる。
そのすぐ先には玄関がある。
もしも今日、八時頃に彼が来て、この手を取って文化祭に連れて言ってくれるのなら、きっと自分は嬉しさに舞い上がってしまうだろう。
この玄関の向こうに連れて行ってくれるのなら。
少し浮き立つ心を抑えて、リビングへと向かった。そしてそのままソファに寝転んだ。
自分は平常心であると言い聞かせるため、いつも家で過ごしている時間と変わらない動きをした。つもりだったが、早く目覚めたことが何より期待している証拠だと言うことに、ひまりは気づかなかった。
騒がしい声で目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしく、家族の声がした。今日は休日だから、父親の声もした。
体を起こして、家族におはようと言う。両親からはおはようと返ってきて、灯花からは元気のいい「こんにちは」が返ってきた。
「朝だから『おはよう』だよ」
朝だからとは言ったものの、今の時間がよく分からない。
テレビから朝のバラエティ番組の音声が聞こえていたので、そちらに目を向ける。そこにはタレントが食レポをする姿が映し出されており、その上には『八時四十分』と表記されていた。
……今の時間が「おはよう」かどうだとか、どうでもよくなった。
その時間はホームルームが終わる時間で、一限の準備の時間でもある。今日に限っては詳しく知らないが、始業の時間が遅くなることは決してないだろう。
つまり、ひまりは凛に嘘をつかれたのだ。
「ねぇねぇ」と健気に身体を揺する灯花がうっとおしく思えて、ソファの背もたれ側に向けて、再び身体を倒した。
「朝ごはん、食べないの?」と言う母親にも、「要らない」と、冷たく言った。
裏切られた気分だった。
いや、初めから凛は冗談を言っていたのかもしれないが、それでも少しくらい自分に都合のいい夢を見てみたかった。
しかし凛は来なかった。
そんな現実から目を背けるように、ひまりは再び目を瞑る。
眠りになんて、つけるはずがなかった。
眠ったふりをしていると、インターホンが聞こえた。
あの音は否応なしに意識が向けられてしまうため嫌いだった。インターホンに応じるため、内山さんが玄関に向かう。
目を開いた一瞬を逃すまいと、灯花が耳元までやってきて、大きな声で「おはよう!」と言う。目を覚まさざるを得なくなり、ひまりは煩わしそうに身体を起こした。
テレビ番組は先程と同じように流れており、時間表示を見てみれば『九時三十二分』と表記されていた。
今頃は文化祭が始まっているだろう。しかし自分には関係のないことだ。
不満をぶつけるように、手前にいた灯花の髪をくしゃくしゃにしてやると、灯花はいつも以上に喜んだ。
遅めの朝ご飯でも食べようかと、母親のいるキッチンへと向かおうとすると、リビングの入口から顔を覗かせる内山さんに呼び止められた。
「ひまりちゃんにお客さんだってさ」
「えっ?」
想定外の一言に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
もしもクラスメイトだったら断ってもらおう。いいや、そもそも学校の生徒がこの時間に来るはずがない。なにせ今は文化祭が催されているのだから。
そうなると尚更、来客者に心当たりがなかった。
「その人って、どんな人?」
「齋藤君って言ってたよ」
その言葉の意味を理解できないまま、ひまりは玄関へと向かった。
そこにいたのは、アルバイト先でよく見る男の子で、ひまりが引きこもっていた間、唯一心配をしてくれて、家まで来てくれた男の子だった。
「よ」と、凛はいつも通り軽い挨拶をした。
ひまりは挨拶を返さずに、そのまま凛の元へと向かう。
「なんでいるの?」
「そりゃあ約束したし」
「でも今の時間って、文化祭始まってるんじゃ」
「だから迎えに来たんだよ」
その言葉の意味が理解できず、ひまりは言葉を発することを忘れてしまった。
「俺はひまりと二人で文化祭を回りたいんだ」
そう言って、凛はひまりに手を差し伸べた。その姿はまるで舞踏会にて「一緒に踊りませんか」と誘う王子様のように見えた。
ひまりは驚いて言葉を失いながらも、その手をゆっくりと掴む。
掴んだ手を握られ、ひまりは凛の顔を見た。彼が顔を真っ赤にして恥ずかしそうな顔をしていたから、急に今の状況が恥ずかしいものだと感じてしまい、自分の顔まで真っ赤になる。
「あ、その格好じゃ文化祭行けないから、着替えてきて」
折角のロマンチックな雰囲気をぶち壊す凛の言葉にきょとんとしながらも、その言葉が何だか馬鹿らしく思えて、ひまりは声に出して笑った。
そんなひまりを見て、凛も同じように笑う。
緊張が解けて、凛はお客様として誘ってくれたのだと気づく。
そして、自分は心の支柱が欲しかったのだと気づいた。家族以外の誰かを欲していたのだ。学校という社会で一人ぼっちで頑張ってきた。でも、もう見栄を張るのは限界だった。
彼と一緒なら、そのままの自分を曝け出せる気がする。
もしも自分の罪を問われている感覚に陥り、自らを拒絶してしまっても、彼がいるだけで「大丈夫」と支えてもらえる気がする。
彼と一緒なら、私は決して取り繕わない、「高木ひまり」として生きていける気がする。
彼と一緒なら、私は私であれる気がする。
彼と一緒なら、私はこの先の人生を真っ当に生きていける気がする。
随分と使い古された表現だけれども――彼こそが運命の人だと思った。
秋晴れの町を、手を繋いで歩いた。
休日に凛は制服で、ひまりは私服で歩いていたから異質に見えたのだろう。すれ違う人の大半はひまりたちのことを横目で見たり、場合によっては二度見をしたりした。
その中には恐らく偏見によって蔑みの目を向けている人もいたが、凛が傍にいると思うと、不思議と平気だった。拒絶反応を起こすことは無かった。
隣にいる凛が、まさに心の支えとなってくれた。
しばらく歩いていると、視線を向けられることにも慣れてきた。
周囲の細かな所に注目できるようになって、自分たちが手を繋いでいたことに気づいた。
まるで恋人のようではないか。
そう思うと、顔に血が昇っていくのが分かった。自分では見えないが、きっと顔は真っ赤になっているだろう。
隣にいる凛に顔を見せることができない。こっそりと横目で彼を見る。
凛もひまりと同じで恥ずかしそうにして、しかしそれを隠そうとして表情を取り繕っていた。無駄に真面目そうな顔をする彼が、いつもの彼らしくなくて何だか笑えた。
「ん、どうした?」
ひまりが笑うと、凛がようやく顔を向けてくれた。
「いや、何か私たち、恋人みたいだねって思った」笑いながら言った。
「確かに。そう見えるかもな」
「そう見えるのも悪くないんじゃない?」からかうように言ってみた。
ひまりとしては、普段、強気な凛へのドッキリみたいなものだった。
しかし凛が急に黙ってしまうものだから、その言葉を肯定しているように感じてしまう。
「……まぁ、それもそうかもね」
顔を逸らして、呟くように言った。
二人はまた、黙ってしまう。気まずい空気が流れる。
学校への道のりはまだ遠い。しかしその時間が短く感じた。
秋の町に落ち葉が舞う。青春の香りがした。
学校に近づくと、まるで何かの野次馬かと思う騒音がした。
それは校内に流れている流行りの曲のメドレーで、それが校外にまで漏れ出ていたのだった。学校の敷地に入り、ようやくそれが文化祭によるものだと理解したが、その曲はひまりの知らないものばかりだった。
まるで他校を訪れたような感覚で校門を通る。
アニメやドラマで見るような、校庭に出し物がある派手な文化祭ではなく、校内だけに留まった、公立高校らしい文化祭だ。
それでも初めて見るひまりの目には、それらは全て新鮮に映った。
申し訳程度に風船で装飾された玄関を、二人でくぐる。その頃には二人の手は離れていた。
各々の下駄箱に向かい、うち履きに履き替えてから再び合流する。
校内は華やかに装飾されており、玄関前の掲示板には外部の来客用に、催し物の案内地図が掲載されていた。
二人はその前に立って、どんなものが出店されているかを見る。
「どれにしようか」
目線を地図に向けたまま、凛に訊いた。
地図にはクラスの催し物と、どこで開かれているのかが書かれている。ひまりのクラスが出しているお化け屋敷の他、クレープ屋、金魚すくい。スナックといった、無難なものから趣向を凝らしたものまで、様々だ。
「これなんかいいんじゃないか?」
「え、どれ?」
ひまりは無邪気な子供のように、身を乗り出して訊いた。
「これだよ、これ」と、凛は指を差して示した。
指先は体育館を差していて、そこは個人が申し出て見せ物をする、いわゆる文化祭のメインステージだった。
ひまりは密かにそれを見ることに、憧れを持っていたのだ。
「私、教えたっけ?」
「何が?」振り向いて言った。「何となく好きそうだから。だって結構そういう動画見てたじゃん」
「え、いつ?」
「バイトの休憩中さ、文化祭でダンス踊ってる高校生の動画、見てたよね?」
「見てる私を見てたの?」
「まぁ、そうかな」
「えぇ」
とは言いつつも、内心気遣って体育館に行こうと言ってくれたことに、喜びを感じた。
「さ、行くぞ」
凛は話を強引に打ち切って、ずかずかと手を引いて歩いた。
途中、クラスメイトとすれ違ったが彼女らはひまりには目もくれず、文化祭を楽しんでいた。記憶違いでなければ、ひまりが教室で嘔吐したとき、悪口を言っていた生徒のはずだが、ひ
まりには目もくれずに通り過ぎていった。
人目を気にしながら、手を握って歩く。
カップルだと羨ましそうに見つめる女子生徒や、青春だねぇと懐かしむどこかの中年女性の姿が見えた。
ひまりが思ったよりも、侮蔑の目は向けられていないことに気づく。
そうして辿り着いた体育館は、カーテンが閉め切られており、互いの顔がぼやけて見えるほど真っ暗だった。ステージだけがスポットライトのように照らされており、辛うじて足場が見えた。
人の隙間を縫って歩き、ようやく座ることができた。
ステージではどこかのクラスのお調子者が二人揃って、テレビで見たことのある漫才をしており、体育館は笑いに包まれていた。
テレビで見るその漫才は面白いと思うのに、彼らがする同じ漫才は、はっきり言って面白くはなかった。しかしこの会場には笑わせる何かがあるのだろう。
面白いとは思わなくても、「さぁ、壇上から笑ってください」という雰囲気を感じると、会場は笑いの渦に包まれた。
面白くなかったが、釣られて笑ってしまう。
これが文化祭なのだと感じ、ひまりは楽しんで心から笑うのだった。
実際に来てみればなんてことない。
しかし一人では絶対に来ることはできなかっただろう。
彼だからこそ、ひまりは立ち直ることができたのだ。
家族ではない、誰かの手が必要だった。
「秋村翔太」という、ひまりの根底にある人格は、誰かの手を借りなければ治療不可能なくらいに歪んでいた。
その根底にあったのは「人間不信」で、人を信じることができないからこそ、自分一人で抱え込んでしまう。挙句の果てに塞ぎこんでしまう。
両親の愛を知らずに育ったこの人格は、愛を受容する方法を知らなかった。
「高木ひまり」として生まれ変わることによって、暖かな家族の愛を知った。少しずつ、愛を受容する方法を知っていった。
しかし家族とは心の支えであっても、家族だからこそ届かないところがある。
それを外から支えてくれたのが齋藤凛だった。
だから今のひまりにとって、凛はまるで運命の人のように見えていたのだ。
いいや、もしかすると実際そうなのかもしれない。
運命なんて誰も知らない。知らないがゆえに、自分がそれだと思った相手を探そうとする。もしも彼が運命の定めた相手ではないとしても、ひまりとっての運命の人はひまりが決める。
彼をそんな風に思えるくらいには、ひまりは凛に感謝をしていた。
だって、こんな素晴らしい世界を見せてくれたのだから。彼といるだけで世界が広がっていくのだから。
それが運命の人でないというのなら、どうやって言葉にしようか。
まさか「好き」とでも言えというのだろうか。
もしそう言ったのなら、彼はどんな反応をするのだろう。
でも、それは言えない。
だってひまりは人殺しなのだから。
凛に知られたくない。知られる前に、どうにかしたい。
ひまりにはそんな秘密があるから。
文化祭を二人で回りつくした。
その頃には文化祭も終わろうとしていて、飲食系の店は撤退を始めていた。
二人は空き教室で休みつつ、文化祭の終わりのアナウンスを待っていた。
ややあって、生徒会によるアナウンスが入る。
『生徒会長の船山です。文化祭の閉会式を行いますので、午後三時に体育館に集合してください。服装は自由で構いませんが、スマートフォンなどの貴重品、電子機器類は窃盗の危険性があるため、必ず持参するようお願いします』
その声にひまりは身体を震わせた。
彼に対して、大きなトラウマを持っていた。
物音全てが遠く感じる。視界の端が歪み始める。身体の中を、ぐちゃぐちゃに搔きまわされる。心臓の鼓動が不規則に、しかし素早く刻まれていく。
「俺の手を握れ」
凛はひまりの両手を手繰り寄せ、胸の前で包み込んでいることをひまりに見せた。
「大丈夫。俺がいるから。安心しろ」
余計なことは言わずに、ただじっと、手を握っていてくれた。
しばらくそうしていると、心音が穏やかになっていき、呼吸も正常に戻っていった。視界も正常になり、身体の震えも収まっていく。
「大丈夫か?」
覗き込むように訊いた。
「うん、本当にありがとう」
「いいんだよ。これくらい」
その手は握られたままだった。
大きくて、少し乾燥していて、しかし確かに温もりの感じる彼の手。
もう少し具合の悪いままでいようかな。
文化祭の閉会式には出席しなかった。
別に出席をしなくても、恐らくは見つからない。二人は空き教室で、あのまま過ごしていた。
しばらくそうしていると、体育館の方から拍手が聞こえてきた。
この高校には、毎年文化祭の閉会式に、生徒会長によるスピーチがある。きっとそれが素晴らしかったのだろう。船山の人望は凄まじいものだ。
スピーチが終わると閉会宣言をし、そのまま文化祭の片づけが始まる。
凛はクラスの片づけに戻らなければならなかった。
「ひまりはここで待ってる?」
「どうしようかな。文化祭委員なのに休んだの申し訳ないから、本当は少しくらいは片付け手伝いたいんだけど、この格好じゃあね」羽織った緑のカーディガンを引っ張って言う。
「保健室行けば借りれるかも」
「そうなの?」
「確かあったはず。前借りたことあったから、女子のもあるんじゃないかな」
「分かった。行ってみる」
「大丈夫なのか?」
「多分ね。凛がそばにいると思えば怖くないよ」
凛は照れて顔をほんのりと朱色に染めた。
「まぁ、何かあったら二組に来いよ。俺のクラスは喫茶店だから、片付けすぐ終わるだろうし」
「うん、ありがとう」