――二〇一七年、九月十日、日曜日。
生まれ育った町のバス停に着いた。
バスから降りると、青空と町の景色が出迎える。新興住宅が増えてはいるけれど畑も多く、今住んでいる場所より圧倒的に田舎だ。まだ九時を過ぎたくらいだということもあるが、人はあまり歩いていない。
久々に来たならもう少し懐かしさを感じることもできたが、それは前回丘へ行った時に済ませてしまった。これから行く場所はあの丘でも、私が住んでいた家でもない。
今から行くのは、知里ちゃんの家だ。
連絡先はわからないけれど、知里ちゃんが住んでいる家だけは何年経っても覚えていた。そうは言っても家にいる保証はなく、いたとしても門前払いされてしまう可能性だってある。それでも前に進むしかない。
知里ちゃんの家へ向かうため、一歩を踏み出した。
どんなに歩いてもあの頃の道であるが、あの頃の道ではない。やはりここ例外ではなく、新しい家が増えて景色が変わっていた。でも、一番変わったのは私の気持ちで、あの頃と違って緊張しながら歩いている。歩く速さも変わっており、昔よりも速く景色が通り過ぎていった。
ここだ。知里ちゃんの家だ。
日本家屋の高い塀と大きな門が、私の行く手を阻んでいるように感じてしまう。たが、表札には「田中」と書かれており、知里ちゃんの家で間違いない。昔のお屋敷のように見えるけれど、インターフォンがちゃんと付いていることも、門が自動でロックされていることも知っている。ここを押すと思うと手が震えてきた。でも、逃げたらなにも変わらない。昨日、勇気を出して一歩踏み出せたのだから、きっとできるはずだ。長野くんが近くにいなくても、昨日の言葉が背中を押してくれるはずだ。
震える指でインターフォンを押した。
インターフォンから電子音が鳴る。その後、辺りは静寂に包まれた。家が広すぎるため、出るのに少し時間がかかるのだ。一体、誰が出るのだろうか。そもそも、誰かいるのだろうか。
しばらくすると、インターフォンについた小さなスピーカーから声が聞こえてきた。
「はい」
おそらく、知里ちゃんのおじいちゃんである博栄さんだ。博栄さんは私のことを覚えているのだろうか。
「あの、日下部です。日下部ハルカです」
「ハルカちゃん? 久しぶり。どうぞ上がっておいで」
私の要件も聞かずに博栄さんはインターフォンを切り、次に聞こえてきたのは解錠の電子音だ。
昔と同じように門を開け、広い庭の中へと入る。
たくさんある大きな木も、鯉が泳いでいる池もあの頃と変わらない。今見ると庭というより日本庭園と表現した方が正しいと思った。だけど、今日は景色を楽しみに来たわけではないので、真っ直ぐ家を目指す。玄関ドアの近くに着いた時だ。
「いらっしゃい。元気にしていたかな?」
家のドアを博栄さんが開けてくれたのだ。
白髪で髭を生やした貫禄がある姿は、最後に会った時から全然変わらない。博栄さんは元政治家で現役時代からこんな感じらしいが、高校生になった今になって見ると現代というよりは明治時代の政治家のように思える。
私はその場で立ち止まった。
「おはようございます。覚えていてくれたんですね」
「昔は毎日のように遊びに来てくれたからね。ハルカちゃんはあの頃から全然変わらないねぇ」
身なりに特別に気を使っているわけでもないので、確かに小学生とあまり変わらないのかもしれない。なんだか恥ずかしくなって苦笑いで誤魔化してしまった。
「こんなところで立ち話も良くないからこっちおいで」
「ありがとうございます」
博栄さんが手招きをしてくれたので、小走りで家の中へと入る。私の家より三倍くらいは広い玄関に圧倒されてしまった。重要文化財のような歴史を感じさせつつも、最近リフォームしたのか現代的に洗練されているのだ。玄関が広いことは知っていたが、小学生の時よりもすごいことになっている。
「いつ見ても立派なお家ですね……」
「おやおや、今日はうちを見に来たのかい?」
そうだ。知里ちゃんの家を見に来たわけではない。心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど緊張したが、少し間をおいて呼吸を整える。
「ち、知里ちゃんに会いに来ました」
「そうか、そうか。今、呼んでくるからね」
緊張している私とは違い軽く言うと、博栄さんは二階へと続く勾配がきつい階段をゆっくりと上って行った。そういえば二階は増築なので階段が急になってしまったと、知里ちゃんから教えてもらったことがある。この階段の先に知里ちゃんの部屋があり、慣れない私には上り下りがちょっと怖かった。
そう、知里ちゃんは今も二階の部屋にいるのだ。
だけど、本当に私と会ってくれるのだろうか。このまま、博栄さんだけが降りてきて帰されてしまうかもしれない。でも、もし会ってさえくれるなら、あの日のことを謝ろう。どんなに怒られても嫌われていても、謝るしかない。私はこのためにここまで来たのだ。
「えー!」
上から大きな悲鳴が聞こえてきた。それがなんのか考える間も無く、慌ただしい足音が二階から聞こえてくる。足音はどんどん大きくなり、誰かがものすごい速さで階段を駆け下りて来たのだ。
「本当だ……ハルカっちだ……」
七年ぶりだ。知里ちゃんが目の前にいる。
その姿は大きく変わっていた。肩まである髪は綺麗に金色に染まっており、フリルやリボンが目立つモノトーンの服と黒い小さな鞄でコーディネートしている。安物の服と安物の手提げ鞄で来た私とは大違いだ。濃いメイクで涙袋が強調されていて、真っ赤な口紅が塗られている。知里ちゃんの全身をくまなく見たせいか、今日のファッションにぴったりな靴が何足か玄関に置いてあることにも気がついた。
小学生だった時の知里ちゃんとは似ても似つかない姿であり、昨日街で見て怖いと思った派手な人達と同じタイプに思える。だけど、どんなに姿が変わっても昔の面影はちゃんとあった。知里ちゃんは知里ちゃんだ。
やっと、謝ることができる。
「知里ちゃん、あの……」
「ハルカっちごめんね。私が悪かったよぉ!」
知里ちゃんの目から大粒の涙が一筋流れたかと思うと滝のように溢れ出し、大声で泣き始めた。思いもよらない出来事に困惑したが、この状況を私がどうにかしなければならない。
「泣かなくていいよ。謝らなきゃいけないのは私の方だから」
「そんなこと……ないもん! 私が……私が……」
「大丈夫だから落ち着いて」
知里ちゃんは喋ることも大変なくらい大泣きしている。二階から気まずそうに博栄さんが降りてきた。私と目が合ってしまうと、小声でごめんねと言って軽く会釈をし、家の奥へと早足で消えていった。
この感じ、久しぶりだ。やっぱり、知里ちゃんは知里ちゃんだった。普段は明るくて気が強い女の子だけど、ちょっと泣き虫なところがある。懐かしい気持ちになりながら、知里ちゃんが泣き止むまでなだめ続けた。
「ありがとう……ハルカっち」
涙でメイクは崩れて目も真っ赤だが、どうやら落ち着いてきたようだ。今ならきっと話をちゃんと聞いてもらえる。
「私は大したことしてないよ。そんなことより、今日は小学生の時のことを謝りに来たの」
「あれは私が悪いんだよ。私がテストで良い点取って調子に乗ったから……」
喧嘩のきっかけは学校のテストだった。
私が間違えた問題を知里ちゃんが正解していて、知里ちゃんが私のミスをからかってきたのだ。知里ちゃんにからかわれることはよくあったが、一番得意だと思っていた算数で間違えた自分に対する悔しさもあり、周りの子達が引くくらい怒ってしまった。知里ちゃんも泣き喚きながら言い返して大きな喧嘩になってしまい、この日を境に二人は口も聞かなくなったのだ。もうこんな悔しくて嫌な思いは二度としたくないと思い、勉強だけに集中して私は誰とも関わらなくなり、知里ちゃんは他の子達と関わるようになった。今思い返すと本当にくだらないことで絶縁してしまったと思う。
「私だってあんなに怒ることなかったと思う。本当にごめんなさい」
「そりゃ、怒って当然だよ」
知里ちゃんの表情は暗い。でもこの思いを伝えれば、少しは明るくなってくれるかもしれない。
「私、知里ちゃんと喧嘩したことすごく後悔してるけど、良いこともあったんだ」
「え? いいこと?」
「うん。知里ちゃんと喧嘩したから勉強に火がついて、今行っている学校に受かったからね。そこで楽しくやってるんだよ。ある意味、知里ちゃんのおかげだし、あの時のことをちゃんと謝ってお礼を言いたかったの」
以前の私だったらこんなことは考えられなかった。考えられるようになったのは、他でもない長野くんのおかげだ。長野くんがまた私を前向きにしてくれたのだ。だが、前向きにしたのは私だけではなかった。私の言葉を聞くと、安心した明るい表情に知里ちゃんは変わったのだ。まるで重い荷物を下ろしたかのようだ。
「私もずっと後悔していたけど、ハルカっちが楽しく過ごせているならそれで良かったよ」
「知里ちゃんも楽しく過ごせていそうで良かったよ」
「うん。毎日楽しいよ」
知里ちゃんの毎日が充実してそうで心の底からうれしかった。服装から察するに、きっと今日はどこかへ出かけるのだろう。これからメイクをし直さなければいけないだろうし、あんまり長居しても迷惑になってしまう。名残惜しいけどそろそろ帰らないといけない。
「今日はお話できて良かったよ。これからお出かけだよね。もうそろそろ帰るよ」
「待って」
知里ちゃんが私を引き止める。一瞬どうしたのかと思ったが、思い当たる節があった。まだ知里ちゃんと連絡先の交換をしていないのだ。友達が少ない私には交換する習慣がないので、すっかり忘れていた。
「連絡先交換する?」
「それはもちろんするんだけどさ。ハルカっちこれから予定ある?」
「ないけど……」
「本当に? それならもう少しうちでゆっくりしていこうよ」
「え? 私は良いけど、知里ちゃんはどっか行くんじゃないの?」
「じゃ、決まりだね!」
私の質問には答えず、知里ちゃんは鞄からスマホを取り出してどこかへ電話をし始めた。
「もしもし。ごめん! 今日午後からにしよう。親友がうちに来たからさ」
「ちょっと知里ちゃん、なにやってるの! ダメだよ」
なんと、私との時間を作るために予定を変更しようとしているのだ。親友と言ってくれたことはうれしいがそんなの絶対に良くない。私を無視して知里ちゃんは電話の相手と話を続ける。
「そうそう。前に言った喧嘩しちゃった親友。奇跡が起きて仲直りできたんだぁ」
どうやら電話の相手には私のことを話していたみたいだ。知里ちゃんが私のことをずっと覚えていてくれたのがうれしくて、電話の相手には申し訳ないがもうなにも言えなくなってしまった。
「ごめんねぇ。じゃ、午後で」
電話を切ると、知里ちゃんは笑顔を私に向けた。
「午前中いっぱいは大丈夫だから、うち上がっておいで」
「ありがとう。電話の相手にごめんなさいって伝えておいて」
「いいから、いいから。じゃ、私の部屋で話そう」
「う、うん。おじゃまします」
靴を脱いで知里ちゃんの家に上がった。
知里ちゃんが階段の方に歩き始めたので、その後をついていく。そのまま手すりを使わずに知里ちゃんは階段を上って行ったが、私は慣れていないので手すりをつたいながらゆっくりと進んだ。そのことに気が付き、知里ちゃんは階段の真ん中くらいで後ろを振り返る。
「ハルカっち大丈夫? 階段怖い?」
「ちょっとね。でも大丈夫だよ」
「小学生の時も怖がってたよね」
知里ちゃんが笑って言うと、私も笑ってしまった。
「こんな昔のこと覚えていてくれてうれしいな」
「そりゃ、よく遊んだから忘れる方が無理だよ。階段から落ちないように気をつけてね」
「それは大丈夫だよ」
「じゃ、先に行くね」
知里ちゃんは無駄に階段を駆け上がった。これでは落ちないか私の方が心配になってしまう。でも、そこが知里ちゃんらしい。遅れて階段を上り切ると、知里ちゃんは自分の部屋へと案内してくれた。
「部屋、散らかっていてごめんね。不意打ちだったからさ」
「いいよ。勝手に来たのは私だし、気にしてないから」
確かに部屋は色々なもので散らかっている。それでも小学生の時よりはだいぶマシだ。一番酷い時は足の踏み場がなさすぎて二人で部屋の掃除をしたこともあった。
「良かったぁ。これから色々準備してくるから漫画でも読みながら待ってね」
「わかった」
知里ちゃんが部屋から出た。
立ちながら待つわけには行かないので床に座った時だ、やっと実感した。思わず口に出してしまう。
「私……知里ちゃんと仲直りできたよ……」
色々覚悟を決めて来た割に、本当に呆気なかった。たったこれだけのことが七年もできずにいたのだ。たった一歩踏み出しただけでこんなに歩み寄ることができた。感情が溢れて目が潤んでくる。
私まで泣いたらダメだよね。
せっかくまた仲良くなれたのだから、今日一日は笑顔で過ごしたかった。気分転換をするために、無造作に置いてある漫画に手を伸ばす。漫画を読むのは小学生ぶりだ。読んでみると思ったよりも面白い。
しばらく読んでいると、私のスマホが鞄の中で鳴った。どうやら新着のメッセージが届いたようだ。妙に急いで確認してみる。
【昨日はありがとうな。楽しかった。あのさ、来週の土曜日なんだけど映画行かない?】
思った通り、長野くんからだった。
また誘ってもらえるなんて考えていなかったので、驚きのあまり変な声が出てしまう。さらにこの日は私の誕生日だ。すぐに「行きたい」と打とうと思ったが、一応聞いてみることにした。最初に比べてだいぶ慣れた手つきで、返信を入力する。
【こちらこそありがとう。私も楽しかった。どんな映画?】
すぐに既読になり、熊が笑っているスタンプが送られてきた。
【超ハートフルな映画!】
映画の公式ホームページも一緒に送られて来たので見てみることにした。芸能人にあまり詳しくないので、知っている役者さんが誰も出演していない。それでも、確かにハートフルで面白そうだ。
【面白そう。観に行きたい】
【やったね! 難病カードと学割使えば五〇〇円で買えるから、チケット取っておくよ】
【ありがとう。土曜日は一日中空いてるから時間はいつでもいいよ】
【わかった。チケット取れたらまた連絡するね】
【はーい】
長野くんとのやりとりは終わった。
することがなくなったので、漫画の続きを読み始める。戻って来るのがちょっと遅いと思い始めた時、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「ハルカっち開けて」
「わかった」
「サンキュー」
扉を開けると、五〇〇ミリリットルの黒いペットボトルが二つ乗ったお盆を持った知里ちゃんがいた。さっき泣いて崩れたメイクが直されており、時間が掛かったのはこのためだったようだ。
「ゼロカロリーコーラだ。私がこれ好きだって覚えていてくれたんだ。でもなんで家にあるの? 知里ちゃん、ゼロカロリーコーラは物足りないって言ってなかった?」
「そっちこそよくそんなこと覚えてるね。ほら、ゼロカロリーコーラってダイエットコーラとも言うよね? 中学生の時からダイエットしようと思って飲み始めたんだ」
得意げに言う知里ちゃんが面白くて、思わずクスッと笑ってしまった。
「いやいや、これ飲んでも痩せないと思うよ?」
「細かいことはいいの! 飲もう!」
知里ちゃんは部屋に入ると座ってお盆を床に置いたので、私も近くに座った。二人でコーラを取り、特に打ち合わせをしたわけでもないのに乾杯して飲んだ。ここから先は話が止まらなかった。
まずは近況報告からだ。
知里ちゃんは地元のトップ校に通っていると教えてくれた。どうやらそこの友達の影響で派手なファッションを好むようになったようだ。私は普通科に進級できたことを伝える。知里ちゃんは高校であった話をしてくれたが、私は話せるようなネタがないので聞くだけだった。それでも楽しい。
次第に、二人は思い出で盛り上がっていく。
忘れかけていたことも知里ちゃんと話すと思い出していき、話がどんどん弾んでいく。四年生までしか仲良くしていなかったのに話題は尽きない。昔の思い出話から派生して、話はどんどん広がっていく。連絡先を交換する時にスマホを見ると、かなりの時間が経ってしまったことに気が付いた。また知里ちゃんと時間を忘れて楽しくお話できることがなによりうれしい。
話題は知里ちゃんが通った中学のことになった。
中学生の時にあったことをおもしろおかしく話してくれたのだ。長野くんと話している時と同じように、ただひたすら聞いて笑った。
同じ小学校だった人の話だけではなく、違い小学校の人の話も個人名を出しながら知里ちゃんは話す。でも長野くんも同じ中学だったはずなのに、なぜか話題に出てこなかった。長野くんの性格を考えるなら知里ちゃんと仲が良くてもおかしくないはずだ。
それも気になったが、もっと気になることがあった。話から察するに、知里ちゃんは男女問わず後輩とも仲が良さそうだ。もしかしたらと思い、話が途切れた時に聞いてみた。
「ねぇ、知里ちゃん」
「ん?」
「タクマくんって名前の男の子知ってる? 多分後輩だと思うけど」
知里ちゃんは腕を組み目線を上に向け、難しそうな顔で「うーん」と唸ってから言った。
「大葉琢磨ならわかるけど、あいつは同じ学年だよねぇ」
「うん。大葉くんなら私も知ってる。」
「後輩もそこそこ知っているけど、タクマって名前はあいつ以外知らないかな」
「そっか。ありがとう」
「タクマって子がどうかしたの?」
知里ちゃんにまだあの頃の話をしていない。一口だけ残ったコーラを飲んでから、私は話し始めた。
「小四の時なんだけどさ、外で勉強の息抜きしている時に会ったの。泣いてたから話を聞いてあげたら、学校でいじめられてるって言っててさ。その子のこと、時々思い出すんだよね」
タクマくんとはその日から一度も会っていない。それでも、いじめを苦に自殺していないか時々心配になっていたのだ。長野くんに聞いてみても良かったかもしれないが、タイミングを逃してから聞けていない。理由は自分でもわからないが、長野くんの前でタクマくんの話はしたくないと、なんとなく思ってしまっているのだ。だから知里ちゃんに聞いてみた。
「ハルカっちって本当に優しいよね」
「そうかなぁ。当然のことをしただけだと思うけど……」
「それを普通にできちゃうのがハルカっちのすごいところ。タクマくんってどんな顔の子だったの?」
「顔はちょっと覚えてないかな。一回しか会ってないからさ。でも、体型は覚えてるよ。背が低くて太ってた」
一口だけ残ったコーラを、知里ちゃんも飲み干した。
「太った子なら後輩に何人かいたけど、名前までは思い出せないなぁ」
「そうだよね。ありがとう」
タクマくんが長野くんと同じ芽木戸小学校出身なら、知里ちゃんと同じ中学校になる。知里ちゃんに聞けばなにかわかると思ったがなにも知らなかった。もしかしたら、タクマくんは全然違う小学校だったかもしれない。
「あ、でもがっかりしないで。うちの中学はどの学年も仲良しでいじめなんてなかったから、タクマくんがうちの学校の生徒ならきっと楽しく過ごせたと思うよ」
どうやらすごく落胆した表情を私はしていたようだ。でも知里ちゃんの言葉を聞いて安心した。
「それなら良かった。元気にやっているといいね」
「そうだね。どんな子か知らないけどきっと元気にやってるよ」
知里ちゃんや長野くんと同じ中学なら心配なさそうだ。例え違う中学だとしても、タクマくんは楽しく生きていると思うことにした。そんな保証はどこにもないが、祈るように思ったのだ。
気になっていたことが落ち着き、ふと思った。そういえば、結構話してしまったが今何時なのだろうか。知里ちゃんの部屋にある時計を確認してみる。
いけない。そろそろ帰らないと。
まだまだ話し足りないが、結構いい時間だ。そういえば、知里ちゃんと遊ぶ時は、いつも遊び足りないと思っていた。高校生になった今でも全く変わっていない。
「新しいコーラ持ってくるね」
知里ちゃんが時間をあんまり気にしていないのも同じだった。これだから遅刻はしないにせよ、なにかあるといつもギリギリの時間に着くのだ。
「そろそろ時間じゃないかな?」
「もう少し大丈夫だよ。せっかく久々に会ったんだからさ」
「でもお友達待たせちゃうよ?」
「友達じゃないし」
「え?」
友達じゃないとはどう言うことなのだろうか。さっき、玄関で電話した感じから察するにかなり親しい間柄だということはわかる。なにもわかってない私に知里ちゃんはあっけらかんと言った。
「彼氏だよー」
納得した。確かに彼氏なら友達ではないけれど、親しい間柄ではある。知里ちゃんは恋愛の方も順調のようで、うれしくて笑みが溢れた。
「素敵な人が見つかって良かったね。おめでとう」
「ありがとう。ハルカっちも彼氏とかいないの?」
「私は全然だよ」
笑いながら答える私を見て、知里ちゃんはニヤニヤしながら言った。
「でも仲良い男の子くらいはいるんじゃないの?」
「え、えっと……」
思わぬ質問にさっきまでの笑顔がどこかへ行ってしまった。なんだか顔が熱いし、知里ちゃんを直視するのもなぜか恥ずかしくて俯いてしまう。
「これはいるな」
やはりお見通しのようだ。長野くんのことはまだ言っていないので、報告するいいチャンスだがなぜか心臓がバクバクしていた。でも言うしかない。
「うん。長野くんと仲良いよ。知里ちゃん、中学同じだよね?」
「え! 長野ってあの長野桐人? 嘘でしょ? なにがあったの?」
声が大きくなった知里ちゃんを思わず見てしまった。元々感情を大きく表に出すタイプだが、それでも大きすぎるくらい目を丸くしている。なにをそんなに驚いているかわからず、困惑しながら言った。
「えっと……落とし物拾ってそれがきっかけで……」
難病カードのことを言うことができないのでうまく濁したが、知里ちゃんに嘘を吐いたみたいで申し訳ない。それでも私を疑う素振りさえ見せず、知里ちゃんは目を輝かせながら言った。
「すごっ! こんなことあるんだね」
「うん。今日、ここに行こうと思ったの、長野くんのおかげでもあるんだよ。でも長野くんと仲良く出来たのは知里ちゃんがいてくれたからかな」
「わ、私?」
「うん。知里ちゃんと遊んだ経験があったから長野くんとも遊んでみたいと思えたというか……」
「なんか役に立ったみたいでうれしいな。今度、詳しく話聞かせてよ。うちの彼氏、長野くんと仲良かったし三人でご飯行こう。次の土曜日なんてどう?」
知里ちゃんの性格を考えると長野くんを含めた四人で会おうと言ってきそうだが、なぜか三人で会おうと言った。もしかしたら知里ちゃんと長野くんは、あんまり仲良くなかったのかもしれない。そこには触れずに、確実に触れなくてはいけないところにだけ触れた。
「土曜日は予定あるんだ。ごめんね」
「なんだぁ。土曜日ならハルカっちの誕生日だったのにね」
なんと、知里ちゃんは私の誕生日も覚えていたのだ。私も知里ちゃんの誕生日を覚えているが、自分だけではなくうれしかった。
「覚えていてくれてありがとう。日曜日も祝日の月曜日も空いてるけど、知里ちゃんはどう?」
「私は大丈夫だから、彼氏に聞いてみるよ。めちゃめちゃかっこいい男の子連れてくるから期待しておいてね!」
「うん!」
知里ちゃんは彼氏のことが大好きなようだ。それだけで微笑ましい気持ちになってしまう。幸せそうで本当に良かった。次に会う時は知里ちゃんの彼氏にも会うことができると思うと、今から楽しみで眠れなくなってしまいそうだ。
帰る準備をして二人で部屋を出た。
廊下を歩き階段を前にすると、知里ちゃんは駆け出して、落ちるようなスピードで階段を下りた。一階にいる知里ちゃんがドヤ顔で私を見ている。「ハルカっちもやってみなよ」と言わんばかりのその姿が面白くて思わず吹き出しってしまったが、挑発には乗らずに手すりを使いなが一歩一歩下りることにした。
なにごとにも最初の一歩があるのだ。今日という日の一歩は、長野くんが私を勇気づけてくれたから踏み出せた。次に会ったらお礼を言おう。
階段を下り玄関まで行き靴を履いた。
「ハルカっち、今日は家まで来てくれてありがとう。これからはずっと友達だからね。もう、絶交なんて嫌だからね」
知里ちゃんの目が潤み始めてきた。このままだとまた泣いてしまう。
「今泣いたらまたメイク取れちゃうよ? もちろん、私達はずっと友達だから泣かないで」
「な、泣いてないし」
二人とも声を出して笑っていた。知里ちゃんの瞳はもう潤んでいないので、メイクを直さなくてすみそうだ。私達の笑い声に釣られたのか、襖が開けて玄関まで来た人がいた。
「あ、おじいちゃん」
博栄さんがうれしそうにやって来たのだ。
「ハルカちゃん、もう帰るんだね。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそありがとうございます」
「またいつでも遊びに来てね」
博栄さんに続けて知里ちゃんも言った。
「いつでも連絡ちょうだいね。私からもするし」
そういえば博栄さんにまだお礼を言っていなかった。今日のことの発端になっているのは、実は博栄さんなのだ。
「知里ちゃん、ありがとうね。あと、博栄さんにお礼を言いたいことがあります」
「なにかね?」
「知っている人が難病カードを貰っていて、使わせていただきました」
「ほぉ。難病カードを」
「はい。おかげで楽しい時間が過ごせました。ありがとうございます」
博栄さんに向かってしっかりと頭を下げる。
難病カードの制度を作ったのは、政治家をやっていた時の博栄さんだった。小学生の時に知里ちゃんから聞いていた話を覚えていたのだ。私が顔を上げると博栄さんは懐かしそうな、でもどこか悲しそうな顔をしていた。
「難病カードを作るために政治家になったと言っても過言ではないよ。若い頃の話なんだけどね。一番仲が良かった友達がとある不治の病になったんだ。もう自分の寿命が長くないと知ってあいつは……自殺してしまったよ」
「そ、そんなことがあったんですね」
思いもよらない博栄さんの過去に、気持ちが沈んでしまう。そんな私を察してか、博栄さんは優しい温かい声で言った。
「だから、あの時決めたんだよ。残り少ない時間を少しでも楽しく過ごせるものを作ろうってね。それが難病カードなんだ。ハルカちゃんもその人と大切な時間を過ごしてね」
え。残り少ない時間ってどういうこと。
博栄さんの言葉が心に深く突き刺さったが、これ以上は考えたくない。いや、考えても仕方ない。だって長野くんはあんなに元気だ。難病でも命に関わる病気であるはずがない。難病カードもきっとたくさん種類があるはずだ。そう思い込むことでどうにか精神を保ち言った。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「そうしてくれたら、難病カードを作った者としてうれしいよ」
すると今度は知里ちゃんが話し始めた。
「ハルカっち、色々大変なんだね。私、上手いこと言えないかもしれないけど、なにかあったら話聞くからね。なんでも言ってね」
知里ちゃんの顔からは悲しみが溢れていた。一体なぜそんな顔をしているのだろうか。やっぱり長野くんは相当酷い病気なのだろうか。
「ありがとうね。じゃ、そろそろ帰るよ。また来週」
まずは落ち着くために、早くこの場を離れることに決めたのだ。知里ちゃんも博栄さんも帰りのあいさつをしたが、耳に入って来なかった。帰りに庭を見ても良かったが、そんな余裕はなく、すぐに敷地内から出てバス停まで歩く。放心状態だったためか、行きよりも早く着いた気がした。
混乱した頭で考える。
難病カードのことをスマホで調べてしまえば答えはすぐに出るだろう。鞄からスマホを取り出してみる。だが、指が震えてうまく操作できなかったので、そのまましまった。
知里ちゃんと久々に会って楽しかったのに、なんでこんなことになってしまったのか。もちろん、博栄さんが悪いわけではない。誰が悪いわけでもないのに心は壊れそうだ。壊れないようにもう一度強く信じ込まないといけない。
長野くんの病気は命に関わるものではないはずだ。長野くんの病気は命に関わるものではないはずだ。長野くんの病気は命に関わるものではないはずだ。
何度も何度も自分に言い聞かせる。悪い考えが浮かばないようにするためにはそうするしかなかった。私が私の心を守るためにはそれしかできない。何度言い聞かせたかわからなくなった時、知里ちゃんに言われた言葉が蘇る。
『私、上手いこと言えないかもしれないけど、なにかあったら話聞くからね』
そうだ。今の私には知里ちゃんがいる。
長野くんの病気のことは知里ちゃんに話せない。でも、本当に辛い時や困った時は助けを求めよう。もちろん、知里ちゃんに困ったことがあったら助けに行きたい。そんなふうに思えたのは知里ちゃんに対してだけではなかった。
長野くんも同じだ。
――二〇一七年、九月十六日、土曜日。
待ち合わせしているコンビニの前に着いた。
いつも頼ってばかりでは良くないと思い、今日は映画館の近くにあるコンビニで待ち合わせしたのだ。違う街とはいえ今回も都会であるが、大通りから外れているため人通りは少ない。
長野くん、まだ来ないな。
もうすぐ十四時五十分になってしまうけれど、長野くんは着いていない。私はかれこれ三十分以上待っている。絶対に迷子になると思い早めに家を出たが、思ったよりも道がわかりやすく早くに着いてしまったのだ。長野くんを待っている間、この一週間抱えていた不安がさらに膨れ上がったような気がする。
長野くんとは毎日楽しくメッセージのやり取りをしているし、学校で同じクラスの男の子達と楽しそうに喋っているところも見ている。直ちに命に関わる病気とは、絶対に考えられないだろう。考えられないはずなのに、不安は募るばかりだった。
難病カードについても、あれから何度も検索しようとした。だが、調べようとしてしまうと万が一のことを考えてしまい、怖くて出来ずにいる。次第に、「最初に難病カードを拾った時から、プライバシーの侵害になるから調べてはいけないと思っていた」と考えるようになっていった。でも、それはただ恐怖から逃げ出すために、自分に吐いた嘘のようなものだ。もう、自分を騙すことも限界にきている。
本人を目の前にしたら、自分がどうなってしまうかわからない。なにか変なことを言ってしまい、長野くんを傷つけてしまうかもしれない。今日の約束を白紙にすることも考えたが、それさえも出来なかった。
だって、長野くんに会いたいから。
完全に私のワガママだ。こんなことで良いはずがない。もっと心が落ち着いた状態でなければ、長野くんに迷惑がかかるかもしれない。それなのにどうしてこんなワガママなことを思ってしまったのか。知里ちゃんと絶縁して以来、初めて出来た友達だからだろうか。いや、理由なんてどうでもいい。とにかく会わないという決断を、私は出来なかったのだ。
「ハルカちゃんごめん!」
少し離れたところから声が聞こえてきたので、無意識に俯いていた顔を上げた。声がした方を振り向くと、長野くんがこちらに走って来ている。私の前まで着くと、息を切らしながら言った。
「本当にごめん。スマホの充電がうまく出来てなくて電源が落ちた。そのせいで地図アプリが使えなくてさ」
清潔感のある爽やかな服にショルダーバッグという日常的な装いなのに、その姿はまるで短距離を走り切った陸上選手のようだ。スタイルのいい筋肉質な身体付きをしていて顔も綺麗なので、どんなことをしても様になってしまう。
一方、私は今日も新しく買った服で来たが、ここに来るまでにすれ違ったオシャレな人達の中に、上手く溶け込めていた気がしなかった。私自身がとても地味な女の子なので、私が着てしっくりくる服は自然と地味なものになってしまうのだ。
だか、今はそんなことを考えている場合ではない。前回、いきなり泣かれた時もそうだったが、長野くんと会うと予期せぬハプニングがなぜか起きてしまう。
「私も時々充電忘れるし、別にそれは良いよ。それより走るのは身体に悪くない? 大丈夫なの?」
「今のところは大丈夫だよ。昔に比べるとだいぶ体力は低下したけどね」
長野くんは笑顔で言ったが、私は笑顔で応えられなかった。今のところは大丈夫ということは、大丈夫じゃなくなる日のことをもう意識しているのだろうか。もうこんな段階に来ているのだろうか。それともこれだけ走れるということは、やはり体力が低下するだけで命に関わる病気ではないのだろうか。何度も考えた似たような問いがまた頭に浮かんでしまい、長野くんから目を逸らしてしまった。
「ハルカちゃん? どうした?」
長野くんに名前を呼ばれて我に帰る。
「ご、ごめんね。なんでもない。なんか走って疲れてそうだし、水でも買って来ようか? ちょっと休んでから行こうよ」
明るく大きな声でちゃんと受け答えができた。そんな私に長野くんは申し訳なさそうに言う。
「ぶっちゃけ、疲れたからちょっと休みたいんだよなぁ。金払うから水もお願いしていいか?」
「水くらい私が買ってあげるよ」
「いや、水くらい自分の金で買うよ」
「このやり取りずっとしてたら、休憩にならないよ?」
「まぁそうだな」
長野くんは笑って誤魔化したので、私も笑い返してやった。メッセージが途切れないように毎日頑張ったからだろうか。長野くんの扱いにだいぶ慣れてきた気がする。
コンビニの前で待ち合わせをしたおかげで、すぐに五〇〇ミリリットルの水を買えた。コンビニから出る私を、肩で息をしながら長野くんはうれしそうに見ている。買ってきた水を渡すと勢いよく半分ほど飲み、ショルダーバッグにしまった。やはり相当水が欲しかったようだ。
「美味い。ありがとうな」
「どういたしまして」
「おぅ。じゃ、ちょっと休ませてもらうよ」
長野くんは前を向いて、なにも喋らなくなった。
大通りから外れているとはいえ車の音は聞こえる。そのはずなのに、なんだか異様なほど静かに感じてしまう。
荒かった長野くんの呼吸も次第に落ち着きを取り戻していった。でも、体力はまだ回復していないのか全然喋る気配がない。鼻が高いことがよくわかる綺麗な横顔を見ていると、また嫌なことが頭を過ってしまった。
このまま、目を閉じたらどうしよう。
長野くんが目を閉じてしまい、永遠に話さなくなってしまう。そんな馬鹿げた妄想が脳内に広がっていく。一人で勝手に辛くなってしまい、長野くんから目を背けて下を向いた。変な汗が流れてきて、身体が少し震え始めた時だ。
「そういえばさ。今日は空色のワンピースじゃないんだな」
良かった。長野くんが喋った。
極度の不安だったためか、安心が全身に回っていくのがわかる。身体の震えは瞬時に止まった。長野くんの方を向くと、いつもの元気そうな顔がこっちを見ている。話せる余裕が出てくると、今日の服装がちょっと心配になってきた。
「新しい服なんだけど、似合わなかったかな?」
「いやいや、違うよ。この服ももちろん似合ってるよ。ただオレ個人の好みとして、空色のワンピースが好きなだけ」
「あ、ありがとう」
今日の服と前回会った時の服が同時に褒められて、ちょっと照れくさくなってしまった。もし、次も誘ってくれるなら空色のワンピースを着よう。
「あんまり休んでると映画の時間に遅れちまうな。そろそろ行くか。休ませてくれてありがとうな」
長野くんの病気について、不安な気持ちは私の中にまだある。それでも映画に遅れたら元も子もないし、前に進むしかなかった。
「気にしないでいいよ。行こうか」
二人は歩き始めた。
映画館は次の角を左に曲がるとすぐにあるはずだ。でも、映画館が入るような大きなビルがあるようには思えない。左を曲がるといきなり現れるかもしれないとも思ったが、曲がってもそれらしきものはなく、一般的な雑居ビルが並んでいるだけだった。だんだん迷いが出てくる。
「道、間違えたかな?」
「いや、間違ってないはずだよ。看板見えるし」
長野くんが指差した方向を見ると、英語で「ドリーム・シネマ」と書かれた看板があり、雑居ビルの中には下へと続く狭い階段もあった。
なんと、映画館は地下にあるのだ。知里ちゃんの家ほどではないが階段の勾配がきつく、一番下がどうなっているかわからない。イメージしていた映画館と全く違ったが、よく見ると階段の両サイドに映画のポスターが貼られており、映画館で間違いないようだ。
階段の前で立ち止まる。
「映画館は幼稚園の時に行ったことあるけど、こんな感じだったかな?」
「あぁ、それ商業施設とかにある大きな映画館だよね? ここは単館だからな」
「え? なにそれ?」
「スクリーンが一個しかない小さい映画館で、大きな映画館でやらないようなマイナーな作品を取り扱っているみたいなんだ」
「すごい。長野くん詳しいね」
「オレも行くのは初めてなんだけどな。よし、下りてみるか」
「そうだね」
階段は狭いので二人が並んで降りることはできない。長野くんがゆっくりと下りていったので、私もそれに続いていく。こういうところに来たのが初めてであるため、階段が長いか短いかわからない。下まで着くと重たそうな扉があったが、長野くんはなんの躊躇いもなく開けた。
映画館のロビーが私達を出迎える。
私が知っている映画館に比べると確かに狭いが、地下にあるとは思えないくらい明るく親しみのある場所だった。受付のカウンターと小さな売店があり、おまけに快適に休めそうなソファーもいくつか並んでいる。前回の時も同じだったが、どうやら長野くんと狭いところに行くとソファーに恵まれるようだ。もうそろそろ映画が始まるためか、ロビーには人があまりいない。
「単館ってこんな感じなんだなぁ。すげぇいい場所。来て良かった」
「うん、私も」
「ハルカちゃんも気に入ってくれたか。良かった。あ、そうだ。チケット渡す。電子と迷ったけど、コンビニ発券にしておいて正解だったな」
「スマホは充電切れているからね」
「そうなんだよな。マジでやらかした」
長野くんは苦笑いしてから、ショルダーバッグを開ける。そこから取り出した財布から、チケットを二枚出した。その一枚を私に差し出したので、すぐに財布を出す。チケット代は難病カードの割引で学割の半分になっていると事前に言われていたので、小銭が入っているチャックを開けた。
そう、映画代は難病カードで割り引かれている。
『残り少ない時間を少しでも楽しく過ごせるものを作ろうってね。それが難病カードなんだ』
博栄さんの言葉が頭の中で突然反響し、心臓が止まるかと思った。動揺しないように深く呼吸をする。もはやここまで来ると別のことを考えることもできない。苦肉の策で悪いことを考えないで済む言葉を、博栄さんの言葉から探していく。必死に、必死に、探していく。
「ダメ……見つからない……」
独り言が漏れてしまった時、ハッとした。私はなにを言っているのだろうか。
「金ないなら今度でいいぞ? それとも小銭がない感じ? それならお釣りあるから大丈夫だぞ」
お金のことと勘違いしてくれたおかげで突っ込まれずに済んだ。長野くんのことを騙しているようで申し訳ないが、こればかりは騙すしかなかった。すぐに財布からお札を取り出す。
「ごめんね。千円でいいかな?」
「まいどあり」
千円札とチケットを交換すると、ニコニコしながら長野くんはお釣りをくれた。映画代の精算が終わったので、受付を済ませてから一つしかないスクリーンへ歩く。扉の前に立っているスタッフにチケットを見せると、劇場内に入れてくれた。
昔に行った映画館の半分くらいの広さしかなく、席はほぼ満席で私語をしている人は誰もいない。確か映画館は席が階段のようになっていたと思ったが、ここは坂に席が作られている。一番後ろの左から二番目と三番目が私達の席であり、左から一番目には誰もいなかった。
長野くんが三番目、私が二番目の席に座る。
「ハルカちゃんと映画観るの、楽しみだなぁ」
さすがの長野くんも気を使ったのか、少しトーンを落として言った。
「うん。ありがとう。私も楽しみ」
今は色々なことを考えすぎて頭がぐちゃぐちゃだ。でも、長野くんが楽しみと言ってくれたことはうれしいし、私だって映画が楽しみだ。長野んはこれ以上なにも話さなかったので、映画館は再び静かになった。
もう少しで映画が始まりそうな時だ。扉の開く音が聞こえてきた。ギリギリに入ってきたその人物の足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。足音は私のすぐ近くで止まり、隣の席に座った。なんとなく座った人を見てみると、思わず目を奪われてしまう。
隣に座っていたのは二十代前半くらいの女性だった。私よりも地味な服装でわ失礼だが全然似合っていないドッグタグネックレスをつけている。だが驚いたのはそこではなかった。
ファッションには全く興味がなさそうだが、顔が人形のように整っていて、肩まである黒い髪もシルクみたいなのだ。一般人とは違うどこか儚げな雰囲気を放っており、全く知らない人であるけれど、浮世離れしているように感じる。スクリーンの中から現れたのだろうか。こんなに顔が綺麗な女性は初めて見た。でも、男性だったら一人知っている。
顔が綺麗な男性は、逆を向くといた。私があげたペットボトルで水を飲んでいる。こちらは儚さの欠片もなく、どちらかと言えば俗っぽい。でも、それが長野くんの魅力なのではないだろうか。いつも自然体で明るく元気でいてくれるのだ。
突然、館内が暗転した。そろそろ映画が始まる。
慌ててスクリーンの方を向くと、まずは予告から始まった。全てにおいて規模が小さいだけで、単館でも普通の映画館と変わらないようだ。いくつか予告があったが、その中でもミステリー映画が面白そうだと思った。その時、大きなことに気が付く。
今までの私だったら「面白そう」って思えただろうか。小学生の時に必死に勉強をやりすぎて、物事の楽しみ方や人との関わり方を完全に忘れていたはずなのに、今は面白そうと思えている。今から観る映画のあらすじを読んだ時も、知里ちゃんの家で読んだ漫画も面白いと思えた。自分ではいつの間にかそれが当たり前のことになっていて全く意識しなかったのだ。
私が変わった理由は一つしか考えられない。長野くんに出会ったからだ。長野くんと出会ってまだ一ヶ月も経っていないけれど、大きく影響を受けている。長野くんのおかげで楽しい時間を過ごせるようになったのだ。
待ちに待った本編が始まる。
この映画を観られるのも長野くんのおかげだ。長野くんの病気という不安を振り切るように、感謝の気持ちで映画の世界に没入していく。
長野くんが言った通り、ハートフルな映画だった。精神を病んでしまった女子大生の主人公が大学を休学して田舎暮らしを始め、最初は村の風習に戸惑うも徐々に馴染んでいき居場所を見つけていくという物語だ。観ているだけで心が温まる。
特に、村で仲良くなった男の人と星空に照らされた草原で話すシーンが好きだ。主人公が完全に心を開くきっかけとなった重要な場面だが、日本にこんな素敵な場所があるなんて知らなかった。
映画はあっという間に終わりを迎える。
二時間以上は上映していたと思うが、まるで一瞬にして輝いた打ち上げ花火のようだ。それでいて、まだ映画の世界の中にいる気もする。観客はみんな同じような余韻に浸っているためか、館内が明るくなってもまだ静かにしないといけない空気だ。隣の席に座っていた美人さんが立ってから、私と長野くんも席を立ち帰りの扉へと静かに歩く。
ロビーまで着いた。
ここでは話している人やソファーで休んでいる人もいて、いつも通り過ごしていても大丈夫な雰囲気だ。ここでやっと映画が終わったことを実感した。長野くんも同じことを思ったのか、私よりも先に口を開いた。
「めちゃくちゃ面白かったな。ハルカちゃんはどうだった」
「私も面白かったよ。ありがとう」
「おぉ。やっぱオレ達、気が合うなぁ」
「あ、ありがとう」
長野くんは満足そうに笑った。面と向かって気が合うと言われるとちょっと恥ずかしい気もするけれど、それ以上にうれしい。
長野くんの視線が私からずれた。映画館の出口に向かっていた足が視線の先に進み始たので、私もついていく。すると、長野くんは一枚の張り紙の前で止まったのだ。
「この映画館の公式アカウントがメッセージアプリの友達登録を募集しているみたいだな。記念に登録しておこうかな」
張り紙には公式アカウントのQRコードと登録の特典が書いてあった。
「私もしておこうかな? でもQRコード読み取るアプリが……」
「カメラをかざすだけで大丈夫だよ」
「ありがとうやってみる」
カメラアプリを起動してQRコードを写すとリンクが表示された。そこをタップするとメッセージアプリが自動で開く。「ドリーム・シネマ公式アカウント」が画面に表示されたので、「追加」と書かれたアイコンをタップした。人生で初めて公式アカウントを追加した瞬間だ。
「できたよ。教えてくれてありが……」
長野くんは肩を落としてションボリとしていた。そのままゆっくりと私の方を向く。
「スマホの充電ないの忘れてた」
「あ……」
映画に記憶が上書きされてしまい、私もすっかり忘れていた。
「本当にやらかしちまった。もう帰ろう」
二人は帰る方向へと向かう。
映画館から出て階段を上がりきると、ビル群がおかえりと言ってくれたような気がした。長野くんもがっかりしながら歩いていたが、もうすっかり元気になっていて、そのままスキップしてしまうような勢いだ。勢いのまま映画の感想を話し始める。
「星空のシーンがあったよね。オレさ、あれが観たかったんだよ。予告で見るより綺麗で最高だった」
まさか長野くんも同じシーンが好きだとは思わなかった。本当に私達は気が合うようだ。
「私もあのシーンが一番気に入ったよ。あんなところ日本にあったんだね」
「あれね、長野県にあるんだよ。ずっと行ってみたくてさ」
「へぇ。長野ってすごいね」
「お? オレのこと褒めてくれた?」
「長野県の方ね」
雑談を交えながら映画の感想で盛り上がり、帰り道はあっという間に駅の改札まで着いた。おかげで長野くんの病気に対する不安が込み上げてくる隙がなかった。でも正確にいうならば、隙ができないように私も頑張って話したのだ。元々お喋りが得意な方ではないので、楽しいけどちょっと疲れた気がする。
今回は用事がないようで、長野くんも電車に乗った。
電車はどうにか座れる程度には空いており、ここでも他の乗客の迷惑にならない声で映画の感想を語り合った。ここまでは会話が弾んだのだ。
電車を別の路線へと乗り換える。こちらの電車の方が空いており、余裕を持って座ることができた。だが座った途端、長野くんは喋らなくなってしまったのだ。健康な私でも疲れているので、きっと疲れてしまったのだろう。
不安がまた押し寄せてくる。
長野くんの方を見てみると、無表情で前を向いていた。疲れているようには見えないけれど、元気があるようにも見えない。なんて声をかけたらいいかわからなかったが、まだ最寄り駅までは距離があるので、もう寝るしかなかった。寝ている間は不安を感じずに済む。
目を閉じると、電車の走る音が子守唄のように聞こえてくる。車内の揺れも心地よく、すぐに眠れるはずだった。だけど、全く寝付けそうにない。不安はどうやら私も夢の世界へ逃してくれないようだ。
さっきまでは時間を感じなかったのに、今は駅と駅の間が異常に長く感じる。もうすぐ長野くんの最寄駅に着いてしまうので、眠ることを諦めて目を開いた。目を閉じた時よりも、電車の中は混雑している。
「ねぇ、ハルカちゃん」
「な、なに?」
突然、長野くんが話しかけてきて、驚きで声が裏返ってしまった。でもそんなことよりも、心なしか長野くんの声が暗い気がする。長野くんの方を見ると、しょんぼりと下を向いてた。
「今日、もしかして乗り気じゃなかったかな?」
「え?」
一体、なにを言っているのだろうか。確かに不安は常に付き纏っていたけど、私は今日を楽しみにしていた。長野くんは淡々と話を続ける。
「今日一日、いつもと様子が違って暗い感じがしたんだ。オレ、ハルカちゃんのこと結構強引に誘ってるから、もしかしたらオレといるのが本当は嫌なのかなとか考えちゃって……」
長野くんに完全に見透かされていたのだ。カラオケで無意識にリズムを取っていたくらいだから、もしかしたら自分では気づかないところで、態度に出てしまったのかもしれない。そうだとしても、かなり勘違いされている。
「そんなことないよ。長野くんといるの楽しいよ。嫌だなんて思ったことないから」
「そっか。それならオレの考えすぎだったのかな」
長野くんの声にいつものような明るさは戻らず、なんだか煮え切らない様子だ。このままでいいのだろうか。きっと長野くんはモヤモヤを抱えてしまっただろう。私だってモヤモヤを抱えている。向き合うことは怖いけど、長野くんに嫌な思いをさせるのはもっと嫌だ。
「……ちょっと話したいことがあるの。長野くんの家の近くに二人で話せそうなところない?」
内容が内容だけに、こんな人が多い電車の中で聞けるものではない。だから場所を変えようと聞いてみたのだ。長野くんは私を見て言った。
「それなら駅の近くに公園があるからそこにしよう。まさか愛の告白か?」
いつもの長野くんだ。声は明るく、イタズラっぽく笑って私をからかっている。
「違うって。もう、なんでそうなるの?」
人の気も知らないで冗談を言う長野くんに、安心して笑ってしまった。私に釣られてか、長野くんも安心したように微笑んだが、なにも言い返さなかった。
長野くんの最寄駅で降りる。
特に言葉を交わさないまま長野くんについていくと、駅のすぐ近くにちょっと広めの公園があった。通り道になっていて人が数人歩いているが、ここなら問題なく話せそうだ。ベンチに座ると、長野くんの方から話しかけてきた。
「話したいことってなに?」
博栄さんが言っていたことの真相を聞こうと思った時、まだ長野くんにお礼を言えていないことを思い出した。まずはそこから話そう。
「長野くんと遊んだ次の日なんだけどね。絶縁していた親友の家まで謝りに行ったの。長野くんがカラオケで一歩勇気を踏み出すように言ってくれたおかげで出来たんだよ。ありがとう」
「良かったな。オレはなんもしてないけど、マジで良かった」
長野くんはまるで自分のことのように喜んでくれた。本当に心の底からうれしそうだ。
「全部、長野くんのおかげだよ」
「いやいや、オレはマジでなんもしてないぞ? ハルカちゃんと田中さんが切っても切れない縁を作れたからだよ」
「え? なんで知里ちゃんだって知ってるの?」
「正文からメッセージがきてさ、ちょっとだけ話を聞いていたんだ。ハルカちゃんの口からも聞けて良かったよ」
そういえば知里ちゃんの彼氏と長野くんは中学生の時に仲が良かったと言っていた。正文とはおそらく知里ちゃんの彼氏のことだろう。でもやっぱり長野くんと知里ちゃんはあまり親しくないようだ。私や正文くんのことは名前で呼んでいるのに、知里ちゃんのことは名字で呼んだ。ちょっと寂しかったが、本題はそこではない。
「知里ちゃんのおじいちゃんにも会ったんだ」
「おぉ、そうか」
「知里ちゃんのおじいちゃん、昔、政治家やっていてさ。難病カードの制度を作ったんだよね」
「そうだったのか! 知らなかった」
公園を歩いている人がこっちを見てしまうほど大きな声で長野くんは言った。目を丸くしてこっちを見ている。
「うん、そうなんだよね」
「田中さんのおじいちゃんに感謝だなぁ」
長野くんはニコニコと笑っている。それでも私はとてもそんな気分にはなれない。これから本題を話そうと思うと、不安や恐怖がまた込み上げてきたのだ。だけど、もう逃げるわけにはいかない。
「知里ちゃんのおじいちゃんね、残り少ない時間を少しでも楽しく病気の人が過ごせるように、難病カードを作ったんだって」
「すげぇ。めっちゃ立派な政治家だな」
「……長野くんの病気ってそんなに悪いの? 知里ちゃんのおじいちゃんの言葉がずっと引っかかっていたの」
長野くんの表情が変わった。明らかに動揺して私から目を逸らして下を向いた。だがすぐに観念したかのように大きなため息を吐く。真っ直ぐ私を見るその表情は、長野くんとは思えないほど真剣だった。
「ごめん」
「え……」
なんで謝られているのだろうか。全く意味がわからない。なにも言えなくなってしまった私に、今度は妙に軽い口調で長野くんはとんでもない事実を告げた。
「いや、本当にごめん。あのカード、余命半年切ってる人しかもらえないんだよね。いつかちゃんと話さなきゃいけないよなぁって思っていなんだけど、余計な心配かけたくなくて言い出せなかった」
「半年って……」
ある程度は覚悟していたが頭が追いつかない。長野くんが言った言葉をただオウム返しすることで精一杯だ。
「あぁ、それなんだけど……実はもう十二月までもたないんだ。色彩灰化っていう特定の色が見えなくなる症状があって、それが出ちまったからね」
「そんな……だって長野くん元気じゃん。そんな話、受け入れられないよ」
考えるよりも先に言葉が出てしまいハッとした。長野くんに失礼で酷いことを言ってしまったのだ。すぐに謝ろうと思ったが、長野くんは諦めたように笑ってから言った。
「信じられないのは無理ないよ。この病気、死ぬ数日くらい前までは元気だからね。一週間もしないうちに足から身体が徐々に灰になっていくんだ」
「は、灰?」
「そう。灰壊病って病気で体が灰になっちゃうの。骨も残らないから火葬場いらずってわけよ」
まるでいつもの冗談のように長野くんは言った。冗談ならタチが悪すぎる。でも冗談であって欲しい。
長野くんから目を逸らし、自分の靴を見る。長野くんがショルダーバッグを開けるような音が聞こえてきたが右から左に流れていった。
「ちょっとオレの方を向いて」
自分に向けて長野くんが言ったと、理解するのに少し時間がかかった。ゆっくりと長野くんの方を向くと笑顔で私の方を見ている。その手には包装された長方形の箱が置かれていた。
「今日はハルカちゃんの誕生日だろ? これ、プレゼントね」
一体、誕生日のことをいつ話したのだろうか。自分でも誕生日だと言うことを忘れてしまうくらい頭が真っ白だったためか、全く思い出せない。それでもプレゼントを差し出された驚きで、反射的に声を出すことができた。
「え? これを私に?」
「もちろん。渡せないかなと思ったけど、渡せて良かったよ。開けてみて」
「う、うん」
プレゼントを受け取って包装を外すと、オシャレな箱が出てきた。箱を開けて中身を見る。
真っ青な財布だ。
私が持っているワンピースの空色とは違い、こちらの青の方が高級感がある。私には勿体ないくらいだ。
「可愛い。これ、本当に貰っていいの?」
「あげるために買ったんだから、むしろ貰ってくれよ」
「ありがとう。大切に使うね」
「気に入ってくれてよかった。空色はハルカちゃんに似合うからさ」
「これ、空色というにはちょっと濃すぎない? でもこの色も好きだよ」
長野くんは軽く笑うと、最初に謝った時と同じくらい真剣な顔になった。
「こちらこそありがとうな。今日はオレのせいで辛い思いさせてごめんね」
辛い思いは確かにした。でもそれだけではなかった。長野くんに伝えたい気持ちを言葉にする。
「長野くんは悪いことなんてなにもしてないし、今日は楽しかったよ」
「そう言ってもらえるとオレも少しは楽になるよ」
笑顔になった長野くんに、私も笑顔を返した。こうやって自然と笑えるようになったのも長野くんのおかげだ。
「もう遅いからそろそろ帰ろうぜ」
「そうだね。今日は映画もプレゼントもありがとう」
「そんなの気にしなくていいよ。駅まで送ろうか?」
「お願いしようかな」
帰る準備をして、公園のベンチを立った。
駅までの短い道のりは、まるで何事もなかったかのようだ。長野くんが面白い話をしてくれて、楽しくお喋りする。普段の二人と変わらない。
改札の前に着いたので、長野くんとはここで別れた。駅のホームまで一人で降り、電光掲示板を見る。電車は行ったばかりのようでしばらくは来ないようだ。
一人になると恐怖が押し寄せてくる。
なにもしないと余計に怖くなりそうなので、スマホでメッセージアプリを開き、二人のやり取りを見た。さっきも会ったし、長野くんは確かに存在している。それがもうすぐ灰になって死んでしまうなんて、あまりにも現実離れしていて信じられない。
長野くんを失う恐怖に抗うようにやり取りを遡る。すると長野くんのアイコンに指が触れてしまいプロフィールが表示された。名前の下に、ケーキのマークと日付が書いてある。どうやら誕生日がプロフィールに表示されるようで、きっと長野くんもこれを見たから私の誕生日を知っていたのだろう。
長野くんの誕生日はもうとっくに過ぎていた。十二月までもたないと言っていたので、プレゼントをお返しすることもできない。そう思うと身体が震えてきた。長野くんの寿命が残り僅かだなんて信じたくない。
そうだ。難病カードを調べよう。
僅かな望みだった。難病カードの正確な交付条件は長野くんからしか聞いていない。もしかしたらなにかの間違いの可能性だってある。長野くんが私をからかって言ったことだってあり得るかもしれない。
難病カードについて検索すると、政府のホームページが出てきた。祈るような気持ちでクリックする。一般向けに作られたホームページでレイアウトも見やすく、わかりやすい言葉で難病カードについて説明されていた。
難病カードは余命半年を切ると貰える。
どこを読んでも、何度読み返しても、文章の意味を無理やり深く考えても、そこに書かれていた事実は覆ることがなかった。長野くんがカードを持っている時点で余命半年を切っていることに間違いはないのだ。
電車が来たので乗った。
空いている席がなかったので、絶望しながら電車に揺られる。あと二ヶ月もしないうちに長野は灰になってしまう。その事実がより鮮明になったのに全くイメージが付かない。そういえば、全くイメージできない病気が他にもあった気がする。
最寄駅に着いた時、ふと思い出した。
確かエーテル気化症候群だ。長野くんと初めて会った日、教室で病気の特集を読んだけどそこに書いてあった気がする。もしかしたら、その記事に灰壊病についても書いてあるかもしれない。
電車から降り、灰壊病について調べる。
人生で初めて歩きスマホだ。人の邪魔にならない場所まで着いて足を止める頃、その記事は見つかった。これが最後の望みだ。長野くんの寿命がそこまで短くない可能性に賭けて、灰壊病のところをじっくりと読む。その記事を読み終わると、今度は別のホームページを読んだ。
『灰壊病の遺伝子を持っていても発症するのは稀である』
『体力が低下していく』
『特定の色が見えなくなる色彩灰化が起きると、約三ヶ月後に亡くなる』
『体毛灰化が起きる』
ここまでの情報を得た時、思い出した。そういえば長野くんにスマホを操作してもらった時、画面に白い粉みたいな物がついていたのだ。夜のコンビニで会った時も、なにかがジャージの袖から溢れるのも見た。もしかしたら、あれが灰になった長野くんの体毛だったのかもしれない。
それでも希望を捨てずにさらに情報を調べる。
『足趾灰化が起きると、三日かけて四肢が灰になる』
『眼球灰化が起きると、二時間以内に残りの全てが同時に灰化して亡くなる』
『灰壊病の治療方法はなく、薬で体力の低下を防ぐことしかできない』
私が望んでいる情報はなに一つなかった。絶望さえも失い、虚無のまま駅を後にしたのだ。
もう外はすっかり暗くなっている。帰り道を漂うように歩くと、いつの間にか家の前まで着いていた。チャイムを押してからドアを開く。
「ただいま」
力なく言う私を、お父さんが心配そうに出迎えてくれた。
「るーちゃん大丈夫か? 具合悪そうだけど」
「ちょっとね。今日はご飯いらない」
「相当顔色悪いよ。早く寝な」
「そうする」
二階にある自分の部屋に入ると、ベッドに寝転んだ。疲れが一気に噴き出して身体が全く動かない。次の日も一日中、トイレと水分補給以外はベッドから起き上がれずなにもできなかった。出来たのは長野くんになにもしてあげられない自分の無力さを憎むことだけだ。
知里ちゃんと会う日が月曜日で良かった。
――二〇一七年、九月十八日、月曜日。
今日は知里ちゃんと彼氏の正文くんに会う。
昨日までショックで寝込んでいたので、体調は万全とは言えない。それでも、電車の中で寝ることができたので朝よりはだいぶ良くなった。待ち合わせのカフェが私と知里ちゃんが住んでいる場所の間にあるので、電車に乗る時間がそこそこ長かったのだ。
カフェに着くとすぐに二人を見つけた。
お昼時ということもありそこそこ広い店内は混んでいたが、金色の頭と薄いピンクの派手な服はよく目立つ。一方、隣にいる知里ちゃんの彼氏は、短髪でいかにもスポーツをやっている体格の良い好青年という印象だ。女の子っぽく見える長野くんとは違い、いかにも男らしいかっこよさがある。きっと、この彼氏のおかげでいつも時間ギリギリの知里ちゃんが、余裕を持って来られたのだろう。
「おーい、ハルカっち! こっち、こっち!」
知里ちゃんも私に気がついて、手を大きく振っている。知里ちゃん達が座っている四人がけの席まで向かった。席の前まで着いた私に、知里ちゃんの彼氏は軽く会釈する。
「こっちは私の親友のハルカっちで、こっちは私の彼氏の正文ね。二人とも仲良くね」
お互いに自己紹介をする前に、知里ちゃんが私を紹介してくれた。
「どうも、初めまして」
「初めまして。知里の彼氏の正文です。よろしく」
「硬いあいさつはいいよ。ハルカっちはとりあえず座って」
「そ、そうだね」
言われるがまま席に座ると、知里ちゃんがメニューを渡してきた。どれも美味しそうで迷ってしまったので、ここは無難に本日のオススメハンバーグに決める。三人で注文を済ませると、知里ちゃんが私をまじまじと見ながら言った。
「そういえばハルカっち、小学生の時もこんな服持ってなかった?」
今日は空色のワンピースで来たが、私ですら小学生の時に持っていたか記憶が曖昧だった。知里ちゃんが覚えているということは、昔も似たような服を着ていたということで間違いない。
「知里ちゃん、よくそんなこと覚えてるね」
「へへ。まぁ勉強はそこそこできるし、記憶力には自信あるからね」
得意げに言う知里ちゃんに、正文くんは苦笑いで言う。
「おいおい、あんまり調子に乗るなよ」
「えーいいじゃん」
口を尖らせる知里ちゃんを無視して、正文くんは私の方を向いて笑いながら言った。
「いやぁ。知里の親友で桐人が仲良くできる女の子って聞いていたから、もっとヤバい人が来ると思ったよ。でも真面目そうな人で良かった」
長野くんの名前が出てきて、刺されたかのように心が痛んだ。でも、今日は三人で楽しくお話をするためにここまできたので、どうにか痛みを堪え普通に声を出す。
「あ、ありがとうございます」
真面目なのは見た目だけで、本当は勉強ができない劣等生だ。それでもわざわざ言う話ではないので、お礼を言うしかなかった。知里ちゃんは正文くんにブーブーと文句を言っているが、それよりも気になることを正文くんは言った。
「まさか桐人が女の子と仲良くなるとは思わなかったよ」
「え? そうなんですか?」
人当たりが良くてコミュニケーション能力が高い長野くんなら、女子と仲良くなっても不思議ではない。そんなに驚くような話なのだろうか。今度は知里ちゃんが文句を言うのをやめて話し始めた。
「長野くん、私以外の女子全員から告白されたのに全員断ったからね」
「全員? すごい……」
「おい、知里。話盛るなよ。相当な人数から告白されてるのはあってるけどさ」
知里ちゃんはテヘっと笑った。
「やっぱり長野くんってモテたんだ。高校でも相当人気あるよ」
「でも桐人、今も彼女いないでしょ?」
「あ、はい」
確かに、長野くんに彼女がいるという話は聞いたことがない。すると、正文くんは信じられないことを言ったのだ。
「あいつ、小学生の時から女子が苦手だったからね。こっちに戻ってきてからは、話しかけられれば普通に話すし、顔見知りにはあいさつくらいはするようにはなったけどさ。それでも絶対に自分から絡みに行かなかったんだよ」
正文くんの言葉に、知里ちゃんも同調する。
「そうなんだよね。一部の女子は気付いていたけど、長野くんって女子が苦手なんだよ。だから今日は私がいるから、呼ばなかったの」
二人して言うのだからきっと本当なのだろう。だが、私の経験から考えるとにわかには信じられなかった。
「私、長野くんと面識がない時にあいさつされたことあるんだけど……」
私の言葉に、知里ちゃんと正文くんは声を出して驚いた。カフェにいる他のお客さんの迷惑になってしまったのではと思い、思わずキョロキョロ周りを見てしまう。でも、こちらに興味を持っている人は一人もいなかった。
少し落ち着いた知里ちゃんが言う。
「もしかして、高校デビューでキャラ変?」
「あいつ、知らない男子だったらノリで声かけることあるから、それもあり得るかもな。女子には異常なほど硬派だったからその方がいいよ」
そういえば、長野くんが自分で自分のことを硬派だと言っていた。正文くんまで言うということは、あながち嘘ではなかったのだ。
知里ちゃんはニヤニヤと私を見ている。確か知里ちゃんの家でもこんな風に私を見てきたことがあった。
「私、わかっちゃった。長野くん、ハルカっちに一目惚れしたんだよ」
思い出した。仲が良い男子の有無を聞いてきた時の顔だ。この顔で話す時は、ろくなことを言わない。おかげで耳が熱くなるほど恥ずかしくなった。長野くんが私に一目惚れなんてあり得ないと言おうとした時だ。
「それは違うと思うなぁ」
正文くんが私よりも先に否定したのだ。私は驚いただけで特に嫌な気持ちにはなっていないが、知里ちゃんはちょっとムッとしているようだ。
「なんで正文がそんなこと言うの? おかしくない?」
正文くんはしまったと言わんばかりの顔をして目を泳がせた。このままだと二人が喧嘩になってしまうかもしれない。
「知里ちゃん、そんなに怒らなくていいよ」
「だって、この言い方めっちゃ失礼じゃない?」
すると正文くんはおどおどしながら少し小さな声で話し始めた。
「ごめんね。俺の言い方が悪かった。これさ、秘密なんだけどね。桐人、昔好きだった人のことがずっと忘れられなくて、彼女を作る気になれないって言っていたんだ。だからあり得ないって言っちゃって……」
昔好きだった人が忘れられない。なぜかその言葉が私の心臓を締め付けるような感じがした。長野くんがもうすぐ死んでしまうと知った時とは全く違う、別の嫌な感覚だ。一体、これはなんだろうか。
だが、そんなことを考えている場合ではなかった。正文くんがごめんねと大きく頭を下げたのだ。
「私、怒ってないから大丈夫ですよ。知里ちゃんも許してあげて。いいよね?」
「ハルカっちがそう言うなら許してあげよう。それにしても長野くんに好きな人がいたのかぁ。そんな話、聞いたことなかった」
正文くんは頭をあげて、知里ちゃんを見ながら言った。
「おまえ、絶対にそれ誰にも言うなよ? どんな子かとかどこで知り合ったかとか色々聞いたけど、あいつそれ以上のことは絶対に教えてくれなかったんだ。教えてからこんなこと言うのも変だけど、結構トップシークレットだよ」
「大丈夫、大丈夫。わかってるって。誰にも言わないから安心して」
知里ちゃんが笑いながら答えると、ちょうど注文した料理が三人分来た。お腹も空いていたので、いただきますと言ってから目の前に出されたハンバーグを口にする。
「美味しい。知里ちゃん、この店選んでくれてありがとう」
パスタを一口食べてから知里ちゃんは言った。
「このカフェ、料理が美味しいって評判だからね。料理もいいんだけどさ、ハルカっちと長野くんの話聞かせてよ。どっか遊びに行ったの?」
「俺も気になる。あいつに聞いてもなんかはぐらかされたし」
「うん。いいよ」
難病カードのことは伏せつつ、まずはカラオケの話からだ。長野くんが歌うように勇気づけてくれたことと、南條あゆみを知里ちゃんが教えてくれたから歌えたことのお礼が言えた。
「え! あゆみちゃんの曲歌ってくれたの!? うれしい!」
「うん。歌うための一歩を踏み出せたから、知里ちゃんに謝るための一歩も踏み出せたんだ。」
自分が泣きじゃくったことを思い出したのか、知里ちゃんはちょっと気まずそうに笑った。
映画館に行ったことも話した後も、三人でご飯を食べながら会話はさらに弾んだ。正文くんともすっかり打ち解けて、今日もまた新しい友達が出来たと言っていいだろう。ご飯を食べ終わっても会話は終わらず、もうどれくらいの時間が経ったのかわからない。会話の内容は多岐にわたり、なぜか正文くんの筋肉の話になった。
「正文くん本当にすごいんだよ。めちゃくちゃムキムキだから。ハルカっちにも見せてあげなよ」
「ここで?」
若干戸惑っていた正文くんであったが、袖を捲って力こぶを作った。細いように見えて意外と筋肉がある長野くんとは違い、同じ高校生とは思えないくらい太くて力強く見える。
「すごいですね。なにかスポーツでもしてるんですか?」
「野球やってるよ。あとは将来のために鍛えてるってのもあるね」
「やっぱりプロ野球目指してるんですか?」
「プロに行けるほどは上手くないよ。将来は警察官になりたいんだ」
正文くんは自分の将来を考えて今からやるべきことをやっているようだ。一方、将来やりたいことがないので、私はなにもやっていない。長野くんと出会ったり、知里ちゃんと仲直りしても、そうした意味では空虚な人間であることには変わりなかった。
「正文くんは偉いですよね。将来のことちゃんと考えていて」
「ありがとう。まだ全然大したことやってないけど、警察官になれるよう頑張るよ」
「ハルカっちはなにか将来の夢とかないの?」
「特にないかな」
「そっか。でもハルカっちなら頭良いし医者でも弁護士でも科学者でもなんでもなれるよ」
知里ちゃんの中で、私は勉強ができる子のままで止まっているのだろう。
「でも、中学入ってからずっと成績悪いし……」
「大丈夫。なんとかなるよ。ハルカっち、あんな難しい学校に中学から入ってるんだから自信持って」
「俺も頑張れば大丈夫だと思うよ。桐人だって勉強出来なかったけど中学から頑張ったからね」
「え? 長野くんって特別選抜クラスですよ?」
特別選抜クラスの中でも勉強ができると評判だ。勉強が出来なかったなんてありえるのだろうか。
「中一のゴールデンウィーク明けくらいかな。『オレ、このままじゃ良くない』って言って、部活辞めて勉強に専念したんだよね。朝早くから学校行って勉強していたみたいだし、相当頑張ったと思うよ」
長野くんが陰でそんなに努力をしているなんて知らなかった。下駄箱で初めて会った時も、もしかしたら自習しに来ていたのかもしれない。勉強に専念したのに人間関係も上手くいって明るくて、長野くんは私とは違って本当に尊敬されるべき人間だ。
知里ちゃんも大きく頷いてから言った。
「そうそう。どんどん、成績あがったよね。だからハルカっちだって、きっとなんにでもなれるよ。失言だらけの私でもおじいちゃんみたいな政治家目指してるし、一緒に頑張ろうよ」
「そうだな。確かに失言だらけだな。こんな奴でも夢があるんだから、きっとハルカさんも見つかるよ」
「ちょっと、正文。失言だらけの部分は『そんなことないよ』って優しく否定するところでしょ?」
二人の微笑ましい励ましがうれしかった。だけど自分が将来そんな立派な仕事をできる自信がない。うちの学校に入学して上には上がいると知ったし、私には無理だろう。
知里ちゃんは正文くんに文句を言っていたが、なにか思い出したかのように鞄を取るように言った。正文くんが派手な鞄を渡すと、知里ちゃんはそこからピンク色の袋を取り出した。
「ハルカっち、一昨日誕生日だったよね。はい、プレゼント。開けてみて」
「え? いいの? ありがとう」
プレゼントを受け取り開けると、中には箱に入った高そうなシャーペンが入っていた。知里ちゃんはドヤ顔で言う。
「これ、書いても疲れにくいシャーペンなんだよ。ハルカっちにはこういう実用的なものが良いと思ってさ」
「うれしい。大事に使うね」
ピンク色の袋の中にシャーペンを入れて、自分の地味な鞄にしまった。
カフェで相当長い時間過ごしてしまい、そろそろ客層が夕食へと切り替わり始める時間だ。家ではお母さんが夕ご飯を用意しているから夕飯まで食べるわけにはいかない。
「今日はこの辺にしておかない? 二人ともありがとう」
「ハルカっちこそありがとう。正文くんのこと紹介できて良かったよ」
「俺も会えて良かったよ。ハルカさんすごく感じ良くて楽しかった」
何度も大きく頷いてから知里ちゃんは言った。
「わかる、わかる。ハルカっちは超感じ良いからね。さすが、私の親友」
「おまえは感じ悪いけどな」
ツッコミを入れる正文くんを無視して、知里はニヤニヤしながら私を見た。
「ここだけの話ね。正文くんって誰かといる時はこうなんだけど、二人でいる時は超優しいし、私のこと大好きなんだよ」
正文くんは顔を真っ赤にしながら狼狽えている。本当に心の底から知里ちゃんのことが大好きなようだ。照れ隠しのためか大きく咳払いし、正文くんは私の方を見て言った。
「誕生日のお祝いに、今日の会計は俺がするよ」
初めて会った人にご馳走してもらうのは申し訳ない気もしたが、せっかくの誕生日祝いだ。
「良いんですか? それならお言葉に甘えて……」
「わぁ、正文ありがとう。ごちそうさま」
「いや、知里は自分で払えよ」
結局、正文くんは全員分の食事料金を払ってくれてこの日は解散となった。
長野くんに残された時間が少ないというショックは消えない。それでも今日はカフェでの会話を思い出しながら、暗い気分にならずに帰ることができた。知里ちゃんと正文くんのおかげだ。
だけど布団の中で寝る前に考えてしまったのだ。
知里ちゃんも正文くんにも将来やりたいことがあった。でも私は将来のことなんて全く考えていない。本当にこのままでいいのだろうか。自分にやりたいことがあるのか考えようとした時、それは一瞬で頭の中に浮かんできてしまった。
長野くんが生きられるようにしたい。
このまま寝てしまえばそんな夢を見られるかもしれない。でも、現実的に考えて私には無理な話だ。治療法が確立されていない病気に対して、ただの高校生、それも勉強ができない劣等生はあまりにも無力すぎる。
それでも長野くんのためになにかしたい。将来のことは全く考えられないけれど、これが今の私のやりたいことだ。私の日々を変えてくれた長野くんのためになにかできることはないのだろうか。色々な記憶を手繰り寄せ、必死に考える。
突然、閃いた。
ベッドから飛び起き電気をつけ、スマホを手に取る。メッセージアプリを開くとその勢いのまま、長野くんに通話した。もしかしたらもう寝ているかもしれないと思ったが、自分を止めたくなかった。今止めてしまうと迷いが出てしまいそうだからだ。
長野くんが電話に出る。
「もしもし、ハルカちゃんどうしたの?」
「ねぇ、長野くんが四年から六年生の間に暮らしていた街に行ってみたいの」
「急にどうした?」
さすがに長野くんも戸惑っているようだ。私がこれからやろうとしていることを悟られるわけにはいかなかったので、もう一つの理由を説明した。
「なんか長野くんがすごした街がどんなだったか気になって……」
確かに気にはなっていたが、これは理由になるのだろうか。長野くんは考えるように唸ってから言った。
「あの街、あんまり治安が良くないんだよな。でもハルカちゃんが行きたいなら、責任持ってオレが案内するよ。犯罪が日常茶飯事ってわけでもないしなんとかなる」
この理由で納得してもらえた。治安があまり良くないと聞いてちょっと怖い気もしたが、長野くんの言う通り犯罪に巻き込まれることもないだろう。
「ありがとう。今日は遅いから明日詳しく決めよう」
「そうだな。おやすみ。良い夢見ろよ」
「うん。おやすみ」
今夜は良い夢が見られそうだ。でも、私がこれからやることを考えると、胸が締め付けられる正体不明の嫌な感じがした。長野くんに好きな人がいると知った時と同じだ。
長野くんの幸せを望んでいるのにどうしてだろう。
――二〇一七年、九月二十三日、土曜日。
長野くんと合流した。
最近は大きな駅を使うことが多かったが、ここは改札が一つしかない。おかげで探すまでもなく見つけられた。
「ハルカちゃん、おはよう」
長野くんはいつもよりラフで動きやすそうな服を着て、ショルダーバッグを肩から下げていた。今日も元気にあいさつしてくれて、知里ちゃんや正文くんが言うように女の子が苦手なようには思えない。もしかしたら私は女の子だと認識されていないのだろうか。楽しく遊べるならそれでもいいと思ったが、どこか寂しい気もする。でも、長野くんに会える喜びの方が圧倒的に強い。
「おはよう。今日も遊んでくれてありがとう」
「お礼を言うのはオレの方だよ」
「え?」
長野くんは残り少ない時間を私と会うために使っている。どう考えてもお礼を言うのは私の方だ。
キョトンとする私とは違い、長野くんはうれしそうだ。
「あれからメッセージも返してくれるし、今日だってこうやって会ってくれる。めちゃくちゃありがたいよ。あんな大事なこと後になって言ったから、もう完全に嫌われたかと思った」
「この前も言ったよ。嫌いだなんて思ったことないって」
長野くんはホッと肩を撫で下ろす。
「本当にありがとうな。今日も空色のワンピース似合ってるぞ」
「う、うん……」
急に服を褒められて、照れくさくなってしまった。長野くんにそんな姿を見られたくなく咄嗟に下を向く。なんだか初めて褒められた時よりもうれしいように感じた。
「よし、行くか。オレに縁のある場所ツアー」
そんなこんなで、駅から歩き始めた。
今日は曇りで天気はあまり良くないが、この街で長野くんに縁のある場所を案内してもらう。そこで私が今後やることの手がかりを探すのだ。もちろん、長野くんにバレてはいけない。
治安が悪いと言われた割には、普通の街並みだった。それでも少しだけ気になることがある。煙草の吸い殻がやたらと落ちているのだ。時々お酒の空き缶も道に捨ててあるが、危なそうな人は歩いていない。
「そう言えばさ。ハルカちゃん、正文に会ったんだって?」
「うん。会った」
「あいつから聞いたよ。ハルカちゃんめっちゃ良い子だったって。ハルカちゃんはあいつどうだった?」
正文くんに会ったことを、長野くんに話していなかった。タクマくんの話をしなかったように、なんとなく気が進まなかったのだ。
「良い人だったよ。筋肉すごかったし」
「筋肉か。確かにあれが一番あいつの良いところだな。中学の時から筋肉モリモリだったからね」
正文くんの良いところはもっと他にもたくさんあったはずなのに、全然うまく説明できなかった。それでも長野くんはなにかツボに入ったようで、大きな声で笑っている。その時、気がついてしまった。
私、長野くんの前で男子の話をしたくないんだ。
正文くんの前で長野くんの話をするのは、嫌じゃなかった。でも、長野くんの前で正文くんの話もタクマくんの話もしたくない。なんでそんな風に思っているのか自分でもよくわからないが、それでもそう思っているので話題をずらしてしまった。
「知里ちゃんともすごく仲良さそうだったよ」
「だろうな。あいつオレに彼女の自慢ばっかりするんだよ」
思いもよらない時にチャンスが訪れた。私が聞きたい話が聞ける。
「そうなんだね。長野くんは彼女作る気はあるの?」
フッと笑ってから長野くんは言った。
「別に作る気がないわけではないぞ」
長野くんに彼女を作る気がなかったらどうしようかと思っていたが、良いことを聞き出せた。目的達成のために一歩近づいたのだ。
長野くんと好きな人を会わせる。
それが長野くんのために今の私がやりたいことだ。残りの僅かな時間を好きな人と幸せに過ごして欲しいので、今日ここに来たのも長野くんの好きな人の手がかりを探すためだった。長野くんとの会話の中でなにかヒントがあるかもしれないし、もしかしたら長野くんの好きな人に偶然会ってしまうことだってありえる。
地元に戻ってきてから長野くんは女の子と話すようになったと正文くんは言っていた。この街に行ってから変わったということは、長野くんの好きな人はこの街で出会った人の可能性が高い。
それにしてもどんな人なのだろうか。きっと、ドリーム・シネマにいたあの美人さんの様な人だろう。長野くんには私みたいな地味な女の子ではなく、芸能人みたいな美人が似合うのだ。
しばらく歩くと、長野くんは足を止めた。
「オレ、ここの道場通ってたよ」
目の前には空手の道場があった。まだ十時にもなっていないので、扉は閉まっている。
「そう言えば夜会った時、空手習ってたって言ってたね」
「そうそう。ここで鍛えたんだよ。おかげで運動苦手だったんだけど出来るようになったね」
なんと、長野くんは勉強だけではなく運動も苦手だったようだ。なんでも出来る今の長野くんからすると想像もつかない。
もしかしたら、鍛えた理由に好きな人が絡んでいるのではないだろうか。例えば道場にいた好きな子にいいところを見せようとしたとか、色々考えられる。
「なんでここで鍛えようと思ったの?」
長野くんはニコッと笑ってから言った。
「そりゃ、いつまでも弱いままじゃいけないと思ったからだよ。弱いままだとハルカちゃんのこと守れないからな」
長野くんの言葉にドキッとした。
「あ、ありがとう……」
大きな手がかりは得られなかったが、なんだか妙に満足している自分がいる。すると長野くんは妙に明るく言った。
「多分空手始めた頃の方が体力あったなぁ。今は体育休むことが増えちまったよ」
長野くんの身体は今も病魔に蝕まれている。さっきまでの満たされていた気持ちは一転し、その事実が再び目の当たりになった。
「あんまり、無理しないでね。今日もキツかったら終わりにして良いから」
「激しい運動とかしなければ大丈夫だよ。ただちょっとお腹の調子が悪いかな」
「え……それならもう帰ろうよ。病気が悪化しちゃうかもだし」
もうすでに無理をしていたのだ。心配する私を見て、長野くんはなぜかちょっと気まずそうな顔をしている。
「いや、実はさ。昨日、クラスの奴らと第二回激辛カレーどこまで食えるか大会やったんだよ。だから病気とは関係なくて……」
「ま、またそんなことやったの?」
カラオケの帰りにカレーの話はしていたが、まさか二回目もやるとは思わなかった。唖然とする私がおかしかったのか、長野くんは笑っている。
「今回は食い切って優勝したんだけどさ。そのせいで朝からちょっと腹が痛くてね」
「もう。あんまり変なことしちゃダメだよ」
「ごめん、ごめん。そろそろ次に行こうぜ」
長野くんはあんまり反省していない様子だ。呆れながらもそれが長野くんらしいと思ってしまった。学校の友達との時間を楽しめてるから良しということにしよう。でも何度聞いても、激辛カレーは絶対に食べたくないので、いつも遊ぶのが長野くんと二人だけで本当に良かった。
二人は空手道場を後にした。
「次はどこに行くの?」
「オレが通ってた小学校でも行こうかなと思って」
「いいね。見てみたい」
小学校までの道のりを歩く。やはりここも道に煙草の吸い殻などのゴミが落ちていた。住宅街に入ったが古い建物が多く、駅前よりも寂れている感じがする。ボロボロの遊具があるちょっと広めの公園の前を通った時だ。
「ハルカちゃん……」
長野くんが突然立ち止まった。一体、どうしたのだろうか。
「大丈夫?」
「無理。なんか公園のトイレが見えたら腹痛くなってきた」
思わずため息が出てしまった。
「早く行った方が良いよ」
「すまない」
そう言うと長野くんは早足で公園に入り、公衆トイレへと向かっていった。私も公園に入って近くにあるベンチに座る。
公園には私だけで、遊んでいる子供さえいない。煙草の吸い殻とお酒の空き缶が道よりも落ちていて、よく見ると公衆トイレの壁や自動販売機には落書きがある。
長野くんを待っていると、誰かが公園に来た。
入って来たのはおじさんだ。髪はハゲ散らかしており清潔感がなく、動きもどことなく挙動不審でちょっと怖い。自動販売機でジュースでも買うのかと思ったが通り過ぎ、どんどん私の方に近づいてくる。私の前で止まると、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「お嬢ちゃんいくらよ?」
「え?」
この人はなにを言っているのだろうか。でもこの表情から嫌なことを言っていることはわかる。恐怖でこの場から逃げ出したかったけど、長野くんはまだ戻って来ていない。
「いくら払えばおじさんと遊んでくれる? これでいいかな?」
おじさんはズボンのポケットからグシャグシャになった五千円札を取り出した。身体がゾワッとする。生理的な気持ち悪さが全身を駆け巡った。
「お嬢ちゃん。良いでしょ? これでおじさんと遊ぼうよ」
恐怖でガタガタと身体が震える。まさか自分がこんな目にあうとは思わなかった。
「すみませんね。この子は今、オレと遊んでるで」
頼もしい声がした方向を見ると、長野くんがトイレからこっちに早歩きで向かっていた。すぐに私の前に来ておじさんに妙に軽い口調で言う。
「ここは穏便に済ましませんか? 諦めてくれるなら警察は呼ばないので」
おじさんは長野くんを思い切り睨んでいる。
「なんだこのクソガキ。おまえみたいになんの苦労もしてなさそうな顔した奴が、偉そうなこと言うんじゃねぇよ。俺みたいな底辺にはこのくらいしか楽しみがねぇんだよ。わかってんのかぁ?」
おじさんは長野くんの胸ぐらを思い切り掴んだ。目の前で起きた暴力に、恐怖で身体が固まってしまう。それでも長野くんは笑顔で言った。
「この手、離してくれませんか? 穏便に済ませましょうよ」
さらにイライラしたように、おじさんは身体を震わせて長野くんに怒鳴った。
「うるせぇ! さっきから偉そうに人を見下しやがって。てめぇみたいなガキに上から目線で言われる筋合いねぇんだよ。ぶっ殺すぞ!」
長野くんに危害が加えられるのだけは絶対に嫌だ。その思いは瞬時に叫び声へと変わった。
「もうやめて! 離してよ!」
するとおじさんは長野くんの胸ぐらを掴んだまま、私を睨みつけたのだ。
「なんだ、なんだ? 大体、なんでこんないい男といるんだよ? てめぇみたいなクソブス女は安い金で男に買われる方がお似合いだ!」
酷い。怖い。こんなこと言われたのは初めてだ。確かに私は長野くんと一緒にいてはいけないような、クソブス女かもしれない。でもいくらなんでも酷すぎる。こんなことを平気で言うこの人が怖い。
「目、閉じて」
一瞬、誰の声かわからなかった。でも間違いなく長野くんの声だった。普段の声とは全く違い、異様に低かったのだ。
「あ? 誰に言ってんだ?」
長野くんは身体を震わせながら言った。
「……おまえじゃないよ」
私に言っているとわかったので、目を閉じた時だ。それはまるで火山が噴火したかのように聞こえた。
「おいコラ! オレのことはどんなに悪く言っても良い。だがな、この子には酷いこと言うんじゃねぇよ。この、薄汚い社会不適合者が!」
長野くんの怒号と共に、なにかが地面に叩きつけられる音がした。
慌てて目を開く。
そこには尻を地面につけたおじさんと、肩を上下にして荒い呼吸をした鬼のような形相の長野くんがいた。
「ごめんなさい。俺が悪かったです。ごめんなさい……ごめんなさい……」
おじさんは完全に腰を抜かしてしまっている。その顔は恐怖に引き攣っており、今にも泣き出しそうだ。地面に落ちているゴミを見るかのような目で、長野くんはおじさんを見ている。
長野くんが一歩、おじさんに近づく。
その足取りはフラついており、明らかに疲れていた。これ以上なにかするのは体力的にも危険だし、長野くんに暴力を振るわせたくない。
「これ以上はダメ!」
気が付いたらベンチから立って、今まで生きて来た中で一番大きな声を出していた。長野くんは私の方に振り向く。その顔はいつもの長野くんになっていたが、明らかに疲れていた。
長野くんの気が私に逸れて隙に、おじさんは悲鳴をあげながら逃げていった。初めからそこにはなにもなかったかのように、長野くんは気にも留めていない様子だ。
「大丈夫? とりあえず座って休もうよ」
なにも言わずに頷いたので、長野くんの身体を支えながらベンチまで誘導した。ベンチに座っても長野くんは肩で息をしている。よく見ると結構な汗をかいていたので、自動販売機でペットボトルの水を買ってきた。
蓋を開けて水を長野くんに差し出す。
「これ、飲めそう?」
「……ありがとう」
消えてしまいそうなほど小さな声で言うと、私から受け取りベンチに置いた。ショルダーバッグから薬を取り出すと、長野くんはペットボトルの水で流し込んだ。
薬の量はカラオケの時よりも増えている。日に日に体調が悪化しているのだ。このままでは長野くんが大変なことになってしまうかもしれない。
「救急車呼ぶから待ってて」
「呼ばなくていいよ」
「で、でも……」
「大丈夫。まだ、死なないから」
死ぬという言葉に胃酸が逆流しそうになった。色々な思いがグチャグチャに混ざり合う。空白の中に心だけが置き去りにされたように、私はなにも考えられなくなったのだ。
ベンチに座る長野くんを呆然と見ていると、ショルダーバッグからスマホを取り出していじり始めた。それから何分か経つと、公園の前にタクシーが停まる。
「タクシー、呼んだ」
「う、うん」
長野くんはベンチから立って歩き始めた。声からも体力がある程度は戻ってきたことはわかるが、それでも足元が頼りなかったので、長野くんの横について一緒にタクシーまで歩いた。タクシー運転手が私たちに気がついてドアを開ける。
「ハルカちゃんも乗って、今日はこれで帰ろう」
「わかった」
言われるがままタクシーに乗る。長野くんが自分の家の住所を言ったので、私は最寄駅を言った。タクシーで帰宅してしまうと親に余計な心配をかけてしまうという判断ができるくらいには、頭の中が正常に戻っていたのだ。
それでも長野くんになんて声をかけていいかわからず、重たい空気と沈黙も乗せたまま最寄駅に着いてしまった。料金のメーターは五〇〇〇円を超えている。半額くらいなら払えるので、長野くんから貰った財布を出した時だ。
「難病カードで割り引かれるから、タクシー代はオレが払うよ」
財布に対して特にリアクションすることもなく、力がない萎れたような声で長野くんは言った。
「で、でも私も乗ったから……」
「それなら一〇〇〇円でいいよ」
なにも言わずに一〇〇〇円札を渡すと、長野くんもなにも言わずに受け受け取った。
タクシーのドアが開き、長野くんの方を背にしながら、最寄駅の前に降りる。駅にはそれなりに人もいて車や電車の音もうるさかったが、確かに後ろから聞こえた。
「ごめん。暴力はどんな時でも絶対にダメだよな」
振り返ったと同時に、タクシーのドアは閉まり発車した。今の私には、タクシーが見えなくなるまで、見送ることしか出来ない。
後悔が押し寄せてきて、津波のように心を飲み込んでいく。私、なんてことしたんだろう。長野くんの幸せのために動いたのに、これでは苦しめただけだ。
私がもっとしっかりしていれば、もっと上手く立ち回ることも出来たはずだ。長野くんと出会った頃は上手く考えられなかったことが結構あった。あれから少しは変われたと思ったけれど、肝心な時にはなにも出来なかった。
いても立ってもいられず、メッセージアプリを開く。
【今日は本当にごめんなさい。治安が悪いって長野くんが言っていたのに私が行きたいなんて言うからこんなことになっちゃった。長野くんはなにも悪くないよ。おじさんに声をかけられた時に私が警察呼べばよかったし、長野くんが具合悪くなった時はせめて7119すればよかった。長野くんがタクシー呼んでくれたみたいに、私もなにかしないといけなかった。全部私が悪かったよ】
メッセージは、三週間経っても既読にならなかった。
――二〇一七年、十月十三日、金曜日。
中間テストが終わり、帰り道を一人で歩く。
あれから長野くんからの連絡はなく、テスト勉強どころではなかった。それでも知里ちゃんから誕生日に貰ったシャーペンを無駄にしたくなかったので、どうにかこうにか勉強してみたのだ。おかげでいつもと同じように、留年は免れたと思う。
長野くんからの連絡がなくなっても元の生活に戻っただけだ。いや、知里ちゃんと仲直り出来ているから、長野くんと出会う前に比べたらむしろプラスになっている。そのはずなのに毎日が辛くて苦しく、知里ちゃんに愚痴を聞いてもらうことさえも億劫になっていた。
一方、学校で見かける長野くんは相変わらず楽しそうだった。たくさんの友達に囲まれてキラキラとしていて、私一人くらいいなくなってもきっと大して変わらないのだろう。
駅までの途中、カップルが目に入る。
おそらく後輩だと思うけれど、幸せそうに手を繋ぎながら歩いていた。もし、長野くんと好きな人を再会させたらこんな風になっていたかもしれない。そんなことを考えると、いつも私を埋め尽くしているものが、グチャグチャに混ざり合って心をかき乱していく。
長野くんの声。
長野くんの顔。
長野くんの言葉。
長野くんとの思い出。
長野くんの未来。
長野くんへの感謝。
長野くんへの後悔。
長野くんへの正体不明の感情。
辛くて苦しいのに、どこかでそれを強く求めている自分もいる。このままだと壊れてしまいそうだ。
カップルを見るのをやめて、その横を早足で通り過ぎた。距離が離れた頃、またダラダラと力なく歩き始める。私にはこうやって一人で歩いている方がお似合いなのだ。
改札を抜けた時、スマホが震えた。
まさかと思い慌てて鞄を開けてスマホを確認すると、新着メッセージが一件入っていた。僅かな可能性に賭けてみて、画面をタップしてみる。
ドリーム・シネマからのお知らせだった。
長野くんからメッセージが私に来るわけがない。それでも期待してしまった自分が嫌になる。失意のままメッセージを読んだが、そこにはあることが書いてあった。
気になっていたミステリー映画、今日公開だ。
席にも余裕があり、今から行ってお昼ご飯を食べても間に合う。そういえば、長野くんと仲良くなれたのも気分転換にあの丘まで行ったからだ。気分転換になにかをすれば、もしかしたらまたなにか変わるかもしれない。テストも終わったから観に行くのも悪くないだろう。映画を観て少し元気になれたら、知里ちゃんに泣きつこう。
帰りとは違う方向の電車に乗り、メッセージアプリを開く。
【お母さんごめん。今日お昼ご飯いらない】
メッセージを送るとすぐに返事が来た。
【友達とご飯でも行くのかな。わかった】
これで大丈夫だ。電車を乗り継いでドリーム・シネマの最寄駅に着いたので、駅ビルにあるお店でお昼ご飯を食べることにした。最初は上の階にあるお店で食べようと思ったけれど高校生が払うにはちょっと値段が高い。お昼ご飯を諦めようと思ったが、地下にメックバーガーがあったので、そこで済ませることにした。ファストフード店なら財布に優しい。
ご飯を食べ終え、ドリーム・シネマの前に着いた。
初めて来た時は見つけられず長野くんに教えてもらったけど、隣にはもう誰もいない。空はなんだか曇り始めて来ているが、このまま考えても私の心まで曇ってしまいそうだ。
階段を降り扉を開け、ロビーの中へと入る。すぐに受付の前に行き、映画の名前と枚数を言って席を決めると、店員さんが言った。
「学生割引で一〇〇〇円です」
制服のまま行ったためか、生徒手帳の提示は求められなかった。大人の料金に比べると確かに安いが、難病カードの割り引きよりは高い。これが本当の値段なのだ。長野くんがいるから優遇されていたことを改めて思い知らされる。空色の財布を鞄から出し、そこから出した一〇〇〇円札と映画のチケットを交換した。
ロビーにはそこそこお客さんがいたが、運よく快適そうなソファーが空いていたので、座りながら開場を待つ。一人で待つ時間は異常なほど長く感じた。それでもちゃんとアナウンスされたので一つしかないスクリーンに行き、席に座る。
上映前の時間もまた長かったが、館内は暗くなり予告が始まった。今回は残念ながら特に心惹かれるものがない。もしかしたら長野くんがいないと、自分は面白そうな映画すら見つけられないのかもしれない。
本編が始まる。
猟奇的なシーンもあったが、見応えのある映画だ。主人公の男性は大きな挫折をして自堕落な生活をしていたが、高校時代の親友が殺害されてから運命が大きく変わってしまった。何者かによって次々に同級生が殺害される事件を、主人公は孤立無縁で追っていくのだ。最後には犯人を特定し、事件を通して自分のために新しい夢も見つけて終わった。最初に殺された親友が生きていて実は犯人だったというオチには驚いたが、若干トリックに無理がある気もしている。
場内が明るくなり、席を立った。
ロビーに着いたが今日は話し相手がいないので、人の流れに沿いながら真っ直ぐ出口へと向かう。よく見ると傘を持っている人がちらほらいてまさかとは思ったが、出口から階段の前に出ると嫌な予感は的中してしまった。
雨音が聞こえる。
階段を上ると街は強めの雨に濡れていたのだ。これではビルから出ることができないので、とりあえず映画館から出る人の邪魔にならないところまで歩いた。みんな天気予報をしっかりと観ていたのか、傘を持っていなかったのは私だけだ。映画館から出てきた人達は傘をさして、帰り道へと歩いていく。私だけが取り残されたのだ。
惨めだ。
私、なんでこんなにダメなんだろう。さっきの映画の主人公はダメなところから這い上がったけど私には無理だ。なんにもできない。長野くんにだってなにもできなかったどころか、もう残りの時間も少ないのに嫌な思いをさせてしまった。
長野くんだってあんな経験なかったことにしたいだろう。それなのに考えてしまっている自分が本当に嫌だ。どうすればこの想いは消えるのだろうか。死ねば消えてしまうのだろうか。そうだ。長野くんの代わりに、私が死ねたら良い。夢も希望もない私の寿命を、全て長野くんにあげられたら良いんだ。
「ねぇ。傘ないの?」
女性の少し高い声が聞こえた。心配していると言うよりはただ聞いているような、どんな感情か全く掴めない声だ。おそらく私に言っていると思い、声がする方を向いた。すると、そこには思いもよらない人物が立っていたのだ。
前回隣の席だった美人さんだ。
この前のような地味な服装ではなく、知らない学校の制服を着ていた。通学鞄を肩に下げ、右手でビニール傘を持っている。なんと、二十代前半だと思っていたが、私と同じ高校生だったのだ。驚きのあまり声を失ってしまいそうだったが、必死に絞り出した。
「は、はい」
すると表情一つ変えずに、彼女はビニール傘を私に差し出した。
「そう。それならこれ使いなよ」
思わぬ申し出に狼狽えてしまった。
「え。でも、あなたの傘は……」
「折りたたみ傘が、鞄の中に入ってた。だからこれはあなたが使って」
傘もなく死にたいと絶望していた私に、見知らぬ人がこうやって声をかけてくれた。戸惑いが全くないと言ったら嘘になるが、雨で寒いはずなのになんだか温まった感じがする。小学生の時、私に声をかけられたタクマくんも同じような気持ちだったのだろうか。
「ありがとうございます」
美人さんは私に傘を渡すと、後ろを向いて鞄から折りたたみ傘を取り出したのだ。きっとこのままだと帰ってしまう。
「あの。ビニール傘、お返ししますので、連絡先を聞いてもいいですか?」
肩まである綺麗な黒髪が横に数回揺れる。折りたたみ傘を開き、美人さんは駅とは違う方向に歩いていった。追いかけて連絡先を聞くわけにもいかないので、ただ見送ることしかできず、彼女とはその後二度と会えなかったのだ。
雨の街をビニール傘をさして歩く。
美人さんのおかげで濡れずにこの街を歩けるが、そんな恩人とはお互いに名前すら知らないままだ。それでもタクマくんに名前を聞いた時のように、連絡先を聞こうとしたのは私の大きな変化だと思う。昔の自分に戻ってマイナスがゼロになっただけかもしれないけれど、長野くんと出会う前の自分よりは大きく進歩している。
少しだけ自分のことを許せた気がした。美人さんは傘をくれただけではなく、長野くんとの日々が無駄になっていないという実感もくれたのだ。やはり連絡先を交換してもう一度お礼を言いたい。お互いに名乗ることすら出来ていないままなんて本当は嫌だ。
あれ。ちょっと待って。
あることが急に引っかかった。どうだったのか思い出そうとして記憶を必死に手繰り寄せるが、全然思い出せずに駅まで着いてしまった。
もしかしたらと思いスマホを確認してみる。だがそのせいで状況がさらにわからなくなるだけだった。そうなると他の可能性も考えてみるしかない。色々な記憶を手繰り寄せて、頭をフル回転させていく。
まさか。でもなんでだろう。
冗談半分で考えてみた突拍子もないことが、この状況を綺麗に説明できてしまったのだ。でも、前提となる条件が、かなりおかしなものになっていた。そうは言っても私の考えていることが正しかったら、やらなければいけないことがある。
死にたいなんて思っている場合ではない。ここで動かなかったら絶対に後悔する。もしまた失敗したら、その時は知里ちゃんに泣きついてみよう。
約束は守らないと。
――二〇一七年、十月二十一日、土曜日。
『明日のお昼、二人が初めて会った場所に来て』
長野くんに直接言ったのは昨日だ。
メッセージは変わらず既読にならないので、読んでもらえない可能性が高し通話も厳しいだろう。そうなると直接言いに行くしかなかった。だけど学校にいる長野くんは友達といることが多く、話しかけるタイミングが全くなかったのだ。朝早く学校へ行けばまた二人きりで会えると思ったが、早朝も友達と登校するようになっていた。
このままではもう、長野くんと二人きりで話せることは永遠にない。思い悩んだ私は昨日の放課後、友達と下校する長野くんを呼び止めて言ってしまったのだ。
長野くんは私に話しかけられてかなり動揺した様子だった。長野くんの友達はなにが起こったのか理解できず不思議そうに私を見ていた。明らかに場違いな空気に耐えられなくなって、相変わらず弱虫な私は返事も聞かずに走って逃げてしまったのだ。
長野くんはここに来ないかもしれない。
急だったし他に予定が入っているかもしれないし、私のことが嫌いになってもう会いたくない可能性だってありえる。だけど私は待ち続けようと思う。きっと来てくれるなんて強く思えないけれど、それでも私は待ち続けたいのだ。
遠くに人が見えた。
ゆっくりと私に近づいて来る。もっと緊張して心臓が破裂するかもと思ったが、意外なほど落ち着いている自分がいた。次第にはっきりと誰だかわかる距離になっていく。
長野くんだ。やっぱりそうだったんだ。
いつもよりもオシャレな服装で、今日は荷物を持っていない。こうやって改めて見ると、本当によく整った綺麗な顔をしている。だけど俯いており、表情は暗い。
私の前で、長野くんが止まる。
「来てくれてありがとう。こんなところに突然呼び出してごめんなさい」
長野くんはゆっくりと首を横に振った。
「謝るのはオレの方だよ。ごめんね。ハルカちゃんとした約束破ったから、もうオレなんかが仲良くしちゃいけないと思ったんだ。だからメッセージすら読めなかった。でも今日はこうやって呼んでくれたし、これ以上約束を破りたくないからここまで来ただけだよ」
「自分のこと責めないで。治安が悪いって長野くんが言っていたのに、それでも私が行きたいって言ったからだよ。長野くんは私を守ってくれたから全然悪くない。むしろ長野くんを危険な目に合わせた私が悪いの」
私が頭を下げる前に、長野くんは言った。
「そんなことないから、そっちこそ自分を責めないでくれ。オレがもっと賢く立ち回れたら、ハルカちゃんとした『暴力はしない』って約束、破ることはなかったし」
「その約束、この場所でしたよね」
晴れた空の下、長野くんは大きく頷いた。
「……タクマくん。タクマくんなんだね?」
丘に優しい風が吹き、一面に広がる草花と頂上に立つ痩せた桜の木がそっと揺れる。
「そうだよ」
長野くんはうれしそうにニッコリと笑った。七年前に曖昧に交わした再会の約束は、今はっきりと果たされたのだ。
「ごめんね、気付くのが遅くて。でもあの時、なんでタクマって名乗ったの?」
「親が離婚する前でさ、宅間って名字だったんだ。日下部と同じくらいお洒落だろ?」
唯一引っかかっていた謎も解け、丘に二人の笑い声が響く。そういえば宅間くんだった時もこうして楽しくおしゃべりしていた。もうこれで、昔から変わらないいつもの二人に戻れたのだ。
「でも、丘で会ってるって言ってくれたら良かったのに」
「言おうとしたよ。昇降口で会うよりも前にあいさつしたの覚えてない? あの時はめちゃくちゃ勇気出して話しかけたんだけど、ハルカちゃんめっちゃオロオロするんだもん」
「あ、あの時はごめんね。どうしたらいいかわからなくて」
「気にすんなって。オレだって元々自分に自信がない性格で、それ以上グイグイ行けなかったからね。なんか肝心な時に昔の自分になったというか……」
確かにあの頃の長野くんはもっと弱々しい男の子で今とは全く違った。
「本当に昔と変わったよね」
「そうだな。自分に自信を付けたくて空手を始めて明るく振る舞おうと頑張ったら、こんな性格になっちまってついでに痩せちまった。おかげ次の学校ではいじめられなかったし、小六でこっち戻っても大丈夫だった。でも、よくオレが宅間だってわかったよね」
映画を見に行った日、雨の中で考えたことを長野くんに話した。
「長野くんに自分の名前を言っていないことに気がついたの。もしかしたらメッセージアプリのアカウントに自分の名前が書いてあるかもと思って確認してたんだけど、『るーちゃん』としか表示されなかった。他の友達に私の名前を聞いて知ったのかなと思ったけど、誕生日まで知っていたからおかしいと思ってさ。誕生日もアカウントには書いてなかったし。宅間くんにだったら私の誕生日のこと話していたから、まさかと思って」
全く知らない美人さんに傘をもらわなかったら、自分が名前を名乗っていないなんて考えもしなかった。あの傘は家までの帰り道でだけではなく、この丘に続く道まで導いてくれたのだ。
長野くんは驚いて言った。
「あれ? 高校に入ってから名乗ってなかったっけ? また話せるようになったのがうれしくて、全く頭になかった」
ちょっとオーバーなリアクションをする長野くんが面白くて、クスッと笑い声が漏れてしまう。
「それにしても私の誕生日、よく覚えていたね。」
「まぁな。着ていた服の色まで覚えてるよ」
「そんなとこまで?」
「うん。今日着ているような空色のワンピースだったよ」
着ていた服までは覚えていなかった。そこまで覚えてもらっていてうれしいけれど、ちょっと照れくさいような恥ずかしいような気もする。すると長野くんは丘の頂上にある木を懐かしそうに眺めた。
「あれから毎日、丘に行ったんだけど結局会えなくてさ。そのままあの街に引っ越すことになったんだ」
「ま、毎日?」
長野くんの視線は丘の頂上にある木から私に向けられた。その顔はちょっと恥ずかしそうにはにかんでいる。
「ま、まぁね」
「ごめんね。私、勉強が忙しくて時々しかこの丘に行けなかったんだ」
「いやいや。謝らなくていいぞ。そういえばさ、なんでオレが引っ越した街に行きたいなんて思ったの? ハルカちゃんから誘ってくれたことがうれしくて特に深くは聞かなかったけど、実は不思議に思ってたんだよね」
やはり長野くんは納得していなかったようだ。この話をしてしまうと、正文くんとの約束を破ってしまう。でも、私の行動のせいで長野くんを危険な目に合わせてしまったのも事実なので、全てを洗いざらい話すしかなかった。
「正文くんのこと、怒らないで欲しいんだけどさ。長野くんに昔から好きな人がいるってこと聞いちゃったの」
「え? あいつ、話しちゃったの? まぁいいか。口が滑る時もあるだろうし。で、それがどう関係しているんだ?」
少しだけ驚いたような素振りを見せただけで、長野くんは正文くんに対して微塵も怒らなかった。それよりも長野くんが住んでいた街に、私が行きたがった理由の方が気になるようだ。
「色々考えてね。長野くんは引っ越し先で好きな人に出会ったと思ったの。だからその街に行けば、その人の手がかりがあると思って……」
「なるほど。人探しってわけか。で、その人を見つけてどうするつもりだったの?」
「……その人と長野くんを再会させようと思ったの。長野くんが少しでも幸せに過ごせるようにさ。できれば、その人と結ばれて欲しかった」
長野くんを前にして話すと、自分がしてしまったことの無能さに罪悪感が込み上げてくる。でもそれとは別に心が苦しみ始めていた。その苦しみをどこか愛しいと感じている自分がいる。
「オレのためにありがとうな。その気持ちがうれしいから、そんな顔するなよ」
「で、でも私……なにも出来なかったよ。長野くんのこと危険な目に合わせただけだったよ。私なんか……」
「ねぇ、ハルカちゃん」
少し大きな優しい声で、長野くんは私の言葉を遮った。病気のことを話した時とは違うが、真剣な眼差しを私に向けている。
「な、なに?」
「まだ、オレが好きな女の子と再会させたいか?」
胸が痛い。息が苦しい。心臓の音が丘にまで響きそうだ。長野くんを直視できずに俯いた。長野くんには幸せな人と過ごして欲しい。
色々な感情を堰き止める。だけど私の心のダムにはもう既に穴が空いていたようだ。少しだけ溢れた想いは大きなうねりとなって溢れ出して、制御できなくなった。
私は首を横に振る。
「ごめんね、長野くん。もう再会させたいって思えない」
「お? どうしてだ?」
長野くんの方を向くと、興味津々に私を見ていた。もう覚悟を決めるしかない。自分の気持ちに嘘を吐くことは、長野くんさえも騙すことになってしまう。
「長野くんのこと、私が好きになったから」
私は長野くんと一緒に過ごしたい。残りの命が少なくても、最期の瞬間まで一緒にいたいのだ。だけど、もうこれで本当に嫌われただろう。
他に好きな人がいるとわかっているのに、告白するなんてもはや嫌がらせのようなものだ。走ってこの丘から逃げ出したい。でも、それはここへ呼び出す時にやってしまった。だから勇気を出してわかりきった答えを聞くしかない。
長野くんは私に微笑んだ。
誰よりも優しく、誰よりも温かく、誰よりも甘い。それでいて爆発してしまいそうな大きな思いを、内に秘めている。そんな表情のように感じた。
「なんだよ。今も再会させる気、満々じゃないかよ」
「え? 話、聞いてた?」
表情と言っていることが噛み合っていない。一体、なにを言っているのだろうか。こんな時にまでからかわれてしまい、さすがにちょっとムッとした。それでも長野くんは私に微笑みかけている。
「オレがずっと好きだった女の子の名前、教えてあげようか?」
「う、うん」
それはまるで、当たり前のことを言うようにあっさりしていた。
「日下部ハルカ」
今、なんと言っただろうか。長野くんが私のことをずっと好きだった。聞き間違いか解釈の間違いではないだろうか。
長野くんは続けた。
「信じられないって顔してるけどマジだよ。この丘で会った時からずっと好きだった。うちの学校に入ったのも、ハルカちゃんが附属にいるって知ったからなんだ。ハルカちゃんめちゃくちゃ勉強できるって聞いたからさ。とりあえず特別選抜クラス入っとくか思って気合い入れたら、気合い入れすぎてすれ違ったけどな」
長野くんは自嘲するように笑った。一方、私は信じられない事実にただ驚くばかりだ。
「梶永医科大学が近いからうちの学校を選んだと思ってた……」
「まぁそれも理由の一つではあるけどね」
さっきまでは笑っていたが、長野くんの表情が再び真面目なものへと変わった。和やかになっていた丘の空気が、一瞬にして張り詰めていく。
「……そう。オレは病人なんだよ。それももうすぐ死ぬ。オレと関わりすぎたせいでハルカちゃんを悲しませることもわかってた。それだってずっと悪いと思っていたんだけどね。だからオレが宅間だって今更言えなかったし、ずっと好きだったのに自分の思いを告げることも出来なかったんだ。自分には恋愛する資格なんてないと思ってさ」
涙が溢れそうだ。
だけど一番辛いはずの長野くんが泣いていないので、泣くわけにはいかなかった。もうすぐ死んでしまうという辛い境遇なのに、ずっと私のことを思ってくれていたのだ。
「長野くん、ありがとう。例え長野くんに恋愛する資格がなくても私は大好きだよ。無資格でも良いから、ずっとそばにいたいよ」
長野くんは吹き出して笑った。
「無資格ってなんだよ。変なの」
どうやらまた変なことを言ってしまったようだ。あたふたしている私に、真面目な表情に戻った長野くんは言い聞かせるように言った。
「……ハルカちゃん、マジでオレで良いのか? オレは死ぬんだぞ?」
長野くんを失ってしまうという事実に頭が壊されてしまいそうだ。だけど、長野くんと一緒にいたいと思う気持ちが私を守ってくれている。
丘の澄んだ空気を大きく吸う。
少しだけ冷静になると、長野くんの事情とは重みが全く違うが私も同じような気持ちだと気がついた。好きだという気持ちはあっても、自分に自信なんてない。
「長野くんこそ、私なんかで良いの? もっと可愛い子はたくさんいると……」
「いや、いない」
全てを言い終わる前に、長野くんは話を遮りはっきりと否定したのだ。
「オレにとってはハルカちゃんが一番だよ」
「え……そんな……」
うれしいけど面と向かって言われるとやはり恥ずかしい。だけど頑張って長野くんから目を逸らさなかった。
長野くんの口角がにっこり上がる。
「ハルカちゃんがあの時、『明日も生きるだけで良いと思う』って言ってくれたから今こうして生きてるんだよ。ハルカちゃんがいなかったら、多分丘の上で死んでたね。もし嫌じゃなかったら、オレの残りの人生は一緒に過ごしてくれよ」
小学生の時、長野くんはこの丘まで自殺しに来ていた。確かに、私と会っていなければ気が変わって死んでいたかもしれなかった。それでも長野くんが若くして死ぬという運命を私には変えることができない。絶対的な運命に対してあまりにも無力だ。だけどこんな私でも必要としてくれるなら、その想いに応えたい。
「これからよろしくね……桐人」
「な、名前で呼んでくれた」
桐人くんの顔が面白いくらい真っ赤になった。
「名前で呼べばこれから先どんな名字になっても大丈夫だと思ってね」
真っ赤な顔のまま桐人くんは笑った。
「そうだな。それならオレが日下部になっても大丈夫だな。やっぱり長野より日下部の方がオシャレだ」
桐人くんは十七歳で死んでしまう。だから私と結婚して私の名字を名乗ることは絶対にあり得ないだろう。それでも長野くんが日下部という名字を共有してくれた感じがする。
「そう言ってもらえると、私も自分の名字を好きになれるよ」
丘には二人の笑い声が丘に響く。すると長野くんは丘の頂上にある木を見つめ始めた。
「ちょっとあそこまで行かない?」
「いいよ」
なだらかな丘を二人で登っていく。
もう一人ではない。私の横を長野くんが歩いてくれているのだ。歩く速さはゆっくりで、思ったよりも時間がかかってしまった。丘の頂上に着くと、長野くんは木に一度触れてから空を見上げて言った。
「ねぇ、長野県に行かない?」
「え? 今から?」
長野くんは私を見て笑いながら言った。
「いやいや、さすがにそれは無理でしょ。次の検査の時、医者に行っていいか聞いてみるからさ。大丈夫そうなら長野に星を見に行こうよ」
二人で一緒に観た映画のワンシーンが頭に浮かぶ。そうなるともう答えは決まりだ。
「いいね。絶対見に行こうよ」
「やった! 今から楽しみだ」
長野県に行くなら確実に泊まりがけになる。親になんて言うかは全く考えていなかったが、それでもこの約束は固く交わしたのだ。
もう、曖昧ではない。
――二〇一七年、十月二十三日、月曜日。
朝はいつものように登校した。
桐人と一緒に行くことも考えたが、友達との朝勉強があると言っていたし、なにより変に目立ちそうなので一人で来たのだ。
他の生徒たちは友達や恋人とおしゃべりしながら学校までの道を歩いている。一人で歩いている私は、誰の視界にも入っていないだろう。
スマホが震えた。
メッセージを確認するために立ち止まったが、やはり誰も気にしていない。私に連絡をしてくる人は限られているので大体予想はついていた。
『ハルカっち! おめでとう! やっぱり長野くん、ハルカっちのこと好きだったんだね! 今度は四人で遊ぼ!」
知里ちゃんからだった。昨日の夜に長野くんと付き合ったことを報告して、返事が来たのだ。私はすぐにお礼を返した。
桐人と付き合って私の学校生活は変わったのだろうか。正直に言うと、まだ実感はない。そう、この時までは大きく変わっていなかったのだ。
一時間目が終わった時、なんだか変な感じがした。
クラスの目立っている女子達から、やたらと視線を感じるのだ。少しだけそちらを見ると、なにやら小さい声でヒソヒソと話している。最初は気のせいかと思ったが、授業が終わるにつれ私に視線を向ける人が増えていき、お昼休みが始まる頃にはとうとうクラス全体から見られているような感じがしてきた。
なにが起こっているのかさっぱりわからない中、お弁当を食べ終える。起きてニュースサイトを見ていても視線を感じて集中できないので、とりあえず寝よう。
だが、異変はうちのクラスだけではなかった。廊下がなにやらガヤガヤと騒がしいのだ。すると、全く知らない男子の大きな声が聞こえてきた。
「長野の彼女ってどれだ?」
誰かが自信なさそうに言った。
「噂だとあの子だけど……」
教室の外がさらにガヤガヤし始める。どうやら、私が桐人と付き合ったことが噂になって広まっているようだ。もしかしたらそのせいでクラスみんなから見られたり、教室の外が騒がしかったりしているのかもしれない。
学校の人とは話し慣れていなく、名乗り出るのは正直怖い。でも、私は桐人の彼女なんだからここは堂々としていなければならない。
席を立ち、廊下へと歩く。
廊下にいる人達は喋るのをやめて、急に静かになる。全員私を見ており、教室からもたくさんの視線を感じる。震えそうな身体を堪えながら言った。
「私です。私が彼女です」
その瞬間、廊下も教室もどよめき、思わず一歩下がってしまった。この学校に存在していないと言ってもいい私が、今一番の注目を集めてしまっている。学校一の人気者と付き合うとはこういうことだと身をもって知った。オロオロしている私に、別の知らない男子が言う。
「本当に君なの? 悪いけどそうは見えないけど」
その通りだ。反論の余地もない。こんな恋愛とは無縁のところにいそうな女が、学校一の人気者の彼女だなんて信じる方が無理だ。この男子の言葉をきっかけに、廊下と教室にいるすべての人から疑惑の目が向けられた。みんながヒソヒソと話し始めて、空気が一気に悪くなる。
「え、えっと……」
しっかりと話さなければいけないのに、もう声が出てこない。どうしたらいいかわからなくなった時だ。
「ハルカちゃんはオレの彼女だよ」
廊下の奥から大きくて優しい、頼もしい声が聞こえてきた。廊下にいる人達は喋るのをやめて声がする方向に向く。それに伴い、教室も静かになった。
人だかりを割って、桐人が私の前に来る。
「ごめんな。この子、オレと違ってシャイな性格なんだよ。だから、そっとしておいてくれないか?」
「ありがとう、桐人くん」
桐人にお礼を言うと歓声が上がった。驚いてしまったけれど、これで納得してくれたような気がする。桐人は苦笑いしながら廊下にいる人達へ言った。
「そういうところだぞ、おまえら。オレの彼女がびっくりするからやめろって」
すると、廊下にいる人達が私達に謝り始めた。これはこれでびっくりしてしまう光景だ。それでもみんな謝ってくれたので、「怒ってないので大丈夫ですよ」と必死に伝える。そんな私を桐人がうれしそうだ。
「ハルカちゃんって本当に優しいね。そろそろ行こうか」
「う、うん」
どこへ行くのか全くわからないけど、桐人が歩き始めたので私もついて行った。廊下にいる人だかりが割れて、まるで私達を見送っているようにも思えた。
私と桐人は校舎の外へと出る。そこまでの間、他の学年の生徒やさらには先生の視線まで感じてしまった。きっと噂はさらに広まってしまうのだろう。
しばらく歩き、体育館裏に着いた。
「ハルカちゃん、ごめん。オレのせいだ」
着くなり桐人は頭を下げてきた。
「一体、なにがあったの?」
頭を上げると、桐人は気まずそうに口を開いた。
「ハルカちゃんと付き合えたことがうれしくてさ。朝、一緒に勉強しているメンバーに話しちゃったんだよね。そしたらこうなった」
「そうだったんだ」
「すまないな。一応、あんまり言わないようにとは言ったけど、誰か言っちゃったんだろうなぁ」
後にわかることだが、桐人の友達は私たちのことを誰にも言っていなかった。桐人が話しているのをたまたま聞いてしまった別の生徒が広めたのだ。だが、この時はそんなことを知るよしもなく、桐人ががっかりと肩を落とす。だから、私は素直な気持ちを言った。
「抑えきれずに話しちゃうほど、付き合ったこと喜んでくれてありがとう。私と違って話す友達がいるのだって、彼女としてすごく誇らしいよ」
「優しくて自慢の彼女だな」
桐人くんがニッコリと私を見てきたので、ちょっと恥ずかしくなって目を逸らした。
「あ、ありがとう……」
その時、お昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「そろそろ、授業始まるから行こうぜ。また放課後な」
「うん、そうだね」
その後、教室に戻っても嫌な視線は感じず、良くも悪くも静かな日常が戻ったのだ。それでもちょっとした騒ぎがあったばかりなので、放課後は学校から二駅離れた場所にある、メックバーガーで会うことにした。ここなら各駅停車しか停まらないし、うちの学校の生徒と鉢合わせることもないだろう。
メックバーガーの前には、もうすでに桐人がいる。多分同じ電車で来たと思うが、ここに来るまで全く気が付かなかったのだ。
「お疲れ、ハルカちゃん! 混んできちゃうといけないからさっさと行こうぜ」
「そうしよっか」
メックバーガーに入ると、難病カードを使って期間限定蟹肉バーガーとコーラを二人分注文した。二階にある席はそれなりに混んでいたが、運よく四人がけのテーブルに座れた。蟹肉バーガーの包みを開ける前に、桐人が言った。
「ねぇ、十一月の三連休空いてる?」
「空いてるけど?」
「おぉ。明日の検査結果次第になるんだけどさ、長野旅行に行かない? 難病カードを使えば旅行代も割り引けるし!」
「私も行きたいんだけどちょっと困ったことが……」
「なんだ?」
「親になんて言えばいいかな……」
「あぁ……確かに」
桐人も頭を悩ませているようだ。すぐに答えは出なかったので、とりあえず蟹肉バーガーを食べることにした。包みを開けると蟹のいい匂いがしてくる。食べてみると、思ったよりもしっかりと蟹の味がして美味しい。
全部食べ終わる頃、問題を解決する方法が浮かんだ。かなり卑怯なやり方だが、もうこれしかない。
「私、親には知里ちゃんの家に泊まるって言うよ。それなら大丈夫そうだし」
「本当なら自分の恋人に親を騙すようなことして欲しくないが……今回ばかりはお願いします」
次の日、桐人も医者から旅行へ行く許可が降りたので、正式に長野旅行が決定したのだ。
知里ちゃんに万が一の時の口裏合わせをお願いすると、快く承諾してくれた。それでも知里ちゃんの家に泊まると親に嘘を付いた時は、全く目を合わせられず変な汗もかいたので、どこかでバレてしまわないか心配だ。
水、木、金と放課後はメックバーガーで旅行の計画を立てた。計画を立ているだけども本当に楽しいので、旅行に行けばきっと今の私には想像できないくらい楽しいのだろう。
今まで貯めておいたお年玉と難病カードのおかげで、結構良いホテルに泊まれることとなった。二泊三日と日も長いので、星空以外にたくさんのところに行ける。でも、桐人の体力がもつかわからないので、星空が最優先事項となった。
旅行の詳細も決まり今週の土日も会いたかったが、来週に備えてやめておくことにした。今週の休日無理に出かけて、桐人の体力が旅行に耐えられなかったら元も子もないからだ。
だが、結論から言えばこの判断は間違いだったのだ。
せめて土曜日だけでも、会っておけばよかった。
――二〇一七年、十月二十九日、日曜日。
梶永医科大学附属病院まで着いた。
学校よりも巨大な白い建物の中に、急足で入る。受付の前まで行き事情を説明すると、必要事項を記入する紙を渡された。すぐにそれを書き桐人のところへと向かう。
昨日の夜、桐人としていたメッセージのやりとりが既読にもならず突然途切れた。寝てしまったのではと思いあんまり気にしないでいたが、次の日の昼になってもなんの連絡もなかったのだ。どんどん心配になってきた私に、一通のメッセージが届く。その内容に背筋が凍りついた。
『すまん。足がダメになった。梶永医科大学に入院してる』
桐人からだった。
背筋が凍りついても固まっている場合ではない。とにかくすぐに病院に行かなくてはと思い、空色のワンピースに着替えて慌てて病院まで駆けつけたのだ。
桐人の病室のドアを開ける。
「ハルカちゃんごめんな。こんなことになって」
個室にいる桐人は思ったよりも元気そうな笑顔で私を出迎えてくれた。薄緑の入院着を着て、ベッドで上半身だけを起こしており、下半身には布団がかかっている。隣の椅子に座っているの桐人そっくりな女性はおそらく母親だろう。恋人の親にあいさつするのが礼儀だが、それどころではなかった。
「桐人、足……大丈夫なの?」
大丈夫という僅かな可能性に賭けて言ったが、桐人は諦めたように笑った。
「大丈夫じゃねぇよ」
「そんな……だってこの前の検査で大丈夫って言われたんでしょ?」
「オレも医者もびっくりだ。こんなに早くダメになるとはね。母さん、ちょっとこの布団外してもらっていいかな」
桐人のお母さんは戸惑いながらも、下半身にかけられていた布団をゆっくりと剥がしていった。私はただ呆然とそれを見ている。
布団の下にあったのは、灰壊病だった。
入院着から出ているはずの両足がなかったのだ。現実からあまりのもかけ離れている、身体が灰になって無くなってしまう病気が目の前に現れた。目を逸らしてしまいそうになったが、この事実から目を逸らすわけにはいかない。
「こういうわけだから、長野旅行はキャンセルしたよ。本当にごめんな」
無くなった桐人の足を見て、なんて答えた良いかわからなかった。すると桐人はなにか思い出したかのように、突然大きな声をあげる。個室でなかったら他の患者さんの迷惑になってしまうくらいだ。
「わりぃ。まだ母さんに紹介してなかったな。この子、ハルカっていうんだ。オレの彼女。めちゃくちゃ可愛いだろ?」
慌てて桐人のお母さんの方を向いた。お母さんは優しそうな顔で私を見ている。
「く、日下部ハルカです。桐人くんとお付き合いさせてもらってます……」
「桐人の母です。話は桐人から聞いております。本当に可愛い子ね」
「だろ? だろ? オレの彼女、可愛いだろ?」
うれしそうに言う桐人を見て、桐人のお母さんはふふと笑う。こんな時なのになんだか照れくさくなってきた。同時にこんな時なのにいつもの桐人でいてくれることがうれしい。
私の気持ちを察してか、桐人は桐人のお母さんに言う。
「ちょっとオレの可愛い彼女と二人きりにさせてくれない?」
「わかった」
桐人のお母さんは椅子から立って荷物を持ち、病室から出ていった。
病室には私と桐人しかいない。目は再び桐人の無くなった足を向いてしまった。もう歩けなくなってしまった桐人のことを考えると胸が張り裂けそうだ。なにも言えない私に桐人は優しい声で言った。
「無くなったオレの足見るの、辛いだろ? わかるよ。でもハルカちゃんには乗り越えて欲しいんだ。ないものよりも、あるものを大切にして欲しくてさ」
桐人は私よりも強い人間だ。自分の方が辛いのに私を勇気づけようとしてくれているのだ。私は桐人がいない世界で生きなければならない。その力をくれようとしているのだろう。だったら、今目を向けるべきは今ある大切なものだ。
「……それならさ、握ってもいい?」
「ん?」
キョトンとする桐人に、私はもっとはっきりと言った。
「桐人の手、握っても良いかな?」
ちょっと恥ずかしそうに桐人は頷いた。
私はもっと恥ずかしかったけれど桐人の両手を握る。
冷たい。
驚くほど桐人くんの手は冷たかった。それでも桐人の顔は真っ赤だ。きっと私の顔も同じくらい赤いのだろう。桐人の手は驚くほど滑らかだ。灰壊病のせいで体毛が無くなってしまった手首が、入院着から見えた。
どれだけの時間こうしていたのだろうか。段々と桐人の手は暖かくなってきた。私の手から桐人の手が離れると、桐人はそのまま私を抱きしめた。その身体はさっきまでの手と同じくらい冷えている。
「やっぱりハルカちゃんは温かいな」
そう言うと、桐人は私の背中を優しく掴んだ。指一本、一本の感覚が伝わる。
「桐人だって温かいから」
私も桐人の身体を思い切り抱きしめた。もうすぐ桐人の手も無くなってしまうから、その感覚を私の身体に、深く、深く、刻み込んだ。桐人もきっと私を忘れないはずだ。
気が付いた頃には、面会の時間は終わっていた。名残惜しかったが、桐人から離れる。
「今日はありがとうな。お見舞い来てくれて本当にうれしかったよ」
「そう言ってもらえると私もうれしいよ。ありがとう」
帰らなければいけないのはわかっていても、ずっとここにいたい。だけどここでわがままを言っても桐人を困らせてしまうだけなので、大人しく病室から出た。
「よかったら、家まで送ろうか?」
突然、後ろから声が聞こえた。振り向くと、病室のドアから少し離れたところに桐人のお母さんが立っていたのだ。
「え、でもまだそんなに時間は遅くないですし……」
「電車賃かかるでしょ? 車だから遠慮しないで」
「それなら……お願いします」
わざわざ申し訳ないとは思ったが、お言葉に甘えることにした。断っても桐人と同じように押されて、結局乗せてもらいことになると思ったのだ。恋人の親の前という極度の緊張で車に乗るまで殆ど話せず、住所などの必要最低のことを伝えるので精一杯だった。
私を助手席に乗せて車が走る。
車内はなんとなく気まずかった。なにか話さなければいけないと必死に言葉を探す。すると、桐人のお母さんの方から話しかけてきた。
「今日はお見舞いに来てくれてありがとう」
「い、いえ。私は大したことしてませんよ」
「そんなことないよ。桐人があんなに明るくなったのはあなたのおかげだもん」
「え? どういうことでしょうか」
「桐人ね、学校では明るく振る舞おうって頑張ってたみたいなんだけど、色彩灰化が起きてからずっと塞ぎ込んでたの。夜一人で泣いているの見て私も辛かった」
「え……そうだったんですか……」
車は赤信号で停まる。
あの底抜けに明るい桐人が塞ぎ込んでいたなんて、考えたこともなかった。でも少し考えればわかることだ。自分がもう少しで死ぬとわかっていて、正気でいられる人間などいない。
桐人のお母さんは少し沈んだ声で、独り言のように話し始めた。
「私のお父さん……桐人のおじいちゃんも同じ病気だったの。色彩灰化が起こった時、桐人と同じように塞ぎ込んでてね。だから桐人も全身が灰になる前に自殺してしまうのではと思ってすごく怖かった」
桐人のおじいちゃんは自殺している。そんな話は聞いたことがなかった。なんて言っていいかわからず黙り込んでいると、信号は青になり車が走り出す。
桐人のお母さんは先ほどとは打って変わって明るい声で、私に向かって言った。
「でもね、九月の初めくらいかな。昔みたいに桐人が明るくなったの。そう、あなたと出会ってからね。だから、本当にありがとう。あなたのおかげで桐人は笑顔を取り戻したわ」
私と仲良くなったくらいで単純だなと思ったけど、そうした素直なところが桐人のいいところで、私が大好きな部分の一つだ。少しでも役に立ててうれしかった。
「ありがとうございます。私も桐人くんからは大切なことをたくさん教わってます。彼のおかげで毎日が楽しくなりました」
「それはよかったわ。でもね、一つお願いがあるの」
「なんでしょうか」
フロントガラスから見える景色が夜へと変わってく中、桐人のお母さんは言いにくそうに言った。
「その空色のワンピース、可愛いんだけどできれば着てこないで欲しいの。桐人、色彩灰化のせいで青系の色が全部見えなくなってるから」
初めて学校の外で会った時、桐人は泣き出した。あの時の私が着ていたのはこの空色のワンピースだった。桐人はスマホゲームのやりすぎで目が疲れただけだと言ったが、真実は違うものだったのだ。
きっと、見えなくなった色の服を私が着てきたせいで死ぬことを強く意識してしまったに違いない。それでも空色が私に似合うと思って、自分なりに空色の財布まで選んでくれた。でも私は空色ではないと言ってしまったのだ。一体、桐人はどれだけ傷ついただろうか。
「……ごめんなさい」
「桐人のことだからハルカちゃんにはその話してなかったんでしょ? あんまり自分を責めないでね」
「ありがとうございます」
「本当にハルカちゃんは良い子ね。桐人が大好きになっちゃうのもわかるわ」
「そ、そんな。面と向かって言われると恥ずかしいですよ」
桐人のお母さんは優しく笑った。その笑顔に救われた気がする。
明日、桐人に謝ろう。
それから桐人のお母さんは私に色々なお話をしてくれた。最初は桐人のことだったが話題は色々と展開していく。中でも若い頃好きバンドの話がすごかった。サッドクロムというバンドで今なら確実に逮捕されるような、暴力的なライブをやっていたらしい。一度だけで生で観に行ったが、親にバレてこっ酷く叱られたようだ。その話を聞いて思わず笑ってしまった。
桐人のようにお母さんも話し上手で、退屈せずに車は家の前まで着いた。
「今日はありがとうございます」
「いいの、いいの。それより連絡先交換しない?」
「あ、いいですよ」
いきなり連絡先の交換を申し出てくるところも桐人そっくりだ。早速、鞄からスマホを取り出す。新着のメッセージが入っていたが、連絡先の交換が最優先だ。前にやり方を知里ちゃんから教わっていたので、今回はやってもらわなくても交換できた。私のスマホには『長野愛』と言う名前がちゃんと入っている。桐人のお母さんは愛という名前だったのだ。
「なにかあったら連絡するね」
なにかあったらという言葉が妙に重もしい響きを持っている。なにかあって欲しくはなかったが、「わかりました」と言うしかなかった。
「また明日もお見舞い行くのでよろしくお願いします」
「ありがとう。また明日ね」
「はい、さようなら」
助手席のドアと開けると同時だった。家のドアが開く。
お母さんだ。
家の前に知らない車がずっと停まっていて気になったのだろう。助手席から降りてきた私を見て、目を丸くして驚いている。
「るーちゃん、一体どういうこと?」
「えっと……」
口籠る私の代わりに運転席から降りてきた愛さんが言った。
「驚かせて申し訳ございません。私が事情を説明します」
「は、はい」
私と桐人が付き合ったこと、桐人の余命が残りわずかであること、愛さんは事情の全てを説明した。あまりの情報に受け入れてくれるか不安だったが、お母さんはすんなりと理解してくれた。
「九月の初めくらいから娘の様子が変わったと思っていたら、そういうことだったんですね」
お母さんは優しい目で私を見て言った。
「るーちゃん、私にできることがあったら言って。桐人くんのそばにいてあげなきゃね」
「ありがとう、お母さん」
「私からもお礼を言います。ありがとうございました。それではそろそろ失礼しますね」
私とお母さんは車で帰る愛さんを見送った。
お母さんが先に家の中に戻ったので、続けて私も家に入る。玄関で靴を脱いでいる時、スマホにメッセージが届いていたことを思い出した。靴を脱ぎ終えてから確認する。
知里ちゃんからだ。
他愛もない内容だったが、返信できたのは夜遅くなってからだった。
――二〇一七年、十月三十日、月曜日。
授業が終わるとすぐに病院に向かう。
僅かな時間でも惜しく急いだため、桐人の病室に着く頃には息が上がっていた。それでも休むことはせず、扉を開く。
「ハルカちゃん!」
桐人は笑顔で出迎えてくれた。ベッドで上半身だけを起こしており、両手は布団の中に入っている。
「今日も来てくれてありがとうね」
ベッドの隣にある椅子に座っている愛さんも、笑顔で出迎えてくれた。私はあいさつもせずに口走った。
「桐人、ごめんね」
「ど、どうした?」
なんのことか桐人は全くわかっていないようだ。
「私、色彩灰化で青系の色が見えなくなっているなんて知らなかった。それなのに空色のワンピース着たり、せっかくもらった財布も空色じゃないって言ったり……いっぱい傷つけてごめん」
「ちょっと待て。なんでその話、知ってるんだよ? まさか母さん……」
桐人の不機嫌そうな顔は愛さんに向けらる。
「あらら……言う方が逆に不味かったかなぁ……」
愛さんは気まずそうに笑っている。すると桐人が大きなため息を吐いた。
「あぁ、まぁしょうがねぇか。今回だけは許してやるよ」
「ごめんねぇ」
桐人は愛さんを許すと、私の方を向いた。
「マジで傷ついてないから気にすんなって」
「で、でも……空色のワンピース初めて着た時、桐人泣いてたじゃん」
「あぁ……」
ちらっと愛さんの方を見ると、観念したように話し始めた。
「あれはな、うれしかったんだ」
「うれしかった?」
「小学生の時に初めて会った時と同じ、青系のワンピース着ているってわかったからさ。色が見えていないとはいえ、その姿をまた見られてうれしかった。だからもし色彩灰化で青が見えないことがバレたら、もう着てくれなくなったり、変な気を使わせたりすると思ったんだ」
「ありがとう、桐人。そこまで私のこと考えてくれたんだね」
「そうだよ。まぁでも、空色のワンピース着たハルカちゃん見るより、親の前でこんなぶっちゃけた話する方がよっぽどダメージだけどな」
「あぁ。ごめん、ごめん」
桐人が笑った。続けて愛さんも笑った。最終的には私も笑ってしまい、病室は笑顔で溢れたのだ。タイミングを見て、愛さんが言った。
「じゃ、私は先に出てるね。ハルカちゃん、今日も送ってあげるからよろしく」
「ありがとうございます」
気を利かせて愛さんは病室から出て行った。二人だけになった病室はさっきまでとは違いなぜか異様に静かだ。すると、桐人は妙に明るく言った。
「両手がダメになっちまった。昨日はたくさん手を握って良かったよ」
「……私も桐人の手、握れて良かった」
モヤモヤとした感情が霧のように心の中に漂っていた。だけど、桐人の手を握れて良かったと本心から思っている。桐人は私に優しく言った。
「母さんのこと悪く思わないでくれ。元はと言えばオレがちゃんと母さんに言っておけばいいだけの話だった」
「大丈夫だよ。桐人のお母さんのことも悪く思ってないし、桐人が悪いとも思ってないよ」
「ありがとうな。それにしてもさ……」
少し間を置いて、桐人は寂しそうに言った。
「オレの青、どこに行ったんだろうな?」
その言葉に胸が締め付けられた。桐人は灰になった身体のことよりも青に思いを馳せているようだった。桐人にとっては青は特別な色で、私にとっても特別な色だ。よりにもよってそれを奪うなんて、神様は残酷すぎる。
なんて言葉をかけたらいいかわからなかった。それでも言葉で伝えられないことの伝え方を今の私は知っている。
桐人に近づき、その身体を抱きしめた。
今日も冷たいけれど、それなら私が温めるまでだ。桐人も私を抱きしめる。強い腕の力が私に伝わるけれど、もう手の力は伝わらない。それでも桐人は今あるもので、私を精一杯抱きしめてくれた。
どちらからかわからないが、二人の身体が離れた。
なにも言わずにただ見つめ合う。
桐人が笑った。
私も笑った。
桐人の顔が、私の顔が、どんどん距離を距離を失っていく。
心臓の鼓動がうるさいので、桐人よりも先に私が目を閉じた。
私の唇と桐人の唇は完全に距離を無くす。
このまま時間が止まってしまえばどんなに良かったことだろうか。だけど時間は流れていくし、砂時計のようにひっくり返すこともできない。ゆっくりと唇を離し、目を開ける。
桐人は腕で目を擦っていたが、見なかったことにした。代わりにスマホで時間を見る。
「そろそろ、面会終わるね」
「そうだな。今日もありがとう」
桐人は真っ赤な目で微笑んだ。