――二〇一七年、九月二十三日、土曜日。
長野くんと合流した。
最近は大きな駅を使うことが多かったが、ここは改札が一つしかない。おかげで探すまでもなく見つけられた。
「ハルカちゃん、おはよう」
長野くんはいつもよりラフで動きやすそうな服を着て、ショルダーバッグを肩から下げていた。今日も元気にあいさつしてくれて、知里ちゃんや正文くんが言うように女の子が苦手なようには思えない。もしかしたら私は女の子だと認識されていないのだろうか。楽しく遊べるならそれでもいいと思ったが、どこか寂しい気もする。でも、長野くんに会える喜びの方が圧倒的に強い。
「おはよう。今日も遊んでくれてありがとう」
「お礼を言うのはオレの方だよ」
「え?」
長野くんは残り少ない時間を私と会うために使っている。どう考えてもお礼を言うのは私の方だ。
キョトンとする私とは違い、長野くんはうれしそうだ。
「あれからメッセージも返してくれるし、今日だってこうやって会ってくれる。めちゃくちゃありがたいよ。あんな大事なこと後になって言ったから、もう完全に嫌われたかと思った」
「この前も言ったよ。嫌いだなんて思ったことないって」
長野くんはホッと肩を撫で下ろす。
「本当にありがとうな。今日も空色のワンピース似合ってるぞ」
「う、うん……」
急に服を褒められて、照れくさくなってしまった。長野くんにそんな姿を見られたくなく咄嗟に下を向く。なんだか初めて褒められた時よりもうれしいように感じた。
「よし、行くか。オレに縁のある場所ツアー」
そんなこんなで、駅から歩き始めた。
今日は曇りで天気はあまり良くないが、この街で長野くんに縁のある場所を案内してもらう。そこで私が今後やることの手がかりを探すのだ。もちろん、長野くんにバレてはいけない。
治安が悪いと言われた割には、普通の街並みだった。それでも少しだけ気になることがある。煙草の吸い殻がやたらと落ちているのだ。時々お酒の空き缶も道に捨ててあるが、危なそうな人は歩いていない。
「そう言えばさ。ハルカちゃん、正文に会ったんだって?」
「うん。会った」
「あいつから聞いたよ。ハルカちゃんめっちゃ良い子だったって。ハルカちゃんはあいつどうだった?」
正文くんに会ったことを、長野くんに話していなかった。タクマくんの話をしなかったように、なんとなく気が進まなかったのだ。
「良い人だったよ。筋肉すごかったし」
「筋肉か。確かにあれが一番あいつの良いところだな。中学の時から筋肉モリモリだったからね」
正文くんの良いところはもっと他にもたくさんあったはずなのに、全然うまく説明できなかった。それでも長野くんはなにかツボに入ったようで、大きな声で笑っている。その時、気がついてしまった。
私、長野くんの前で男子の話をしたくないんだ。
正文くんの前で長野くんの話をするのは、嫌じゃなかった。でも、長野くんの前で正文くんの話もタクマくんの話もしたくない。なんでそんな風に思っているのか自分でもよくわからないが、それでもそう思っているので話題をずらしてしまった。
「知里ちゃんともすごく仲良さそうだったよ」
「だろうな。あいつオレに彼女の自慢ばっかりするんだよ」
思いもよらない時にチャンスが訪れた。私が聞きたい話が聞ける。
「そうなんだね。長野くんは彼女作る気はあるの?」
フッと笑ってから長野くんは言った。
「別に作る気がないわけではないぞ」
長野くんに彼女を作る気がなかったらどうしようかと思っていたが、良いことを聞き出せた。目的達成のために一歩近づいたのだ。
長野くんと好きな人を会わせる。
それが長野くんのために今の私がやりたいことだ。残りの僅かな時間を好きな人と幸せに過ごして欲しいので、今日ここに来たのも長野くんの好きな人の手がかりを探すためだった。長野くんとの会話の中でなにかヒントがあるかもしれないし、もしかしたら長野くんの好きな人に偶然会ってしまうことだってありえる。
地元に戻ってきてから長野くんは女の子と話すようになったと正文くんは言っていた。この街に行ってから変わったということは、長野くんの好きな人はこの街で出会った人の可能性が高い。
それにしてもどんな人なのだろうか。きっと、ドリーム・シネマにいたあの美人さんの様な人だろう。長野くんには私みたいな地味な女の子ではなく、芸能人みたいな美人が似合うのだ。
しばらく歩くと、長野くんは足を止めた。
「オレ、ここの道場通ってたよ」
目の前には空手の道場があった。まだ十時にもなっていないので、扉は閉まっている。
「そう言えば夜会った時、空手習ってたって言ってたね」
「そうそう。ここで鍛えたんだよ。おかげで運動苦手だったんだけど出来るようになったね」
なんと、長野くんは勉強だけではなく運動も苦手だったようだ。なんでも出来る今の長野くんからすると想像もつかない。
もしかしたら、鍛えた理由に好きな人が絡んでいるのではないだろうか。例えば道場にいた好きな子にいいところを見せようとしたとか、色々考えられる。
「なんでここで鍛えようと思ったの?」
長野くんはニコッと笑ってから言った。
「そりゃ、いつまでも弱いままじゃいけないと思ったからだよ。弱いままだとハルカちゃんのこと守れないからな」
長野くんの言葉にドキッとした。
「あ、ありがとう……」
大きな手がかりは得られなかったが、なんだか妙に満足している自分がいる。すると長野くんは妙に明るく言った。
「多分空手始めた頃の方が体力あったなぁ。今は体育休むことが増えちまったよ」
長野くんの身体は今も病魔に蝕まれている。さっきまでの満たされていた気持ちは一転し、その事実が再び目の当たりになった。
「あんまり、無理しないでね。今日もキツかったら終わりにして良いから」
「激しい運動とかしなければ大丈夫だよ。ただちょっとお腹の調子が悪いかな」
「え……それならもう帰ろうよ。病気が悪化しちゃうかもだし」
もうすでに無理をしていたのだ。心配する私を見て、長野くんはなぜかちょっと気まずそうな顔をしている。
「いや、実はさ。昨日、クラスの奴らと第二回激辛カレーどこまで食えるか大会やったんだよ。だから病気とは関係なくて……」
「ま、またそんなことやったの?」
カラオケの帰りにカレーの話はしていたが、まさか二回目もやるとは思わなかった。唖然とする私がおかしかったのか、長野くんは笑っている。
「今回は食い切って優勝したんだけどさ。そのせいで朝からちょっと腹が痛くてね」
「もう。あんまり変なことしちゃダメだよ」
「ごめん、ごめん。そろそろ次に行こうぜ」
長野くんはあんまり反省していない様子だ。呆れながらもそれが長野くんらしいと思ってしまった。学校の友達との時間を楽しめてるから良しということにしよう。でも何度聞いても、激辛カレーは絶対に食べたくないので、いつも遊ぶのが長野くんと二人だけで本当に良かった。
二人は空手道場を後にした。
「次はどこに行くの?」
「オレが通ってた小学校でも行こうかなと思って」
「いいね。見てみたい」
小学校までの道のりを歩く。やはりここも道に煙草の吸い殻などのゴミが落ちていた。住宅街に入ったが古い建物が多く、駅前よりも寂れている感じがする。ボロボロの遊具があるちょっと広めの公園の前を通った時だ。
「ハルカちゃん……」
長野くんが突然立ち止まった。一体、どうしたのだろうか。
「大丈夫?」
「無理。なんか公園のトイレが見えたら腹痛くなってきた」
思わずため息が出てしまった。
「早く行った方が良いよ」
「すまない」
そう言うと長野くんは早足で公園に入り、公衆トイレへと向かっていった。私も公園に入って近くにあるベンチに座る。
公園には私だけで、遊んでいる子供さえいない。煙草の吸い殻とお酒の空き缶が道よりも落ちていて、よく見ると公衆トイレの壁や自動販売機には落書きがある。
長野くんを待っていると、誰かが公園に来た。
入って来たのはおじさんだ。髪はハゲ散らかしており清潔感がなく、動きもどことなく挙動不審でちょっと怖い。自動販売機でジュースでも買うのかと思ったが通り過ぎ、どんどん私の方に近づいてくる。私の前で止まると、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「お嬢ちゃんいくらよ?」
「え?」
この人はなにを言っているのだろうか。でもこの表情から嫌なことを言っていることはわかる。恐怖でこの場から逃げ出したかったけど、長野くんはまだ戻って来ていない。
「いくら払えばおじさんと遊んでくれる? これでいいかな?」
おじさんはズボンのポケットからグシャグシャになった五千円札を取り出した。身体がゾワッとする。生理的な気持ち悪さが全身を駆け巡った。
「お嬢ちゃん。良いでしょ? これでおじさんと遊ぼうよ」
恐怖でガタガタと身体が震える。まさか自分がこんな目にあうとは思わなかった。
「すみませんね。この子は今、オレと遊んでるで」
頼もしい声がした方向を見ると、長野くんがトイレからこっちに早歩きで向かっていた。すぐに私の前に来ておじさんに妙に軽い口調で言う。
「ここは穏便に済ましませんか? 諦めてくれるなら警察は呼ばないので」
おじさんは長野くんを思い切り睨んでいる。
「なんだこのクソガキ。おまえみたいになんの苦労もしてなさそうな顔した奴が、偉そうなこと言うんじゃねぇよ。俺みたいな底辺にはこのくらいしか楽しみがねぇんだよ。わかってんのかぁ?」
おじさんは長野くんの胸ぐらを思い切り掴んだ。目の前で起きた暴力に、恐怖で身体が固まってしまう。それでも長野くんは笑顔で言った。
「この手、離してくれませんか? 穏便に済ませましょうよ」
さらにイライラしたように、おじさんは身体を震わせて長野くんに怒鳴った。
「うるせぇ! さっきから偉そうに人を見下しやがって。てめぇみたいなガキに上から目線で言われる筋合いねぇんだよ。ぶっ殺すぞ!」
長野くんに危害が加えられるのだけは絶対に嫌だ。その思いは瞬時に叫び声へと変わった。
「もうやめて! 離してよ!」
するとおじさんは長野くんの胸ぐらを掴んだまま、私を睨みつけたのだ。
「なんだ、なんだ? 大体、なんでこんないい男といるんだよ? てめぇみたいなクソブス女は安い金で男に買われる方がお似合いだ!」
酷い。怖い。こんなこと言われたのは初めてだ。確かに私は長野くんと一緒にいてはいけないような、クソブス女かもしれない。でもいくらなんでも酷すぎる。こんなことを平気で言うこの人が怖い。
「目、閉じて」
一瞬、誰の声かわからなかった。でも間違いなく長野くんの声だった。普段の声とは全く違い、異様に低かったのだ。
「あ? 誰に言ってんだ?」
長野くんは身体を震わせながら言った。
「……おまえじゃないよ」
私に言っているとわかったので、目を閉じた時だ。それはまるで火山が噴火したかのように聞こえた。
「おいコラ! オレのことはどんなに悪く言っても良い。だがな、この子には酷いこと言うんじゃねぇよ。この、薄汚い社会不適合者が!」
長野くんの怒号と共に、なにかが地面に叩きつけられる音がした。
慌てて目を開く。
そこには尻を地面につけたおじさんと、肩を上下にして荒い呼吸をした鬼のような形相の長野くんがいた。
「ごめんなさい。俺が悪かったです。ごめんなさい……ごめんなさい……」
おじさんは完全に腰を抜かしてしまっている。その顔は恐怖に引き攣っており、今にも泣き出しそうだ。地面に落ちているゴミを見るかのような目で、長野くんはおじさんを見ている。
長野くんが一歩、おじさんに近づく。
その足取りはフラついており、明らかに疲れていた。これ以上なにかするのは体力的にも危険だし、長野くんに暴力を振るわせたくない。
「これ以上はダメ!」
気が付いたらベンチから立って、今まで生きて来た中で一番大きな声を出していた。長野くんは私の方に振り向く。その顔はいつもの長野くんになっていたが、明らかに疲れていた。
長野くんの気が私に逸れて隙に、おじさんは悲鳴をあげながら逃げていった。初めからそこにはなにもなかったかのように、長野くんは気にも留めていない様子だ。
「大丈夫? とりあえず座って休もうよ」
なにも言わずに頷いたので、長野くんの身体を支えながらベンチまで誘導した。ベンチに座っても長野くんは肩で息をしている。よく見ると結構な汗をかいていたので、自動販売機でペットボトルの水を買ってきた。
蓋を開けて水を長野くんに差し出す。
「これ、飲めそう?」
「……ありがとう」
消えてしまいそうなほど小さな声で言うと、私から受け取りベンチに置いた。ショルダーバッグから薬を取り出すと、長野くんはペットボトルの水で流し込んだ。
薬の量はカラオケの時よりも増えている。日に日に体調が悪化しているのだ。このままでは長野くんが大変なことになってしまうかもしれない。
「救急車呼ぶから待ってて」
「呼ばなくていいよ」
「で、でも……」
「大丈夫。まだ、死なないから」
死ぬという言葉に胃酸が逆流しそうになった。色々な思いがグチャグチャに混ざり合う。空白の中に心だけが置き去りにされたように、私はなにも考えられなくなったのだ。
ベンチに座る長野くんを呆然と見ていると、ショルダーバッグからスマホを取り出していじり始めた。それから何分か経つと、公園の前にタクシーが停まる。
「タクシー、呼んだ」
「う、うん」
長野くんはベンチから立って歩き始めた。声からも体力がある程度は戻ってきたことはわかるが、それでも足元が頼りなかったので、長野くんの横について一緒にタクシーまで歩いた。タクシー運転手が私たちに気がついてドアを開ける。
「ハルカちゃんも乗って、今日はこれで帰ろう」
「わかった」
言われるがままタクシーに乗る。長野くんが自分の家の住所を言ったので、私は最寄駅を言った。タクシーで帰宅してしまうと親に余計な心配をかけてしまうという判断ができるくらいには、頭の中が正常に戻っていたのだ。
それでも長野くんになんて声をかけていいかわからず、重たい空気と沈黙も乗せたまま最寄駅に着いてしまった。料金のメーターは五〇〇〇円を超えている。半額くらいなら払えるので、長野くんから貰った財布を出した時だ。
「難病カードで割り引かれるから、タクシー代はオレが払うよ」
財布に対して特にリアクションすることもなく、力がない萎れたような声で長野くんは言った。
「で、でも私も乗ったから……」
「それなら一〇〇〇円でいいよ」
なにも言わずに一〇〇〇円札を渡すと、長野くんもなにも言わずに受け受け取った。
タクシーのドアが開き、長野くんの方を背にしながら、最寄駅の前に降りる。駅にはそれなりに人もいて車や電車の音もうるさかったが、確かに後ろから聞こえた。
「ごめん。暴力はどんな時でも絶対にダメだよな」
振り返ったと同時に、タクシーのドアは閉まり発車した。今の私には、タクシーが見えなくなるまで、見送ることしか出来ない。
後悔が押し寄せてきて、津波のように心を飲み込んでいく。私、なんてことしたんだろう。長野くんの幸せのために動いたのに、これでは苦しめただけだ。
私がもっとしっかりしていれば、もっと上手く立ち回ることも出来たはずだ。長野くんと出会った頃は上手く考えられなかったことが結構あった。あれから少しは変われたと思ったけれど、肝心な時にはなにも出来なかった。
いても立ってもいられず、メッセージアプリを開く。
【今日は本当にごめんなさい。治安が悪いって長野くんが言っていたのに私が行きたいなんて言うからこんなことになっちゃった。長野くんはなにも悪くないよ。おじさんに声をかけられた時に私が警察呼べばよかったし、長野くんが具合悪くなった時はせめて7119すればよかった。長野くんがタクシー呼んでくれたみたいに、私もなにかしないといけなかった。全部私が悪かったよ】
メッセージは、三週間経っても既読にならなかった。
長野くんと合流した。
最近は大きな駅を使うことが多かったが、ここは改札が一つしかない。おかげで探すまでもなく見つけられた。
「ハルカちゃん、おはよう」
長野くんはいつもよりラフで動きやすそうな服を着て、ショルダーバッグを肩から下げていた。今日も元気にあいさつしてくれて、知里ちゃんや正文くんが言うように女の子が苦手なようには思えない。もしかしたら私は女の子だと認識されていないのだろうか。楽しく遊べるならそれでもいいと思ったが、どこか寂しい気もする。でも、長野くんに会える喜びの方が圧倒的に強い。
「おはよう。今日も遊んでくれてありがとう」
「お礼を言うのはオレの方だよ」
「え?」
長野くんは残り少ない時間を私と会うために使っている。どう考えてもお礼を言うのは私の方だ。
キョトンとする私とは違い、長野くんはうれしそうだ。
「あれからメッセージも返してくれるし、今日だってこうやって会ってくれる。めちゃくちゃありがたいよ。あんな大事なこと後になって言ったから、もう完全に嫌われたかと思った」
「この前も言ったよ。嫌いだなんて思ったことないって」
長野くんはホッと肩を撫で下ろす。
「本当にありがとうな。今日も空色のワンピース似合ってるぞ」
「う、うん……」
急に服を褒められて、照れくさくなってしまった。長野くんにそんな姿を見られたくなく咄嗟に下を向く。なんだか初めて褒められた時よりもうれしいように感じた。
「よし、行くか。オレに縁のある場所ツアー」
そんなこんなで、駅から歩き始めた。
今日は曇りで天気はあまり良くないが、この街で長野くんに縁のある場所を案内してもらう。そこで私が今後やることの手がかりを探すのだ。もちろん、長野くんにバレてはいけない。
治安が悪いと言われた割には、普通の街並みだった。それでも少しだけ気になることがある。煙草の吸い殻がやたらと落ちているのだ。時々お酒の空き缶も道に捨ててあるが、危なそうな人は歩いていない。
「そう言えばさ。ハルカちゃん、正文に会ったんだって?」
「うん。会った」
「あいつから聞いたよ。ハルカちゃんめっちゃ良い子だったって。ハルカちゃんはあいつどうだった?」
正文くんに会ったことを、長野くんに話していなかった。タクマくんの話をしなかったように、なんとなく気が進まなかったのだ。
「良い人だったよ。筋肉すごかったし」
「筋肉か。確かにあれが一番あいつの良いところだな。中学の時から筋肉モリモリだったからね」
正文くんの良いところはもっと他にもたくさんあったはずなのに、全然うまく説明できなかった。それでも長野くんはなにかツボに入ったようで、大きな声で笑っている。その時、気がついてしまった。
私、長野くんの前で男子の話をしたくないんだ。
正文くんの前で長野くんの話をするのは、嫌じゃなかった。でも、長野くんの前で正文くんの話もタクマくんの話もしたくない。なんでそんな風に思っているのか自分でもよくわからないが、それでもそう思っているので話題をずらしてしまった。
「知里ちゃんともすごく仲良さそうだったよ」
「だろうな。あいつオレに彼女の自慢ばっかりするんだよ」
思いもよらない時にチャンスが訪れた。私が聞きたい話が聞ける。
「そうなんだね。長野くんは彼女作る気はあるの?」
フッと笑ってから長野くんは言った。
「別に作る気がないわけではないぞ」
長野くんに彼女を作る気がなかったらどうしようかと思っていたが、良いことを聞き出せた。目的達成のために一歩近づいたのだ。
長野くんと好きな人を会わせる。
それが長野くんのために今の私がやりたいことだ。残りの僅かな時間を好きな人と幸せに過ごして欲しいので、今日ここに来たのも長野くんの好きな人の手がかりを探すためだった。長野くんとの会話の中でなにかヒントがあるかもしれないし、もしかしたら長野くんの好きな人に偶然会ってしまうことだってありえる。
地元に戻ってきてから長野くんは女の子と話すようになったと正文くんは言っていた。この街に行ってから変わったということは、長野くんの好きな人はこの街で出会った人の可能性が高い。
それにしてもどんな人なのだろうか。きっと、ドリーム・シネマにいたあの美人さんの様な人だろう。長野くんには私みたいな地味な女の子ではなく、芸能人みたいな美人が似合うのだ。
しばらく歩くと、長野くんは足を止めた。
「オレ、ここの道場通ってたよ」
目の前には空手の道場があった。まだ十時にもなっていないので、扉は閉まっている。
「そう言えば夜会った時、空手習ってたって言ってたね」
「そうそう。ここで鍛えたんだよ。おかげで運動苦手だったんだけど出来るようになったね」
なんと、長野くんは勉強だけではなく運動も苦手だったようだ。なんでも出来る今の長野くんからすると想像もつかない。
もしかしたら、鍛えた理由に好きな人が絡んでいるのではないだろうか。例えば道場にいた好きな子にいいところを見せようとしたとか、色々考えられる。
「なんでここで鍛えようと思ったの?」
長野くんはニコッと笑ってから言った。
「そりゃ、いつまでも弱いままじゃいけないと思ったからだよ。弱いままだとハルカちゃんのこと守れないからな」
長野くんの言葉にドキッとした。
「あ、ありがとう……」
大きな手がかりは得られなかったが、なんだか妙に満足している自分がいる。すると長野くんは妙に明るく言った。
「多分空手始めた頃の方が体力あったなぁ。今は体育休むことが増えちまったよ」
長野くんの身体は今も病魔に蝕まれている。さっきまでの満たされていた気持ちは一転し、その事実が再び目の当たりになった。
「あんまり、無理しないでね。今日もキツかったら終わりにして良いから」
「激しい運動とかしなければ大丈夫だよ。ただちょっとお腹の調子が悪いかな」
「え……それならもう帰ろうよ。病気が悪化しちゃうかもだし」
もうすでに無理をしていたのだ。心配する私を見て、長野くんはなぜかちょっと気まずそうな顔をしている。
「いや、実はさ。昨日、クラスの奴らと第二回激辛カレーどこまで食えるか大会やったんだよ。だから病気とは関係なくて……」
「ま、またそんなことやったの?」
カラオケの帰りにカレーの話はしていたが、まさか二回目もやるとは思わなかった。唖然とする私がおかしかったのか、長野くんは笑っている。
「今回は食い切って優勝したんだけどさ。そのせいで朝からちょっと腹が痛くてね」
「もう。あんまり変なことしちゃダメだよ」
「ごめん、ごめん。そろそろ次に行こうぜ」
長野くんはあんまり反省していない様子だ。呆れながらもそれが長野くんらしいと思ってしまった。学校の友達との時間を楽しめてるから良しということにしよう。でも何度聞いても、激辛カレーは絶対に食べたくないので、いつも遊ぶのが長野くんと二人だけで本当に良かった。
二人は空手道場を後にした。
「次はどこに行くの?」
「オレが通ってた小学校でも行こうかなと思って」
「いいね。見てみたい」
小学校までの道のりを歩く。やはりここも道に煙草の吸い殻などのゴミが落ちていた。住宅街に入ったが古い建物が多く、駅前よりも寂れている感じがする。ボロボロの遊具があるちょっと広めの公園の前を通った時だ。
「ハルカちゃん……」
長野くんが突然立ち止まった。一体、どうしたのだろうか。
「大丈夫?」
「無理。なんか公園のトイレが見えたら腹痛くなってきた」
思わずため息が出てしまった。
「早く行った方が良いよ」
「すまない」
そう言うと長野くんは早足で公園に入り、公衆トイレへと向かっていった。私も公園に入って近くにあるベンチに座る。
公園には私だけで、遊んでいる子供さえいない。煙草の吸い殻とお酒の空き缶が道よりも落ちていて、よく見ると公衆トイレの壁や自動販売機には落書きがある。
長野くんを待っていると、誰かが公園に来た。
入って来たのはおじさんだ。髪はハゲ散らかしており清潔感がなく、動きもどことなく挙動不審でちょっと怖い。自動販売機でジュースでも買うのかと思ったが通り過ぎ、どんどん私の方に近づいてくる。私の前で止まると、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「お嬢ちゃんいくらよ?」
「え?」
この人はなにを言っているのだろうか。でもこの表情から嫌なことを言っていることはわかる。恐怖でこの場から逃げ出したかったけど、長野くんはまだ戻って来ていない。
「いくら払えばおじさんと遊んでくれる? これでいいかな?」
おじさんはズボンのポケットからグシャグシャになった五千円札を取り出した。身体がゾワッとする。生理的な気持ち悪さが全身を駆け巡った。
「お嬢ちゃん。良いでしょ? これでおじさんと遊ぼうよ」
恐怖でガタガタと身体が震える。まさか自分がこんな目にあうとは思わなかった。
「すみませんね。この子は今、オレと遊んでるで」
頼もしい声がした方向を見ると、長野くんがトイレからこっちに早歩きで向かっていた。すぐに私の前に来ておじさんに妙に軽い口調で言う。
「ここは穏便に済ましませんか? 諦めてくれるなら警察は呼ばないので」
おじさんは長野くんを思い切り睨んでいる。
「なんだこのクソガキ。おまえみたいになんの苦労もしてなさそうな顔した奴が、偉そうなこと言うんじゃねぇよ。俺みたいな底辺にはこのくらいしか楽しみがねぇんだよ。わかってんのかぁ?」
おじさんは長野くんの胸ぐらを思い切り掴んだ。目の前で起きた暴力に、恐怖で身体が固まってしまう。それでも長野くんは笑顔で言った。
「この手、離してくれませんか? 穏便に済ませましょうよ」
さらにイライラしたように、おじさんは身体を震わせて長野くんに怒鳴った。
「うるせぇ! さっきから偉そうに人を見下しやがって。てめぇみたいなガキに上から目線で言われる筋合いねぇんだよ。ぶっ殺すぞ!」
長野くんに危害が加えられるのだけは絶対に嫌だ。その思いは瞬時に叫び声へと変わった。
「もうやめて! 離してよ!」
するとおじさんは長野くんの胸ぐらを掴んだまま、私を睨みつけたのだ。
「なんだ、なんだ? 大体、なんでこんないい男といるんだよ? てめぇみたいなクソブス女は安い金で男に買われる方がお似合いだ!」
酷い。怖い。こんなこと言われたのは初めてだ。確かに私は長野くんと一緒にいてはいけないような、クソブス女かもしれない。でもいくらなんでも酷すぎる。こんなことを平気で言うこの人が怖い。
「目、閉じて」
一瞬、誰の声かわからなかった。でも間違いなく長野くんの声だった。普段の声とは全く違い、異様に低かったのだ。
「あ? 誰に言ってんだ?」
長野くんは身体を震わせながら言った。
「……おまえじゃないよ」
私に言っているとわかったので、目を閉じた時だ。それはまるで火山が噴火したかのように聞こえた。
「おいコラ! オレのことはどんなに悪く言っても良い。だがな、この子には酷いこと言うんじゃねぇよ。この、薄汚い社会不適合者が!」
長野くんの怒号と共に、なにかが地面に叩きつけられる音がした。
慌てて目を開く。
そこには尻を地面につけたおじさんと、肩を上下にして荒い呼吸をした鬼のような形相の長野くんがいた。
「ごめんなさい。俺が悪かったです。ごめんなさい……ごめんなさい……」
おじさんは完全に腰を抜かしてしまっている。その顔は恐怖に引き攣っており、今にも泣き出しそうだ。地面に落ちているゴミを見るかのような目で、長野くんはおじさんを見ている。
長野くんが一歩、おじさんに近づく。
その足取りはフラついており、明らかに疲れていた。これ以上なにかするのは体力的にも危険だし、長野くんに暴力を振るわせたくない。
「これ以上はダメ!」
気が付いたらベンチから立って、今まで生きて来た中で一番大きな声を出していた。長野くんは私の方に振り向く。その顔はいつもの長野くんになっていたが、明らかに疲れていた。
長野くんの気が私に逸れて隙に、おじさんは悲鳴をあげながら逃げていった。初めからそこにはなにもなかったかのように、長野くんは気にも留めていない様子だ。
「大丈夫? とりあえず座って休もうよ」
なにも言わずに頷いたので、長野くんの身体を支えながらベンチまで誘導した。ベンチに座っても長野くんは肩で息をしている。よく見ると結構な汗をかいていたので、自動販売機でペットボトルの水を買ってきた。
蓋を開けて水を長野くんに差し出す。
「これ、飲めそう?」
「……ありがとう」
消えてしまいそうなほど小さな声で言うと、私から受け取りベンチに置いた。ショルダーバッグから薬を取り出すと、長野くんはペットボトルの水で流し込んだ。
薬の量はカラオケの時よりも増えている。日に日に体調が悪化しているのだ。このままでは長野くんが大変なことになってしまうかもしれない。
「救急車呼ぶから待ってて」
「呼ばなくていいよ」
「で、でも……」
「大丈夫。まだ、死なないから」
死ぬという言葉に胃酸が逆流しそうになった。色々な思いがグチャグチャに混ざり合う。空白の中に心だけが置き去りにされたように、私はなにも考えられなくなったのだ。
ベンチに座る長野くんを呆然と見ていると、ショルダーバッグからスマホを取り出していじり始めた。それから何分か経つと、公園の前にタクシーが停まる。
「タクシー、呼んだ」
「う、うん」
長野くんはベンチから立って歩き始めた。声からも体力がある程度は戻ってきたことはわかるが、それでも足元が頼りなかったので、長野くんの横について一緒にタクシーまで歩いた。タクシー運転手が私たちに気がついてドアを開ける。
「ハルカちゃんも乗って、今日はこれで帰ろう」
「わかった」
言われるがままタクシーに乗る。長野くんが自分の家の住所を言ったので、私は最寄駅を言った。タクシーで帰宅してしまうと親に余計な心配をかけてしまうという判断ができるくらいには、頭の中が正常に戻っていたのだ。
それでも長野くんになんて声をかけていいかわからず、重たい空気と沈黙も乗せたまま最寄駅に着いてしまった。料金のメーターは五〇〇〇円を超えている。半額くらいなら払えるので、長野くんから貰った財布を出した時だ。
「難病カードで割り引かれるから、タクシー代はオレが払うよ」
財布に対して特にリアクションすることもなく、力がない萎れたような声で長野くんは言った。
「で、でも私も乗ったから……」
「それなら一〇〇〇円でいいよ」
なにも言わずに一〇〇〇円札を渡すと、長野くんもなにも言わずに受け受け取った。
タクシーのドアが開き、長野くんの方を背にしながら、最寄駅の前に降りる。駅にはそれなりに人もいて車や電車の音もうるさかったが、確かに後ろから聞こえた。
「ごめん。暴力はどんな時でも絶対にダメだよな」
振り返ったと同時に、タクシーのドアは閉まり発車した。今の私には、タクシーが見えなくなるまで、見送ることしか出来ない。
後悔が押し寄せてきて、津波のように心を飲み込んでいく。私、なんてことしたんだろう。長野くんの幸せのために動いたのに、これでは苦しめただけだ。
私がもっとしっかりしていれば、もっと上手く立ち回ることも出来たはずだ。長野くんと出会った頃は上手く考えられなかったことが結構あった。あれから少しは変われたと思ったけれど、肝心な時にはなにも出来なかった。
いても立ってもいられず、メッセージアプリを開く。
【今日は本当にごめんなさい。治安が悪いって長野くんが言っていたのに私が行きたいなんて言うからこんなことになっちゃった。長野くんはなにも悪くないよ。おじさんに声をかけられた時に私が警察呼べばよかったし、長野くんが具合悪くなった時はせめて7119すればよかった。長野くんがタクシー呼んでくれたみたいに、私もなにかしないといけなかった。全部私が悪かったよ】
メッセージは、三週間経っても既読にならなかった。